176-不安の慰め方
小さな街の自分の牢に戻った獏は、背の高い置棚が並ぶ店の奥にある古い革張りの椅子に倒れるように腰を落とした。
「また静かになっちゃったね」
ゲンチアナもアルペンローゼも花街へ帰ってしまった。名目は保護だったとは言え、いなくなると少々寂しいものだ。
「騒々しくした方がいいですか?」
「いいよ、静かでも」
蒲牢と黒葉菫も宵街に戻り、椒図と蜃も出て行ってしまったので、ここにはもう獏と灰色海月の二人だけだ。
蒲牢の歌に慰められた灰色海月はベッドから出ることはできるようになったが、恐怖は未だに蝕んでいる。それでも誰かと話している方が気持ちは落ち着く。
気を利かせる彼女に苦笑し、獏は膝の上に跳び乗ってきた黒猫を撫でる。黒猫は疲れている獏の体に伸し掛かり、肩へ両手を置いた。
「疲れて動かないってわかってるのかな……僕は玩具じゃないんだよ」
黒猫は更に登ろうとし、獏の耳に足を掛けて頭に手を伸ばした。
「――あっ!」
その時、獏は思い出した。突然大声を出したので黒猫も驚き、肩の上で停止する。
「翻訳機! 返すの忘れてる!」
黒猫の手が引っ掛かったことで思い出した。耳にカフスを付けたままだ。
「どうしよう……二人共もうこっちに来ないよね。誰か花街に行く予定ないかな……」
黒猫が肩に留まっているからか、白黒子猫も獏の脚を伝って登ってくる。黒猫のように跳び乗るのは難しいようだ。
猫に遊ばれながら嘆く獏を、灰色海月は台所から観察する。相変わらず猫は獏に懐いている。
「あ、そうだ。クラゲさん、宵街の病院に御見舞いに行ってもいい? 暇ができたし」
「マキさんの御見舞いですか?」
「うん。会えるならホタルさんも。一度は行っておきたいと思ってたんだよね」
白花苧環は変転人達と遠足へ行った時に虫に襲われ負傷した。意識が無いまま病院に連れて行かれたが、経過を聞いていない。あれから一週間ほど経っているので目は覚めただろう。黒色蛍の方は虫に片腕を落とされ病院に運ばれたが、面会謝絶になっている。二人は回復しているのか、牢の中にいては詳しい情報が回って来ない。
「罪人は許可無く善行以外でここから出てはいけないので、私が見て来ます」
「えー。僕も御見舞い行きたい」
翻訳機をポケットに仕舞い、口を尖らせながら獏は不満を言う。我儘な罪人だ。
「近くにいたのに、僕はマキさんを護れなかった。謝る機会があってもいいと思うんだよね」
声色を落とし、膝の上に到達した子猫に目を落とす。目の前で傷付く姿を見て、獏の頭に過去の彼の最期が過ぎった。それは恐怖と焦燥、そして後悔だ。
「……わかりました。病院ならラクタヴィージャさんもいるので」
「やった」
獏はぱっと顔を上げ、元よりも明るい声色に戻った。情に訴えかけられたと灰色海月も気付いた。この獏は他人の心を操るのが上手い。
それでも一度許可したものを取り下げはしない。心配する気持ちは悪ではない。白花苧環は苦言を呟くかもしれないが、責める程のことではないだろう。
灰色海月は掌から灰色の傘を抜き、ドアへ向かった。獏も膝の子猫を床に下ろして立ち上がり、肩の黒猫も飛び降りる。
首輪は忘れずきちりと装着し、獏と灰色海月は宵街の薄暗い石段へ転送した。寄り道はせずに、少し石段を登った所にある病院へ足を向ける。
蔦の這う出入口を潜ってすぐ、受付で視線を落とす姫女苑の姿が視界に入った。獏達に気付かない彼女に、こつんと指で小さくカウンターを叩く。姫女苑は不思議そうに顔を上げ、見下ろす動物面に漸く気付いた。
「獏様?」
「マキさんの御見舞いに来たんだけど、会えるかな?」
どうやら怪我をしたわけではないらしいと姫女苑は安堵する。
「はい。苧環さんは順調に回復してますよ」
「良かった、安心したよ。ホタルさんの方はどう? まだ面会できないの?」
「蛍さんは……少しなら大丈夫です。まだ安静にしていてほしいので、動かさないようお願いします」
「ってことは、腕は付いたの?」
「何とか付きました。でも元のように動かせるかはまだわかりません。リハビリ次第ですね」
