177-御宅訪問
偶々足を踏み入れた花街圏の国で言葉が通じないことに困り果てていた窮奇と饕餮だったが、使える拾い物の御陰で通用する言葉を手に入れた。
負傷したユニコーンを助け、礼に手に入れた翻訳機と財布で肉を堪能した。人助けも偶には良いものだ。饕餮は更にぺろりとピザを二枚も平らげ、街を歩きながら今はジェラートを頬張っている。
「そろそろ財布も空だし、花街に行ってみるか」
「何するんだっけ」
「オレも忘れる所だったけど、フェ……何とかって王の様子を見て来てくれって言われただろ」
「ああ……王。そうだった。フェ……フェル……」
「王って言えば通じるだろ。王は一人だよな?」
「知らなーい」
王は一人しかいないことを祈った。
饕餮がジェラートを食べ終えるのを待ち、当初の目的である花街へと二人は転送する。花街を目的として宵街圏を出たが、到着した西洋の街にも興味が出てしまったので先にうろちょろと寄り道をしていたのだ。
噂に聞く花街の野原に足を下ろし、牛角頭と羊角頭はぐるりと一周、見渡した。草花が茂る障害物の無い平坦な野原に、明るく薄青い空、空中に浮かんだ丸いランタン――全てが宵街と異なっている。
「広いな」
「空が青い」
「ここなら大竜巻を起こしても何も飛ばなさそうだな」
「起こすの?」
「起こしたら敵だと思われるだろ。さすがにオレも慎重に行くぜ」
未知の街はまず観察だ。住人に迷惑が掛かる、などと思っているわけではない。無意味に力を使って反感を買うと面倒なことになるので様子を見るのだ。獣は血の気の多い者が多数いるが、それは人間を脅かしたいだけで、獣同士が戦うことはなるべく避けたいと思っている。物好きや誰彼構わず喧嘩を売る者もいるが、獣同士が戦うなど不毛だ。
「城って、あれかな?」
饕餮が指差す方向へ目を向ける。疎らに立つ小さな家の向こうに、遠目でも目立つ尖塔が空に聳えていた。
「あれだろうけど、遠いな。杖で飛べたら目立たないんだけどな……」
「窮奇、あれは?」
今度は近くを指差す饕餮の指の先を見、窮奇はそれに駆け寄る。
「自転車だな」
人間の街でよく見掛ける二輪の乗り物だ。周囲に持ち主らしき人影は無い。子供でも簡単に乗り熟しているので、身体能力の優れた獣に乗れないはずはないだろう。
乗り物が都合良く落ちていて助かった。草花の上に横たわるそれを起こし、ペダルに足を掛ける。壊れて捨てられた物ではなく、きちんと動く。
「饕餮は乗れるか?」
「乗ったことない」
「じゃあ後ろに乗れ」
「乗れるの!?」
「オレも初めてだ。だが人間に乗れてオレに乗れない物はねぇ」
自転車に跨り、サドルに尻を乗せる。高さも丁度良い。饕餮は後ろから目を輝かせながら自転車を見回した後、窮奇の背中に登って張り付いた。
「よし、いいよ窮奇」
「よしじゃねぇ! 何でオレが背負うんだよ! 自転車に座れ! あるだろ荷台が」
「こっちか」
「想定外の間違いをすんな」
今度こそ饕餮は自転車に跨って座り、窮奇の肩から前方を覗く。
「振り落とされないように掴まっとけよ」
「振り落とさない努力をしろよ」
「振り落とすぞ」
ハンドルを握り、窮奇はペダルを踏む足に力を込めた。二人分の重みが掛かっているのでペダルが重い。それでも獣には些事だ。ペダルを踏み下ろし、勢い良く地面を蹴る。
「――わあ! 動いた! 走ったな!」
「当たり前だろ。直進は任せろ」
「直進は……?」
古城に向かって真っ直ぐ進み、草花の上で風を切る。空を飛ぶより地面が近く、新鮮な気持ちだ。窮奇は空を飛ぶ時に大きな翼を生やすため、周囲の障害物に注意しなければならない。自転車だとその必要が無いので、幾らか気持ちが楽だった。
