170-三つの花
その三人の少女は仲が良かった。色違いの揃いのリボンを髪に結ぶ程に。
花々の咲き乱れる花街で、彼女達は獣のために働くことを誇りに思っていた。
だが幾ら誇りに思っていても弱音は吐きたくなる。仕事は多忙だ。花街の何処にいても見える大きな古城を掃除するのはとにかく時間が掛かる。獣の各部屋は特に念入りに掃除をする。城の周囲を彩る庭の手入れもしなくてはならない。人間ほど体は汚れないので洗濯は少なく済むが、城では毎日食事が欠かせない。獣は毎日食事をせずとも生きられるが、城では毎日の食事が習慣となっている。
その間に獣に他に仕事を依頼されればそれも遂行する。予定外の仕事の処理が最も大変だ。
毎日忙しなく休む時間も惜しいが、御茶会の時間はあった。朝昼夜の食事の時間は急いで口に掻き込むが、御茶会だけは落ち着いて時間を取ることが許された。
御茶会は情報共有の場でもあった。城内の出来事、仕事の進捗、獣の機嫌……様々な情報を伝え合う。
休憩室の中央にある机を囲んで三人の少女は座り、大きなスコーンを半分に割る。白いリボンを結ぶゲンチアナは木苺ジャムを塗りたくり、黒いリボンを結ぶアルペンローゼは紅茶に浸し、灰のリボンを結ぶエーデルワイスは暗い顔でクロテッドクリームの上に丁寧にジャムを塗る。
「今日は何かあった? フェル様はいつも通り、窓の外を眺めて物思いに耽ってたよ」
「こっちも問題無し」
「…………」
ゲンチアナとアルペンローゼが発言する中、エーデルワイスはぴたりとジャムを塗る手が止まる。二人に視線を向けられ、エーデルワイスは居心地が悪くなった。
「ワイスはどう?」
「……わたしは……庭の花……綺麗に咲いてた薔薇の頭を、間違えて切り落とした……」
彼女が暗い顔をしている理由が発覚し、ゲンチアナとアルペンローゼは目を瞬く。
エーデルワイスは二人に比べるとまだまだ若く、漸く十歳になったばかりだった。だが十歳と言えば変転人の一人前だ。十歳になってまで失敗をする自分が、エーデルワイスは恥ずかしかった。
「何だ、そんなこと?」
そんな彼女の胸中などお構い無しに、ゲンチアナは笑ってスコーンを食べる。
アルペンローゼも紅茶が滴るスコーンを頬張り、何でもない風に言う。
「庭に幾つ花が咲いてると思ってるの? 一つ無くなったくらいでどうってことない。わざとじゃないんだから」
「そんなことより、人間の街に行って新しいレシピを仕入れて来たよ。わかりやすいよう絵も描いた。見て」
ゲンチアナはポケットに仕舞っていた数枚の紙を取り出し、広げて机に置く。作業の手順を書いた隣に丁寧に描かれた絵が添えられていた。
「絵が上手いなぁ、アナは」
「また人間の所に行ったの……? 危ないよ……」
城に従事する三人は城の仕事が手一杯で、人間の街に行く暇など無い。城外へ買物に行くこともあるが、精々城下町だ。人間の街への買物はミモザ達が纏めて行っている。
そのため人間と話す機会の無いエーデルワイスは、三人の中でも特に人間が苦手だった。変転人に似た姿形の未知の生物、そういう風に見ていた。
一番年上のゲンチアナは、人間を恐れない。彼女だけは仕事の合間を縫ってよく人間の街へ行き、新しく何かを学んで来る。よくそんな時間があるものだ。
アルペンローゼも仕事は普通に熟すが、人間の街へ行く程の余裕は無い。素直にゲンチアナを凄いと思う。レシピに目を通しながら、頭に叩き込む。
「フェル様は王だから、食事もやっぱり豪華でないと。それに街から出られないから、人間の流行りを取り入れて見せてあげるの」
「秘書の鑑だなぁ」
「何年生きてもアナみたいになれる気がしない……」
「ワイスは心配性だなぁ」
活発なゲンチアナと細かいことを気にしないアルペンローゼを見ていると、エーデルワイスは惨めになる。二人のように上手く仕事ができないのは年齢の所為ではなく、ただ能力が低いだけなのではないかと彼女は思う。
「じゃ、私はそろそろ仕事に戻るね」
「え、もう?」
ぱくぱくとスコーンを平らげ、ゲンチアナは足早に休憩室を出て行く。王の秘書を務めるゲンチアナはアルペンローゼとエーデルワイスよりも忙しい。
「私はもう一杯紅茶を飲んでから行く」
