173-襲来
人間の街は夜の帷が下り、街を照らす街灯は疲れたように瞬きをする。
車の行き交う表通りから奥へと入った人影の無い暗い道に、そのポストは立っていた。
明かりの消えた雑居ビルに見下ろされるそれに、灰色海月は手を翳す。手紙の宛名には平仮名で『ばく』と書かれており、拙い筆跡だった。
(これは未就学児の書いた文字でしょうか?)
未就学児の願い事は叶えないと獏は決めている。代価を求めても理解できないからだ。大人でも理解できない者がいるのだから、未就学児は最初から相手をしないようにしている。
だが宛名の文字だけでは未就学児の物だと断言できないので、中身は確認する。中の願い事も拙い文字で、全て平仮名だった。
『むかえにきて』
親と逸れた迷子なのかもしれないが、こんなビルの明かりも消えた時間に迷子の子供がいるのだろうか。
道の左右へ顔を向けるが、人間の気配はしない。とは言っても灰色海月には気配を正確に感知することはできない。
(変……ですね)
手紙の思念を辿ってみようとするが、何も辿れない。思念を辿るのは、手紙から差出人に伸びる見えない糸を辿るようなものなのだが、その糸が切れているのだ。
思念が辿れないなら迷子にはもう少し待ってもらって、一旦獏の所へ戻った方が良さそうだ。
すぐには転送できないので、手紙を仕舞って待つことにする。転送の力が充填できるまでポストから少し離れた。
(思念が辿れない時は、死んでる時ですが……)
遠くの街灯が明滅する。あの明かりはもう寿命のようだ。
そう思った瞬間、そこを起点に、並ぶ街灯に影が走るように明かりが消えた。
(消灯時間……?)
光が消えて慣れない目を瞬き、微かに肌寒さを感じる。
地面に踵を叩くような音がし、灰色海月は耳を澄ませる。深海のように暗い視界を見渡し、接近する音の方向を捉える。
「お迎え、ありがとう」
顎に固い物が触れた瞬間、灰色海月の全身にぞわりと怖気が迫り上がった。
顎に触れた長い物の先に、三つ目の女の顔があった。額の目が開き、宝石のように輝くそれの御陰で、そこにいるのが何なのか灰色海月にも把握できた。
脚が震え、頭の中は真っ白に、喉からは何も言葉が出なかった。そこにいたのは、死の感覚を植え付けたヴイーヴルだった。
「さあ、連れて行って」
ヴイーヴルは杖を突き出したまま妖しく微笑う。
灰色海月は息をするのも忘れ、動けなくなってしまった。膝から崩れることがなかったのは、以前のように危害を加えるための殺気を撒いていなかったからだ。今の彼女は殺気を纏っていないが、それでも顔を見ただけで死の感覚が引き摺り出された。
「どうしたの? 気絶でもした? 変ね、殺気は出してないはずなんだけど」
色が抜けたように真っ青な顔をする灰色海月をヴイーヴルは訝しげに覗き込む。杖を向けてはいるが変換石は光っていない。力を使用していないことはわかっているはずだと首を傾ぐ。
「……っ」
首が繋がっていることはわかるが、灰色海月は目の前のことが認識できない。
思考も行動もできず硬直してしまう灰色海月の首から杖を上げ、ヴイーヴルはこんこんと灰色の頭を軽く叩く。花街の城下町に棲む変転人も畏敬は見せるが、ここまで固くなる者はいない。
「壊れた人形みたい」
詰まらなさそうにヴイーヴルは杖で灰色の頭を叩く。これでは折角呼んだ意味が無い。
困り果てたヴイーヴルが爪先を前に出すと、背後で何かが爆ぜた。
「?」
怪訝に振り向くと、闇から気配が飛び出した。
「あら」
闇に溶ける黒い影は素速く、動かない灰色海月を抱えて攫い、闇の中へ駆けて行った。
油断したわけではなく、動く者が遣って来たなら会話ができると思ったのだ。だが黒い影は話をする気が無いらしい。