遠くに木々の集まる森が見え、疎らに立っていた家が徐々に密集する。町だ。そして曲がれない窮奇はそのまま壁に激突した。
石の壁に負け、自転車は跳ねて地面に転がる。窮奇と饕餮は投げ出された。
「窮奇!」
「言いたいことはわかるが、曲がるのは難しい。家が立ってるのが悪い」
衝突の大きな音を聞き付け、付近にいた変転人が恐る恐る様子を窺いに現れる。衝突した家の中に居た変転人も、困惑と警戒を顔に貼り付けて出て来た。地面に転がる獣二人と、籠が凹んだ自転車を見、変転人は察した。
「……事故ですか……?」
「御怪我は……」
窮奇は足を振り上げ反動を付けて飛び起き、饕餮も立ち上がって服に付いた草を払う。
「気にすんな。家は壊してない」
「そ、そのようですね……」
自転車がぶつかった壁を確認し、変転人は胸を撫で下ろした。獣の二人も怪我は無いようだ。花街の地面は殆どが草花に覆われていて、緩衝材になってくれた。
「びっくりした……また巨大虫が出たのかと……」
「や、やめてよ……こっちの集落には出ないと思ってるんだから……」
「自転車に乗れない人、偶にいるよね……」
変転人は口々に呟き、大事は無いと安心して元の場所へ去って行く。自転車事故は珍しいわけではなかった。
「……虫だって、窮奇」
「おう。花街にも出るんだな」
自転車は捨て置き、二人は徒歩で古城を目指すことにした。この先は草の生えていない道があるようだが、道があるなら人もいる。窮奇の運転では古城に着く前に何人轢き、何回壁に激突するかわからない。窮奇の翼は目立つため、虫に怯える変転人の頭上を飛ぶのは諦める。騒ぎになれば動き難くなる。
宵街の家は箱を積んだような四角い形だが、花街の家は三角の屋根が付いている煉瓦造りだ。獏の牢にある建物に近い。
横道の路地は狭い道もあるが、大通りの道幅は広い。人間の街ほどではないが、擦れ違う人の数も多い。獣の居住区は別にあるのか獣とは擦れ違わないが、有色に混ざって無色の変転人も歩いている。虫の脅威があるからか人の数はやや控え目だが、市場と言えるような店が集まっている場所もあり、宵街と違って活気があった。
「木箱に野菜と果物が一杯、あっちは色んな色のカップケーキに山盛りクッキー、こっちは空っぽの器」
「金はねーぞ、饕餮」
「器も売ってるよ。宵街では見たことない」
「街の大きさが嫌でもわかるな……」
宵街の店で売られている物はほぼ全てが食品だ。日用品など食品以外は科刑所へ要望を出し、狴犴の命で無色の変転人が買い出しに行く。無色は各々人間の街で見て好みの物を買うが、有色は使えれば良いとだけ思っている。花街は食品以外にも、人間の街で調達したのか自分で作ったのか、皿やコップなどを並べて売っている。有色も好みの物を選んで買うらしい。それだけ暮らしに余裕があり、豊かで自由なのだろう。それを維持する花街の城は宵街とは比べ物にならないくらい大きな存在であることを窺わせる。
「人間風に言うと、宵街は人が少ない村なのかもな」
「この御菓子、美味しい」
辺りを見渡し観察する窮奇の隣で、饕餮は何かを頬張っていた。
「何喰ってんだよ! 金は?」
「試食だって」
「おい、舐められてねーか?」
「え……食べ掛けだった……?」
「違う」
敵視はされていないが、宵街のように獣が格上だと思われていないようだ。花街の変転人は獣を見ても頭を下げない。
「お前は喰い過ぎなんだよ」
「だって全部気になる」
「全部気になってたら切りがねーぞ」
