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透明街の人喰い獏 (2)  作者: 葉里ノイ


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153-呪縛


 誰もいない透明で小さな街の古物店で、(ばく)は古びた椅子に凭れて硝子の鉢を眺めていた。窓の横を定位置とし、蒲牢(ほろう)が初詣での金魚掬いで掬った二匹の赤い金魚が静かに泳いでいる。

 その鉢の傍らには白いリボンを結んだ黒猫が座り、微動だにせず水の中をじっと覗いている。金魚から目を逸らさない。遊びたいのか食べたいのか、獏も目が離せなかった。

「ウニさんが金魚にキャロライナとジョロキアって名前を付けたんだよ。僕は食べたことないけど、凄く辛い唐辛子なんだよ。だから食べるのはやめておきなよ……」

 釘は刺しておくが、果たして伝わるのか。黒猫は尾を動かすが、返事と受け取って良いのか。

 妖しいマレーバクの面と黒猫に見詰められ、金魚の気は休まらない。

 子猫の方は姿が見えないが、何処かの棚の陰で寝ているのだろう。


「戻りました」


 棚に囲まれた狭い通路の先でドアが開き、獏は鉢からそちらへ動物面の顔を向ける。灰色海月(クラゲ)が願い事の差出人を連れて来た。

 最近は忙しなく宵街(よいまち)を走り回っていたが、漸く一息吐くことができた。宵街にはまだ不安が残っているが、罪人ができることはもうない。罪人は罪人らしく、与えられた仕事をするしかない。だが人間に願い事がないと手紙が投函されることはない。そう頻繁に投函されるものではないので、数日は休むことができた。

 それでも灰色海月は罪人ではないのでもう少し休んでいれば良いのにと獏は思うが、彼女曰く動いていた方が不安や恐怖は紛れるそうだ。そういう気持ちもわからないでもない。ヴイーヴルの殺気や巨大な虫の出現などで彼女の精神は疲弊しているが、彼女が望むならと手紙の回収を頼んだ。

 平素の無表情で灰色海月に連れられて入って来たのは少年だった。おそらく高校生だろう。大人へと移り変わろうとしている顔だ。獏へ手紙を出す人間は大抵が暗い顔をしているか何か企んでいるかだが、少年の顔は警戒しつつも平常心のようだった。『普通』という言葉が似合う。

 出された簡素な椅子に座った少年は臆することなく正面から獏の動物面を見据え、その後ろにいる金魚を凝視する黒猫を一瞥した。

「……それ、大丈夫なんですか?」

「たぶん大丈夫かな」

 灰色海月から手渡された手紙を手に取り、中を確認する。嫌なことを思い出す言葉が書かれていた。獏は微かに眉を顰めつつ少年を見る。

「君の願い事は……『掃除を手伝ってほしい』そうだけど、まさかゴミに埋もれたゴミ屋敷じゃないよね?」

「え? 違います! 家じゃなくて、物置の掃除を手伝ってほしいんです」

「物置? そのくらいなら家族か友達とでも遣ればいいんじゃない? わざわざ獏に手紙を出さなくても」

 ゴミ屋敷の掃除ではないようで、とりあえず獏は安心した。掃除中にまた死体でも掘り出すことになるのは遠慮したい。

「母の実家にある物置なんですが、遠いんです。親は忙しくて、友達に新幹線代を出させるのも……。実家の方には俺の知り合いはいませんし」

「ああ、成程」

「祖父が亡くなって祖母だけになってしまったので、全然開けない物置の掃除をしてしまおうと」

「君が任されたわけだね」

「はい。春休みの内に終わらせたいんですが、行けますか? 新幹線代は……」

「ふふ。新幹線には乗らないよ。君も乗らなくていい。送ってあげる。でも願い事を叶える代価は戴くよ」

 新幹線に乗らずにどうやって行くのだろうか。獏の言葉が理解できず少年は怪訝な顔をするが、代価と聞いてはっとした。代価に全て含まれているに違いない。

「い、幾らですか……? もしかして凄く高いですか?」

「どんな噂を聞いたかは知らないけど、僕が欲しい代価はね――」

 獏は机に頬杖を突き、もう片方の手で少年の胸を指差した。

「君の心の一番柔らかい部分だよ」

「え……? 心臓?」

「心臓じゃなくて、形の無い心だよ。感情でも記憶でも、何を差し出すか君が選ぶことだってできるよ。痛みは無いし苦しくもない。無くなってしまえば何も感じないんだから」

「つまり……例えば喜びの感情を差し出せば、もう二度と笑えない……?」

 少年は眉を寄せて唾を呑む。願い事を叶える獏の噂を聞き、試しにと軽い気持ちで手紙を出した。その気持ちに対して、獏の言う代価が重過ぎる気がする。それに形の無い心なんてどうやって差し出すのだ。

「怖くなった? 全然怖がらない人間だと思ったけど、ただ鈍いだけだったのかな。ふふ……そんな大きな感情を差し出さなくていいよ。それに喜びを失ったからと言って笑えなくなるわけじゃない。喜ばなくても笑う時はあるでしょ?」

「大きい……ってことは、小さい感情って言うのがあるんですか? よくわからなくなってきた……」

「君は冷静だね。僕を怖がらないから取り乱したりしない。それに頭が良い。人間の一番大きな感情は喜怒哀楽だよ。それ以外は小さい感情になる。小さい中でも大きさの違いはあるけどね。例えば今君が感じてる『不安』を差し出すこともできる。全ての不安を差し出すのも、僕に抱いてる限定的な不安を差し出すのも自由だよ。こんなに丁寧に説明するのは久し振りだなぁ」

 机上に運ばれた紅茶を一口飲み、獏は安心させるように微笑む。妖しい動物面を被っているが纏う空気は穏やかで、会話の内容に似付かわしくない。

 少年は漸く、軽い気持ちで手紙を出すものではなかったのだと気付いた。高が掃除で大事な物を差し出すのは馬鹿馬鹿しい。だがここで願いを取り下げても良いのか、少年は考え倦む。ポストに手紙を投函すると灰色の女が現れて、一瞬の内に知らない石畳の街に立っていた。どう考えても科学で説明できない速度で移動した。この獏は普通ではない。それを時間を掛けて少年は嚥下した。只の便利屋のようなものだとばかり思っていた。

「え、えっと……」

「感情ばかり取り上げたけど、記憶でもいいよ。特定の嫌な記憶を差し出せば、君は晴れやかな気持ちで生きられる。記憶の方が内容がはっきりしてる分、怖くないんじゃない?」

「記憶……じゃ、じゃあ、忘れた記憶でもいいのか? 赤ちゃんの頃の記憶とか」

「おや。そこに気付くとは。一度定着した記憶は忘れるわけじゃなく思い出せないだけだからね。思い出せないならいらない、ってことだよね。本当に頭が良いなぁ。――いいよ、それで願い事を叶えてあげる」

「よ、良かった……」

 追い詰められた人間は混乱して思考を放棄するか、必死に道を探して頭を回そうとするかのどちらかだ。少年は後者らしい。獏は紅茶を飲み、感心しながら微笑む。

「それでも記憶の範囲は決めてね。忘れた記憶を全てとなると、お腹がはち切れちゃいそうだよ」

「あ、はは……そうなんですね……」

「ね? 喜ばなくても笑ってる」

 獏は少年に紅茶を勧め、少年は躊躇ったが良い香りに誘われて一口飲んでみた。得体が知れないので変な味がするのではと警戒したが、美味しい紅茶だった。

「店の紅茶みたいだ……家で母が淹れた紅茶なんて苦いだけなのに」

「それは蒸らし過ぎか、茶葉を振り回してるんじゃないですか?」

 黙って立っていた灰色海月は横から口を出し、少年はびくりと彼女に目を遣った。少年をここに連れて来たのは彼女だが、紅茶を出す以外は動かずじっと立っているだけだったので置物だと思っていた。生きている人だと今思い出した。

