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149-正体


 科刑所の狴犴(へいかん)の部屋では重い空気が漂っていた。

 狴犴は左の頬にガーゼを貼り付けていつもの席で書類に目を落とし、白花苧環(シロバナオダマキ)は扉を見詰めながら壁際に立っている。二人はアルペンローゼの拷問の後から一言も言葉を交わしていなかった。

 それを蒲牢(ほろう)(みずち)が仮眠室のドアの隙間からこっそりと窺う。ドアを閉めると隣室の声は聞こえないため、狴犴達がアルペンローゼの拷問をしていたことを二人は知らない。

「何処かに行ってたみたいだけど……何か空気が重いな」

「そうですね。狴犴さんまで出て行くならきっと大事な用だったんでしょうが……」

「さっきドアを開けた時は気付かなかったけど、机の上のバスケットは何だろう? 狴犴の私物じゃなさそう」

「さあ、私にもわかりませんね……。ピクニックに持って行きそうなバスケットですよね」

 ピクニックと聞き、蒲牢は中身が少し気になった。ピクニックに持って行く物と言えば、最初に思い付くのは食べ物だ。

 狴犴からは話し掛けるなと言う空気が漂っているので、彼より仮眠室から距離が近い白花苧環に狙いを定めた。指先で軽くドアを叩くと、白花苧環はすぐに気付いてドアの隙間に目を向ける。狴犴も気付いただろうが、目を動かすことすらなく微動だにしなかった。

 呼ばれた白花苧環は仮眠室の前へ移動する。

「何ですか?」

「空気が澱んでるけど、何かあったのか? あの机のバスケットは? あと……狴犴は怪我をしてるのか?」

 白花苧環は狴犴を一瞥し、反応が無いことに呆れながら説明をした。

「アルペンローゼの拷問をしました」

「!?」

「彼は今は病院ですが」

 蒲牢と螭は目を瞠りながら顔を見合わせ耳を疑った。変転人の拷問など聞いたことがない。蒲牢は宵街を離れていた時間が長く断言はできなかったが、螭は変転人の拷問など先例が無いと知っている。彼女は驚いて口元に手を当て、狴犴は変転人に甘いがそれは宵街の中だけであって、他の街の変転人はその限りではないのだと認識を改めた。

「あのバスケットは彼が持って来た物です。詫びの品だそうです。『毒味』や『美味い』と言っていたので食べ物ではないでしょうか」

「美味いのか……」

「そう言ったのは椒図(しょうず)ですが。持って来ましょうか? どうせ狴犴は食べません。それと最後の質問の答えですが、狴犴はラクタヴィージャに殴られただけです」

「殴られた……? 首を突っ込まない方が良さそうだな。バスケットの中身は確認しておこう」

 白花苧環は軽く頭を下げ、机に置かれたバスケットを持ち上げる。想像よりも重い。一瞬背に狴犴の視線が刺さるが、無言だったので蒲牢と螭の前にバスケットを運んだ。

 仮眠室の変転人達も検査をされ、病には感染していないと結果が出た。泣いたり吐いたりももうしていない。獣に殺気を当てられ心配していたが、彼らも宵街の誇らしい変転人だ。いつもはよく怖がっている浅葱斑(アサギマダラ)も涙は止まり、ベッドに横になりながら、ドアから見える白花苧環の方へ視線を向けている。

 バスケットの蓋を開ける蒲牢の手元を螭も覗き込み、蓋が上がるとふわりと甘い香りが鼻腔をついた。

「まあ」

「これは……」

 感嘆の声を上げる二人に白花苧環も訝しげに覗き、変転人達も気になるのかベッドの上から様子を窺う。

「……これは?」

「ミルフィーユだと思います。パイ生地にクリームを挟んだ御菓子ですね。とても綺麗です」

 蒲牢はその名前を聞いたことがあったが、見るのは初めてだった。日頃から料理をしている螭はさすがに詳しい。白花苧環は名前すら知らず、それを覚えるためにバスケットの中へ興味を示す。

「これはアルペンローゼが作ったのか?」

「はい。椒図がそう言ってました」

「菓子作りの天才か……?」

 真顔で言うので、白花苧環は首を捻った。蒲牢は返事を求めず、長方形に切られた苺のミルフィーユを手に掴む。ずしりと重く、食べ応えがありそうだ。どう食べるべきか迷ったが、角に齧り付く。床にぱらりとパイ生地が零れた。重いのに食感は軽い。

