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145-守るもの


「はぁ、はぁ……はぁ……」

 少女は走っていた。誰もいない暗い夜道をひたすらに。

 街灯も疎らな住宅地に少女の足音と乱れた息遣いだけが響く。

 その後方から音を立てずに、姿勢を低く手にはナイフを握る灰色が迫っていた。

 少女の足はもう縺れそうなほど疲弊しており、呼吸をするだけで精一杯で、声を出すこともできなかった。『助けて』と口を動かす余裕があるなら手足を動かす方へ力を注がなければ、追い付かれてしまう。背後の静かな脅威は冷静さを全て塗り潰すような黒い空気を纏っていた。

 灰色は少女を散々走り回らせた後に、いつでも追い付けた距離を一気に縮めた。何も見ていない虚ろな目で獲物を捉え、灰色は慈悲も容赦も無く、手にあるナイフで少女の首を掻き切った。


     * * *


 温かな色の落ち着いた照明の下、いつもの隅の席で珈琲を飲みながら、ヒナは携帯端末を操作していた。

 外は曇りで喫茶店のステンドグラスの落とす鮮やかな光も朧だ。

 老年の男はカウンターの奥で丁寧に豆を挽き、あまり来ない客の訪れを待っている。

「……最近、人間の街で未解決の傷害事件が多いな。今の所は軽傷のようだが、昨夜の事件は危うく重傷になる所だった。人間の問題なら首を突っ込む気は無いが、狴犴(へいかん)に頼まれてしまったし、少し調べた方がいいかもしれないな」

 視線は端末に落とし、誰もいない虚空に小声を投げ掛ける。店主に聞こえない程の声だが、聞かせる相手には届いている。

『昨夜の件とは、首を切られた件ですよね。頸動脈に届いていれば危うく死ぬ所です。未解決事件は刃物による傷が多いようですが、ただ殴られただけの人もいるようですね』

 ひらりと虚空から落ちた紙切れに書かれた文字を読み、ヒナは頷いて珈琲を一口飲む。

「端末のニュース以上の情報は得られなさそうだな。被害者に共通点は無く無差別のようだが、それなら次の被害の当たりを付けることも難しい。黒葉菫(クロバスミレ)のような被害はその後、変転人の中からは出ていないが、人間の被害がそれに相当するかもしれない」

『変転人も人間も見境無く、ですか。人間の数の方が多いですからね。人間の被害者に接触してみますか?』

「いや。人間は変転人より能力が劣る。ニュースで犯人の情報が何も出ていない以上、被害者に訊いても何も出て来ないよ。変転人なら武器を出して抵抗しようと犯人の姿を見るが、背を向けて逃げるだけの人間に見る余裕は無い」

『そうですね。せめて範囲を絞ることができればいいんですが。千里眼の巡視を続けますが、範囲が広くて私の目だけではどうしても足りません』

「悪いな、鴟吻(しふん)。休みながらで構わない。他の多くの被害に気付けなくなるが、何処か一箇所に絞って、当たるまで観察を続けるのも手かもしれないな。気付かない被害が多くて現実的ではないが」

『私の負担を減らす考えなら、お気遣いなく。らしくないですよ、贔屓(ひき)。その気持ちだけで充分です。――では(ぬえ)にも連絡をするので、失礼します』

「ああ。鵺によろしくな」

 端末を操りながら苦い珈琲を啜り、椅子の背に凭れる。贔屓は狴犴から人間の街の監視を頼まれたのだが、どう動くべきか考え倦ねる。以前の渾沌(こんとん)の件のように獣が暴れているなら宵街(よいまち)が処理に入るが、黒葉菫の話では犯人は変転人だと言う。武器を生成したり身体能力も多少高くはあるが、獣から見れば殆ど普通の人間と変わらない変転人相手に獣が動くべきなのか。変転人が人間に攻撃されたなら保護するために動くが、逆の例を考えていなかった。人間の中で人間同士の争い程度の被害が出るだけなら、わざわざ獣が動かなくとも良いだろう。狴犴は変転人が変転人に襲われることだけを憂慮している。

(これに関しては僕も狴犴と同意見だな。花街(はなまち)の変転人が人間を襲っているんだから、それは花街で処理する案件だ。宵街の変転人に被害があった時だけ動けばいい。それにこちらが花街の変転人に手を出して、花街の機嫌を損ねる方が面倒なことになる。花街の情報は少ないからな……)

