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透明街の人喰い獏 (2)  作者: 葉里ノイ


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157-遠足


 変転人の数が減ったことで宵街(よいまち)では人手が足りず、新たな変転人を作ることになった。

 稀に有毒生物が無色ではなく有色の変転人になることや、通常無毒な生物が環境などによって無色の変転人になることもあるが、今回は四人全てが有毒植物から無色の変転人となった。

 植物以外にも有毒な生物は存在するが、根を張らずに動き回る生物を見つけるのは困難で、見つけても人の姿を与える間は捕まえておく必要があり手間が掛かる。植物に狙いを絞るのが手っ取り早い。季節は春ということもあり、花を咲かせている植物なら見つけ易い。この季節を逃すのは惜しい。

 宵街に棲む十歳以上の無色の変転人七人が新たな四人と零歳の二人の教育を任されたが、常に七人全員で六人を教育するわけではない。零歳の二人は既に文字の読み書きがある程度できるので、彼らに合った教育をと狴犴(へいかん)に注文されている。その他に、騒動が続いて怯える有色の変転人のために下層の見回りもする。七人は手分けして事に当たることになった。

 新たな四人は工房で服と傘を作ってもらい、図書園へと連れて行かれる。図書園はまだ修復中なので、他の変転人の立ち入りは禁止だ。その間に四人は教育を施される。

 四人の教育にはまず金瘡小草(キランソウ)狐剃刀(キツネノカミソリ)洋種山牛蒡(ヨウシュヤマゴボウ)長実雛罌粟(ナガミヒナゲシ)が当たることになった。小さな車輪が付いた黒板を前に置き、平仮名と片仮名の五十音表を貼る。変転人となったばかりでも言葉は話せるが、読み書きはできない。人間の近くで育った生物なら読み書きができる者もいるが、それは稀だ。

 大きな机の各々の前に白紙とペンを置き、洋種山牛蒡はにこりと笑顔を作って四人を見た。獣の相手をする仕事より平和だ。

 新たな無色は黒と白が二人ずつだ。人の姿を与えるまで何色になるかわからないので、これは偶然とは言え均衡が取れている。

 黒の一人は花韮(ハナニラ)の少女で、葉は韮に似ているが毒を有する植物だ。青や白の星形の花を咲かせる。それとは別に食用で同名の植物もあり、混同しそうになる。彼女は退屈そうに机に頬杖を突き、ペンを指で弾いて机の外へ飛ばし、飛距離を目で追っていた。

 黒のもう一人の女は野襤褸菊(ノボロギク)と言い、全草に毒がある。その辺を歩いているだけで見掛ける小さな黄色い花を咲かせる植物だ。花が終わると小さな綿毛になる。彼女は椅子に座らず、出入口でじっと外を見ていた。

 白の一人は燈台草(トウダイグサ)の少年で、全草に毒があり、傷付けると漏れる白い液に触れると気触(かぶ)れなどを起こす。名前は岬に立つ灯台ではなく、昔の照明器具である灯明台に似ていることが由来だ。彼は前に置かれた白紙を手に取り、微動だにせず見詰めていた。

 最後の白は蝮草(マムシグサ)の青年で、有毒だが、球茎を乾燥させた物は生薬として利用されている。小さな玉蜀黍(トウモロコシ)のような真っ赤な実を付けるが、これも毒である。名前の通り蝮のような色と形をしており、自身の栄養状態により性転換する植物だ。彼は席を立ち、勝手に書架の本を見ていた。

 洋種山牛蒡は黒板の前まで下がり、一番話し易そうな金瘡小草に、貼り付けた笑顔のまま目を向ける。

「凄く個性的で……自由そうな人達……ね?」

「白は普段あまり他人と交流しないから、これが普通なのかわからないんだけど、黒の目から見ても自由奔放なの?」

「黒も他人の教育は義務じゃないから、困ってたら助けてあげるって程度なのよね。大体の人は大人しく話を聞いてくれるんだけど」

「席に着かない人が二人いるね」

「蝮草のことは任せるわ」

「何で名指しで押し付けたの」

「蝮草はどう見ても男よね? 蝮草は栄養状態が悪いと雄になるんでしょ? ……気にしてるかもしれない。白の気持ちって黒にわかる?」

「へえ、そうなの? でも考え過ぎじゃない? 白だからこっちで面倒は見るけど」

 植物の時の年齢や大きさは人となる時の外見とは関係が無いのだが、植物の蝮草は大きく育つと雌になる。人の姿を与えられた彼の身長はやや高めだが、紛れもなく男性だ。まだ彼から何も話を聞いていないが、心中は複雑かもしれないと洋種山牛蒡は勘繰る。

 こそこそと話す二人を少し離れた場所で狐剃刀と長実雛罌粟は他人事のように無言で眺める。教育に精を出す性格ではない二人は、彼女達に任せることにした。

「――皆、授業を始めるよ。蝮草、本は持って来ていいから席に着いて。野襤褸菊も」

 読み書きも大事だが、他にも教えることは山ほどある。宵街の規則や武器の生成も教えないと使い物にならない。

 名前を呼ぶと返事は無いが席には着いてくれるので、まだ遣り易い。花韮が弾き飛ばして床に転がったペンを拾い、金瘡小草は気合いを入れて前に出た。


     * * *


 有色の変転人から、人間の街へ行きたいという要望が上がっている。

 その希望者を集め、数回に分けて人間の街へ転送することになった。病の不安が落ち着いたことで許可が出た。発作を抑える花があり、ユニコーンがいれば虫は駆除できる。有色にはまだ虫の件を話していないが、無色が把握していれば対応できる。

 その引率を任されたのは黒葉菫(クロバスミレ)だった。念のために発作を抑える花も持った。零歳の白花苧環(シロバナオダマキ)白実柘榴(シロミザクロ)を連れ、変転人と交流を持たせてやってほしいと狴犴に指名された。これも教育の内だ。白花苧環と最も交流のある変転人は黒葉菫なので、言うことを聞き易いのではとのことだ。黒葉菫は話を聞かない彼を何度も見たのだが、本当に言うことを聞くだろうか。

 白実柘榴は贔屓(ひき)と共に人間の街を観察していたが、教育のために一旦引き戻された。黒葉菫は彼女とはあまり交流が無いが、以前少し面倒を見ていた黒色蟹が、スミレなら大丈夫だと言ってしまった。その黒色蟹は浅葱斑(アサギマダラ)と共に宵街の下層の見回りをしている。

 今回引率するのは十人の有色の変転人だ。転送範囲にいたとしても無色一人で十人を転送することは不可能なので、三人で手分けをして転送する。転送したい人数が多いと力が足りないのだ。これは変転人だからというわけではなく、獣でも多人数の転送は難しい。

 目的地を確認し、人間に見つからない場所を考えて転送するよう黒葉菫は白い二人に念を押す。既に何度も転送を行ったことがある二人は、そんなことは知っていると思いながら頷く。

 十人の有色の中には面識のある者もいて、紅花(ベニバナ)(ナズナ)はちゃっかり白花苧環の転送範囲へ身を寄せた。

 白は『ハズレ』と噂が広まっているため、白所属の二人を避けて黒所属の黒葉菫へ集まる数は多かったが、限界があるので白の二人にも振り分ける。有色が彼に集まるのは経験がある者の方が安心だからだと白の二人は解釈したが。今の白花苧環には『ハズレ』と言われた記憶が無い。

