172-限界
科刑所への報告を終え、灰色海月と共に小さな街へと戻った獏は、ぐったりとしていた。
「体はともかく、精神的疲労が……。やっぱり狴犴と喋ると疲れるね」
「寝ますか?」
「アナさんがベッドを使ってるからなぁ。怪我人は優先しないとね」
拠点のベッドが使えなくとも、この小さな街には他にも家がある。ベッドはまだ幾らでもある。
獏に付いて来た蜃と椒図は、暗い家の一つに手を掛けた。
「おい獏、ここ借りるからな」
「ここは休憩所でも宿泊施設でもないんだけど」
「温泉があれば良かったな」
「温泉街にしないでよ」
蜃と椒図はここが牢だと思っていないようだ。確かに牢らしくない形だが、それは困っている変転人を一時的に保護するためだ。贔屓がそう言っていた。
好きに使って良いと贔屓も言っていたので、空いているなら使用しても良いだろうが。
蜃と椒図を見送り、獏と灰色海月は明かりの灯る古物店に入る。
「お疲れのようなので、レモンバームティーを淹れます」
「ハーブティーは久し振りだねぇ」
レモンバームティーには不安を和らげてリラックスさせてくれる効果がある。科刑所へ行って疲れている今の獏にぴったりだ。
灰色海月は台所へ行き、獏は二階へ、そして自分の部屋のドアを叩く。返事の代わりにすぐにドアが開いた。
「お帰りなさいませ」
ドアを広く開け、アルペンローゼは脇に退いて頭を下げる。躾の行き届いた変転人はむず痒くなるほど恭しい。
「ただいま。アナさんはここに残るか決めた?」
「今は寝ています」
「……あ、ごめん。静かにするね」
「寝て少し傷を癒やしてから戻ると言ってます。眠れば獣のように回復が早まるのではないかと。変転人だとあまり変わらないと思うんですが、気持ちの問題もありますから」
「そっか。アナさんが決めたことなら、僕もそれでいいよ。起こさないよう下に行くね」
「はい。僕も行きます」
留守中は誰がこの街に来るかわからず、二人で一部屋に固まっていた。獏が戻って来たので、アルペンローゼは少し肩の力を抜く。
「花街で撮ってきた写真が出来たから、君も見る? 立ち入り禁止の塔の写真もあるよ」
「それは興味深いですね。拝見します」
一階の奥の古びた革張りの椅子に座り、獏は早速机上に写真を広げた。
台所から出て来た灰色海月からティーカップを受け取り、柑橘の香りを味わいながらハーブティーを一口飲む。同じ物を受け取ったアルペンローゼは訝しげな顔をしつつ、ゆっくりと手を仰いで香りを嗅ぐ。
「獣の前だと飲むのも駄目?」
「……いえ。飲むのは臨機応変に。ですが、これは……? アールグレイとはまた違った香りですが」
「疲れた時はレモンバームティーだよ。ハーブティーは飲んだことない?」
「ハーブティーですか。飲んだことはないです。ハーブティーを飲みたいと言われたことがないので」
「へえ。注文したら何でも作るの?」
「できる限り注文には応えます。獣もあまり料理には詳しくないので、珍しい料理は注文されないですが。苦労するのはジビエですね……市場にあまり出回らない動物は僕が狩りに行くので」
「大変そう……」
カップを一旦置き、アルペンローゼは懐かしい花街の景色に視線を落とす。宵街やこの街よりも明らかに明るい景色に思わず目を細めてしまう。随分長く遠く離れていたようだ。
「……これは?」
一枚の写真を拾い上げる。古城の廊下は何処も似たような石造りの景色だが、中央に血が引かれた廊下は見たことがない。
「立ち入り禁止の塔の書庫に居る時に何かを引き摺るような音が聞こえてきたんだけど、ドアを開けたらその血痕があったの」
「引き摺る音……? 立ち入り禁止の場所に一体誰が……?」
