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透明街の人喰い獏 (2)  作者: 葉里ノイ


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168-報告と成果


 金瘡小草(キランソウ)が襲われ急ぎ離脱した一行は、彼女に止血を施してから脱兎の如く宵街(よいまち)に逃げ帰った。奇襲を掛けた敵が追って来るかもしれないからだ。下手に留まって宵街まで追われたくない。

 (しん)椒図(しょうず)が交互に転送を行い、長時間の飛行機の中では金瘡小草を励ました。見慣れた赤い酸漿提灯が並ぶ石段に戻ってからも走り、病院へ飛び込んだ。

「ヒメさん、急患!」

「は、はい?」

 騒々しく駆け込んで来た獣達に、受付に座っていた姫女苑(ヒメジョオン)は何事かと身を乗り出して確認する。

「そのまま治療室に運んでください」

 姫女苑もラクタヴィージャ程ではないが、病院の勤続年数は長い。怪我人を見ても冷静だ。

 (ばく)達は治療室に金瘡小草を運び、遅れて遣って来たラクタヴィージャに追い出される。

「すぐに治療するけど、着替える時間は充分あるわよ」

 静かにドアが閉まり、三人は立ち尽くした。とりあえず工房へ行き、動き難い服を着替えることにする。

 病院と工房は近い。一旦石段へ出て少し下り、また横道に入る。

 工房では相変わらず狻猊(さんげい)がぷかぷかと煙草を吹かせていた。

「――お。戻って来たのか」

「着替える……」

 三人は疲れた顔で、よろよろと奥の部屋へ向かう。蜃は手に持っていた赤い薔薇を机に置いた。

「お、おう? 大変だったみたいだな……?」

 土産だろうかと狻猊はとりあえずコップに水を汲んだ。

 三人は重い手足を持ち上げてのろのろと着替え、狻猊のいる部屋へと戻る。落ちるように椅子に座り、それぞれ大きく溜息を吐いた。

「お疲れ」

 長旅を差し引いても疲労が濃い。狻猊も様子を窺いながら労う。蜃と椒図の髪はそのままで、獏も動物面を付けるのを忘れている。余程疲れているようだ。

「……あ、そうだ狻猊……」

「何だ?」

「カメラ、無くした」

 最後の奇襲で、金瘡小草が首に提げていたカメラを落とした。それに獏達が気付いたのは、花街(はなまち)から出て彼女の止血をしている時だった。取りに戻るのは危険なので、そのまま置いて来た。