「アルはもう少し急いだ方が……」
「だって一杯目の紅茶はスコーンが飲んだ。私はあんまり飲んでない」
「アルって変なこと言うよね」
言いながらも二杯目の紅茶を淹れるアルペンローゼを見て、急がなくても良いのではとエーデルワイスも思ってしまった。
その後アルペンローゼに合わせて休憩室を出たエーデルワイスは後悔することになる。アルペンローゼの方が、仕事の手際が良いのだから。
毎日が仕事の繰り返しで多忙だが、城に居れば喰いっ逸れることは無く、気が置けない仲間もいるので三人に不満は無かった。元気なゲンチアナと変わり者のアルペンローゼ、そして不器用なエーデルワイスは補い合いながら日々を過ごしていた。
「ワイス……起きてる?」
そんな日々の中で、皆が寝静まった頃、胸元に常夜燈を掲げたアルペンローゼがエーデルワイスの部屋を訪ねた。下からぼんやりと照らされた顔が暗闇に浮かび上がる。
「っうわ……びっくりした……脅かさないでよアル」
「私は二十年以上生きてきて、初めて意義のあることを提案する」
「何……? こんな時間に?」
「気付いたんだけど、もうすぐアナの誕生日なの」
「へえ……そうなんだ」
「人間は誕生日を盛大に祝うらしい。アナはもうすぐ五十歳、凄くキリの良い数字だと思わない? 盛大に祝うことを提案する」
「こんな時間に……?」
「寝ようと思ったら思い付いた」
ベッドに入ると考え事をしてしまう。その覚えがあるエーデルワイスは理解したが、こんな時間にそれを言いに来るのは彼女だけだろう。
「話を聞くのは明日でいい?」
「まあちょっと聞いてよ。まずはケーキ。ケーキは大事」
彼女の話はすぐには終わらず、睡眠時間は大幅に削られた。
案の定翌日は仕事が上手くいかず、中庭の物干し縄の前でアルペンローゼは洗濯物に頭を突っ込んで転た寝し、エーデルワイスは綺麗な花の頭を幾つ花殻と間違えて切り落としてしまったかわからなかった。
「プレゼントの出来はどう? ワイス」
誕生日にはプレゼントも大事だとアルペンローゼは言う。だがエーデルワイスは何を贈れば良いのかわからず、アルペンローゼが提案した彫刻をすることにした。木を削り、形を作る。不器用なエーデルワイスには難しい作業だった。何故彫刻が選ばれたのかもわからなかった。
「私は完成した。元気な兎」
「…………」
少し歪だが、玄人ではないのでそこは愛嬌だ。だがそれ以上に、その兎は妙な形だった。
「兎って……長い耳がなかった?」
「難しかった」
耳の無い兎は兎には見えなかったが、アルペンローゼは誇らしげだった。
「わたしも鳥難しかった。歪な芋みたい……」
「大丈夫、目を付ければ何でも鳥」
「何でも?」
言われた通りに目を彫ると、それとなく生物には見えるようになった。
二人がこそこそと話しているとゲンチアナは気になって声を掛けるが、彼女を驚かせるために二人は誕生日の準備をしていることを直隠した。必死に誤魔化す二人をゲンチアナは不審に思ったが、言いたくないことなら無理に聞きはしない。
そしてゲンチアナの誕生日まであと数日となった時、二人は彼女が死んだと聞かされた。
驚かせるつもりが、驚かされてしまった。
死は嘆くものではない。情を抱くものではない。情は思考や行動を鈍らせる。死者を弔うことは許されない。死を振り返らず、新たな生を見よ。新たな生を迎えるために、振り返るな。――それが規則だ。
アルペンローゼとエーデルワイスは、彼女に渡すつもりだった何だかよくわからない木彫りを竈の火の中に放り込んだ。それを薪として燃やした。
二人が誕生日の相談をしている間、ゲンチアナは一人で絵を描いていた。何を描いていたのか、二人は知らない。あれが最後だったのに、知らないままもう会えなくなってしまった。その絵は何処に仕舞ったのか、見つけられなかった。
何故ゲンチアナが死んだのか、死因は聞かされなかった。二人は悲しみに暮れることもできず、新たなゲンチアナを迎えた。
新しい変転人に、先代のことを話してはならない。同じ種類の植物でも、人としての能力は異なる。能力を比較しないように、とのことだ。
