156-甘い話
誰もいない小さく透明な街の古物店で、灰色海月は台所の戸棚を開けて悩んでいた。
突然監視対象が増えた灰色海月は棚の戸の陰から店の方へ目を遣る。机の向こうで簡素な椅子に座り、アルペンローゼが大人しく古書を読んでいる。何の本かはわからないが、右耳に装着している翻訳機のカフスの御陰でどんな言語だろうと読むことができる。灰色海月が置いた紅茶には全く口を付けず、すっかり冷めてしまっていた。
獏は二階で休憩中だ。願い事の手紙の投函も無いので暇な時間だ。
「先程から視線を感じますが、僕に何か用ですか?」
アルペンローゼは視線を古書に落としたまま顔を上げずに尋ね、灰色海月は慌てて戸の陰に頭を突っ込んだ。
彼の病は完治した。実際は病ではなく妙な寄生虫の仕業だったが、それも取り除かれて今はもう発作を起こす心配は無い。それには安心なのだが、殺気を撒き散らしたヴイーヴルに仕える変転人も同じ気質を持っているのではないかと考えてしまう。情報によれば彼は発作を起こした花街の変転人から病院を守ったそうだが、灰色海月はそれを見ていたわけではない。
だが本当に彼が危険な存在なら、獏は灰色海月を置いて二階で休みはしないだろう。灰色海月の身に危険は無いと考えているからこそ目を離しているのだ。
(い、いえ……自惚れてはいけません。私は監視役で、獏は罪人なので……私のことはどうなろうと知ったことではないはず……)
「……もしや、僕が紅茶を飲まないから不服なんでしょうか?」
アルペンローゼはあまり勘が働かないのかもしれない。灰色海月はそう解釈した。戸棚から白い粉の袋を取り出し、台へ置く。
「何か作るようですね。では僕は黙っておきます」
「……御菓子作りが得意なんですか?」
黙ると言った矢先に話し掛けられ、アルペンローゼは怪訝に顔を上げた。灰色海月と目が合う。
「ミルフィーユが美味しいと……聞きました」
「ああ……病院で作った物ですね。美味しいと言ってもらえて恐縮です」
「私はケーキ……生菓子はあまり作ったことがなくて」
「そうなんですか」
「大人のチョコレートケーキを作ろうとして……失敗したことがあります」
アルペンローゼは、大人の? と首を傾ぐが、口は挟まなかった。
「獣が食べても大丈夫なチョコレートケーキ……何かないですか?」
「…………」
そこまで言われると、アルペンローゼも言いたいことを察した。彼女は菓子の作り方を聞きたいのだ。
「そうですね、ここで世話になっているので、僕で良ければ。大人……変転人は成長する動物ではないので難しい言葉ですが、少し苦味のある物でしょうか?」
「あまり苦いと獏は食べません」
食べさせる相手は決まっている。二階で休んでいる獣に食べさせるおやつを作りたいのだ。そしてアルペンローゼに危険があるか、灰色海月は菓子作りを通して見極めることにした。
「では調整しつつ、ガトーオペラでも作りましょうか」
「オペ……? 手術ですか」
「オペレーションではないです。歌劇場のオペラ座です。この場合はチョコレートや珈琲を使い、七つの層で彩るケーキのことです」
灰色海月は口を半開きにしながら、台所の場所を空けた。オペラ座は知らないが、凄い物が出来上がりそうだった。
アルペンローゼは古城の獣達のために何度もアフタヌーンティーを用意している。宵街に来てまだ然程の時間は経っていないが、それはまるで遠い昔のようだった。この騒動が終われば本当にまた花街へ戻れるのか不安はあるが、手紙を送ってくれた王を信じたい。
アルペンローゼは良い息抜きにもなりそうだと傍らで自ら作って見せつつ、彼女へ作り方を教える。ケーキ作りに慣れていないと言うのに工程が多いが、灰色海月は手本を見ながら初めてのガトーオペラを一層ずつ時間を掛けて積み重ねた。最初は薄かったケーキが徐々に高さを増し、達成感がある。
