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146-発作と花と苺と


 目を開けると、白い天井があった。ぼんやりとする頭をゆっくりと横へ向け、机に黒い物を見つける。それは大きな鳥の嘴のようで、黒いそれは鴉のようだった。

 それを見て確信する。夢を見ていたのではなく、これは現実なのだと。

 徐に体を起こして布団を剥ぎ、辺りを見回す。小さな病室には彼以外誰もいないようだ。ドアの向こうにも気配は無い。

 手足に枷も無く、縛り上げられているわけでもない。

 記憶を手繰り、何があったのか思い出した。花街(はなまち)の封蝋が捺された手紙を読んで、動揺と困惑が襲った。複数の獣に囲まれ、死刑を執行されるのだと思った。花街での死刑はどんな極悪人が相手であろうと死刑の理由を丁寧に説明するものだが、宵街(よいまち)の規則ではどうだか彼は知らない。生きていると言うことは、まだ猶予はあるようだ。

(何故僕は……わざわざ宵街で死刑に……?)

 尋ねたい相手はもうここにはいない。いるだろう花街にも戻ることができない。

 暫く眠って少し冷静になった。冷静な頭で何故こんなことになったのか考える。

(僕が本当に病気なら、花街で伝染しないよう隔離した……? 診療所には最近行ってないが……医者なら何か勘付ける? もし先生が隔離を提案したなら只の病気じゃないのか……宵街の医者も未知だと言っていた。だが病気なら……治れば戻れる……? ……いや、既に死刑を宣告されたんだ、僕の居場所は無い……。でも鐘の音も無く死刑が決まることがあるのか……? 僕に聞こえなかっただけか? アナとフェル様も……鐘を鳴らしたのか……)

 死刑を下す六つの鐘は、六つ全てが鳴ることが条件である。あれは多数決の鐘ではない。譬え鳴らない鐘が一つだけだったとしても、たった一つ鳴らない鐘があるなら死刑は執行されない。

「…………」

 一人で考えても限界がある。先程――どの程度眠っていたかはわからないが、手紙を見てすぐに武器を出してしまった。あの時の判断は間違っていなかったと思うが、尚早だったかもしれない。手紙の他にも宵街に何か情報が残されているかもしれない。まずは自分の身に起こったことを知ることだ。

 横目で黒いマスクを見下ろし、仕方なく手に取る。嘴の先に入れられた花はまだ香っている。発作を抑える物だそうだが、本当に効果があるのか定かではない。信用できない。だが自分の記憶に空白があるのは事実であり、医者が言うのなら今はマスクを被る。もし何も効果がないなら、これほど滑稽な姿もないだろう。

 マスクを被ると嘴が邪魔で下方が見難い。動きを制限する目的もあるかもしれない。通気性もあまり良くなく、激しく動き回ることを阻止しているのだろう。走れば呼吸が苦しそうだ。

(……そうだ。浅葱斑(アサギマダラ)……フェル様の友人なら何か……いや、酒を盛った僕に言うことなんて何もないだろ……)

 アイトワラスが言い出したちょっとした悪戯だったが、こんなことになるとは思わなかった。酒を出していなければまだ希望はあったかもしれないのに。

(アイト様は何も考えてない……ただ面白がってるだけだ)

 それでも命じられれば聞くしかない。変転人の悲しい性だ。

 アルペンローゼは頭を抱え、もう充分冷静に考えたとベッドから降りた。一刻も早く少しでも情報を集めるべきだ。ただ黙って宵街に殺されるのは御免だ。

 意志を固めてドアを開けて勢い良く一歩を踏み出し、黒い何かに嘴が刺さった。

「!?」

「あっ、ごめん!」

 ドアの前に気配は無かったはずだ。アルペンローゼは反射的に跳び退き、掌に指を掛ける。

「驚かせるつもりはなくて……」

 黒い物は動物面だった。眠る前に最後に見た顔。その特徴的な長い鼻に嘴が当たった。互いに前へ突き出しているのでお互い様だろう。動物面の首には先程は無かった重そうな首輪が嵌められている。

「怖がらせるといけないから気配を消してたんだけど、逆に驚かせちゃったね……」

「何ですか……」

「様子を見に来ただけだよ。僕もさっき起きたから、帰るついでにね。具合はどう? 快眠だったと思うけど」

「最悪な気分です」

「気分じゃなくて具合……まあいっか。今の反応速度を見るに元気そうだし。後はラクタに任せるから、じゃあね」

 逆撫でしないよう(ばく)はドアを閉めようとし、アルペンローゼは慌てて距離を詰めた。彼を殺すわけではなく眠らせた獏なら、話ができるのではないかと。アルペンローゼがドアを手で押さえると、獏は訝しげに手を離した。