「構わないが、燥ぎ過ぎたか?」

「楽しそうに見える?」

「……や、全然」

「ヒントも貰ったんだけどなぁ……まあしょうがないよね。命あっての物種だし」

「? 大変だったのはわかった」

 狻猊は硝子の灰皿に煙草を置き、奥の部屋へ行く。脱ぎっぱなしの服を片付けるのだ。獏の言葉は少しばかり物騒で、服が破れていないか心配になった。

 狻猊を待つ間に獏は動物面を思い出して顔を覆う。視界は狭くなるが、やはり顔を覆うと安心する。

「……大丈夫? 二人共」

 明らかに獏よりも疲れている椒図と蜃を窺う。

「大丈夫だ。だが、こんなに大急ぎで連続して転送を行ったのは初めてかもしれない……」

「俺も……」

 交互に転送したとは言え、転送は一瞬だ。休む時間など殆ど無い。

「何だったんだろうね、最後の。追って来なかったから良かったけど」

「ズラトロクだとしたら、行動の意図がまるでわからないが」

「だよねぇ」

 今は頭を動かすことも億劫だ。旅行とはこうも疲れるものらしい。世界中を旅していた浅葱斑(アサギマダラ)が急に偉大な存在に思えた。

「――おい、獏」

 奥の部屋から顔を出した狻猊が小さな紙切れを持った手を上げ、獏は重い頭をゆっくりとそちらへ向けた。

「お前の服のポケットに何か入ってたぞ。ゴミか?」

「ん……? 何か入れたっけ?」

 小さく折り畳まれたそれを受け取っても覚えは無く、首を傾げながら紙を開く。


『人間は涙を呑みながら黒い龍に生贄を捧げた』


 走り書きでそれだけが書かれていたが、それだけで充分だった。疲労感も忘れて獏は腰を浮かせてしまう。

「ね、ねえ! これ!」

 傍らの椒図の肩を掴み、紙を見せる。だが彼は眉を顰めただけだった。

「すまない……僕には読めない」

「あ」

 翻訳機が必要なのだと気付き、獏は自分の耳に付けていたカフスを椒図の耳に装着した。途端に読めるようになった言葉に椒図も微かに目を見開く。

 見覚えのある文章だった。古城の書庫で見つけた絵本に書かれていた一文と同じだ。しかも破れて読めなかった先がある。

「誰がこれを……?」

「わからない……あっ、アルさんに見てもらえば、筆跡でわかるかも!」

「……蜃は疲れているから、僕が転送するよ」

 座ったまま杖を召喚し、それを支えに立ち上がる。蜃に手を差し出すとしっかりと掴んだので、三人で獏の牢へ行くことにした。

「お前ら、狴犴(へいかん)の所には行かなくていいのか? どうせまだ報告に行ってないんだろ?」

 着替えてから科刑所に行くのかと思えば、雲行きが怪しい。狴犴に許可を貰って花街へ行ったのだから、先に報告すべきだろう。狻猊はいつも情報の取得が遅れるが、統治者の狴犴はそういうわけにはいかない。

「えっと……これは、凄く大事なことなの! 情報の裏付けをして、狴犴に話すから! 最低限、必要なことなの!」

「……最低限、必要……そうか。そりゃ正しい情報を報告する方がいいよな……確かに」

 狻猊はすぐに丸め込める。素直で良い奴だ。詐欺に遭わないことを祈る。

 三人は慌ただしく工房を後にし、獏の牢へと姿を消した。

 暗い小さな街の石畳に降り立ち、獏を先頭に古物店へ駆け込む。疲れたなどと言っている場合ではない。

 一階に姿が見えないので、二階へ駆け上がる。ドアを軽く叩くと、中からアルペンローゼが怪訝な顔を覗かせた。

「お帰りなさいませ」

「た、ただいま! これ見て!」

「?」

「これ、誰が書いたかわかる?」

 細かい折り目が付いた紙切れを受け取り、アルペンローゼは文字を確認する。言葉の意味は理解できなかったが、筆跡には見覚えがあった。

「少し自信がありませんが、エーデルワイスだと思います」

「!」

 獏と椒図と蜃は顔を見合わせ、当惑と薄ら寒さを綯い交ぜにする。エーデルワイスは変転人だ。幾ら無色であろうと、変転人が獣に気付かれずにポケットに手を忍ばせられるのだろうか。

「何で自信が無いの?」

「ワイスとは仕事を共にしたことが無くて、今は文字を見る機会があまり無いんです。僕が未熟な頃はよく目にしていたんですが」

「そうなんだ……。エーデルワイスは、気配を消すのが上手いの?」

「会ったんですか?」

「うん。話はできなかったけど。ズラトロクとは話せたよ。何も教えてくれなかったけどさ」

 飄々としているズラトロクの顔を思い出し、獏は剥れた。カメラを紛失したので、結局ヒントも無しだ。口頭で言ってくれていれば、こんな思いはしなかったのに。

「ワイスと話はできませんよ。彼女は声を出せないので」

「え……?」

「ワイスは気配を消すのが上手いでしょう? 音を持たないと言った方がいいかもしれませんね。獣をも騙すので。僕の治癒力が常人より少し高いのと同じように、彼女は忍ぶこと――暗殺に特化しています」

 エーデルワイスもアルペンローゼのように特殊な変転人らしい。その所為で声を出せないのか、声が出せないから気配を消せるのか。話せない代わりに紙に書いて忍ばせたようだ。

「暗殺はちょっと物騒だね……。そういうのは言っても大丈夫なの?」

「彼女が今から貴方を殺すと宣言したとしても、貴方は逃れられません。なので言っても何の問題もありません」

「え……」

 変転人が獣に殺される例は無いわけではないが、多くはない。アルペンローゼが冗談を言っているようには見えないが、口では何とでも言える。はったりかもしれない。

「……この文章、書庫にあった絵本に書かれてたんだ。でも最後は破れてて、それを見たズラトロクは、これだと規則違反にはならないって言った。エーデルワイスは破れた部分のことも書いてる。彼女は規則違反を知ってるってことだよね? 何で教えてくれたのかな?」