 贔屓は博愛だが、無条件で全てを救いたいと思っているわけではない。人間に対しては寧ろ淡白なくらいだ。だが人間を食料にする獣もいるため、無闇な殺戮は許可できない。人間は育つのに時間が掛かるのだ。それに人間の中にはこうして美味しい珈琲を淹れてくれる者もいる。そういったものは守りたい。

 まずは様子を見るしかないが、幸いと言って良いのか、変転人にも人間にも現時点では死者は出ていない。

 手元で流れる画面に続報は無い。未解決事件の犯人が人間でない限り、人間に解決は不可能だ。どの記事でも犯人不明の通り魔として扱われている。渾沌の件とそう変わらない。

 犯人の情報は無いが、色を特徴に挙げている記事が少しある。人間が犯人なら、そこに背格好や性別も書かれるはずだが、それはなかった。余程色が印象的だったと言うことだ。

(色は灰色と黒……無色の変転人を犯人とすると、白だけが目撃されていないんだな。見られていないだけで存在しないとは言い切れないが……)

 思考を続けながらふと顔を上げる。幼い白い少女が向かいにちょこんと座っていた。

柘榴(ザクロ)か」

「手伝いに来てやったの」

 机の端に立てられていたメニューを広げ、白実(シロミ)柘榴は得意気に文字に指を走らせた。

「ほっとけーき」

「読めるようになったのか?」

「ざっとこんなものなの」

 メニューを逆様にして見ていた頃とは見違える程だ。武器の生成も他の変転人に比べて早期に行えた彼女はやはり成長が早い。

「注文してあげるよ。飲み物はどうする?」

「飲むの。くは……くりーむ……ん……?」

「クリームソーダか? 片仮名は似た形があるからな。慣れれば詰まらずに読めるようになる」

「むぅ……」

 訂正され白実柘榴は些か不満のようだが、注文は間違いないようだ。人間の殻を被ったヒナは席を立ち、カウンターへ注文を伝えに行く。

 白実柘榴は生まれてまだそれほど経過していないが、戦闘力は先輩変転人にも引けを取らない。心配があるとすれば、経験が乏しいことだ。贔屓は彼女が来ることを聞いていなかったが、経験を積ませるために狴犴がここへ派遣したのだろう。先の騒動で宵街は多数の変転人を喪うことになった。その穴を埋めるためにも、経験の浅い若い変転人の育成は必須だ。

 店主が仄かな甘い香りを漂わせてホットケーキを焼くのをカウンターで待ちながら、ヒナは端末に目を走らせる。情報の更新が速い現代では、情報収集に休む時間は無い。

「ヒナ君は携帯電話に夢中だね。何か面白いことはあるかな?」

 声を掛けられると思っていなかったヒナははっと顔を上げる。目の前にいるのに会話をしないのは失礼だったと端末を下げた。

「すみません。最近物騒なので、ニュース記事を見てました」

「ニュースか……。確かに最近は物騒だね。この辺りでも不審者が目撃されたことは知ってるかい?」

「不審者ですか? ニュースになってないことなら、知らないです」

「不審者とは言い切れないんだが、ニュースには色の特徴が出ていただろう? そういう全身灰色の人を見掛けたと聞くことがあってね。何かをされたわけじゃないから、事件ではないんだが」

「……それは初耳です。教えてくださってありがとうございます」

「ヒナ君も気を付けるんだよ。この辺りも人通りが少ないからね」

 ただ歩いていただけなら、それは事件ではない。ニュースに上がることはない。花街から旅行に来る者は珍しくないようなので、只の無害な旅行者かもしれない。それでも不安の種が周辺にもあることに、ヒナは睫毛を伏せ端末へ視線を下ろした。この喫茶店は獣から見えないように細工しているが、人間や変転人には視認できる。もし事件を起こすような変転人が周辺に現れた場合、この喫茶店と店主を守りきることはできないだろう。ヒナはよくここに足を運んでいるが、常に居られるわけではない。