真剣な目付きでゆっくりと積んで完成させたケーキは、灰色海月が作った層よりアルペンローゼが作った層の方が見目が美しい。経験の差が如実に現れている。目線を層に合わせて蹲んで見ながら、灰色海月は眉を顰める。
「アルさんの方がスポンジの厚さが均一です……」
「均一で薄く、そうすると美しく見えます」
定規を使わずに書いた線と、使って引いた線のように差は歴然だ。
「貴方もバタークリームを塗るのが上手いですよ」
「……褒めてませんよね?」
灰色海月の作った層は傾いてやや不格好だが、大きな四角いチョコレートケーキは横幅が三十センチメートル程にもなり、達成感は素晴らしかった。今まで作った菓子の中で一番大きい。手間の掛かる菓子は苦戦したが、完成の喜びは一入だ。
「より見た目を美しくするため、端を切り揃えますね。後は飾り付けですが、このまま出しますか? それとも切り分けますか?」
食べる対象は今は獏しかいない。小さく切り分けずに豪快に食べても良いだろう。
「大きいまま出しましょう」
「では大きいまま、金箔で……」
「金箔は無いです」
「チョコレートで文字でも書きましょうか」
「何でも書いていいんですか?」
「いいですよ」
「バク科バク属のマレーバクの絵を描いてください」
「僕に描けと?」
「私は文字と簡単な顔しか書けません」
艶やかなチョコレートの上に、アルペンローゼは白いチョコレートを細く搾り、大きなマレーバクを一頭描いた。城で絵を描く機会は無く、絵心があるのかどうか彼にはわからない。図鑑で見た物を思い出しながら、白い部分は白いチョコレートで簡単に塗り潰す。城の獣に出す時なら黒いチョコレートで書くのだが、獏は甘い物の方が好きなようなのでホワイトチョコレートだ。天辺の黒いチョコレートと相俟って完璧なマレーバクになった。
無理を言ったと思った灰色海月だったが、アルペンローゼは菓子を作れて絵も描ける有能な変転人なのだと打ちのめされた。
「……花街の人は皆さん御菓子作りが堪能なんですか?」
「それは人によると思います。僕も最初から作れたわけではありません。獣の要望を聞く内、ここまで作れるようになりました」
「無理難題を吹っ掛けられたんですか?」
「……要望が細かく、多い……それだけですよ。全ての獣を同時に満足させるのは至難です」
できるだけ獣を悪く言わないよう努力した言葉が出て来た。とにかく獣があれこれ注文を出してこうなったらしい。
「一番困った要望は何ですか?」
アルペンローゼはぴたりと口を噤み、険しい表情で視線を落とした。数秒間黙考する。
「……夕食の十分前に、メニュー変更を注文されたことでしょうか……」
花街は厳しい所だと灰色海月は改めて戦慄した。このガトーオペラのように時間が掛かる料理なら、十分ではどうにもならない。
「いつも僕が食事を用意しているわけではないんですが、その時は調理師に泣き付かれました。既に完成した料理を無理矢理組み合わせたり調理し直したり……結局、時間は少し過ぎてしまいました」
「大変なんですね……」
「宵街ではそういった注文は受けないんですか?」
「私は受けたことがないです。好き勝手に御菓子を作ってます。食事の方は作ったことがないです。ここではお腹が空かないので」
「そう言えばそうですね。空かない理由があるんですか?」
「この街は時間が停止していて、食事も睡眠も基本的には必要ないんです。御菓子を作り過ぎても腐る心配がありません」
「それは凄いですね」
のんびりと会話を続けながら、アルペンローゼは隅に置かれていたレシピ本を開く。菓子の作り方が写真や絵と共に丁寧に書かれている。
「アルさんの得意料理は何ですか?」
獣の注文に応えて臨機応変に料理を作り出す彼の得意な料理は何なのか、灰色海月は聞いてみたくなった。きっと想像もできない、聞いたこともない凄い料理に違いない。
アルペンローゼはレシピ本に目を落としたまま、少し考えてから答えた。
「……スコーン、でしょうか」
「スコーン……」
それなら灰色海月も知っている。以前に作ったこともある。想像と違ったので、彼女は首を傾げてしまった。