「そうなんだ……」
「私も両手がポロリした時はリハビリを頑張りました」
「それじゃ勝手に取れたみたいだよクラゲさん」
まだ喜べる状態ではないようだ。だが面会が解禁になったのなら、少しは喜んでも良いだろう。
身近な例だと椒図が腕と脚を切断されたことがあるが、彼はすぐに動き回っていた気がする。獣の回復速度の方が早いとは言え、変転人には慎重だ。
「キランさんはどう?」
「金瘡小草さんも順調ですが、今はレントゲンの撮影中です」
「ラクタが出て来ないと思ったら、診察中なんだね。じゃあそっちは邪魔しないでおくよ」
姫女苑から二人の病室の場所を聞き、まずは白花苧環の病室へ向かう。
しんとする廊下を歩き、三階の奥へ行く。軽くノックをしても返事は無かったが、獏はゆっくりと隙間を開けた。
「……あ。寝てるかな?」
音を立てずに中に入り、灰色海月も静かに後に続く。穏やかに目を閉じる白い少年がベッドに横になっていた。
「ん……」
音を立てずに横に立つが、何かを感じ取ったのか白花苧環は薄らと目を開けた。白い病室で目立つ黒い動物面をぼんやりと見上げ、認識するため脳を起こす。
「獏……?」
「ごめん、起こすつもりはなかったんだけど」
「いえ……少し目を閉じてただけです」
身を起こそうとするので、獏は慌てて彼の肩を押さえた。
「そのままでいいよ。ちょっと様子を見に来ただけだから」
「そうですか」
「体の具合はどう?」
「鈍ってる気がします」
「そうじゃないんだけど。何処か痛むとか」
彼はもう動こうとしている。入院しているならまだ療養が必要なのに。
「……不意に痛む時はありますが、概ね良好です。傷も塞がってるので」
「まだ痛むの? じゃあ起き上がっちゃ駄目だよ」
「かなりの量の血染薬を呑まされたようです。変転人なら通常、死ぬ程の失血量だったそうで。オレは半獣なので、初めてこんなに変転人に呑ませたと聞きました。ショックを受けるかもしれないので、具体的な数はまた今度、と言われました」
「それって……半獣じゃなかったら、君は死んでたってこと?」
「そうかもしれませんね」
「……ごめん。僕が近くにいたのに……」
「近かったですか? 顔が見えないほど遠いと思ってましたが」
「姿が見えるなら、それは近くなの」
「そうなんですか」
口の端に僅かに笑みはあるが、口数はいつもより少ない。会話はできるが、まだあまり多くを話す体力は無いようだ。
「この機会にたっぷり休みなよ」
「狴犴にも……似たようなことを言われました」
「同じにしないでくれる?」
「会ってはいませんが……忙しいみたいですね。有色に不満が広がっているとかで、気を付けるよう言われました。有色は面会禁止なんです。罪人の面会は……聞いてませんね」
「え? 有色は駄目なの?」
「貴方の方はどうですか?」
「色々あったよ。聞く?」
「はい。寝てばかりで暇なので。善行が無いなら聞かせてください」
白花苧環の声は終始物静かで、罪人は早く牢に帰れと言われると思っていた獏は拍子抜けしながら椅子に座った。思いの外、彼は弱っている。半獣である御陰で白花苧環は失血に耐えたが、獣よりも消耗は大きい。きっと見た目以上に会話の余裕が無い。話を聞くだけで精一杯だ。狴犴が彼には会わず伝言で済ませているのも、彼に負担を掛けないためだろう。
獏も早く牢に戻るべきかと考えるが、病室で一人の時間を過ごす彼にある程度の情報は耳に入れておきたい。獏の知ることも限られるが、白花苧環が負傷した時に獏と共にいたアルペンローゼのその後くらいは話せる。
彼が負傷してからの宵街の様子や花街で見た物、そして関わった人達の話を獏は穏やかに話した。子供を寝かし付けるために絵本を読み聞かせるような柔らかな声だ。白花苧環はその声に瞼を押さえられるように、罪人の前だと言うのにうとうとと眠り始めた。まるで暖かな春の木漏れ日の下にいるようで、立っている灰色海月まで眠ってしまいそうだった。
「獏は夢を食べるから、食事のために子守唄みたいな声を出せるんだよね」