「あんまり離れると取り残してしまうから、なるべく近くに。人間の街に着いても、その場から動かないように。俺達の目が届かない範囲に行かれると、二度と宵街に戻れないかもしれない。数は確認するが、見える範囲にいてほしい」

 脅しのように釘を刺すが、勝手な行動をされると転送漏れしてしまうのは事実だ。その場合は勿論捜索するが、脅しで気を引き締めておく。

 離れていても見つけ易いよう、有色には宵街に来た当初に狻猊(さんげい)から与えられた揃いの服を着用してもらっている。宵街での生活が慣れた頃に好きな服を買って着るのは自由だが、最初は人間の制服を参考にしたセーラー・カラーの服が与えられている。

 三人は掌から傘を引き抜き、花のように開いてくるりと回す。それぞれ多少の距離はありつつも木陰へと転送した。すぐに数を確認し、有色が十人揃っていることに安堵する。集団転送は初めてだが、想像以上に気を遣うものだった。

 転送が終わったのだからと早速駆け出しそうな有色を引き止め、黒葉菫はこの場所の説明をする。狭い宵街でこの人数を一箇所に留めておくのは難しい。なので先に人間の街へ来た。ここは木々が茂っているが、木立を抜ければ開けた空間が待っている。

「この班は植物と青空を見るのが目的だ。今日は天気が良いことも確認済みだ。空がよく見える場所として選出されたのがここ、牧場だ。知ってる人もいると思うが、牧場は人間が家畜を飼育している場所だ。なるべく人間が少ない牧場を選んだ。ここには牛と羊と……あと山羊がいるらしい。無断で柵の中には入らず、動物には触れないように」

「菫さん!」

 変転人となって初めての人間の街に興奮を抑えきれず、赤紫色の髪の少女が元気に手を挙げた。引率を任されているが黒葉菫が把握しているのは数だけで、名前までは知らない。

「質問か? 何だ?」

「我ら植物は草食動物に食べられる一方でした! 牛は食べられますか?」

 妙な前置きをする少女だ。

「ここから見える牛は……」

 目を細め、木立の隙間から遠くに白黒の模様を見つける。

「乳牛だな。肉にはしないはずだ。奥に店があって、その牛乳を使った食品も売ってる。お金を預かってるから、欲しい物があれば買ってもいい。だが、店の物を全部は買えないから程々に」

「わかりました! 牛は買えますか?」

「牛本体は売ってないと思う」

 売っていたとしても、宵街で動物を飼うことができるかはわからない。狴犴に確認を取る必要がある。小動物ならまだしも、牛は大きい。飼育する場所が無いだろう。だが宵街で畜産ができれば便利だ。

「他に質問はあるか?」

「羊は食べられますか?」

「羊は……毛の方じゃないか?」

「毛?」

「羊毛があれば服が作れる。加工が必要だから宵街でその作業はしてないが。羊毛をそのままとなると……布団に入ってるのは何だ……羽毛か綿……?」

 有色達は一斉に自分の服を抓んだり撫でたりと感触を確かめる。服が作れると言ったが、変転人の服の素材は主に綿だ。

「羊は買えますか?」

「羊本体も売ってないと思う。山羊も売ってないと思う」

 質問される前に山羊にも言及し、赤紫髪の少女は手を下ろした。他に質問はないようだ。

 他の者達も、質問より早く木立の向こうに行きたくて落ち着かない様子だ。これ以上は話を続けても上の空だろう。落ち着いて待っているのは背後の白花苧環と白実柘榴だけだ。

「じゃあ、先に言った通り、俺達の目の届く範囲で。自由行動して良し」

 許可が出ると半数は走り出した。走るなと言っておくべきだったと反省しながら、付近に人間の姿は無いので自由にさせておく。狭い宵街では走り回ることもできない。視界に遮蔽物の無い青空と緑の中を走り回るなど、彼らには初めてのことだ。人の姿を与えられる前は彼らも人間の街にいたが、今回連れて来た十人は皆植物系だ。地面に根を張り、走り回ることはできなかった。

 木立を抜けると柔らかな緑の草の絨毯が一面に広がり、奥の売店や牛舎まで続く細い道の左右に木の柵が伸びる。遮蔽物の無い青空は何処までも続き、所々に綿飴のような白い雲が浮かんでいる。肩の力が抜けていくような穏やかさだ。

 牛や羊は柵から離れた場所でのんびりと草を食べ、変転人達もそれを興味深そうに眺める。食肉となった物は宵街でも見るが、生きている肉を見るのは皆初めてだった。

 柵に身を乗り出して見る者や、地面に蹲んで足元の草を見る者もいる。先程手を挙げていた赤紫髪の少女は蹲んで草を指差し、周囲に何やら話していた。

「マキ、ザクロ。お前達も羽を伸ばしていい」

 黒葉菫の後ろで大人しく待機していた二人は怪訝な顔で彼を見上げる。

「オレ達も有色と同じ扱いですか?」

「私は植物系だから羽は無いの」

「気を抜いてもいい、という意味ですよ」

 白花苧環に指摘されて白実柘榴ははっとし、近くの柵へ駆け寄った。彼女も大きな動物を見るのは初めてだ。

「もっと近くで見たいの」

「牛舎の方に行ってみるか? 皆にも行くか訊いてみる」

 有色と変わらず動き回って良いらしいと白花苧環は解釈するが、仕事として命じられた引率なので腑に落ちなかった。引率の二人が自由を満喫してしまうと黒葉菫が一人で監視することになる。彼は十歳を越える一人前の変転人だが、白花苧環もこの程度の仕事なら足を引っ張らない自負はある。

「オレは引率の仕事をします。気を緩めません」

「私も引率してるの!」

 柵に足を掛けながら白実柘榴は説得力の無いことを言う。柵に乗ろうとする彼女を黒葉菫は持ち上げて下ろしておく。

「融通が利かないな……」

 牧場が選ばれたのは、単に植物と青空が見られるからだけではない。周囲にあまり遮蔽物が無く遠くまで見通せるため、危険が接近したり何か問題があった場合でも対処し易いからだ。遮蔽物が無いと何者も隠れることができない。引率する上でも数を確認し易く、見失うこともない。この引率はそんなに難しいことではない。

「スミレこそ病み上がりなんですから、休んでください」

「あれは結局病気じゃなかったからな……」

「体は何ともなくても、相当落ち込んでましたよね? 虫に関する情報は全て科刑所に入って来るんですよ」

「…………」

 生まれてまだ一年も経たない白花苧環は、気の遣い方もぎこちない。

 心身の変化は病院のラクタヴィージャを通して狴犴に筒抜けで、狴犴の傍らに控える白花苧環も当然のように情報を共有している。発作を起こして(ばく)を襲った黒葉菫はそのことで大層落ち込み、虫を駆除してからも引き摺って浮かない表情を浮かべていた。この長閑な牧場は黒葉菫の気分転換も兼ねていると白花苧環は思っている。

罪人(つみびと)を負傷させたくらいで落ち込むことはありません。スミレも被害者なんですから」

「お前は相変わらずだな」

「もしや、何か後遺症でもありますか? 虫が精神に異常を与えているとか……」

「後遺症は無いと思う。ただ気持ちの問題だな。仲間が死んだ時はいつもこんな……ぁ、いや、この話はやめよう」

 渾沌(こんとん)の騒動で死んだ仲間達のことがまだ彼に重く伸し掛かっている。それが消化されない内に虫に寄生され、自分も近しい人を傷付けることになった。それが黒葉菫にとってはとても苦しいことだった。表には出さないようにしていたが、ついぽろりと漏らしてしまった。