「それからこっちが書庫で、こっちが血痕の始点にあった部屋だよ。玩具が一杯あった」
「玩具部屋……? 随分幼稚な玩具に見えますが、これが必要な赤子や幼子は城にいませんよ。少なくとも僕が城に来てからはいません。いたら間違い無くベビーシッターも任されているので」
「他の仕事をたくさん遣りながら、ベビーシッターも……? 規格外過ぎて心配になるよ」
赤子の世話をする善行を任されたことのある獏は、余裕のあるアルペンローゼが機械のように見えた。治癒能力が高い彼は疲労もすぐに回復するのかもしれない。ある日突然ぷつりと電池が切れないか心配だ。
「周囲にある物の大きさから推測して、この血痕はおよそ人の頭ほどの幅でしょうか」
「うーん……そのくらいかなぁ……」
「この血痕を見た後に出会った人は誰ですか?」
「え? エーデルワイスとズラトロクだけど」
「ではその二人の血ではないですね。獣が簡単に怪我を負わされて大人しく引き摺られるとは思えないので、可能性が高いのはミモザですね。本当に人の血なら」
「ミモザって言う変転人にはお城の中では会わなかったよ」
「そうなんですか? 廊下を歩いていたら自然と擦れ違うものなんですが。他の仕事でも任されていたのかもしれませんね」
「そうかも。城下町でそれっぽい人を見たよ。それと、立ち入り禁止の塔に地下へ下りる階段があったんだけど、下に幾つかドアがあった。そのドアの向こうから金属の擦れるような音が聞こえてね……ちょっと怖かった。本当に立ち入り禁止なんだよね?」
「ええ。獣にも恐怖心があるんですね。昔、地下は牢として使用されていたと聞いたことがあります。今は罪人を牢に入れる習慣が無いので、牢としては使われていないはずですが」
「ま……まさか、牢で死んだ昔の罪人の怨霊が…?」
獏の持つカップの水面が小刻みに震える。アルペンローゼは白けた目になった。
「非現実的ですね」
「非現実的な仕事力と治癒力の人に非現実的って言われた……」
「もし怨霊がいるとして、一番溜まっているのは処刑場でしょうね。そんなものが出たという話は聞いたことがありません」
「じゃああの音は何だったの? エーデルワイスとズラトロクが出て来てそれ所じゃなくなったんだけど」
「……。見方を変えれば、見られたくないものがあるから止めに入ったようにも見えますね」
「怨霊じゃないなら、まさか山積みの骨? 聞こえた音は骨が崩れる音とか……」
「骨を残しておく意味がありません。もし骨があったとしても、見られて困る骨とは何ですか?」
「さっきから君は現実的だなぁ」
ハーブティーを飲み、獏は椅子の背に凭れ掛かる。
「……あ、そうだ。これが墓地の写真だよ」
机上の写真を指差し、アルペンローゼも視線を向ける。
「これが……?」
「君には教えてあげるけど、アナさんにはまだ黙ってた方がいいかも」
「アナに知られると都合の悪いことがあるんですか?」
「まあアナさんと付き合いが長いのは君の方だし、君が言うべきだと思えば言ってもいいよ。その墓地に生えてる草、ゲンチアナなんだって」
「! ……見覚えのある形だとは思いましたが……」
アルペンローゼは写真を拾い、隅々まで真剣に眺める。たくさんの墓標を囲むように生える草は殆どが花街に生えている草で、異なるのは一種類だけのように見える。
「代々城に従事しているので、過去に何人もいたことはわかりますが、何故ゲンチアナだけが……?」
「あ、そっか。弔ってあげるなら、アルペンローゼやエーデルワイスもだよね」
「王の秘書だから特別に……なんでしょうか」
写真を見てもそれ以上のことはわからなかった。アルペンローゼは写真を見渡し、情報を整理する。獏の話は引っ掛かる点が幾つもあった。