柔和に微笑み、獏は席を立って灰色海月を促した。彼女が倒れない内に部屋を出る。次は黒色蛍の病室だ。
「……力を使わずに眠らせることができるんですね」
廊下に出て両手で自分の頬を二度叩き、眠らないよう灰色海月は足を動かす。
「能力の方はすぐに眠らせられるけど、声の方は条件があるよ。周囲が騒がしかったら効かないし、目が冴えるような興奮状態の時も効かない」
「眠らせる手段がたくさんあるんですね。夢を食べるための執念が凄いです」
「強制入眠と子守声だけじゃない? 併用して催眠術みたいなことはできるけど」
「今後はベッドに近付かせないようにしなければ」
「そんなに警戒しなくても……」
獏の牢では睡眠の必要は無いが、眠らねばならない時もある。灰色海月は獏から一歩離れた。
廊下の反対側の端へ行き、黒色蛍の病室の前で一つだけドアを叩いて中に入る。返事や、況して歩いてドアを開けに来るといけないので、すぐにドアを開けた。黒色蛍はベッドの上から目だけをドアに向けていた。
「起き上がらないね。感心」
「……狴犴が来て起き上がれと言ったとしても、絶対に起き上がるなと言われたので」
「さすが、先手を打ってるね」
黒色蛍の千切れた腕はがちりと固定されて包帯が巻かれていた。動かないようにされている。
「腕は繋がったんだよね?」
「そうみたいですね。手の感覚はまだはっきりしないんですが。一度失った所為で、動かす感覚を忘れているだけと言われました」
「安心した。目の前にいたのに失うのは、僕も辛いからね」
「灰色海月さんが攻撃を逸らしてくれた御陰と、獏さんが手早く止血をしてくれた御陰です。病院に運ぶのも早かったから。だから助けられた、とラクタヴィージャさんが言ってました。ありがとうございます。頭を下げられないのが悔しいですが」
「気持ちだけで充分だよ。会話できる姿を見られて安心した」
「俺も御礼が言えて安心しました。……大きな虫の件は、その後どうなりましたか? ラクタヴィージャさんから少し聞いてはいるんですが、まだ不確定なことが多いらしくて」
「僕もそんなに詳しいわけじゃないよ。ラクタの方が知ってると思う。何せ怪我人は皆、病院に来るからね」
怪我人も検査も全て病院だ。宵街で虫のことに一番詳しいのはラクタヴィージャだろう。
「……それもそうですね」
黒色蛍も理解し、疲れたように天井に目を向けた。彼もあまり長く会話はできないようだ。
「ホタルさん。僕達はもう行くね。ヒメさんに面会は少しって言われてるから」
「わかりました。久し振りに話ができて良かったです。身動きが取れないので、遣ることが無くて」
「ふふ。しっかり休んで治してね」
獏は小さく手を振り、灰色海月と共に静かに病室を後にした。黒色蛍は腕以外は元気そうだ。動いてはいけないことに少々疲れているようだが、白花苧環のような消耗は見られない。
二人は受付まで戻り、それを見つけた姫女苑が頭を下げる。
「ありがと、ヒメさん。二人共、順調そうで安心したよ」
「どちらも大人しくしてましたか?」
「うん。大人しかったよ」
「動いていいと許可を出すと無茶をするかもしれないので、安静の期間を長くしてるんです」
「へえ、そうなんだ。じゃあ実際はもっと回復してるんだね。動いていいって言ったら、マキさんは特に、無茶をしそうだよね」
獏が笑うと、姫女苑も困ったように笑う。ラクタヴィージャの方針で、嘘を吐いてでもベッドに居てもらわないといけない。白花苧環の性格だと、許可を出せばすぐに動き回って科刑所に戻ってしまう。
「じゃあね、ヒメさん」
怪我人の回復振りをその目で見られて、獏は胸を撫で下ろして出入口へと向かった。罪人はあまりゆっくりと留まれない。姫女苑も頭を下げて見送る。
獏は和やかな落ち着いた気持ちで病院を出ようとし、
「!?」
一歩出た所で表情を強張らせ跳び退いた。
「…………」
道の向こう、石段を通過しようとする、金髪を緩く縛った青年と目が合った。数秒間見詰め合い、青年は徐ろに眉を顰める。そこにいるはずのない者がいることに、互いに険しい顔をする。