「浅葱斑に会わせてください」

「アサギさん? それはちょっと……君は危険だって聞いてるし。お酒が入ったケーキを食べさせたんでしょ?」

「では今度は酒の入ってない菓子を用意します。これでいいですか」

「反省してるようには見えないなぁ。何でアサギさんに会いたいの?」

「浅葱斑は……」

 何か別の理由を用意した方が良いかと考えるが、気が急く余りアルペンローゼはその前に口に出してしまった。

「フェル様の友人だからです」

 警戒する獏の空気が僅かに弛緩する。知人もいない宵街で彼の不安は計り知れない。酒を盛る洗礼を浴びせてしまっていても、花街と繋がる点はそこにしか見つけられなかった。

 変転人が知らない獣に囲まれるのも、並の精神力では耐えられないだろう。彼が獣なら獏ももう少し警戒するが、変転人には同情する。

「……狴犴(へいかん)がどう言うかわからないけど、ラクタには伝えてあげるよ」

 浅葱斑は科刑所の仮眠室にいる。行けば必然的に狴犴にも会うことになる。

「直接ではないんですね」

「ここだけの話、僕は狴犴が嫌いだからね。できる限り顔を見たくないの」

「…………」

 子供のような理由にアルペンローゼは呆れてしまったが、警戒して会わせてもらえないわけではないようだ。

「でもアサギさんはヴイーヴルの殺気でかなり参ってるから、怖がらせるようなら会わせられないよ」

「怖がらせないよう警戒は解きます」

 彼が警戒を解くだけでは、浅葱斑の警戒は解けないだろう。張り詰めた精神を弛緩させるような、親しみを感じる所がアルペンローゼには無い。

「うーん……君は表情が作れるみたいだから、笑顔で接するといいと思うよ。小難しい顔じゃ怖いよ」

「笑顔……こうですか?」

 アルペンローゼは頬の筋肉を上げようとするが、普段は仕事ばかりしていて笑う機会が無いため、ぎこちなく引き攣ってしまう。そもそもマスクをしていれば顔なんて見えないはずだ。それでも獏はマスクの下を見透かして、無茶な提案をしてしまったと苦笑した。

「……あ、そうそう。狴犴は御菓子を食べないみたいだから、お詫びってことなら別の物にした方がいいよ」

「浅葱斑と話せればそれでいいです」

 すぐに話を逸らしてしまった獏に、アルペンローゼも無表情で答える。どうやら笑顔は認めてもらえなかったようだ。突然笑えと言われると難しいものだ。

「狴犴に媚びない所はいいね」

 獏は手本のようににこりと笑い、ゆるりとアルペンローゼを手招く。何が良かったのか今度は認めてもらえたらしい。

「……貴方の所に手紙が届いていたそうですが、他に何かありませんでしたか?」

「ん?」

 白い廊下を歩きながら、時間を無駄にしないようアルペンローゼは質問を投げる。獏は鴉頭に一瞥だけくれ、前方に顔を戻した。

「何もないと思う。僕が聞きたいくらいだよ。何で僕の所に手紙を置いたのかって。確かに僕は願い事を叶える善行をしてるけど、いきなり手紙だけ置かれても叶えられないよ。ちゃんと差出人に話を聞かないと。喰い違うと大変だしね。だから君も、命を狙われる危険は今の所は無いって思っててよ。わけわかんないまま利用されるのは僕も嫌だからね」

「…………」

 その言葉の真偽はアルペンローゼには量り兼ねたが、取り次いでもらえるなら今は機嫌を損ねないようにしようとそれ以上は尋ねなかった。

 一階の出入口脇の受付へ赴き、足音に気付いた姫女苑(ヒメジョオン)は顔を上げる。カウンターの端には小さな花瓶が並べられており、アルペンローゼのマスクに仕込まれているのと同じ紫色の花が挿してあった。小さな花畑のようで微笑ましいが、未知の病を警戒してのことだ。アルペンローゼは彼女の前で発作を起こした。それは彼の記憶には無いが、虚偽だとも言えなかった。

「ヒメさん。ラクタはいる?」

「いますが、花魄(かはく)様と病の治療薬作りを急いでます。試薬を作って呑んでもらうにしても毒になってはいけませんから、慎重に進めてます。アルペンローゼさんには不安な思いをさせてしまいますが、きっと良い薬が完成するので」

「忙しそうだけど……アルペンローゼがアサギさんに会いたいらしくて、狴犴に頼んでもらえないかな?」

「わかりました。声を掛けてみます」

 姫女苑は頭を下げ、奥の部屋へ暖簾を潜った。

 顔の見えない二人は無言で姫女苑が戻るのを待ち、彼女が一人で戻って来たことで先に察した。

「もう少しお待ちください。何を調合するか忘れそうだから、だそうです」

「じゃあ待ってる間、台所を借りられるかな?」

「台所ですか? 構いませんが……患者さんに料理の手を煩わせてしまって申し訳無いです。中々信用してもらえないですね……」

 宵街の者が調理した物を食べるのを拒否し、また食事を作ろうとしていると姫女苑は勘違いしてしまう。だが今回は腹が減ったわけではない。アルペンローゼはマスク越しのくぐもった声で訂正する。

