147-譲れないこと
椒図に先導されて科刑所に到着した鴉のようなアルペンローゼは、狴犴の部屋の前にいた黒い塊に警戒した。最初に彼がここに来た時にはそんな生き物はいなかった。それは長い耳を生やし、鼻をひくつかせて薄暗い廊下に佇んでいた。動物のような姿をしていて、耳を含まずとも体長が一メートル程ある。土竜のような顔をしているが土竜よりもかなり大きい。
「これは地霊だ」
警戒し足を止めたまま動かないアルペンローゼに、椒図は親切に教えてやった。初めて見ると言うことは、花街に地霊はいないようだ。
「地霊……」
「下級精霊だが、科刑所で働いてるんだ。大人しい獣だよ」
「下級……妖精のような獣なんでしょうか」
地霊はアルペンローゼの全身を見回し、大きな爪で扉を叩いた。まず一回、間を開けて二回叩いた。
また少し間が開き、中から「入れ」と返事がある。狴犴の声だ。
アルペンローゼを一歩下がらせ、椒図が扉を開ける。変転人達を殺気で黙らせた花街の獣のことは椒図も聞いた。きっと狴犴は神経を尖らせて警戒しているだろう。先に椒図が話した方がアルペンローゼも話し易いはずだ。
部屋には肌がひりつくような緊張感が満ち、奥の席についている狴犴は椒図の背後に鋭い双眸を向ける。そこには微かに殺気が含まれていた。これを直接受けるのは変転人には厳しいだろう。椒図はアルペンローゼを一瞥するが、彼は緊張しつつも臆することなく立っていた。
(この変転人……かなり場慣れしているな。微かとは言え獣の殺気に怯まない)
狴犴の背後には白花苧環が控えているが、片手を死角に置いている。おそらく武器を握っている。狴犴もだ。机の死角に杖を構えているはずだ。
「何の用だ」
狴犴はアルペンローゼに尋ねるが、椒図が問答を代わる。
「話をしに来たんだ。浅葱斑はいるか?」
「お前が話すのか?」
「いや、アルペンローゼだが。獏の所にあった置き手紙の話は聞いたか?」
「ああ」
「それについて話をしたいようだ」
「アルペンローゼを殺せ、か。何故、浅葱斑なんだ?」
「それは――」
やはり代弁者では話が間怠っこい。アルペンローゼはバスケットを提げた手と空いている手を相手に見えるよう示し、一歩前へ出た。バスケットを握っているのだから、すぐに武器を取り出せないことは一目瞭然だ。争いに来たわけではないと見せ付ける。
「僕は宵街の誰も信用していません。ですが、フェル様と繋がりのある浅葱斑は別です。僕に本当に死刑が下ったのか、話を聞きたいんです」
「お前は死刑に心当たりが無いのか。浅葱斑も知っているとは思えないが。お前と共にここへ来たヴイーヴルが置いた手紙だろう?」
「僕は何も聞かされてません。こんなことは前例がありません。浅葱斑も……知らなくても、意見が聞きたいんです」
「お前の年齢は?」
「……? 三十二歳です」
「前例が無いのは三十二年前までか?」
「それは……」
その一言でアルペンローゼの勢いは揺らいだ。自分が人の姿となり花街に来るより以前のことは殆ど知らないのだ。
言い淀んだ彼を庇うように、椒図は再び会話を代わる。
「狴犴。アルペンローゼに警戒する気持ちはわかるが、彼は殺気を放って危害を加えた獣とは意志が異なる。彼はさっき、病院で発作を起こして暴れた変転人から姫女苑を守ったんだ。暴れた変転人を刺してな」
「それが何だと? 一度守った程度で何がわかる? 信用させるために犠牲を厭わなかった、その可能性は?」
「アルペンローゼは自身の行いを反省して詫びの品も作ったんだ。毒味もしたが、毒は無く美味いそうだ」
「庇うのか」
「僕はさっき会ったばかりだが、悪い変転人には見えなかった」
「…………」