「美味しい……天才か?」

 蒲牢はもうそれしか言えなくなったのか、表情が乏しくも上機嫌で二口目を齧る。それを変転人達も物欲しそうに見詰めた。恐怖に冒されていた変転人達は空腹を感じ始めていた。具の無い味噌汁だけでは腹は膨れない。

「浅葱斑と話したいと言っていたので、アサギに食べてもらいたかったのかもしれません」

「え? 俺が食べてから言う?」

「数は充分あるので、誰が食べても問題無いと思いますが」

 浅葱斑にと言うなら、蒲牢が食べ尽くしてはいけない。拷問のことは伏せて浅葱斑にバスケットを差し出した。精神を蝕まれた彼らに変転人の拷問の話は重過ぎる。

「アルペンローゼが詫びに作ったらしい。俺も食べたけど、変な物は入ってない」

「お酒が入ってないなら……」

 浅葱斑は怪訝な顔をしながらゆっくりとまだ重い身を起こし、綺麗に並べられたミルフィーユを一つ掴み出した。クリームの量も均等で苺の間隔も揃っている。まるで店に並ぶケーキのようで、このまま店に置けそうな出来だった。

「酒入りケーキも、お酒以外は美味しかったし……」

 口を大きく開けて一口頬張り、やはり彼の作る菓子は美味しいと浅葱斑は感動した。突然酒入りケーキを出す不届き者だが、彼の腕は認めざるを得ない。灰色海月(クラゲ)の作る菓子も美味しいが彼女の作る味は素朴で、アルペンローゼの作る味は華やかと言えば良いだろうか。どちらも美味しいが、趣向が異なる。

「美味しい……もう一ついいですか?」

 まだ手に持っているのにおかわりを要求する浅葱斑を見て、奥のベッドの上から洋種山牛蒡(ヨウシュヤマゴボウ)も手を上げた。もし酒入りケーキの詫びなら、ベッドの上の変転人全てに食べる権利があるはずだ。

 三人が二個ずつ食べたとしてもまだ余ると計算してから蒲牢はベッドを回ってミルフィーユを配った。白鱗鶴茸(シロウロコツルタケ)は躊躇したが、浅葱斑と洋種山牛蒡が警戒を捨てて食べているので意を決した。酒入りケーキは酒を除けば確かに美味しかった。白鱗鶴茸は今まで菓子をあまり食べたことがなかったが、あんなに美味しい菓子を食べたのは初めてだった。

 蒲牢は螭と白花苧環にもミルフィーユを配り、二人も頬張りながら目を丸くする。

「御菓子はあまり作りませんが、これは指南いただきたいくらいの味ですね」

「アルペンローゼは一人で料理も掃除も洗濯もできると言ってました。オレもいつかできるようになるんでしょうか……」

「少なくとも二十代のボクはできないよ」

 ミルフィーユを頬張りながら、何故か得意気に浅葱斑が答えた。

 二十年経ってもできないなら三十代に期待するしかない。アルペンローゼは拷問の中で、三十二歳だと言っていた。

「適材適所だよ、苧環!」

「オレの適材適所は何ですか?」

「戦闘じゃないか?」

「日常生活には役立ちそうにないですね」

「ゆ、有事には役に立つよ」

 浅葱斑は慰めるが、戦闘を求められる有事など無い方が良いだろう。白花苧環はまだ生まれたばかりだ。これから開花する才能もあるかもしれない。

 変転人は家事を習う機会が無く、全てを自分で熟す者は稀だ。旅をして宵街にあまり寄り付かなかった浅葱斑と生まれたばかりの白花苧環には知らないことだが。

「そっ、そうだ! アルペンローゼがボクに話って、何の話なんだ……?」

「それは……宵街に一人でいるのは不安なので、フェルニゲシュと友人関係であるアサギと話がしたいと」

 浅葱斑はまだアルペンローゼに『殺せ』という手紙があったことも知らない。恐怖が再び引き摺り出されないように気遣い、まだ伏せている。

「そうなんだ……緩い旅でここに来たわけじゃないし、確かに変な病に罹って一人だと不安かも……」

「アサギの体調もあるので、話すのはもう少し時間が経ってからでも」

「わかった。ミルフィーユも美味しかったし、話し相手になるよ。……ドア越しだと感染しないかな」

 伝達が不充分だったが、今は良いだろうと白花苧環は話を締める。

 浅葱斑や洋種山牛蒡と白鱗鶴茸の体調を気遣って拷問のことには触れず、話を逸らした白花苧環に蒲牢は感心した。まだ感情を理解できない生まれて一年にも満たない変転人が、相手の気持ちを察して気遣うとは。心配や不安は不快感として経験はあるだろうが、こうも的確に言葉を歪めて話せるのは珍しい。大抵は大人しく黙るか、何も気付かず喋ってしまうかだ。

