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透明街の人喰い獏 (2)  作者: 葉里ノイ


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40/58

164-信用


「――じゃあオレはここで。後のことは中にいる奴から聞いてね」

 そう言って金髪碧眼の獣の青年は去って行った。

 一人残された少女はその細身の背中が長い廊下を進んで角を曲がるまで見詰め、誰もいないそこに立ち尽くした。

 等間隔に窓はあるが、壁も天井も石でできていて空が見えない。今まで地面と繋がって見上げていた空は隠れてしまった。ここは一体何処なのか、何故自分は地面を抜けて歩くことができるようになったのか、何もわからない。

「…………」

 少女に足を与えた獣の青年は、この目の前にあるドアの向こうへ行けと言った。ドアに静かに手を当て、少女は立ち尽くす。開け方がわからなかった。

 数分ほど無言で動かずにいると、やがて向こうからドアが開いた。少女は押された手を慌てて引き、数歩後退する。

 ドアの向こうから黒い少年が顔を出す。左の目元に黒子(ほくろ)がある。感情の宿らない顔で、少年は少女を部屋へ招き入れた。

「ゲンチアナだな。アイト様から教育を言い付かってる。僕はアルペンローゼ。早速、この街と城について説明する。座って」

 アルペンローゼと名乗った端整な顔立ちの少年は抑揚の無い声で淡々と言った後、小さな台所へ向かう。

 然程広くはない部屋だが大きな机と椅子があり、片側の壁には本が収まった棚が、もう片側に台所がある。少女には初めて見る物ばかりだった。少女は山で育ち、人工的な物は殆ど見たことがなかった。

「え……ちょ、ちょっと待って……何? 何もわからない……」

 薬缶に水を入れようとしていたアルペンローゼは手を止め、無表情で振り向く。

「座り方がわからないか? 植物系は偶にあるらしい。動物なら誰でもできる極普通の動作ができない変転人。歩けるならコツさえ掴めばすぐに座れる。最初は支えながらでいい」

 机の前にある四脚の椅子の内一脚を引き、アルペンローゼは実際に座って見せた。アルペンローゼは変転人となった時から椅子に座ることができたが、ゲンチアナはそうではなかった。

 ゲンチアナは見様見真似で椅子を一脚引き、机と椅子の背に手を置きながらゆっくりと膝を曲げる。だが姿勢が悪かったのか、尻餅を突くように椅子に落ちてしまった。それでも一応は椅子に座れたので、ゲンチアナは胸を撫で下ろす。アルペンローゼは眉を顰めていたが。

「……教育に時間が掛かりそうだ」

 その言葉の意味はゲンチアナにはまだ理解できなかったが、彼が淹れた紅茶を前に出し、棚の本を出して机上に積み、花街(はなまち)と城のことを説明し始め五分も経たない内に強制的に理解することになった。情報の多さに頭が破裂しそうだった。

「質問があれば後で時間を設ける。訊きたいことがあればメモをしておくといいよ」

 白紙とペンを渡し、アルファベットの表を置く。まだ文字を書くことができないゲンチアナは彼の速度に完全に置いて行かれた。

 ゲンチアナが一言も口を挟めないまま変転人と獣の説明が終わり、花街や城の説明も流れていく。良い香りが漂う紅茶を飲む暇も無かった。

「城下町のことは追々覚えていけばいい。貴方に関係のある最も重要なことをまずは頭に叩き込んで」

「…………」

「貴方はこの城の中で獣の次に権力を持つ存在になる。時に獣と同等の発言を求められる。最も地位が高いのは王、その下で実権を握る大公と呼ばれる獣が五人。大公と同程度の地位を持つ公爵と呼ばれる変転人が一人。その公爵が貴方だ。大公や公爵といった呼び方は人間が使用している言葉を真似ているだけで、意味が同じわけではない」

「…………」

「貴方は王の秘書となり、王の身の回りの世話を行う。仕事を一通り教えるから、ある程度動けるようになったら王に挨拶に行く」

「仕事って……」

「王からの命令が第一。それ以外は基本的に僕と変わらない。それは今から教える。でも、僕のように城中の面倒は見なくていい。貴方は王の身辺だけ意識していれば」

「…………」

「仕事は掃除や洗濯、料理など。料理に注文があれば、その通りに。買物はミモザに任せるといいよ。食事の時間は決まってるから、この懐中時計で確認して」

 棚にある引出しから年季の入った蓋付きの懐中時計を取り出して机に置く。アルペンローゼは自分の懐中時計もズボンのポケットから取り出して見せた。手で発条を巻く機械式時計だ。

