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透明街の人喰い獏 (2)  作者: 葉里ノイ


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162-見えない敵


 暗い小さな街の瓦落多(がらくた)が置かれた置棚が並ぶ古物店。アルペンローゼは定位置に座り、(ばく)はティーカップを一旦台所へ運ぶ。人間の願い事を叶えるために、契約の刻印を施した紅茶を飲ませなければならないからだ。人間が怪しまずに飲むために、率先して飲んで見せる必要がある。

 待つ時間は今度は短く、灰色海月(クラゲ)はすぐに戻って来た。背後にはフードを被って顔の見えない紺色のレインコートの人影を添えて。レインコートは全く濡れておらず、人間の街で雨が降っているわけではないようだが、フードすら脱ごうとしない。少し背を曲げて、ゆっくりと灰色海月の後を歩く。

(……予想と違う人が来ちゃったな……)

 まだ何も話を聞いていないのでそうではないかもしれないが、望みは薄い。レインコート姿から哀愁と不信感が漂っている。

 灰色海月はケーキ柄の手紙を獏へ渡し、いつも通り台所へ行く。


「ひっ――あああああ!」


 その足がびくりと止まる。唐突にレインコートの人間から怯えた声が上がった。

「えっ? 何?」

 何に対しての悲鳴なのか獏も途惑いながら、灰色海月の腕を掴んで引き寄せた。棚の中に変な物でも見つけたのだろうか。理由がわからずとりあえず彼女を守れる距離に引っ張っただけだったが、結果的に功を奏した。

 灰色海月の立っていた位置に小型の刃先が光り、机の側面に突き刺さった。獏の位置からは机の陰となり死角となっていたが、机の横にいたアルペンローゼからはそれが見えていた。掌から素速くレイピアを引き抜いて構える。

「あっ、あ、あぁ……」

 レインコートの人間は全身を使ってナイフを引き抜き、後方へ踏鞴を踏む。肩で息をしながら、呟くようにぼそぼそと喋り始めた。

「願い事……叶えてくれるって……」

 獏は灰色海月を台所へと避難させ、レインコートを注視する。これまでも武器を持つ人間や妙な人間はいたが、まさか可愛らしいケーキ柄の手紙で引き当てるとは思わなかった。

「願い事を叶えてって態度じゃないと思うけど」

 レイピアを構えるアルペンローゼを少し下がらせ、獏は念のために懐から杖を抜いて握っておく。

「だ、だって……怪しい人がたくさん……。何をされるかわからない……」

「怪しいのは否定しないけど。でもそんな態度じゃ願い事を叶える気にはならないよ。ナイフを持って来るなんて、用意周到だね?」

「殺されるかもしれない……誰かが死ぬかもしれない……だからレインコートを着て、いつ血を浴びてもいいように……」

「誰かに命を狙われてるの?」

「わからない……」

「……まあ座ってよ。ここでは刃物を出さないで。没収するよ」

「い、嫌……座るから、これだけは……」

 ナイフを大事そうに仕舞い、レインコートは近くにあった簡素な椅子を引き摺って腰掛けた。フードを被った頭を俯け、小さく震えている。

「アルさん、とりあえず仕舞って」

「……承知しました」

 状況を理解できないまま、アルペンローゼは言われた通りレイピアを仕舞う。だがレインコートがまた不審な動きをした時はすぐに武器を取り出せるよう意識はしておく。

「刃物や銃を持つ人間は今までもいたからね。こういう時もあるよ」

 獏は安心させるようににこりと微笑み、アルペンローゼの耳元へ感情を抑えた声で小さく付け加える。

「危害を加える人間は殺すから」

 アルペンローゼはこくりと唾を呑み、椅子に座る獏を目で追った。殺すことを許可されている罪人がいるのだろうかと訝しげに眉を寄せながらも、邪魔にならないよう壁まで下がる。花街(はなまち)では全ての罪人は死刑となるが、そうではない宵街(よいまち)の罪人の扱いが理解できなかった。

