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透明街の人喰い獏 (2)  作者: 葉里ノイ


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163-身代わり


 こっそり無断で(ばく)の所へ行き花街(はなまち)に戻って来たフェルニゲシュは、誰にも見つからずに古城の自室に辿り着いた。これまで幾度も花街を抜け出した彼は、忍ぶなど容易いことだった。

 念のために仕込んでおいたベッドの身代わりも処理しておく。布団の中にクッションを詰めて人の形にしているだけだが、布団を被せれば中に人が寝ているように見える。これを思い付いた時、フェルニゲシュは誰かに自慢したかった。だが言い回ってしまえば身代わりが台無しだ。これまで固く口を閉ざしてきた。

 クッションをベッドの脇に出し、フェルニゲシュは窓際の席に座る。格子の嵌まった窓から見る景色は一見穏やかに見えた。城下町で巨大な虫が出現して暴れたなどとは想像できない静けさだった。

 常のように窓外を眺めて暫しぼんやりとする。スコルとハティ、アイトワラスの身辺を調べると言ったが、誰から調べようかと考える。

(話し易いのはアイトだな。スコルとハティはいつも共にいる。あの二人を同時に相手するのは疲れる)

 スコルとハティは話し掛けると先ずからかう。本当のことを言っているのか嘘を吐いているのかわからなくなる。会話をするだけで疲れるのだ。フェルニゲシュの場合は首輪の影響もあるかもしれないが。

 誰からにするか決めて席を立とうとするが、先にドアが開いた。小さくノックをして入って来たのはゲンチアナだった。

「……アナか。検査は終わったのか?」

「…………」

 ゲンチアナは浮かない顔をし、無言でフェルニゲシュの前まで歩みを進めた。こういう時は、彼が花街を出たことが露顕している。経験上そうなのだ。

「……フェル様。約束しましたよね? 城から出ないと。どうして約束を破ったんですか」

 規則を守らないフェルニゲシュを怒ることは彼にもわかる。ゲンチアナは彼が城を抜け出した時に必ず浮かない顔をし、何かに怯えるように沈んだ声を出す。

 城を出たと言っても悪事を働いているわけではなく、ただ散歩をしているだけなのに。そこまで怒ることはないだろうとフェルニゲシュは思う。フェルニゲシュは悪いことをしたと思っていない。城から出てはいけないことは規則として定められているので、抜け出すことを正しいとは思っていないが。

「……ん?」

 フェルニゲシュは座っていることで目線が下がり、立っているゲンチアナの白い袖口から赤い物が覗いていることに気付く。

 手元を見ていることに気付いたゲンチアナも視線を下ろし、慌てて袖を隠すように手で押さえた。

 検査の過程で何かあったのだろう。そう思いながらも気になってしまったフェルニゲシュは彼女の手を掴んだ。力で抗えず、ゲンチアナは目元を歪める。

 袖を捲ったそこには生々しい傷があった。手元だけでなく、袖を上げて露わになる傷が途切れない。彼女の腕には切傷や打撲のような変色した痕があった。検査でこんなにも醜い傷を負うはずがない。

「これは……どうした?」

「……転んだんです」

「嘘を吐くな。誰に遣られた?」

「私です」

 頑なにゲンチアナは口を閉ざす。フェルニゲシュは立ち上がり、逃げようとする彼女の腕を握った。

「命令だ。言え」

「私です……私が悪いんです! 私が無能だからです……だからフェル様を止められっ……」

 ゲンチアナは痛みの所為で言ってはいけないことを口走ってしまい、血の気が引いた。はっとした表情のまま固まり、問い質される前に早く逃げなければとフェルニゲシュを思い切り蹴った。

 その程度で彼の力が抜けるはずがなかったが、フェルニゲシュの手は緩んだ。その隙にゲンチアナは駆け出し、躓きそうになりながら部屋を出て行く。

 フェルニゲシュは彼女を追うことはせず、無言で開いたままのドアを呆然と見詰めた。胸に昏い靄が掛かったようだった。

(……何故もっと早く気付かなかったんだ……)

 握った細い腕には真新しい傷が無数に刻まれていた。あんなに強く握られ、嘸かし痛かっただろう。

(オレが規則を犯しても口頭の注意を受けるだけ……罰を受けていたのはアナだった……)