「…………」

 アルペンローゼは紙切れに視線を落とし、ベッドの上のゲンチアナへ一瞬意識を向けた。

「外で話しましょう」

 獏達を促し、アルペンローゼは部屋を出てドアを閉める。とんでもない物を持ち帰って来たようだ。

「収穫はありましたか?」

 階段を下りながら、彼は淡々と問う。

「収穫って程の物は無かったかなぁ。フェルには会えなかったし、ズラトロクも何も教えてくれなかったし。疑問が増えただけって感じかな」

「そうですか」

 一階で話すのかと思いきや、アルペンローゼはそのまま店の外へ出てしまった。外に出てもまだ止まらず、一軒分横へ移動する。

「まだ離れるの?」

「規則違反をするなら、僕一人で充分です」

 漸く立ち止まり、アルペンローゼは涼やかに振り向いた。彼は規則違反の絵本など知らない。

「規則違反は事によっては死刑に直結します。貴方達は厳重に絡み付かせた城の規則を甘く見ています。安易な発言で地獄に叩き落とす自覚を持ってください」

 淡々としているが、全ての疲労が吹き飛ぶような言葉だった。花街の規則は高が規則ではない。命を懸けるものだ。拷問を受けて頑なに口を閉ざしたアルペンローゼはただ変転人と言うだけではなく、その規則の非情さを知っているからこそ閉口した。

「……これ以上この話をしなかったとしても、違反になる……?」

「なります。ですが、この規則を知る人に聞かれなければ、罪に気付かれることはありません」

「…………」

「いいですよ。無邪気に話していただいても。アナを巻き込まないなら、話を聞きます」

 胸元に手を当て、アルペンローゼは静かに頭を下げる。黒所属の彼は多少の違反なら目を瞑ってくれる。

 獏達は顔を見合わせ、周囲を見渡す。この牢に他に気配は無い。誰もいないはずだ。規則違反だなんて、もっと軽いものだと思っていた。最悪でも反省室に入れられるだけ、というような認識だった。まさか死刑になるとは思わない。誰かを殺したわけでも、危害を加えたわけでもない、ただ話をするだけで死刑になるなんて。ズラトロクも死を仄めかしていたが、それは不審者に対する脅しだと思っていた。

「書庫と言ってましたね。立ち入り禁止の塔へ行ったのなら、墓地を見たんですか?」

 今から話すことにどれだけの規則違反が含まれるのか。アルペンローゼはチェスの攻防のように緊張感と高揚感を滲ませる。下手を打つと死ぬかもしれない違反など今まで犯したことがない彼は、危険だとわかっていても悪戯をする子供のような気分を味わっていた。今まで大人しく規則を守ってきたが、黒い根は『良い子』ではないのかもしれない。

「軽率に話せる空気じゃ無くなったんだけど……」

「僕も知りたいんです。規則違反になることを、何故ワイスが知っているのか」

「それは……。何でだろ……ズラトロクが話した? でも話せばズラトロクが規則違反になるんだよね?」

 花街の古城は一枚岩では無い。そのことが浮き彫りになった気がした。表立っては言わないが、もしかすると他にも違反していることがあるかもしれない。黙っていれば誰も気付かないのだから。ズラトロクも『秩序なんて無い』と呟いていた。