「時計は一日に一度、発条を巻いて。今日は僕が巻いて時間を合わせておく。……後は言葉で幾ら言っても植物には難しいから、一通り遣って見せる。まずはどんな仕事をするのか上辺だけでも理解して」

「質問は……」

「歩きながらしようか」

「うぅ……」

 時間が惜しいとでも言うように、アルペンローゼは口を付けていないティーカップを下げ、ゲンチアナを部屋から出した。

 城を歩きながら同時に案内もされつつ、アルペンローゼは仕事をして見せる。掃除と洗濯は道具の使い方を覚えれば何とかなりそうだが、料理が難しそうだった。最初はレシピを見ながら作れば良いとレシピを見せられるが、まず文字を読むことができない。文字数が多いので遣ることは多そうだということだけはわかった。ゲンチアナの頭からは煙が出そうだった。何もかも覚えることが多過ぎる。

 そしてその全てを滑らかに熟すアルペンローゼは、ゲンチアナには未知の生命体に見えた。

「……その、秘書……って言うのは、貴方がすればいいんじゃ……。王は一番偉い人……なんだよね? そんな偉い人に無能な私なんて……」

「そう卑下しないで。僕も三ヶ月ほど前に人の姿を貰った所だから」

 三ヶ月で彼のように全て完璧に熟せる自信が全くなかった。二人は生物として基本の性能に差があるのだ。

「でも、王の前で失敗するのは……」

「王の秘書はゲンチアナにしかできないんだ。龍の胆であるゲンチアナが代々、龍である王の秘書を務めると決まっている」

「何でそんなことに……。貴方がゲンチアナだったら良かったのに」

「責任は確かに貴方の方が重いが、僕は王の身辺以外の……この城の全ての仕事を統括してる。エーデルワイスも手伝ってくれたらいいんだけどな……。全部僕が仕切ってるんだよ。ゲンチアナはそっちの方がいいのか?」

「うっ……そっちの方が大変そう……」

 城は大きく、迷路のようだ。それに広い庭もある。その全ての仕事を毎日全て熟しているなら、アルペンローゼは化物だ。

「わからないことがあればいつでも教えるよ。王が快適に過ごせるよう、僕も祈ってる。ゲンチアナは地位が高いから、変転人なら全て貴方の指示で動かせる。ミモザを自由に使って。僕のことも必要なら使えばいい」

「そうなの……? じゃ、じゃあ、貴方が王の秘書も遣って……」

「それはゲンチアナの一存で譲れるものじゃない。それは獣が決めたことだから」

「そうなんだ……」

 望みの断たれたゲンチアナは項垂れ、とぼとぼとアルペンローゼの後に付いて城を回った。こんなことなら山で咲いていた方が良かった。きっとこういうのを奴隷と言うのだと、ゲンチアナは心の中で思った。



 ゲンチアナが人の姿を与えられた当初、右も左もわからない彼女に親身に接してくれたのはアルペンローゼだけだった。同僚のエーデルワイスとは中々会う機会が無く、会っても無口な彼女は何も喋らない。それにいつも傍らには角の生えた怖そうな獣がいて、話し掛ける勇気も無かった。


     * * *


 雨の中で呆然と佇んでいたゲンチアナを小さな街へ連れて来た(ばく)達は、二階の獏の部屋で彼女を座らせ一旦そこを出た。ドアを閉め、小声で話す。

「フェルがここに来たことはバレてるよね……? 結構時間が経ってるけど、フェルはまだ花街に戻ってないのかな」

 獏はドアを振り返り、一言も発さなかったゲンチアナを心配する。

「それは何とも言えませんが。戻ってないなら、捜索してほしいのかもしれません。手紙には何と?」

「これ……だよね」

 ゲンチアナの前にあったポストから灰色海月(クラゲ)が拾った手紙を取り出し、獏は宛名を確認する。ローマ字でも獏に届くらしい。

「花街の封筒だよね? 見たことあるもん」

「そうですね。ですが……封蝋がありません」

 封筒は簡単に糊で留められているだけで、サインも無い。重要な手紙なら封蝋が捺されているはずだ。

「とりあえず開けてみよう」

 封を切ろうとした所で、階下へ行っていた灰色海月がタオルを持って戻って来た。獏とアルペンローゼは場所を空け、灰色海月は頭を下げて部屋へ入る。ゲンチアナも濡れたままでは風邪をひく。彼女のことは灰色海月に任せ、二人は手紙に視線を戻した。