「それじゃあ、いつ物置の掃除をする? 僕は君の春休みがいつまでなのか知らないけど、いつでもいいよ。暇だからね」

「……あ、明日でもいいですか? 明日は天気が晴れみたいなので」

「うん、いいよ。じゃあ明日、迎えに行くね」

 獏はにこやかに笑い、少年に手を振った。灰色海月に連れられ、少年は来た時よりも平常心を乱して帰って行く。

 高が掃除如きで得体の知れない者に願うことはないのだ。少年には良い教訓になっただろう。



 翌朝、少年が自宅で目を覚ますと、見慣れた自分の部屋の中に重そうな首輪を嵌めた異質な動物面と灰色の女がいた。動物面は椅子に座って本を広げ、優雅に紅茶を飲んでいる。

「な……何でここに?」

 まだ寝惚けているのかと少年は目を擦り、軽く手を上げて返事をする獏を見る。

「おはよう。心配しなくても、ここに入る所は誰にも見られてないよ。窓から入ったしね」

「え? 窓、開いてましたか……?」

「鍵を開けられるから大丈夫」

「…………」

 つまり鍵を掛けても意味が無いらしい。少年は一旦考えることを止め、着替えることにした。まだ寝惚けているのかもしれない。

 部屋は少年が一人で使用していて、家族であろうと勝手に入って来ることはない。部屋の中に見られて困る物は無いはずだ。獏は本棚に置いている漫画を勝手に読んでいるが、読むくらいは構わない。

「暇だったから本を借りてるけど、漫画は初めて読むよ」

「そうですか……」

 灰色の女も気になるのか立ちながら時折本を覗いているが、表情は変えない。貼り付けられた無表情は崩れない。少年は着替えながら一瞥する。

「こんなに早く来るとは思わなかったです」

「そう? 待たされても構わないし、遅れるなら早い方がいいと思ったんだけど。ゆっくり朝御飯を食べていいよ。今いい所だから」

「いい所……? あ、感動シーンですか? その漫画、ぐっと来るシーンが多いんですよね」

「人間が殺される所」

 楽しそうに声を弾ませながら獏は本を示した。悪役が人知を超えた能力を使って人間を殺している絵が描かれている。少年は口を半開きにしたまま手が止まってしまったが、早く着替えを済ませて出掛ける準備をすることにした。悪役を応援する獏の機嫌を損ねないようにしようと少年は誓った。

 少年は普段よりも早く朝食を済ませて外出の準備を終えた。新幹線は乗らなくて良いと言われたのでそれを信じ、少年は殆ど何も入っていない鞄を背負う。

 良い所は読めた獏は本を棚に戻し、灰色の傘を持って待つ灰色海月に指示を出す。

 灰色海月は少年の思念を読み取り、部屋の中でくるりと灰色の傘を回した。獏と灰色海月は土足で部屋に上がっていたが、少年の目には入っていなかったようだ。

 獏の言った通り、新幹線を使わずとも一瞬にして景色が変わった。部屋の壁が消え、古い住宅が立ち並ぶ街が眼下に広がる。何故眼下に? と疑問を抱くまで数秒掛かったが、屋根の上に立っているのだと気付くと、近くにいた獏の腕を無意識に掴んでしまった。

「朝とは言えこの時間だと人間が外を歩いてるからね。すぐに下ろすよ。目的地の家は何処?」

「えっ、あ……あそこに……」

 少年が指差す方向を確認し、獏は目の上に手を翳す。

「思ったより古そうな家だね」

「そうですか? この辺りだとどれもあんな感じですよ」

 確かに古い木造住宅が多いと獏も周囲を見渡す。この辺りは戦火を免れた地域なのだろう。

 獏は少年を抱え、灰色海月の手を取り屋根を蹴る。眼下の道に人間は疎らに歩いているが、誰も空を見上げない。青い空に黒衣の獏は目立つので、勿論気配は消している。

 少年が指差した家の庭に降り立ち、少年は数歩踏鞴を踏んで縁側に鞄を置いた。

「死ぬかと思った……」

「もしかして、高い所は苦手?」

「高所恐怖症です……」

「おや、それは悪いことをしちゃったね。君は暫く休んでるといいよ。先に物置を見せてもらうね」

「ありがとうございます……。物置はそこのあれです」

 指した指先を辿って獏は振り向き、数秒固まった。

「大きくない!? 物置って、倉!?」

 そこには黒い屋根とくすんだ白い壁の小屋があった。天井がとても高いわけではないなら、二階がありそうだ。

「? 物置じゃないですか」

「思ったより大きい……」

「すみません。大きさを言っておけば良かったですね……。これだと手伝ってもらえませんか?」

「手伝うけど」

 願い事を叶えるためにここまで来たのだ。想像以上の広さでも掃除はする。以前のゴミ屋敷よりは狭いはずだ。

「じゃあまずは中を確認します。実は俺も中を見るのは初めてで。祖母は、必要な物は残して、欲しい物があれば持って行っていいと言ってます。後は処分で」

「ざっくりしてるなぁ。必要な物は僕にはわからないから、君の祖母に訊きたいんだけど」

「祖母は近所の友達と出掛けてるので、後で訊きます」

「家から出て来ないから弱ってるのかと思ったよ。元気そうだね」

「元気ですよ。――とりあえず先にこれを」

 持参した懐中電灯を一つ獏へ渡し、少年も懐中電灯を手に物置小屋へ向かった。どうやら小屋には明かりが無いようだ。

 少年は小屋の戸に掛かった錆びた錠を揺らしながら外し、力を籠めて戸を横に引いた。長年開けられていなかった戸は引っ掛かりながら軋みを上げて開く。久し振りに小屋の中に光が射し込み、埃が踊る。懐中電灯で中を照らすと、大小の古い箱がたくさん積まれていた。頭上も足元も其処彼処に蜘蛛の巣が張られていて、立ち入りの無さを物語っている。

「うわ……」

 少年も思わず声を漏らす。想像以上に古い物置のようだ。

「もしかしたら売れば金になるような貴重な物とか……」

 古いと言うだけで急に宝物に見えるようになった。鞄を持って来て良かった。

 期待する少年に獏は苦笑し、彼の後ろから小屋を覗く。

「空の箱だったりして」

「小さい箱はともかく、大きい箱はさすがに何か入ってるんじゃないですか? 刀とか、鎧とか」

「君は大きい箱がいいの? 舌切り雀って知ってる? 宝を得るには代償が必要だし、欲を出すものじゃないってこと」

「何か聞いたことあります。大小の箱があって、欲張らず小さい方の箱を貰うと宝が出て来るんですよね? 大きい箱からは魑魅魍魎とかヤバイ物が出て来るんでしたっけ。欲張って大きい箱を貰ったお婆さんは痛い目を見た」

「昔の御伽噺はちょっとずつ話が違ったりするけど、大筋はそうかな」

「そう言われると怖いな……小さい箱から開けてみます」

「ふふ」

 箱を選んで持ち帰れとは言われていないのに、少年は警戒心を出した。素直で揶揄い甲斐があると獏はくすくすと笑う。

 まずは小屋に入って全体を把握しようと少年は懐中電灯を構え、奥の壁まで歩く。箱の陰に隠れて壁際に階段があった。二階の床に立て掛けたような古い木の階段で、かなりの急勾配だ。

 獏と灰色海月も小屋の中へ入り、手前の木箱から順に懐中電灯を向ける。外から見上げた二階の窓は開けられそうだったが、一階に窓は無く、懐中電灯がなければ暗闇だっただろう。今は出入口の外からの光があるが、陽が落ちる前に掃除を終わらせた方が良さそうだ。

「何の箱なのか、箱には何も書いてないね……んっ!?」

 蓋がずれて隙間が空いている箱を見つけたので覗いてみたが、反射的に跳び退いてしまった。背後にあった箱にぶつかってしまう。

「大丈夫ですか?」

 灰色海月は獏が視線を向けていた箱から距離を取る。灰色海月の位置からは箱の中が見えない。

「な、何……?」

 跳ね回る心臓を落ち着け、獏はもう一度箱を見る。細い隙間から、懐中電灯で照らされた蒼白い顔が覗いていた。それは人の顔で、瞬きもせず虚ろな目で何処かを見ていた。

「人形……? びっくりした……」

 最初は生きた人間だと思ったが、少し冷静になって、生きた人間がこんな所にいるはずがないと改める。だったら死体かとよく見ると、作り物だった。かなり精巧だが、本物の人間よりも頭部が一回り小さい。