 誰がゲンチアナに傷を付けたのか、それはわからない。だがズラトロクだけは傷付けることはしないと確信があった。明確に敵とでも明示されない限り、ズラトロクは女性に手を上げないはずだ。

(オレに罰を受けさせればいいものを……)

 身代わりの罰は、王に手を上げることができないからなのだとしたら、王を殴る権利くらい幾らでもくれてやる。今までフェルニゲシュを殴るのはゲンチアナだけだった。彼女だけは秘書という立場で平等に、そして自分が罰を受ける理不尽さに殴っていたのだろう。

 今まで何度罰を受けたか、数えられない。口止めをされているのだろう、ゲンチアナは自分が罰を受けていることを一度も漏らしたことがない。

 フェルニゲシュが廊下へ出た時にはもうゲンチアナの姿は無かった。だがもし近くにいた場合を考慮して、怯えさせないために気配を消しておく。フェルニゲシュはゲンチアナを追いたいわけではない。

 しんと静まる薄暗い廊下を歩き、辺りを観察する。誰とも擦れ違わない。城に戻って来た時は自分の忍ぶ能力の高さに得意気になっていたが、ミモザとも擦れ違わないのは珍しいとふと思う。アルペンローゼがミモザのことを気に掛けていたので、余計に気になった。城下町へ調査と清掃に出向いているとは言え、城の仕事が手薄になるはずがない。全てを熟すための人数はいる。だが廊下を歩いても彼女達の気配を感じなかった。

(ミモザがいなくなっている……? いや、休憩中か?)

 そういったことを把握しているのは統括しているアルペンローゼだ。使用人の仕事内容や行動時間など、王は把握していない。全員揃って休憩を取るものなのだろうか。そんなことすら知らなかった。

 城には随分長く棲んでいるのに、未だに何も知らない。花街のことは全て大公が管理し掌握している。王はただ座っているだけ。御飾りの王は無知だ。

(……ん?)

 ふと廊下の角から話し声が聞こえた。声量は一定で、どうやら立ち止まって話しているようだ。フェルニゲシュは廊下に置かれている壺の陰に隠れ、角の向こうへ聞き耳を立てた。気配を消しながら歩いていたので、気付かれてはいないだろう。

「――だからもう少し、軽くしてやることはできないか?」

「そんなこと言ってもなぁ。優しくすると罰にならないし」

(この声はズラトロクとアイト……か?)

 ズラトロクが男と立ち話とは珍しい。

「アナはもう限界だろう」

「確かにアナちゃんはアルと違って治癒力は並みだけど……けどこれはアナちゃんの――秘書の仕事だからなぁ」

「だがこれ以上痛め付けて死んだらどうする? それこそ役目が全うできなくなる」

「それはそうだけど。でも死なないように加減はしてるはず。変転人の体の柔さは理解してるよ」

「最近のフェルニゲシュの行動は目に余る。多少ならと目を瞑ってきたが、この頻度ではアナの体が持たない」

「じゃあ一度会議で呼び出して、フェルにそれとなく釘を刺しておくか? アナちゃんが贄を全うできないと困るのはオレ達だしな」

「ああ。フェルニゲシュに穏やかでいてもらうためにも……。フェルニゲシュにもアナにも本当のことは話せない」

「体罰なんて、話すと間違い無くフェルの首輪の劣化が早まるからな。アナちゃんはもう使えるほど成長してるとは言え、長く生きてくれることは望んでるんだから」

「もしその時が来たら、今度は漏洩しないように」

「ああ……あれは焦ったからな。今のアルは目敏いから気を付けないと。今は何処にいるかわからないけど、また庇おうとして二人共死ぬと、一からの教育が大変だ」

 二人は溜息を吐き、やれやれと頭を振った。

「む……少し話し過ぎたな。会議は早いに越したことはない」

「そうだな。フェルに声を掛けよう」

 ズラトロクとアイトワラスは止まっていた足を動かし、角を曲がった。その瞬間、一歩先を歩いていたアイトワラスの首へ、鋭い指先が飛び出した。

「!?」

 アイトワラスが反応する前に、ズラトロクが杖を召喚し、指先が首に触れる寸前で空間を切って強制的に距離を開く。フェルニゲシュの体勢はそのままに、後方へ引っ張られたように離れる。