狴犴は呆れたように一旦口を閉じ、アルペンローゼの手にあるバスケットに目を遣った。酒入りのケーキで変転人を酔わせておきながら、また何か作ってきたらしい。
椒図の考えていることは狴犴には理解できない。過去に罪を犯した者の考えていることなど、譬え兄弟だとしてもわからないものだ。それでも推測はできる。相手が変転人だから、獣に対するよりも警戒心が緩くなっているのだろう。確かにアルペンローゼは獣ではなく変転人だ。狴犴もそれは理解している。――だから一つ提案をすることにした。
「……アルペンローゼ。お前は信用されたいようだが、一度塗った泥は簡単に拭えるものではない」
感情を排除した淡々と紡がれる言葉にアルペンローゼは耳を傾ける。彼の言うことは尤もだ。一度付いた傷は簡単に消えるものではなく、痕が残ることもある。
「お前が本当に信用を得たいのなら……花街のことを洗い浚い話せ。――拷問でな」
「!」
傾けていた耳を疑い、アルペンローゼはぴくりと眉を動かしてマスクの奥で険しい顔をした。拷問を提案されるのは想定外だった。それほど宵街の長はヴイーヴルの容赦無い殺気に激怒しているようだ。ヴイーヴルは姿を消し、その付けは同行者であるアルペンローゼが払わせられる。詫びの品さえあればと楽観的に考えていたことに気付き、アルペンローゼは即座に言葉を返せなかった。
拷問とは口を割らない者に吐かせるために行う加虐行為であり、素直に話すなら痛い目は見ないはずだ。想定外の提案に驚いたが、必ずしも痛みを伴うわけではない。答えられることばかりではないだろうが、拷問は死刑ではない。
アルペンローゼは浅く呼吸を繰り返し、焦りを静めて覚悟を決める。信用が得られるなら、耐えるしかない。独り残された彼は何かに縋ろうと必死だった。熱した鉄を手に取れと言われれば、きっと取ってしまうだろう。消えきらない焦りで思考が浅くなっていることには気付いているが、何か行動したい気持ちを抑えることはできなかった。
「狴犴!」
アルペンローゼの覚悟など知らない椒図は慌てて訴えた。
「拷問は遣り過ぎだ。変転人に拷問なんて、耐えられない」
椒図は科刑所で拷問を受けたことがある。あれは拷問とは言えない酷いものだった。口を割らせる気など毛頭無く、ただ痛め付けたいだけの拷問に何の意味があるのか。
「心配せずとも獣と同じ拷問をさせるつもりはない。獣と同等の拷問など、変転人ならすぐに死んでしまう」
「アルペンローゼは話をしに来たんだ。話すと言ってるのに拷問をする意味なんかない!」
「お前はまた悪人を庇うのだな。だが私がここを統治している以上、私の決定に従ってもらう。――苧環、椒図と共に上で見ていろ」
「狴犴!」
立ち上がる狴犴を阻むために椒図は扉の前に立つ。睚眦の無茶苦茶な拷問をさせるわけにはいかない。変転人相手なら腕や脚を切断することはないだろうが、発作を起こした変転人を鎮圧した彼に拷問などあまりに無慈悲だ。
「拷問ですね。承知しました」
宵街にも庇ってくれる者がいる事実に、アルペンローゼは少しの安堵を覚えた。先程会ったばかりでまだ名前くらいしか知らないが、このままではこの緑の獣は統治者に逆らい反逆罪とされるかもしれない。アルペンローゼはそれを望まない。自分が拷問を受ければ収まる、それだけの話だ。
椒図は眉を顰め言葉を探すが、覚悟を決めた当人に引かせる言葉など思い付かなかった。彼はまるで、化生前に蜃と獏を庇って一人で宵街に出頭し、拷問を受けた時の椒図のようだった。今の彼には護る誰かはいないが。
狴犴に連れられ部屋を出るアルペンローゼを、椒図は止められなかった。
拷問部屋に持ち込むわけにはいかないバスケットは机に置き、彼は一度も椒図と目を合わせなかった。