「獏、話してみよう。この変転人が危険に晒されるなら、僕達が護ればいい」

「簡単に言うけどね……」

「僕はあのズラトロクとか言う獣は好かない。敵対するなら僕が相手する」

「一発殴りたいだけでしょ?」

 蜃を狙われ、椒図はまだ熱が冷めていない。敵になるなら何も気にすることなく好きなだけ殴ることができる。

 アルペンローゼも話すのを待っている。蜃は、好きにさせておけば良いと思っているので、煮え切らないのは獏だけだ。

「絵本と言ってましたね。どんな絵本なんですか?」

 覚悟を決めた彼を無下にすることもできなかった。椒図の言うことも一理ある。

 半ば流されるように、獏は話すことにした。動物面で顔を隠していながら、優しい躊躇は漏れ出ている。変転人にも手に取るようにわかるくらい、わかりやすい。

「……絵本は、手作りなんだけど、黒い龍が人間を虐げてたって話。ズラトロクが意味深なこと言ってた。今のアナより前にいたゲンチアナが絵が上手かった、って」

「過去にいたゲンチアナがその絵本を描いたと? その内容が規則違反なんですか?」

「そうみたいだね」

「それをワイスが知っている……。ワイスが城に来た時にいたゲンチアナなのかもしれません」

「書庫の本は一番新しい物でも六十年くらい前だったよ。エーデルワイスは六十年以上、城にいるの?」

「ええ。ワイスは確か……今は九十七歳です」

「きゅっ、九十!?」

 獏と蜃と椒図は口々に驚愕した。変転人の寿命は百歳前後だが、宵街では無色は獣に危険な仕事を依頼されるため長くは生きられない。

 花街では長生きは珍しいことではないのかもしれない。

「はい。なので僕が知らないことも、知っている可能性があります」

「確かに凄く戦い慣れてるって感じだった……」

「戦ったんですか? よく御無事で」

「ズラトロクが途中で止めに入ったからね。こっそり暗殺じゃなくてもそんなに強いの?」

「獣の首を狩ったことがあるとか」

「え……」

 はったりだと思っていたが、ここまで言葉を重ねるなら真実なのかもしれない。城の地下で彼女の奇襲を受けた時、ズラトロクは注意を逸らすためと言っていた。もし彼女が本気なら、誰かの首が落ちていたのかもしれない。

「ワイスが書いたこの文は、全てが規則違反に当たりますか?」

「破れて読めなかったのは最後だけだよ。生贄を捧げた、って所」

「生贄……。規則違反とするなら、実際に起こったことの比喩か、そのままの意味か、でしょうね。僕には心当たりはありませんが……」

「あ、もう一つ言っておこうと思ってたことがあるんだ」

「何でしょうか?」

「フェルに書いてもらった招待状なんだけど、無効だって言われたよ。フェルは一時的に王の権能を剥奪されてるって」

「!?」

「それ僕達に言っちゃ不味いんじゃないかなーって言ったんだけど、宵街側だからいいって。けど本音はたぶん、話を聞いてほしかったんじゃないかなって思ってる」

「……そうですね。宵街側とは言え、話せばリスクがあります」

「それから、ここにアルさんとアナさんがいることもバレちゃったよ。アナさんは戻って来い、だって。フェルは反省させたから、だってさ」

「アナを追い出したから、フェル様の権能は剥奪された……? こんなことは初めてです。ですが戻って来いと言われると、アナは帰すべきでしょうね。フェル様の権能が無い今は、ロク様に逆らえません」

「何だかムズムズするよね。ズラトロクは味方みたいな雰囲気を出してたけど、どうも胡散臭いと言うか、信用できないと言うか……」

「ロク様は男性とは話さないと言うだけで、問題を起こすような人ではないですよ」

「そうかなぁ……ズラトロクに言われて墓地は撮ったけど、結局カメラを無くして何もわからずだし……」

「写真を撮ったんですか」

「撮ったけど、誰かに襲われてカメラを落として来ちゃったんだよ」

「カメラだけですか?」

「ん? うん。カメラを持ってもらってた人は怪我をしたけど、離脱しても追って来なかった」

「カメラに何か良くないものが写ってしまったのかもしれませんね。僕には、わざとカメラを狙ったように思えます」

「…………」

 カメラを置いて来たのは悪手だったようだ。だとしても手遅れだ。今すぐ戻ったとしてももう壊されているだろう。

「……あ、そうだ。ズラトロクから君に伝言があったんだった」

「ロク様から……? 何でしょうか?」

「ゲンチアナとは係わるな、だって」

「…………」

 同じ城で働く同僚と係わるなとはどういう意味なのか。アルペンローゼには意図が判然としなかった。

「他には何か?」

「僕も聞きたかったけど、それ以上は何も。君に言えばわかるのかと思ったけど、説明不足みたいだね。今度会ったら、男性にもちゃんと説明しろって言うといいよ」

「……はい。考えておきます」

 もし獏達が持ち帰った情報の中に規則違反が含まれているなら、ゲンチアナには話すなという意味にも取れる。現に規則違反の紙を忍ばせられている。それがもしズラトロクの指示だとしたら話は繋がる。アルペンローゼにとっても規則違反になるのだが、男嫌いのズラトロクの伝言だということが言葉を複雑にしている。