(ロク様とワイスの動きがおかしい……。立ち入り禁止の塔へは通常立ち入らない。不審者を見つけて追って来たとしても、出て来るのが遅過ぎる。出て来たタイミングを考えると、地下で何かをしていた……? 獏が聞いたと言う金属音、これが気になるが……)
アルペンローゼが写真を見詰めながら黙考して動かなくなってしまったので、既に写真を確認していた獏は机上に古いチェス盤を載せる。アルペンローゼの方を一瞥しながら黒と白の駒を一つずつ並べていく。
「アルさん、頭を柔軟にするにはチェスだよ」
「初めて聞きました。疲れていたのではないんですか?」
「科刑所から離れれば気分は軽くなるよね」
獣なのだから体力はある。遠方へ観光に行った程度で疲れて動けないわけではない。疲れたのは獣の相手をしたからだ。科刑所から離れれば肩は軽くなる。科刑所にも怨霊がいるのかもしれない。
「……チェスの相手をする代わりに、ワイスから預かった紙をもう一度見せていただけませんか?」
「ん? いいよ。――はい」
紙切れをアルペンローゼに渡し、彼はエーデルワイスの文字に目を通す。獏に知られずにポケットに忍ばせるのだから、当然ズラトロクも気付いていないだろう。これは何かの規則に触れる物だ。……事実なのだろう。ここに書いてあることは。
「アルさんが白でいいよ」
「…………」
約束だ。白い駒に触れたアルペンローゼに、獏は微笑む。
「僕が勝ったら、城の秘密を教えてよ」
「!」
駒を持ち上げようとしたアルペンローゼは微かに目を見開く。チェスの勝負を受けてしまったアルペンローゼは、獣が望む勝利の報酬を却下できない。獣に逆らうことになるからだ。
敵対しているなら突き放すことはできた。だが今は匿ってもらっている立場だ。逆らって追い出されてしまえば、フェルニゲシュの約束を破ることになってしまう。
優しく柔和に接する獏に油断し、いつの間にか懐に入られていた。
「……僕は、秘密と言う程のことは知りませんよ」
「君の周りに、幻視かそれに近い能力を持つ獣はいない?」
「…………」
「いるんでしょ?」
拷問にも耐えたのに、尋問に冷や汗が流れた。白い歩兵を取り、前に進める。
「この写真には能力の一部が写ってる。小さな違和感だけど、観察眼に優れた君が全く指摘しない。君が口を閉ざしたい、獣の能力なんだよね?」
科刑所で指摘されていた埃のことだ。血痕が引かれた廊下と何も無い廊下、この二つの写真には隅の埃の有無が写っている。
「――はい、君の番だよ」
鏡に映したように、獏も黒い歩兵を進める。同じ動きをするなら、先手の白が有利だ。だが獏は勝利を望んでいる。煽っている――アルペンローゼはそう思った。
「僕は城が好き。斜めに動けない所がね。君はどの駒が好き?」
「……ありません」
「そう? 愛着があると、動かす時わくわくするよ」
獏は柔和な声色を変えず、淡々と駒を動かす。早打ちではないが、長考もしない。
白黒の戦場にゆっくりと出陣していく駒の全てに目を通す。少しずつ獏の手が鏡ではなく変化していく。邪魔な歩兵を殺し、場所を空ける。チェスは将棋と似ているが、大きく違う所は、取られた駒を使用できない所だろう。死んだ者が蘇ることはない。
(歩兵はまるでミモザだ……同じ顔で何人もいて……)
余計なことを考えていることに気付き、アルペンローゼは注意を戻す。普通に会話をしているだけなのに、勝利の報酬を提示された所為で冷や汗が止まらない。
(余計なことは答えなくていい。考えなくていい……)
勝てば問題無いのだ。勝てば何も話さずに済む。黒の王を殺せば、白の勝利だ。
台所で菓子を焼く灰色海月は獏達の様子を時折覗く。アルペンローゼの顔色が悪いことが気になる。