「ねえ待って」
黒い影は既に視界から消えており、気配も感じなかった。逃げに徹して全速力で去ったようだ。
灰色海月を両腕で抱えながら、石の壁で足元が隠れる民家の箱型のベランダへ攀じ上る。至極色の青年は部屋の明かりが消えていることを確認し、ベランダの隅に蹲んだ。
「っ……、クラゲ、大丈夫か!?」
「…………」
灰色海月は放心したままだが、目は彼の方へと向いた。声が届いていることに黒葉菫は安堵した。
「怪我は? 何をされた?」
「……手紙……」
「手紙?」
震える手で差し出されたそれを受け取り、黒葉菫は片手で開く。黒葉菫の腕の骨折は完治したわけではない。闇でも目立つ白い三角巾は外したが、ギプスは付けたままだ。銃もまだ罅が入ったままで、テープを巻き付けて使用した。
手紙の文字に目を通し、黒葉菫は眉を顰める。
「迎えに……? 獏の所か宵街に行きたいのか? 足が欲しいなら殺しはしないと思うが、これだけじゃ目的がわからないな」
「…………」
「俺の傘が転送できるまでもう少し時間が掛かる。もし阻止されても、連絡手段は残して来たから大丈夫だ」
安心させるために声を掛けるが、一度受けた恐怖がそう簡単に抜けるはずがない。無傷の手は銃を持つために空けているので、折れた腕でいつでも抱えて逃げられるよう彼女の腰に手を添えているが、ギプス越しに小さな震えが伝わってくる。
このまま見つからず、何も起こらず時間が過ぎてくれれば良いのに。
そう思うが、現実は無慈悲だった。明らかに日常では聞こえない破壊音が聞こえた。人間はこんな時間に何かを破壊するような工事は行わないだろう。
一旦灰色海月から手を離し、フリントロック式の拳銃を手に黒葉菫は低い壁からゆっくりと頭を出す。破壊音はまだ遠く距離があるが、獣ならすぐに詰められる距離だ。
壁の上に銃口を出しながら住宅に囲まれた辺りを見渡す。二階のベランダから見渡せる景色など限りがあるが、目の前の道路の街灯が静かに明滅している。
「……クラゲ。場所を移す。自力で掴まれるなら、俺に掴まれ」
銃口を壁の上に出したまま、折れた腕を灰色海月に伸ばす。彼女の体を折れた腕で何度も抱えるのは厳しい。
ヴイーヴルから距離を取って休んだことで灰色海月も体を動かすことができるようになった。まだ上手く力は入らないが、何とか彼の体に掴まる。
足を動かして自力で逃げられるなら、その方が良いに決まっているのに。全身を支配した恐怖は足を掴んで離してくれなかった。折角黒色蟹から教育を受けたのに、実戦では何も役に立てないことが悔しかった。
「……私は、足手纏いです……」
「クラゲ、武器は出せるか?」
「…………」
言われた通り、灰色海月は腕輪を生成する。弱音を吐いているが、武器を生成できる程度には落ち着いている。それを確認して黒葉菫は彼女を抱え上げた。
その目の前で街灯の光が消える。
「クラゲ! 上に!」
「!」
怒られた気がして灰色海月はびくりと反射的に腕を頭上に向けた。怯えが腕輪に伝わったのだろう、身を守ろうとするように腕輪から透き通った細い触手が無数に伸びて頭上で絡み合った。その上に、屋根から弾けた瓦が降る。
黒葉菫は灰色海月と共に、絡み合う触手の下から飛び出してベランダから飛び降りた。二階ほどの高さなら、変転人でも何とか着地できる。慣れるまでは足を捻ることもあるが。
触手が解けると瓦がベランダに降り注ぐ。勝手に落ちて来たわけではない。何らかの攻撃を受けたのだ。
「クラゲにもできることはある」
再び道路に飛び出し、逃げに徹する。獣に相対した時は逃げることを第一に考える。足も能力も獣には到底及ばない。向かう勇気は一番最後だ。
「ねえ――待って。どうして逃げるの? 手加減は苦手なのよ」