 今度こそ封を切って広げた便箋には、走り書きの崩れたアルファベットが連なっていた。

「……アルさん、読める?」

「読みます」

 アルペンローゼは手紙を受け取り、まずは目を通す。微かに目を見開き、音読を待つ獏を一瞥する。

「……『ゲンチアナを頼む。城に帰すな』と書かれています」

「え!? ……それだけ?」

「はい。余程急いでいたんでしょう。筆跡はフェル様のようですが、封蝋は捺すのにやや時間を要します。その時間すら惜しかったようです」

「僕宛てってことは、僕が頼まれたってことだよね……。フェルが書いた手紙なら、フェルは花街に戻ってるんだよね? アルさんみたいに匿うってことかな? 宵街(よいまち)に話すと不味いのかな?」

「宵街へ話さないことはできますか? 状況が不明の内は」

「それは構わないけど、フェルが花街に戻った後に何かあったってことだよね? あのアナさんの様子、普通じゃないよ。アナさんに話を聞きたいけど、僕じゃ信用が無い。君が話を聞いてほしい」

「承知しました。少し部屋をお借りします」

「うん。何かあったら言ってね」

 獏はドアを叩き、灰色海月を手招く。アルペンローゼと入れ代わり、彼女は不安そうにベッドに座るゲンチアナを振り返る。

「アルさんが話を聞いてくれるから。下で待とう」

「……はい」

 二人はドアを閉め、邪魔にならないよう階段を下りる。願い事の手紙は後一通残っているが、善行をしている場合ではない。様子のおかしいゲンチアナを優先する。

 階段を下りる音を耳に、アルペンローゼは椅子に座ってゲンチアナと向かい合った。彼女は頭にタオルを被せたまま俯き、魂が抜けたかのように虚ろな目をしている。

 ゲンチアナとアルペンローゼは三十年以上を同僚として共に過ごしている。信用はある。

「……アナ。何があった?」

「…………」

 話し掛けてもゲンチアナに反応は無く、アルペンローゼはもう一度声を掛けるべきか、肩を叩くべきか迷う。

 迷っている内にゲンチアナはかくりと一層頭を下げ、小さく口を開いた。

「アル……私、勘当された……」

「勘当?」

 アルペンローゼは目を丸くして瞬く。予想していなかった言葉だ。

「どういうことだ……?」

「フェル様が、いきなり……手紙を押し付けて、獏の所へ行けって……。戻って来るなって……」

 止まっていた涙が再び溢れ出す。アルペンローゼは困惑した。話を聞いても話が見えてこない。

「それだけか? その前に何かあったのか?」

「その前は……フェル様が城を抜け出して……いつも通り……。フェル様、怒ってた……きっとそれで……」

「要領を得ないな。フェル様が規則を破って抜け出して、何故フェル様が怒るんだ? アナ、他に何か言ってないことがあるな? 僕には話せないか?」

「! ……だって……だって、だって……言ったら、アルも何か……御仕置き……」

「いい。話して」

「と……と言うか、何でアルがここにいるの……? 急にいなくなった癖に……」

「……それは後で話すから」

「アルが先に話してよ! 急にいなくなるから、心配したんだよ!?」

「それは……」

 アルペンローゼは一度口を閉じ、思考する。どうやら互いに相手を巻き込まないよう話すことを渋っているようだ。このままでは何もわからない。どちらかが折れて先に口を割らないと話が進まない。

「……わかった。僕から話す。だが、話したらアナはここから出るな」

 ここは花街から離れている。話したことを黙っておけば、花街の耳に入ることはないだろう。

「い、いつまで……?」

「それはわからない。僕も早く街に戻りたい」

「う、うん……」

 それは本音だろうとゲンチアナもゆっくりと頷いた。彼のその言葉で、彼も何らかの理由で花街に戻れなくなっているのだと察する。

「僕はヴイーヴル様と共に宵街へ行ったんだ。調査のために」

「えっ、そうだったの……?」

「ヴイーヴル様が人間の街を調査する間、僕は宵街で待つことになった。でもヴイーヴル様は戻ってこなかった。代わりに、僕を殺すようにと手紙が置かれていた。ヴイーヴル様は城に戻ってるんだろ?」