(これは狴犴より気持ちの読み取りが上手いんじゃ……)

 変転人三人がミルフィーユに夢中になっている間に、蒲牢は螭と白花苧環を連れて部屋の隅に蹲んだ。アルペンローゼの拷問の詳細を聞くためだ。聞く限り、アルペンローゼは拷問を受ける程の罪は犯していない。理由によっては狴犴に制裁しなければならないだろう。ラクタヴィージャが先に制裁してしまったかもしれないが。


     * * *


「外に出てたのか?」

 頭を冷やし終えて氷を下ろした椒図と待合室で座っていた(しん)は、病院へ戻って来たラクタヴィージャに声を掛けた。ラクタヴィージャは伸びて邪魔になっている出入口の蔦に足を掛けないよう幾らか刈り、軽く手を上げる。

「狴犴を殴って、あと工房にマスクの追加を注文したわ。患者が現れてからマスクを作るんじゃ遅いから」

「おお……(いん)は大丈夫だったのか?」

「狴犴との付き合いも長いからね。印を発動させるかは見ればわかる」

「見るだけでわかるのか?」

「わかるわよ。でも教えない」

 先回りして質問を封じたラクタヴィージャは笑いながら受付カウンターへ入って行く。肩に乗っている罪人の花魄(かはく)が爛々と聞き耳を立てていた。

「二人は体調でも悪い?」

 待合室でただ座っていた蜃と椒図は首を振る。時々ここが病院だということを忘れてしまう。利用者が少なく、椅子もたくさんあって丁度良い休憩所だ。

「あの鴉、また何か作らないか?」

「アルペンローゼのこと? 作るにしても骨折が治るまでは無理だと思うけど。指が治らないと包丁が持てないし」

「じゃあまた人間の街の観察に戻るか……。面倒くさ……発作前に叩ければいいのにな」

 未知の病に感染する変転人を発見するために人間の街の観察を頼まれている蜃と椒図は、これはいつまで続くのだろうと小さく溜息を吐く。先の見えない仕事は気が滅入る。感染者が現れたらベルでも鳴らして報せてほしいものだ。

「治療薬の進捗はどうだ?」

 椒図も後手に回る遣り方は回りくどいと思っている。薬が完成するまではと観察を引き受けているが焦れったい。

鉄線蓮(テッセンレン)にも病のことを話してみたけど、渾沌(こんとん)の力じゃないってことしかわからないって言われたわ。ずっと渾沌と檮杌(とうごつ)の所にいたんだから、それ以外知らなくて当然……」

「渾沌の力ではないなら、化生してまた暴れている可能性は無いな」

「まあね。発作を抑える花があるから、それが使えればと思ってるんだけど。どう組み合わせたら完治させることができるか、やっぱり手当たり次第……よね? 花魄」

「花のことはわかるけど、私は病の方はさっぱりよ。効きそうな草を出すので精一杯だわ。直接病原体を吸い出せたらいいのに。掃除機みたいに」

「吸い出すか……それも考慮しておこうかな」

 後のことは姫女苑(ヒメジョオン)に任せ、ラクタヴィージャと花魄は再び暖簾を潜り奥の部屋へと消えた。専門分野の異なる二人は互いの疑問を埋めながら相談が多くなり、手があまり動かない。まだまだ時間が掛かりそうだ。

「あ」

 二人を見送り、蜃は突然声を上げた。

「どうした?」

(ばく)の牢の修理をしてくれって伝言を頼まれてたんだった。科刑所は行きたくないな……」

「修理? 襲われたのか?」

「一つはよく知らないが敵じゃないって言ってた。ドアは俺が壊した。これは内緒な」

「何故蜃が……?」

「開かないから開けてくれって頼まれただけだ。それで派手に打ち破っただけで」

「牢は壊す物じゃないよ」

 窘められ、蜃は口を尖らせながら「獏が……」とぶつくさ呟く。

「科刑所に行き難いなら、そこの受付に要望箱がある。それに入れておけば誰かが取りに来てくれるはずだ」

「要望箱……?」

 姫女苑の座る受付カウンターには紫の花が並び、その端に片手で持てる程度の大きさの箱が置いてあった。病院の白と同じ白い箱で目立たない。ずっとそこにあるのに蜃の目には入っていなかった。