「――ヒナ君。注文の物ができたよ。珈琲のおかわりも」

「ありがとうございます」

 ヒナは顔を上げて微笑み、端末をポケットに仕舞った。ホットケーキとクリームソーダ、そして熱い珈琲の載った盆を受け取り、白実柘榴の待つ席へ戻る。事件になっていない目撃情報まで追うとなると途方も無い時間が掛かってしまう。

(宵街の変転人には暫く外出を禁じてもらいたいな……目撃された変転人がこちらか花街の者なのか、ニュースだけでは見分けが付かない)

 白実柘榴の前にホットケーキとクリームソーダを置き、自分の前に珈琲を置いて空のカップを下げながら、ヒナは頭を悩ませた。白実柘榴は考えながら手足を動かすヒナを目で追い、体に慣れればあんなに器用なことができるようになるのだと感心した。

「贔屓。狴犴から話は聞いたの。変転人が謎の変転人に襲われる事件……連続悪戯事件のことを」

 また刑事ドラマの真似だろうか。事件に妙な名前が付けられている。

「私も解決方法を考えてみたの」

「ほう。では聞かせてもらおうかな」

 ヒナも席につき、微笑んで促す。

「私が囮になって犯人を捕まえ」

「却下だ」

「!」

 得意気に話そうとしていた白実柘榴は突然言葉を遮られて唖然とした。

「これは、囮捜査って言うの。贔屓は知らないかもだけど」

「わかっている。その上で却下だ」

「だ、だから、私も変転人だから、狙われるかもしれないし、私だったら返り討ちに」

「自信があるのは良いことだが、過剰にはなるな。相手の力量がわからないのに、自信だけで動くのは無謀だ。相手を知らない内は慎重に、君の見ていたテレビでもまずは情報を収集していたんじゃないか?」

「た……確かに……」

 彼女が人間の街で暮らした時間は僅かだが、見ていたテレビドラマでも情報収集は欠かせないものだった。情報は全ての鍵を握っているのだ。

「まずは情報収集……それから満を持して囮捜査……」

「囮捜査は却下だ。どうしても遣りたいなら、僕が囮になる。人間の姿なら囮として機能するだろ」

「贔屓が美味しい所を持っていくの? 私も遣りたいの!」

「何処で覚えたんだ……これは遊びじゃないんだよ」

「贔屓が死んだら嫌だし……」

 ぼそりと漏らされた一言で、ヒナも口が開かなくなってしまった。彼女が生まれて間も無く、彼女を育てた老夫婦は死んだ。宵街に引き取られた彼女はそこでも多くの死を見ることになった。生まれて一年も経たない内にこんなに多くの死を投げ付けられるのは稀有なことだ。故に死に敏感になってしまっている。

 ここは叱り付けるのではなく、慰める方が良いだろう。ヒナは微笑み、彼女の前のホットケーキを勧める。手を付けないので、上に載っているバターがもう熱で溶けてしまった。

「フ……僕は死なないよ。すぐに死ぬと思われているなら心外だな」

「それは……人間の姿だと弱そうだから……」

「そう見えるよう殻を被っているからな。外見は弱く見えるかもしれないが、本来の力は僕の意思でいつでも解放できる。心配はいらない。それに君はまだ経験が浅い。君は謂わば新人で、導く者が必要だ。僕が指揮を執るのでは心許無いかい?」

「……わからない」

「僕の実力が把握できるようになるまでは、君は新人だな」

「何か舐められた気がするの」

「まずは冷めない内にホットケーキを食べて、アイスが溶けない内にソーダを飲むことを覚えようか」

「凄く舐められてるの!」

 だが正論だ。白実柘榴はナイフとフォークを取り、積まれた二枚のホットケーキを纏めて両断した。シロップを掛け忘れていることに気付き、慌ててぐるぐると回し掛ける。甘い香りが周囲を優しく包み込んだ。

 贔屓や狴犴が目指しているのはこういった平和な風景だが、平和を保ち続けることは難しい。獣の手だけで守りきるのが理想だが、そうも言っていられない現状には辟易する。


     * * *


「御時間よろしいでしょうか?」

 静かな廊下から控え目にドアをノックする。中からすぐに返事が聞こえ、ゲンチアナはドアを開けた。

 調度品の少ない見慣れた部屋に立ち、窓際の机に目を向ける。平素の通り、退屈そうに鉄格子が嵌った窓の外を見ていたフェルニゲシュが、感情の見えない無表情を彼女に向けた。