「そうだけど。知らない物がたくさんあるのは気になる」
「…………」
花街にある物は確かに見たことのない物が多い。だが饕餮は窮奇以上に知らない物だらけだ。彼女は死んで、知識の殆どが消えた。まるで今の饕餮は抜け殻のようだ。そんな言葉が脳裏に浮かび、窮奇は空虚な気持ちになり会話を打ち切って足を速めた。
饕餮は最後の一口を口に放り込み、彼の後を追う。肉しか食べない窮奇は、何でも食べる饕餮を見ると気分が良くないのかもしれない。饕餮はそう考え、欲しそうな顔で店を眺めるのを止めた。恩人の気分を害してまで欲望に従順である必要は無い。
城下町を抜ける頃には窮奇も落ち着き、古城も見上げるほど大きくなった。そこから先に建物は無く、近くに捨てられていた自転車に再び跨った。
止まる時はまた壁に衝突したが、今度は受身を取った。
身長の何倍もある城壁を見上げて数歩下がる。少し離れたくらいでは視界に全景が収まらない。
「科刑所より大きいなー……」
「何倍くらいあるんだろうな」
城壁に沿って歩くと出入口らしき門が現れるが、開け放たれていて警備もいなかった。城門の脇には大きな傘が立てられ机と椅子が置かれているが、誰も座っていない。城門の向こうには薔薇を始めとした色取り取りの花が咲き誇っている。
「勝手に入っていいの?」
「いいだろ。開門されてるんだし」
「ようこそってことね」
「そうそう。御邪魔しまーす」
「しまーす」
「御邪魔するな!」
城門を潜った瞬間、何処からか声が聞こえた。窮奇と饕餮は周囲を見渡し、誰も見当たらないので気にせず庭に侵入した。
「そんな友達の家に上がり込む感じで入る所じゃないんだよ」
慌てて走って来たのだろう、花を掻き分け息を上げる金髪碧眼の青年が勢い良く飛び出した。
「生物である以上仕方無いとは言え、ウサギのトイレ休憩中に……。それで、あんた達は何だ?」
青年はぶつぶつと呟きながら、息を整えて二人の前に立つ。
「何だと言われると……城の見学に来た。お前が受付か?」
恍けたことを言う奴だと思いながらも、青年は律儀に相手をすることにした。花街圏にいる獣でも、花街の規則を知らない者はいる。
「違う違う。城は見学する場所じゃない。偶に好奇心旺盛な獣が入ろうとすることはあるけど、見学はさせないよ。と言うか見学して楽しい所は無いよ」
「楽しくないの? ゾンビが出て来たりジェットコースターがあったりしないの?」
「無いよ。テーマパークじゃないんだから」
「じゃあここは何なんだ? こんなでかい城、絶対何か隠してることがあるだろ」
「何かって何だよ……ここは王とか従者が生活する城だよ。つまり家だ。わかった? 不審者が勝手に入るのは禁止」
窮奇と饕餮は顔を見合わせ、もう一度古城を見上げた。見える限りの窓に人影は無いが、壁の一部に不自然な穴が空いている。
「不審者じゃねーよ。王のサインが欲しいんだ」
「サイン……?」
唐突に飛び出した想像もしない言葉に、青年は怪訝な顔をする。サインとは有名人がファンに書いてやる名前、或いは荷物を受け取った証として書く名前のはずだ。その他のことは青年も知らない。
「何でサインが欲しいんだよ。そういうのは人間がすることだろ。王は今……手が離せないんだ。ファンが来たことは伝えてあげるから」
サインを強請るファンの対応など初めてだと思いつつ、王なのだからファンの一人や二人はいるだろうと納得もする。だが恍けているのか本気なのかはわからない。
(頭に角……何の獣だ……? まさか宵街の奴? 最近多いからな……って、よく見たら耳に翻訳機付いてるし! 宵街の奴かよ!)