「変転人になって城に行って、最初に習ったレシピなんです。休憩中や朝食……昼食……夕食としても食べるので、毎日たくさん焼きます」
「それは体がスコーンになりませんか?」
「現時点ではなってないですね。毎日忙しいので、手間の掛かる料理は獣に出す分だけです」
「アルさんは将来、スコーンになると思います。体内は既にスコーンかもしれません。何のジャムを塗られたいですか?」
「なりませんよ。僕はジャムより紅茶に浸けることが多いですね」
「紅茶に……?」
初めて聞く食べ方だ。まずはスコーンに紅茶を飲ませてから纏めて食べるとは、飲食時間の短縮になりそうだ。忙しい彼にはそれが丁度良いのだろう。暇を持て余す牢で暮らす灰色海月とは大違いだ。
寛いでいる様子を見せながら、アルペンローゼはこの小さな街のことや宵街のことを探る。人間の願い事を叶える獣がいる街――宵街の窓口だとばかり思っていたが、どうやら他の目的がありそうだ。
「僕も何か教わってもいいですか? 折角東洋に来たので、この辺りで生まれた菓子を覚えたいんですが」
「和菓子とか……ですか? 生憎私は洋菓子しか作ったことがなくて……あ、これならどうですか?」
アルペンローゼが広げているレシピ本を捲り、多層を織り成すケーキを指差す。対抗したわけではないが、ガトーオペラよりも層が多い。
「これは?」
「ミルクレープです。クレープとクリームを交互に積んだケーキです。一度作ってみたかったんです」
「クレープは作ったことがありますが、ミルクレープは初めて見ますね。ですが……作ったことがない物を教えられるんですか?」
「任せてください」
何処から来る自信なのだろうかとアルペンローゼは首を捻る。だが会話の機会が得られるなら水を差さない。穏やかに接していれば、彼女は警戒を解いて情報を話してくれる。危害を加えたヴイーヴルに同行していたアルペンローゼに警戒を解くことはないだろうと彼は思っていたが、獣ではなく対等に話せる変転人であることが功を奏している。
灰色海月は意気揚々とミルクレープ作りを始めるが、アルペンローゼの方がクレープ作りが上手かった。二人並んで同じようにフライパンを傾けるが、彼の方が形も薄さも均一で焼き色も美しく、灰色海月は勝てないと肩を落としてしまった。何故何でも均一に作れてしまうのか。アルペンローゼは機械なのではないかと灰色海月は疑ってしまう。
「……何? いつもと違う感じの甘い匂い」
次はどの菓子を作るかとレシピ本を見ていた二人は、欠伸をしながら階段を下りてきた獏に顔を上げる。灰色海月は透かさず頭を下げた。
「ガトーオペラとミルクレープを作りました。全部食べてください」
「……全部?」
獏は黒いマレーバクの面を台所に向け、大きなケーキに感嘆した。だが一人で食べ切れる量ではない。二種類のケーキが合計四つもある。
「二人は随分仲良くなったんだねぇ」
「アルさんと色々話しましたが、このガトーオペラの作り方を教えてもらう内に怖くなくなりました。体はスコーンなので」
「ふふ。スコーン?」
何を言っているのか理解できなかったが、見える範囲にスコーンも無い。楽しくスコーンの話をしていたのだろう、そう思うことにした。
「……アルさん、良い情報は得られたかな?」
獏は動物面の奥で微笑む。穏やかな笑みにも拘らずアルペンローゼは背に冷たいものが走った。只の世間話ではなく、アルペンローゼが情報収集を行っていると気付いている。その上でアルペンローゼを自由にさせているのなら、灰色海月は有用な情報を持っていない。それとも灰色海月は強固に口止めされているのか。
「探ろうとしても、宵街の上の考えや君に関係があるようなことは、僕とクラゲさんは知らないよ。僕が君のことをどう思ってても、どうしたいか決めることはできないしね。僕ができるのは匿うことくらいかな」
「匿う……?」