 彼はいつもこうである。ゲンチアナが人の姿を与えられた日から、彼は自分の感情を面に出さない。何事に対しても冷静で、怒った所は見たことがない。だが穏和とは少し違う気がした。もう三十年以上彼の秘書をしているが、ゲンチアナは彼のことを何も知らなかった。首輪を付けられ自由を制限されていることも、詳しい理由を知らない。

「何だ? 腹が減ったなら前に作ったパプリカーシュ・チルケか……以前覚えたグヤーシュしか作れないが。魔法の粉をたっぷり掛けてやろう」

 グヤーシュは真っ赤なスープである。その赤は辛味ではなく、パプリカの赤だ。

「いえ、王に食事を要求する秘書は秘書失格ですよ。食事ではなく確認なんですが、ここ数日――正確な日数が判然とせず申し訳ないんですが、アルを見ませんでしたか?」

「……見ていない。オレはここから出ていないからな」

「そうですか。御時間ありがとうございました」

 ゲンチアナは深々と白い頭を下げ、踵を返す。特に用があるわけではないが、厨房にもアルペンローゼの姿を見なかったので尋ねに来たのだ。城の従事者が休暇を取る際は仕事に穴を空けることになるので従事者全てに伝達が入るのだが、アルペンローゼはここ数日何の伝達も無いのに姿が見えない。つい最近休暇を取って旅行に行ったばかりだが、無断でまた旅行にでも行っているのだろうか。仕事をすっぽかす性格ではないのだが。

「……アナ」

 ドアに手を掛けようとした所で呼び止められ、ゲンチアナは体の向きを戻す。

「何ですか?」

「近くに来い」

「? ……わかりました」

 フェルニゲシュはゲンチアナを一瞥し、窓外へ目を戻す。外に何かあるのだろうかと、ゲンチアナは言われた通りに彼の傍らに立って窓に目を遣った。

「皆はどうしている?」

 フェルニゲシュの言う『皆』とは権利を持つブローチの所有者を指す。アルペンローゼの姿が見えないなら大公に訊けと言いたいのだろうとゲンチアナは推察する。

「これから大公の皆様にも尋ねようと思ってます。ロク様はまた湖畔でキャンプをしているようですが、アイト様、スコル様、ハティ様は自室です。ヴイーヴル様も帰城し、地下の自室で休養中です」

「……そうか」

 フェルニゲシュの視線の先を追ってみようとするが、外には特に変わったものは見られなかった。そこにはいつもの美しい庭と城壁、遠くに平穏な城下町が広がっているだけだった。

「もしかして、散歩ですか?」

「いや……散歩はいい。皆にはアルのことは尋ねない方がいいかもしれない」

「どういう意味ですか? 何か知ってるんですか?」

「アナは口が堅いか?」

「え?」

 フェルニゲシュは窓からゲンチアナへ視線を上げ、彼女は不思議そうに目を瞬いた。

「……また脱走を考えてるんですか?」

「違う」

「何か考えがあって他言するなと言うなら言いませんが……」

「それなら話そう」

 たった一言で信用されるとそれはそれで責任が重いが、どうせいつもの適当な話だろうとゲンチアナは片膝を床へ突いた。形ばかりの王だが、王に見上げさせるばかりでは失礼だ。王より目線を下げ、静聴する。適当な話であれ、口の堅さを問われたのは初めてだ。

「アルは戻って来ないだろう」

「……? どういう意味ですか? 何処にいるか知ってるんですか?」

「お前はアルと同じ歳だからな。心配する気持ちはわかるが、落ち着いて聞け」

 無意識に前のめりに喰い付いてしまったことに気付き、ゲンチアナは慌てて姿勢を正した。アルペンローゼは確かにゲンチアナと同じ歳で、彼の方が数ヶ月早く変転人となり、その間に覚えたことを彼女は教えてもらった。ゲンチアナが一人で仕事を熟せるようになる頃には互いに忙しく、話すことも少なくなってしまったが、それなりに親しくしていた。心配するのは当然だ。