「じゃあまずお前のサインでいいや。このハンカチに」
窮奇はくしゃくしゃに丸めた無地のハンカチをポケットから取り出し、青年の前に広げた。
「何でオレ……」
ひらひらと目の前でハンカチを振られ、目障りなので叩き落とすように掴み取った。
「書いたら帰れよ」
溜息を吐きながらも、争わずに帰せるならと青年はペンを取った。獣二人と遣り合うことになれば、城に被害が出てしまう。壁に空いた穴もまだ塞がっていないのに、これ以上風通しを良くしたくなかった。
「アイト……ワラス?」
ハンカチに書かれていく名前を読み上げ、窮奇はサイン入りハンカチを受け取った。単純に名前を書いたわけではなく、格好付けて文字を踊らせている。満更でも無かったようだ。
「ほら、書いたから帰れよ」
「他の奴は?」
「全員のサインを強請る気か!? でかでかと書いただろオレのサイン!」
「じゃあ他の奴は小さく書かないとな」
「……。あんたが何を考えてるかわからないんだけど……」
アイトワラスは窮奇の腹を探ろうとするが、彼の思考は全く理解できなかった。そうして翻弄させる作戦なのだろうか。
(大公全員のサインを強請って、その流れでどうにかフェルのサインも貰おうって魂胆か……? いや本当にサイン目当てか? フェルは凄いし、有名人だけど……)
「アイトワラス」
「……ん?」
黙って見ていた饕餮は唐突に青年を呼んだ。こっちにもサインをと強請られるのだろうかとアイトワラスはペンを構えたが、彼女が取り出したのはハンカチでも紙でもなく、マドレーヌが一つ入った袋だった。
「これあげる。サインの御礼」
先程城下町で貰った試食の残りである。食べると窮奇の気分が良くないなら、誰かに渡してしまった方がうっかり手が伸びなくて済むと彼女は考えた。
突然の礼にアイトワラスは目を丸くして驚くが、窮奇も目を疑った。あの喰い意地の張った饕餮が自ら食べ物を他人に差し出すとは、隕石でも降って世界が滅ぶのではないか。
「マドレーヌ? ……ありがとう……貰う」
怪訝な顔をして目を瞬きながらも、アイトワラスは素直に受け取った。
「御礼を言われたら、また御礼を言わないといけなくなる」
「そうか? ……あ、そうだ……急ぎの用事があったんだった。そのために出て来たのに。あんた達もさっさと帰れよ」
アイトワラスは大事そうにマドレーヌの袋を抱え、態度を一変して城の外へ駆けて行く。あれだけ足止めをしていたのに、二人が帰る所を見届けずに去ってしまった。何故気が変わったのか知らないが彼を暫し見送り、二人は口の端をにやりと吊り上げる。
「急用があるらしいな」
「お腹が空いてたのかも」
「でかした、饕餮」
褒められた饕餮は気分が良くなる。美味しい菓子を手放したくはなかったが、正しい選択ができたのだと擽ったく笑う。
また誰かに出会さない内にサイン入りハンカチを丸めてポケットへ突っ込み、二人は美しい庭を突き切った。
「ねえ窮奇、サインって何? 王にサイン貰うの?」
「貰うわけねーだろ。意味不明なことを言って、油断させたり混乱させる作戦だ」
「ふーん」
「それと、名前がわかれば、知れ渡ってる有名な獣だと対策が取れる。さっきの奴はアイトワラスって言ったな……ユニコーンを襲った奴だ。喧嘩を売らなくて良かったぜ」
「窮奇って結構考えてるんだね」
「当たり前だろ」
古城の中へ飛び込み、大きな空間を呆けながら見上げる。広くて何も無い場所の中央に階段があり、突き当たりで左右に分かれている。階段の上に廊下が見えるが、一階の奥の左右にも出入口が口を開けていた。
「入口が四つ……か? 気になる入口はあるか?」
「下の右……何か感じる」
「じゃあそこに行こうぜ。お前は敏感な所があるからな」