「スミレは優しいんですね。同じように発作を起こした蟹なんて、全く気にしてないって顔で見回りをしてますよ。幾ら発作中の記憶が無くても、少しは動揺してもいいものを」

「レオ先輩は……俺より多くの死を見てるからな。単純に後に引き摺らない性格でもあるが……」

 話しながらも有色達の監視をしていた黒葉菫はふと視線を感じ、柵に手を掛ける彼女へ目を向けた。白実柘榴は牛の方ではなく、黒葉菫と白花苧環の方を見て幼い眉を顰めていた。

「折角の爽やかな景色が台無しなの……暗いのは色だけにしてほしいの」

「ごめん……」

 白は正義に偏るが、交流を持たないためか他人をあまり気にしない。他人の観察をさせるのも今回の目的の一つだ。黒葉菫は気を引き締め直し、二人を促して有色達の許へ向かった。

 何も問題がなければまだ雑談をしていても良かったのだが、遠目に何やら揉めているように見えたのだ。慌てて駆け寄ったが一歩遅かった。黒葉菫達が辿り着く前に、赤紫髪の少女が桃色髪の少年の顔を殴った。

「何があったんだ?」

「あっ菫さん! ネジ野郎が私の仲間を踏ん付けたんです! 酷くないですか?」

「仲間?」

「あれです! あの赤いの」

 柵の際に丸い赤紫色が疎らに咲いている。彼女の髪の色と同じだ。

「……紫詰草(ムラサキツメクサ)?」

 公園などでよく見掛けるのは白い花の白詰草だが、紫色の花を咲かせる物もある。この牧場にも白詰草があちこちに咲いているが、彼女の指差す辺りにだけ紫詰草が咲いていた。

「そんな所に咲いてたら誰でも踏むだろ!?」

「何それ!? 同じ植物系とは思えない発言! ネジ野郎も踏み潰されろ!」

「残念だったな。オレはここには咲いてない」

「ぐっ……皆、捩花(ネジバナ)が咲いてないか探して! 咲いてなかったらこいつを踏む!」

「何でだよ!」

 捩花は一本の茎にピンク色の小さな花が一列に螺旋階段のように捩られて咲く花だ。

 感情を持つ人の姿になった弊害とも言えるだろうか。人間は雑草と呼ぶ草花を踏んでも何とも思わないが、元々が植物だと気軽に踏めるものではない。とは言え宵街にも蔦が蔓延っていたり茂みがあり、外に出れば草を踏まない日は無いのだが。自分と同じ種類の花には思い入れが強いようだ。

「落ち着け、二人共。牧場は草だらけなんだ、踏まないで歩くのは難しい。もっと舗装された公園に行けば良かったな。俺も植物の頃に蹴られたり自転車に轢かれることはあったが、足元を気にしてられないのも今はわかる」

「轢かれてよく無事でしたね……」

 道の端のコンクリートに生えていた黒葉菫は端と言うことで車に轢かれることは無かったが、自転車には何度も轢かれた。葉を踏まれることが多かったが、痛覚があれば痛かっただろう。

 白花苧環は同情なのか呆れなのか感心なのか溜息を漏らす。彼は宵街の花畑で生まれ育ったので、踏まれる経験は無かった。白実柘榴も民家の庭に生えていたので、踏まれる経験は無い。地面に張り付くように生える草花はよく踏まれるものらしい。

「だが踏んだことで紫詰草が傷付いたのも事実だ。名前は捩花……でいいか? 紫詰草に謝ろう。紫詰草も、簡単に手を出すな。謝ろう」

 無色に言われては謝らないわけにはいかなかった。捩花と紫詰草は不服ながら謝り合う。上辺だけの謝罪だった。

 紫詰草と捩花はどちらも悪くない。謝らせはするが叱りはしない。

「今はせめて、この班の皆と同種の植物は踏まないように心懸けよう。近くに同種が生えてる人はいるか?」

 十人を見渡すと、二人がそろそろと手を挙げた。薺と青い髪の少女だ。

 獣が変転人を作る時、頻繁に見掛ける植物を標的にすることが多い。数が多ければ必然的に目に付く機会が増え、人の姿が与えられる確率は高くなる。

「紫詰草と薺と……青い人の名前は?」

「…………」

 青い少女は無言で俯く。黒色海栗(ウニ)のように話すことが苦手なのだろうと考え、黒葉菫は待った。時間を掛けて少女は口を開く。

「……星の瞳です」

「……? 聞いたことがないな。指を差して教えてくれるか?」

 植物系の変転人と言えど、全ての植物を知っているわけではない。この牧場には珍しい植物が生えているようだ。

「……大犬陰嚢(オオイヌノフグリ)です。星の瞳は別名です」

 皆の視線を浴びて耐えられなくなった少女は観念して名乗った。その名前なら黒葉菫も知っている。野などに咲く指先ほどの小さな青い花だ。名前に『イヌ』と付くが、この場合は動物の犬を指す。見た目は可愛らしいのだが、果実の形が犬の陰嚢(いんのう)に似ているためこの名が付いた。別種の犬の陰嚢(フグリ)よりも花が大きいため、こちらは大犬の陰嚢と名付けられた。口に出すことが憚られて言えなかったのだろう。彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

「ごめん……今後は星の瞳と呼ぶから……」

「いいです……屁糞葛(ヘクソカズラ)よりはマシだと思って生きてますから」

 別の酷い名前の植物を挙げ、彼女は気を持ち直した。改名が許可された例を黒葉菫は知っているが、狴犴は有色の名を把握していない。彼が把握していない変転人は自主的に改名要望を出す必要がある。

「紫詰草と薺と……星の瞳は踏まないようにしよう」

 別名を使用することに大犬陰嚢も安心して顔を上げた。有色の中には名を揶揄する者もいるが、この無色の人は良い人だと彼女は安心して思わず笑顔になる。

 だが黒葉菫の優しさに白花苧環は腑に落ちない気持ちもあった。宵街から出ることのない有色は未だ自分が植物である意識が強いのかもしれない。

「……嘗ては植物でしたが、今は動物ということを忘れないようにしてください。皆さんも野菜や果物は食べますよね? 配慮され、一般的に食べ物として広く店に並んでいる植物は変転人にすることを禁じられてますが、植物の意識のまま動物でいるのは辛いだけですよ」

 白花苧環の言葉で、有色はしんと静まり返ってしまった。野菜や果物もだが、米やパンも植物だ。意識してしまうと何も食べられなくなってしまう。水や光だけでは生きていけない体になってしまったことを改めて突き付けられ、有色達は顔を見合わせて困惑した。

 今の白花苧環は知らないことだが、以前の彼は変転人に恐れられていた。単純に身体能力が高く強いこともそうだが、何よりこういった正論が出てしまうからだ。変転人の殆どは彼が生まれ変わったことを知らないが、以前と何も変わらず今もまた恐れる存在になっっている。