「へ……狴犴!?」
「獏……」
狴犴は科刑所にいるはずだ。滅多に科刑所を出ないのだから。それは狴犴も思っていることで、牢にいるはずの罪人が何故また宵街に出て来ているのか眉を寄せる。
そして互いに答えを出した。ここは病院の前だ。負傷もしくは見舞いに来たのだろうと。
「……もしかして、マキさんの御見舞い……かなぁ?」
「お前は見舞いなのか。私は違う」
「あれ? そうなの?」
狴犴の視線が獏の背後にいる灰色海月に向けられたので、獏は視線を遮るために前に立った。
「見舞いは悪事では無いが、罪人を徘徊させるな、灰色海月」
「は、はい……」
「私は忙しい。ここで油を売る時間が惜しい。早く牢に戻れ」
「はい……」
どうやらお咎めは無いようだ。灰色海月が叱られずに獏は安堵するが、そこまで忙しいのに科刑所を出ていることが気になった。
「君は何処に行くの?」
獏の問いには答えず、無視をして狴犴は石段を下りた。下層に用があるようだ。
獏は石段まで走り、石壁から下を覗く。狴犴の後ろ姿が振り向くことなく石段を下りていく。
(気になる……)
掌から灰色の傘を引き抜く灰色海月を手で制し、獏はにやりと笑った。付いて行ってやろう。そう決めた。
獏は気配を隠しているが、灰色海月の気配はわかりやすい。二人が付いて来ることに狴犴は気付いて溜息を吐いたが、構っている時間が惜しいので目的地へ急いだ。
石段の途中で横道へ入り、茂みを抜ける。その道は獏も通ったことがある。
(図書園への道……?)
使いに行かせる白花苧環が入院しているので、自ら本でも探しに行くのかもしれない。そう思いながら獏は尾行し、灰色海月は傘を握ったままおろおろと後を追った。
狴犴は出入口がぽっかりと空いた図書園へ入り、中から悲鳴のような声が上がる。獏は駆け寄ってそろりと石壁の陰から中を覗いた。
「なっ、何故ここに!?」
悪事が見つかってしまった悪役のような台詞を放ったのは洋種山牛蒡だ。図書園で教育をしていた変転人達は口々にざわめき、疑問を浮かべながら頭を下げる。抜き打ちで教育の参観をするにしても、統治者が自ら来るなんて誰も想像できない。新人四人と白実柘榴はきょとんとするが、狴犴が宵街で一番偉い獣だと言うことは知っている。
「驚かせてすまない。不満を抱く有色の様子を見ようと思ったんだが」
狴犴は図書園を見渡すが、有色の変転人は見当たらない。
「教育の抜き打ちチェックとかじゃ……ないんですか?」
「いや。それはお前達を信頼している」
負傷している黒葉菫に会話を任せることはできず、狐剃刀と長実雛罌粟は口数が少ない。新人に任せるわけにもいかない。必然的に洋種山牛蒡が狴犴の相手をすることになった。金瘡小草がいてくれればと、この時ほど思ったことはない。
「でもわざわざ御足労いただくなんて……」
「少し待つ」
「!」
宵街の最高権力者に見守られながら新人教育をしろと言うらしい。呑気に教育をしている場合ではない。洋種山牛蒡は掌から鞭を生成し、新人達と白実柘榴の前へ出た。
「さ、さあっ、皆! 今日中に武器を生成できるよう、スパルタで行くわよ!」
「え!?」
急がず焦らずじっくり考えましょうと言う教育方針が一変し、新人達から途惑いの声が上がった。
狐剃刀は彼女に教育を任せ、狴犴に椅子を差し出す。狴犴は座らなかったが、狐剃刀は彼の近くに椅子を置いて待機した。
「最初と言ってること違わない!?」
「今日中は厳しいかも……」
「全然纏まらない……」
「俺は早い方がいいが、銃は駄目なんだよな?」
最悪の授業参観だと思いながら、獏は隠れたまま様子を窺う。
(けど不満な有色って何なんだろ? マキさんも言ってたけど)
その答えは、すぐに知ることとなった。
茂みを踏む複数の足音が聞こえ、獏は振り向く。徒事ではない怒りの形相と空気を纏い、殺傷力の高い刃物や殴ると痛そうな物を持った有色の変転人達がこちらに向かって来た。
(え!? 何!? あ……花街から戻ってきた時に図書園に来た有色か!)