……本当は、何歳でどのように死んだか、知らない方が良いからだ。同名の変転人が若くして死んだ場合、気にするなと言うのは無理な話だ。
新しいゲンチアナは真っ新で何も知らない。アルペンローゼとエーデルワイスは胸中を表には出さず、新しい灰色の彼の教育を請け負った。
アルペンローゼとエーデルワイスは十ほど年齢が離れている。エーデルワイスが知ることは無いが、アルペンローゼは先代のエーデルワイスの死も見ている。エーデルワイスは彼女が表情を曇らせている所を見たことがない。エーデルワイスは自分もそうあるべきだと、感情を胸の奥底へと仕舞った。
「――掃除より花の世話より、まずは紅茶の淹れ方を覚えないといけない。これを覚えないとフェル様に御披露目できない」
「はい」
生まれたばかりでまだ感情の乏しい灰色の少年のゲンチアナは淡々と返事をし、アルペンローゼが淹れて見せる紅茶の手順を覚える。
三人の中でゲンチアナの教育だけは特殊で、仕事を遣りながら覚えるアルペンローゼとエーデルワイスとは違う。ゲンチアナはある程度一人で仕事を熟せるようにならないと、王であるフェルニゲシュに顔見せできないことになっている。王の秘書はゲンチアナ一人だけだ。一人で熟して一人で最低限の問題を解決できなければ王に会わせられない。地位を与えるブローチを持つ者の宿命だ。
「でも紅茶の気分じゃ無い時もある。その時は臨機応変に用意して差し上げる」
「はい」
「食事も茶菓子もアナが全て用意する。……けど、酒だけは飲ませないように」
「はい。何故ですか?」
「規則だから。酒を嗜む人間は飲むと暴れることがあるらしい。獣はその限りじゃないと思うけど、念のためじゃないかな? もし獣が暴れたら変転人じゃどうにもできないし」
「そうなんですか」
エーデルワイスは教育をする気分ではなかったので、ゲンチアナの教育はアルペンローゼが任された。まるで誰も死んだことがないとでも言うように、アルペンローゼの表情には微塵も陰りが無かった。
だが二人切りになると、アルペンローゼはエーデルワイスを見上げてこう言って意地悪く笑った。
「私がいるのに寂しいの?」
「…………」
「アナを見ると辛いなら、私だけ見てればいい」
「でも……」
「私は心を壊してるから、平気」
「アル……」
アルペンローゼのように心を壊せば、平気だと言えるようになるのだろうか。
「ありがとう……」
悲しい気持ちはある。規則で封じられていても、心の中に蟠るものは消せない。
それでもアルペンローゼとエーデルワイスは前を向き、ゲンチアナもすくすくと育った。誕生日はもう祝う気になれなかったが。
「じゃーん、新しいレシピ」
休憩室で三人で御茶会をしながら、アルペンローゼは机に数枚の紙を置いた。
半分に割ったスコーンにゲンチアナはクロテッドクリームを軽く塗り、アルペンローゼは紅茶に浸し、エーデルワイスはクロテッドクリームとジャムを均等に塗る。
「人間の街で仕入れてきた」
「新作か? フェル様が喜んでくれたらいいけど」
「フェル様って好き嫌いあった?」
「……わからない。何を食べても表情が変わらなくて……完食はしてるから不味くはないと思ってるけど」
十歳を越えて一人前となったゲンチアナは、フェルニゲシュの食事を気遣っていた。王の食事は全てゲンチアナが用意しているが、何を食べても王は何も言わない。味を尋ねてみた時は『悪くない』や『美味しい』と何処か上の空で返事をするだけだ。折角なら美味しくあってほしいとゲンチアナは願うが、フェルニゲシュの好みはわからない。
「反応が無くても、好みをわかってこそ秘書なのか……」
「じゃあ試しに、凄く不味い物を出してみたら? いつもと顔の違いがわかるかも」
「できるか! 不敬にも程があるだろ」
「アナはまだ度胸が足りない」
「アルの度胸はぶっ飛んでる」
アルペンローゼはよくゲンチアナを揶揄って遊んでいる。巫山戯ているが二人の仲は良い。エーデルワイスはそこに中々入って行けなかった。顔も性別も色も違うゲンチアナは完全に別人で、何を話せば良いのかわからなかった。
「……あ。夕食の仕込みをしないと」
「え、もう?」
「このレシピは明日試す。預かってもいいか?」
「いいけど」