「僕が食べるわけではないです。手土産……のような物です」

「あ、そうなんですね。浅葱斑さんにでしょうか? 必要な材料があれば用意するので、言ってくださいね」

「では苺を。後は台所にある物で足りると思います。バターがたくさん必要ですが、足りなければ声を掛けます。少し時間が掛かりますが、あのケーキを帳消しにしてもらうためには手間を惜しまないようにしないと……」

 変転人達の意識を奪った酒入りケーキを帳消しにするらしい菓子が何なのか、獏と姫女苑は興味が湧いてきた。

「手元が見辛いのでマスクを外します。発作とやらが起こると危険なので、近付かないでください。完全に無意識なら僕には止められないので」

「わ、わかりました。獏様、待合室で待ちましょう」

「うん」

 何を作るのかチーズフォンデュの時のように見ていたかった姫女苑は残念そうにカウンターから出る。代わりにアルペンローゼは中に入り、マスクを外した。

「苺はすぐに取ってきます」

「仕上げに使うのであまり急がなくても大丈夫です」

 仕上げと言うならおそらく生菓子だろう。ケーキでも作るのかもしれない。

 姫女苑は獏にこの場を任せ、急ぎ足で病院を出た。足りない材料を持って来ると言っても、転送の術を持たない有色の変転人に人間の街での買物は不可能だ。宵街の店から分けてもらうのだ。

 急ぎ両手から少し溢れるほどの大きさの籠に苺を詰めて戻って来た姫女苑はそれをカウンターへ置き、待合室に座る獏の隣を一人分空けて腰を下ろす。

 アルペンローゼはすぐにはそれを取らなかったが、手を離せる時に素速く籠を攫っていった。病は本当に感染するのか、そうだとしてどう感染するかもわからないので、口を開かないようにしている。宵街のことは信用していないが、宵街にいる間は従うつもりだ。彼は宵街の中で孤独だ。浅葱斑と会話をするためにも、荒立てない方が良いと弁えている。

 待っている間も病院で働く姫女苑は暇を持て余すわけにはいかない。患者がいるなら気に懸けるのが仕事だ。重そうな獏の首輪に目を遣る。

「獏様の首の具合は如何ですか?」

「ん?」

 獏は白花苧環(シロバナオダマキ)に仕置印を捺され、あまりの激痛に気絶した。一体何時間眠っていたのか、獏は不満そうに眉間に皺を寄せた。

「目が覚めたら首輪が付けられてて気分は良くないけど、痛みはもうないよ。アルペンローゼにはどう思われてるかなぁ、この首輪……。ファッションだと思われてたら嫌だな」

「苧環さんも悪気があったわけではないので……」

「悪気はなくても、正義だったら何をしてもいいって思ってるよね」

 獏は首に触れようとし、重く冷たい首輪に阻まれた。全く邪魔な首輪だ。

 姫女苑はそれに関しては何も言わない。狴犴の許で働く白花苧環に物申すことは、科刑所に意見するのと同じことだ。そんな大それたことは有色の姫女苑にはできない。だが獣との会話で沈黙を落とすのも失礼だ。無理矢理、話を変える。

「獏様がお休み中に苧環さんの検査をしたんですが、感染は無く健康でした」

 獏は仕置印で意識を落とされたことに文句は言っても、怒ってはいない。寧ろ彼を気に懸けている。これは話しておくべきことだと姫女苑は口を開いた。

「それは良かった」

 獏も安堵を浮かべて微笑む。

「ラクタヴィージャ様が分身体を科刑所に派遣して、待機中の無色の方々の検査も行ったんですが、花街へ行った三人は浅葱斑さんを含め健康でした。幸い私も感染してないようです」

「そうなの? 安心したよ」

「……ですが、菫さんだけ感染してました」

「え……?」

「なので菫さんは病院に戻ってもらって、狻猊(さんげい)様にアルペンローゼさんと同じマスクを作ってもらってます。……皆さんと菫さんの違いは何だと思いますか?」

「…………」

 獏は少し眠っていただけだと思っていたが、悪い方へ動きがあったようだ。膝の上に握った姫女苑の手が微かに震えている。今は無事でも、明日は我が身だ。

「……花街まで行った三人が何ともないんだよね……。病院までアルペンローゼを送ったマキさんも何ともない……。スミレさんはアルペンローゼと交戦してるから、その時に何かあった……?」

「ラクタヴィージャ様は傷口からの感染を疑ってます。傷を負わされたのは菫さんだけなので」

「成程……」

「感染者のアルペンローゼさんが傷付けたことによる感染なのか、誰かは関係なくどんな傷でも感染の可能性があるのか、細かい所はまだわからなくて……紙で手を切ってしまったらどうしようと、カルテを持つ手が震えてしまうんです」

 姫女苑はカウンターの奥を見詰めながら硬直し、手だけが震えている。現時点での感染者は無色だけだが、有色の変転人が感染しないとは言い切れない。錆び付いた機械のように恐怖が全身を縛り付けていた。

「ヒメさん」

 獏は姫女苑に微笑み掛け、そっと震える手を取る。両手で包み込むと彼女の震えが和らいでいった。柔らかで温かい手は優しく、安心感を覚える。涙さえ出そうだった。泣いたことなど一度も無いのに。