拷問部屋は地下牢へと下りる階段の手前にあり、二階の床を抜いた天井は高く、壁の上部にある小窓から全体を見下ろせるようになっている。壁際に置かれている拷問道具は只の飾りで、使用されることはない。睚眦の力だけで充分執り行えるからだ。
狴犴とアルペンローゼが拷問部屋に着き、少し遅れて地霊に連れられた拷問官の睚眦が遣って来る。彼女は鋭い眼光で拷問部屋を見渡し、拷問相手が変転人であることに微かに逡巡を浮かべた。だがすぐに気を取り直して肩に掛かった硬い赤髪を払い、小さな牙を見せて笑う。
早速杖を召喚する彼女に狴犴は耳打ちをし、睚眦も一度笑みを消して頷く。
「表情の確認と声を通り易くするため、マスクは外せ」
「外していいのか? 発作とやらを起こすんだろ?」
睚眦は科刑所と地下牢から出ていないが、必要な情報は地霊から聞いた。花街の使者のことも、病の発作のことも聞かされた。鴉の嘴のようなペストマスクが、発作を抑えるための物であることもだ。
「もし発作を起こせば、拷問を中断して取り押さえろ。正気に戻ってから再開する。よもや変転人を取り押さえられないわけがないだろう?」
「それはそうだが。どんな発作を起こすか私は知らないからな」
話には聞いているが、実際に見たわけではない。だが恐れを抱いて拷問官など務まらない。武器を取り出せないようアルペンローゼの両手に手袋を被せ、顔から黒いマスクを外して中央の椅子に座らせる。手袋の両手は膝に置いて縄で縛っておく。罪人ならば枷を嵌めるのだが、彼は変転人なので縄で充分だ。
マスクはドアの脇に置き、睚眦はアルペンローゼの全身を品定めするように眺めた。変転人の拷問など初めてだが、体の構造は人型の獣と変わらない。力を加えれば骨が折れ、傷を付ければ血が流れる。何処を痛め付けるか考える時間は胸が踊る。
狴犴もまたアルペンローゼを観察し、静かに言葉を投げた。
「質問は私がする。アルペンローゼは私の質問のみ答えろ」
「承知しました」
アルペンローゼは一度静かに深呼吸をし、心臓を落ち着ける。何を訊かれるかある程度は予想できるが、何を訊かれても冷静でいられるように。
(答えに満足してもらえば、ヴイーヴル様の行いも少しは許されるかもしれない……いや、それは無いか……)
睚眦は一歩前へ出、狴犴はドアの脇まで下がる。
それらを上部の窓から覗く椒図の方が焦燥に駆られている。共に見下ろす白花苧環は拷問の知識がまだ乏しく、これから行われることに対して理解が及んでいない。彼は拷問の見学をするのは初めてだ。質問に答えられなければ殴られるのだろう、程度にしか思っていない。
「ではこれから、アルペンローゼの拷問を開始する」
静かで冷たい狴犴の声が響き、アルペンローゼは息を殺した。最初に何を尋ねられるのか、聞き漏らさないよう耳を欹てる。
「まずは花街でのことだ。こちらの使者達に酒入りのケーキを振る舞ったことは覚えているか?」
「はい」
「何故、酒入りのケーキを食べさせた?」
「アイトワラス様の指示です。宵街の使者を不審に思い、少し脅かしてやろうとの考えです」
「アイトワラスとは?」
「城に棲む獣です。王の下、大公に就任しています。大公の説明は必要ですか?」
「そうだな。罪人を裁く鐘を鳴らす権利を与えられた者達、と聞いているが、それ以外に何かあるか?」
「大公の職務は主に鐘を鳴らすことです。他に何か問題や相談などがあれば、都度会議を開いて決定します。会議には僕は出席したことがないので、会議の様子は説明できないです」
「ふむ」