ばたばたと忙しなく、スコーンと紅茶を放り込んで口を動かしながらゲンチアナは休憩室を出て行く。食事作りに気合いが入っている。
「ワイス、私達も行こう」
「珍しいね。アルがそんなに真面目なんて」
「ちょっと気になる物を見つけたの。ワイスも来て」
「? あんまり時間が掛かることじゃなければ」
二人もスコーンを平らげて紅茶を流し、席を立った。
働いている振りをするために箒を持ち、二人は古城の一番奥にある塔へ向かう。階段を上がって人影が無いことを確認し、アルペンローゼに続いてエーデルワイスは駆け足で目的の部屋に入った。
「書庫の掃除を手伝えってこと?」
そこは圧迫感のある本棚が並ぶ書庫だった。書庫は滅多に立ち入る者がなく、掃除の手を抜いても見つからないので後に回しがちだ。
「掃除じゃなくて」
アルペンローゼはきょろきょろと辺りを見回し、本棚の間に入って行く。エーデルワイスは書庫に入るのは初めてではないが、掃除のために入るばかりで、どんな本が置かれているのかじっくりと見たことはない。
「アイト様が、暇だから本でも読みたいって言うから、見繕いに来たの。そこで気になる本を見つけた」
「アイト様、本なんて読むんだ」
「暇なんでしょ。適当に難しそうな本を渡しておいた」
目的の薄い本を見つけ、本棚から引き抜く。分厚い本の間に挟まれ見落としてしまいそうな薄っぺらい本をよく見つけたものだとエーデルワイスは感心する。
薄い本の表紙には何も書かれておらず、如何にも手作りという風に紐で綴じられていた。
「これ見て」
本を開くと、絵が描かれていた。見覚えのある筆触の絵だった。
「これって……」
「アナの絵に似てると思わない? ……あ、今のアナじゃなくて……前の」
言ってはいけないことだが、アルペンローゼは口元に人差し指を当て、内緒だと釘を刺す。それがエーデルワイスには嬉しかった。規則で封じられ、あのゲンチアナの話はもう二度とできないと思っていた。思い出話すら許されないのは悲しかった。あまりに口を滑らせないので、アルペンローゼはもうあのゲンチアナのことなんて忘れてしまったのだと思っていた。
「似てる。凄く。アナは絵が上手かった。文字も、筆跡も似てる」
「だよね。もしかしたら最後に描いてた絵なのかも。何処に仕舞ったのかわからなかったけど、まさかこんな所に隠してたなんてね」
「ねえ、何が描いてあるの?」
「少し見た感じだと、物語みたい。……だけど、それがちょっと引っ掛かるの」
「?」
エーデルワイスは早くそれが見たくて仕方無かったが、アルペンローゼの顔は浮かない。だがそれは一瞬だけで、アルペンローゼはもう一度辺りを見回し、誰もいないことを確認して絵本を開いた。
絵本は、黒い龍が人間を襲っている内容だった。人間に助けは無く、救いも無い。途中まで目を通すが、無慈悲な内容だった。
「凄い……ちゃんと御話になってる。アナは童話作家になれるよ」
「それはそうなんだけど、この黒い龍っていうのが気になるの」
「黒い龍は悪者だと思う」
「そうなんだけど……フェル様も黒い龍だなぁと思って」
「…………」
エーデルワイスの表情が凍り付く。確かにフェルニゲシュは龍属であり、髪も尾も黒い。黒龍だ。だが黒い龍はフェルニゲシュだけではない。何処に居るかは知らないが、龍は他にも存在する。
「ヴイーヴル様も龍だけど、黒くないでしょ? フェル様は昔悪いことをしてたって聞いたことがあるし、もしかしたらと思ったんだけど」
「だ、駄目だよ……アル」
エーデルワイスは絵本を閉じ、アルペンローゼの手を握る。
「獣の詮索はしてはいけない……規則だよ」
「そうなんだけど」
「もっ、もしかしたら、アナも何か詮索して……それで死刑に!?」
罪人を裁くのはブローチを所有する者達だけだ。変転人ではゲンチアナだけがブローチを持たされる。それ以外には誰が死刑になったかなど知らされることはない。
「落ち着いて、ワイス。アナが死んだ日、死刑の鐘は鳴ってない。滅多なことは言わない方がいいよ」
「……う、うん……」
確かに鐘の音は聞こえなかった。只の静かな昼下がりだった。
「絵本のね、ここ、最後の所を見て」