「フェル……!?」

 アイトワラスも杖を召喚し、眉を寄せる。

「聞かれたか……?」

「ちょ、それは不味いだろ! ああ……こんな所で喋ってるから……」

「男と話すと碌なことがないな」

「それ関係あるか?」

 小声で言い合いながら、開いた距離を詰めようと歩き出すフェルニゲシュを警戒する。フェルニゲシュの目は据わっており、聞かれたと二人は確信する。ゲンチアナがフェルニゲシュの代わりに罰を受けていることを知られてしまった。

「声を掛けたのは俺だ、俺が鎮圧する」

「できるのか?」

「首輪が機能している内に捻る。そのための首輪だからな」

「……。まあ、援護くらいはするよ」

 アイトワラスは数歩下がり、ズラトロクはやれやれと溜息を吐いた。面倒なことになってしまった。


     * * *


 誰もいない小さく透明な街の古物店の奥で、黒い動物面を被った獏は腕を組んで机上の二通の手紙を見下ろしていた。細長い茶封筒と、隅に猫の絵が描かれた白い封筒だ。

「んー……どっちにしようかな……やっぱり中を確認してから決めようかなぁ」

 手紙を凝視して彼此もう数時間が経っている。具体的にどの程度の時間が経っているかは時計が無いためわからないが、数時間は確かだ。そこまで悩むなら潔く中を確認すれば良いのにと、傍らで様子を窺うアルペンローゼは焦れったい。

 アルペンローゼは、規則を破ったとは言えフェルニゲシュの顔を少しでも見ることができた安堵が大きく、今は穏やかな気持ちだ。きっとこのまま良い方向へ進んでくれるだろう。

 だが少しの不安は残っている。殺せという手紙があり、それは殺されずに済んではいるが、死んだかどうか確認に来ないのかと不安なのだ。手紙を置いてそのまま放置することはないはずだ。なのに確認に誰かが見ているような気配は感じない。ユニコーンもここへは来ていない。

「……ねぇ、アルさんはどっちがいい?」

 散々考え、封を切るかと思えばアルペンローゼに尋ねる。この獣は何がしたいんだと彼は眉を顰める。

「開けて確認する方がいいんじゃないですか?」

「中を見ても要点を得ない時があるからね。直感で選ぶ方がいい気がして」

「直感で選んだ結果、死人が出ましたね」

「容赦無いなぁ」

 それは事実だが、死んだのは人間である。獣でも変転人でもない。

 アルペンローゼの首の傷はまだ残っているが、心做しか傷口が小さくなっている。止血しただけで他には何も処置をしていないにも拘らず、さすがの治癒力だ。その力を見るために、絆創膏もガーゼも当てていない。

「じゃあどっちの封筒から開ける?」

「僕が選ぶんですか?」

「うん」

「……では茶色の封筒で」

「やった。選んでくれた。こっちに決めるね」

「何が書かれていても恨まないでくださいね」

 自分が熟さなければならない善行だと言うのに、何とも適当な獣だ。獣は大方が適当ではあるが、このくらい適当な方が気を張らずに楽に生きられるのかもしれない。

 選ばれた茶封筒の封を切り、獏は繁々と手紙を確認する。前回のように読めない物ではなかった。

「『テストで百点とれますように』……だって。カンニングしかないね」

「諦めが早いですね」

「百点を取るには二つ頑張らないといけないんだよ。一つは勉強、もう一つはミスをせず正解を書くこと。突然何もかも問題を解けるようにすることはできないから、差出人に頑張って叩き込んでもらうことになるんだけど、それだったら僕は必要無いよね。人間の勉強なんて、人間の方が理解してるんだから。だから僕ができるのはカンニングだけ」

「自力で可能な所は援助しないんですね。確かにこういうことを願うのは、楽をして良い点を取りたいか、どう足掻こうと勉強が理解できないか、のどちらかですよね。その願い事の書き方だと前者でしょうか」