「そ。だから置き手紙のことは気にしないで、この街の中では自由にしていいよ。自由に本を読んでいいし、御菓子を作ってもいい。ここに居るなら、僕は勝手に君を売らない。勿論、僕達に危害を加えないことが条件だけどね」
「…………」
ヴイーヴルの殺気が満ちた空間でも涼しい顔をしていたアルペンローゼはかなりの手練れだ。下手に争って灰色海月や他の変転人に危害が及ぶことは避けたい。白花苧環に初めて会った時に、争って灰色海月の両手が切り落とされたことは忘れていない。アルペンローゼが穏やかに接する気があるなら、味方でいる方が平穏でいられる。彼が何か知りたいと言うなら、知っている範囲でだが教えてやっても良いと獏は考えている。
アルペンローゼはまだ『匿う』の意味を呑み込めないが、悪い話ではない。簡単に殺される気などないアルペンローゼは、獏の許へ来て正解だったのかもしれないとフェルニゲシュの判断に感謝した。
「親睦を深めるためにチェスでもする? ケーキでも食べながら」
たっぷりと休息を取り、獏の調子もすっかり元通りだ。チェス盤を机上に置き、挑発的に微笑む。
「御言葉は嬉しいですが……僕は獣の前で食事を摂らないようにしてるんです」
「えっ? そうなの? おやつも駄目?」
「はい。なので僕のことは気にせず食べてください」
「もしかして止められてるの……? 花街の規則とか?」
「いえ、僕が個人的に決めていることです」
「そっか……」
当てが外れ、仕方無く獏はチェス盤を片付けた。食べなくてもチェスは打てるが、一度食べながらと言ってしまった以上、食べずとなると味気無い。
アルペンローゼの歯はもう全て綺麗に生え揃って完治している。歯の所為で食べないわけではない。飲食とは無防備になるもので、獣の前では無防備にならないと決めているのだ。相手がどんな獣であろうと、どんなに穏やかで大人しくとも、警戒が前に出て飲食を妨げる。同僚のゲンチアナやエーデルワイスは獣の前でも気にせず飲食ができるが、アルペンローゼはそうではない。
「じゃあ僕がいない時にこっそり食べてね……」
この獏は御人好しなのだろう。アルペンローゼはそう思うが、警戒はやはり出る。
獏が席につくので、灰色海月は大きなケーキを見てもらおうと、マレーバクの絵が描かれたガトーオペラを台所へ取りに行く。絵以外は灰色海月が作った物だ。
「……おや」
穏やかな時間が流れる店にふとドアの軋みが割り込んだ。最初に気付いた獏は、珍しい客に目を丸くする。続いて気付いたアルペンローゼは大きな置棚の陰へ身を避けた。
「低いな……頭がギリギリだ。ギリギリぶつかる」
文句を言いながらドアを潜って来たのは、がたいの良い長身の男――狻猊だった。彼はいつも宵街の工房で煙草を吹かせていて、外に出ることはあまりない。そんな彼が罪人の牢まで足を運ぶのは初めてだ。今は煙草を咥えず、煙を纏っていない。
「ドアはたぶん僕の身長に合わせたんじゃないかな? それより何か用なの?」
「つれないな……。まあお前に用があって来たわけじゃないんだ。花街の客人がここに来てるって聞いたんだが」
「アルペンローゼのこと? アルさんならここにいるけど」
気配を消して棚の陰に隠れていたアルペンローゼは、指を差されて躊躇いながらも通路へ出た。初見の獣を前に警戒する。
「ちょっと話を聞きたくてな。まあ座れ」
机の前に置かれていた簡素な椅子に遠慮無く腰掛け、狻猊はアルペンローゼに向かって指先を上下に動かした。アルペンローゼは立ったまま応答しようとしたが、獏が椅子をもう一脚出すので座ることになってしまった。
オペラを運んできた灰色海月はそれを机に置き、包丁も取りに行く。客人がいるなら切った方が良いだろう。
「これはまた立派なケーキ……この絵はパンダか?」
「バク科バク属のマレーバクです。見てわかりませんか」
包丁を構えて台所から姿を現す灰色海月に狻猊はびくりとするが、感情の籠らない若い変転人は使う言葉次第でかなり冷たく見えてしまう。彼女は怒っているわけではないが辛辣だ。
