161-不安
小さな誰もいない街の古物店で、獏とアルペンローゼは話をしながら灰色海月の帰りを待っていた。彼女は願い事の手紙を拾いに行ったのだが、数が多いのか帰りが遅い。
アルペンローゼから得た情報を早く贔屓に伝えたかったが、灰色海月がいなければ罪人は何もできない。
一人では食べきれないガトーオペラとミルクレープを交互に食べながら優雅に紅茶を飲む獏を見て、アルペンローゼは自分の推測が間違っているのではないかと疑念を抱き始めた。罪人がこんなに伸び伸びとしていて良いのだろうか。
花街と宵街は異なる獣が治め、これまで交わることがなかった。独自の規則があって当然だ。アルペンローゼは宵街の規則を把握していない。彼は拷問でこれでもかと痛め付けられたが、その後は拘束されることもない。宵街の罪人の扱いは何とも不思議だ。
「あっ、あの、戻りました……」
慌てた様子で珍しく駆け込んで来た灰色海月に労いの言葉を掛けようとした獏は、思わず腰を浮かした。
彼女の後ろで何かがぶつかる音がし、アルペンローゼも通路を覗いた途端に勢い良く立ち上がった。
「フェル様!?」
灰色海月の背後で入口に頭をぶつけた長身の青年が、頭を下げて店に入る。花街から出てはいけない彼が何故またここにいるのか、獏とアルペンローゼは質問の声も出ないほど驚かされた。
「手紙が幾つか投函されてたので回収してたんですが、フェルニゲシュさんがポストで待ち伏せしていて……」
灰色海月も状況が理解できず、人間の街での出来事を辿って話した。願い事の手紙は回収するのが早ければ差出人と対面することはあるが、物陰で獣が待ち伏せしていると心臓が止まる。灰色海月は心臓が跳び上がるほど驚いた。知り合いでなければ心臓が止まっていたかもしれない。
「オレがポストに入れたのは一通だ」
そんなことを聞きたいわけではない。獏も立ち上がり、慌てて灰色海月を手招く。フェルニゲシュの目的がわからないため、距離を取る。
「アルも居るのか。丁度良かった」
アルペンローゼは半開きになっていた口を一度閉じ、机の前へと出た。
「どういうことですか……何故フェル様がここに……」
「そ、そうだよ! 勝手に来たらアナさんに怒られるんじゃないの?」
口々に問う二人を手で制し、フェルニゲシュは頭上を確認してから通路の奥へと進んだ。出入口は低いが、天井の高さは充分にある。
「アナは留守だ。その隙に来た」
「留守……ですか? 留守でも貴方が花街を出たことは伝わるはずですが」
「こちらも今は騒々しくてな」
「! 虫が出現したと聞きましたが、まさかアナに何かあったんですか!?」
「いや、アナは何ともない。成程、虫の情報は既に伝わっているのか。虫を警戒して街の変転人を調査することになってな。それでアナも検査のため留守にしている」
ゲンチアナが無事と聞いてアルペンローゼは一先ず胸を撫で下ろした。花街も虫の調査に本腰を入れているようだ。
「それなら……いえ、良くないですね。フェル様は何故ここに来たんですか?」
獏と灰色海月が見ているので、アルペンローゼはフェルニゲシュに已むを得ず接近する。王に失礼のないように振る舞いたいが、二人に聞かれる方が不味い。長身の彼の傍らで背伸びをし、口元に手を当て耳を借りる。
「……すみません、耳を貸してください」
頭一つ分ほど身長差がある彼の耳に届かない。フェルニゲシュは腰を屈める。
そんなわかりやすい耳打ちを見せられて獏は途惑うが、声を掛けるのは後にしようと空気を読んだ。
「ユニコーンを派遣して偵察させている最中に、何故貴方が来るんですか!? 貴方は街から出てはいけない……それを理解して派遣したんではないんですか!?」
ゲンチアナがいなくても、誰かが叱らなければならない。この場でその役ができるのはアルペンローゼしかいない。
「お前が焦燥を見せるのは珍しいな。サプライズなら大成功と言えるだろう」
「…………」
「ユニコーンから一報が届いたんだ。それでお前の状況も知った。直接自分の目と耳で確認したいと思って、ここに来た」
「また問題になりますよ……」