「…………」
結局、アルペンローゼは黒に詰め寄られて敗北することになった。獏は城で王を殺しには来なかった。
「愛着はあるけど執着はしてないからね。歩兵を化けさせるならやっぱり女王だし」
歩兵は一番奥の壁に着くと王以外の駒に昇格できる。どの駒でも良いと言われると、やはり最強の駒に化けさせる。
アルペンローゼは俯き、呼吸が浅い。まるで酸素が回っていないようだった。
得意気に椅子に背を預ける獏の視界に、二階から下りて来たゲンチアナが映る。目が覚めたらしい。ゆっくりと指し過ぎたようだ。
「アナさん、もういいの?」
「はい。寝て少し気分が楽になりました。ロク様が戻れと言うなら、私は城に戻ります」
「うん。送ってあげたいけど、僕はここから出て行けないから……。気を付けてね」
「えっ、御見送りまでしていただかなくて結構ですよ! アルもここでいいから。私は仕事をしに戻ります。御世話になりました」
足を揃え、ゲンチアナは深々と頭を下げる。傷はまだ痛むが、ここまで一人で来ることができたのだ、帰ることもできる。
「チェスの邪魔をしてしまってすみません。アルも、またね……」
見送りはいらないと彼に手を振りながら、ゲンチアナは掌から白い傘を引き抜いて店を後にした。
「心配だなぁ」
そうは思っても、罪人は自由に牢を出られない。見送るために牢から出ることは許されない。
ゲンチアナは明るく振る舞おうとしていたが、どうにも空元気が見え隠れする。
フェルニゲシュは反省したと言うが、本当に反省しているかはわからない。だが万一まだ怒っていたとしても、ズラトロクなら力になってくれるはずだ。花街の問題は花街が解決するのが一番良いのだ。
「アルさん、そんなに負けたのがショックだった? 挨拶くらいすれば良かったのに」
勝った獏は上機嫌だ。アルペンローゼの肩をぽんと叩く。
「……っ」
軽く手を置いただけなのだが、彼の体はゆっくりと傾き、獏は慌てて支えた。
「アルさん!?」
アルペンローゼは虚ろな目で呆然としていた。負けたショックでここまで放心することはないだろう。
「ぁ……」
何か言おうとするが、言葉になっていない。だが意識があることはわかった。
「頭を回し過ぎた……のかな? 獣がいるからって強がるからだよ。最近全然食べてないよね?」
「アルさん、どうかしましたか? 過労ですか?」
様子を窺っていた灰色海月も台所から出て覗き込む。顔色が悪かったのは倒れる前兆だったのだ。
「集中できてないとは思ってたけど、僕も煽り過ぎたね。目を回しちゃったみたい。クラゲさん、御飯って用意できる?」
「今焼いてるのは御菓子です。宵街で買って来てもいいですか?」
「うん。任せるよ」
オーブンを確認してから灰色海月は早足で店を出る。
「もしかして、この前の水に浸した麦って、君が食べるつもりだった……?」
「…………」
ゲンチアナを保護した日に彼女のために作ったスープは、きっちり三人分あった。ゲンチアナが来なければ彼と獏と灰色海月に出すつもりだったのだろう。獏はあのスープを遠慮すべきだったのだ。それなら残った一人前をアルペンローゼが食べることができた。その時はそんなことに頭が回らなかった。彼の作る料理があまりに美味しそうだったのだ。
「食べちゃったのは謝るよ。でも臨機応変だとか言って、ハーブティーも飲んでないよね。駄目だよ、弱ってるのに我慢しちゃ。ほら、飲みなよ」
アルペンローゼの口にカップを近付けるが、彼は固く口を閉ざして開ける気配が無かった。
「頑固だね……」
顎を掴み、無理矢理口を開かせる。幾ら拒んでも獣の握力に変転人は敵わない。少し上を向かせ、口にハーブティーを流し込む。