出入口にいるのは危険だと判断し、灰色海月と共に距離を取る。牧場で遠足をしていた時にいた変転人も混ざって、武器を握っている。以前に見た時よりも武器の殺意が上がっている。
だが有色の殺意は精々が小さな蝿でも殺そうかと言う程度の些細なものだ。獣から見れば可愛いものであるが、何が彼らをそんな風にしてしまったのか、獏は固唾を呑んで見守る。
「うわあああ狴犴様!?」
「何で!?」
「卑怯だぞ無色!」
図書園に入るや否や口々に悲鳴のような声が上がり、皆思うことは同じだと獏は頷いた。
有色の変転人が狴犴に会う機会は無いに等しく、本来ならそこにいる獣の顔など知らなかった。だが狴犴は有色の検査中に病院を訪れており、顔が周知されることになった。
「あまり待つことにならなくて良かった」
狴犴の前なので洋種山牛蒡と狐剃刀と長実雛罌粟は前へ出ようとしたが、手一つで制止され留まった。
眼前に立つ長身の統治者を見上げ、有色も震えながら武器を下げる。殺意は吹き飛び、青褪めている。
「不満が爆発していると聞いてな。話を聞きに来た」
統治者自らが直々に不満を聞いてくれるとは、有色にはありがたいことだろう。
構える無色三人は下がるが警戒は緩めない。
有色達は顔を見合わせ、想定外の事態に捩花の背中を押した。先導しているのは彼だ。彼が代表で話をすべきだ。有色達は狴犴が現れるなど夢にも思わず、心の準備など全くできていない。一人を盾にすることで、自分に矛先が向かないようにした。
「お前が話すのか? 名は?」
「ねっ……捩花です……」
最初の威勢は鳴りを潜め、声が裏返りぼそぼそと尻窄みで消え入ってしまう。最早血の気も引き、見ていると可哀想になってくるくらい怯えている。
「不満の内容は聞いている。死傷者が出る事態が頻発し、震駭した。宵街の安全に不安が噴出したんだな」
「は……はい……」
「危険があるのは獣だろう。それは私も認める。どうすれば安心するか私も熟慮した。やはり最も有効なのは、危険な行動をしないよう獣の身動きを封じることだ」
「……は、はい……そうだと……思います……」
「だが私も獣だ」
「はい……知ってます……」
「私が身動きを封じられると仕事ができない。そこで、宵街をどうすれば安心して快適に過ごせるか、お前自身が考えて動かしてみるといい」
「……?」
「宵街の統治を遣らせてやろう」
「は!?」
思わず失礼な声が出てしまった。捩花は慌てて口を閉じ、しどろもどろになる。
「よ、宵街の統治って……狴犴様の仕事をするんですか……?」
「そうだ」
「い、いいいえ……オレには統治する知識なんて……無くて……いきなり、そんな……」
「心配するな。わからないことは私が補助する。仕事の処理に派遣する無色も、お前の思う通りに動かしていい」
「え……ええぇ……お、おおオレは有色なんですが……」
「知っている。有色が統治を体験するのは初めてではない」
「え……?」
「過去に統治者になりたいと言う要望を出されたことがある」
「す……凄いな……その有色……」
「私も困惑したが、滅多に無い有色との交流だと思い、一日だけならと許可したんだ。一時間も経たずにその有色は音を上げてしまったが」
「…………」
「お前は何時間持つか、見させてもらおう」
「……!」
狴犴と捩花以外のその場の全員が、目を泳がせながら心の中で合掌した。大変なことになってしまった。