「じゃあ話は一旦ここまでにしよう。そろそろ宵街に報告しに行くよ」

「では僕は待ってます。アナには城に帰ってもらいますが……怪我の具合を聞いてからですね」

「ズラトロクは反省してるって言ってたけど、フェルは帰って来るなって言ってるんでしょ? いいの?」

「状況がわからないので、変転人の僕はロク様の言葉を信じるしかありません。アナが戻りたくないと言うなら一考しますが」

「そっか……君がそう言うなら。アルさんはまだここに居てよね。まだ話し足りないし」

「承知しました」

 少し目を伏せ、アルペンローゼは踵を返す。規則違反を犯すことになっても、彼は毅然としている。

「――そうそう、君を殺せって言う手紙はズラトロクに預けて来たよ。直接問い質すって」

 店に入ろうとする背に声を掛ける。アルペンローゼはぴたりと足を止め、驚いて目を丸くした。

「……まさか手紙を持って行っていたとは……そこまでしていただけるとは思ってなかったです。何と感謝すればいいか」

「ふふ……僕と話してくれれば、それでいいよ」

 手を振りながら転送で姿を消す獏に、アルペンローゼは頭を下げる。アルペンローゼの問題は宵街には関係が無いことのはずなのに。その気遣いには応えたい。彼はそう思いながら店に入った。

 獏達は宵街に戻り、嫌々ながら科刑所へと向かった。疲労の所為ではなく、石段を上がる足が重い。

 淡い色を落とす型板硝子の窓がぽつりぽつりと並ぶ暗い廊下を歩き、狴犴の部屋の扉を叩く。代表して椒図が呼び掛けると、中から「入れ」と返事があった。

 白花苧環(シロバナオダマキ)は入院中なので、狴犴は奥の自席に一人で座っていた。書類を置き、顔を上げる。

 椒図と蜃が部屋に入るのを、獏は廊下で停止して見送ってしまう。部屋に足を踏み入れても良いのか考える。

「獏も入室できるようにした。入れ」

「……本当? 烙印が痛くならない?」

「さっさと入って扉を閉めろ」

 狴犴の部屋は罪人が入れないよう細工されている。その痛みを知る獏は、半信半疑のまま恐る恐る部屋に爪先を滑らせた。痛みを感じず安心するが、こういうことがあるから科刑所に来るのは嫌なのだ。

 三人が部屋に入った所を見計らい、狴犴は各々の顔を確認して口を開く。

「問題は起こさなかったか?」

 開口一番それとは、獏達は信用が無い。観光と偵察で花街に迷惑を掛けなかったか、狴犴はそれが一番心配のようだ。

「ズラトロクに接触した。あいつは嫌いだ」

「……椒図?」

 椒図も開口一番、自分の意思を伝えた。地下牢に収容されていた頃の椒図は寡黙で狴犴とも言葉を交わすことが無かったが、ここまではっきりと嫌悪を伝えられて狴犴も困惑した。