「あんな物あったんだな。科刑所に行かなくていいなら助かる」

 早速腰を上げ、蜃は姫女苑から紙とペンを借りた。今は花街の所為で神経を磨り減らしているので、誤解を防ぐため獏の牢が一部壊れていることは敵の仕業ではないと記し、獏の店のドアも敵の仕業ではなく立て付けが悪いと書いた。蜃が破壊したことは伏せた。

 破壊の程度を思い出しながら書き込む傍ら、黒い青年が来院する。蜃は横目で確認し、見知った顔だったので要望書に集中した。

「仕事が終わったので、来ました」

 声を掛けられ、姫女苑も顔を上げる。そのまま表情が固まってしまった。アルペンローゼが大怪我をして運び込まれた際に来院していた黒色蟹がそこに立っていた。擦り傷を負っていた彼は感染の疑惑を掛けられたが仕事を優先した。簡単な仕事だったようですぐに終わらせて約束通りに戻って来た。

「貰い損ねた傷薬を貰えますか?」

 あの時は結局、それが欲しくて来院したと言うのに貰わずに去ってしまった。黒色蟹はまだ未知の病のことを知らず、脅威も理解していない。

「か、蟹さん。傷薬の前に、病の説明をさせてください」

「病?」

 黒色蟹は表情を変えないが怪訝に尋ねた。彼は無色の変転人の最年長だが、今まで変転人が病気に罹ったと言う話は聞いたことがなかった。

「まだ調査中で混乱を招くかもしれないので、宵街全体には公言してないんですが、未知の病が発生してるんです」

「それで先程は僕を引き止めたんですか? それは話を聞かずすみませんでした。僕にも感染の疑いがあるんですか?」

 注意を呼び掛けるだけにしては大騒ぎだったので、疑いがあるのだろうと黒色蟹は察する。未知の病が発生していても疑われていても彼は冷静だ。

「傷口から感染するかもしれないんです。検査を受けてください」

「わかりました。その病はどんな症状が現れるんですか?」

「現時点での症例は突然暴れ回る発作だけですが……前回病院に来てから記憶が途切れている所はありますか? 発作で記憶が飛ぶみたいなんです」

 黒色蟹は黙考し、記憶が繋がらない欠けがあるか辿ってみる。不自然に途切れている箇所は無さそうだった。

「無いと思います」

 その言葉に姫女苑は安堵した。発作を起こしていないなら、彼は感染していないかもしれない。

「他には何か、普段と違うことはありましたか? どんな些細なことでも……いつもよりお腹が空くなどでも構いません」

「腹は特には。眠気なら少しありますが。立て続けに仕事が入っていたので、疲れが出たのかと」

「わかりました。ラクタヴィージャ様を呼んで来るので、待っていてください」

 黒色蟹は本当に眠そうに瞬きをする。信用が大事とは言え根を詰めるのは良くないと、予約の絶えない彼を姫女苑は気に掛けておく。

 彼女は白い帽子を載せた頭を下げて立ち上がり、その目の前に不意に黒い刃が鈍く輝いた。

「……え?」

 視界に翳された刃が有色の変転人の目には追えない速度で持ち上がる。戦闘経験の無い彼女は危険を察知できず、目の前で冷たい狂気が翻った。

「――蜃!」

 背後から名を呼ばれ、要望書に集中していた蜃ははっと顔を上げた。殺気も音も無くあまりに静かに傍らで鋏の片割れを持つ黒色蟹に、思考が追い付かなかった。

 蜃と姫女苑の首を同時に刈ろうとする勢いで振られた刃は見えない何かに弾かれ、黒色蟹は勢い余って後方の床へ滑る。

 椅子から立ち上がり、椒図は鍵のような形の杖を翳して黒色蟹を睨んでいた。

「な……何だこいつ……? 武器を振ったら少しくらい殺気が漏れるものだろ!? 暗殺者かよ!」

 蜃も杖を召喚し、姫女苑の前に立つ。蜃は普段あまり誰かを守るという行為をしないが、病院は何度も世話になった場所だ。恩は余りある。彼女を守る理由としては充分だ。

「僕達が連れて来た灰色の変転人も攻撃中に殺気が無かった。発作中の記憶は無いんだろ? 本人の意思が無いなら殺気も漏れない」

「えっ、殺気……そうだったか……?」

 灰色の少女の時は警戒して視界に収めていたため攻撃に気付けていたのだろう。だが椒図はその時確かに灰色の少女から殺気を感じなかった。

 黒色蟹は空虚な目で立ち尽くし、何かを考えるかのように停止してしまった。椒図は蜃と姫女苑の前の空間を閉じて何者も寄せ付けなくしたまま、彼の次の行動を待つ。取り押さえるには一旦閉じた空間を開放せねばならない。力の解除と共に蜃と姫女苑が襲われる危険がある。カウンターに並んだ発作を抑える紫の花は、香りが届いていないのか効き目が弱いようだ。