「っが、げほっ! ごほっ!?」
「はいはい良い子だねぇ。顔を拭いてあげるよ」
「…………」
一度でも優しいと思ったことを撤回させてほしい。顔面に撒かれたハーブティーをごしごしと拭かれながら、アルペンローゼはそう思った。殆ど口に入っていない。
「一人で座れる? ベッドに行く?」
話す余裕の無いアルペンローゼは、抱えようとする獏の手を払うことしかできなかった。少しでも何かを考えようものなら脳が締め付けられるように痛む。
(確かに全然食べてなかった……獣ほどではなくても、変転人も数日食べなくても平気なのに……それにここでは食事の必要は無いと聞いたが……つっ……。思ったより擦り切れていたのか……)
灰色海月は手紙を拾うよりも早く帰って来た。後ろから三角巾で腕を提げた見慣れた顔を連れている。
「スミレさんも来てくれたの?」
「すぐに戻るために、スミレさんに転送してもらいました。怪我をして暇そうだったので」
「いきなり、御飯くださいって来たんですが、ここでは食事の必要が無いのでは?」
時間の停止したこの小さな街では空腹を感じることはない。だがそれは平常時のみだ。怪我をしたり疲労を感じるようなことが起こると柔軟に干渉する。平常でなければ腹も減る。
ぐったりとしているアルペンローゼの姿が視界に入り、黒葉菫も漸く理解した。食事は獏ではなく彼のためだと。
「ヨウさんがレンジで作るパスタとお湯を注ぐだけのカップ麺をくれました。どれがいいですか? すぐに作ります」
「状況を言ってもらえれば、もっと栄養のある物を用意したんですが……」
洋種山牛蒡から貰った食事を腕に抱えながら灰色海月はアルペンローゼを見るが、彼は答える余裕が無い。仕方無く灰色海月は、一緒に持たされた粉チーズに合いそうなトマトソースのパスタを選んで電子レンジに放り込んだ。電子レンジに入れるだけで料理が出来上がるとは、人間は凄い物を生み出している。
料理を待つ間、獏は机上に広げた写真とチェス盤を端に寄せて場所を空けた。
この街では嗅ぎ慣れないトマトの香りが漂い、アルペンローゼもぴくりと反応する。空腹は食べ物の香りに抗えない。
机に皿が置かれ、真っ赤なトマトソースの上に白い粉チーズが山のように盛り上がったパスタを見、アルペンローゼは灰色海月を一瞥した。
「粉チーズを振り掛けようとしたらこうなりました」
最初から粉チーズを山にする気は無かったようだ。
フォークを前に置かれ、アルペンローゼはパスタを見下ろす。電子レンジに入れただけで何故茹で上がったパスタとソースが出て来るのかわからなかった。
「アルさん、僕は何も危害を加えないんだから、安心して食べていいんだよ」
フォークを手に取り、獏はパスタをくるくると巻き付けた。アルペンローゼは嫌な予感がした。
獏はアルペンローゼの顎を掴んで無理矢理口を開き、巻いたパスタを笑顔で突っ込んだ。食べないなら無理に入れるしかない。倒れるほど弱っているのだから、手加減はできない。
「っ!」
「はい噛んで、飲み込んで」
このままだとまた噴き出してしまう。先程より見ている人も多い。アルペンローゼは気怠い腕を上げ、弱々しく獏からフォークを奪い取った。もう観念して食べるしかない。
「…………」
三人に見守られながら居心地悪く少しずつ食べ進め、粉チーズの山を崩す。パスタは確かにパスタで、ソースも確かにトマトの味がする。不思議だった。
「どう? 美味しい? 元気になった?」
「……僕の方が美味しいパスタを作れます」
「良かった、喋れるようになったね。もう一皿食べる?」
「いえ。結構です」
綺麗に食べ終えたアルペンローゼの前に紅茶を置き、灰色海月は獏に耳打ちする。獏は頷き、灰色海月は速やかに店を出て行った。