「勝手に城に侵入したのは僕達だが、話もせずに不意を衝いて殺そうとするのはどうかと思う」

「話ができなかったのか?」

 友達のことになると饒舌になる椒図に、狴犴も話を合わせておく。椒図が話すのならと、獏と蜃は無言で立っている。

「話はしてくれた。だが僕の機嫌が悪くて、あまり話を聞けなかった」

「……そうか。客観的に自己を見詰められるなら、今後は冷静になれるだろう」

 多少の反省はするが嫌悪が消せるわけではなく、椒図は苛立ちながらも正直に話した。狴犴は獏と蜃を一瞥し、問題を起こしたらしいと察する。

「何か気になることはあったか? 報告書は提出してもらうが、喫緊の情報があれば話してほしい」

「え……また報告書……?」

「当然だ」

 不満げな獏に、狴犴は白紙の束を取り出す。何枚でも構わないと無言の圧を掛ける。

「金瘡小草は新人教育に戻ったのか? 報告にも同席してほしかったが」

「キランさんは怪我をして病院だよ。持ってたカメラを狙われたんだと思う」

「……そうか。金瘡小草でも負傷するか……。そのカメラとやらはどうなった?」

「カメラは落として来ちゃったよ。……もしかして、カメラを知らない?」

「知っている。映像記録装置だろう?」

「実物は見たことない、って所かな。映像じゃなくて、今回は写真だよ」

「…………」

「カメラにヒントを撮ったけど、無くしたから情報もお預けだよ」

「金瘡小草は話せる状態か?」

「痛みでそれどころじゃないけど、意識はあるよ。治療が終わったら話せるかも」

「だったら話を聞いておけ」

 狴犴は机に置いた白紙を指で叩くが、獏は受け取る気にならなかった。代わりに椒図が拾う。ズラトロクへの嫌悪を報告書にびっしりと書き連ねそうだ。

「こちらは、お前達が留守の間にユニコーンが一時帰還した。引き留めたかったが、彼女には留まる義務はないからな。変転人が発作を起こしても虫の視認はできなくなる。用心しておけ」

「帰ったんだ……一時ってことは、戻って来るんだよね?」

「どうだろうな」

「あ、そうそう。花街も一応、虫の調査はしてるみたいだよ。人工的な虫って把握してる。犯人探しをしてるってズラトロクが言ってたけど、極秘みたい。城内でも情報を共有してないんだって」

「極秘? ……花街は揉めそうだな。お前達は花街を触発していないか?」

 最初の質問に戻って来た気がするが、三人は口々に否定した。

「それなら今はいい。報告書を早く提出しろ。報告書は贔屓(ひき)にも目を通してもらう」

 ここで全てを話すと何時間でも話せてしまうため残りは報告書に書くとし、三人は互いに目を遣りつつ狴犴の部屋を後にする。わざわざ贔屓の名前を出したのは、きちんと書けという念押しだろう。狴犴を嫌う獏が適当に報告書を書かないように釘を刺したようだ。

 科刑所を出た三人は、暗い石段を下りて行く。花街への遠征は蟠りを残すものだった。墓地も規則違反の絵本も廊下の血痕も、殆ど謎のままだ。ズラトロクとエーデルワイスに出会った地下の物音も気になるが、立ち入り禁止の塔の内部はアルペンローゼに尋ねても答えられない。

 花街で対話すべきはズラトロクではなく、エーデルワイスだったのだろう。彼女は声を出せないと言うが、筆談はできるはずだ。規則違反の絵本の中身を教えてくれた彼女なら、有益な話を聞けただろう。

 狴犴に言われたこともあり、三人は病院に立ち寄る。受付には姫女苑が座っており、足音を聞いて顔を上げた。

「獏様、椒図様、蜃様」

「キランさんの治療は終わった?」

「もう少しで終わると思います。背中の裂傷と腰の打撲の二ヶ所ですが、肋骨が二本折れてました」

「腰……? ……あ、エーデルワイスと戦った時か……。全然痛そうな素振りはしてなかったんだけど……」

 我慢していたのなら、ズラトロクと話している間もずっと痛みと戦っていたことになる。戦慄する程の忍耐力だ。

「治療がどれくらい掛かるかわからなかったので、金瘡小草さんから先にこれを預かりました。私には何かわかりませんが、獏様方に見せればわかると言ってました」

 カウンターの上に小さな円柱を取り出して置く。獏達もそれが何なのかすぐにはわからなかったが、数秒置いて気付いた。

「これ……カメラのフィルム!?」

「フィルム?」

「カメラを落とす前に抜き取ってたのか……」

 椒図だけは首を傾げるが、獏と蜃は目を瞬いて感服する。危険を察知して抜いたのか偶然抜いていたのかはわからないが、とにかく彼女の判断力と働きが素晴らしいことはわかった。これを現像すれば、ヒントを見ることができる。

「早速狻猊に現像してもらお! ヒメさん、キランさんにありがとうって言っておいて!」

「はい。わかりました。それは良い物なんですね」

「うん!」

 工房に向かう途中で椒図にもフィルムの説明をしておく。カメラの本体が無くとも、撮影した物はこのフィルムの中にあり、写真にすることができる。それを聞いて椒図も感嘆の声を漏らした。