「私は別に柘榴の実が食べられても、擂り潰してジュースにされても何も思わないけど」

 横から白実柘榴が口を挟み、それはそれで怖いと有色達は戦慄した。無色と有色の感覚は乖離している。

「そもそも美味しい果実は食べられるためにあるの。(たね)を落としてもらうんだから」

 無色よりも長く生きる者が多い有色は感情も濃く育ち、複雑に考えてしまうようになるらしい。食べさせる立場から食べる立場になったことで混乱している。

「あの牛を見るの。草をばくばく食べてるの。あれが食物連鎖。弱肉強食。草を食べた牛は焼肉定食になって私達が食べるの」

 教育される側の白実柘榴は教育する側に成り切り、遠くの牛を指差して教えてやった。乳牛は焼肉にはならないが、有色は言わんとすることを理解する。

「菫にだけ先生はさせないのよ! 早く牛舎に行きたい」

 黒葉菫の袖を引き、白実柘榴はもう有色を見ていない。喧嘩を見るより、牛を間近で見ることの方に興味がある。

「……白はハズレって言われるのがわかる」

 小さな声が有色の中からぼそりと零れた。悪気がなかったとしても、黒葉菫もさすがに看過できなかった。袖を引く白実柘榴とそれに気を取られていた白花苧環の耳には届かなかったのは幸いだった。

「今言ったのは誰だ? 二度と言うな」

 怒気を含んだ低い声にしんと静まるが、発言者は名乗り出ない。黒葉菫も名乗り出てほしくて言ったわけではない。発言者は自分が叱られていることをわかっているはずだ。次は無い、という警告は理解しただろう。

 白実柘榴と白花苧環は何の話かと怪訝な顔をするが、黒葉菫が怒っていることは推察した。余計なことを言った者がいるのだろう、とだけ思っておく。

「これから牛舎に行く。その後はまたここに戻るから。牛を見に行こう」

 空気が重くなってしまったが、一人の所為で全員が重い空気を背負う必要はない。黒葉菫は穏やかな声で小さな売店の裏手にある牛舎へと誘導する。声の様子が戻ったことで有色達も徐々に元の調子を取り戻して牛を間近で見た。だが白実柘榴を始め有色達は一斉に後退ってしまった。近くで見る牛は想像以上に大きかった。白花苧環は怖気付かなかったが、掌に指を掛ける所を黒葉菫は見逃さなかった。武器を出す前に彼も後退させる。

 距離を取って遠くから眺めるのが丁度良いようだ。普段動物を見ることのない一同には刺激が強かった。

「菫さん、そこにあったお店を見てもいいですか? 変な形の置物があって」

「ああ。売店を見たい人は見てもいい」

 恐る恐る声を掛けたのは薺だった。普段は穏やかな黒葉菫も怒ると怖いのだと知った直後で話し掛けるのは勇気が必要だったが、同行する白二人のために怒ったことはわかる。発言者と近い位置にいた有色達には誰かが『ハズレ』と言ったことが聞こえていた。隣に立つ紅花も、白花苧環のために怒った黒葉菫は良い人だと思う。

「……変な置物?」

 許可を出してからゆっくりと気になる言葉を抜粋する。売店に戻ってみると何のことを言っているのか判明した。大きなソフトクリームの形の置物だ。

「これはソフトクリームだ。氷菓の一種で――そう言えば宵街で氷菓は見たことないな」

 宵街には四季が無く、夏のような暑さも冬のような寒さも無い。毎日が秋のような過ごし易さで、変化の無い気温だ。暑さを感じないため、体を冷やすような食べ物は少ない。飲み物に入れる氷はあるが、氷を食べることはしない。

「ソフトクリームは冷たい菓子で、甘くて柔らかくて溶け易い……はず。食べてみるか?」

「いいんですか? 御菓子なら食べてみたいです」

「あ、いいな。私も」

 薺に続いて紅花も挙手すると、他の有色達も恐る恐る次々と手を挙げた。宵街に無い菓子とあっては食べるしかない。

 客の来ない売店で暇そうに椅子に座って携帯端末を見ていた若い女性は突然列を作り出した客を見て端末を落としそうになり、慌てて立ち上がった。殆ど来客の無い売店に突然十三個もソフトクリームの注文が入った。

 他に客がいないので変転人達は横に広がって食い入るように女性の手元を凝視する。作り方を覚えようと見ていたが、機械からゆっくりと溝の入った白い物が長く出て来て三角のコップのような物にくるくると載せられることしかわからなかった。

「菫さん……これって何でできてるんですか?」

「確か……牛乳だったと思う」

「生クリームに見えるんですが、違う物なんですよね?」

「俺も詳しい作り方は知らないんだ。別物なのは確かだが。溶け易いから握り締めてるとすぐに溶ける」

「!」

 喋っている内にソフトクリームの溝が崩れ始めていることに気付く。氷は溶けると水に戻ってしまうが、ソフトクリームも溶けると牛乳に戻ってしまうかもしれない。薺は慌てて齧り付き、きゅっと眉を寄せた。

「あああ冷たい!」

 有色達は皆同じ用に齧り付いて冷たい思いをした。まるで氷を口に入れたようだ。ソフトクリームを提供した女は、食べるのは初めてなのだろうかと奇異なものを見る目を向ける。

 有色の後でソフトクリームを受け取った白実柘榴は、齧るではなく舐めて食べる。なので、そういう食べ方もあるのかと有色達は学習した。彼女は人間の家に住んでいた時にアイスクリームを食べたことがあった。喫茶店でクリームソーダの上に載っているアイスクリームも食べた。

 白花苧環は生まれ変わる前にソフトクリームを食べていたが今はその記憶は無く、有色のように齧って冷たさに眉を寄せた。口の中に入れるとすぐに溶けて消えてしまう氷菓は今世でも奇妙だと感じた。

 狴犴の金で食べたソフトクリームは変転人達を全員満足させた。これをどうにか宵街で作れないかと考えるが、あの機械が欲しい所だ。あの機械に秘密が詰まっている。食べられる三角のコップのような物もよくわからなかったが、近い物を挙げるなら最中(もなか)の皮のようだった。

 氷菓を堪能した変転人は売店に並ぶ乳製品に目移りし、植物と青空よりも食べ物の方に夢中になった。

「俺達は店の前にいるから、買いたい物が決まったら呼んで」

 変転人は口々に返事をし、すぐに品物に目を戻す。

「菫さん、私達は向こうで空を見ててもいいですか?」

「ああ。構わない」

 最初に青空を見たいと要望を出した薺はまだ空を見足りずに、許可を得て紅花と駆けて行く。その後を紫詰草と大犬陰嚢も追った。

「オレも付いて行きます。また喧嘩になった時のために」

「言い聞かせたつもりなんだが……」

 白花苧環も役に立とうと意気込み、ソフトクリームを急いで食べて四人を追う。捩花は売店で物色しているので喧嘩は起こらないと思いたいが。

 青空を見ると言う目的なので、陽が暮れる時間まではここにいるつもりだ。まだ昼下がりなので時間はある。その前に有色達が満足すれば宵街に戻るが、まだ暫くはのんびりと引率することになりそうだ。

 黒葉菫は店の前に置かれている褪せた青いプラスチックのベンチに座り、最後に受け取ったソフトクリームをゆっくりと食べる。足元に雀も遣って来た。こんなにのんびりとした気分になるのは久し振りかもしれない。アルペンローゼの奇襲を受けたり虫に寄生されたり、最近は気が休まることがなかった。ここは売店の店番や家畜の世話をする人間はいるが、他には誰もいない。警戒する必要がないので、肩の力を抜くことができる。

 店の中を覗き、有色六人と共に品物を物色する白実柘榴の姿を確認する。財布が必要になるのはもう少し先のようだ。

(……ん?)