 獏は手紙の封を切って中を確認する。気は乗らないが一体どんな願い事なのかと手紙を開き、固まってしまった。

「…………」

 手紙にはぐるぐると線が描かれているだけで、文字と呼べる物は無かった。

「炙り出しとか……じゃないよね? 何て書いてあるの?」

 持ち上げて薄暗い光に透かして見るが、何も見えてこない。文字が書かれていない。

「……何も書いてない」

「やっぱり? じゃあ口頭でいいよ。君の願い事は何かな?」

「敵の殲滅」

「敵の、殲滅」

 思わず真顔で繰り返してしまった。このレインコートは何かと戦っているのかもしれない。

「えっと……それは現実で?」

「は……? 現実だけど」

 馬鹿にしているのか? と言うように、今までの怯えた態度から一変して不快な声が漏れる。

「あ、わかった。害獣とか害虫の駆除、ってことでしょ?」

 それらが苦手な人にとっては敵と言っても過言ではない。殲滅という過激な言葉にも納得だ。

「もしかして、蜂の巣とか……」

「違う。虫じゃなくて、たぶん人間……」

「人間なの……?」

 思わず聞き返してしまった。殲滅と言うからには敵は一人ではないのだろう。獏は困惑してしまった。願い事とは言え、複数人の人間を殺して良いのか。御仕置きされるのではないかと懸念を抱く。

 獏は台所で刻印の紅茶を淹れて出すタイミングを見計らっている灰色海月に目を遣り、レインコートを指差して首を傾ぐ。複数人の人間を善行で殺しても良いのか。彼女も首を傾けた。そして台所に置いていた紙に何やら書いて獏へ向ける。レインコートからは台所の中は死角になっているので見えていない。

『カスによります』

(人格がカスってこと……? ……あ、クラゲさんはまだ文字を書くのは慣れてないだろうし、もしかして『数』かな?)

 獏の陰から灰色海月の言葉を見ていたアルペンローゼは、彼女がまだ文字を書けないことを知らないため眉を顰めて首を傾げた。

「……じゃあね、敵の数はわかる?」

「わからない……何処にいるかも……」

「どういう敵なの? 君を憎んでるの?」

「わからない……」

 埒が明かない。獏は人差し指と親指で輪を作り、レインコートを覗いた。会話では要点を得ず、直接覗いて見た方が早い。覗き窓を向けてじっくりと中身を観察し、獏はどうしたものかと眉尻を下げる。

(困ったな……この人の中に明確な敵がいない……。敵っていう言葉があるだけで、それを指すものが何も無い……)

 それは言い換えれば、敵がいないことになる。それなら誰も殺さなくて良いということだ。勝手に想像を膨らませて不安になっているだけなのだろう。見えない虚無の敵への恐怖を払拭できれば、願い事は叶ったことになるはずだ。

「わかった。その願い事、叶えてあげるよ。僕はこれから君の武器だ。何をしてほしいか言ってみて」

 何もわかっていないが、空想を遣っ付けるのなら簡単なことだ。何せ明確な敵はいないのだから。少し護衛をして安全だとわかれば満足だろう。

 レインコートの言葉を待ち、獏は頬杖を突く。考えている間に、灰色海月は二人の前に湯気の立つティーカップを置いた。

「何でも……いい?」

「うん」

「向かいの家に、敵がいる……気がする」

「家……? 住人はいるの?」

「いる」

「住人が敵?」

「わからない……」

 困ったことになってしまったと獏は思った。これでは向かいの家の住人を殺すことになるかもしれない。本当は敵など存在しないのに、無実の人間を殺せば御仕置きをされてしまうだろう。

「えっと……あ、願い事を叶えたら代価を戴くんだけど」

「いい。それは……覚悟する。何でも持って行け」

「太っ腹だね」

 何も質問をしないようなので、獏もそれ以上は言わなかった。説明が省けてありがたい。獏は願い事を叶える代価としてその人の心の柔らかい部分をほんの少し戴くが、この依頼者はそこまで噂で聞いたのかもしれない。

「早速殲滅……敵を……何としても……ううぅ……」

 突然立ち上がって背を丸めて唸り出すので、黙って様子を見ていたアルペンローゼは困惑しながら獏を一瞥した。獏も困惑して目を瞬く。情緒不安定なのだろうか、恐怖で壊れそうになっているのか。

「こ、紅茶でも飲んで、リラックスして……ほら」

 刺激しないようにカップを差し出し、獏も自分の紅茶を飲んで見せる。レインコートはぴたりと動きを止め、カップを見下ろした。見下ろしたまま動かなくなった。

「美味しいよ……?」

「おい……しい……?」

 レインコートは恐る恐るカップを手に取り、顔へ近付けて匂いを嗅ぐ。探るように一口飲み、カップを置いた。一口だろうと飲めば契約の刻印が取り込まれるが、美味しくなかったのだろうかと灰色海月も台所から顔を覗かせて様子を窺う。