「…………」

 膠着は数秒だったが、杖を握る手が痺れそうなほど長く感じた。

 黒色蟹は蜃と姫女苑ではなく、椒図の方でもなく、背後の廊下へ駆け出した。

「!?」

 素速い黒色蟹はすぐに階段のある壁を曲がって姿が見えなくなる。獣を相手に病院から出られないと思ったのかもしれない。

「な、何お前!? 退きなさいよ! 水を貰っ……」

 階段で誰かと鉢合わせたらしい。焦る声が聞こえる。二階以上の病室にいるのは患者だ。階段を上がらせるのは不味い。椒図は咄嗟に杖を振り、階段から廊下に出られないよう空間を閉じた。

 その直後に階段から鈍い音を立てて何かが落ち、壁の陰からごろりと転がって覗く。切断された人の頭部だった。

「や……きゃああああ!」

 それは蜃と椒図が捕まえて連れて来た灰色の少女だった。首を一撃で切断され、灰色の髪がべとりと血に貼り付く。

 首に目を奪われている間に黒色蟹は上に行けないことに気付き、階段を飛び降り動揺の隙を縫って病院の外へ飛び出した。

「不味い! あんなものを外に……!」

「姫女苑、ラクタに状況を話してくれ。俺と椒図はあいつを追う!」

 先に飛び出した椒図を追い、蜃も病院を飛び出す。そのすぐ後に「今の悲鳴は何!?」ラクタヴィージャが奥の部屋から勢い良く暖簾を捲った。

 黒色蟹はただ歳を重ねただけの最年長ではなく、経験豊富で戦闘に秀でた変転人だ。彼を止めるのは容易ではなく、早く発作が鎮まることを祈りながら二人は石段を駆け下りた。

 黒色蟹は元々気配を消すのが上手かった。今の彼には殺気が無ければ気配も無い、この入り組んだ狭い宵街では最悪な暴徒だった。

 唯一黒色蟹を辿る手掛りと言えば、彼の進路にいる変転人の悲鳴だ。手に刃を構えて走る彼の姿を見れば、譬え攻撃されなくても思わず悲鳴を上げてしまう。

 攻撃されずに悲鳴を上げているだけなら。そう思っていたが、現実は無情だった。石段や石壁、茂みには点々と赤い物が散っている。彼の進んだ方向はわかるが、道中で腕や脚を押さえて蹲る者、肉片のような物まで落ちていた。

「彼に匹敵する変転人はこの辺りにいないのか!?」

「この辺は有色が多い! 武器を持ってないんだ!」

「僕達が何としても追い付かないといけないのか……」

 蜃は椒図ほど必死には追えなかったが、椒図の姿が見えなくなるとまた届かない所に行ってしまいそうで、杖に跳び乗った。飛ぶ方が速い。蜃は飛べないが、飛ぶ真似事はできる。飛べない椒図の腕を掴み、杖に引き上げた。

「捕まってろ!」

 悲鳴と血痕と肉片を追い、細い路地を縫うように飛ぶ。

「速過ぎだろ蟹……変転人の速度じゃない」

「発作とは、潜在的な力も解放するものなのか……?」

「もしそうなら獏の負傷も笑ってられないな……いや面白かったが」

「蜃」

 椒図は蜃に一旦上空へ飛ぶよう指示し、四角い箱を積んだような家々を見下ろした。宵街には科刑所と病院より高い建物は無く、少し上がるだけで路地を見渡せる。路地を覆う屋根がある箇所もあるが、大方は視界に収まる。どんな迷路だろうと壁より高く飛べば道は丸見えだ。

「……あっ! 図書園に入るぞ!」

 浮かせる力を解きながら急降下し、図書園の入口に着地する。開いたドアから一瞬眩い光が漏れた。

「な、何だ……?」

 杖を構え、蜃と椒図は図書園へ飛び込む。素速く動き回っていた黒色蟹は立ち止まり頭を振っていた。その奥には図書園の管理人であるフードを被った黒色蛍が、大きな蛍袋(ホタルブクロ)の花のような釣り鐘型のランプを構えていた。