スカートを抓み上げ、ヴイーヴルは自分の足で走って追う。ヴイーヴルの背中の翼は闇に紛れられる色をしているが、如何せん大きいのだ。ここは道が狭くて飛び難い。背の翼で飛ぶ獣は飛びながら自由に杖が使えて便利なのだが、翼の所為で不便なこともある。
ヴイーヴルは杖を振り、周囲の家を少しずつ破壊する。手加減をしているが、それに集中するあまり狙いが定まっていない。
「あっ……そうよね、道を壊せば走れなくなるわよね」
名案を思い付いたヴイーヴルは早速前方に杖を翳した。
「――えい」
杖を向けられて黒葉菫は咄嗟に横道に駆け込み、その背後で地面を抉る轟音が走り抜けた。
「!?」
道だけでなく、左右の家も一列ずつ、跡形も無く吹き飛んだ。瓦礫となり奥へ押し遣られたようだった。
「な……」
桁違いの威力を見せ付けられ、黒葉菫も一瞬足が止まってしまう。少しでも判断を間違えば存在が消し飛ぶ。
もう転送できる時間は稼いだが、この威力で攻撃されるなら傘を開いている間に吹き飛ばされるだろう。もう少し距離を取らなければ安心して転送ができない。痛む腕で灰色海月を抱え直し、黒葉菫は明かりの灯る街灯に向けて走った。
「ここの横道に入った? ここも壊しておいた方がいいわね。――えい」
黒葉菫が駆け込んだ道にも杖を下ろし、細い道路を跡形も無く吹き飛ばす。
黒葉菫は横道に飛び込みながら逃げ続けるが、これではすぐに追い付かれてしまう。
(直線じゃ逃げられるわね……斜めにしましょ)
逃げる気配の少し先に杖を向け、足止めをするためにヴイーヴルは杖を振った。
道路の先ではなく家々の壁の向こうから迫る轟音に黒葉菫は違和感を覚え、限界を超えるために必死に足を動かす。それでも変転人の足が獣の力に勝てる見込みは少ない。
家々を破壊して迫る攻撃は、砕いた瓦礫を押し退けるように二人に向かって壁となった。身長の何倍も高く、波のように襲い掛かる。
圧倒的な力の差――広範囲攻撃を得意とする獣の恐ろしさをその目に焼き付けることになった。
「!」
迫り来る瓦礫の壁が止まったような気がした。その直後、二人の体は突き飛ばされるように突風に吹き飛ばされた。宙に舞った二人は地面に叩き付けられそうになるが、突如現れた大きなクッションに抱き留められた。クッションはすぐに消え、地面に貼り付いた二人の前に小柄な少女が降り立つ。
「生きてるか?」
燃えるような赤い髪が黒いフードから覗く。
「……はい」
その手には杖を持ち、大きな瞳を細めて瓦礫を見上げる。瓦礫の壁は高くそそり立ち、破壊を免れていた付近の家に突き刺さっていた。
「獣相手によく耐えたな」
瓦礫の壁の前に降り立った緑髪の少年は持っていた鍵のような形の杖を軽く振り、壁を向こう側へ崩して力を解く。
「椒図の力は盾として使うのが最適解な気がしてきたな」
「盾は飽くまで副産物的な用途なんだが」
足元を一瞥し、攻撃を防ぎ切れていないと椒図は目を細める。空間を閉じる能力で、指定した空間の中に攻撃が入らないようにしたのだが、その線を少し超えて地面が抉れている。まともに攻撃を受けるのはあまり推奨できない相手のようだ。
「やっと止まってくれたわ。ちょっと人数が増えてるけど」
スカートを抓んで掛け寄って来たヴイーヴルはとんと跳んで瓦礫の山へ立つ。追っていたのは二人だが、いつの間にか四人になっている。
椒図は地面を蹴って距離を取り、悪怯れもしないヴイーヴルを見上げる。
「何のつもりだ?」
「やっと話ができるのね。宵街に行きたいのよ」
「何のために?」
「アルペンローゼを迎えに来たの」
「……。宵街には行けるだろうな。お前が今殺した人間の数は弁解の余地無く、地下牢に放り込まれる罪だろう」
「……え?」