「すみません。僕に絵心が無く」
「え? お前が描いたのか……い、いや、オレはどっちも見たことないからな。よく知らないだけだ」
慌てて笑って誤魔化す。これから話を聞くのに、空気を悪くするわけにはいかない。
「アルさんは絵も描けるんだね。上手いなぁ」
にこにこと微笑ましくガトーオペラが切られるのを見守り、獏は狻猊を一瞥する。助けてくれたらしいと狻猊は胸を撫で下ろした。
「あー……話って言うのはな、花街のことなんだが」
「また拷問ですか?」
「ごっ……?」
狻猊はアルペンローゼが拷問されたことを知らない。発作を抑えるためにペストマスクを作れと依頼はあったがそれだけで、病の正体は虫だとかユニコーンが虫を駆除したとか、そういう情報は入っていない。罪人の獏が宵街を彷徨いたり罪人なのに地下牢に収容されていない事情は最近漸く話を聞くことができたが、またしても狻猊には情報の伝達が遅れていた。
「いやいや、そんな大層なことをするつもりはないんだ。答えられないこともあるだろ。ただまあ……ヒントをくれ」
妙な要求をする獣だ。アルペンローゼは一先ず頷いておく。だが花街の獣の能力は何度尋ねられてもヒントすら出す気は無い。
「前置きは面倒だから省く。花街圏に電波を妨害する物はあるか?」
「傍受でもするんですか?」
「そういうのじゃなくて……あー……花街の連中……お前はどうやって仲間と連絡を取ってるんだ?」
「僕は連絡を取ってません」
「そうなのか? じゃあ花街には連絡手段が無いのか?」
「…………」
少し会話が噛み合わない。そんな気がしてアルペンローゼは口を閉じる。裏で仲間と連絡を取って何かを企てているのではないか怪しまれているのだと思ったアルペンローゼだったが、単純に花街に通信手段があるのか尋ねたいようだと思い直す。電波の妨害を最初に尋ねたのはつまり、宵街側が花街圏で通信を行いたいのだろう。この煙草臭い獣は宵街と花街の今の微妙な状況を知らないのかと首を捻る。
「花街と通信がしたいと言いたいのでしょうか?」
「うわ……こいつ、勘が鋭いな。だが花街と通信したいわけじゃない。宵街の……旅行者と連絡を取りたいんだ」
必死に濁してはいるが、只の旅行者ではないだろうとアルペンローゼは考える。ユニコーンのような密偵を送り込もうとしているのかもしれない。
獏は切り分けられたガトーオペラを一口頬張り、狻猊と先に情報を共有すべきか考える。せめてアルペンローゼを殺せと置き手紙があったことくらいは共有すべきだろう。アルペンローゼは狻猊に情報が行き渡っていないことにそろそろ勘付くだろうが、狻猊がそれに気付くかはわからない。
「……ねぇ。君は独断でここに来たの?」
少し話題を逸らそうと獏はガトーオペラを飲み込んで口を挟む。
「おう。通信機器が上手く接続できなくてな。花街側に何か問題があると思ったんだ。病院に行ったら、花街から来た奴はここに行ったって言うもんだから、思い切って来てみたんだ。誰かに頼んで話を聞いてもらうより、オレが直接聞く方が早いからな。いやぁ、病気が治って良かったな」
「君は工房から出ない方が良かったかもね」
「あ? どういう意味だ?」
自分は何も知らないと言っているような台詞だった。アルペンローゼも呆れている。警戒しているのが馬鹿馬鹿しくなるような呑気さだ。折角獏が話を逸らしたと言うのに、狻猊は無知を明かしてしまった。最新の情報を知っていて虫のことを『病気』と言う者はいないだろう。
「アルさん。この通り別に他意は無いから教えてくれる? 翻訳機があるくらいだし、花街の方が技術はあるよね。少し話しても脅威にはならないよ」
「……そうですね。ですが技術の話となると僕は疎いです。技術的なことなら技師に聞かないと」
「そうなの?」
「はい。それに通信ができないと言うなら、確かに妨害が行われているかもしれません。行われているなら、僕の口からそれを無にするようなことは言えません」