「うん……。今は、城下町に変な虫が出たから調査に行ってるけど……。何その手紙……?」

「手紙はヴイーヴル様が置いた物で、それ以上は……フェル様が調べると言ってくださって、僕の安全が保証されるまでここに居ろと言われた。何も報せることができなくて、悪かったと思ってる」

 ゲンチアナは睫毛を伏せて何とか理解した。フェルニゲシュが最近こそこそと動いていることはゲンチアナも知っていた。ベッドにクッションを詰め込み、寝ている振りをして彷徨いていることに気付いていた。最初は城内を歩いているだけだったので触れずに放っておいたのだが、まさかアルペンローゼのためだとは思わなかった。

 アルペンローゼは話してくれた。ゲンチアナも話すべきだろう。今までずっと一人で抱えてきたことだ。口止めされていて誰にも言えなかった。

 ここが花街圏ではないことが、彼女の背を押してくれた。ゲンチアナは濡れた袖を掴み、ゆっくりと捲り上げる。傷が擦れて眉を顰める。

「……これ」

 傷だらけの腕を見せられ、アルペンローゼは息を呑んだ。血はもう乾いて瘡蓋になり掛けているが、変色して痣になっている。どうしたらそんなに醜い傷を負うことができるのか、誰かに遣られたとしか思えなかった。

「フェル様が街を出る度、私が御仕置きを受けるの。王に御仕置きなんてできないから。誰にも言わないようにって、言われてた。フェル様の耳に入らないように」

「何てことを……」

「傷はいつも見えない所に付けられたけど、流れた血が袖から見えたみたい。フェル様が気付いて……」

「それで怒ったのか」

「……怖かった。でも、誰に遣られたかは言わなかった。言ったらきっと、もっと痛いことをされる……。何も言わずに黙ってたから、勘当されたんだと思う……」

「アナ、顔を上げて」

「……?」

 泣き顔を見せたくはなかったが、アルペンローゼが揶揄するような性格ではないことは彼女も知っている。三十年以上同じ城で過ごしているが、アルペンローゼは真面目で、冗談らしい冗談も言わず、人を揶揄することもなかった。最も信用できる人だとゲンチアナは思っている。だから恐る恐る顔を上げた。

 アルペンローゼはゲンチアナの顔を一瞥だけして、視線を少し下げる。彼は首の辺りに装着している黒いブローチを見ていた。

「アナは勘違いをしている。もし本当に勘当されたなら、ブローチを付けたまま追い出すはずがない。そのブローチを付けているなら、まだ公爵だ。アナはまだその地位にいる」

「え……?」

「おそらく僕のように、ここに行くよう言われたのは一時的な避難だ。ここに僕がいることはフェル様も知ってる。獏はフェル様に協力してくれてるんだ」

「じゃ、じゃあ……?」

「熱りが冷めれば、また城に戻れる。それまでの辛抱だ」

「……!」

 ゲンチアナは涙を溜め、タオルで顔を覆った。勘当されたと、見限られたとばかり思っていた。フェルニゲシュは傷付いたゲンチアナを匿うために追い出したのだ。追い出す距離が少々遠いが、花街に一度で転送できる距離では意味が無い。信用できるアルペンローゼのいるここに逃がしたのだ。

「私……また戻れるの……? うぅ……」

「まずは傷を治そう。僕のような治癒力は無いから……一、二週間くらい掛かるか?」

「……うん、わかった……」

「傷は腕だけか?」

「服で見えない所、殆ど全部……」

「酷いな……。誰に遣られたか、僕にも言えないか?」

「もういい……。でもフェル様、凄く怒ってたから……獣同士が争ったら城が壊れそうで……」

「そうだな。城が壊れるだけで済めば良い方だ」

「御仕置きはスコル様とハティ様の役目。二人が留守の時は、偶にアイト様も……」

「……スコル様とハティ様は目に浮かぶ」

 面白がって甚振る姿が容易に想像できた。規則を破ってお咎め無しでは規則の意味が無い。誰かが罰を受けなければならないのだ。王であるフェルニゲシュには加害できないため、秘書のゲンチアナが身代わりとなる。ゲンチアナは御仕置きを受けないために、必死にフェルニゲシュに言い聞かせる。だがフェルニゲシュは規則を破っても口頭の注意しかされないと思っている。罰は無いのだから、規則など軽視しているだろう。