ヴイーヴルはきょとんとし、三つの目を瞬いた。
「人間をこれだけ殺しても、花街では罪にならないのか?」
ヴイーヴルは首を傾げながら振り向く。吹き飛ばした道路と家が黒い線のように一直線に走っている。
「……にっ、人間が住んでたの!?」
「……」
「こんな狭い所に……? 真っ暗だし……」
「夜だからな。人間は夜は寝る」
「それは知ってるんだけど。遺跡群……みたいな物だと思ってたわ」
「…………」
椒図は言葉に詰まってしまった。もしそうだとしても後先考えずに破壊するものではない。この獣は人間の世界を知らなさ過ぎる。もしくは、しらばくれている。
「とにかく宵街には連行する。望み通りにな」
「ありがとう」
「だが宵街で暴れられても困る。お前の心臓に鍵を掛けさせてもらう」
「鍵?」
「少しでも妙な動きをすれば、心臓を潰す」
「脅迫……?」
「宵街では、これだけの人間を殺してしまうと罪になる。規則を知らなくても、宵街の縄張りにいる以上、罰を受けてもらうことになる」
「……想定外だわ」
ヴイーヴルは困ったように辺りを見渡す。何人が死んだのか、吹き飛ぶのは一瞬なので見えないし数えられない。
「手加減したのに」
「…………」
これだけ派手に遣っておいて手加減をしたと言う。余裕のある表情を見せる彼女の言葉ははったりではないだろう。
「じゃあ宵街に行けなくてもいいから、アルペンローゼを連れて来て。人質じゃないんだから、連れて来てくれるわよね?」
「殺せと手紙を置いたのに、今度は迎えに? もう殺したとは考えないのか?」
静かな突き放す言葉に、ヴイーヴルの瞳孔は鋒のように鋭く椒図を刺した。目を見開いたまま動きを止めた彼女に、椒図も警戒する。
「……殺したの?」
「殺せと言ったのはそっちだろう?」
「許さない……許さない……! アルは何も悪くないのよ!?」
「…………」
話が噛み合わない。揺さぶるつもりだったが、杖を振り上げる彼女をこれ以上煽っても何も得られないだろう。被害が増えるだけだ。
「アルペンローゼは生きている。殺せと言ったり許さないと言ったり……手紙を置くなら責任を持て」
「……!」
杖を振り下ろし掛け、ヴイーヴルはぴたりと止まる。目を見開いたままきょとんと椒図を見下ろす。
「生きてるの? 生きてるなら早く連れて来て。心臓に鍵? それも嫌よ」
「……なら少し待て。これだけの被害を出して、こっちもすぐに要求を呑むことはできない」
「待つだけならいいわ。アルも身支度しないといけないものね」
事の重大さを彼女はまだ理解できていないようだ。それとも宵街を舐めているのか。
椒図はヴイーヴルから目を離さないように、蜃達の許へ後退する。
「予定変更だ、蜃。これは僕一人で決められない。宵街に行って狴犴に判断を仰いでほしい」
「……。あんまり科刑所には行きたくないが……このまま放っておいたら遊び場が無くなりそうだからな」
「ああ。黒葉菫は海月と一緒に獏の所へ戻れ。アルペンローゼにこのことを伝えて、ヴイーヴルの真意が汲み取れるか確認してほしい。アルペンローゼを引き渡すかは……獏に状況判断を任せていいか悩む所だな」
獏はアルペンローゼを匿っているので、彼の気持ちを多少は汲み取れるだろう。だが罪人の判断に任せてしまうと狴犴の反感を買いそうだ。
「……あの、」
黒葉菫は息を整え、崩れそうな膝を何とか持ち上げて立ち上がる。
「俺の携帯端末に連絡を入れてください。狴犴の端末から指示を出してもらえば、獏の判断に頼らなくてもいいかと」
彼の提案を聞き、椒図は蜃を見る。椒図はまだこの時代の物に疎い。
「小型の電話だな? いつの間に宵街にそんな物が普及したんだ」