「窮奇は何も感じないの?」
「オレは……今の所は何も」
その入口は、立ち入り禁止になっている塔へ続く入口だった。饕餮は何も知らないが、それを引き当てた。
廊下を進むと片側にドアが並んでいたが、素通りをして奥へ進む。ドアの向こうには何の気配も無い。空き部屋か留守だろう。
途中で上り階段が現れるが、饕餮は目もくれずに通過する。窮奇は彼女に続き、無言で従った。饕餮の嗅覚は鋭い。並の獣には反応しないが、頭一つ抜き出た獣の気配に反応する時がある。何とも漠然として曖昧だが、勘という奴だ。前世で傷痕を辿るという芸当を行っていたが、それに通じるものがある。
廊下を進むと大きな扉が見えてくるが、通ってくれと言わんばかりに開かれていた。城門と同じだ。開いているなら遠慮無く通る。二人は知らないが、その扉の向こうは立ち入り禁止の塔だ。
ドアも窓も無い薄暗い渡り廊下を過ぎ、饕餮はぴくりと反応した。
「あっち。あのドアの向こうが変」
「よし、行ってみるか」
彼女がここまで強く嗅覚を発揮したのは初めてかもしれない。他の部屋と同じにしか見えないドアを開ける。ここにも鍵は掛かっていなかった。
「……階段だな」
その先は窓も明かりも無い、暗く細い下り階段が伸びていた。奥は闇に沈んで見えない。
「下ってことは地下か」
「下りる?」
「オレも少し嫌な空気を感じる」
ドアから一歩入って、拳で石壁を叩く。しっかりと中身の詰まった分厚い壁だ。窮奇の風でも簡単には吹き飛ばせないだろう。
「行くか」
細長い筒型の常夜燈を取り出し、窮奇は躊躇い無く階段を下った。饕餮もドアを閉め、窮奇の背に張り付いて追う。
「暗いね」
体を横に向ければ何とか擦れ違うことができる程度の幅しかない階段は、一階分以上下りて漸く終点が見えた。
「またドアか」
細い道の左右にドアが並んでいる。今度のドアは頑丈そうだ。手前のドアに触れ、金属の冷たさを感じる。
「六つあるね」
饕餮は窮奇の背から離れ、一番奥まで進む。行き止まりは目の前だった。
窮奇は触れた鉄扉に手を掛け、思い切って引く。随分と開けられていなかったかのような錆びた軋みを上げ、重いドアは開いた。中に光を翳して見渡す。家具は無く、奥行きが三メートル、横幅は二メートル程の狭い部屋だった。
「空き部屋……倉庫か? 隅に鎖が落ちてる以外は何もねーな。黒い染みは……血か?」
「窮奇、こっちのドアは開かない。ここから変な感じがするのに」
彼の真似をして開けようと饕餮も目の前のドアを引いてみたが、鍵が掛かっているのか開かなかった。
窮奇は開けたドアの陰から顔を出し、常夜燈を翳す。一番奥のドアが開かないようだ。
「重いからな。力が足りないんじゃねーか?」
通路が狭いのでドアを閉め、饕餮が引っ張っているドアに手を貸す。だが窮奇の力でも開かなかった。
「これは鍵が掛かってるな。変な感じは……死体だったりしてな」
何かが引っ掛かっているならとドアを何度か強く叩いてみるが、開く気配は無い。錆びているだけなら少しくらい動くはずだ。鍵が掛かっていると見た方が良いだろう。
「それは残念……」
饕餮は肩を落とすが、その直後に跳ね上がることになった。開かないドアの向こうから、金属の擦れる音と何かがぶつかる大きな音が聞こえた。
「な、何? 窮奇、何かした?」
「してねーよ。……まあでもオレがドアを叩いたからかもな」
「わかった。ここはトイレなの。窮奇が『入ってますか?』って叩いたから、『入ってますよ』って返事が来た。トイレはノックしろって窮奇が教えてくれた。でも窮奇のノックは少し強かったから、壊されるって思ったのかも。じゃあ謝らないとだよ」
「…………」