「手が心配なら手袋はどうかな」

「あっ……」

「有色は手から物を取り出すことはないし、覆ってしまっても大丈夫だから」

 姫女苑には手袋を付けるという発想が無かった。宵街に四季は無く、気温はいつでも適温で防寒対策も必要無く、手袋を付ける者はいない。馴染みの乏しい物だ。言われて初めて選択肢に気付く。とは言ってもそれはすぐに手に入る物ではなく、工房で作ってもらうか科刑所に要望を出す必要があるが、晴れ間のような助言をゆっくりと噛み締めた。

「気付きませんでした。ラクタヴィージャ様に相談してみます」

 照れたように顔を伏せるが、不安はもう浮かんでいなかった。だがもう暫くはそのまま手を握っている。手を離しても再び震えることがないように。その何気無い気遣いを受けて姫女苑は、灰色海月(クラゲ)がとても獏を慕っている理由がわかった。この獣は誰にでも優しいのだろう。

 充分に時間を掛けて安心感を与えてから獏は微笑んで手を離し、徐に立ち上がる。

「それじゃあ、そろそろスミレさんの御見舞いに行こうかな。病室は何処かな?」

「え、あ、菫さんは……二階の左手側の一番奥です」

 同じ感染者を同じ階に、万一発作が起こった時に一階から気付き易いよう二階に固めている。アルペンローゼと黒葉菫(クロバスミレ)は一度交戦しているため、隣室では心配なので少し離している。

「ありがとう。少し様子を見るだけだから、すぐ戻るね」

 姫女苑はもう震えていないが、アルペンローゼの前で一人で待つのは心細いだろう。奥の部屋にラクタヴィージャがいるとは言っても、それはドアを隔てた向こう側だ。

 姫女苑が変転人となって病院で働くようになってから、このような病は出たことがない。来院する者の多くは他者からの攻撃による負傷か事故で、残りは軽度の風邪だ。姫女苑は植物だった頃は植物の罹る病気を認知していたが、病院には病人が訪れないため、人には病が無いのだとすら思っていた。彼女はラクタヴィージャに管理されているので風邪すらひいたことがない。未知の病には底知れぬ恐怖を感じていた。

 カウンターの奥へ目を遣るが、暖簾が視界を遮っているので待合室から台所は見えない。感染者の姿が見えない方が不安は和らいだ。

(悪い人じゃない……と思うんですが……)

 背筋を伸ばして受付番をし、手持ち無沙汰のため出入口へ目を遣る。出入口の近くにある蔦がかさりと揺れた。


「……あれ? 誰もいないのか?」


 出入口からは待合室は死角になる。受付に誰も座っていないので不在を疑われたようだ。

「すみません、います」

 姫女苑は慌てて立ち上がって応対する。

 聞き覚えのある声だったので警戒せず通路へ出ると、腕と頭を押さえ付けられて睨み上げる見知らぬ灰色の少女の空虚な双眸と目が合った。

「っ!」

「悪い、驚かせたな。この変転人、人間を襲ってたんだ。声を掛けたらこっちに向かって来た。だから取り押さえて連れて来たんだが、様子が変なんだ」

 黒いフードを被った赤髪の小柄な少女は、身を捩ろうとする灰色の少女を押さえる手に力を籠める。赤髪の少女――(しん)の後ろには友人の椒図(しょうず)も控えている。

 蜃の手では振り解かれそうなので椒図は手を添えようとするが、その前に灰色の少女は下半身を捻って蜃を蹴り上げた。

「いっ……」

 柔軟な動きで蜃の手から逃れ、灰色の少女は手に小型の銃を生成した。

「きゃああ!」

 銃口が向けられ、姫女苑の全身は縫い止められたかのように硬直してしまう。逃げなければいけないのに足が動かなかった。有色の変転人に戦う武器は無い。恐怖から目を背けるように目まで閉じてしまい、何処か遠くで銃声が聞こえた。

 目を閉じてしまった姫女苑には状況が見えなかったが、灰色の少女が銃を生成した直後、カウンターの奥から鋭い細身の剣(レイピア)が飛来した。剣は銃口を向ける少女の腕に突き刺さり、その勢いのまま彼女は床に転がり血を引き摺る。まるで痛みなど感じていないかのように少女は眉一つ動かさず、手から離れた銃へ手を伸ばした。