 牧場へ顔を戻すと、五人が駆けて行った道の向こうに忽然と姿を現す黒い影があった。

 現れた四つの人影は白花苧環達と擦れ違い、五人が頭を下げている。有色が深く頭を下げるので、遠目でもわかった。あそこまで頭を下げる時は、獣に対してだろう。このような有色を連れて遠足をするのは初めてのことなので、獣が様子を見に来たのかもしれない。黒葉菫も急いでソフトクリームを平らげ、ベンチを立つ。

 だが四つの人影が接近するにつれ、そうではないと改めた。

(獏……?)

 遠目でも白い顔を覆う黒い動物面は目立つ。首にはがちりと冷たい首輪が重く嵌められている。獏で間違いない。明るい青空の下で、黒衣のそれは異質だった。とすると隣に控える灰色は灰色海月(クラゲ)だ。

 視線を感じた獏はよく見えるよう手を上げて軽く振る。黒葉菫も応えるために頭を下げた。

「――奇遇だね、スミレさん。向こうにいたマキさんに遠足だって聞いたんだけど、楽しそうだねぇ」

「こんにちは。人間が少なくて皆寛げてるようです。……貴方は……様子を見に来たわけではないですよね? それに怪我は……」

 獏と灰色海月の傍らには人間の男がいる。これは願い事を叶える善行だろう。だが、その背後に付いている黒い少年――アルペンローゼが何故いるのか、これがわからなかった。

「怪我? ……ああ、あんなの、とっくに治ったよ。あの程度の怪我なんて気にすることないって」

 黒葉菫が発作を起こして獏を撃ってしまったあの傷は、獣にとっては掠り傷のようなものだ。たった一発撃たれただけだ。本当に獏は気にしていなかった。彼に言われるまですっかり忘れていたくらいだ。

「えっと、アルさんが気になるんだよね? 大丈夫だよ、警戒しなくても。今は僕の所で監視……面倒を見てるんだよ」

 少し考えて言い直すが、黒葉菫には伝わった。宵街の病院にいつまでも置いておくわけにはいかず、罪人の牢に移ったようだ。罪人の牢とは言っても地下牢のように監禁されるわけではないので、アルペンローゼはまだ牢と認識していないかもしれない。

「僕が善行に行くとアルさんを一人残して行くことになるから連れて来たんだけど、まさか君達がいるとは思わなかったよ」

「そうだったんですか。随分と呼び方が親しくなったんですね」

 虫が原因で発作を起こしたとは言え、アルペンローゼに襲われた黒葉菫は複雑な気持ちがあった。

「うん。ウニさんがこう呼んでたからつい。アルさんは大人しくしてくれてるし、ケーキも美味しいよ」

 どうやら胃袋を掴まれたらしいと黒葉菫は察した。獣は意外と餌で釣れる。

「では善行の邪魔をしないよう俺達も大人しくします。皆も店の外に出した方がいいですか?」

 気を利かせたつもりだったが、獏は静かに人差し指を口元に当てた。余計なことを言ってしまったかと黒葉菫は慌てて口を噤む。

 獏に付いていた男は小さな店内を覗き、目を丸くして感嘆の声を漏らした。

「こんなに人がいるのは初めてだ……もう叶えてくれたってことか?」

「うん。人を呼び込むにはとか商品が売れるにはとか案を出してみたけど、ざっとこんなものだよ」

 獏は得意気に微笑みながら、偶然遠足で来ていた変転人を利用し、息をするように嘘を吐いた。獏は相変わらずのようだと黒葉菫は苦笑する。

「ただ僕の力でも毎日同じ人数を呼び込むのは難しいから、さっき言った案も考えてみて」

「そうだな。同じ数じゃないなら、明日……いや週末はもっと人が増えるかもしれないな!」

 少し噛み合っていない会話だったが、獏は売店の陰に男を誘った。出入口に立っていては中から丸見えだ。隠れて食事をする。

 程無くして陰から獏だけが戻って来た。男は獏に代価を喰われ、暫し惚けているだろう。

「善行お終い。ついでだし、クラゲさんとアルさんもお店を見ていいよ」

「あれが気になります」

 灰色海月は大きなソフトクリームの置物を指差す。変転人は皆この奇妙な形の置物が気になるようだ。

「ソフトクリームだね。スミレさん、今日は買物していいの?」

 罪人は金を持っていない。強請(ねだ)る気だ、とその場の全員が察した。

「はい。狴犴からお金を預かってます。次はいつ遠足に行けるかわからないので、後悔の無いよう多めに預かってます」

「じゃあクラゲさんとアルさんにもソフトクリーム、いいかな?」

「わかりました」

 罪人に金を出すと叱られるだろうが、変転人なら問題無い。

「いえ、僕は結構です。店を見て来ます」

 アルペンローゼは獣の前で飲食はしない。彼は多くは語らず店内へと入って行った。

「花街にはソフトクリームがあるんでしょうか?」

「あるんじゃないかな。食べたこともあるかもね」

 花街の中にソフトクリームがあるかは知らないが、花街圏の人間の街にはあるはずだ。

 黒葉菫は灰色海月の分だけソフトクリームを買った。彼女も他の変転人と同じく、冷たいと眉を寄せた。

 店内を覗くと、アルペンローゼは有色達に混ざって熱心にチーズを見ていた。有色達は彼が花街と言う知らない街から来た変転人だとは露程も思わないだろう。それを灰色海月はソフトクリームを少しずつ舐めて出入口から見守る。監視役は忙しい。

 獏はベンチに座り、手持ち無沙汰で立つ黒葉菫も横に座らせた。獏に気付く前には座っていたのだから、立たせたままでは可哀想だ。

「こういう遠足って、宵街ではよく遣ってるの?」

 長閑な風景に目を遣りつつ、穏やかに話し出す。善行がないと中々外に出られないのだから、出られる時に息抜きをする。最近はよく宵街に出掛けているが、それは用があるからであって、狴犴のいる宵街で罪人は落ち着けない。

「俺が変転人になってからは初めてです。ヨウ姉さんからも聞いたことがないので、もしあったとしても頻度は少ないかと。今回は有色から要望があって、何回かに分けて引率することになりました」

「へえ。牧場の他には何処か行ったの?」

「目的地によって班を分けてるんですが、この班はここだけです。他に海や山に行く班があります。遊園地……を希望する人もいたんですが、遊園地が何なのか知らない人が多くて、保留になってます」

「ふふ……狴犴は遊園地なんて知らなさそうだもんね」

 名前を伏せたのだが、獏はすぐに伏せたものを剥がした。

 青い空を見上げ、緑の絨毯の上を歩く牛や羊を眺める。殺伐とした花街との関係が嘘のような平穏だ。

「こんなに天気のいい眩しい日は眠くなっちゃうねぇ」

 ベンチの背に凭れ、獏はうとうとと目を瞬かせる。夜行性の獏には昼間の陽射しは眩し過ぎる。獏のために用意された牢は時間の流れが停止しており、力を使ったり過度な運動をしない限りは眠くなることがない。そういった環境に体が慣れてしまったので、時間が流れる牢の外に長時間出ていると余計に眠くなる。首輪は重くて肩が凝るが、睡魔は等しく遣って来る。


     * * *


 有色達に付き添っていた白花苧環は突然獏が現れて驚いたが、彼よりも有色の四人の方が跳び上がるほど驚いた。この遠足では獣は来ないはずだったのだから、一気に肩に力が入ってしまった。

 人間を連れていたので善行だろうと白花苧環は察したが、灰色海月はともかくアルペンローゼも共にいることは理解できなかった。

(獏の所へ行くとは聞きましたが……あまり連れ歩くのはどうなんでしょう)