「ヴイーヴルはアルを連れて出て行った。だがヴイーヴルだけ戻って来た。出発前、アルはオレを訪ねた。二人は宵街の縄張りで起こった事件の調査をしに行った。旅の道中、或いは宵街で何かあったんだろう。不測の事態によりアルが戻らないなら、ヴイーヴルが戻った時点で報告が上がるはずだ。だがそれが無いとなると、ヴイーヴルが報告を忘れているわけでないなら、隠したいと見るべきだろう。おそらく良い結果にはなっていない」

「アルも一緒に行ってたんですか? それはどういう……何故ヴイーヴル様がそんなこと……」

「わからない。だから無知であっても藪を突くな。これは警告だ。アナはいつも通り仕事をしていろ」

「ですが……」

「オレもアルが心配だ。お前はいつも通り過ごし、探るならオレが動く。ブローチを持っているとは言え、お前は変転人だ。力では獣に敵わない」

「…………」

 ゲンチアナは一度目を伏せ、フェルニゲシュを見上げる。適当なことを言っている目ではなかった。そこに感情は籠らないが、無言の圧力は滲んでいる。

「……わかりました。ですが、貴方は自由に動けない身です。必要があれば私が同行します」

「そこは『いつも通り』に含まれる。お前がいない方が不自然だ」

「そうですね」

 不安が僅かに弛緩し、ゲンチアナは口元に笑みを浮かべた。フェルニゲシュはゲンチアナを突き放そうとしているわけではない。

「アナが連れ出されそうな時は、オレの所に来るといい。アルにもその時間はあった。……もっと良い物を持たせてやれば良かったが」

「私も捨てられる可能性があるんでしょうか?」

「無いとは言い切れない。用心するに越したことはない」

「フェル様が無断で外出しない限りは、私も呼び出されることはありません。フェル様こそ用心してくださいね」

「…………」

「そこはすぐに頷いてください」

「……いや、外に出る用があったかと考えていただけだ」

「あるなら私が行くので、フェル様は大人しくしていてください」

 いつも目を離した隙にいなくなるのはフェルニゲシュの方だ。何度花街を抜け出し人間の街で迷子になったか、数え切れない。

「話は終わりだ」

 フェルニゲシュは窓へ視線を戻し、逸らかされたゲンチアナは立ち上がるしかなかった。王に雑務を任せるようなことになってしまいゲンチアナは至らなさを感じるが、獣の藪を突くことは確かに危険だ。首輪が付いているフェルニゲシュに対しては強気でいられるが、他の獣にまでそう接することはできない。

「……では失礼します」

 アルペンローゼは心配だが、状況が不透明な今はいつも通りを心懸けてフェルニゲシュの言葉に従っておく。とは言えアルペンローゼの穴は埋めなければならないので仕事は増えるが。今度こそ踵を返してもう一度深々と頭を下げ、ゲンチアナは王の部屋を後にした。

「…………」

 再び静まった部屋の中で、フェルニゲシュは真っ二つに切られた黒い傘の片割れを取り出す。宵街の使者から受け取った手紙は訳して大公達へ渡したが、この黒い傘は見せなかった。この断面を見ればアルペンローゼが切ったと皆わかるだろう。素行のおかしい変転人が城内にいれば、まず警戒して距離を取ろうとするはずだ。その距離の取り方が想像できなかったため両断された傘は見せなかったのだが、どうやら勘付かれたか他にも違和感があったようだ。

(夜に庭でよく鍛錬をしていたアルの姿を数日見ていない。戻っていないのかとは思っていたが……ヴイーヴルの所に行ってみるか)

 直接アルペンローゼのことは訊かないが、ヴイーヴルがどんな反応をするかは見ておきたかった。

 フェルニゲシュは傘を仕舞って腰を上げ、廊下を確認する。廊下は少々薄暗いが、変わった所もミモザもいない。

 ヴイーヴルの部屋は地下にある。陽射しを嫌い、窓の無い部屋で明かりも殆ど点けずに過ごすのだそうだ。昔はそうではなかったが、フェルニゲシュが彼女を傷付けてからは常に怯えるようになった。

 石の階段を踵が鳴らす音が響く。古城は広いが棲む者は多くはなく、従事する変転人の行く場所は大方決まっている。廊下の掃除をする時間でなければ、誰もいない静かな廊下は多くなる。