「当然と言えば当然の答えが返ってきたけど、どうする? 狻猊」
ガトーオペラをもう一口頬張り、獏はにやにやと尋ねる。一体どちらの味方なんだと狻猊は頭を抱えるが、獏は罪人だ。罪人の言葉に翻弄されてどうする。
「ぐっ……じゃあもう少しオレ一人で考えてみる……。無駄足だったか……」
狻猊は切り分けられたガトーオペラをざっくりと切って口に放り込み、紅茶で流し込んで立ち上がる。諦めが早い。
「……少し甘いな」
ぼそりと呟き、狻猊は思考に頭を回しながら出口へ向かった。
「美味しいのに」
獏も席を立ち、立ち上がろうとするアルペンローゼを制する。客人まで見送りに参加することはない。
獏は狻猊を追い、店を出た所で捕まえる。情報が無いままこれ以上彷徨かれると宵街にも迷惑だ。病と虫、そしてアルペンローゼと花街のことを狻猊に話してやった。獏が知っている以上のことは話せないが、それ以上を知りたいなら狴犴にでも聞けば良い。
狻猊はぽかんと口を開けていたがやがて口元に手を遣り、アルペンローゼに不味いことを言ってしまったかもしれないと漸く焦り始めた。工房から出ない狻猊はどうしても情報の取得が遅れてしまう。最近外が騒がしかったが、変転人が燥いでいるのだと思っていた。まさか発作で暴れて負傷者が多数出ていたとは思わなかった。
「じゃあ……マスクももう作らなくていいのか……?」
「それはラクタに訊いてよ。僕は決められない」
「あのアルペンローゼって奴……絶対、宵街が花街にちょっかい出すと思ったよな? 花街圏で通信なんて。ちょっかい出してんのは花街だが」
「幾らか誤魔化しておいてあげるけど、気を付けてよ。アルさんもこっちを探ってるみたいだから」
「えっ、不味くないか……?」
「大丈夫だよ。今の所はね。花街の置き手紙で殺されそうになってるアルさんには今、味方がいない。もし連絡手段があるとしても、話せるなら生きてるってことになるから連絡はできない。ここに来たのはたぶん、生きてることを知られないため。宵街は出入りがあるし、手紙を置いたヴイーヴルが戻って来るなら宵街でしょ」
「あ、ああ……おう、そうだな」
情報が無かったとはいえ、軽々しく罪人の牢を訪れるべきではなかったと狻猊は反省する。罪人に諭されてしまった。
「それじゃあ、君は端末作り頑張って。それから僕にも一台くれると嬉しい」
「機嫌良く説明しに出て来てくれたと思ったら、それが目的か」
動物面で隠れてはいるが、期待の眼差しを向けていることは、鈍い狻猊にもわかった。玩具を強請る子供のようだ。
「狴犴がいいって言えばな」
統治者の名前を出すと、獏は頬を膨らせた。不満がすぐに顔に出る。
「そんな顔するなよ。可愛い顔が台無しだぞ。じゃあな」
「え……? 顔?」
「お面なんて被っててもオレには見えるからな」
からからと笑いながら狻猊は杖を召喚し、くるりと姿を消してしまった。
「嘘でしょ……丸見えなの!?」
獏は両手で頬を押えて青褪める。狻猊は目視で体のサイズがわかるが、サイズが正確にわかるのなら服の下が見えていてもおかしくない。面を被っていようと、その奥が見えているらしい。
「侮辱された……」
醜い自分の顔が可愛いなんて屈辱的な言葉だ。次からは助けてやらないと心に決めつつ、面白そうな携帯端末だけは欲しい。
いつまでも虚空に向かって呆然としていても意味が無い。獏はとぼとぼと店内に戻る。大人しく座ったままのアルペンローゼが通路を覗いていた。店外へ出ている時間が少し長かった。
「心配しなくても大丈夫だよ。あいつが嫌な奴ってだけ」
「?」
アルペンローゼは怪訝な顔をするが、追求はしない。情報は欲しいが、あまり貪欲に突くと痛い目を見るものだ。三十年以上生きる彼はそれを弁えている。
ただ、席に戻りガトーオペラの続きを美味しそうに食む獏を見ると、後に引き摺らない程度の機嫌だということはわかった。
ミルクレープは日本生まれだそうです。