 獏が善行に出ればあの牢の街は無人になってしまう。アルペンローゼを一人で置いて行くことはできずに連れ出したのだろうが、こういう時のためにもう一人牢に常駐する変転人が必要かもしれない。

 五人は頭を下げて獏一行を見送ろうとしたが、獏はこそこそと白花苧環に近付き質問を囁いた。

「変転人が一杯……これは何の集まりなの?」

「遠足です」

「へえ、何だか楽しそうな言葉だね」

 ふふと獏は微笑み、先に歩いて行ってしまう人間を駆け足で追い掛けた。

(楽しそう……ですか)

 ただ草原と空を見て、牛や羊を眺めるだけの退屈な仕事だと思っていた。任された仕事は遂行するが、遠足の引率とは何をするのが正解なのか。黒葉菫の行動を見て学んでいるが、彼も遠足は初めてだと言う。初めてなのにしっかりと引率の仕事を熟せているのは、十年以上も変転人を遣っている内に身に付いた様々な経験の御陰なのだろう。

「お、苧環さん……緑と青が綺麗ですね」

 頬を赤らめながら、紅花は遠慮がちに白花苧環に声を掛ける。『綺麗』という感覚は白花苧環にはまだ少し難しかった。

「羊も毛玉みたいで可愛いですね……」

 一人で喋り続ける紅花にはっとし、会話を求められているのだと白花苧環も気付いて応ずる。

「大きな毛玉ですね」

 今までは誰とでも会話できていると思っていたが、こういう何も起こらない時に何を話せば良いのか白花苧環には全くわからなかった。世間話というものを彼はしたことがなかった。

 有色の変転人は獣に命じられて危険な仕事をしたり武器を振ったりすることがなく、平和な宵街で店を開いたり談笑したり平穏な日常を送っている。有色と無色では経験する物事が違い過ぎて話が合わない。更に白花苧環は一日の殆どを科刑所で過ごしている。誰かと談笑する日常など送ったことがなかった。

 上手く会話ができているかわからないが、短い返事でも紅花は隣の薺の肩をばしばしと叩いて嬉しそうな顔をしている。

「紅花ってそこの白い人のことが好きなの?」

「ぎゃああ!」

 その遣り取りを見ていた紫詰草はにやにやと笑いつつ突く。紅花は言葉を遮るように叫ぶが、この近距離で聞こえないはずがない。全て彼に聞こえている。だが巻き込まれないよう白花苧環は聞こえていない振りをした。

「えっ、紅花さんは苧環さんが好きなの?」

「ぎゃああ!」

 大犬陰嚢は悪気無く繰り返す。単に気になって尋ねただけで、追い詰めているわけではない。

 自分一人で白花苧環のファンクラブを遣っている紅花だが、あまり多くの人に知られるのは恥ずかしい。それに本人が目の前にいる。

「格好いいもんねー。ちょっと怖くて近寄り難いけど」

「トミー! よく本人目の前で言えるね!?」

「え? 不味かった?」

「大物だよね、ヒトミちゃん」

 薺もけらけらと笑う。大犬陰嚢は自分の名前を嫌がっているが、神経は然程繊細ではなかった。

「私の名前を弄らない人は皆良い人だよ」

「わかる。嫌がることをする奴は殴る。ネジ野郎もそう」

「わかるー。ネジ野郎は私の名前を弄るからね」

「最低じゃん! もう一発殴っとく?」

「まあ陰嚢に似てるのは事実だからね……。男の変転人になってたら、堂々と名乗れたのかなぁ」

「性別ってどうやって決まるんだろうね」

 紫詰草の素朴な疑問に、三人は答えに悩んだ。人の姿を与える獣にすらそれはわからないことだ。

「私はどっちでも良かったから何も思うことはないけど、人になれたのは嬉しいよ。こうして皆と話せるし」

 歯を見せて笑う紫詰草に、三人も頷く。根を地面から抜いて歩くことができて、言葉を話すことができる。それはとても嬉しいことだった。植物のままだったら友達は作れなかった。

「私も。皆と話すのは今日が初めてだけど、楽しい」

 大犬陰嚢も笑って牛を眺める。紅花と薺も足元に注意しながら柵に近付き、牛や羊を眺めた。

 それを一歩引いた所で白花苧環は観察し、感情が上手く理解できずに途惑いを浮かべる。話すことが楽しいなど、彼は思ったことがない。生まれてそう経たない所為なのか有色と無色だからなのか、会話は難しい。

(経験のあるスミレなら有色とも話せるんでしょうか……)

 そう考えて俯き、視界に違和感を覚えた。僅かな違和感だったが、脳で理解する前に体が反応していた。

 武器を出す時間は無く、咄嗟に間に割り込んだ。突然手を伸ばして飛び出して来た白花苧環に紅花と薺と大犬陰嚢はきょとんとするが、紫詰草だけは眉を寄せていた。


「アアアアアア!!」


 突如彼女を襲った激痛は全身へ悲鳴を広げ、体が弾けた。水風船が破裂するかのように鮮血が迸り、体内から臓腑を吐き散らして腹から二本の鋸のような物が覗く。鋭いそれは三人の前へ飛び出した白い体を切り裂き、空になった紫詰草の体は反動で後方に仰け反り地面に落ちた。その体内から、左右に鰭を並べたアノマロカリスに酷似した黒い生物が体を膨張させながら飛び出す。科刑所で駆除をした虫と同じ虫だった。

「ぐっ……」

「苧環さん!?」

「きゃああ!」

 白花苧環は胸の傷を押えるが、片手では到底塞げない傷だった。預かった発作を抑える花を虫へ向けるが、ぴくりと反応はするが嫌がる素振りは見せない。

(花が効かない……!? いや……効果が弱い……? この状態の虫には無意味なのか……)

 ユニコーンが能力で虫を視認できるようにしないと見えないはずなのに、彼女がいないにも拘らずはっきりと見えている。それに紫詰草は発作など起こしていなかった。捩花を殴っていたが、あれは発作ではない。

 考えても埒が明かない。海老のような尾が体内から出る前に始末しなければ、離れた場所にいる他の変転人達も危ない。

 掌から紡錘(つむ)を抜こうとしたが、不意に体を引かれた。手の位置がずれ、足元に鋸のような付属肢が刺さった。

「皆! あの変なのから離れるよ!」

「む……無理だよぉ……」

「私達の足じゃ逃げられない……」

 この中では薺はまだ冷静だった。宵街で起きた騒動は彼女に冷静になる素養を与えた。取り乱して動けないままでいると死ぬかもしれない。それを宵街で覚えた。

 だが白花苧環の体を引いたは良いが、一人で抱えて逃げることはできそうにない。只の人間に等しい有色がこの虫の速度から逃げ切ることはできない。

 虫は巨大な鋸を振り上げ、四人へ振り下ろす。思わず目を瞠るが、白花苧環は虫から目を逸らさず振り下ろされた付属肢を横から蹴り付けた。逃げられないなら戦うしかない。

 蹴り飛ばされた巨大虫は大きく体をくねらせて仰け反る。虫は素速いが、攻撃は通じる。

「っ……」

 だがとてつもなく外皮が硬い。力んだ所為で傷から血が溢れ、白花苧環は虫を睨み上げる。傷が深い。失血の所為で指先が痺れ、紡錘が取り出せない。

 襲う付属肢を避けられず白花苧環は三人を突き飛ばし、自身の身に喰らう。白い服が真っ赤に濡れた。

 新しい生を貰ったのに、こんなに早く手放すことになるとは思わなかった。霞む視界の中で三人が必死に叫んでいる。朧気な聴覚が、声の隙間に乾いた音を聞いた気がした。



 うとうとと黒葉菫の肩に黒い頭が当たった時、前方に不審な黒い物が現れた。風に乗り微かに悲鳴が聞こえ、黒葉菫は思わず立ち上がる。凭れ掛かっていた獏の頭がベンチに落ちて痛そうな音がした。