「善行ですか?」
「うん。手紙の投函があったみたい。スミレさんが来てくれたし、アルさんはここで待っててよ。また倒れたら大変だし」
「…………」
今度は自らカップを持って新しく淹れられた紅茶を飲み、アルペンローゼは空の皿を見下ろす。やはり人の手で淹れた物の方が美味しく感じる。不味いわけではないのだが。寧ろ電子レンジに敵対心を抱いてしまう。
「何があったんですか?」
もう少しここにいることになりそうなので黒葉菫も椅子を出して座り、訝しげにアルペンローゼに目を遣る。アルペンローゼは簡単に遣られるような変転人ではないと、実際に交戦した黒葉菫は評価している。
「ちょっと緊張し過ぎただけだよ。知らない土地だからね」
「……そうですか。虫や敵襲でないなら安心しました。他に何か必要な物はありますか?」
「今の所は無いかな」
「食材が幾つか欲しいです」
「ふふ。アルさんは何か欲しいみたい」
善行をするなら机上は一旦片付けた方が良いだろう。チェスセットを片付け、写真を集めて封筒に入れておく。
「……よし。ちょっと手伝ってあげよっかな」
手紙を拾いに行くと灰色海月に耳打ちされた時、オーブンで焼いている菓子のことを聞いた。彼女が出ている間に焼き上がりそうなので、できるなら菓子を出しておいてほしいと。
(ふふ……御菓子をオーブンから出すくらい、できるんだから)
席を立ち台所へ入って行く獏を黒葉菫とアルペンローゼは目で追う。オーブンの蓋を開けて焼けた鉄の型にそのまま手を伸ばした獏を見て、二人は勢い良く立ち上がった。
「――あぁっつい!?」
「馬鹿ですか!?」
「何で素手なんですか!」
幸い指先が触れただけだったが、黒葉菫は慌てて獏の手を掴んで水道の下に引っ張った。アルペンローゼは近くにあったミトンを掴み、代わりにオーブンから焼菓子を取り出す。
「獣でも持つのは無理ですよ。この形状……ティグレでしょうか。焼けているので型から出しておきます」
チョコチップを混ぜ込んだ円いフィナンシェの生地の中央が窪んでいる。後からチョコレートを注ぎ入れるための窪みだ。
「ねえ……馬鹿って言ったのどっち……」
「僕です。獣にこんな暴言を吐いたのは初めてです」
アルペンローゼは焼き上がった菓子を型から外しながら、手に水を掛けられている獏を横目で一瞥する。
「赤くなってますが、水脹れは免れそうですね。さすが獣の反射神経です。何で熱された鉄に触れようと思ったんですか?」
「もう温め終わったし、そんなに熱くないかなって……」
獏の言い分にアルペンローゼも呆れた。この獣は何も知らないのだ。
「蓋を開けて放置していたなら冷めているかもしれませんが、蓋を開けてすぐなんて、火に触れるようなものですよ。熱された鉄板は熱いと覚えてください」
「熱された鉄板は熱いと思うよ……でも火が見えないから……」
菓子をオーブンから出すことくらい簡単だと思っていたが、そんなこともできないことに獏は項垂れた。また灰色海月に不器用だと言われてしまう。少し見ただけで遣ることがわかってしまうアルペンローゼには何も言い返せない。
「……火が熱いことはわかるんだよ。焚火したことがあるし。でも人間の使う機械は最近出来た物だし、わざわざ家に侵入して使ったりしないし……電子レンジは覚えたんだけどなぁ……」
濡れた手を拭き、獏はしょんぼりと肩を落とす。『馬鹿』は言い過ぎだったかもしれないとアルペンローゼも考え直す。だが怪我をするような行為を怒らないわけにはいかない。
「冷蔵庫で先に手を冷やしたら持てたかな」
「馬鹿ですね」
型から出した焼菓子を並べ、アルペンローゼはしれっと言い放った。