アルペンローゼはもう一度絵本を開き、最後の頁を捲る。
『人間は涙を呑みながら黒い龍に生贄を捧げた。私はその贄を全うする。アル、ワイス、黙っててごめんね』
自分の名前が出て来るとは思わず、エーデルワイスは目を瞠った。
「たぶん私達のことだと思うんだけど、城に代々仕えてる同名の人の可能性も……」
「アナだよ! これはアナがわたし達に……ねえ、贄って何? 贄を全う? アナは何をしたの?」
「……詳しいことはわからないけど、たぶん……規則違反になる。過去の詮索は規則違反だから……」
「アナも規則違反したの……?」
「これ、見られると凄く不味いことになると思う。今はまだ誰も気付いてないけど、ここにこの薄い本があることは誰か見てるかも。……だから」
アルペンローゼは最後の頁を躊躇い無く破いた。
「!」
それを丸めてポケットに捩じ込む。
「ワイスにも見せるべきじゃなかったと思う。でも名前があったから……ごめん」
「う……ううん! わたしは……嬉しいよ! 規則違反なら一緒にしよ! わたし、ずっと黙ってるから! 内緒にする。誰にも言わない。もし悪者になるなら、わたしだけでいい」
「悪者になるなら一人で悪者にはさせないけど……」
絵本を閉じて元の場所に戻し、アルペンローゼは困惑する。エーデルワイスがここまで喰い付くとは思わなかった。
「黒い龍がもしフェル様だとすると、アナはフェル様に殺されたことになる……と思う。この贄って奴が一度きりなのか、何度も行われてることかはわからない。けどゲンチアナは半分しか生きられないって零してるミモザを見掛けたの」
「それ……今のアナも危ない……?」
「この絵本を見る限り、アナは事前に贄のことを知ってた。ゲンチアナにだけ予め教えられることなのかも。今のアナはまだ十五歳だから、聞かされてないかもしれないけど」
「また突然死んだなんて聞かされるのは嫌だよ」
「うん。だから提案する。私達でアナを護ろう」
規則違反という秘密を抱え、二人はゲンチアナを護ることを決意した。
その僅か二日後に書庫のある塔が掃除不要となり、何か勘付かれたと二人は焦ったが、その他には何も変化は起こらなかった。毎日忙しなく仕事をし、御茶会も自由だった。ゲンチアナは何も知らずにフェルニゲシュの食事に頭を悩ませ、彼が去るとアルペンローゼとエーデルワイスは顔を突き合わせて彼の無事に胸を撫で下ろした。
ミモザの言う『半分』とはおそらく五十歳のことだ。変転人は姿形に然程変化は現れないが、凡そ百歳が寿命だ。その前に力尽きてしまう者も、百より長く生きる者もいるが、百を基準とすると半分は五十だ。先代のゲンチアナが死んだと告げられたのも、五十歳を目前とした時だった。
――なので護ると決めたゲンチアナが五十歳になった時、とても安堵した。二人はいつも見せないくらいの笑顔で喜び、嬉しかったので『誕生日おめでとう』と言った。
そんなに喜ばれたのは初めてだったので、ゲンチアナは擽ったく思いながらも二人が何か企んでいるのではないかと警戒した。
「何か企んでるとしか……」
「五十歳は盛大に祝うものと決まってるの」
「アルとワイスの五十歳は?」
「とっくに過ぎた」
「だったら教えろよ、誕生日」
「教えたって五十歳はもう戻らない。大人しく祝われるといい。山積みのスコーンで」
「せめてケーキとか……」
「何処でケーキなんて覚えてきたの?」
「フェル様のティータイムを充実させるためだ」
「…………」
そう言われると複雑である。知らない方が今は幸せだろう。ゲンチアナには絵本のことは知られないよう、アルペンローゼとエーデルワイスは口を噤んだ。
ゲンチアナが五十歳を迎え、更に一年も経つと、もう何も起こらないのではないかと気が緩んできた。必ずそれが起こるとは限らないのだ。仕事の合間にゲンチアナの様子をこっそりと窺っているが、何かが起こる気配は無い。
ゲンチアナを見張ることは、然程苦労はしなかった。アルペンローゼとエーデルワイスはもう充分仕事が手慣れ、失敗もしない。
そしてアルペンローゼとエーデルワイスの潜む能力は格段に上がった。幾ら仕事をきちんと熟しているとは言え遊んでいると見られ兼ねないので、獣に見つからないよう警戒も忘れない。