「もういい……殲滅に行く。今から……。早くしないと……ああぁ……」

「そうだね……早くしないとどうにかなっちゃいそうだもんね」

 店を出るよう促し、獏はアルペンローゼを見る。花街の王から直々に頼まれて預かっている彼を、何だか危なそうな善行に付き合わせても良いものか。灰色海月は監視なので連れて行かねばならないが、アルペンローゼはそうではない。だがここに一人で置いて行くことも心配だ。

「僕は構いませんよ。後方から見ていることにします。僕には要点を得ず、どんな願い事なのか理解できませんでしたが」

「僕も理解してないけどね……」

「後学のために見させてもらいます」

 発作がなければ、アルペンローゼは素直に気遣える変転人だ。花街で重宝されていることも頷ける。そんな彼に傷を一つでも付けるわけにはいかない。獏は気合いを入れ、灰色海月とアルペンローゼを促した。

 契約者が急かすため、灰色海月は手早く獏の首に冷たい首輪を嵌める。急いで灰色の傘をくるりと回して目的の『向かいの家』の前へと降り立った。

 人間の街は真夜中で、人通りは全く無かった。疎らに立っている街灯が静かに誰もいない住宅街を照らしている。

「ここ……」

 レインコートが指差す家を見上げる。立派な二階建ての家だ。新築だろう。背後を振り返り、獏はこれも見上げておく。こちらはレインコートの住む家だ。少し古い木造の住宅だ。

 どちらも家の中の明かりは消えている。日付も疾うに変わってしまった時刻だ、皆寝静まっている。

「い、行くぞ……」

 レインコートは恐れながらも率先して新築の家へ向かって行った。得体の知れない獏という武器を手に入れ、気が大きくなった。怯えながら先頭を歩くという矛盾を冒している。

「大丈夫? 先に行こうか?」

「敵……敵を……この目で見るまでは……ころ……殺される前に、遣らないと……」

 ぶつぶつと呟きながら玄関のドアに手を掛け、レインコートはゆっくりと振り返った。鍵が締まっているらしい。

「おやおや」

 獏は手を翳し、触れずに鍵を開けてやった。急に鍵が開く音がし、レインコートは不信感を浮かべながら手元を暫し見下ろした。

「クラゲさんとアルさんは僕から離れないで。ちょっとね……何もない願い事だと思ったんだけど、嫌な感じがするから」

「はい」

「嫌な感じ……?」

 灰色海月は獏に寄り添い、アルペンローゼは怪訝に家を見上げる。獣は変転人には感じられない物を察知できる。警戒しろと言うことだろう。肘を曲げ、いつでもレイピアを取り出せるようにしておく。

 ゆっくりとドアを開くレインコートの背を見ながら、獏は周囲を見渡す。この家の住人にはとんだ災難だろう。見えない敵を殺すために不法侵入されているのだから。

 明かりが消えているため廊下も暗いが、小さな窓から微かに外の光が見える。先を行くレインコートに続き、獏達も少し離れて中に入った。獏はいつも通り土足だが、レインコートも靴を脱がない。

 きぃ、と音を立てて背後でドアが閉まり、更に暗くなる。夜目の利く獏には全て見えているが、灰色海月とアルペンローゼには殆ど何も見えなかった。目が慣れるにはもう少し時間が掛かる。

「一階、から……はあ、はあ……」

 レインコートは持参した小型のナイフを持ち、肩で息をしながらゆっくりと廊下を進む。廊下には幾つかドアがあるが、リビングへのドアだろうそこは開いていた。

 レインコートは恐る恐る開いているリビングを覗き、その直後にごとりと物が落ちる鈍い音がした。

「っ!」

 獏は音が鳴る前に灰色海月とアルペンローゼの頭を押さえ、倒れるように床に伏せた。アルペンローゼは腕を付いて受け身を取り、灰色海月は手を出すのが遅れて床に頭をぶつけた。