「な、何……?」

「少し様子を見て来ます」

「え?」

 眠い目を擦ろうとした獏は動物面が邪魔で擦ることができず不満な顔をし、何事かと黒葉菫を追う。

 灰色海月も走り出す二人に気付き、店内のアルペンローゼが商品に夢中になっていることを確認して後を追った。

「悪夢……?」

「……違う……悪夢の気配じゃない。もしかして虫……!?」

 大きな黒い物の先に鍬形虫(クワガタムシ)のような大顎が見える。

「何で……。ユニコーンがいないのに、見えるんですか?」

 今まで見た虫は、ユニコーンが変転人の体内から引き摺り出して誰にでも視認できるようにされた物だった。そのユニコーンは今は宵街にいて、遠足には同行していない。

「わからない……けど、見えるんなら攻撃は通じるはず。ここは僕が……」

 遣る、と言おうとしたが、獏は首に邪魔な物が付いていることを思い出した。首輪があれば力の制限があり、虫なんて狩れない。

「クラゲさーん! 緊急事態だから首輪を外して!」

 背後に向かって叫ぶが、変転人が追い付くのは時間が掛かる。黒葉菫は前方に倒れている負傷者がいることに気付き、待っている時間の相手は自分が遣るしかないと駆けながらフリントロック式の拳銃を生成して構えた。

 変転人の武器は殆どが接近戦用だ。攻撃が遠距離になればなるほど力を要し、飛距離と弾の大きさには変転人の限界がある。それに銃を生成するには適性が必要なのだ。彼が銃を選んだのは標的に近付くのが怖かったのと、身を刺す生々しい感触を忌避したこと、そして銃の適性があったからだ。

 黒葉菫は自分の武器を銃にして良かったと、この時ほど思ったことはないかもしれない。白い体に映える赤い色を目にし、手では到底届かない距離にある古代生物のような虫の体に三発、がちんと発砲した。

「!?」

 だが穴が空くどころか虫の外皮に傷一つ付かない。銃弾の大きさか速度が足りない。動けない負傷者に大顎が振り下ろされようとしているのに、怯ませることすらできない。

 焦りながらも、標的に当てる自信が消えない程度に更に力を込める。力を込め過ぎると弾が逸れる。がちんと燧石(フリント)がフリズンを叩いて放った一発は大顎に当たったが、少し体が揺れるだけで効いていない。

「くっ……」

「僕に任せて」

 全速力で走りながら首輪を外すことに成功した灰色海月は後方で立ち止まって膝に手を当て全身で息をし、解放された獏は黒葉菫の手にある銃に手を添えた。白花苧環がいれば以前のように烙印を一時的に封印してもらうのだが、彼はそれ所ではない。

「撃って」

 発砲と同時に黒葉菫の腕に激痛が走る。獣の力を注がれた銃身に亀裂が入ったからだ。

 威力を増した弾丸は付属肢の片側に当たり、根元から圧し折る。これには巨大虫も仰け反り、負傷者から頭を上げた。

「――マキさん! 大丈夫!?」

 無茶をした獏の烙印も痛んだが、それよりも赤く染まる彼の方だ。

 体を裂かれて倒れる白花苧環に駆け寄ろうとするが、付属肢の一つだけでは巨大虫に戦意を喪失させることはできなかった。獏は懐から杖を抜いて伸ばし、振ろうとして何かに当たる。

「……!?」

 当たったのではなく蹴られたのだと気付いた時、巨大虫は両断されていた。周囲の温度が少し下がった気がした。

「……一撃じゃ駄目か」

 断たれて黒い体液を撒き散らしてのた打つ虫に、更に冷たい刃が差し込まれる。まるで骨の無い魚でも捌いているかのように音が無く、滑らかに切り取られる。

 体が四つになった虫は漸く徐々に動きが弱まり、やがて砂のように崩れて消えた。黒い体液も残らず消え、存在を消してしまう。

 その眼前に降り立ったのは、透き通った刃を生やした長い棒を持つ白銀の青年だった。重そうな柄をくるりと軽々地面に下ろす。

蒲牢(ほろう)……? 鎌なんて持ってたの?」

「…………」

 蒲牢は背を向けたまま、冷ややかな大鎌の刃を溶かして消す。そして振り返った。

「氷で作った。露店に付き合ってもらった時に見せたアレ。普通の氷みたいにすぐ溶けたり壊れたりしないから、刃物として使える。……それで、これはどういうことだ?」

 鎌の柄として使用していた間棒(けんぼう)も消し、蒲牢は地面に倒れる変転人に視線を落とす。白花苧環は胸や腹を裂かれ、赤紫色の髪の少女は無惨に体が爆ぜている。

「わっ……私達を庇って、苧環さんが……!」

 白花苧環の体に触れようとして、だが震えて触れることができず紅花は声を上げた。嗚咽が混じり、上手く話せない。

「先に止血する」

 いつまでも血を流し続けさせるわけにはいかない。獏は白花苧環の傍らに膝を突き、杖の先を傷に向けた。半獣の彼がここまでの傷を負うとは、避けられない程の至近距離で攻撃を受けたのだろう。庇うために負うことになった傷だ。

 止血する間、蒲牢は紅花から薺へ視線を移す。嗚咽を漏らす少女と放心する少女には話を聞けそうにない。この中では薺が最も落ち着いているように見えた。譬え友人の前で必死に冷静さを保とうとしているだけだとしても、彼女しか会話ができない。

「あの虫は何処から出て来た?」

 負傷者を見れば予想はつくが、実際に目にした者の話を聞いて確認する。感情の籠らない冷たい氷のような蒲牢の目に薺はびくりとするが、友人の前で強がろうとする彼女はゆっくりと唾を呑んで話し始めた。

「……その……紫詰草の体から急に出て来て……苧環さんが私達を庇ってくれたんです……」

「紫詰草は最近変な行動をしたり……どんな軽傷でもいい、傷があったか?」

「わかりません……私の店に何度か来たことはありますが、あんまり話したことはなくて……」

「じゃあ最近、暴れる人がいたとか、聞いたことは?」

「たくさんの人が負傷する騒動はありましたが……通り魔事件と言われてて……」

「それはたぶん把握してる奴だな。わかった。何もわからないことがわかった」

 通り魔騒動は黒色蟹が発作を起こした件のことだろう。有色にはその犯人を伏せているため詳細を知らない。その件で多くの変転人が負傷した。紫詰草はその時に傷を負い、虫に寄生されたと考えるのが一番自然だ。

 だがわからないことがある。今までの寄生者は必ず発作を起こしていた。だが今回は発作で暴れた噂が無い。しかもユニコーンの力も無く、虫が勝手に体内から出て視認することが可能だった。今までと全く違う。だが今までの寄生者は無色で、紫詰草は有色だ。この違いが虫に何らかの影響を与えているのかもしれない。

「君達三人に怪我は?」

「な、無いです……苧環さんの御陰で……」

「それならいい。苧環は俺が病院に連れて行く。遠足中の有色は菫に……」

 黒葉菫も腕を押えて眉を寄せていることに蒲牢は漸く気付いた。引率する二人が負傷してしまったようだ。有色の遠足のことは蒲牢も狴犴から聞いている。宵街から出られない有色も息抜きは必要だ。それは盲点だった。