「蜃、取り押さえよう!」

「お、おう!」

 椒図は黒色蛍の周囲の空間を閉じ、彼の安全を確保する。蜃は生き物のようにうねる縄を出力し、黒色蟹の片割れ鋏の柄に巻き付けて引いた。蜃気楼の実体は長時間保てないため武器を手放させることに苦戦するが、動きを制限している間に椒図は死角に回り込んで黒色蟹を押さえた。頭を床に押し付け背に乗り、腕も押さえる。

「蜃は脚を! 関節を外して攻撃してくるかもしれない!」

「わかった!」

 押さえる前に蹴られそうになるが、叩き落として跨った。小柄な少女の姿である蜃の体重では少し心許無いが、何とか制圧できた。

「それで、ここからどうするんだ? 病院に連れて行くのはちょっと厳しいぞ」

「そこの変転人。動けるか? 病院で発作を抑える花を貰って来てほしい。発作と言えば伝わる」

 状況を理解できず呆然と立ち尽くしていた黒色蛍は声を掛けられて我に返り、釣り鐘型のランプを握り締めた。

「わ、わかりました」

「道中怪我人がいるかもしれないが、なるべく花を優先してほしい」

「は、はい」

 黒色蟹が彼を襲わずに立ち止まったのは、黒色蛍が強い光を発したからだ。薄暗い宵街で突然目の前に強烈な光を放てば目が眩む。熱の無い蛍の冷光を元に黒色蛍が生成したランプは自在に光量を調節することが可能だ。これが武器だと言えば、何故そんな攻撃に使えない武器を作ったんだと誰もが言う。だが黒色蛍はランプを武器とした。武器と言うより、役に立つ物をと、ランプを選んだ。

 黒色蟹のことは黒色蛍も勿論知っている。同じ黒に所属する最年長の変転人。経験も能力も申し分無く仕事の絶えない彼のことは、黒色蛍も尊敬している。そんな彼が突然飛び込んで来て牙を剥く理由がわからなかった。

 何かおかしい。蜃と椒図の言葉は理解できなかったが、黒色蛍は途惑いながらも図書園を駆け出した。

「――!?」

 図書園を出た瞬間、細長い物を眼前に突き付けられた。獣の杖だと気付くのに時間は掛からなかった。杖は獣が力を振るうための媒介である。つまりそれを向けられることは多くの場合、死を意味する。

「待って、ユニコーン! 生娘じゃないからって無闇に杖を向けるのは良くないよ!」

 死んだ、と黒色蛍が思った時、聞き覚えのある声が聞こえた。杖を向ける獣の背後から、見覚えのある黒い動物面が制止に入る。

「ごめんねホタルさん。驚かせたね」

 ユニコーンと呼ばれた白い一本の角を生やした少女は眉を顰めた後に杖を下げ、獏を振り向く。そして蕩けるように締まり無く微笑んだ。正確には獏の後ろに控える灰色海月に対してだ。

「宵街に来たらあちこち血痕があって、それを辿って来たんだ。ここに続いてたんだけど、ホタルさんは大丈夫?」

「だっ……大丈夫ではないです」

「えっ」

 病院に急がねばと思うが、獣を無視するわけにはいかない。

「レオ先輩が発作で……おかしいんです!」

 図書園の中を示し、獏とユニコーンも中を覗く。蜃と椒図に取り押さえられて踠く黒色蟹の姿が見えた。

「大変……! ユニコーン、解毒を遣ってみて!」

「男か……」

 ユニコーンは露骨に落胆するが、杖は構えた。

「そこの獣達、ちゃんと押さえておいてよ」

「何だ?」

 知らない獣に杖を向けられ蜃と椒図は警戒するが、背後に付いている獏が問題無いと手振りで示すので、訝しげな顔をしつつも二人は押さえる手を退けなかった。

「解毒は久し振りだからね。効くといいんだけど」

 不安になる言葉が飛び出したが、問う前にユニコーンはくるりと杖を振る。数秒の沈黙の後、黒色蟹の体から紫色の泡のような物が幾つも立ち上り、蜃は思わず手を引きそうになる。泡に触れてもそれは割れずにするりと滑り、頭上へとふわふわ上がって行く。まるで割れないシャボン玉だ。