窮奇は無言で饕餮を見、ドアへ目を戻した。窮奇が開けたドアは狭い部屋で、便器らしき物は無かった。トイレではなかった。だがこの開かないドアの向こうもトイレではないとは言い切れない。開けるまでわからない。
「……悪かったな。待ってないからゆっくりしてくれ」
もう一度中から金属の擦れる音がする。明らかにこちらの声に反応している。どうやら本当に中に誰か居るようだ。まるで鎖を激しく引っ張るような音だった。
「――開けろ!」
トイレには用が無いので地上に戻ろうと踵を返しかけた二人はびくりと立ち止まった。開かないドアが叫びを上げた。男の声だった。
「きゅ、窮奇、開けてほしいっぽい……」
「そんなこと言われてもな。破壊しろってことか? 城の奴が怒ったらお前の所為にしていいなら、壊してやってもいいけど」
ドアの向こうから金属の擦れる音がする。窮奇は肯定と捉えた。
「じゃあ少し離れてろ。顔面にドアを貼り付けたくなかったらな」
杖を召喚し、ドアの前に立って後退する。通路が狭いので、風の助走があまり付けられない。
「そこから出してやったら、城の案内とかしろよな。知ってるんだろ? 城の中にいるんだからな。押し飛ばせ――疾風」
杖を回して旋毛を描き、ドアへ勢い良く風をぶつけた。
「!?」
だが風はドアには届かず、ドアに触れる直前で方々へ散ってしまった。
「今……一瞬、何か出たよな……?」
ドアから目を離さず、饕餮に確認を取る。饕餮も目を瞠り、瞬きを忘れる。
「印だ……印だよ! 今の!」
風が当たる瞬間、赤い筋が大きな円を描いて現れた。円に沿って記号が並んでいたが、印を使用しない窮奇と饕餮にはその意味まではわからない。
「でも狴犴の印は赤くないよ。使う人によって色が変わるのかな」
「印のことは知らないけど、あんまり良い気はしねぇな。これは壊せねぇ。饕餮、早く階段を上がれ」
「うん?」
言われるままに饕餮は狭い階段を駆け上がり窮奇も続くが、何段も上がらない内に突然背後に弾き飛ばされた。
「わ!?」
「ぶ!」
饕餮の背中の体当たりを受け、窮奇も共に床に押し戻された。窮奇は饕餮の下敷きになり、腹から声が漏れた。
「何なんだよ……」
「私にもわからない……何か急に突き飛ばされたみたいな……何も無いのに」
「とりあえずオレの上から退け」
身を起こしても窮奇を座布団のように敷いていた饕餮は、今気付いたとでも言うように慌てて降りた。
「躓いて転んだとかじゃ……いや、何かいるな」
窮奇は階段の闇へ杖を向け、饕餮も倣って打刀を抜く。彼女が以前使用していた太刀も出すことはできるが、同時には出せない。彼女は生死を彷徨った後、刀を変化させることができるようになった。太刀よりも短い打刀を出すことができる。獣は化生すると容姿や性格が変わるが、能力にも変化がある。
階段の暗闇に目を凝らし、こちらからは動かない。狭い階段で遣り合うことになれば一対一になる。窮奇はともかく、化生からあまり日が経たず、まだ戦い慣れていない饕餮を一人で戦わせることはできない。だが下がっていろと声を出せば、相手に饕餮が弱いと思わせてしまう。そうなれば彼女が標的になる。
闇から靴の先が覗き、階段を踏む音も聞こえてくる。
サーベルの形をした杖が、纏わり付く闇から引き出された。
「二人か」
現れた長身の男は、白い頭にシャモアの角が生えていた。
「何だお前は?」
「他人の家に入って何だは無いだろ」
「さっき、何をした?」
「無断で立ち入る不審者に少し痛い目を見てもらっただけだ。――さて。初対面の情けで話してやったが、ここからはもう君とは喋らない」
「は?」
「最近、男と喋ることが多くてな。俺は疲れた。話すならそっちの女性だな」