「まだ試作なので普及はしてませんが。現在は一部の獣と十歳以上の無色が所持してます」
「試作でも使えるなら充分だな。椒図、一人であいつを抑えられるのか?」
「暴れたらアルペンローゼを引き渡せないと言い聞かせておく。だがここで待つと人間が遣って来そうだから、場所は移す」
「わかった。こっちももう一人くらい、あいつと遣り合えそうな奴を見つけて連れて来る」
蜃は頭の回る椒図を信じてくるりと杖を回して姿を消し、黒葉菫も灰色海月を立たせて黒い傘で転送した。
小さな街に降り立つと、灰色海月はふらりと蹌踉めいた。
「大丈夫か?」
「……はい」
足元が平坦なアスファルトから石畳に変わったが、高さは変わっていない。踵は地面に付いたままだ。それでも一瞬で視界が切り替わると脳が混乱してしまう。
「スミレさん、クラゲさん!」
店の外で待っていた獏は、忽然と現れた二人に急いで駆け寄る。アルペンローゼもそれに続いた。
「遅かったけど、何かあった? ……あれ? 蜃と椒図は? 入れ違ったかな?」
「すみません、質問には後で答えます。俺の端末は持ってますか?」
「うん? 持ってるよ」
獏は預かっていた端末を黒葉菫に返す。
「これに狴犴から連絡が来ます」
「え?」
「人間の街でヴイーヴルに遭遇しました」
「!」
「アルペンローゼを迎えに来たと言って、引き渡しを要求してます。蜃は宵街に判断を仰ぎに、椒図はヴイーヴルを見張ってます」
「まさか迎えに来るなんて……」
黒葉菫は獏の言葉を制し、アルペンローゼに向き直る。彼も驚いた顔をしていた。迎えが来るのは予想外だ。
「ヴイーヴルは人間の街で暴れて人間の死者を多数出した。それは宵街では地下牢に入れられる罪だ。それをどうするか、聞きに行ってる」
「…………」
「もしヴイーヴルがお前を連れて花街に戻れるとしたら、お前はどうする? 俺達はヴイーヴルが何を考えてるかわからない」
ヴイーヴルに強制的に烙印を捺せば、花街も黙っていないだろう。只の獣ではなく、彼女は花街の大公だ。もし今すぐに地下牢に収容するとしても、それは一時的だ。一時的に拘束している間に処遇を考えることになる。その中でもし強制送還となった場合、共にアルペンローゼを連れて戻ることも選択肢の一つとなるだろう。
アルペンローゼは唐突な迎えに途惑うが、選ばせてもらえるのならありがたいことだ。
「……ヴイーヴル様の考えは、僕にもわかりません。宵街では少々気負い過ぎのように見えますが、根は素直な方です。僕を迎えに来たなら、そうなんでしょう。裏に策略は無いと思います。あるなら……他の誰かに騙されている場合ですね」
ヴイーヴルの素直さは、手紙の内容も知らず置けと言われて手紙を置いて帰る程だ。
「もし裏が知りたいなら、ヴイーヴル様は一人で来たのか、誰かに言われて来たのか、何故今迎えに来たのか、この三点を訊いてください。その回答への判断はお任せします」
「……お前は? 花街に戻るのか?」
「連れて帰ると言うなら、僕に拒否権はありません」
「拒否できるなら……?」
「そんな想像は必要ありません。ヴイーヴル様の力を見たんですよね?」
圧倒的な破壊を黒葉菫は確かにその目で見た。しかもあれだけの破壊をしても手加減していると言う。少しでも角を曲がるのが遅れれば足が、下手をすれば全身を跡形も無く吹き飛ばされていた。あれに抗うことなど変転人には不可能だ。
「そんなに凄かったの?」
それを見ていない獏はまだその恐怖に気付かない。
「一瞬で道路とその脇の家を削り取って吹き飛ばしました。広範囲で中距離の攻撃……だと思います」
「窮奇の力に近そうだね……フェルは力を封じられてるそうだけど、もしかして王より強かったりして……」
半ば冗談を言うように呟いた獏に、アルペンローゼは感情を零さずに目を遣る。