「何かありましたか? お宝とか」

 少年もそわそわと様子を見に来る。少年に先に見つけてほしかった。

「人形だと思う。人間の感覚で言うと相当古い物じゃないかな」

「人形? アンティークドールとかですか? 誰の趣味だろ」

「西洋風じゃないと思うけど。開けてちゃんと見てみたら?」

「日本人形って怖くないですか? 髪が伸びたり……」

「人間だって髪が伸びるんだから、怖がらなくていいよ」

 一歩下がったまま箱に手を掛けようとしないので、仕方無く獏が蓋を開けた。怖くないと言うが、獏とて何も感じないわけではない。人間の前だから強がっているだけだ。

 箱からは人間にそっくりな少女人形が現れた。肌に幾重にも塗り重ねられた塗料は所々剥げているが、薄暗い中で少し離れて見ると人間に見えてしまう。人間より一回り小さいと言ってもかなり大きな人形だ。正し上半身のみだが。下半身もあればもっと大きな箱でないと入らない。

「何で上半身だけ……? 何処かの箱に下半身があるんですかね……?」

「とりあえず外に出しておくね」

 蓋を閉めて箱を小屋の外に置く。陽の下に置くと一層古く見えた。くすんだ箱は光の下にあると違和感がある。


「――うっ、うわあああ!」


 突如上がった少年の悲鳴に獏はびくりと小屋を覗く。人間を心配したわけではなく、小屋の中には灰色海月もいるので彼女の心配だ。

 どうやら腰を抜かしたようで、少年は尻を突いて埃っぽい床に座り込んでいた。

「下半身でも見つけた?」

「い、いや……上です……」

 また上半身かと、少年が指差す箱へ目を遣る。先程の箱より少し大きな箱の蓋がずらされている。覗き込むと虚ろな人形の頭部が幾つも詰め込まれていた。首から下は無い。見える顔は全て少女のような顔だった。

「生首かと思った……」

 少年も獏と似た反応をし、獏は冷めたように笑う。

「頭部だけ集める蒐集家か……もしくは君の先祖は名のある職人とか?」

「そんな話は聞いたことないですが……あっ! そう言えば曾曾……曾? 祖父さんが趣味で人形を作ってたとか……って話なら聞いたことあります」

「じゃあそれじゃないかな。これはたぶん生人形(いきにんぎょう)だよ」

「い、生人形? 心霊的な奴ですか?」

「霊は関係ないよ。生きてるみたいに精巧に作られた人形のことだよ。ほら、歯まで一本一本作られてる」

「へ、へぇ……?」

「これは人形の倉庫かもね。ちょっと二階も見てくるよ。君は引き続き下半身でも探してて」

「は、はい……」

 何とか手を突きながら立ち上がる少年を横目で確認し、獏は一番奥の階段に手を掛ける。古い木の板は体重を乗せる度に大きく軋む。灰色海月は階段の横から見上げ、獏が二階に上がりきってからゆっくりと登った。

 光の入らない二階は一階よりも暗く、そして箱が少なかった。代わりに大きな紙で包まれた物が幾らか積まれている。そして奥には大きな布を被る物があった。

 積まれている紙の一番上を捲ると埃が舞い、中から華やかな模様が入った布が現れる。

「反物だね。人形に着せる服も作ってたのかな?」

「あの奥のは何でしょうか?」

「やっぱり気になるよね、あの布。ちょっと待ってて」

 懐中電灯を灰色海月に預け、獏は床を軋ませながら奥の大きな布の前に立った。布の輪郭を見るに、中にあるのは四角い箱ではない。

 布の端を持ち上げ、何があるのかわからないのでゆっくりと捲っていく。一番高さのある場所は獏の腹の辺りで、そこを露わにした時、全身に寒気が走った。布を持つ手に無意識に力が籠る。

「何がありましたか?」

 灰色海月の問い掛けも耳に入らなかった。

 獏は唇を噛み、肩を震わせて踵を返す。何も言わずに階段を一息に飛び降りる獏を振り返り、灰色海月は奥へ懐中電灯を向けた。そこには半分布を剥がされた大きな人形が座っていた。

「獏……?」

 黒い着物を着せられた長い黒髪の少女人形は、懐中電灯の光を受けて瞳が金色に光る。衣服や髪の長さは違うが、その容貌は紛れも無く獏だった。

 近付いてよく見れば顔の塗料は所々剥がれて人形だとわかるが、遠目から見れば獏が座っているようにしか見えない。人形にも他人の空似があるのだろうか。

「……?」

 行儀良く膝の上に載せられた手に、何か光る物がある。懐中電灯を動かすときらりと光る。それは歪んだ青い硝子玉だった。

 灰色海月は首を傾げるが、監視役の役目を思い出す。彼女が監視しなければならないのは人形ではなく罪人だ。灰色のスカートを翻し、灰色海月も階下へ急いだ。

 踏み外しそうなほど急な階段をなるべく速く下り、灰色海月は一階を見渡す。少年がおっかなびっくり箱の蓋を開けている以外は誰も見つけられなかった。

「すみません、獏は何処にいますか?」

「凄い勢いで下りて来るから漏れそうなのかと思って、家のトイレを使っていいって言いました」

「……そうですか」

 つまり小屋から出たようだ。そんなにトイレを我慢しているようには見えなかったが、灰色海月も念のために縁側から家に上がった。

 戸を開けて畳の敷かれた部屋に土足で入り、古い箪笥が置かれた部屋を見回す。トイレは廊下だろう。部屋の隅には仏壇があり、横切る瞬間に頭を下げる。頭上に白黒の顔写真が額に入れられ並んでおり、見られているような気がしたのだ。

 しんとした薄暗い廊下を足早にトイレを見つけるも、中には誰もいなかった。家の中には灰色海月と時計の針以外の物音が無かった。

「どうしましょう……獏を見失いました……」

 階段を飛び降りた獏は明らかに様子がおかしかった。小屋の奥に興味を持っている場合ではなかったのに、まるで誘われているかのようにあの人形が気になって目を離せなくなってしまった。

(だ、大丈夫です……こういう時のための烙印です)

 灰色海月は急いで外へ出て辺りを見渡し、改めて獏の姿が無いことを確認して懐中時計のような形の道具を取り出した。思念の羅針盤と似ているが、これは烙印の羅針盤だ。

「…………」

 だが烙印の羅針盤は物置小屋を示すばかりだった。小屋に戻って来たのだろうかと少年に確認を取るが、獏は戻っていないと言う。二階にもいない。外へ出て少し下がって見上げるが、屋根の上にも誰もいなかった。

「故障でしょうか……」

 烙印は取り外しができる物ではなく、うっかり落としてしまうこともない。落ちるとすれば首を切られた時だけだろう。

 以前の灰色海月ならすぐに取り乱していただろう。だが再教育を受けて冷静を覚えた彼女は取り乱さなかった。寸前で留まった。

 だが獣に本気で逃げられた場合、変転人では追い付けない。目を離した時点で監視役の過失である。唇を結んで震えそうになりながら、灰色海月は宵街の携帯端末を取り出した。過失を白状して助けを求める方が被害は少なく済むはずだ。躊躇えば躊躇うほど獏は手の届かない遠くへ行ってしまうかもしれない。

 相手を確認して携帯端末を耳に当てると、程無くして繋がった。

『はい。どうし』

「マキさん! 助けてください!」

 獣に連絡する勇気は無く、半獣の白花苧環(シロバナオダマキ)に繋げた。灰色海月の携帯端末にはまだ連絡先が多くない。浅葱斑(アサギマダラ)は灰色海月と同じくまだ疲労が残っているはずだ。年下の白花苧環に頼るしかできないのは先輩として至らず惨めだが、彼はそんなことは微塵も気にせずすぐに素っ飛んで来た。

 ユニコーンが来た御陰で病を恐れることが無くなったため、狴犴(へいかん)も少し気を抜いていた。灰色海月から詳細を聞く前に白花苧環は飛び出し、狴犴は制止が間に合わず困惑した。制止されても白花苧環は止まるつもりがなかったが。