溜息を吐きたい所だったが、アルペンローゼは我慢した。フェルニゲシュの好奇心と行動力はゲンチアナも手を焼いている。彼を止められない自分は無能なのだと、アルペンローゼはゲンチアナから相談を受けたことがある。
「ユニコーンはここには居ないのか?」
「彼女は宵街に居ます。会いに行くんですか?」
「いや。お前に会えたなら、それでいい。体は大丈夫か? 怪我は?」
アルペンローゼを心配しているのは本当らしい。妙な虫に知らぬ間に寄生され、彼はばつが悪い。
「……大丈夫です。僕の中にはもう虫はいません。怪我も治りました」
「そうか」
踵を床に下ろし、アルペンローゼは一歩下がる。耳はもう良いのかとフェルニゲシュも腰を伸ばした。ゲンチアナならフェルニゲシュを殴っている所だが、アルペンローゼは彼を殴らない。秘書でもない変転人が獣の王を殴るわけにはいかない。
「獏は……」
アルペンローゼが目を伏せてしまったので、フェルニゲシュはその向こう――獏の方へ漸く目を遣る。少し視線を下げて机上のケーキと紅茶を一瞥し、アルペンローゼの肩を叩いて通路の奥へ歩を進めた。
「狴犴と対立……いや、独立していると考えていいのか?」
「独立……?」
何の問いなのだと獏は首を傾げるが、彼にも獏が罪人だと気付かれているのだと悟った。統治者と罪人は相容れることがない。
「言葉を誤ったか? ……宵街とは別の勢力……と捉えていいのか?」
「……何となく聞きたいことはわかったよ。僕は別の勢力じゃないけど、狴犴は嫌いだよ。僕に有益なことなら情報を共有するし、僕に不都合があるなら喋らない。中立みたいな感じかな?」
「そうか。それでアルの面倒を見てくれているんだな。それは感謝する。感謝ついでに、少し話をしよう」
「いいけど……アナさんが飛んで来る前に帰りなよ」
「そうですよ、フェル様」
それは獏に同意だとアルペンローゼも頷く。二人に釘を刺されながら、フェルニゲシュは近くにあった椅子に腰掛けた。少しも気不味くならず、全く動じていない。こんな所ばかり王の器の大きさに感服する。
「まずはアルにだが」
二人の言葉は聞き流し、フェルニゲシュは勝手に口を開き始めた。
「……何でしょうか」
「お前を殺せと言う手紙があった件だが、城では一切話に上がっていない。お前が宵街に行った話も出ない。無断で旅行にでも行っているのだろう、ということになっている」
「そうですか……。そのまま有耶無耶になって行方不明という扱いになって、新しいアルペンローゼの変転人を作れば、何れ風化しますね」
ヴイーヴルが宵街の調査を任されてアルペンローゼを連れて行ったことは、フェルニゲシュしか知らない。フェルニゲシュが口を閉ざしているなら、アルペンローゼが花街にいない理由など誰も知らないだろう。アルペンローゼは冷静に咀嚼する。
「そう悲観的になるな。お前の安全が保証されれば、オレが何とでも言える。今はまだその時ではない」
「そうですね」
「話は変わるが、お前は城の庭の一角にある墓地は知っているか?」
「墓地……? どの辺りですか?」
「城の一番奥の、立ち入り禁止だそうだが、使用していない塔から見下ろせる位置にある。塀に囲まれていて、庭からは中が見えないだろうな」
「使用していない塔……そこは掃除も不要で、立ち入るなと言われたので僕は入ったことがありません。渡り廊下の扉に錠が掛けてあったはずですが、外して入ったんですか?」
立ち入り禁止になっている塔へ続く渡り廊下の前には、錠で閉ざされた扉がある。アルペンローゼは番人ではないので頻繁に扉を確認しているわけではないが、錠が開いている所など見たことがなかった。
「開いていた」
誰かが開けたのか、フェルニゲシュが開けたのか、気にはなるが今は言及しないことにした。いらぬ藪を突きそうな気がする。それよりも墓地の方が少し気になった。
「……墓地は庭の手入れを手伝っている時も気付きませんでしたね……墓地があることも、手入れを言い付かったこともありません」
「アルも知らないのか。やはりズラトロクに訊いた方がいいか」
「ロク様が管理してらっしゃるんですか?」
「オレは何も知らない。ただ個人的に調査している時にズラトロクが不審な動きをしていてな。無断でヴイーヴルの部屋に入ったんだ」