「……!」

 痛いが声を出すまいと灰色海月は頭を押さえながら我慢する。少し涙が滲みそうだった。

 獏はそれには構っていられず、伏せたまま前方へ目を遣る。呆然と頭を失ったレインコートの体がゆっくりと傾き、床へ倒れた。

「な……何ですか……?」

 アルペンローゼも声を抑えながら、伏せたまま尋ねる。まだよく見えていないが、何かが落ちる音は聞こえた。

「二人とも、立ち上がらないで。上に敵が徘徊してる」

「!? どんな敵ですか? 位置がわかれば刺します」

「ううん。君には刺せない。敵はどうやら悪夢みたいだ。悪夢は獏にしか触れられない」

「悪夢……? 何かの比喩ですか?」

「獏はね、夢を食べる獣なんだよ。詳しいことは後で話してあげるけど、とりあえず今は、君はどう足掻いても悪夢に触れられない、けど悪夢は君に触れられる。ってことだけ、覚えてて」

「何ですかそれは……? 貴方以外は一方的に遣られるだけなんですか?」

「さすが呑み込みが早いね。だから僕に任せて。暗いからなのか僕にしか見えてないみたいだから、僕が君達の目になるよ」

「……承知しました」

「まずは……先にあの人を確認するよ。死んでると思うけど」

「悪夢……と言うものを先に始末しないんですか?」

「ん? ああ……今はいないよ。念のために伏せてもらってるけど。リビングの方に行っちゃった」

「全く見えてません」

「そっか。でも僕は気配を感じるから安心してよ」

 獏が匍匐前進で廊下を進むと、アルペンローゼと灰色海月も見様見真似で後に続いた。こんな進み方は初めてだ。獏も慣れていないのであまり速くはない。

 首の落ちたレインコートはやはり死んでいた。暗い中で広がった血は視認し難く、獏は白い手で位置を示して二人に伝えておく。白い手は暗闇でもぼんやりと微かに浮かんで見える。

 二人を少し下げて獏はリビングを覗き、部屋をぐるりと見渡す。

「……やっぱり手遅れか」

 諦めの声と小さな溜息が漏れる。リビングの床や壁に派手に血が付着していた。家に入ってすぐにレインコートが殺されてしまったことから、住人ももう無事ではないと想像できた。殺されてから悪夢の玩具にされたのだろう、首を落としただけにしては血が飛び散り過ぎている。

「死体は二つ……かな?」

 テーブルの前に頭の無い男の体が一つ、台所の陰にもう一人足が見えている。抵抗した様子は無く、テーブルの上に空の食器が少し残っていた。食後に気を抜いている時に殺されたらしい。

(電気を消したのは悪夢かな? 夜を好むのは僕と同じ……だけど、電気の消し方がわかるなんて)

 死体はあるが、悪夢の姿は無かった。物陰に隠れているらしい。獏は指の輪で確認し、台所の向こうに気配を見つける。

「ねえクラゲさん。僕は悪夢を食べていいんだよね?」

 これは大事な確認である。アルペンローゼは怪訝な顔をするが、灰色海月は理解する。獏の烙印は当初、夢を食べられないように細工されていた。無差別に人間の夢を暴食した罰だ。だが悪夢を処理する特権を持つ獏の能力を封じることは、危険な悪夢を野放しにするのと同義だ。宵街に囚われていなければ、悪夢がいれば人間の街を飛び回って処理するのだが、今はそれができない。今回のように手遅れになる場面が多くなる。