 取り押さえようと蜃と椒図も手を伸ばすが、カウンターを跳び越えて現れた大きな鴉に一瞬、目を奪われた。

 鴉はカウンターを蹴り、倒れた一瞬の隙に少女の背中へ踵を突き落とした。彼女の腕から剣を抜き、付着した血を払う。

 蜃と椒図はぽかんと口を開きながら鴉を見詰めた。黒い大きな嘴のようなマスクを被り、髪も服も黒で、鴉であることは間違いない。

「な……何だ君……」

「……感情も思考も目から読み取れない。まるで痛覚も無いような……もしやこれが『発作』ですか?」

 焦る様子の無い落ち着いた声が耳に届き、姫女苑も恐る恐る目を開けた。

「きゃっ……」

 腕から血を流して倒れる少女に蜃と椒図は駆け寄り、取り押さえた。

 赤が付着する剣を提げる鴉が目に入り、姫女苑は漠然と状況を察する。

「あ……アルペンローゼさん……」

「発砲する前に気付けて良かったです。生地を寝かせている最中で手が空いていたので、マスクを被ってました」

「ありがとうございます……」

 蜃と椒図は二人を交互に見る。どうやらこの鴉は不審者ではないらしい。

「面識はありませんが、彼女はどうやら当方の変転人のようです」

 灰色の少女の耳には翻訳機のカフスが付けられていた。それは花街の旅行者の証だ。

「これが僕と同じ発作なら、無意識なんですよね? 治療をお願いしてもいいですか?」

「は、はい……」

 姫女苑は灰色の少女が動けないことを目で確認して何とか足を動かし、少し遠回りをしてカウンターへ向かった。助けてもらったとは言え、武器を持つ人に接近するのは怖かった。

 受付横のドアを開ける前に奥の部屋からラクタヴィージャが飛び出し、勢い良くカウンターに身を乗り出す。

「ちょっと! 何の騒ぎ?」

「ち、治療をお願いします」

 ドアから手を離し、姫女苑もカウンターへ駆け寄る。

「こいつの様子がおかしいんだ」

 灰色の少女を連れて来た責任として、蜃と椒図は彼女を取り押さえながら口を開く。鴉のような謎の人物は気になるがそれは後だ。

「人間を襲っている所を見掛けたんだ。鴟吻(しふん)に人間の街で気に懸けておいてほしいと言われたんだが、挙動のおかしい変転人とは、この変転人のことでいいのか?」

 ラクタヴィージャは血の付いた剣を手に佇むアルペンローゼを一瞥し、組み敷かれて踠く灰色の少女へ駆け寄った。

「発作を起こしたのね……止めるにしても容赦無いわね。また台所で何か作ってるし」

「あの鴉は何なんだ?」

「治療するから説明は後よ。……この人、脚の関節が外れてるわね。激痛でしょうに……」

「やっぱり外れてるのか? かなり体が柔らかいと思ったんだが」

「発作を起こすと痛覚も麻痺するってこと……?」

 蜃と椒図に手伝ってもらい、灰色の少女を治療室へ引き摺って行く。関節が外れ相当な痛みがあるはずなのに、眉一つ動かさず逃れようと踠いている。最早人の動きではなく不気味な人形のようだった。

 治療室のドアが閉まるまで見送り、アルペンローゼは剣を掌へ仕舞う。台所へはカウンターを跨がず、横に備え付けられているドアから入った。

 姫女苑はまだ呆然としながら、床に散った血を拭く気力も無く椅子に座り込むことしかできなかった。病院はいつからこんなにも危険な場所になってしまったのだろう。


     * * *


 窓の無い白い廊下を歩いて黒葉菫のいる病室の前に立った獏は軽くドアを叩く。返事を待つが、先にドアを開けられた。

 ドアを開けた黒葉菫は至極色の頭を下げる。彼は疲れた顔でドアに手を掛けたまま離さなかった。

「スミレさん、大丈夫?」

「……駄目です。俺に近付くと危険です。いつ発作が起こるかわからないので」

「ちょっと御見舞いに来ただけなんだけど」

「なら、もう戻ってください」

 頭を下げて素っ気なくドアを閉めようとするので、獏は無言で足を掛けた。ドアが動かなくなり、黒葉菫は困ったように暗い顔を上げる。

「……まだ何かありますか?」

「具合、悪い?」

「……いえ。発作以外は変化が無いようです」

「発作は起こした?」

「いえ。記憶の空白が無いので、まだ起こしてないと思います」

「スミレさんもマスクが届いたら安心するよ。獣は君が思ってるより頑丈でしぶといし。僕もそう」

「いえ……獣を侮ってるわけでは……」

 獏は微笑み、黒葉菫の背後を覗く。彼は進路を塞いで体を退けようとせず、中へ入れさせないようにしている。

「顔色が悪いよ。最近あんまり眠れてないんじゃない?」

「…………」

 図星だ。アルペンローゼに襲われて負傷した日から黒葉菫はあまり眠れていない。負傷は初めてではないが、傘を破壊されたのは初めてだった。以前、地下牢に侵入した時に白花(シロバナ)曼珠沙華(マンジュシャゲ)に重傷を負わされたが、あの時は意識が朦朧としていたということもあってか、逃げる手段を奪われた今回の方がより濃く恐怖を感じた。鮮明な意識の中で手足を捥がれるような恐怖は脳に強くこびり付いた。