どうやら冷蔵庫の冷気ではどうにもできないらしいと獏は知る。獣の皮膚は変転人よりも厚いはずだが、それでも駄目なのだろうか。
「……クラゲ、少し遅くないですか?」
勢い良く蛇口を捻ったので飛び散った水を拭いていた黒葉菫はふと漏らす。手紙を拾いに行っただけにしては少々帰りが遅い。
「差出人を追い掛けてるのかな? 前に逃げる人がいたんだよね」
「それでも人間には追い付けると思いますが」
「うーん……そうだね」
「見に行ってみましょうか?」
「クラゲさんの帰りが遅いことは今までも何度かあったけど、悪い理由ばかりだからね……僕が行くよ」
「貴方は罪人です。俺が行きます。もし十分で戻らない場合、これで宵街の誰かに連絡を取ってください」
黒葉菫は宵街で使用している携帯端末の試作機を取り出し、獏に手渡す。
「これ……スミレさんも貰ったの? いいなぁ」
「十歳以上の無色に配布されました。まだ全員と番号交換をしてないんですが、貴方の知り合いの番号もあるので、理解してもらえると思います」
「それじゃあ、十分待ってみるよ」
黒葉菫は頭を下げ、駆け足で店を出て行く。
自分は貰えない携帯端末を手に、獏はうずうずとした。十分待てば使えるのだ。何事も無く二人が戻って来るのが一番だが、端末を持たせてもらえて獏は子供のように喜んでいる。
「誰と連絡が取れるか、先に確認しておかなくちゃ」
「宵街はそれで連絡を取り合ってるんですか?」
「みたいだね。僕も触るのは初めてだよ。――えっと、キランさん……は怪我してるから呼んじゃ駄目だよね。ヨウさんがいいかな。……げ、狴犴の連絡先がある……間違えて掛けないようにしなきゃ」
アルペンローゼも興味深く端末を覗く。ユニコーンがポケットベルを見せてくれたが、獏の持つ端末はそれとは違う。見る限りボタンは無く、液晶に直接指を走らせている。人間の街に買物に行った時に、人間がそれに似た物を持っているのを見たことがある。獏の持つ端末は二つに折り畳めるようだ。
何もせず待つのは時間が長く感じる。獏は冷ましている焼菓子に手を伸ばしそうだったが我慢した。この街に時計は無いが、黒葉菫から預かった端末には時計が表示されている。頼りない体内時計に頼らずとも正確に時間が把握できるのは助かる。
「……十分、経ったけど」
念のために店の外も確認しておく。暗い小さな街はしんと静まっていて物音一つしない。
「戻って来ない。まさかまた傘が折られるようなことがあったのかな……連絡してみよう」
洋種山牛蒡の連絡先に電話を掛け、僅か三秒程で彼女の声が聞こえた。
『どうしたのスミレ君? パスタとカップ麺、足りなかった?』
「充分足りたよ。ありがと」
『え? 誰……?』
「僕だよ。獏」
『……あ、ああ……そこに行ったんだっけ……あれ? スミレ君の端末、奪ったんですか?』
「預かったんだよ。クラゲさんが手紙を回収に行ったんだけど、戻らないからスミレさんが見に行ってくれたの。十分経って戻って来なかったら連絡してくれって」
『……それ、やばい奴ですか?』
「僕はここから出られないから、何があったか全然わからないんだよね」
『ちょっと待ってください……変転人が行くとやばいのかも……。獣に行ってもらった方がいいかもしれません。狴犴に訊いてみるので、一旦切りますね』
「えっ、まっ、待って! 獣ならいる! いるから、ちょっと待って……後でまた掛けるね」
『え? 誰か派遣しなくていいんですか?』
「だ、大丈夫。とりあえずちょっと待って」
獏は慌てて通話を切った。狴犴を避けたのに結局繋がる所だった。獣ならこの街にもいるではないか。そのことをふと思い出した。まだ蜃と椒図が休んでいるはずだ。