ゲンチアナが五十歳になり数年が経った頃、突然歯車が動き出した。掃除不要で、用がない限り入るなと緩く立ち入りを禁じられた塔にゲンチアナが向かったのだ。
それを見ていたアルペンローゼは直ちにエーデルワイスを連れ、立ち入り禁止の塔へ侵入した。
「何のためにここに……? でも、アナ一人しかいないし、話を聞けるんじゃない?」
「ワイス。見えてないだけで、獣の目は何処にあるかわからないの。焦らず様子を見るのよ」
「……わかった」
アルペンローゼはこういう時、冷静だ。エーデルワイスは周囲を警戒しながら頷く。
ゲンチアナは一人で窓の無い塔の上まで登る。階段の先には扉がある。そこは塔が立ち入り禁止となる前から錠で閉ざされていた扉だった。
「アルはこの先、行ったことがある?」
「無い……。鍵が閉まってるドアは掃除しなくていいって言われてたし」
「ちょっと怖いね」
「いいよ、ワイスは戻っても」
「今更除け者にしないでよ」
背中を小突き、不服を表す。アルペンローゼは口元に笑みを浮かべ、扉の中へ入った。エーデルワイスも続く。
扉の先にも窓は無く、疎らに灯りはあるが暗い。常夜燈を出したい所だが、そんな物を出せば気付かれる。ゲンチアナの常夜燈の光を頼りに前へ進んだ。
――おかしい。二人は違和感にすぐに気付いた。庭から見上げた時、塔の上に横に伸びる通路など無かった。獣の仕業だろう、空間が歪められている。
やがて開けた場所に出たが、アルペンローゼとエーデルワイスは慌てて柱の陰に潜んだ。広間にはヴイーヴルが背を向けて立っていた。ヴイーヴルは片手に杖を持ち、ゲンチアナに気付いて振り返って招く。そして少し言葉を交わした後、くるりと杖を回して姿を消した。
「!」
転送されては追うことができない。他に誰もいないことを確認し、アルペンローゼとエーデルワイスは陰から飛び出した。
「どうしよう、アル……。アナは何処に行ったの?」
「何か変……」
「アルが変って言うなら、余程変なんだろうな……」
「転送なら何処にいたってできるのに、わざわざこんな所に来て転送する意味は何?」
「え……ここじゃないと行けないとか?」
「ワイス実は頭いい?」
「そう?」
「ここからじゃ行けない特殊な場所なら追える。まずは私が転送するから、ワイスは様子を見てて。転送先に何があるかわからないから」
「それ、アルが危険なんじゃないの? 十秒くらいなら様子を見てあげるけど」
「短いな。じゃあ一分にしよう。一分で安全を確保する」
「まさかヴイーヴル様と戦うことにならないよね?」
「それは無いと思うけど……ヴイーヴル様はあの性格だし」
城の中でヴイーヴルはいつもびくびくと腰が低い。あんなに怯えていて戦えるはずがない。
「何も無かったら安心するだけだし、とりあえず行ってくるよ。一分、御利口で待つのよ、ワイス」
アルペンローゼはエーデルワイスを抱き締める。
温もりを確かめ合ってアルペンローゼはエーデルワイスから離れ、黒い傘を掌から引き抜いた。
「いってらっしゃい、アル」
一歩下がって小さく手を振り見送る。不安はあるが、然程心配はなかった。アルペンローゼを信頼している。
懐中時計を取り出し、エーデルワイスはしんとする広間で暫し無言で待つ。
何もせずに待つ一分は異様に永く感じた。
(……一分、経ったよね)
掌から灰色の傘を抜く。
くるりと傘を回して転瞬の間に、知らない景色へと視界が切り替わる。痩せた黒い木が立ち並ぶ森のようだった。
きっと、何も知らないままが幸せだったのだろう。
「――アル!」
叫んだつもりだったが、声は出ていなかった。エーデルワイスは何かに強く口を塞がれ、声が出せなかった。
城の中はとても平和だった。多忙だが、平穏だった。変わり映えしない毎日があり、争うことも無かった。
故に武器を持って戦う機会など無かった。戦闘することが無くとも武器を生成することはできるし、戦うために体を動かすこともできる。だが実戦の経験だけは無かった。
平穏に身を置く彼女達は脅威に対して鈍かった。
薄闇の中で獣に囲まれた二人の姿が見えた。