 悪夢の報告を重ねて、狴犴(へいかん)はその危険性を理解した。獏に悪夢を食べる許可を出したのだ。本当に悪夢を食べても烙印に激痛が走らないのか、この確認は怠れない。

「悪夢の処理に力を使わないといけないですよね?」

「うん。もしかして、首輪も外してもらえるの?」

「はい。最大には使えないと思いますが、杖が出せるようになる特別な(いん)を預かってます」

「え? 杖も出していいの!? 物分かりがいい狴犴って不気味だね」

 そうは言うが、嬉しい気持ちは表情に溢れた。つい顔が綻ぶ。

「これです」

 灰色海月はそう言って一つの印を取り出した。木の持ち手が付いた判子のような形だ。烙印に激痛を与える仕置印(しおきいん)と同じ形をしている。

「仕置印と間違えてないよね……?」

「一見同じですが、印の部分が違います」

 捺す部分を向けて獏に見せるが、仕置印のそんな所まで見たことはない獏は、何が違うのかわからず不安になった。

「仕事印と言います」

「うう……名前も何か似てる……。間違えないようにもっと音の違う名前とか形にしない?」

「では後で伝えておきます。今はこれで我慢してください」

「痛くないよね?」

「それはわかりません。私は体験したことがないので」

「狴犴はそうやって精神を甚振る気なんだ……やっぱり嫌いだ……」

 杖が出せるようになると言うのに煮え切らない獏に痺れを切らし、灰色海月は首輪に付いている短い鎖を引いて首輪を外した。

 露わになった首の烙印に、灰色海月は躊躇いも無く仕事印を押し付ける。印が仄かに発光し、烙印に膜のような物が貼り付いた。烙印が透けて見える程の薄い膜だ。

 それ以上の変化はなかったので仕事印を離す。灰色海月も仕事印を捺すのは初めてなので、これで良いのか判断に困る。

「これで杖を出せますか?」

「え? もう終わったの? 痛くなかった!」

 自分では見えない首に触れながら獏は喜ぶ。まるで注射を怖がる子供のようだと、一部始終を見ていたアルペンローゼは思った。

 獏は喜びながら手に杖を召喚する。使うのは二度目だ。自分専用の杖が持てることに何度でも感動する。そして残酷な最期を迎えることになってしまった先代の獏のことを思い出す。この手に杖があると言うことは、彼女はもうこの世にはいない。

 愛おしく長い杖を抱き締め、部屋の中を確認する。悪夢はまだ物陰にいるようだ。

「クラゲさんとアルさんは伏せたままここで待機して。片付けてくる」

「はい」

「…………」

 アルペンローゼは見えない物に不安な顔をするが、小さく頷いた。

 獏は微笑み、頭上を確認してリビングへ飛び出す。杖を構え、台所へと先を向けた。

「ふふ……悪夢にこの杖を向けるのは初めてだね……。優しくはできないけど、しっかり食べてあげるからね……」

 出入口から覗く灰色海月とアルペンローゼは息を呑みながら周囲を警戒する。血があちこちに飛び散り、狂暴な悪夢だ。

 杖を使える興奮を口元に笑みとして載せながら、獏はじりじりと開けた台所へ接近する。黒い影は姿を現さず、先に倒れている足の方へ目を遣る。台所の死角に回り、女の体が少しずつ視界に入る。やはり首を切られて死んでいる。それを確認した瞬間、奥のゴミ箱の陰から黒い物が飛び出した。人の頭部ほどの大きさのそれは壁を素速く這い、天井近くを滑るように移動して台所から飛び出した。

(速い……!)

 足などは生えていないが、目で追うのが精一杯の速度だ。ここまで速いと攻撃を当てるのが難しい。

「――わっ」

 悪夢は停止し、間髪を容れずその身を引き伸ばして紙のように薄い攻撃を放った。獏は咄嗟に腰を反らして避ける。油断していると首が無くなる。

 床と水平に極めて薄い黒い刃が放たれた。範囲はかなり広い。廊下でもそうだった。立っていれば逃げ場など無く、廊下の幅を全て塞いでいた。まるで水平方向へ発射されるギロチンのようだった。正確に首を狙っている。見えなければ避けることができない。

(素速いなら、動ける範囲を狭めたいよね)

 獏は体勢を立て直して杖を振る。攻撃されるとわかっているのか、悪夢は素速く移動しながら薄い刃を飛ばした。

 獏は杖を切られまいと避けながら、尻餅を突きそうになり手を突いて転がる。舞うように素速く刃を躱し、杖を振るタイミングを窺う。手作りの杖の倍以上も長い杖はまだ慣れず、攻撃に当たらないよう杖の先を度々確認せねばならない。

 獣が力を使う時は杖の変換石に力を籠めてから出力しなければならず、どうしても攻撃が遅れてしまう。慣れれば限り無く差を縮めることができるが、獏にはまだ難しい。悪夢の攻撃を避けることはできるが、仕返しが遅れる。

(烙印で封じられてたら杖の練習もできないし、これなら杖が無い方が良かったかも……)