「……?」
「ヴイーヴルの調査をしようと思ったんだが、ズラトロクも何やら動いているようだ。ヴイーヴルと噛んでいるらしいスコルとハティはいつも通りだが、いつも通り妙な動きばかりしている」
スコルとハティが妙な動きをすることはアルペンローゼも知っている。あの二人は人間の街と花街を走り回って遊んでおり、自由奔放だ。一見ゴミとしか思えない物を拾って持ち帰ったり、衝動的に買物をしたり、人間や変転人を揶揄している。怪しいと言えば全ての行動が怪しく、その中で本当に怪しい行動をしていても気付き難いだろう。
だがその二人はともかく、ズラトロクは普段怪しい行動をしていない。ズラトロクの日常は主に湖畔でのキャンプだ。あとは城の厨房を覗いたり、キャンプに必要な物を買いに行ったりと至って健全だ。その彼が不審な動きをしているのは確かに気になる。
「具体的にロク様は何をしてるんですか?」
「ズラトロクに付いて行って、オレは墓地を見つけた。尋ねても何も教えてくれなかったが」
「墓参り……でしょうか?」
「ヴイーヴルの部屋に隠し通路があってな、そこから行ったんだ。ヴイーヴルは通路の存在に気付いているか知らないが」
「それを最初に言ってください。ヴイーヴル様の部屋は地下……つまり地下通路ですか。道理で気付かないはずです。ヴイーヴル様の部屋は何度も掃除をしましたが、僕は通路の存在を知りませんでした。家具や調度品はその場から動かさないように掃除をと言われてます。通路に気付かせないためである可能性はありますね。ヴイーヴル様の部屋は暗いので、物にぶつからないよう動かすなと言っているのだと思ってました」
「物にぶつからないようにするためである可能性は否定できない。通路と墓地のことをヴイーヴルに尋ねるのは保留にしている。いらぬ藪を突き兼ねないからな」
「それがいいですね。ですが……ヴイーヴル様の謎ばかり増えますね。ヴイーヴル様は今はどうしていますか?」
「城下町に出現した虫の調査に当たっている。調査員と清掃員を連れて行った」
「……ミモザですね」
「こちらはどう……獏は楽しそうだな。口元が笑っている」
「えっ?」
突然視線を向けられ、二人の会話を黙って聞いていた獏は慌てて口元に手を当てた。動物面を被っていて顔は殆ど隠れているというのに、表情は駄々漏れである。
「オレの話は面白いか?」
「お……面白いって言うか……知らない墓地に立ち入り禁止の場所、それに隠してある地下通路……ちょっとわくわくしてこない?」
「わくわく……か。なら獏も城の調査をしてみるか?」
「え?」
突然何を言われたのか、獏はきょとんとしたまま数度瞬きをした。
「客人としてオレが招待してやるが」
彼は牢にいるべき罪人を連れ出そうとしている。
「い、いやぁ……あんまり勝手な行動をすると僕も怒られるからね。痛い御仕置きをされるから……」
「入城できるよう一筆認めてやろう。オレ一人で調査をするのも限界があるからな。手伝ってくれるなら助かる」
「ちょっと、勝手に話を進めないでよ!」
「では来るか来ないかお前が選ぶといい。オレはあまりここで待っていられない。アナに見つかる前に帰らないと」
花街を出た時点でゲンチアナには知られているが、フェルニゲシュは自身の首輪の存在を忘れたのだろうかとアルペンローゼは渋い顔をする。
紙とペンはないかと辺りを見回すので、獏は彼の気が済むように差し出してやった。フェルニゲシュは花街の王だ。友好的に接して損は無い。邪険にして宵街に何か損失があった場合、その方が後で文句を言われる。
「……そうだ、一つアドバイスもくれてやろう。ズラトロクと話をするなら、ドレスでも身に纏って来るといい」
「……ドレス? パーティーでもするつもり?」
「?」
フェルニゲシュの言葉の選択で時折会話が止まる。彼は翻訳機を介さない会話を行っているが、大事な場面では翻訳機を用いた方が良いかもしれない。翻訳機を耳に装着しているアルペンローゼは、疑問符を浮かべる二人に説明をする。
「ロク様が男性とはあまり話さないことは知ってますよね。なので一目見て女性だとわかる格好をして行くと、聞きたいことが聞けるかもしれません」