「クラゲ、どうしましたか?」

「ば、獏がいなくなってしまいました」

「……。首輪は装着してるようですね。状況を教えてください」

 灰色海月は早く獏を追えるよう簡潔に状況を纏めた。ここへは善行のために来て、ある物を見て獏が飛び出してしまったと。烙印の羅針盤でも辿れないので連絡したと話した。

 白花苧環はぐるりと一周見渡し、問題の物置小屋へ入って行く。箱を覗いていた少年は顔を上げ、片目を白髪で覆っているが暗がりでも目立つ花貌に一瞬呼吸を忘れた。

「掃除の助っ人ですか……?」

「いえ」

 きっぱりと否定するが、灰色海月の知り合いと言うことは見ればわかる。白花苧環の後ろを灰色海月が付いて行く。灰色海月が指差す二階へ二人は急いで上がった。二階に何か凄い物でも見つけたのだろうかと少年も覗いていた箱に蓋を閉め、二人に付いて階段を登った。

 暗い二階の奥に座る大きな人形へ懐中電灯を向け、灰色海月と白花苧環は接近して人形を観察する。劣化しているのに美しいと感じる人形に、少年も目を奪われた。一階にあった人形も精巧だったが、この二階の人形はそれ以上に精巧で、だが人形らしく美しかった。

「この人形なんですが、獏に似てますよね……?」

「そうですね……髪の長さは違いますが、確かに似てます。ですが獏は人形のような顔をしてるので、偶々似ているだけでは?」

「目の色まで偶々ですか?」

「……人間には金色の目の人はいないんでしたか」

 人間には詳しくないが、指摘されて白花苧環は思い出す。ならば偶々似たとは言い難い。

「あまりに似ていて驚いて飛び出してしまった……? オレも初めて鏡を見た時は驚きました。自分しか部屋にいないと思ったのに、気配も無く誰かいるんですから。驚く気持ちはわかります」

 背後でそれを聞いていた少年は、動物みたいな反応をする人だなと思った。

「鏡は私も驚きました。獣は驚く時も動作が大きいんでしょうか」

「羅針盤を見せてもらっても?」

「はい。どうぞ」

 灰色海月は烙印の羅針盤を差し出す。羅針盤の針は人形を指していた。

「変ですね。容姿が似ていようが羅針盤が追うのは烙印のはずなんですが。オレの羅針盤も確認してみます」

 持参した烙印の羅針盤を取り出して見ると、灰色海月の持つ羅針盤と同じく人形を指していた。一つなら故障を疑うが、二つ共が同じように人形を指しているとなると別の原因がありそうだ。

「……。そこの人間。この人形は何ですか?」

「えっ?」

 突然話し掛けられた少年は素っ頓狂な声を上げてしまう。尋ねられても、この場所に入ったのは今日が初めてだ。

「俺はよく知らないです。知ってるとしたら祖母ですね……夕方まで帰らないと思います」

 今はまだ午前で昼食の時間にもなっていない。夕方まで罪人が行方不明では科刑所の信用に係わる。

「夕方まではまだ時間がありますね。人形より、先に獏を捜しましょう。転送はできないのであまり遠くへは行ってないはずです。特殊な状況なので、獣に協力してもらいます」

「獣ですか……」

「大丈夫ですよ。羅針盤の不具合なのか、この人形に何かあるのか、どちらにせよ羅針盤が使えないならクラゲの所為ではないです」

「そうでしょうか……」

 目を離してしまったのは灰色海月なのだから、何かしらの罰があるのではないかと覚悟はする。だが今は落ち込むより獏を捜す方が先だ。

 すぐに踵を返す白花苧環に灰色海月は慌てて付いて行く。少年も取り残されまいと後を追った。奥に座る人形と二人きりになると、魂が取られてしまいそうな不安があった。

 白花苧環と灰色海月が小屋を出ようとした時、丁度庭に入って来た者と鉢合わせた。

「おや」

「……まだ連絡はしてないはずですが」

 鉛色の髪に赤褐色の瞳を細めて立ち止まり、人間ではない少年は微笑む。その背には動物面を被った獏が背負われていた。

「狴犴から連絡があってね。急ぎだと言うから鴟吻(しふん)に千里眼で見てもらって、回収に来たんだ」

 白花苧環が科刑所を飛び出した時点で狴犴は贔屓(ひき)に連絡を取っていた。

 白花苧環は携帯端末を取り出そうとした手を一度は下ろそうとし、思い直して背負われている獏の面の鼻を無造作に掴んだ。

「近くの川縁で倒れてたんだ。面を外して確認したが、意識が無い。そこの縁側に寝かせても構わないかい?」

 白花苧環と灰色海月の後ろに一人人間がいることで状況を察し、贔屓は彼に尋ねる。少年は慌てて頷いた。獏の知人だということは少年も会話からわかったが、灰色海月と白花苧環と違い、鉛色の髪の少年と目を合わすと何故か冷汗が流れそうになる。何故だか怖い――そう感じた。

「布団……出します」

 少年は靴を脱ぎ捨てて縁側から家に入り、来客用の布団を運んで来た。この願い事の依頼者は比較的()()()なようだ。贔屓が今まで見た依頼者は難のある者が多かったので、そのことだけは安心した。

「何かしていたようだが、こちらは気にせず行ってくれて構わない。僕達は少し話をする」

「……あ、はい……」

 邪魔だから下がってくれと言いたいのだろう。少年もまた察し、物置小屋へ戻った。外見は少年と歳が近く見えるのに、鉛色の髪の少年には逆らえない雰囲気があった。

 贔屓は獏を布団に寝かせて傍らに腰を下ろし、白花苧環と灰色海月も縁側に座らせる。

「――さて、一体何があったんだ?」

 白花苧環は灰色海月を一瞥し、彼女に話す意思があるようなので言葉を待った。灰色海月は先に白花苧環に話したことをもう一度、今度はもう少し丁寧に話した。獏は見つかったのだから、もう焦る必要はない。

 物置小屋の一階と二階には箱がたくさんあり、人形が詰め込まれていることも話した。二階にある獏に似た人形の話をすると、贔屓は訝しげに眉を寄せた。

「獏が気を失った理由はわかりませんが……怪我をしてますか? 発作……ですか?」

「いや。見た所、外傷は無いよ。暴れた痕跡も無かった。飛び出してから鴟吻が見つけるまでに何があったか……あまり時間は経っていないようだが。羅針盤の不具合も気になるな。僕も人形を見てみよう」

「わかりました。獏は……」

「苧環、獏に付いてやってくれ」

「はい」

 目覚めてまた飛び出そうとすれば、追う者が必要だ。その役を白花苧環に任せ、贔屓は灰色海月の案内で物置小屋の二階へ向かう。

 二階の奥には獏に似た人形が変わらぬ姿でそこに行儀良く座っていた。灰色海月が懐中電灯を向けると、生きているかのように金色の双眸が潤んで輝く。

「驚いたな。生人形か」

「生人形……獏もそう言ってました。特別な人形なんですか?」

「これは劣化しているようだが、出来はいいな。昔、人間が見世物小屋という興行で展示していた生人形を僕も見たことがある。僕が見たのは江戸時代の後期だが、生人形はかなり人気があった。限り無く本物の人間に近付けた人形でね、僕も初めて見た時は本物の人間を固めているのかと思ったよ」

 贔屓は当時のことを思い出して笑い出す。あの時の自分の驚きようが可笑しかった。

「珍しい物ではないと言うことですか?」

「そうだな。今ではあまり見る機会は無いだろうが……」

 人形の手に光る歪な硝子玉を見つけ、贔屓は指で突く。接着はされていないようなので抓み上げた。

「これは……ラムネ玉か?」

「ラムネ玉……?」

「ラムネと言う飲料は知っているかい?」

「いえ……」

「そういう名称の炭酸飲料があるんだが、それに使用される瓶に硝子玉が入っているんだ。この歪さだとかなり古いな。玉の入ったラムネ瓶が広まったのは……明治時代の……中頃だったか? この人形は明治以降に作られた物か――」