狴犴に頼んだ所で、獣がすぐに駆け付けるとは思えない。近くにいる蜃と椒図に頼んだ方が早い。
「蜃と椒図に行ってもらうよ」
「ここにいるんですか?」
「うん」
使いたいと言う目標を達成して端末を仕舞い、獏は二人のいる家に向かった。アルペンローゼも気になるので付いて行く。
小さな街を構成する家の一つに駆け込み、明かりの付いていない一階にはいないことを確認して階段を探す。同じく明かりの無い二階へ上がると小さな物音が聞こえ、そのドアを開けた。
ベッドの上に常夜燈を置き、自宅かのように寛いでいた二人が顔を上げる。その前には裏向きのトランプが散撒かれていた。
「疲れてないみたいで良かった」
「ノックしろよ」
「獏もするか? 神経衰弱」
楽しそうで何よりだ。
「また今度ね。クラゲさんとスミレさんが願い事の手紙を拾いに行ったまま戻らないんだけど、様子を見てきてほしいんだ。それから、ここに帰してほしい」
「切迫しているみたいだな。場所はわかるのか?」
「うん。クラゲさんの居場所は辿れる。共有するよ」
立ち上がる椒図を目で追い、蜃は気が乗らない。獏の焦りは手に取るようにわかる。それが嫌だった。きっと碌でも無い問題が起こるに決まっている。
蜃が乗り気ではなくても、椒図を一人で行かせるのは心配だ。能力も頭脳も椒図の方が上だが、行動力を発揮する時の彼の頭は空っぽになる。
「……行くのか?」
「ああ。友達が困っていたら、助けるのが友達だろう? それに海月は獏の監視だ。狴犴に罰でも言い渡されたら獏が可哀想だ」
「椒図は友達に執着し過ぎなんだよ」
「そうか? 友達と居ると楽しいんだが、その楽しさの礼をしているつもりだった」
礼だと聞かされたのは初めてだったので、蜃もそれ以上は難色を示せなくなった。無条件に友達の役に立とうとしているとばかり思っていたが、まさか理由があったとは。
「……椒図が今、友達だと思ってるのは誰だ?」
「ん? 蜃と獏だが」
「はあ……まあいいか。わかった、俺も行く」
「ああ」
二人しか挙げないのなら、その程度なら付き合おうと蜃も腹を括る。簡単に友達と言う存在を増やしていないなら、替えが利かないのだろう。一点物の特別な物を雑に扱えとは言えない。
「二人共、ありがとう。僕も何か御礼をすべきだよね。何かできるかな……店の商品を何でも一つ無料であげるよ」
「君の店は只の瓦落多の山だろ」
「失礼な」
大人しく後方で話を聞いていたアルペンローゼは、獏の言葉に驚愕した。棚に捩じ込まれているあれらは商品だったのかと。何かを解体した物やゴミ箱から漁って持って来たのだと思っていた。花街のスコルとハティのような趣味なのだとばかり思っていた。
獏は杖をくるりと回して姿を消す二人を見送り、店に戻ろうと振り返る。
「……あれ? アルさんどうしたの? 驚いたような顔して」
「……いえ。店だとは知らなくて」
「もしかして欲しい物があった? 何でも買えるよ」
「いりません」
「あれ?」
きっぱりと断られ、獏は首を傾ぐ。
「失礼な問いかもしれませんが、貴方はあれらを買いたいと思うんですか?」
遠回しにゴミの山だと言っていることは察したが、獏はふふんと笑った。
「綺麗なブローチとか釦とかあるよ」
「宝飾品があるんですか……?」
「探してみてよ」
暗い棚の中に光る物など無かったはずだ。どうやら埋もれているらしい。
今までじっくりと棚の中を物色する者などいなかった。一つ一つ確かめて漸く価値のある物は見つかる。
獏はアルペンローゼを促し、古物店へと戻る。信頼している蜃と椒図に人間の街へ行ってもらえて気持ちが少し軽くなった。
――人間の街で何が起こっているかも知らずに。