奥に見える黒い人影は咆哮を上げる。ゲンチアナは虚ろな目をして地面から遠く空中にぶら下がっていた。黒い木の根のように見える物が黒い火の粉のような物を散らし、体に無数に突き刺さって鮮血が滴っている。
両刃のレイピアを手に飛び掛かったアルペンローゼは木の根のような物に殴られ、地面に叩き付けられる。何度も飛び掛かるが、小さな虫を叩き落とすように地面に戻され歯が立たない。遂には地面に叩き付けられたまま、ぐしゃりと叩き潰された。
「アル! アル……!」
叫んでいるつもりだった。メイスを抜いて振り上げるが、押さえつけられたまま地面を滑るように距離が開く。離れたいわけじゃない。近付きたいのに、近付けない。
「――一旦外に出る。後は頼む」
「まさかこんなことになるとは……こうなるとワイスちゃんも心配だし、任せるよ」
「わ、私は尾行されてないですよ……? た……たぶん……ですけど……」
「あーあ。潰れた子はまだ息がある?」
「さあ? 苦しまないよう早くとどめを刺した方が」
動揺は微かにあるが冷静な獣の声が遠ざかる。エーデルワイスの視界は再び切り替わり、元の広間へと戻った。
「……何処で嗅ぎつけたんだろうな」
口を覆っていた手が漸く離れ、エーデルワイスは跳び退いた。
「よくも……よくもアルとアナを! 獣共が!」
「落ち着け……と言っても無理だろうな。君まであそこに入って来たことに、幸い誰も気付いてない。アルに気を取られていたからな。知られると君も処分される」
「殺してやる……! あなたも、獣は皆! わたし達はあなた達のために働いてきた! なのに……なのに何で殺されないといけない!?」
「誤解だ。アルは殺すつもりなんて無かった。だが見られたからには生かしておけない。特級の規則違反だ」
「何が規則違反よ! 前のアナも、こうやって殺したんでしょ!? 贄が何!? 何のためにこんな……!」
「贄……。はあ……何処から漏れたんだろうな。そこまで知っているのか。――君まで殺すのは可哀想だ。と言うより、三人同時に失えば城の仕事が回らなくなる」
「誰があなた達のために働くの!? わたしはもう、あなた達の言いなりには」
「ここで言い合っていたら、あいつらと鉢合わせる。早く終わらせよう。君には生きてもらう。だが、ペラペラと話されても困る」
「死ね! ズラトロク――」
メイスを振り上げるが、それは彼には届かなかった。彼がサーベルのような形の杖を振ると、エーデルワイスの喉から鮮血が迸った。
「――!」
声は出なかった。
喉を押さえるが、血は止まらなかった。頭に上っていた血が枯渇する。痛みで狂ってしまいそうだった。
「声帯を潰した。可哀想に、手当てをしよう」
失血の所為で意識が朦朧とし、伸ばされた手がぼやける。きっと二人と同じように殺される。そう思いながらエーデルワイスの意識は闇に落ちた。
目が覚めた時、そこはベッドの上だった。この天井は何処だっただろうか。そうぼんやりと考えて体を動かそうとし、動かないことで思い出した。何故死んでいないのかわからなかった。もしかしたら死んでいて、気付いていないだけなのかもしれない。
「目を覚ましたか」
ベッドの上に縛られて動けないエーデルワイスの視界に、シャモアの角が生えた男が顔を出す。
「眠らせている間に、こっちの処理は終わった。君の喉はもう暫く痛むだろうが、治らない怪我じゃない。だが声はもう二度と出せない」
「…………」
「声が出せないからと言って、何も伝えられないわけじゃない。君が余計なことをしないよう、俺が見張ることにした。そう固く考えなくていい。見張ると言っても傍にいるだけで、今まで通り自由にすればいい」
「…………」
「……アルが飛び込んで来たのは想定外だった。あの状態のフェルニゲシュは見境が無い。俺達でも近付くのが危険なんだ。君はアルを追って来たのか? 本来なら何も残すべきじゃないんだが、ゲンチアナはともかくアルは事故だ。処分される前にこっそりこれを拾ったんだが、いらないなら捨ててくれ」
捩じ切れそうな痛みで首を動かせないが、手に握らされた物は視界の隅に映った。アルペンローゼが髪に結んでいた黒いリボンだった。
「…………」