「何だこいつ……」
「私? 私と喋るの? 何だ、お前は!」
「この城で大公なんて遣ってるズラトロクだ」
「お前、面倒臭い性格だな!?」
何故かは知らないが会話相手に選ばれた饕餮は素直に喜び、それを隠し切れずにシャモア角の男へ楽しそうに指を差した。窮奇は瞬時に面倒な空気を感じ取った。
「何をした、お前ぇ!」
「ちょっと吹っ飛ばしただけだ」
「吹っ飛ばしただけか! だってさ、窮奇」
「……おう。じゃあついでに、このドアの向こうのことも訊いてくれ」
「任せろ」
能力のことはさすがに女性相手でも話さないが、それ以外のことを何処まで話すのか、面倒だと思いながら窮奇は代弁を頼んだ。頼られた饕餮は嬉しそうである。
「このドアの向こうにいる奴が、開けろって言ってる。でも印で閉じられてる。だから開けてあげてほしい」
「それはできない。そいつを閉じ込めた一人が他でも無い俺だからだ」
「! トイレに閉じ込めて、どうする気……?」
「トイレ? ここはトイレじゃない。安心しろ、トイレになんて閉じ込めない。トイレが使えなくなったらこっちも迷惑だ」
「安心した」
「おい饕餮! 言い包められるな」
「! そうだぞ! 言い包めるな!」
ズラトロクは杖を構えながらも攻撃せず会話をしてくれているが、饕餮では話が進まない。化生した彼女は阿呆になったのだと窮奇は思っていたが、教えると間違いを正し、それを忘れず覚えている。中途半端に化生した所為で一般的な知識が欠如したのだ。それは人間の子供に近いのだろう。歩くことも言葉を話すこともできるが、赤信号で止まることがわからない。
「トイレじゃなくても、中の人が開けろって言ってる! 何で開けてあげないの?」
「君はその中の人と知り合いなのか?」
「知らない」
「じゃあどうでもいいだろ。知らない人が何を言っても、無視すればいい」
「どうでもいい。けど、お前も印を使えるの?」
「使えるものもある。印に興味あるのか?」
「使う人を知ってるから。その人がもし人を閉じ込めるとしたら、悪いことをした人だから」
「いい推測だな。とりあえずここから出ろ。油断も隙もありゃしない……どうせ君も宵街から来たんだろ」
「それから……ねえ、王様は? 王は元気?」
「……。話が噛み合わなくなってきたな」
「ねえ、王様! 元気!?」
喰い入るような饕餮の大声に反応したのは、開かないドアの向こうだった。鎖を強く引くような金属の擦れる音がする。
「まさか……」
窮奇も自分の想像に困惑した。ズラトロクは口の端を歪めて憐れむように顔を顰め、階段の前から横に移動する。まるで通れとでも言っているかのような――そう思った直後、ズラトロクの杖が振られ、二人の体は勢い良く階段を伝って飛んだ。開いたドアからそのまま発射され、折り重なるように一階の廊下に落ちる。
「わ!」
「ぶ!」
「このまま城の外に放り出す」
追って階段を上がって来たズラトロクは、二人が起き上がる前に再び杖を振って突き飛ばした。触れずに空間ごと動かしているような、そんな感覚だった。
「おい! てめぇ!」
距離はあるが、窮奇の風なら届く。握っていた杖を振り、風を起こす。
「切り裂き細切れにしろ――鎌鼬!」
饕餮が上に乗っているので不安定な姿勢だが、風を起こすのに体勢は関係無い。見えない無数の風の刃がズラトロクに迫り、彼は意に介さず杖を振った。二人はまたも後方へ突き飛ばされる。
「わっ!」
「ぶ!」
ズラトロクは少し横に移動しただけで、涼しい顔で立っている。纏う外套も髪の一本も切れていない。風が届いていない。窮奇の風は広範囲に届くものだ。見えている敵に対して届かないなど有り得ない。
(蜃みたいに風を遮る壁を作れるのか!?)