 制限が一つ増えたような気分だった。悪夢が狩れない獏など存在している価値が無い。

 だがこんなに危険な悪夢を外に出すわけにはいかない。泣き言は言っていられない。

 全身を使って刃を躱す獏を、アルペンローゼは瞬きも忘れて眼球だけを動かし観察する。悪夢とやらは彼の目には見えないが、獏の動きで敵の動向を読み取る。獏からは何も攻撃できていない。止まない攻撃に苦戦している。悪夢とやらに疲労という概念があるのならこのまま耐えていれば勝機があるが、無い、もしくは限り無く感じ難いとすれば獏が不利だ。

「……貴方はここにいてください」

 囁くアルペンローゼに灰色海月は怪訝な顔をする。

「悪夢が見えますか……?」

「いえ。ですが、気を逸らせることはできるはずです。一瞬でも隙を作ることができれば、勝機があります」

「私も協力できますか?」

「できません。僕にしかできないです」

 はっきりと言い切り、アルペンローゼは武器を持たずに腰を浮かせた。灰色海月は力になれないことを悔やむが、アルペンローゼの方が長く生きて経験があることは知っている。この場はきっと、見て学習する機会なのだ。彼女はそう自分を納得させた。将来力になるために、今は大人しく伏せて待つ。

 獏が離れた位置で回避の体勢を取った瞬間に、アルペンローゼはリビングに飛び込んだ。獏のいる方向とは反対に、なるべく距離を取る位置に滑り出す。

「!?」

 指示していない動きをする彼に獏は当然驚く。

 見えない悪夢は部屋に飛び込んで来たもう一人に向けて透かさず薄い刃を飛ばし、見えていないアルペンローゼは避けない。同時に複数の刃を飛ばせない悪夢がアルペンローゼに気を取られた隙に、獏は杖を振った。

 アルペンローゼの首に薄い刃が差し込まれ、無防備な悪夢の本体は光の矢の猛襲を受けて壁に磔になった。

「アルさん!」

 首が落ちる前にアルペンローゼは体を反らして床に手を突き、首を反らして床に倒れた。血の流れる首に手を当て、眉を顰めて傷口を塞ぐ。

「何してるの!?」

「これで終わりですか……?」

「……!」

 獏は叱りたい気持ちを一旦抑え、磔の悪夢へ駆け寄った。まずは厄介な物の処理だ。椅子を運んでその上に立ち、面を外して身動きの取れない悪夢へ顔を寄せる。悪夢に口付けるように動きを止め、黒い靄を喰い尽くす。美味……だが恍惚としている場合ではない。獏は急いで椅子を蹴り、アルペンローゼに駆け寄った。

「悪夢は食べたよ。君は何でこんなことをしたの!?」

「見えなくても、肌に触れれば知ることができます。切断される前に避けることは可能だと思いました」

「無茶苦茶だよ! 幾ら君の治癒力が高いからって、絶対避けられる保証も無いのに無茶しないで!」

「……何故怒ってるんですか? こんなことで怒られたのは初めてです」

 本当に怒られている理由がわからないアルペンローゼは徐々に困惑を浮かべる。花街では死なないよう言われはするが、肉を切らせて骨を切ることを怒りはしない。

「花街ではどうだか知らないけど、僕は怒るよ! 無茶苦茶だもん! 自己犠牲も、命を粗末にするのも無しだからね! 死ぬ所なんて、見たくないんだから……」

 首を落とされて死んだ白花苧環(シロバナオダマキ)の姿が鮮明に脳裏を過ぎる。あんな思いはもうしたくない。アルペンローゼを抱き締め、生きていることを確認する。体温は失われていない。だがあまり長い時間傷を放置するわけにもいかない。手を離し、彼の首へ杖を向ける。止血しかできないが、高い治癒力を持つ彼には止血だけでも充分だ。