エーデルワイスの双眸から涙が伝う。声が出ず、泣き喚くこともできない。名前を呼ぶこともできない。こんなに悔しいことはなかった。
「数日後に新しいゲンチアナとアルペンローゼを連れて来るが、このことは話さない方がいい。規則違反で全員死ぬことになる」
「…………」
「そんな状態じゃ喋れないから、アルファベット表を用意した。視線を向けてくれれば読み取る。何か質問があるなら、一つだけ答えてやる」
視界から消え、ズラトロクは一枚の紙を持って戻って来る。
聞きたいことは山程あった。たった一つでは納得できない。何故二人が死ななければならないのか、何を言われても納得なんてできなかった。
『……アルだけでも……戻って来てほしかった』
「…………」
質問ではない言葉が零れ、ズラトロクは紙を引いた。まだ質問できる状態ではないらしい。……いや、憎しみに力を向けるより、喪失感が勝ってしまったようだ。
「特別に一つ教えてやる。ゲンチアナには情を移すな。ゲンチアナは死ぬために生まれる。只の道具だ。助けることはできない」
無情な言葉だった。何もかも夢だと思いたかった。涙は零れるのに、もう彼女の名前を零すことはできない。あの抱擁が、彼女に触れた最後となってしまった。
二人が死んでも、城の中は何も変わらなかった。ただ暫くはミモザだけで仕事を熟さねばならず、ミモザは大変そうだった。
エーデルワイスの首の負傷は、花鋏でうっかり傷付けたということになった。獣達はそれを疑わなかったが、信じたかはわからない。
エーデルワイスの傷が癒えると、まずは新しいアルペンローゼが城に来た。彼女が共に過ごしたアルペンローゼとは全くの別人だった。別の根なので当然ではあるが。新しいアルペンローゼは少女ですらなく、容貌は整っているが少年の姿だった。左の目元に、彼女には無かった黒子がある。
アルペンローゼの教育中はズラトロクもあまり傍に寄らなかったが、エーデルワイスはあの出来事を彼に伝えなかった。伝えた所で、生まれたばかりのアルペンローゼには何も理解できない。感情も乏しいのだから。
エーデルワイスは新しいアルペンローゼに紅茶の淹れ方を教え、スコーンの焼き方を教えた。掃除や花の世話などどうでもいい。
アルペンローゼはとても熱心にエーデルワイスの手元を見ていた。そして物覚えが良かった。一度見ただけで殆どの手順を覚えてしまう程に。
「茶葉によって蒸らす時間が異なるのか……全部試すのは大変そうだ」
『あまり気にしなくていい。どうでも』
まだ喪失感を引き摺るエーデルワイスは、投げ遣りに紙に言葉を書く。獣に出す紅茶など、どうでも良かった。
無言の御茶会は空虚に感じた。半分に割ったスコーンにエーデルワイスはクロテッドクリームとジャムを塗り、アルペンローゼも見様見真似で塗ろうとする。
「…………」
エーデルワイスは無意識に立ち上がってアルペンローゼの手を掴んでいた。彼が手に持つスコーンを紅茶に沈める。
「あの……」
アルペンローゼは困惑するが、見上げた彼女が泣きそうな顔をしていたので、それ以上は声を出せなかった。
『アルはこうするの』
「……はい」
どちらの食べ方が正しいのか、アルペンローゼは知らない。だが折角教えてもらった食べ方だ。エーデルワイスとは違う食べ方でも疑問は口にせず、紅茶の滴るそれを頬張った。
「こういう時は、美味しいと言えばいいのか?」
『もっと高い声で』
「高い声?」
『女の子らしく』
「そんな無茶な……」
『知ってる』
「まさかこれは、冗談……?」
「…………」
エーデルワイスは席に座り、スコーンを齧る。怪訝な顔をするアルペンローゼは放っておく。
もうあのアルペンローゼはいないのだと嚥下した。彼に求めても何も返って来ない。
「まだ知らないことが多いので、色々教えてください。力になれるよう、努力するから」
これ以上彼に言っても八つ当たりにしかならないだろう。それに気付いて、エーデルワイスはスコーンを平らげ紅茶を飲み干し立ち上がった。
(アナが道具なんて嫌……アナは助ける。……アルも、護らなきゃ……)
そのために獣を殺す。変転人の手で殺せるかわからないが、虎視眈々と機会を窺う。そう誓ってエーデルワイスは感情を殺して休憩室を後にした。