「フェル様より強いかは知りませんが、ヴイーヴル様が強いのは当然です」
「へぇ……」
「ヴイーヴル様は、フェル様の前に座していた王なので」
「え?」
フェルニゲシュはうっかり王になったと言っていたが、うっかりと言うくらいなのだから、前の王は死んだか王の座に飽きて去ったのだろうと思っていた。存命の上、未だ城に棲んで王の下で働いている『うっかり』とは何なのだ。
「それは……話してもいいことなの?」
「遥か昔のことですが、城下町でも皆知ってますからね。王が交代して誰も気付かないなんてこと、無いでしょう?」
「確かに……」
「ただ、何故交代したかは誰も知りません。大公なら知っていると思いますが」
「君が拒否権なんて無いって言うのがわかった気がする……そんな凄い人なら、逆らうのは勇気がいるよね。でも宵街にも強い人はいるよ。龍もいる」
「ヴイーヴル様も龍です」
「え!」
「背中の翼を見ましたよね? 西洋ではドラゴンと言いますが」
「翼……うん、翼ね……」
宵街にいる龍には翼は無い。飛ぶことはできるが、他の獣と同じく杖に乗って飛ぶものだ。窮奇は翼が生えるが龍では無い。特殊な獣だ。翼と龍がすぐには結び付かなかった。
「連絡を待つ間、クラゲを休ませてもいいですか?」
会話の切れ間に黒葉菫は遠慮がちに尋ねる。灰色海月は俯いたまま反応が無い。
「勿論だよ。もしかして怪我した……?」
「怪我ではなく、酷く怯えていて」
「! そうだよね、ヴイーヴルに会ったんだもんね」
立っているのがやっとだった灰色海月を店の中へ、二階へと連れて行く。手を貸して彼女をベッドへ座らせた。
「寝てていいからね。ハーブティーも淹れようか?」
「いえ……すぐ良くなります」
結んだ唇が微かに震えている。ヴイーヴルの力を目の当たりにし、奥に仕舞われていた恐怖が蘇ってしまった。
疲れた顔と虚ろな目をする灰色海月を労わり、獏達は一階へ下りる。監視役は獏の監視をし、本来は人間の相手をするだけの仕事だ。若い変転人に獣の相手など荷が重い。
「蒲牢に後で歌いに来てもらおうかな。いつまでも怖がってたら可哀想だもんね」
「そうですね。要望を出しておきます」
頷いた直後、黒葉菫の端末が振動した。音が出ると都合の悪い場面が多いため、宵街の端末は振動で知らせるのが基本だ。黒葉菫はすぐに通話に出て何度か短く返事をした後、端末を操作して机に置いた。
『……聞こえるか?』
「わっ……何か狴犴の声がする?」
『聞こえるようだな』
端末から突如響いた声に獏は一歩下がり、思わずきょろきょろと辺りを見回す。この場には獏と黒葉菫とアルペンローゼしかいない。
「スピーカーモードと言うものだそうです。端末を耳に当てなくても、複数人で会話できるそうです」
「そ、そうなんだ……びっくりした。電話の相手は狴犴なの?」
「はい。ヴイーヴルの件です」
獏は繁々と端末を観察し、アルペンローゼも再び見る端末に目を落とした。一対一ではなく複数で会話できるとは、宵街の技術に脱帽だ。
『アルペンローゼと話がしたい。そこにいるか?』
「! ……はい。います」
初めての通話につい緊張して声が裏返りそうになってしまう。相手の顔が見えないと言うだけで、緊張が段違いだ。
獏は椅子を出し、アルペンローゼに座るよう勧める。アルペンローゼは固くなりながらもゆっくりと座った。
『まずお前の考えを聞かせてほしい。ヴイーヴルと共に花街に戻りたいか?』
意外な質問だとアルペンローゼは思った。ヴイーヴルは罪を犯した。なのにそれに言及せず、まず意見を聞くとは。
(ヴイーヴル様は罪を犯した……だが、悩みの種を宵街に留まらせるより、帰らせた方がいいと考えた?)