「……わかりました。皆を連れて宵街に戻ります」

「君も無理するな。海月、もう一人の……柘榴を手伝って。獏の首輪も付けておいて。宵街に報せるために首輪を外すのは乱暴だと思うけど、こんな状況でまともな判断ができるわけないか」

 巨大な虫は変転人には荷が重く、首輪を嵌めて力を制限している獏にも相手をするのは難しい。

 白花苧環が宵街にいれば彼が真っ先に飛び出しただろうが、今回は代わりに蒲牢が行かされた。もし白花苧環が飛び出していたら、鎮静しなかっただろう。

「後は死体の処理……は他の人に任せよう。連絡してる間に、ここにいない有色と柘榴に伝えて」

 蒲牢は携帯端末を取り出し、ゆっくりとメッセージを打ち込む。まだ扱いに慣れていないので、早打ちはできない。

 灰色海月は白花苧環の止血を終えた獏に首輪を装着し、黒葉菫の代わりに売店へと引き返した。

「……病院に行った負傷者は全員検査したって聞いたけど、病院に行く程じゃない軽傷者が野放しだったんだな。小さい傷だと気付かないかもしれないし、一度全員検査してもらおう」

 メッセージを送って暫し待つと、狴犴から返事が来た。蒲牢は顔が見えない通話はあまり好まずメッセージの遣り取りを希望するが、狴犴は言葉を打ち込むのに時間が掛かるため通話の方が良いと思っている。時間を掛けて短い返事が届き、蒲牢は端末を仕舞った。

「そう言えば獏は何でここにいるんだ?」

「善行で偶然に」

「そうだったのか。居てくれて良かった。後は任せていいか? 苧環を早く病院に連れて行きたい」

「うん、いいよ。僕ができるのは止血だけだから」

「死体を拾いに誰か来るから、それだけ待ってて」

「わかった」

 蒲牢は杖を召喚し、白花苧環の体を抱える。止血をしても痛覚は消えない。額に汗を滲ませ、苦しげに顔を顰めている。地面の赤い染みを見れば瞭然だが、出血量が多い。顔色の悪さが出血量を物語っている。意識を失っていてもおかしくない。半獣でなければ死んでいたかもしれない。

 くるりと転送して姿を消す二人を見送り、獏は地面に座り込む三人に手を差し伸べる。いつまでも無惨な死体の近くにいては気持ちが落ち着かないはずだ。

 三人は獣の手を取るか躊躇するが、厚意を無下にもできない。順に手を取って深々と頭を下げた。

 もう一人、苦しむ青年にも手を差し伸べたい所だが、こちらは腕を負傷している。獏は申し訳無さそうに眉尻を下げた。

「スミレさん……また遣っちゃってごめん……。骨、折れた……?」

 黒葉菫に出会って間もない頃、灰色海月に力の使い方を教えている時に獏は彼の銃を借り、亀裂を入れてしまった。その時のことを失念して、いや今回は何も考える余裕が無く力を使ってしまった。あの時よりも深い亀裂が入ってしまった。

「それはレントゲンを撮らないとわかりませんが……背に腹は替えられません。貴方が撃ってくれなければ、マキも……皆、どうなっていたかわかりません」

「でもごめんね……」

「俺ももっと力の練度を上げて、強い弾を撃てるように頑張ります」

 壊れた武器は体内で修復できるが、時間は掛かる。無色の生成する武器は獣の杖のような物だ。自身の体を傷付けてしまうかもしれない物を体外へ出し、他人に触れられることを厭う。それでも黒葉菫は銃に触れる手を払わない。相手が獣だからと言うわけではなく、獏を信用していた。

 有色の三人の少女と黒葉菫は死体から距離を取り、獏は視線を遮るように立つ。白花苧環が病院に連れて行かれたことで少し安心したのか、三人は暗い顔をしつつも次第に落ち着いていった。

 灰色海月は有色達を売店から連れ出し、アルペンローゼは彼女達よりも先に獏達の所へ駆け付けた。灰色海月は有色達には虫のことを伏せ、彼にだけ寄生虫が出たと伝えた。

 駆け付けたアルペンローゼは獏達には目もくれずに通り過ぎ、紫詰草の死体の前で立ち尽くす。内側から腹を破り裂かれ、真っ赤な臓腑を撒き散らしている。もしかしたら自分もこうなっていたかもしれない。そんな仮の姿を見せられ、胸が騒ついた。

 立ち尽くす彼の前に、新人教育を任されている黒柿(くろがき)色の少年――長実雛罌粟が唐突に現れる。彼は死体を見るなり顔を顰めた。人に教えることが得意ではない彼は図書園から抜け出せる機会だと死体処理に挙手したが、ここまで無惨な死体を見ることになるとは思わなかった。

 周囲を見渡して獣の獏の姿を見つけ、頭を下げてから持参した大きな布を広げて死体を包む。

「それ……処理するんだよね?」

「はい。ですが一旦病院に持って行きます。虫と関連があるので調べます」

 布で包んだ死体を血溜まりの外へ離して置き、黒いゴム手袋を両手に嵌める。眉間に皺を寄せながら臓腑や肉片を拾ってビニル袋に詰めていく。誰も手伝うとは言えず、黙々と拾う姿を無言で眉を顰めながら見守った。

 人間に見られると大騒ぎになる大きさの臓腑と肉片を片付けた長実雛罌粟は、ゴム手袋を外して袋の中に放り込んで口を縛る。

 清掃はこれで終わりではない。死体の傍らに袋を置き、試験管のような細長い硝子の筒を取り出す。中には無色透明の液体が入っており、変換石が一欠片と泡のような小さな白い花がたくさん入っている。栓を開けるとそこに小さな(いん)が展開され、傾けると中の液体が溢れ出した。石と花は筒の口から出ず、液体だけが血溜まりを流す。傾けている間は液体が途切れることなく流れ続け、筒の容量を明らかに超過している。

「それは何……?」

 不思議な筒が気になり、獏は興味深く見詰めながら尋ねた。

「知らないんですか? 死体処理の……血痕除去に使う水です。宵街に咲く水生植物、水抽花(すいちゅうか)と印を使用し、無限に水を出せます。飲み水ではないので飲めませんが」

「君は印が使えるの?」

「これは容器に予め施された印です。印が使えなくても、誰でも使えるように細工されてます」

「へぇ。――あ、こびり付いた血痕を落とす薬剤のことかな?」

「たぶんそれは……これより強力な奴ですね。変転人は中々使わせてもらえない薬剤です。これは薬剤ではなく、宵街の水や電気を作り出すのと同じ仕組みを利用してます」

 血が薄れて流れると栓を留め、長実雛罌粟は頭を下げて死体と袋を抱える。黒い傘をくるりと回して転送する彼は淡々としていて、質問には答えるが必要以上の会話をしない少年だった。

 アルペンローゼは迅速な処理を見届け、乾いていく水を見詰める。獏も視線を追って地面を見た。明らかに乾燥が速く、ただの水ではないことがわかる。

 平穏を感じていたのに、一瞬にして叩き壊されてしまった。あの虫にはまだ謎が多い。解毒できるユニコーンがいてもまだ気を抜くなと言われているようだった。


新人達の所属色や性別はクジ引きで決めました。

こんなに綺麗に分かれるとは思わなかったです。

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