 最後まで言う前に贔屓ははっとして口を噤んだ。もっと早くに気付くべきだった。

 贔屓は無言で硝子玉を人形の手に戻し、灰色海月を下がらせる。

(見世物小屋と言った時点で気付くべきだった……獏は過去に見世物小屋にいただろ……)

 灰色海月は首を傾ぐだけで何も気付いていないようだが、何も知らなければ気付くことはないだろう。獏の屈辱を安易に他人に話すことはできない。

(ここまで獏に似せた人形を作ることができるなら、見世物小屋で獏を見たことがある人間が制作した物で間違い無い。それを他でも無い獏本人が目にしたんだ、ショックで気を失ったんだろうな)

 予想していないことで、あまりに気付くのが遅れた。自分に呆れて溜息を吐く。

「……灰色海月。今回の善行の内容は何だ?」

 何か気付いたことでもあるのかと言葉を待っていた灰色海月は少し肩透かしを喰らったが、必要な質問なのだろう。背筋を伸ばして答える。

「この倉庫の掃除です。倉庫は一階にいる依頼者の祖母の持ち物で、暫く立ち入りは無かったようです。必要な物は残し、不要な物を処分します。不要な物は持ち帰ってもいいそうです。依頼者はここに入るのは初めてで、中に何があるか知りませんでした」

「彼の祖母は?」

「夕方に帰るそうです」

「それまでに獏が目覚めたら訊いてみよう。もし話を聞きたいと言えば、彼の祖母を待つ」

「わかりました。羅針盤も確認しますか?」

「ああ、見せてもらうよ」

 灰色海月から羅針盤を受け取ると、確かに人形を示している。狴犴が人形に烙印を捺すとは思えない。生物ではないのだから、そんなことをしても意味が無い。

「奇妙なこともあるものだな。技術的な問題なら狻猊(さんげい)に見てもらうしかないな」

「私の問題だった場合はどうしましょう……」

「君の? 体調でも悪いのか?」

「いえ、そういうわけでは」

「なら気にするな。気になるなら掃除を手伝ってあげようか? 人間の彼一人では陽が暮れても終わらなさそうだ」

 贔屓は灰色海月を促し、階段を静かに飛び降りる。彼女を見上げて腕を軽く上げて飛び降りるか無言で尋ねるが、灰色海月は首を振った。

 少年は来訪者が増えていく意味が理解できないまま黙々と箱の中身を確かめ、贔屓はその背に声を掛ける。

「君、僕も掃除を手伝うよ」

「えっ、いいんですか? ありがとうございます。さっきから箱の中を確認してるんですが、上半身ばっかりなんですよね。頭が詰まった箱ばっかりで」

「良い物が作れるよう試作を繰り返したのかもしれないな。顔は人形の命だ」

「成程……」

「生人形は服で隠れる場所も作り込んである物だ。これだけ熱心だと顔以外も試作しているだろう」

 少年は先程見た上半身しかない少女人形を思い出す。暗がりで人形を見たことで怖いと思ったが、改めて思い出すと確かに体も作り込まれていた。胸部を思い出して少年は照れる。

 贔屓は一旦小屋を出て白花苧環に獏が目覚めたら呼ぶよう頼み、少し離れて狴犴に連絡を取った。無事に獏を回収したと伝えておく。どうやら獏が過去に囚われていた見世物小屋と関係のある善行らしいと報告すると、狴犴は数秒の沈黙の後、事情を汲んだ。

 後のことは事が片付いてから報告するとして、小屋を振り返る。人形の詰まった大きな箱は重いようで、少年が苦戦している。灰色海月が加わっても重そうだ。贔屓が手伝うしかない。

 小屋から箱を出すのを幾らか手伝い、小屋の出入口から見える獏の姿を時折確認する。すぐに目覚めるかと思ったが、眠りは思いの外深いようだ。

 昼を少し過ぎた頃、昼食にしようと少年は手を止めた。人間は一日三食の食事を必要とする生き物だ。贔屓は変転人の二人を共に昼食に行かせた。変転人に転送してもらえば一瞬で店に着く。好きな店で食事をすれば良い。

 その間、頻繁な食事を必要としない獣の贔屓が獏の見張りをする。縁側に座ってぼんやりと箱を眺め、三人を見送ってから幾らも経たない内に後ろから静かに服を引かれた。

「……おや、お目覚めかい?」

「何で……贔屓?」

 獏は重い頭を擡げ、贔屓の背中越しに庭を見る。最後に見た時よりも外に運び出された箱の数が多くなっている。

「君の依頼者の人間は食事に出掛けている。灰色海月と苧環も一緒だ」

「マキさんも来てるの……? 何で……?」

「君が飛び出して行方不明になったからだよ。烙印が辿れなくてな。何度羅針盤を見ても、そこの倉庫の二階にある人形を指すんだ」

「人形……」

 ぼんやりとしていた頭が一気に覚醒した。獏は二階にあった人形を思い出し、布団の中で丸まって震えた。

「あれ、見たの……?」

「ああ。羅針盤があの人形を指すのが気になるから、少し調べる。依頼者の祖母なら知っているかもしれないらしい。君も話を聞くか?」

「……聞く」

「おや、てっきり聞きたくないと言うと思ったよ」

「……あれを見た時、全身に悪寒が走った。昔のことを思い出して……早くここから離れないとって。それで……何で布団に?」

「川縁で倒れているのを見つけたんだ。その時にはもう気を失っていた」

「何で気を失ったんだろ……」

「具合はどうだ?」

「嫌な感覚は残ってる……けど、平気だよ。起き上がれるし」

 そう言って獏は布団を巻き付けたまま体を起こす。少し体が重いが寝起きの所為だろう。不快感以外は特に異常は無い。

 ふと顔を上げた先――庭に立っていた老婆と目が合った。背筋は伸び、足腰もしっかりとした老婆だった。今し方庭に入って来たようだ。

「もしかして、今日来ると言ってた掃除業者の人?」

 あの少年の祖母だろう。振り向いた贔屓も直感的にそう思った。あの少年は獏を掃除業者と伝えているようだ。

 贔屓は今、人間の殻を被っていない。赤褐色の瞳は少々目立つので、少し目を伏せて目だけ目立たない人間の色にしておく。

「はい。お孫さんは今、昼食に出掛けています。僕達はここで少し休ませてもらっています」

「お構いも無しにごめんなさいね。気になって少し早く帰って来たのよ。お茶を出しますね」

 老婆はしっかりとした足取りで玄関に回る。夕方になる前に帰って来てくれたのはありがたい。奇妙な現象の答えを早く知りたい。

 獏も布団から出て縁側に座って待ち、程無くして老婆は盆を持って現れた。獏と贔屓の前に麦茶の入った花模様のグラスと、色取り取りの花が咲く一口大の半生菓子のゼリーが三つずつ載せられた皿を置く。

「……綺麗」

「通販で買ったゼリーがあったから、どうぞ。ここら辺はあんまり店が無くてね」

 素直に呟く獏を見て老婆はくしゃりと笑い、盆を脇へ置いて畳に座った。年齢を感じさせない快活な老婆のようだ。

「ありがとうございます」

「ありがとう……ございます」

 贔屓に合わせた方が良いだろうかと、獏も敬語を返す。話してもらう立場なので、腰が低い方が良いだろう。

「物置の方はどう? 何か良い物でもあった?」

 どちらが切り出すかと様子を窺っていたが、老婆から切り出してもらえた。

 獏が請け負った善行なのだから獏が話すべきだろうと口を開こうとするが、贔屓に制される。獏は布団を脱いで座り直し、麦茶を一口飲んだ。

「まだ全ては確認していませんが、人形が多いですね。二階には随分と立派な人形がありましたが、あれは名匠の作品なんですか?」

「立派な……? ああ……あの人形ね。私より、日記を見た方が早いかもしれないね」

「日記……ですか?」

「あの人形を作った人のね。確かこの家に養子に来た人だよ。独学で人形作りを始めて、形にはなったけど粗悪品だとか日記に書かれてたよ。私が若い頃に物置に入った時に見つけた日記。二階にあったはず」