「後は年齢かな。小学生と大学生じゃ点数の意味が変わってくるからね」

「この筆跡だと……小学生ですか?」

「うーん……難しいな……僕は敢えて高校生にしてみようかな」

 二人は一通の手紙に真剣な顔を突き合わせて分析する。差出人に寄り添って考えているわけではなく、ただ遊んでいる。

 便箋を封筒へ戻し、獏は灰色海月(クラゲ)に差し出した。答え合わせの時間だ。先に手紙を確認して想像を巡らせるのも意外と面白い。

 二人でドアの方を見ながら灰色海月が差出人を連れて来るのを待つ。

 程無くしてドアが開き、二人は通路を覗き込んで目を丸くした。

「……予想外」

 ぼそりと呟いた獏に、アルペンローゼも頷く。灰色海月が連れて来たのは、スーツを纏った若い男だった。どう見ても小学生ではない。

 男は机の前に立ち、深々と腰を折って頭を下げた。

「こういう者です」

 両手を添えて差し出された小さな紙を、獏はきょとんとしながら受け取る。紙には大きく名前と、社名などが書かれていた。名刺を渡されたのは初めてだった。

「僕は名刺なんて無いよ」

「えっ……あ、そうですよね……」

 最初に驚いた顔をするが、すぐに納得もした。一瞬で場を移動する不可思議な力を持つ得体の知れない者が紙の名刺など作っているわけがないだろうと。

「人間には興味無いし」

 名刺を伏せ、机の端へ置いておく。とりあえず小学生でも高校生でもなく、社会人だということはわかった。それだけで充分だ。だがそれなら『テストで百点』とは何なのだ。

 男は出された椅子に頭を下げて座り、背筋を伸ばして真っ直ぐ動物面を見据えた。まるで面接だ。

「早速だけど、君の願い事の『テスト』って、何のテストなの?」

「入社試験です」

 獏は動物面の奥で困惑した。入社試験とは一体何なのだ。受けたことはないが学校のテストしか知らない。

「えっと……それは何なの?」

「会社に入社するためのテストです」

「入学テストみたいなものかな? 不正して良い点を取っても、後で使えない人間だってバレて捨てられるだけだと思うんだけどねぇ」

「入ったらこっちのもんですよ」

「へぇ。自ら苦しみたいなんて変わった人間だね。でも学校じゃないし、どんな問題が出るの?」

「ちょっとした常識問題とか……だと思います」

 恥ずかしそうに照れ笑いをする男に、獏は更に困惑した。ちょっとした常識問題とは何なのだ。口元に手を当て、傍らのアルペンローゼの袖を掴んで耳元へ囁く。

「アルさん、人間の常識は獣にもわかると思う?」

「難しいかもしれませんね。まず人間の規則では人間を殺すのは絶対的な悪ですが、獣は平気で人間を殺します。この時点で常識を(たが)っています」

「このテスト、僕じゃ無理そう……」

「断ればいいんじゃないですか? できないことははっきりとできないと言った方が、苦しまずに済みます」

「普通ならね……。でもこれは面倒な善行だから、ここに連れて来た時点で叶えなきゃいけないんだよね……絶対ではないんだけど」

 今までも連れて来はしたが叶えていない願い事はある。だがそれは他に被害が出るからなど、理由があってのことだ。今回のような、人間の常識がわからない、で放棄することはない。

 本当に困っているようだとアルペンローゼも獏の気持ちを汲み取り、真面目な罪人なのだと理解を示す。真面目に刑を受ける罪人を突き放すのは本意では無い。

「人間の方、その入社試験の例題を何か一つ出してくれませんか?」

 何が常識なのか、傾向を知るためにも例を聞くのは有益だ。過去の問題を聞けば対策も立てられる。

「えっと……何だったかな、思考を……自分の考えを述べる、みたいな……?」

「遣る気あるんですか?」

「えっ」

 アルペンローゼははっきりとした言葉を使う。誤解を防ぐためだ。強い口調とならぬように微かに笑みを浮かべるが、嘲笑に見えてしまう。

 今度は男が困惑する。整った顔立ちの植物系変転人の冷笑はぞくりと胸を刺す。

「す、すみません……言葉……国語力とかですかね……?」

「小学生ですか? 例題一つ満足に出せないほど下調べを怠っているのに、人間でもない他人に助力を乞うのは滑稽な話だと思うんですが」

「は、はい……そうですね……。獏が何でも叶えてくれるんじゃなかったのかよ……」

 後半はぶつぶつと小声で文句を垂れる。アルペンローゼは獏を一瞥し、獏は他人事のように笑った。どうやらこの人間は獏の噂を聞いて、実力に見合わない会社に入ろうと思い付いたようだ。大方、良い給料を貰えるのだろう。