「傷が……塞がった?」

 傷から手を離し、首は見えないが血が流れなくなったことに怪訝な顔をする。

「塞がってないよ。止血しただけ。大人しくしてないとまた血が出るよ」

「……ありがとうございます」

「花街では自分の身を削るようにって躾けられるの?」

「いえ。僕の独断です」

「……アルさんは今後、指示無く行動するのは禁止だよ」

「それはお断りします。フェル様の命令なら別ですが」

「…………」

 宵街の獣の言うことは聞かない。揺るぎない花街への忠誠心が獏を呆れさせた。変転人は獣のためを思い行動する従順さがあるが、言うことを聞かない者ばかりだ。

「見えない敵との戦闘……良い経験になりました。見えない虫への途惑いがありましたが、立ち向かえると確信しました」

「前向きだね……」

 三十年生きている変転人はもっと慎重なのかと思っていたが、そういうわけではないらしい。アルペンローゼの場合は単に度胸と身体能力が高いだけだ。

「立てる? 一応二階も確認しておきたいんだけど。休んでおく?」

「行きます。悪夢はまだいるんですか?」

「気配はしないけど、気配が稀薄な物もいるから、警戒はするよ」

「色々な種類がいるんですね」

「そ。だから今みたいな素速くて見えない悪夢ばかりじゃなくて、鈍かったり見えたり、色んなのがいるよ。だからまずはどんな悪夢なのか見極めないとね」

「その他の戦闘にも言えることですね。獣も変転人も、同じ能力を持つ人は珍しいです」

「うん。そうなんだけど……さっきみたいなのはやめてよ。それともまさか……首が取れても治癒できるとか……?」

「そんな化物ではないです。少し傷の治りが早い只の人間ですよ」

「……んん……人間の定義が曖昧過ぎる……」

 獏は歯に物が挟まったような複雑な顔をしつつ、面を被り直した。半獣の白花苧環もだが、他よりも少し能力が高いと妙な自信で無茶をする。端から見ていると心臓が幾つあっても足りない。

 伏せたまま状況がわからない灰色海月に手を差し伸べて起こし、一行は二階へと階段を登った。悪夢は見えていないが、解決したのだと灰色海月は理解した。

「もう力は使いませんか?」

 杖を持ったまま階段を上がっていた獏は足が止まりそうになったが耐えた。彼女は烙印を元に戻して首輪を嵌めて良いか確認している。折角烙印を封じられて自由に力が使えるようになったのだ、そのままでいたいと思うのが常理だろう。

 無言のまま二階の部屋のドアを開け、その一つに頭が転がっていた。首の無い少年の体が落ちている。どうやら親子三人の家族のようだ。誰の悪夢なのかはもう確認できないが、手紙の差出人は悪夢の存在を無意識に感じて違和感を覚えたのかもしれない。悪夢は目に見えず、それは見えない敵となる。

 二階には悪夢はいなかった。家の中の人間を全て始末して獲物がいなくなり、次の獲物を探すために外に出ることがなくて本当に良かった。あんなに素速い悪夢が外に飛び出してしまったら、狩るのが難しくなる所だった。その前に気付かせてくれた差出人には感謝すべきだろう。

「悪夢が出て助けを求められても、助けられたことなんてないね……」

 白花苧環達と行った山でも、毒芹(ドクゼリ)も、助けられなかった。獏以外が悪夢の存在に気付くようなら、それはもう手遅れなのだ。

 獏は目を伏せて踵を返し、とんと階段を飛び降りる。その背中があまりに悲しげで、灰色海月は追うことができなかった。

 獏はとんと廊下を駆け、家の外へ飛び出す。街灯のある外は家の中よりも明るい。それを体に感じながら、屋根に跳び乗り駆けて行った。

「あ……」

 灰色海月は首輪を手におろおろとアルペンローゼを振り返り、急いで玄関に向かった。罪人が逃げた。

 だが心配を余所に獏は自ら戻って来た。しょんぼりとした空気を纏っている。

「杖、消えちゃった……」

「一定時間経過すると仕事印の効果は消えます」

「そんな……」

 力を取り戻した獣は変転人では取り押さえられない。そんなことはわかっているので、狴犴は予め解放時間を制限していた。特権を持つ獣であろうと無制限の自由は与えない。

 元の通りに首輪を嵌められた獏は悲しそうに眉尻を下げた。自由を満喫しようと飛び出したのに、あまりに短い夢だった。

「善行は終わりですか? 私には見えないので、善行を熟せたのか実感がありませんが」

「……悪夢は食べたよ。代価は貰えなかったけど……悪夢は食べられたから良かったかな」

「では帰ります」

「儚い自由だったな……」

 間の抜けた罪人と監視役の会話を聞きながら、宵街は平和な場所なのだろうとアルペンローゼは苦笑する。死刑を執行しなければならないような凶悪な事件が起こらないのなら、棲み易い街なのかもしれない。

 実際のことを知らないアルペンローゼは平和の錯覚を覚えながら、灰色の傘で小さな街へと戻った。


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