「安眠氷砂糖をあげるよ。安心してぐっすり眠れる飴なんだけど、椒図との共同製作なんだ」

 笑顔を作りながら小袋を取り出し、黒葉菫の前に差し出す。獏がそう言うのなら、本当にぐっすりと眠れそうだ。

「それは……いいですね……」

 黒葉菫は小袋を受け取ろうとし、突然視界がぼやけるのを感じた。目を閉じるのではなく、色が抜け視覚が消えるような感覚だった。

「っ!」

 獏は手を引こうとしたが間に合わず、黒葉菫の掌に覗いた銃口から弾丸が放たれ、指先を掠った。小袋が床に落ちる。

 指は飛ばなかったが赤い滴が伝い、獏は奥歯を噛んで痛みを隅へ遣り彼の腕を掴んだ。腕を引いて足を払い、床に押さえ付ける。掌から銃を完全に出さずに発砲できるなんて知らなかった。完全に油断していた。彼の武器が銃だと知らなければ手が吹き飛んでいたかもしれない。

「……スミレさん、眠って」

 耳元で囁くが、黒葉菫は足掻こうとして眠る気配が無かった。起き上がれないよう押さえ付けているが、無理矢理逃れようとする。

「駄目だよスミレさん! 骨が折れる!」

 無茶な動かし方をしようとする。発作とはただ無意識に暴れるのではなく、危険な体の使い方をするらしい。このまま取り押さえるだけでは彼の体が壊れてしまう。

 獏は病室の中を見渡し、ベッドの横の机に紫色の花が飾られているのを見つけた。

(あれは……発作を抑える花!)

 黒葉菫の体を押さえて反動を付けて花へ跳び、黒葉菫も直ぐ様体を起こして捻りながら掌からフリントロック式の銃を完全に抜く。動きが変転人ではない。襲撃を掛けたアルペンローゼもこの動きをしていたなら、黒葉菫はよく彼に弾丸を当てられたものだ。感心しつつ獏は毟り取るように花を掴み、すぐに手を引く。一瞬前まで手があった位置を弾が穿ち、花瓶が砕けた。

 一瞬でも止まると撃たれる。獏は床を蹴り、銃に追い付かれないよう病室を駆けて再び黒葉菫の許へと戻る。接近する程に的が大きくなり弾が掠るが、最後は腕を一本犠牲に、彼の顔面に花を叩き付けた。

 勢い余って黒葉菫の頭は壁に叩き付けられたが、痛みなど感じていないように表情を変えない。

 花を押し付けたままもう一度体を押さえ付け、徐々に彼の体から力が抜けていく。壁にずり落ちた彼を、獏は肩で息をしながら見下ろす。変転人に息を乱されるとは、白花苧環に初めて会った時のことを思い出す。

 獏は黒葉菫が動かないことを確認してベッドへ運んだ。花はそのままにベッドから離れ、撃たれた腕を押さえる。腕に弾が当たった時から黒葉菫の動きは少し鈍くなっていた。鈍いと言っても通常の変転人よりは速いが、当たって満足したような、そんな揺らぎを感じた。

(これ……不意打ちだと獣でも避けられないな……)

 今回は接近する必要があったため負傷は已む無しだが、不意打ちで獣を襲えば一発は攻撃が通りそうだ。思った以上にこの病は危険かもしれない。

(ラクタに報告しておこ……)

 弾はまだ腕の中に残っているかもしれないが、絆創膏でも貰っておこうと部屋を出る。

 黒葉菫の意識はあるが、呆然として動かない。病の影響なのか、獣の能力で眠らせることができなかったことが気になるが、これもラクタヴィージャに訊いてみようと獏は階段を下りた。同じ感染者であるアルペンローゼは眠らせられたが、あれは発作が起こっていない時だ。

 一階に下りるとこちらもまた何かあったようで、白い床に真新しい血痕がある。辺りを見渡し、姫女苑が待合室でへたり込んでいるのを見つけた。

「ヒメさん、何かあった?」

「ば……獏様……」

 俯いていた姫女苑は力無く顔を上げ、獏の袖が濡れていることに気付いた。

「獏様、その腕は……」

「スミレさんが発作を起こして撃たれちゃった」

「え!? だっ、大丈夫なん……あっ、も、もう少し距離をお願いします!」

「距離? ……このくらいでいいかな」

 彼女に近寄ろうとしていた足を後ろへ、獏は受付のカウンターまで下がった。

「ラクタに報告したいんだけど、呼んでもらえるかな? まだ調合が忙しい? 絆創膏も貰いたいんだけど」

「撃たれたとは、銃ですよね……? 絆創膏では心許無い気がするんですが……。ラクタヴィージャ様は治療室です。蜃様と椒図様が、発作を起こした変転人を連れて来まして、治療中なんです。獏様のことは私から伝えるので、獏様はもう少し……距離を」

「まだ離れるの? 病院から出ちゃいそうだけど」

「傷から感染するんじゃないかとラクタヴィージャ様が……」

「あ、そっか。言ってたね。僕が感染したら大変だもんね。烙印があるからそんなに暴れられないと思うけど」

 どうやら一階でも騒動があり、血痕はその結果のようだ。獏は治療室の方を一瞥して出入口まで下がり、姫女苑は治療室へ駆け込む。ラクタヴィージャに声を掛けると彼女はすぐに顔を出し、蜃と椒図もひょこりと顔を出した。