会話を聞き、覗き窓から窺う椒図は少し安心した。睚眦は腕を組んで立っているだけで、手を上げる気配が無い。これなら普通に会話をしているのと同じだ。回答以外のアルペンローゼの発言も許されている。変転人相手なので睚眦も容赦無く傷付けることはしないのだろう。最初に狴犴が耳打ちをしていたが、最初に釘を刺したに違いない。
「では大公の名を全て言え」
「アイトワラス様、ズラトロク様、スコル様、ハティ様、そしてヴイーヴル様です」
「その中に序列はあるか?」
「いえ。皆対等です」
「お前を殺すよう指示した手紙は封蝋がヴイーヴル、筆跡がスコルもしくはハティだそうだが、三者の関係は?」
「あまり個人的な関係までは把握してません」
睚眦の手がぴくりと動き、狴犴はそれを無言で制した。
「お前から見て仲が良いか悪いかもわからないか?」
「ヴイーヴル様はあまり他者と接することを望まないので、自室に籠っていることが殆どです。特に良いとも悪いとも思ったことがありません」
「お前の城での立ち位置は? 仕事内容を聞かせてもらおう」
「僕は……何の権利も持たない只の使用人です。城の雑事全般の総指揮を行っているので、変転人の中では最上位に等しいですが。指示出しが主ですが、庭の手入れ、城の掃除、食事の用意、洗濯、買物、調度品の管理、大公の呼び出し対応、来客の対応、僕の手に負える範囲ですが不穏分子の始末……ですね。必要に応じて僕も行い、食事やアフタヌーンティーもよく僕が作っています」
すらすらと述べられる仕事内容に、場の一同は一様に感心した。指示出しが主なら視野が広く、そして必要に応じて自身も行っているならそれらを全て熟せるらしい。宵街には料理ができない変転人や、掃除や洗濯が苦手な変転人もいる。この変転人は有能過ぎる。それを『殺せ』とは、今頃花街は困っているのではないだろうか。それとも花街には彼のような有能な人材が溢れているのか。
「お前が一人で全てを熟すこともあるのか?」
「全て……は無いです。特に掃除と庭の手入れは一人では厳しいです。城は広いので。ミモザという大勢の変転人に指示を出して任せてます。他には王の周囲はゲンチアナが担当し、ズラトロク様の周辺はエーデルワイスが担当してます」
つまりそれ以外の獣の世話は彼一人で行っている。凄まじい仕事量だ。拷問中だが、賞賛に値する。労いたいくらいだった。
「では、大公の獣全ての能力を話せ」
流れ作業のように答えていたアルペンローゼは初めて言葉に詰まった。凜とした双眸は狴犴から逸らさないが、睫毛が影を落とす。
「……獣を売ることはできません」
「知らないではなく、言わないのだな」
「はい」
アルペンローゼは素直に認めた。大公だからではなく、どんな理由があっても獣の能力を暴露することはできなかった。
会話の間を置き、睚眦の杖の変換石が光る。今度は制止されなかった。
「っ……!」
鈍い嫌な音が鳴り響く。一度ではなく、三度鳴った。アルペンローゼは歯を喰い縛って背を丸める。だが彼の何処に変化があったのか、近くで見ていても誰もわからなかった。
「睚眦」
「……ん? ああ、手の指を折った。手袋をしていると見えないが。見える場所の方がいいか?」
「そうだな」
そう言うと睚眦はもう一度全身を見詰めた後、杖を振った。
「あっ……」
無理に口を開けられて声が漏れる。捩じ切られた歯が一本床に転がり、赤い線を引いた。相手が変転人なので大量出血を避けて攻撃している。歯が取れた程度の出血なら問題無い。麻酔は当然無いため、しっかりと根を張った歯は一本抜かれただけでも激痛が走る。
「もう一度問う。獣達の能力は? 少しでも話した方が痛みは少なく済む」
「い……言えないです。それだけは、話せない」