「な、何なんだ……?」

「それは毒気の泡よ。体から毒を取り除いてあげてるの。無色の変転人から毒を抜いたらどうなるかわからないけど」

「ちょ、ちょっと待って! ストップ!」

 その言葉は聞き捨てることができず、獏は慌ててユニコーンの杖を下ろした。無色の変転人とは有毒生物に人の姿を与えた者だ。有毒だからこそ無色である。その毒が無くなれば無色でいられなくなるのではないか。

「無色から毒を抜くって……」

「最悪無能になるかもしれないわね。それとも人の姿を保てなくなる?」

「人の姿を保てないって……そんなの死ぬのと同じだよ! 死んで解決じゃ君をここに呼んだ意味が無い!」

 人の姿を保てなくなれば、彼は蟹の姿に戻ることになるのだろう。

 変転人を作る時は獣の生命力を少し注ぎ、その生物の生命力を利用して人の姿を形成する。その生物の生命力は人の姿を作る際に殆ど使い果たされており、変転人となってからは注がれた獣の生命力を元に生きることになる。変転人の容姿に成長が見られないのはこのためだ。つまり一度変転人になってから元の生物の姿に戻っても、その生物としての生命は尽きている。通常は元の姿には戻せないのだが、もし戻るとするなら屍骸になるだろう。

「……ん? 変なのが()()わね」

「え?」

 ふわふわと上昇を続ける紫色の泡を見上げ、獏は慌てて黒色蟹に駆け寄る。既に手を伸ばして跳んでも届かない高さにまで泡が上っている。

 暫くぴょんぴょんと跳ぶ滑稽な姿を可笑しく見ていた蜃だったが、頭上に網を出力し、泡を纏めて引き摺り下ろしてやった。可笑しく見ていたが、どうやら生死に係わるらしい。

「蟹にも世話になったしな」

 実体化した網はすぐに霧散するため、手当たり次第に泡を黒色蟹の口に捩じ込んだ。泡が出た所為か抵抗力が弱くなっていたが、再び力強く踠こうとする。

 泡は回収しきれなかった少量が弾けてしまったが、概ね戻せた。突然のことで肝を冷やした獏は先に言っておいてくれと恨めしく振り向き、ユニコーンがいつの間にか背後に気配無く立っていたことに肩が跳ねる。

「また少しこいつの毒が出ると思うけど、大目に見てよ。面白いのが出て来ると思う」

「面白いの……? 危険なことはやめてよ」

「危険って言うなら、貴方達の方じゃない?」

「?」

 ユニコーンは黒色蟹の体を観察し、再び距離を取る。図書園の中に入って様子を窺っていた灰色海月を外に出し、ついでに黒色蛍も外へ遣った。

「……このくらい離れてたら大丈夫かな。それじゃ、遣るわよ」

 生娘の灰色海月を図書園の外へ遣ったことで、何だか不味い気がすると獏は警戒したが、どう不味いのか想像がつかなかった。

 ユニコーンは杖を振り上げ、変換石が煌々と光る。黒色蟹の体から再び紫色の泡が立ち上り、獏は慌てて泡に手を伸ばした。その直後に突然飛んで来た蜃の体に突き飛ばされ、諸共床に叩き付けられ転がった。

「ちょっと蜃!?」

「何が……」

「もっと離れろ!」

 蜃を突き飛ばしたのは椒図だと理解する前に、獏と蜃は天井近くまでそそり立った黒い物を呆然と見上げることになった。それは巨大な海老のように見え、だが明らかに海老ではなかった。海老のような尾が伸び、黒い体の左右に鰭がびっしりと並んでいる。黒曜石(こくようせき)のような大きな目はぎょろりと、前方に突き出した二本の付属肢は鍬形虫(クワガタムシ)の大きな顎のようだった。それは古代生物のアノマロカリスに酷似していた。だが知識にあるアノマロカリスよりもかなり大きく、体も長い。似ているが別物だ。

「な、何だこれ……これも悪夢なのか!?」

「悪夢じゃないよ……こんなの初めて見る……」

 ぽかんと口が開いたまま塞がらない。二人は置いて逃げるなと言うように互いの服を掴んだ。

 体長が優に五メートルは超える巨大な黒いアノマロカリスは天井が高い図書園の中でも狭そうにぐちゃりとうねり、間髪を容れずに体を滑らせる。一直線に出入口へと向かい、外で悲鳴が上がった。

「生娘!」

「クラゲさん!?」

 ユニコーンは修復が終わったばかりの図書園の壁を破壊し、外へ飛び出した。黒いアノマロカリスの直撃を受けたのは黒色蛍で、向かいの石壁に叩き付けられて頭や体から血を流していた。