「フェル様に言えば、軽々(けいけい)に規則を破ることはしなくなると思うが……。自分の所為でアナが御仕置きを受けるなら反省もするはず。何故口止めされるのかわからないな」

「アルにわからないなら、私もわからない……」

「獣の考えることは僕達には理解できないことが多い。……先にアナの治療をしよう。化膿するといけない。全身となると僕が脱がせるわけにはいかないから、ここにいる変転人……灰色海月に任せていいか?」

「うん、いいよ」

「獏には何処まで話していい?」

「……わからない。アルに任せていい?」

「いいよ」

 アルペンローゼは一瞬笑みを見せ、立ち上がった。花街も心配だが、今はゲンチアナだ。フェルニゲシュはアルペンローゼにゲンチアナを託した。それは全うする。

(フェル様が怒った……それが本当なら、首輪の抑制が効いてないことになる。アナは動揺と恐怖で気付いていないようだが。厄介なことになっていなければいいが……)

 涙の止んだゲンチアナを置き、アルペンローゼは階下へ行く。この小さな街の主は獏だ。フェルニゲシュの協力は受けたが、ゲンチアナもここで匿ってもらえるか確認をする。

 一階のいつもの席には獏はおらず、その向こうの小さな台所に姿を見つける。灰色海月は焦るように手を彷徨わせ、獏は鍋に大量の牛乳を注いでいた。一瞬、有名な名画が脳裏を過ぎる。

「……何をしてるんですか?」

 手が離せない作業中なら話は後にした方が良いだろうかと考えつつ、アルペンローゼは台所を窺う。台の上には紅茶の茶葉の缶が幾つも並んでいた。

「あっ、話が終わったの?」

「終わりました。アナも暫くここで匿ってもらえますか?」

「うん、いいよ。雨の中で冷えただろうし、特性のロイヤルミルクティーを作ってあげようと思ってた所だよ」

「ロイヤル……ミルクティー……?」

「あ、ロイヤルミルクティーは日本生まれらしいね。ミルクをたっぷり入れた紅茶だよ」

「そうなんですか? 好みはあると思いますが……そんなに大量のミルクを使う紅茶は初めて見ます」

 幾らミルクをたっぷりと言っても、鍋になみなみと注がれているのは多いと感じる。ティーカップに何杯分になるのだろうか。まさかそれを全て一人で飲み干せと言うのだろうか。

「すみません、アルさん。私も多いと言ったんですが、たっぷりとカフェオレボウルに淹れると聞かなくて」

「それは料理用の大きなボウルと間違えてませんか?」

 普段台所に立たない獏はきょとんとする。

「え? 何か可笑しい?」

「獏は不器用なんです」

 獏はぽかんと口を開きながら灰色海月を振り返る。

 気遣う優しさは理解したが、鍋に一杯の牛乳は理解できない。アルペンローゼは鍋を一瞥し、溜息を呑み込む。

「……わかりました。牛乳を戻してください」

「戻してください!? パックに!?」

「何にでもいいです。仕舞ってください。アナは疲れてるんです。気持ちはありがたいですが、今は口に慣れた物の方がいいです」

「そう……? ミルクティーにはリラックス効果があるらしいんだけど……」

 慣れないことはすべきではないと言われているようで、獏はしゅんと落ち込みながら、注ぎ口を全開にした紙パックに牛乳を戻した。火を点ける前で良かった。

「紅茶もいいですが、温かい料理を作りましょう」

「アルさんが作るの?」

「はい。こちらに、一晩水に浸しておいた麦があります」

 アルペンローゼはそう言って台所の隅に置いていたボウルを持ち出した。

「何で?」

 いつの間にそんな物を仕込んでいたのだと獏は首を傾ぐ。普段はあまり台所に入らないので、全く気付かなかった。

 台所は狭い。アルペンローゼの邪魔をしないように、灰色海月は獏を追い出した。邪魔だと言われた獏は仕方無くいつもの古い革張りの椅子に小さくなって座る。

「ここは製菓材料は揃っていますが、料理の材料は少ないので……棚の隅に転がっていた人参と玉葱……ああ、葱もありますね。使っていいですか?」

「どうぞ。スミレさんのために置いてる炒飯の材料なので」

「それなら……ああ、ベーコンがありますね。肉があって良かったです」

 冷蔵庫から見つけたベーコンも取り出し、アルペンローゼは慣れた手付きで細かく刻み始めた。

 料理は灰色海月にも慣れないことだ。台所の入口から中を覗き、アルペンローゼの手元を凝視する。刻んだ野菜とベーコン、そして麦をクリームで煮て味を調える。しっかり温まって腹も満たされるスープが出来上がった。