口の端から血が伝い、また一本歯が落ちる。額に脂汗が滲み、呼吸が荒くなる。見えてはいないが、手袋の中の指も本来加わることのない方向へ力が加えられ完全に折れている。痛みで思考が覚束無い。
「何度尋ねても……殺されても……僕は獣を売らない……!」
「…………」
派手に四肢を切断せずとも歯を抜くことも楽しくなってきた睚眦はもう一本抜こうとするが、狴犴に制された。何本抜こうとアルペンローゼは獣の能力を話さないだろう。変転人は獣を恐れて獣が不利になるようなことをしないが、彼の閉口振りは常軌を逸する。誰でも自分の身が一番大切なはずなのに、彼の目に揺らぎは無い。おそらく言わないよう躾を施されている。顔に怯えも出さず、痛みを受け入れている。
「質問を変える。フェルニゲシュの首に印があるが、あれは何だ?」
「! あれは……」
口を開くと血が零れる。口内に鉄を突っ込まれているように不快な味が広がる。
「フェルニゲシュ自身が見せたそうだ」
「……フェル様は……そういう所が、ありますね……。あれは、フェル様の力を……封印するもの……」
「何故、王の力を封じている?」
「昔……粗相を、したそうですが……はあ、はぁ……それ以上は、知りません……。知るのは……大公のみ……」
みしりと音を立て、また一本、歯が床を叩いた。
「っ……、本当に、僕は知らない……!」
「フェルニゲシュは大公達の能力を話していた」
「!? フェル様は……そんなこと、しません……! 絶対に!」
狴犴はフェルニゲシュから能力など聞いていない。
この極限の判断力の鈍った状態でも、アルペンローゼは全く疑わずにフェルニゲシュを信じた。話せば自分は楽になると言うのに、指や歯を折られても心は折れることがない。激痛に苦しみ閉じようとする瞼を必死に抉じ開け、狴犴を睨んでいる。
それを覗き窓から見ていた椒図は窓に手を突き、唇を噛んで拳を握る。生まれたばかりならともかく、三十二年も生きている変転人が味方の獣の能力を暴露するはずがない。狴犴もわかっているはずだ。
「止めさせないと……」
杖を召喚しようとした椒図は、傍らにいた白花苧環に腕を掴まれた。
「待ってください」
「こんなもの、見てられない! お前は狴犴を肯定するのか!?」
「おそらく……ですが、実験も兼ねてるんだと思います」
「実験……?」
訝しげに眉を顰め、声に苛立ちが滲む。
「アルペンローゼには強力な自己治癒能力があるそうです。その力が如何ほどなのか、知りたいんでしょう」
「治癒能力……?」
椒図はアルペンローゼに視線を落とす。上からでは口の中がどうなっているのか見えない。治癒能力を有する変転人など聞いたことがない。
「拷問とは見ていると辛いものですが、オレも治癒能力は気になります。本当にそれがあるなら、彼がスミレを襲ったことも否定できなくなります」
「だが……」
「もう少し見守りましょう。死ぬと思えばオレも止めに入ります」
変転人に諭され、椒図も開き掛けた口をゆっくりと閉じた。半獣となった白花苧環はおそらく、普通の変転人がどれほど脆いか理解していない。死ぬかもしれない判断は自分がするしかないと椒図は歯を喰い縛る。
ばらばらと床に散乱する歯を蹴り、睚眦は腕を組む。今まで歯の全く無い人を見たことがないので、歯が無くなれば喋ることができなくはならないかと危惧して一旦手を止めた。口の中にはまだ半分ほど歯が残っている。早めに気付いて良かったと睚眦は胸を撫で下ろした。
血と汗がぱたぱたと床に落ち、アルペンローゼは全身で呼吸をしている。乱れた髪が頬に貼り付き、もうあと幾つも質問に答えられないだろう。
「ここから、花街との連絡手段はあるか?」
「……ない」
敬語を保つ余裕も無く、声は掠れてか細い。いっそもう意識が落ちてしまった方が楽になれる。