「おい獏、変転人に遣られたって本当か? 笑えるな」

「蜃、笑い事じゃない」

 揶揄うが椒図に窘められ、蜃はややばつが悪そうに口を閉じた。

「話を聞いたんだが、変な病が流行っているそうだな。黒葉菫も閉じておいてあげよう」

 椒図はラクタヴィージャから黒葉菫の病室を聞き、杖を持って一人で階段を上がった。

「閉じるって? まさか殺さないよね?」

 獣を傷付けた所為で処分されるのだろうかと獏は焦ったが、ラクタヴィージャも治療室から顔を出して笑う。

「殺さないわよ。発作を起こしても好きに暴れないように空間を閉じてもらうだけ。狻猊にマスクを作ってもらうまでの一時的な処置よ。獣に感染するかはまだわからないから、獏も治療したら検査を受けてね。獣の方が耐性が強いから獏が感染しなかったら安心だし、感染したら……大混乱ね」

「何か面倒なことになっちゃったみたいでごめんね。スミレさんがあんなに動けるとは思わなくて。いつもは本気じゃなかったってことなのかな。僕の力も効かなくてびっくりしたよ。発作を抑える花が部屋にあったから、顔に押し付けて何とか鎮圧できたけど」

 以前彼は半獣の白花苧環と手合わせをして呆気無く組み敷かれていたが、先程のように動けるなら白花苧環にも攻撃を入れることができたか、躱すことができただろう。謙遜するようなものではない。

「力が効かない……? どんな力が効かなかったの?」

「眠らせようと思ったんだけど、全然眠ってくれなかった」

「……もしかして脳が支配されてる……? 睡眠は脳に関係してるし、痛覚を感じないのもそうよね。体の使い方が無茶苦茶で脱臼するし……動きに関しても、制限を取っ払われてるのかも……?」

「え……支配って、渾沌(こんとん)みたいな……?」

「獣の力は感じないから獣の仕業じゃないと思うけど、こんな病が自然発生するかな……? 後で参考に鉄線蓮(テッセンレン)に訊いてみるわ」

「そう言えばレンさんは病院にいないの?」

 白色鉄線蓮はまだ療養中で、病院で生活していたはずだ。

「病院の近くに家を作ってもらったから、そっちにいるわよ。花街から使者が来たって連絡を受けたから、病院から一旦離れてもらったの」

 それなら彼女も感染の心配は無い。病院の近くなら、体調に変化があった時でも安心だ。

 ラクタヴィージャは話しながら獏を待合室に座らせ、上着を脱がせる。袖が傷を擦って獏は顔を顰めるが、彼女は構わずに上着を引き剥がした。中の服は袖の釦を外して捲り上げる。

「これを絆創膏で済ませるのは無理があるわよ。そこそこ大きい弾を撃ち込まれたわよね? これたぶん骨も削ってるわよ」

「そう? 骨はまあいいや。傷口を塞げれば」

「適当よね……獣は。痩せ我慢してるのが顔に全部出てるのに。中に弾の破片が残ってないか調べて、太い針で縫合しようかな」

「え、やだ……痛そう……。僕は金属片が食べられるし、弾の破片があっても問題無いよ。絆創膏がいいよ、絆創膏」

「食べられるのと体に撃ち込まれて平気なのは違うと思うんだけど」

 未知の病に感染した患者が増え、銃弾を一発喰らった程度の獣一人に時間を割くのは勿体無い。ラクタヴィージャは獏の望み通りに傷を消毒し、止血用の大きな絆創膏を貼った。骨はその内修復されるだろう。

「もし感染してたら、獏は獣だし少し痛くしても大丈夫よね?」

「え? 何の確認……?」

「貴重なじっ」

 ラクタヴィージャは慌てて口を閉じて言い直す。

「病を調べることと薬作りに役立ってもらうわ」

「今、実験って言い掛けなかった?」

「大丈夫よ、獣はちょっとやそっとじゃ死なないわ」

「! こ、怖いこと言わないでよ!?」

「狴犴も許可してくれるはず」

「許可しそうだけど! 痛いのは嫌だよ!」

 空間を閉じて戻って来た椒図が視界に入り、獏は急いで彼に駆け寄り背に隠れた。化生して少年の姿になった椒図は以前より少し身長が低くなったが、獏よりはまだ高い。

「ラクタが変なことしそうになったら閉じてよ、椒図!」

「何の話だ? 何を閉じるんだ?」

「ラクタが動けないように! 僕を実験体にしようとしてるんだよ!」

「実験?」

 何の話か把握していない椒図は困惑して蜃へ視線を向けるが、蜃は肩を竦めた。あまり重要な話ではないのだろうと椒図も適当に遇う。獏にとっては一大事の話だったが、詳細を聞けば椒図も彼女に賛同するかもしれない。病の解明に役立つなら協力すべきだとか何とか。