「ビュンドナーゲルシュテンズッペです」

「何の呪文?」

「料理名です。大麦のスープですよ」

 器が無いことに気付き、灰色海月は棚からカフェオレボウルを取り出す。獏も立ち上がって台所を覗き込み、温まる優しい香りを嗅ぐ。

「アナに持って行くので、そこで事情を話します」

「うん。僕達の分は?」

「余っている分はお好きにどうぞ」

 スープを一杯汲み、アルペンローゼは盆に載せて台所を後にした。獏は早速二人分を装い、灰色海月に一つ手渡す。集られるのを見越していたのか、きっちり三人分装うことができた。

 スープを手にアルペンローゼの後を追って遅れて部屋へ入ると、ゲンチアナは温かいスープを受け取り、目を輝かせていた。雨で冷えた指先が温まる。

「アルが作ったの? アルの料理、久し振り……」

 早速冷えた体に一口注ぎ、ほっと安堵する。変転人となり城に来てから、慣れるまではアルペンローゼがゲンチアナの分の食事も作っていた。彼女が仕事に慣れると、他の大公の食事や城内の雑用を全て熟しているアルペンローゼに料理の手間を取らせるわけにはいかず、ゲンチアナは自分の食事は自分で用意するようになった。王の食事を用意するのも秘書の務めであり、アルペンローゼの料理の足元にも及ばない料理をフェルニゲシュに出している。フェルニゲシュは何も文句を言わないが、自分で料理をしようとするのだから、それが答えだろう。

「美味しい……」

 ゲンチアナはゆっくりとスープを掻き込み噛み締める。城の中での重圧も溶けていく。

 獏と灰色海月も椅子に座り、スープを味わう。動物面で顔が見えないはずの獏の顔から御機嫌な気配が漏れた。

「アナさんはこういうのを食べ慣れてるんだね。美味しいね」

「え? 初めて食べました……」

「え? アルさんが食べ慣れてるって……」

 二人は同時にアルペンローゼを見る。彼も怪訝な顔をした。

「レシピはアナに渡したはず……」

「えっ……アルから貰ったレシピ……? 難しそうだからあんまり……」

「見てないのか?」

「ど、どうだったかな……」

 アルペンローゼはフェルニゲシュに出される料理がどんな物なのか把握していないが、急に心配になってきた。ゲンチアナは料理が苦手らしい。アルペンローゼと目を合わせようとしない。

「それ程だったとは……」

「呆れてる? 呆れてるよね……?」

「……その話は後にしよう。城に戻る時までここで料理を教えるとして、まずは傷を治さないと」

「扱かれそう……」

 どんなに頑張ってもアルペンローゼほど美味しい料理はできないだろうと思いながらも、ゲンチアナは頷くしかなかった。

「食べ終わったら灰色海月にアナの手当てをしてほしいんですが、構いませんか?」

「怪我ですか?」

「服の下を負傷しているそうです。動けているので、特別な治療は必要ないと思うんですが」

「そういうことなら。わかりました」

 三人が食べている間にアルペンローゼはゲンチアナから聞いた話を大方獏に伝えた。ゲンチアナの話の中には獣の能力に関する情報は無いので、話しても良いと判断した。

 ゲンチアナにも、最近騒がれている未知の病と寄生虫の情報を伝えた。病は虫の仕業であり、花街の城下町に現れた虫もそれだろうと。ゲンチアナのスプーンは止まってしまったが、険しい顔で何とか咀嚼した。話を聞く限り、花街の方が情報が遅れている。得た情報を共有していない。獣達は腹を探り合い、誰も信用できないでいる。

 スープを食べ終えると獏とアルペンローゼは空の器を持って部屋を出、ゲンチアナは灰色海月の手当てを受けた。鞭で打たれた痣と擦り傷は消毒液が染み、ゲンチアナは目を潤ませながら歯を喰い縛った。