「お前は経緯を述べれば大人しく死刑を受け入れるのか?」
「それを……知る、ために……浅葱、斑に……」
ぼきりと音が響く。脚の太い骨が折れ、アルペンローゼの体は傾いて椅子から物が落ちるように崩れた。
「お前の罹った病だが、お前は何処から、或いは誰から感染した?」
「それ、は……」
力無く開いた口からはもう声が漏れず、虚ろな双眸には何も映っていなかった。
手を上げようとした睚眦を制し、狴犴は歯を避けてアルペンローゼへと接近する。背後でドアが開き、椒図と白花苧環が駆け込んで来た。
「狴犴! 遣り過ぎだ!」
「もっと早くに飛び込んで来るかと思ったが、随分と我慢できたようだな。苧環に止められたか」
散らばった歯と血に目を遣り、椒図は拳を握って狴犴へと歩んだ。アルペンローゼの傍らに膝を突く狴犴の胸座を掴もうとし、声に遮られる。
「見ろ」
椒図は訝しげに手を止め、狴犴が指す方へ目を向けた。指先で開かれたアルペンローゼの血に濡れた口内に、小さな白い物があった。
「それは……?」
「新しい歯だ。もう生えてきている。想定より早いな。出血ももう止まっている」
本当にアルペンローゼには治癒能力があるらしい。周囲に散らばる歯は根元まで綺麗に抜けており、折れた残りが口内にあるわけではない。
「椒図。暇ならすぐに彼を病院に連れて行ってくれ。ラクタヴィージャにも治癒能力を見せたい」
「……言われなくても病院には連れて行く」
幾ら治癒能力を見るためとは言えあまりに残酷だ。椒図は狴犴を睨み、アルペンローゼの縄を切って抱え上げた。
傍らを擦り抜けて急いで拷問部屋を出る椒図を見送り、白花苧環は平然としている獣二人に目を遣った。
「あんなことをして恨まれませんか?」
「恨まれても構わない。これは宵街に必要なことだ」
統治者とは孤独であり、進んで憎まれ役を買いに行くものなのかもしれない。他に被害が出る前に、恨まれても阻止する。狴犴の行為は危うく、もし恨まれたならアルペンローゼはすぐに科刑所に乗り込んで来るだろう。先程の治癒力を見るに、一日あれば動けるようになるはずだ。
「睚眦、拷問は一旦終了だ。片付けをしてくれ。また用があれば声を掛ける」
「変転人相手だと拷問をした気にならないな。却ってストレスが溜まる」
「楽しんでいたようだが?」
「一瞬だ、一瞬」
ひらひらと手を振り、睚眦は小さな歯を蹴飛ばす。抜けた歯や血には変化が無く、体から切り離されれば治癒力も失うようだ。歯から何かが生えてくるかと警戒もしたのだが、杞憂だった。さすがに変転人にそこまでの能力は無い。
狴犴は白花苧環を促し、睚眦を残して拷問部屋を去る。どれほど冷酷に映ろうと、これは宵街を守るために必要なことだった。
暗い石段を跳びながら駆け下りて病院へ飛び込んだ椒図に、待合室でゆっくりとミルフィーユを貪っていた蜃と獏は口を開けたまま固まってしまった。受付で黒色蟹の応対をしていた姫女苑は悲鳴を上げる。バスケットを提げて自分の足で出て行ったアルペンローゼが口元を真っ赤にしてぐったりと意識を失っている。悲鳴を聞き付けたラクタヴィージャも慌てて奥から暖簾を上げて顔を出した。その肩に掴まって薬の調合に使用している植物が入った袋を握っていた小さな花魄も息を呑む。
「どっ、どうしたの!?」
「敵か!? 椒図に怪我は!?」
「狴犴の所為!?」
「か、蟹さん! 早く避難を!」
「てんやわんやだわ!」
口々に声を上げる一同に順に答える時間が惜しく、椒図はラクタヴィージャにアルペンローゼを突き出し、皆に聞こえる声で叫んだ。
「ラクタ! 彼の治癒力を見てほしい! 治療もしてほしい!」
「わかったわ!」