「それでドレス……そこまで着飾らなくてもいい気はするけど。フェルもズラトロクって人とあんまり話したことがないの?」
「ああ。墓地のことも何も教えてくれない。今更女装をしても、オレは顔が割れているからな」
獣にも様々な性格や好みの者がいるが、花街の上層に選り好みをして話す獣がいるのは些か面倒な話だ。ズラトロクは事務的な話や必要最低限の会話しかせず、会議の時ですら口数が少ない。
「獏は顔が割れていないから、そのマスクを外して行くと、より効果的だ」
「どんな顔か知らない癖に」
「マスクに隠れていない顎や口元は端整だと思うが」
「じゃあ上半分が醜悪かもね」
「ズラトロクも美醜は気にしないはずだが」
全く引き下がらないフェルニゲシュに、獏は頬杖を突いて『い』の口を作って威嚇する。面を外さねば会話もできない相手なら、会いたいとは思わない。余程の事態でないと会話をしようとは思わない。
「……そこまで嫌がるならズラトロクと似た理由なのか。それなら無理強いはできないな」
「似た理由……?」
獏がお面を被るのは人間に見世物にされたことが原因だが、ズラトロクも獏と同じように見世物にされた過去でもあるのだろうか。そう考えると獏の眉尻は自然と下がる。それなら同情する。刻み付けられた屈辱は時が経とうと消えることは無い。
「ズラトロクは昔……城に来る前の話だが、彼の留守中に使用人の変転人達が人間の男達に皆殺しにされた」
「え……」
「原因は詳しく知らないが、それ以来、男が嫌いなんだそうだ。自分自身も含めてな」
いつも通り外出して帰って来た時に、迎えてくれるはずの人達が全て死体になっていたら、その絶望は計り知れないだろう。人間ではなく男を憎んだことは獏とは違う所だが、彼は相手を憎むと共に、守れなかった自分をも憎んだ。
「フェル様、あまり軽々しく話すものでは」
アルペンローゼもズラトロクの過去は知らなかった。使用人が皆殺しにされたなど初耳だ。三十年以上城に仕えていて初めて聞いたのだから、あまり他言して良いものではないだろう。
「そうだな。だが理由を知らないと信用を得られない時もある。オレが王になり、大公が実権を握ることになった時、信用を得るために大公は自分の過去を語ることになった。今いる大公は、オレが同情した者ばかりだ」
城に仕えるアルペンローゼでも知らないことを軽々しく宵街の者に話すべきではないが、獏が花街の者ではないために話しているのかもしれない。
獣は長命だ。アルペンローゼが生きた三十余年よりも過去の方が長い。アルペンローゼに知らないことが多くてもそれは当然であり、わざわざ問うものではない。それでも不意に知ることになった獣の過去に、今までの仕え方で良かったのだろうかと自問する。もっと城で快適に過ごせるよう、何かできたのではないかと。
「花街にも色々あるんだね。それで僕が信用するかは別だけど、アルさんは匿ってあげるから心配しないでよ」
「それだけで充分だ。アルの安全を確認できたんだ、来た甲斐がある。首輪の所為かどうにも頭が回らないが、無事を確認できて良かった」
「フェル様……」
フェルニゲシュの首輪は、力と感情を抑制するための物だ。感情の抑制により頭が働かなくなっている。首輪を施したのは大公だが、そこまで抑え付けねばならないものなのか、アルペンローゼにはわからない。
「そろそろ帰るとしよう。アサギにも会いたかったが……それはやめておいた方がいいな。問題が鎮静したらまた会いに来よう。獏にはこの書を渡しておく」
「あ……うん、必要になるかわからないけど受け取っておくよ。只の観光ならいいんだけどね……」
「只の観光でも構わないが」
「本当にそう思ってる?」
獏は困ったように笑い、フェルニゲシュが認めた手紙を懐に仕舞った。花街自体は広大で美しく観光するには良い場所だ。虫の問題さえ無ければ。
フェルニゲシュは立ち上がり、アルペンローゼの肩を軽く叩いて踵を返した。無断で花街を出たフェルニゲシュの行動は咎めるべきだが、それでも王自ら無事を確認するため赴いてくれたことはアルペンローゼにとって嬉しいことだった。ユニコーンは味方だとわかっているが面識のある獣ではないため、見慣れた王の顔を久し振りに見ることができて、どれほど安心したかわからない。