 成果を何も持ち帰れなかったと嘆いていたが、金瘡小草の機転の御陰で大きな収穫を得られた。

 再び工房のドアを勢い良く開いた獏は、椒図に足を掛けられ地面に押し倒された。

「!? ……!?」

 獏は何が起こったのかわからず、地面に俯せに倒れたままで呆然とする。

「すまん! 当たったか!?」

 工房の中から杖を持った狻猊が声を上げ、獏の頭上を飛んで行った火の玉と同じ物を壁に向かって放つ。

「ああ――くそ! 小さくて狙いが……」

 狻猊は独り言を呟きながら、杖を振り回して火の玉を撒き散らしていた。

「え……何? 僕、何かした……?」

「獏じゃなくて……あ! 逃げんな!」

 もう一度三人の方へ杖を突き付けるので、椒図は杖を召喚し、出入口を閉じた。これで火の玉は外に飛び出さない。

「ナイス椒図!」

「?」

 礼を言われるようなことをしたつもりはなかった椒図は眉を寄せる。火の玉が獏や蜃に当たったら怪我をするので、工房から出て来ないよう閉じただけだ。

「虫だ、虫!」

「虫……? 寄生虫のあれか?」

「違う! もっと小さい……標的が小さ過ぎて当たらないんだ」

「宵街にも虫がいるのか? 空間を縮めていくから、お前が潰れない内に仕留めてくれ」

「お兄ちゃんを潰すもんじゃないぞ」

 勿論本当に潰しはしない。加減はする。椒図は徐々に空間を閉じ、まるで壁が四方から迫るように空間を縮めていく。

 小さな虫の動き回る範囲も徐々に狭くなり、漸く狻猊は火の玉で仕留めることができた。

「よ……よし、遣ったぞ……」

 それを確認し、椒図も力を解く。

「蝿一匹で騒がしいな」

「オレもそう思ったんだけどな。でも最近は寄生虫騒ぎで虫に敏感になってると言うか、仕留めないと落ち着かなくて」

「変転人が工房を訪れたらどうするつもりだったんだ。変転人が喰らったら大怪我だ」

「す、すまん……悪かったな、獏……」

 獏は困惑を貼り付けたまま呆然と体を起こした。地面には草が生えているので緩衝材となり然程痛くは無かったが、突然足を掛けられて世界が引っ繰り返ったのかと思った。

「狻猊、嫌い……」

「悪かったって……でも虫を持ち込んだのはお前らだからな。あの薔薇に付いてたんだ」

 机上のコップに挿した赤い薔薇を指差す。蜃がズラトロクから詫びにと貰った花だ。

 小蝿のように小さな虫は火の玉を受けて消し炭になっている。そんな小さな虫に当てようと言うのだから、中々命中するはずがない。

 蜃は薔薇に目を遣る。何処かで虫を付けてしまったらしい。花に虫が付くなんてよくあることだ。花と虫は切り離せない関係だ。

「虫一匹で騒ぎ過ぎだろ……その薔薇も処分していいぞ」

「え? 土産じゃなかったのか?」

「別に。花街の奴に貰ったんだ。そのまま置いていてもいいが。他の奴にあげてもいい」

「花街の奴……? 途端にやばい代物に見えてきたな……」

「そんなことより、これ現像してくれ。大きめに」

 蜃はまだ呆然としている獏からフィルムを取り上げ、狻猊に放り投げた。

「ん? カメラは無くしたんだよな? フィルムは持ってたのか」

「時間が掛かるか?」

「枚数によるが、近くで待つなら、出来上がったら持って行ってやるよ」

「じゃあ図書園で待つ。――これでいいか? 獏」

「いいよ……」

 獏は眉尻を下げたまま、蜃と椒図に促されて工房を後にした。狻猊は反省しながらも苦笑いを浮かべて手を上げ見送る。獏にはとんだ災難である。

「獏は警戒心が足りないな」

「そんなことないよ……」

 一度信じてしまうと、油断してしまうことがある。独りが長かった獏は、気を許した相手には緩帯する。裏切りは考えたくないが、悪戯には気付けるようにしておきたいと獏は頭の隅に置いた。


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