釣られてラクタヴィージャも叫び、受付のカウンターを跳び越えた。
「口の中を見てほしい。歯を抜かれたんだ」
「科刑所で何があったの……?」
アルペンローゼの口内を覗き、歯を確認する。カウンターの中からガーゼの束を差し出す姫女苑から数枚受け取って血を拭う。
「抜かれたって、ついさっきなのよね?」
「ああ」
「もう生えてきてるんだけど……。獣でもここまで早いのは稀よ?」
「科刑所で見た時とは変わらないみたいだが」
「歯の成長が一旦止まった? 傷を塞ぐために少し生えただけかな。それとも少しずつ段階的に治していくのか……とりあえず口を濯ぐわ。他に負傷は?」
「手指と脚を折られたはずだ」
「何をしたの?」
治療室へ誘導しながら、ラクタヴィージャはアルペンローゼの手袋を外す。確かに指がおかしな方向へ曲がり、腫れ上がっている。
「浅葱斑と話すために、狴犴が拷問を……」
「拷問!?」
「アルペンローゼの治癒力を見るためじゃないかと……」
「はあ!? 遣り過ぎよ! 変転人なのよ!? 後で一発殴って来るわ!」
珍しく顔を顰め、ラクタヴィージャは毒突きながら椒図と共に治療室へ入った。獏と蜃は腰を浮かせ、廊下の向こうを覗き込む。
「今は花街からの客人がアルペンローゼしかいないから、彼に拷問したってこと……?」
「椒図、怒ってたな……椒図は拷問を受けたことがあるし、あれだけ怒るってことは、相当理不尽だったんだろうな……」
「アルペンローゼが何か企んでる悪い人だったとしても、僕は彼の肩を持つね。狴犴とは意見が合わないから」
「生きのいい罪人だな」
すぐに狴犴と対立しようとする獏に呆れながら、蜃は席に座った。受付に立っていた姫女苑と目が合う。顔が真っ青だ。
「おい獏。怪我人は医者に任せておけば大丈夫だろ。それより姫女苑の顔面が蒼白だぞ」
「え?」
獏も席につき、受付へ視線を遣る。真っ青な姫女苑と目が合った。
「だ、大丈夫!? 具合が悪いの?」
「ど……どうしましょう……獏様、蜃様……。蟹さんは、傷薬を求めて来たんです……傷が……」
姫女苑の懸念を漸く察した。状況が理解できていない黒色蟹へ視線を遣る。
「軽い擦り傷なので、心配は無用です。手持ちの薬が切れていたので、貰いに来たんです」
黒色蟹はまだ事態を把握していない。花街から持ち込まれた未知の病のことは、まだ周知されていない。
未知の病は現時点では傷を介して感染すると推測されている。譬え些細な擦り傷だろうと傷は傷だ。感染する危険がある。無色の変転人の最年長であり実力も申し分無い彼が感染し発作を起こせば、どれほどの被害が発生するか考えたくもない。
「レオさん! 今すぐ入院だよ!」
「入院? 只の擦り傷で入院を勧められたことはありませんが。それにこれから仕事があります。合間を縫って来たので」
「仕事なんて断って!」
「それはできません。信用第一です」
「信用と体調、どっちが大事なの!?」
「体調……? 僕の仕事の姿勢に対して意見があるなら、予約を入れてください。普段は一件しか予約を受け付けませんが、話だけなら特別に予約を入れておきます。先約の仕事が終わったらまたここに来ればいいですか?」
「仕事後じゃ遅いんだって!」
「……時間が押してますね。薬は後で貰います」
黒色蟹は頭を下げ、掌から黒い傘を抜く。
転送できることをすっかり失念していた。獏は床を蹴るが、その手が届く前に黒色蟹は無駄な動きを一切せず姿を消してしまった。最年長の彼は、最短で転送できる傘の使い方を熟知している。
「ああいう協調性の無い奴が被害を広げるんだな」
黙って見ていた蜃は乾いた笑いを浮かべた。
「真面目なだけなんだよね……」