「そうなんですか。では探してみます」

「でもあの人形にはあまり近付かない方がいいかもしれないね。呪いの人形らしいから」

「呪い……?」

 黙って話を聞くつもりだったが、獏は思わず声を漏らしてしまった。

「あれを見た人に不幸が起こるとかで。でっち上げだと思うけどねぇ。立派な物だし、博物館にでも寄贈すればいいのかね」

「!」

 思わぬ言葉が飛び出し、獏は慌てて身を乗り出した。あんな物を博物館で見世物にしてほしくない。

「あれは処分……燃やして処分しよう!」

「それは勿体無くないかい?」

「絶対、処分した方がいい! 呪われるんでしょ!?」

「あれを見たんなら、貴方達は呪われたの?」

 獏は贔屓を見、彼は怪訝な顔をしつつも首を振る。あの人形を見てから時間は経っているが、自分の身に何も起こっていない。獏は気を失ったが。

「でも……やっぱり処分……」

 見世物小屋の檻に居た頃の自分がそこにいるようで、獏には悪夢を見ているようだった。勝手に叩き壊すこともできるが、自分の手で壊すのは微かに躊躇があった。

 どうすればわかってもらえるのだろうかと獏は俯き、見せた方が早いと動物面に手を掛ける。正面から見たとしても獏には自分の顔が上手く認識できないが、他人にはよく見えるはずだ。

 それが意味することを贔屓も察して指先がぴくりと動いたが、獏の決心に任せることにした。

 微かに震える指先で黒い動物面を徐ろに外し、伏せていた長い睫毛を上げる。月のような金色の瞳が露わになる。

 老婆が息を呑むのがわかった。視線を獏から外せなくなった老婆は瞬きも忘れて人形のような相貌に見入る。

「若い頃に見た切りだけど……あの人形にそっくり……」

「……あの人形を、処分してほしい」

「随分お若い掃除業者だと思ったけど、特別な人なのね……。わかったよ。あの人形は好きになさい」

「ありがとう……」

「あの人形は、見世物小屋で見た人形を元に作ったと日記に書いてたよ。貴方がその……人形なのね」

 獏は面を握り締め、唇を噛んだ。見世物小屋から出てもう百年以上も経つのに、人間は噂を持ち続ける。自分の代では切らずに。

「先に日記……見てくる」

 面を被り、獏は縁側を飛び降りる。贔屓も老婆に断り、獏を追った。

 暗い小屋の中へ入る獏を、贔屓は出入口の箱の上に置かれていた懐中電灯を拾って照らす。

 もどかしく軋ませながら階段を上がり、奥に座る黒い着物の生人形に迎えられた。先程見たままだ。

 人形に居心地悪く見られながら箱の上の紙に包まれた反物を下ろし、下の箱を開ける。中には一階と同じように人形が収まっていた。

 一階よりも箱の数が少ないこともあり、目的の物はすぐに見つかった。小振りな箱の中に、紐で綴じた冊子が幾つも収まっていた。

「僕も見ていいかい?」

「うん……」

 表紙を開くと、走り書きの文字でびっしりと埋まっていた。崩れて読み難い文字もあるが、人間から離れて過ごしていた獏とは違い、人間の中で暮らしていた贔屓はすらすらと読むことができた。文字で埋まる頁もあれば、余白の多い頁もある。

 日記に書かれていたのは、見世物小屋にいた人形と、人形制作が上手くいかず焦っている内容が殆どだった。

 見世物小屋で見た人形は大層美しく、生涯忘れることはないあの顔を自分の手で作り出してみせると意気込んでいた。子供だと両親に止められるため、大人になった時にまた人形を見ようと思っていたようだが、その前に人形が行方不明となり愕然と落胆したようだ。

 人形は待てども探せども見つからず、やがて人形を展示していたあの見世物小屋は客が来なくなった。起死回生にと不気味な展示や芸を増やした結果、倒頭営業停止の勧告を受け、間も無く小屋は閉められたそうだ。見世物小屋の末路を知り、獏は微かな安堵を覚える。

 あの子供だった少年は人形を作るために試行錯誤し、だが一般的な作り方を知らず、教えを乞う者もいなかった。それでも根気良く作り出した獏にそっくりな人形は今までの試作よりは見栄えが良かった。粗悪品だと自嘲しつつ、あれが自分の限界だと、それ以上は作らなかった。

 作った人形を試しに道行く人に見て貰ったが褒める者はいなかった。通常生人形と言う物は人間に限り無く近付けた物で、今にも動き出しそうな物である。だが人形らしい生人形は動き出しそうもないのだ。通行人はただ呆然と美しい人形を見詰めるだけだった。そして皆まるで魂を抜かれたかのように去って行く。

 やがてあれは呪いの人形だと噂が立った。あれを見てから家族が仕事も何もしなくなったと何人も苦情を言いに訪れた。魂を取られた知人が足を踏み外して山から落ちたと言う者もいた。人形を見た本人が直接訴えに来ることはなかった。

 山から落ちた者は助からず、死者を出てしまった人形は物置に仕舞われた。見世物小屋の檻の中へ投げ渡したラムネ玉を拾って物珍しげに見ていた獏の顔が忘れられず、手にはラムネ玉を持たせ、頭から布を被して誰の目にも触れないよう人形を隠した。

 人形を作った本人だけは特権とばかりに布を捲って人形を見ていた。彼の最期は書かれていないが、本人の日記なのだから当然だ。彼は魂を取られなかったのだろうか。

「……この手の物は、狴犴に来てもらった方がいいかもしれないな」

「え」

 想像しない名が突然飛び出し、獏は嫌悪感の乗った声を出してしまった。

「……狴犴は忙しいでしょ……? 罪人の善行に割く時間なんて……」

「呪いと(いん)は似ているんだよ。印の方が洗練されているが、杖ではない外部の物に力を籠める所が似ている。僕は詳しくないんだが……。狴犴は最近呪いのことを少し調べたと言っていたしな」

「狴犴は人間の街には来ないでしょ……?」

「訊いてみよう」

「いっ……いやいやいや、忙しいんだから邪魔しちゃ悪いよ」

「訊くだけ訊いてみるよ。知らないと言われればそれまでだからな」

「贔屓が意地悪……」

「狴犴が来たとしても、獏が罰せられるわけではないよ」

 狴犴の嫌われようは相変わらずだ。罪人に対して威厳があるのは悪いことではない。贔屓は苦笑し、狻猊が作った宵街の携帯端末を取り出した。

 贔屓は獏を宥めながら階段の傍へ移動し、口を尖らせる獏から目を逸らして狴犴に連絡する。

 獏は日記の箱の蓋を閉め、奥の人形の前に蹲んだ。手にある硝子玉を抓み上げ、獏が持っていた硝子玉を取り出して見比べる。歪で同じ形はしていないが、同じ用途の物だということはわかる。子供の頃の少年はこの硝子玉を宝物だと言っていたが、宝物は一つではなかったようだ。

(今ならラムネ瓶もわかる。真ん丸な硝子玉が入ってる瓶。飲んだことはないけど)

 探せばもしかしたら何処かの箱の隅にでもまだ紛れているかもしれない。光に翳すときらきらと光るそれは、檻の中の獏には希望の光のような物だった。


「獏!」


 不意に呼ばれ、硝子玉を落としそうになる。硝子玉に勝手に触れたのがいけなかったのだろうかと振り向くと、表情を強張らせる贔屓の顔が見えた。それに疑問を覚える前に、頭上に何かが触れた。

「……?」

 ゆっくりと見上げると、獏の頭上に伸ばされている片腕が視界に入った。

「え……?」

 頭に触れたのは人形の手だった。少し硬いが、人間の手だと言われても納得しそうな感触だった。

 贔屓に腕を引かれ、獏は尻餅を突く。頭から手は離れたが、人形の腕は下がらず、空中で止まったままだった。

 脇に手を入れられ、獏は引き摺られて人形から距離を取らされる。階段の上まで後退し、贔屓は人形の様子を窺う。動かないはずの人形の腕が持ち上がっていることに気付き、慌てて獏を呼んだのだ。あれは絡繰ではなく、只の生人形だ。定められた格好以外に勝手に動くはずがない。