「それを人間じゃない他人が叶えるなら、まずは僕達がきさ……貴方達人間の常識を学ぶ必要があります。何故そのような遠回りな助力を願うんですか? 貴様が周囲の人間に学べばいいだけの話ではないですか?」

「すみません……」

 最早完全に縮こまり、男は謝ることしかできなかった。男はただ軽い気持ちで獏に手紙を出しただけだった。同僚の中で小耳に挟んだのだ。何でも願い事を叶えてくれる獏だとか言う奴がいるらしいと。神社などで祈るような感覚で手紙を書いたのだ。それがこんなに突き放されるとは思わなかった。

「要件はそれだけですか?」

「そ、それだけです……すみません、帰ります……帰らせてください……。軽い気持ちで転職しようとしただけです……」

 男は居た堪れなくなり、早く家に帰りたい気持ちで一杯になった。紅茶を用意していた灰色海月も台所から出られずに一時停止している。

「簡単に諦めるんですね。その程度の願い事なら、わざわざここへ来る必要もなかったですね」

「その辺にしてあげようよ……変な噂が立っちゃう……」

 最初は笑っていた獏だったが、男の勢いが無くなっていくと徐々に心配になってきた。小声で呟くと、アルペンローゼもはっとした。罪人の善行なのにすっかり彼が対応してしまった。

「……御恥ずかしいです。少し頭を冷やさせてください」

 微かに頬を赤らめ、自分の言動を恥じる。平静を装いながら、つい丁寧に罵倒してしまった。楽をしようと獣を利用する人間に何故下手(したて)に出なければならないのかと我を忘れてしまった。

 男も及び腰で、伸ばしていた背筋はすっかり猫のように丸くなっている。渡した名刺を返してほしそうだ。

「タダで帰すのはちょっと可哀想だし、良い物をあげるよ」

 同情という程ではなくもっと軽い気持ちだが、獏は振り返って背後の棚から瓶を取り出した。半透明の白い結晶を一粒取り、小袋へ入れる。

「これは安眠氷砂糖って言うんだけど、快適な眠りに誘う飴だよ。睡眠は記憶を定着させる行為でもあるから、これを舐めてから眠ればしっかり覚えられるかもね」

「いいんですか……? そんな凄そうな物……。記憶力が上がる飴……凄そうだ。テストの前日に食べよう」

 獏は記憶力が上がるとは言っていないが、男は都合良く解釈した。だがそう考えて食べれば、自信にはなるだろう。空虚な自信だ。

 男は疑うことなく受け取り、ポケットに小袋を仕舞った。これだけでも来た甲斐がある。見た目はよくある氷砂糖のようだが、不可思議な力が込められているに違いない。

「……あ、あの……これを砕いて分けて食べたら、何度も記憶力が上がりますか?」

「君は処方された薬を砕いて分けて呑むの?」

「で、ですよね……一つで一回ですよね……」

 悪知恵を働かせたが、冷めた目を向けられて男は縮こまった。そんなものは知恵とは言わない。浅薄と言うのだ。

「人間はテストなんて物で試されて大変だねぇ。まあ頑張ってよ」

 他人事だと笑い、獏はひらひらと手を振る。忘れそうになったが、安眠氷砂糖の代価だけは戴いておく。変な噂を流されないよう、記憶を抓んで食べておいた。

 契約の紅茶も必要無くなってしまった。勿体無いが処分するしかない。代わりに飲むには代償が大きい。一度施した刻印は消すことができない。流して捨てるしかないのだ。

 出口へ向かう男へ付き添う灰色海月は振り向き、顔を伏せて床を見詰めるアルペンローゼを窺う。

「アルさん、頭を冷やしに行きますか?」

「……? 体罰でしょうか?」

「そんな物騒なことではないです……人間の街に雨が降ってたので、冷えると思ったんです」

「少し意味が……」

 違う。と言おうとしたが、気分転換には良いかもしれない。草も朝昼の陽光も無いこの街では気が滅入ってしまう。匿ってもらっている立場で我儘は言えないと思っていたが、外に出る機会があるなら甘えても良いだろう。夜行性の獏や暗い海の中の海月にはわからないだろう、陽光の素晴らしさは。今は雨が降っているそうだが。