ただ壁を作るだけでは窮奇の風は止められない。家を吹き飛ばすほどの威力も出せるからだ。蜃の能力を窮奇はよく知らないが、ああいう獣は稀有なのだと思っていた。
(風はちゃんと出てるんだ、不発ってことはない……)
ズラトロクに意識を向けたまま、窮奇は視線を周囲に動かす。廊下には窮奇の風で傷付いた痕があった。床にも壁にも、天井にも掠っている。
(……いや、途中で切れてるな)
風の傷は、尻窄みになるように途中で止まっていた。その先には傷がついていない。
考える時間も与えられず二人の体は突き飛ばされ、到頭庭を越えて城壁の外へ放り出された。
「じゃあな。殺されないだけ良かったと思ってくれ。何度も立ち替り入れ替り……宵街も懲りないな」
「はあ!? 宵街は関係ねぇからな! 只の旅行だ! 旅行!」
「そうだぞ旅行だぞ! 料理、美味しかった!」
「……ん? 本当に只の旅行か……? だがこっちも今は警戒してるんだ。舐めた真似をする奴がいるからな。問題が解決したら、少しは持て成してやる。そっちの女性だけな」
最後にもう一発突き飛ばされ、二人は野原の上に落ちた。
「窮奇……私だけ持て成してくれるって」
「二度と来るかよ! けど引き下がると負けを認めたことになる。最後に捩じ切って鳴かせてやる」
口の端を上げ、窮奇の周囲に湧いた風が空気を嬲る。適当に遇われた屈辱を指先に込めて杖を強く握り締め、城壁に向かって激しい突風を放つ。開け放たれた城門から飛び込んだ風は轟々と、庭の花々を無惨に捩じ切った。
「……手応えがねぇ。避けたな、あいつ。飛ばされた距離からして攻撃範囲はそんなに広くないだろうけど、この距離だと避けられるか」
「私が切れば良かった?」
「やめとけ。見えない攻撃は気を付けろ」
「わかった」
「ユニコーンめ……面倒押し付けやがって……財布一つじゃ割に合わねぇ。もっと集るぞ饕餮」
「もっと食べられる!?」
「おう。あの開かないドアの中にいたのはたぶん王だ。辛うじて一声出せたみたいだが、完全に身動きを封じられてる。あのズラトロクって奴、謀反でも起こす気か?」
「王も可哀想ね」
「お前は早くオレの上から退け。オレが可哀想だろ」
窮奇の上に座ったまま物思いに耽っていた饕餮ははっとして窮奇から降りた。座り心地が良いので忘れていた。
「刀も仕舞っとけ。人間の街に戻る。刃物が人間に見つかると面倒だ」
城の方にもう人影は無い。それを目視で確認し、饕餮は刀を消した。
「花街は明るくて広くて落ち着かないな。……宵街に慣らされ過ぎか」
窮奇は自嘲し、杖をくるりと回した。
人間の建物から離れた場所へ転送した二人は、街外れの忘れ去られた古い教会へ向かった。空は雲行きが怪しく、花街よりも暗くなっていた。
小さな教会に物音は無く、半開きになった扉の隙間が物寂しさを醸している。
(開けて行ったっけ……? まさかユニコーンの奴、出て行ったか?)
人に王の様子を見て来いと面倒を押し付けておきながら、出て行ってしまったら追加の金を集れなくなる。窮奇は周囲を見回しつつ、足早に扉へ向かった。
隙間から覗いた教会の中に人の姿は無く、中に入って蹲んで椅子の下も見るが椅子の脚ばかりで、人の足は見えなかった。
辺りを警戒しつつ通路を行き、ユニコーンが寝転がっていた長椅子を覗く。
「…………」
驚くより、思考が停止してしまった。
「何だこれ……」
「うわ」
饕餮も覗き込み、声を上げる。
ユニコーンは出て行っておらず、まだそこに寝転がっていた。だがもう、息は絶えていた。
全身切り裂かれて額の角は折れ、虚ろな目にはもう光は無かった。
周囲に意識を巡らせるが、何の気配も無い。彼女を殺した者はもうこの周辺にはいない。
「何なんだよ……」
「どうする? 窮奇」
「……チッ、面倒は御免だ。一旦宵街に戻る。冤罪吹っ掛けられる前にな」
花街圏に味方はいない。捕まる気は無いが、捕まれば何をされるかわからない。宵街では獣が獣を殺すことは明確に罪とされていないが、花街の規則を二人は知らない。
死骸と周囲を軽く見てから二人は教会を飛び出し、窮奇は素早く杖を召喚して転送した。もう少し花街圏で遊ぶつもりだったが、こうなっては長居はできない。
饕餮も心残りはあるが、文句は言わなかった。だが財布の礼を言うことができなかったのは残念だった。