「っ……」

 黒色蛍は虚ろな目で浅い呼吸を繰り返し、辛うじて付いていた左腕が重みに耐えきれずにずるりと落ちた。

「ホタルさん……!」

 灰色海月は念のために生成しておいた腕輪から触手を繰り出し、アノマロカリスの頭を引いて押さえていた。自分の触手は強度が足りないと自覚していたので、役に立とうと密かに特訓していたのだ。力強いアノマロカリスの体に触手を束にして巻き付け何とか押さえられているが、変転人の力では長くは持たない。黒色蛍の体を貫こうとしていた付属肢は少し進路を逸らすことができたが、逸らしきれずに腕に当たってしまった。先にアノマロカリスの行動に反応できたのは黒色蛍だったのに、彼は逃げることを選ばず灰色海月を突き飛ばすために僅かにあった逃げる時間を使った。

「生娘、二秒後に触手を解いて私の胸に飛び込みなさい。死にたくなければね」

「! は、はい」

「いくわよ」

 杖の石が光り、灰色海月は集中し息を止める。つまり二秒間、触手を切られてはならない。

 灰色海月は普段時間を気に掛けて紅茶を淹れている。短時間なら体内時計はかなり正確だった。

 しっかり二秒間耐えて地面を蹴り、触手を仕舞ってユニコーンの胸に飛び込む。彼女が満足そうに笑顔を湛えた直後、アノマロカリスの体内から白い杭が無数に突き出した。アノマロカリスは不快な軋み声を上げて地面に落ち、水から揚げられた魚のように悶えた後、徐々に静かになった。暫くはびくびくと痙攣していたが、それも無くなるとアノマロカリスの体は枯れたように干涸らび、まるで砂のように崩れていった。アノマロカリスの肉を裂き外殻を貫いて黒い体液を滴らせていた白い杭からも、黒い跡形が砂となり消える。

「ホタルさん!」

 それを見届け真っ先に動いたのは獏だった。

「クラゲさん、僕の首輪を外して! 早く!」

 灰色海月も我に返り、獏へ駆け寄る。腕の中から離れていく彼女に、ユニコーンは至極悲しそうな顔をした。

 灰色海月は急いで首輪を外し、獏は杖を翳して黒色蛍の止血をする。

「すぐに飛んで来る人がいるから、収拾を任せよう」

「……?」

 応急処置の最中にやはり彼は変転人の速度を超えた速さで駆け付けた。路地の茂みに白い姿を捉え、灰色海月ははっとした。

「何ですか……この惨状は……」

 端整な眉を顰めて険しい顔で白花苧環は駆け寄り、獏の足元に転がる黒色蛍の姿に息を呑んだ。

「僕はホタルさんを病院に連れて行くから、マキさんに後のことを任せたい」

「説明は……後でしてもらいます。クラゲが付いてるなら、首輪の件は後程」

 白花苧環は事態の深刻さを慮り携帯端末を取り出した。科刑所に戻って指示を仰ぐ時間が惜しく、狴犴に端末で報せる。狴犴は顔にガーゼを貼り付けているが、話すことはできるだろう。

「レオさんの意識は無いみたいだから発作はもう大丈夫だと思うけど……ユニコーン、解毒はできたの?」

 ユニコーンは破壊した壁から中を覗き、倒れたままの黒色蟹の様子を窺う。死んだようにぴくりとも動かないが息はある。

「さあ? 気になるなら医者にでも聞けば?」

「わからないの?」

「私は解毒はできるけど、病気に罹ってるかどうかは表面的なことしかわからないわよ。病気の名前も知らないし。まあたぶんさっきの虫が原因だと思うけど」

「虫が病気……? よくわからないけど、ラクタに診てもらおう。もう滅茶苦茶だよ……。――蜃、椒図! レオさんを病院に連れて行けそう?」

「ああ、こっちは任せてくれ」

 椒図がすぐに返事をしてくれたので、あちらは大丈夫だろう。彼はまだ呆然としている蜃の肩を揺すり、黒色蟹の状態を確認している。

「ユニコーンは僕と一緒に来て」

「生娘はいる?」

「いるんじゃないかなぁ」

 適当に頷いておき、獏は黒色蛍を抱えて病院に急いだ。過去に両手を切り落とされた灰色海月は、すぐに病院に行ったことで縫合して元通りになった。黒色蛍もすぐに駆け込めば元通りに腕が繋がるかもしれない。

 ユニコーンは杖に乗り空を飛んで獏に付いて行くが、同乗を勧めはしなかった。


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