「痛みますか?」

「うぅ……痛いけど、手当てはしないと……。アルみたいにすぐに治ればいいのに」

「治癒力が高いのはアルさんだけなんですか?」

「だと思うけど……。私だけ何も無いんだよね……取り柄が無くて、普通って言うか……。アルは有能過ぎるから、一緒にいると私の無能が目立つと言うか」

「アナさんは無能ではなく、『普通』があります」

「ええ? 何それ」

 痛みで眉を顰めながら、変なことを言う人だとゲンチアナは笑う。表情の乏しい変転人は若い証拠だ。きっと灰色海月は言葉を理解していないのだろう。

「……そう言えば、城にいる時はあんまり人と話したことなかったな」

「?」

「毎日仕事をして、話すことと言えばミモザに指示とか、獣と事務的な会話とか。休憩する時間はあるけどフェル様が心配で落ち着かないし、休憩する時間がバラバラだから休憩室は大体一人。休憩中に偶にアルが作って置いてるスコーンを内緒で一つ抓んで……。アルとは擦れ違うくらい。こうやって落ち着いて話すことってなかったな」

 それを寂しいと思ったことはないが、こうして話していると物足りなさを感じた。仕事ばかりの日々で、そこに自我はあったのだろうか。

「ここでは寧ろ暇な時間が多いので、そんなに話すこともなくて会話はあまりしませんね」

「あはは。ちょっと羨ましい」

「暇なので、話し相手ならできると思います。ここにいる間は落ち着いてください」

 花街のことは忘れて旅行に来ているとでも思えば良い。だがゲンチアナは慣れない暇に少し落ち着かなかった。それでも気遣ってもらえたことは嬉しい。ミモザは変転人だが機械的で、獣は目上の存在だ。アルペンローゼはゲンチアナより忙しく、エーデルワイスはいつもズラトロクと共にいる。

「……うん。ありがとう。急に暇になると何を話せばいいかわからないけど」

「何でも話してください」

 そうは言っても話題が無く、無言のままゲンチアナの手当てが終わった。全身がガーゼだらけだ。袖を通すのは難しくなったため上着を羽織り、布団を被せる。

 手当てに時間が掛かってしまったが、灰色海月がドアを開けると壁に背を預けて獏が待っていた。

「アナさんの怪我はどうだった? 病院に行かなくても良さそう?」

「はい。数は多いですが、病院には行かなくてもいいです。深い切り傷が無くて、出血があまり無いので」

「出血が多いと病院に行かなくちゃいけないからね。服で隠れてても具合が悪そうにしてれば周囲にバレるし。加減はしてるんだろうね」

 加減をしているが、しきれていなかった。フェルニゲシュに露顕してしまった。今頃花街ではどうなっているのか、獏はフェルニゲシュが少し心配になった。

「体より、精神がかなり疲弊してるようです。自身のことを無能だと言ってました」

「無能? 相当落ち込んでるみたいだね。そういうのはね、できないことじゃなくて、できることを数えるんだよ。どんな小さなことでも、できることを伸ばせばいいの。誰だって、できないことの方が多いんだから」

「直接言えばいいのでは」

「言っておいてよ。変転人同士の方がいいでしょ?」

「そうですか?」

 獏はドアに目を遣り、今後のことを考える。ゲンチアナの鬱ぎようは一日ではどうにもならないだろう。アルペンローゼがいてくれて良かった。よく知る同僚がいてくれれば緊張も和らぐ。

 だがこのままでは花街の問題に一層巻き込まれてしまう予感がした。何処かで突き放さなければ、引き摺られてしまう。宵街は花街との関係を悪化させないため慎重になり、大きな行動を起こそうとしない。それが悪い方へ転んでしまわないか心配だった。

「僕は正義や偽善に興味は無いけど、ただ押し付けられるのも利用されてるみたいだよね。頼られるのはいいけど、利用は別物だよ」

 台所の片付けを終えて二階へ上がって来たアルペンローゼと目が合う。獏は黒い動物面に隠れた向こう側でにこりと彼に微笑みかけた。


ビュンドナーゲルシュテンズッペはスイスの郷土料理です。

ビュンドナー(グラウビュンデン州)ゲルシュテン(大麦)ズッペ(スープ)。呪文ではありません。

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