取引や駆引きではないなら、素直に答えれば良いだろう。
「そうですね。問題が無いなら、ですが」
狴犴はアルペンローゼの出方を窺っている。アルペンローゼに先に意見を尋ねたのはそのためだろうと彼は推察する。
『わかった。ヴイーヴルと話して、問題が無ければ出て行って構わない』
「……自棄にあっさりしてますね。ヴイーヴル様は罪を犯したんじゃないんですか?」
『これ以上被害を出さないなら、大人しく帰ってもらう。まだ暴れ足りないなら鎮圧する』
「見逃してもらえるんですか?」
『話を聞いた所、どうやら殺意は無いらしい。何人の人間が消し飛んだかはこれから調査するが、宵街としてはまず宵街の安全を確保することを優先する』
「人間の死には淡白なんですね」
アルペンローゼは知らないが、獏と黒葉菫は狴犴の言葉に納得した。狴犴は以前起こった渾沌の騒動のようなことを危惧している。渾沌は烙印を捺して地下牢に収監したにも拘らず、脱獄し多くの死傷者を出した。ヴイーヴルを収監して暴れられては困る。更にそれを助けようと花街から獣が遣って来ても厄介だ。ヴイーヴルを宵街に入れず、花街に送り返すのが一番安全だ。彼女に敵意が無いのなら、これ以上揉めない方が双方に被害が出ない。
『こちらとしては、花街の揉め事に宵街を巻き込まないでほしいんだが』
「……。獣の王は、誰しも率直ですね」
アルペンローゼはつい笑いそうになってしまう。口の端は上がっているかもしれない。花街の王も宵街の長もとても素直だ。
『アルペンローゼは獏が連れて行け。首輪は装着しなくていい。許可する』
呼ばれると思っていた獏は驚かずに承諾する。アルペンローゼを一人で行かせることも、危険な獣の前に黒葉菫をもう一度放り出すこともしないと思っていた。危険に放り出されるのはいつでも罪人だ。
「クラゲさんは?」
『蜃から様子を聞いている。置いて行け』
「良かった」
恐怖に支配される彼女も、もう一度あの獣の前に連れて行くことなどできない。
『こちらから蜃に行ってもらうが、先に話す間、獏とアルペンローゼは距離を取って身を潜めていろ。ヴイーヴルの返答次第で、引き渡しを撤回する。何度も言うが、宵街の安全が第一だ』
「安全第一は賛成だよ。宵街だけじゃなく、アルペンローゼも、僕もね」
『…………』
「あれ? 通話切れた?」
『こちらからは速やかに派遣する。お前も遅れずに行け。判断は任せてある。それに従え』
ぷつりと今度こそ通話が切れた。返事が貰えなかったことは不満だが、宵街の安全を考える狴犴の気持ちは理解できた。
「蜃に判断を任せるとは思えないから、贔屓が一緒に行くのかな? 相手が龍でも大丈夫かな……」
心配はするが、贔屓は強い。きっと龍にも善戦するだろう。
端末に地図を受信し、獏とアルペンローゼはそれを確認する。
「スミレさん、クラゲさんを宜しくね」
「はい。御武運を」
「戦いたくはないんだけど……。アルさん、行こうか。変な所に転送しちゃ駄目だよ」
「承知しました。足場のある所に転送します」
黒い傘を掌から引き抜くアルペンローゼに付いて店を出る獏の背を見送り、黒葉菫は少し心配になった。
アルペンローゼの転送で二人が降り立った場所は、暗闇に立つ建設中のビルの前だった。ビルはまだ骨組みだけで、資材が其処彼処に積まれている。その資材の陰に気配を消して潜み、獏とアルペンローゼはそろりと顔を出した。
地面の上にヴイーヴルが立ち、椒図と既に蜃が少し離れて控えている。
ヴイーヴルと対峙するのは、頭に角を生やしヴェールを被って穏やかに微笑む女――螭だった。
全員、手には杖を持っている。
(贔屓じゃない……? 龍を派遣するなんて、狴犴、遣る気だ!)