「おい獏。椒図を巻き込むな」

「僕は構わないが」

「構わなくない!」

 蜃は獏の動物面の下の露出している頬を掴み、左右へ振り回した。椒図は笑顔で見守る。満更でもない。

 巫山戯ている三人を尻目にラクタヴィージャはカウンターに並んでいる紫色の花を一束持って戻る。

「マスク作りは菫の後になるから、獏のお面の鼻に花は詰められる? 万が一のために検査が終わるまで入れておいてほしいんだけど。もし発作を起こしたら洒落にならないから。獣は」

「鼻は空洞になってるけど、まさかそういう使われ方をされる日が来るとは思わなかったよ……」

 獏は揺さ振られながらも答える。面を作った狴犴もそんなことは想定していなかっただろう。

「この花は宵街で使用する麻酔薬に調合する一つなんだけど、この花でちゃんと発作が抑えられることがわかったから、少し気が楽になったわね。獏の鼻にもたくさん詰めましょ」

 言い方が可笑しかったのか蜃が笑い出したが、手を離してくれたので獏は笑わせておいた。


「――取り込み中、失礼します」


 軽く指でカウンターを叩く音が意識を引き付ける。マスクを付けたアルペンローゼが顔を出し、持っていた皿を置いた。

「僕も早く会いに行きたいので、宵街の方の口に合うか味見してもらってもいいですか?」

「完成したんだね。何を作ったの?」

 ラクタヴィージャの手を押さえ、獏は興味津々で皿に目を遣る。姫女苑も気になるのかちらちらと覗いている。花で発作を抑えられる確証が得られて、彼女は先程より安心していた。

「苺のミルフィーユです。城でも概ね好評なので、これを手土産にしようと思います」

「本格的だね」

 生地から作り、挟んだクリームも手作りだ。かなり手際が良く、作り慣れている。灰色海月も菓子を作るのが好きだが、二人はもしかしたら良き友人となれるかもしれない。

 苺と聞いて蜃も興味が湧いて身を乗り出す。長方形のパイ生地とたっぷりのカスタードクリームが交互に積まれ、苺も挟まっている。そして上にも生クリームと苺が贅沢に載っていた。

「美味そう……」

「じゃあ蜃が味見する?」

「いいのか!?」

 蜃はきらきらと大きな目を輝かせ、初めて見るミルフィーユを見下ろした。夢見る乙女のような顔をしている。先日狴犴から毟り取った金で椒図と行ったスイーツビュッフェには、残念なことにミルフィーユは無かったのだ。

 ナイフとフォークを差し出されて蜃は途惑いながら受け取り、ナイフをミルフィーユに刺そうとして停止した。

「…………」

 ぐしゃりと潰しそうになり、切り方がわからず結局ナイフとフォークを置いて手掴みで頬張った。今度はアルペンローゼが停止してしまったが、マスクに隠れた顔は見えない。だが唖然としている空気を感じた。

「美味い」

 さくさくとしたパイ生地にクリームの上品な甘味が口に広がり、噛めば爽やかな苺が後を追う。幸せそうな少女の顔が見られたアルペンローゼは安堵したが、どうやら少し食べ難いようだ。

「口に合ったようで良かったです。これで会いに行けます」

「会いに? 友達か? おい獏、この鴉は何だ?」

「花街から来たアルペンローゼだよ」

「こいつが噂の花街の……?」

「うん。――そうだ、彼はアサギさんに会いたいそうだから、連れて行ってあげてよ」

 蜃はミルフィーユを頬張りながら面倒臭そうな顔をしたが、自分が手に持っている物を見ると断り切れなかった。そのために獏は蜃に食べさせたのだろう。

「浅葱は何処にいるんだ?」

 蜃が返事を渋っていると椒図が先に応えてしまった。全く椒図は御人好しである。

「科刑所にいるよ」

「げ」

「なら僕が行くよ。連れて行くくらいすぐだ。蜃は待っていてくれ」

 思わず不満な声が漏れてしまった蜃に苦笑し、椒図が同行を買った。蜃はもう罪人ではないが、罪人だった頃の記憶は有している。科刑所には狴犴がいるので行きたくない。椒図も罪人だった記憶を有しているが、狴犴は彼の兄だ。蜃よりはまだ躊躇が少ない。

 ラクタヴィージャもアルペンローゼが出歩くことを許可する。花で発作が抑えられるなら危険は無い。但しマスクは絶対に外さないようにと釘を刺すことを忘れない。

 アルペンローゼは蓋の付いたバスケットを借りて出来立てのミルフィーユを詰め、その間に椒図は花街の情報を分けてもらった。

 準備を終えた鴉頭のアルペンローゼはピクニックに行くようなバスケットを提げ、何とも目立つ格好になった。ピクニックと言えば楽しそうだが、本人は狼に会いに行く気分だ。

「収まらなかったミルフィーユは御自由に処分してください」

 アルペンローゼと椒図を見送った後、蜃は置いて行ったミルフィーユに視線を戻す。蜃は皆の顔を窺いながらも二個目に手を伸ばした。手土産の味は格別のようだ。


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