「そうですね。迷惑でなければ外に連れ出してください」

「それじゃ僕も付いて行くよ」

「はい。とは言っても善行をするわけではないので、手紙の回収をする間だけですが」

「また手紙? 無い時は無いのに、有る時は重なるね」

 来た時のように背筋を伸ばして店を出る男に続き、三人も外へ出る。獏が記憶を抓んだ御陰で男は再び背筋を伸ばすことができた。

 感情をあっという間に操作してしまう獏の能力は敵に回したくない、とアルペンローゼは思う。どれが本当の自分の感情なのか、疑心暗鬼を生じてしまいそうだ。

 灰色の傘をくるりと回して男を人間の住宅街へ送り、やはり雨が降っているため傘は差したまま、獏も傘に入れてもらう。アルペンローゼも自分の黒い傘を出して差した。

 転送するには暫し傘を休める時間が必要になる。昼過ぎではあるが空は暗く人影の無い狭い道の端で傘を差しながら、三人は転送可能になるまで待つ。

「――アルさんは花街に戻ったら、真っ先に何がしたい?」

 さらさらと地面や傘を叩く雨の音を聞きながら落ち着き、獏はふと他愛ない話を持ち出した。フェルニゲシュが訪れてからのアルペンローゼは肩の力が抜けたかのように素直に話している。少し心を開いてくれるようになったのかもしれない。

「真っ先……と言われると難しいですね。やはり庭の状態や掃除が行き届いているかどうか、食材の確認に洗濯物……」

「真面目だね……遊ぶこととか考えないの?」

「遊び方がわかりません。所謂玩具という物は持ってませんし、娯楽もよく知りません。人間の街へ行けば様々な物が溢れていますが、それを僕がどうしたいのか……只の景色の一部というだけで、あまり興味が湧かないんです」

「それは使い方がわからないからかもね。遊び方を知れば、興味が出るかも」

「そうかもしれません。ですが、そういった物に現を抜かしてしまえば、城の雑務が手に付かなくなるかもしれません」

「ジレンマだね……」

 旅行には行くのだから、好奇心が全く無いわけではないだろう。城の雑務を熟すために、遊びを覚えないよう躾けられているのかもしれない。獏は関係無いながらも、窮屈そうな城に辟易した。口にはしないが、まるで牢獄のようだ。

「……一つ、真っ先を思い付きました」

「え、何?」

「アナとワイスに謝ります。何も言わず行方を晦ませてしまったことを」

「アナはゲンチアナだよね。ワイスって? フェルも言ってたよね」

「あ……すみません。同僚のエーデルワイスです」

「へえ、皆、高山の花だよね?」

「人間の間ではアルプスの三大名花と呼ばれているようですね」

「それを聞くと、狙って変転人にしたみたいだね。早く戻れるよう、僕もできることがあったら頑張るね」

「はい。ありがとうございます」

 断ることはせず、アルペンローゼは自然な笑みを浮かべて礼を言った。フェルニゲシュが城に歓迎すると言った獣に、敵意など無い。

 笑うこともできるではないかと獏も微笑み、他愛ない会話を続ける。やがて充分に時間が経つと、灰色海月は一言断り灰色の傘をくるりと回した。

 転送した先は住宅に挟まれた路地だった。そこから少し広い道路へ出ると、道路に面して灰色の建物が並んでいる。雨が降っているからか人気(ひとけ)は無かった。歩道の霞んだ雨の幕の向こうにポストの赤い色と、その前に傘を差さずに立つ白い人影が浮かんでいる。人影はポストの口に手を掛け、俯いて動かない。

 灰色の雨の幕に浮かぶ白い人影は接近する気配に気付き、獏達の方を向いた。その顔は雨の所為かもしれないが、泣いているように見えた。

 獏達は立ち止まり、人影と見詰め合う。アルペンローゼは目を丸くし、幻かと疑いながら一歩前へ足を出す。

「アナ……?」

 そこにいたのは、花街にいるはずのゲンチアナだった。

 彼女は灰色の雨の中で不安そうにぼんやりと立っていた。


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