ドアを開けて出口を潜る際にフェルニゲシュはまた頭をぶつけ、アルペンローゼは慌てて駆け寄る。獏も見送るために出入口へ向かった。
「フェル様、頭上には気を付けてください」
「ああ。宵街はまだ余裕があるが、ここは低いな」
宵街は様々な身長の獣に対応するために出入口の高さに余裕を持たせてある。獏の身長に合わされたこの街のドアは、宵街よりも人間の街に近い。フェルニゲシュのように身長が百九十センチメートル以上ある人間はあまりいない。
「帰ったらスコルとハティ、念のためにアイトの身辺も調べてみる。他に何か気になることはあるか?」
アルペンローゼを殺せとの手紙に関与しているのはヴイーヴルとスコルとハティだが、ズラトロクも怪しい動きをしているとなれば、残るアイトワラスも調べるべきだろう。
フェルニゲシュがわざわざ問うのは、アルペンローゼの観察眼を高く評価してのことだ。首輪で抑え付けられているフェルニゲシュよりも気付くことは多い。
アルペンローゼは一度目を伏せて会話を反芻し、遠慮がちに呟く。
「ミモザを……」
「ミモザ? 彼女達なら平素と変わらず仕事を熟してくれているが」
「彼女達が怪しいというわけではないんですが……何かに巻き込まれていないかと、少し心配で」
「そうか。巻き込まれて……と言うことなら、お前が留守の間に仕事に追われているが」
「僕がいないと大変ですか?」
「慣れだろう。ワイスも手を貸してくれればより安泰だが、ズラトロクが取り込んで離さないからな。だがミモザの数がいれば、お前の穴も埋められる。お前は長期休暇だとでも思っているといい」
「こんなに落ち着かない休暇は初めてです」
「オレはこんなに仕事をしているのは初めてだ」
冗談なのか皮肉なのか、フェルニゲシュは無表情だ。アルペンローゼは返す言葉が思い付かず、一先ず石畳に片膝を突いて頭を下げた。
「虫に関して何も力になれず申し訳ありません。一刻も早い解決を祈ることしかできず」
「ああ。一刻も早くお前が無事に帰れるよう努力しよう」
フェルニゲシュは杖を召喚し、くるりと回して姿を消す。
それから数分後、時が止まったように動かなかったアルペンローゼがゆっくりと頭を上げて立ち上がった。
「王に任せてばかりで……僕にできることはないんでしょうか」
誰もいなくなった暗い空間にぽつりと問う。答えは返って来ない。本当は自ら花街へ行き、調査をしたかった。寄生した虫はもういなくなったのに、あの置き手紙の所為で身動きが取れない。まるで胸に釘を打たれたようだ。
店の出入口から様子を窺っていた獏は、待つことしかできない彼に同情し、そして待つことができる彼に感心した。待たずに話を聞かず飛び出す白い少年を知っているので、アルペンローゼの聞き分けの良さには感服する。
「とりあえず……善行する?」
灰色海月がフェルニゲシュを連れ戻った時に、手紙を幾つか回収したと言っていた。ただ待つだけでは彼も落ち着かないだろう。
「では差出人を連れて来ます。三通あるんですが、どれにしますか?」
背後から顔を出した灰色海月は、色も大きさも異なる三つの封筒を差し出した。彼女の表情は常の通り無感動だ。飾り気の無い茶封筒に、隅に猫の絵が描かれた白い封筒、そして縁にケーキの絵が並ぶ桃色の封筒だ。
「美味しそうだからこれにする」
「わかりました」
また適当な理由で選んでいる。指差されたケーキの描かれた封筒を手に、灰色海月は灰色の傘をくるりと回して差出人を迎えに行った。
「アルさん、そろそろお店に入って、一緒に善行しよ」
「それは……罪人への刑罰ですよね? 同行はしますが、手伝うのはどうかと」
「少しなら手伝ってもいいんだよ。今までも色んな人に手伝ってもらったし、僕一人じゃ限界があるからね」
罪人への刑なのに、そんな緩い考えで良いのだろうか。アルペンローゼは首を捻るが、このまま店の前に突っ立っているのも邪魔である。妖しい動物面に手招かれるまま、アルペンローゼは古物店の中へと戻った。