だが彼に同情していられない。狐剃刀は狴犴へ意見を申し立てた。
「あの、御言葉ですが。今は虫や花街など危急の仕事が多いと思うんですが。有色に任せていいんですか?」
「ああ、そのことを話そうと思ったんだ。徒に恐怖を与えるわけにはいかないと黙っていたが、無知も不安を煽るようだ。宵街に棲む者として、知る権利はある」
「御考えがあるなら……」
「無いとは思うが、もし宵街の住人を皆殺しに、など突拍子も無い命令を出すなら私が止める。統治をさせると言っても、私が守ってきた譲れないものを手放す気は無い」
それを聞いて無色達は安堵を覚えた。舵の取れない素人に船の航行の全てを任せるわけではないのだと。
狴犴は武器を持つ有色を見渡し、戦意が無いことを確認する。
「武器は仕舞え。慣れない者が振れば、味方を傷付け兼ねない。武器を持つのは無色と獣に任せておけ」
有色はばつが悪そうに武器を更に下げる。慣れない物を威嚇とは言え攻撃のために持つのは手が震えた。震えを止めるために武器を握り締め、徐々に疑問を抱く者もいた。
狴犴は速やかに捩花を連れ、図書園を後にする。有色に罰は無かった。
獏は追い掛けて石段を上がる二人の背を見上げる。捩花の背中はまるで、裁きを受けるために科刑所へ連行される罪人のようだった。
「――有色は家に帰れ。あいつが戻って来たら話を聞いてやれ。どうせ一時間持たない」
獏が図書園に戻る途中、声を張る狐剃刀の言葉が聞こえた。獣ですら過労で倒れる仕事に、有色の変転人が一人で耐えられるはずがない。
「お前達は何もわかってない。狴犴がどれだけのことをしてくれているか。宵街を纏めて、護って、なのに一切見返りを得てないんだよ。食事も嗜好品も何も……」
「キツネちゃん、あんまり言うと、黙って出て行った狴犴の意味が……」
指摘され、狐剃刀ははっとした。白所属の性質とでも言うべきか、狴犴のことが蔑ろにされると血が上ってしまう。余計なことを言ってしまったことに気付き、誤魔化すように、狴犴が座らなかった椅子を奥へ下げた。
「……えっと、家に帰っていいわよ。解散解散」
洋種山牛蒡が手を振るように鞭を振ると、有色は顔を見合わせて気不味そうに踵を返した。頭を失った徒党は困惑しながら各々家に帰る。統治者自らが出て来て、それでも拳を上げる勇気は無い。
狴犴が仕事を中断してでも有色の前に現れたのは、早めに戦意を削いで武器を下ろさせるためだ。幾ら無色の方が戦い慣れていて、力だけで言えば有色に負けることは無いとしても、味方同士で傷付け合わせたくはない。無色は必ず手加減をする。それは怪我人が増えることを意味し、より醜い戦いへと変貌する可能性も孕んでいる。その前に早々に懸念を払拭し鎮静する必要があった。統治者が出て行くのが最も効果的だ。
戦意を喪失して去って行く有色を目で追い、獏は何も起こらなくて良かったと安堵した。誰の血も流れなくて良かった。
「……連れて行かれた人は心配だけど、音を上げたら解放してくれるみたいだし、僕達も戻ろうか、クラゲさん」
「はい。怒られなくて良かったです」
「統治は大変そうだけど、もし僕が統治者になったら、まずは僕を釈放しよう」
「罪人も統治者になれますか?」
「なりたくはないね」
獏は自嘲し、灰色海月の灰色の傘でくるりと小さな街へ戻った。
花街に比べると宵街は狭いが、たった一人で部屋に籠って何百年も統治を続けるなど耐えられない。