「病院の外に立入禁止と注意書きした方がいいんでしょうか……」
「それはやめておいた方がいいんじゃないかな。治療はしてあげないと。今のはタイミングが悪かっただけだよ」
姫女苑を落ち着かせ、とりあえずアルペンローゼの治療が終わるのを待つことにした。黒色蟹が何処へ行ったのか誰も知らないため、追うことはできない。もし黒色蟹に感染していれば、狴犴の所為にすれば良い。
「蜃はアルペンローゼのこと、どう思う? 悪い人そう?」
「悪いかどうかはわからないな。ついさっきが初対面だぞ、俺は。ミルフィーユは文句無しに美味いが」
「食べた分くらいは味方してあげたいよね」
「確かに……味方しておけばまた何か食べられるかもしれないな」
「清々しい現金さだね」
アルペンローゼが残していったミルフィーユはもう一欠片になってしまった。最後の一口を放り込み、蜃は満足そうに椅子に凭れる。あまりに美味しくて椒図の分も食べてしまった。
「そう言えば君の検査はどうなったんだ? いつの間にか戻って来て隣で喰ってたが」
「採血はしたよ。後は結果待ち。感染してなかったら牢に戻るよ。クラゲさんを置いて来ちゃったし」
「ふぅん」
それ以上は会話も無く、二人は受付の姫女苑を眺めて治療室のドアが開くのを待った。姫女苑は手元に視線を落とし、忙しそうにカルテを書いている。未知の病に怯えながらも彼女は気丈だ。
無言の時間が幾らか過ぎた頃、治療室のドアが開いて細長い台車が顔を出した。獏と蜃も身を乗り出して廊下へ顔を出す。手指と脚に添え木を当てて軽く縛っただけのアルペンローゼが台車の上で目を閉じていた。まだ意識は無いようだ。台車の上には小さな花魄も座っている。続いて台車を押すラクタヴィージャが姿を現し、その後ろから頭に氷の入った袋を載せた椒図が出て来た。
「椒図……? 頭を打ったのか?」
蜃は台車の前に飛び出し、不安そうに椒図の緑頭を見回す。包帯は巻かれていない。
「ああこれね」
台車を止め、ラクタヴィージャは小さく溜息を吐いた。
「頭に血が上ってるみたいだから、冷やしてるの。充分冷えたら退院していいわよ」
どうやら怪我をしたわけではないようだ。蜃は胸を撫で下ろし、だが椒図がここまで怒るのは珍しいと様子を窺う。椒図は伏せていた顔を上げ、見上げてくる不安そうな大きな瞳と目が合った。
「……心配させた。すまない。自分が拷問されるより、見る方が辛いんだな」
「自分が拷問される方が辛いだろ……」
またわけのわからないことを言っている。蜃は呆れながら台車に道を譲った。
獏も背後から顔を出し、アルペンローゼの簡易な治療に首を傾げる。
「折れてるのに、石膏で固めたりしないの?」
「治癒力がどの程度高いか見ようと思って。頻繁にレントゲンを撮るつもりだから、その度に石膏を外すのは大変なの。そうそう、また少し歯が伸びたわよ。速度は一定じゃないみたいだけど、この様子なら早くて一日、遅くても二日で元通りになると思うわ。一番時間が掛かりそうなのは脚ね。骨が太いから。まだくっ付く気配が無いけど、順に治癒していくのかもね」
「すぐに目を覚ます?」
「それは彼次第ね。今日中には覚ますと思うけど、疲れてたら明日になるかも。アルペンローゼの傍には分身体を居させるわ。私は科刑所に行って狴犴を殴って来る」
「あ、本当に行くんだ」
「勿論」
口元は笑っているが、ラクタヴィージャの目は笑っていなかった。狴犴が痛い目に遭うようなので獏も気分が良くなった。
律儀に頭に氷を載せる椒図を待合室に座らせ、獏達は台車を押すラクタヴィージャを見送る。台車に乗っている花魄が楽しそうに拳を振り上げていた。花魄も罪人なので、狴犴が怒られるのは気分が良いのだろう。