「獏、何かしたのか?」

「何かって……あっ、硝子玉は取っちゃったけど……」

「その程度で動くとは思えないが」

 目を離さずに人形を凝視するが、人形の腕は動かない。まるで最初からその格好だったとでも言うように。

「何かに動かされているのか……? 確認だが、悪夢はいるか?」

「悪夢? ううん、黒い靄も見当たらないよ」

 人形なのだから夢は見ない。仮に悪夢の仕業だとすれば、近くに人間がいることが条件となる。近くと言うと依頼者の祖母がいるが、先程見た限りでは悪夢を見そうにない。黒い靄も微塵も出ていなかった。

 だが隠れている悪夢がいないとは限らない。気配が稀薄な小さな悪夢だと見落としてしまうかもしれない。獏は人差し指と親指で輪を作って人形に向ける。覗き窓は人間の心を覗くために使っているが、感知し難い悪夢を見つけることも可能だ。

「あれ……?」

「どうした?」

「何……、っ!?」

 指の輪をだらんと落とし、獏は口元を手で塞いだ。そのまま仰け反るように体が傾き、階段の方へ頭が垂れる。贔屓は獏の腕を掴み、一階まで落ちることは免れた。階段の下から驚いた顔が見上げている。昼食から戻った灰色海月と白花苧環だ。その後ろに狴犴の姿もある。既に杖を召喚し、準備は万端のようだ。

「来てくれたか、狴犴」

「人間の街は眩し過ぎる。獏は何をしている?」

「気を失った……と思う。人形が動いたんだ」

「そうか。苧環と灰色海月は倉庫から出て離れていろ」

 白花苧環と灰色海月はすぐに承知し頭を下げる。人形が動いたと聞いて青褪める少年も連れて小屋を出た。

 階段の上から獏を退かし、狴犴の通る道を作る。二階に顔を出した狴犴は、奥に鎮座する人形に目を細めた。

「……人間が遣らかしたか」

「あれはどういう物だ? 呪いの人形と聞いたんだが」

「一言で言うと、強い思念の塊だな。あまりに多くの思念を吸っている。道理で羅針盤が狂うわけだ。あれでは強力な磁石を当てられたようなものだ」

「呪いじゃないのか?」

 狴犴は床を軋ませて二階に立ち、人形を観察する。人間は稀に余計な物を作り出す。

「呪いの一種だと思うが、あれは明確な呪う対象が無い。だから溜め込んでいるんだ」


「――ほう。これは面白い呪物じゃのう」


 狴犴の背後から遅れて赤い袴の少女が階段を跳び上がる。贔屓も初めて見る、服も髪も赤い少女型の獣だ。

「狴犴、この獣は?」

「私も初見だ。人形の処理をするため科刑所を留守にすると地霊に伝えたら、彼女を連れて行けと言われてな」

「地霊の知り合いか……?」

 赤い少女は漆塗りのような赤い杖を召喚し、とんと床に突く。

「妾は火産霊(ほむすび)じゃ。普段は面倒で姿を現さんが、小童共が困っておると聞いてな」

 見目の歳で言うならこの中では一番幼く見える火産霊だが、小童と言い捨てるなら相当長命なのだろう。(ぬえ)のように千歳を超えているかもしれない。

「獏は波長が合ってしまったんじゃろ。こんなに似た顔をしているからの。それにしても驚き過ぎじゃが」

「火産霊が処理をするのか?」

「妾は火葬屋じゃ。狴犴では処理が難しいじゃろ」

「魂を喰われた人間がいるそうなんだが、危険な物で間違い無いんだな?」

 日記で見たことを簡潔に話し、贔屓は人形から目を逸らさない狴犴を見上げる。

「気持ちが籠り過ぎた物には力が宿るものじゃ。ほれ、狴犴も目を奪われておる。既に骨抜きじゃ」

 赤い袖を覆った手を口元に添えてくつくつと笑う。贔屓が慌てて狴犴の頭を掴んで無理矢理目を逸らさせたことを面白そうに笑っている。

「安心せい、獣には効きが弱いじゃろ。目を奪い、魂を抜く呪物。だが悪意の籠った黒でも善意に満ちた白でも無い曖昧な代物。ただ美しいと褒められたのが嬉しくて、もっと見てほしかっただけじゃろ。そんなに重い呪いではないから、心配せずとも狴犴はすぐに我に返る。獣じゃからの。とは言え人間の思念を軽んじるでないぞ。甘く見とると足元を掬われる」

 火産霊は躊躇無く人形に歩み寄り、空中で止まっている手に赤い杖をこんと当てる。糸が切れたように手が膝の上に落ち、元の格好へと戻った。

「人形は空の器じゃからのう。何でも溜め易い」

 全く躊躇わずに人形の襟を両手で掴み、一息に脱がして上半身を露わにする。精巧に人間を模した体に思わず溜息が漏れそうだ。

其方(そち)らにも視認できるようにしてやる」

 三歩下がり、火産霊は杖を翳してついと振る。直後に人形の白い体に黒い筋がじわりと浮かび上がり、夥しく人形を覆った。その筋の一本一本が小さな手の形をしている。まるで悪夢だ。

「これが人形を動かしていた人間らの思念じゃ」

 人間を骨抜きにし、人形はその思念を自分の身に溜め込んだ。体に滲む小さな黒い手の数だけ人間の目を奪ったのなら、相当な数が腑抜けとなったはずだ。息を呑む贔屓と狴犴を背に、火産霊は再び人形に接近し、黒い頭をぽんと撫でた。

「多くの人間に見られて其方は幸せじゃったか? 最近は誰も見てくれず暗闇で一人きり、さぞ寂しかったじゃろ。目を奪えば皆見てくれる。だが其方は人間から引き剥がされ仕舞われた。魂を抜かれた人間は見る物を失って彷徨うしかない。憐れな呪物と成り果てたが、手を伸ばして人間を傍に留めるため殺さなかったことは評価に値するぞ。何とも優しい呪物じゃ」

 火産霊が労うと、人形の桜色の唇がふと微笑んだように見えた。手のように唇も動いたのか、それとも気の所為だったのか、薄暗がりの中では定かではなかった。

 贔屓は倒れた獏を一瞥し、人形と波長が合ったわけではなく相性が悪かっただけだろうと同情した。見られたい人形と見られたくない獏では対極だ。

「この人形はどう処理しても良いのか?」

「ああ。出来れば跡形も無く処理してほしい」

「ふむ。良かろう」

 火産霊が杖を振ると、赤紫色の炎が蛇かはたまた龍のように細長く空中を走り、彼女の周囲で緩やかに渦を巻いた。

「安らかに眠るといい」

 細長い炎は人形へと絡み付き、一気に全体を包み込む。炎は人形だけを燃やし、炎の中で人形はぎこちなく頭を垂れた。

 熱さを感じない炎は人形を跡形も無く燃やし尽くし、後には灰も残らなかった。

 最後に杖を振って炎を消し、火産霊は興味を失ったように踵を返す。

「……久し振りにこんなに喋ったのう。来世の分まで喋ったかもしれん」

 階段を飛び降りる彼女に続き、贔屓も獏を抱えて飛び降りる。また布団に寝かせることになるとは思わなかった。狴犴は床に落ちていた二つの硝子玉を拾って階段を下りる。獏の手からそれが零れる所を見ていた。

 火産霊が物置小屋を出ると灰色海月と白花苧環が駆け寄り、白花苧環は胸に手を当て大仰に頭を下げる。釣られて灰色海月もいつもより深く頭を下げた。それを一瞥し、火産霊はさっさと杖を回して姿を消してしまう。

「……苧環、彼女を知っているのか?」

 微かにだが、火産霊を見た白花苧環がはっとしたような顔をしたことに狴犴は目敏く気付いた。

「家の近くでよく見掛ける獣です。話したことはありませんが」

「あの周辺に獣は棲んでいないはずだが」

「では散歩でしょうか」

 狴犴の相手は白花苧環に任せ、灰色海月は頭を下げて獏の方へ駆け寄る。贔屓に抱えられていることで、また気絶したのだろうと察した。

「心配無用だ、灰色海月。またすぐに目を覚ます」

「はい……。人形はどうなりましたか?」

「跡形も無く処分したよ。これで獏の憂えも晴れればいいんだが」

 贔屓は布団に獏を寝かせ、それが視界の隅に入った狴犴は拾った二つの硝子玉を枕元に置いた。

「私は宵街に戻る。後は贔屓に任せる」

「ああ、御疲れ様。火産霊は帰ってしまったが、他の人形に呪いは無いんだな? そこの箱の中身は殆ど人形なんだが」

「……。他にも呪物があれば火産霊も言及するだろう。先刻苧環に羅針盤を確認してもらったが、異常は無かった」

「それならいいが」

「ん……」

 小さく身を捩る獏に意識が移り、贔屓と狴犴は動物面に目を遣る。獏は左右に面を振り、びくりと跳ね起きた。

「や……み、見ないで……! 僕を見るな……!」

 何に対してか獏は酷く怯え、背を丸めて震えだした。贔屓と狴犴は突然何なのだと訝しげな顔をする。確かに獏の方を見たが、こんなに拒絶される理由が思い当たらない。

「見ないで……触るな……! 触るな! 皆嫌いだ……僕を見るなぁ!」

 搾り出す声は切実で、全身で息をしながら自身の体を抱いて小さくなる。まるで何かから逃れようとしているようだった。

 拒絶は贔屓や狴犴に対してではないと彼らはすぐに悟った。獏は自分にそっくりな人形を見たことで、見世物小屋で人間に見られていたことを思い出したのだ。

「大丈夫だ、獏。ここでは君が嫌がることをする人はいない」

 呼吸を乱しながら湿った声で怯える獏に、贔屓はそっと諭す。落ち着かせるために背中を摩ろうとしたが、『触るな』という獏の言葉を思い出して手を下ろした。

「ゆっくりと息をして、よく見てごらん。嫌なものは何も無いだろ?」

 人形の中にあった人間達の視線が獏へ突き刺さっていた。見世物小屋にいた頃の記憶が襲い、獏は混乱している。

 まさか見世物小屋にいた頃の獏を知らない人間から全く関係の無い願い事の手紙が届いて過去に繋がるとは、見えない手に無理矢理引かれているようで同情を覚える。

 贔屓が動かす指の動きに合わせて獏はゆっくりと呼吸を整え、恐る恐る周囲を見回した。

「……狴犴」

「ん……それは君には嫌かもしれないが、大丈夫だよ」

「…………」

 心配そうな灰色海月が視界に入り、獏は漸く理解した。指の輪で人形を覗いたことで、無数の人間の感情が一気に頭に流れ込んでしまい、拒絶が起こったのだと。

「……何も……してないよね?」

 落ち着きを取り戻した獏は冷静になった途端に布団の上を後退り、視線は狴犴を向く。狴犴は黙考するが、何故冷静になって第一声がそれなのか理解できなかった。

「何も、とは? 人形なら灰も残らず消滅したが」

「消滅……それなら良かった……けど、僕には何もしてないよね?」

「お前が落としたであろう硝子玉ならそこに置いてやったが。そこまで警戒するのは、何か新たに罪を重ねたか?」

「ちっ、違う! 君がわざわざ宵街から出て来るんだから、日頃の恨みとか……ストレス発散とか……」

「罪人で発散する趣味は無いが、望むなら仕置印でも捺すか? 念のために持って来たが」

「絶対やだ……」

「人形を制作した人間にもう少し力があれば、もっと強力な呪いとなっていただろうな。その懸念があったから来たんだ。処理を終え、私にはこれ以上ここに留まる理由が無い。先に帰らせてもらう」

 狴犴は眉間に手を遣り、皺を寄せながら疲れたように瞬きをする。

「眩し過ぎる……」

 目を細めてぽつりと漏らし、狴犴は白花苧環の許へと行ってしまった。宵街の空はいつでも宵の色で薄暗い。狴犴のいる上層の科刑所は更に暗い。人間の街の昼間は明るく、太陽が目に堪えることだろう。暗い牢にいる獏も、それは理解できた。

「苧環は私と宵街に戻れ。後は贔屓が獏の相手をする。灰色海月は問題が発生した時に苧環を頼ることが多いようだが……私を通してくれるか? 苧環だと殆ど説明も無く飛び出してしまう。助けを求めるのは悪いことではない。事情も聞かずに一方的にお前を責めることはしない」

 統治者の威厳は必要だが、恐れられ過ぎると仕事に支障が出る。灰色海月は自分の手に負えないことは過失になると思っている。力を制限している罪人とは言え獣の監視を変転人が一人で完璧に熟せるとは狴犴も思っていない。監視役の仕事は、何か起こった時に速やかに科刑所に報告することだ。

「はい……わかりました」

「苧環も少しは話して行け」

「少しは話しました。クラゲが助けを求めてると」

「飛び出しながら話していただろう。最後の方が聞き取れなかった。今回は察して贔屓に連絡を取ったが」

 まるで臆病な子供と腕白な子供に言い聞かせているような狴犴の苦労を、贔屓と獏は縁側から黙って見守った。

「変転人を仕事に使うのは最低でも五歳からにした方がいいと思うが……」

 苦笑する贔屓に、獏はきょとんとする。

「マキさんは一歳にもなってないよ」

「感情を理解し、汲み取り、覚える。これが身に付くのが凡そ五歳。積極的に教育すればもっと早くなるだろうが、殆ど自然に任せているからな。変転人は五歳で半人前だ」

「そう言えばレオさんもそんなことを……」

 灰色海月も白花苧環もまだ五歳になっていない。思い通りに動かすのはまだ難しそうだ。

「人手不足もあるからな。将来のために少し変転人を増やしたいな」

 白花苧環を連れて宵街に戻る狴犴を見送り、贔屓は計画を考える。先の渾沌(こんとん)の騒動で喪った穴も早く埋めるべきだ。

「……さて、獏。善行の続きはできるか?」

 突然本題に戻され、獏は本来の目的を思い出す。

「それは遣るけど……」

 ちらりと贔屓の顔を窺う。

「暇ならちょっと手伝ってよ」

「フ……言われると思ったよ」

 獏は本当にわかりやすい。

「一つ呪物が出て来たんだ、他にも問題があるかもしれない。善行が終わるまで居ておくよ」

 暇ではないが、他でもない人を頼ろうとしなかった弟が連絡をしてきたのだ。贔屓は兄として狴犴の役に立ちたい。連絡が急だったので、共に人間の街で観察をしていた白実柘榴(シロミザクロ)は喫茶雨音の店主に預けてしまったが、少しくらいは待てるだろう。

「ありがとう、贔屓! 重い大きな箱は任せるね」

「そう言うと思ったよ」

 贔屓は先に腰を上げ、重い箱を引き摺る灰色海月に駆け寄った。

 獏はそれを眺め、布団から這い出る。気持ちが落ち着くとふと背後から視線を感じた。老婆はまた何処かへ出掛けたようで気配は感じない。振り向くと、明かりの消えた部屋に仏壇があった。その上に人間の顔写真が並んでいる。その一つに見覚えがあった。

(硝子玉をくれた子……だよね。面影がある……)

 年老いた顔に囲まれ、あの少年の写真は随分と若かった。精々四十代だろう。死因は知らないが、あまり長生きができなかったのかもしれない。

 仏壇の前に、物置小屋の生人形が持っていた硝子玉を置く。人形は無くなってしまったが、残った硝子玉は返しておくことにした。獏にとっては嫌な物だったが、あの少年にとってあの人形は最高傑作だった。粗悪品だと言っても、人々の目を奪うことはできたのだから。

(僕は自分の顔を認識できない……でも人形の顔は薄らと見えた。僕はあんな顔なの……? 思ったより……綺麗だった。……それとも、醜さを覆うために綺麗に作ったの?)

 最後に獏は黒い面を外し、軽く頭を下げた。顔を見られるのは嫌だが、死者はこちらを見ない。

 面を被り直して背を向けて外へ出て行くと、頭上の写真が微かに微笑んだ。


ちらっと出て来る「ゴミ屋敷」は第一幕の9話のお話です。

第二幕から御覧の方は、御時間ありましたらそちらもどうぞ。

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