 硝子の容器に入った溶けない特殊な蝋燭が灯る階段をひたすら下り、地下の彼女の部屋へ続く階段は一層狭くなる。まるで地下牢のような質素なドアを軋ませて開けると更に暗くなり、もう地上の光も届かない。彼女の部屋は光が射し込まないよう階段が狭く、ドアが設置されている。

 壁の僅かな明かりを頼りに部屋の前へ辿り着き、軽くノックをする。ドアの横の蝋燭が微かに揺れた。

「……誰ですか?」

 中から恐る恐ると言った風に声が聞こえた。フェルニゲシュは一歩下がり、静かに名乗る。

「フェルニゲシュだ」

 その名に慌てたのか、ドアの向こうで何かが転がる音がした。躓いたのだろう。

 待たせずに開けられたドアから、不安そうな三つの目が覗く。

「め、珍しいですね……フェルがこんな所に来るなんて……」

「少しいいか?」

 ヴイーヴルは普通にしていれば美人なのだが、眉根を寄せて目を伏せた。

「何の用でしょうか……?」

 どうやら部屋の中に入れる気は無いらしい。立ち話でも構わないが、早く帰ってくれと言われているようだった。

「宵街での調査はどうなった? 報告が上がって来ないのでな。続報が聞きたい」

「……あ、ああ……調査の件ですね」

 明らかに動揺している。いつものことだと言われても否定はできないが。

 フェルニゲシュが先方に手紙を書いた以上、その結果を話す義務が彼女にはある。ここまで詰め寄られれば話さないわけにはいかない。

「宵街の人は、調査すると言ってくれました……。私も入院中の被害者に会ったんですが、痛ましかったですね……」

「宵街側の調査は進んでいないのか?」

「え? ……あ、ああ……宵街周辺で私も調査しました……」

「一人でか?」

「ひ、一人ですよ……」

「宵街から誰か付かなかったのか? 自由にさせてくれたなら、こちらも誠意を見せなくてはな」

「そ……そうですね……」

「それで、何かわかったか?」

「い、いえ……現場に居合わせられればいいんですが……被害者の証言だけでは、こちらの不始末なのかどうかは……」

「わかった。つまり何も進展は無いわけだな」

「そういうわけでは……」

「休んでいる所、邪魔したな」

「い、いえ……報告することがなくて放置していてすみませんでした……」

 ヴイーヴルは愛想笑いを作ろうとするが、不安がそれを許してくれなかった。不器用な強張った笑みに、フェルニゲシュも無言で応える。

 ヴイーヴルは明らかに何かを隠している。

 フェルニゲシュは切られた傘を大公に見せなかったが、宵街の者は宵街でその片割れを彼女に見せたはずだ。

(……いや、オレが預かった傘を隠していると宵街は知らないはずだな。なら改めて見せないか)

 だが宵街の使者はアルペンローゼの特徴を把握していた。彼女達がヴイーヴルに特徴を話せばアルペンローゼが自然と浮上する。彼女もアルペンローゼを庇っている可能性は否定できないためこれ以上は突かないが、もし庇っているなら味方になれるはずなのにもどかしい。

 ドアを閉める前に、フェルニゲシュはヴイーヴルの額にある特徴的な宝石の瞳を見詰める。

「いつ見ても美しい瞳だな」

「!」

 ヴイーヴルは途端に顔を真っ青にして、慌ててぴしゃりとドアを閉めた。締め出されたような形になってしまったフェルニゲシュは開かないドアを無言で見詰めた後、静かに来た道を戻った。彼はただ視界に入った物に感想を述べただけだった。

 ヴイーヴルは暗いドアを背に肩で息をし、ずるりと力無く座り込む。額の瞳を押さえ、恐怖を滲ませながら暗い床へ視線を落とす。輝く宝石の瞳が覆われると一気に部屋が暗くなった。

(フェルは……何か知ってる……? 警告……? 脅し……? もう一度目を抉るってこと……? 宵街にアルも一緒に行ったことは秘密にして揉み消すってスコルとハティが言ってたから、フェルも知らないはず……あっ、でもフェルの書簡を持って来たのはアルね……? だ、大丈夫……アルはもう戻らないんだから、バレない……)

 黙ってアルペンローゼを置いてきたと言えば、どうなるかわからない。フェルニゲシュの力は抑制されて温厚を保っているが、いつ導火線に火が付いてしまうかわからない。

(フェルは……何も知らない方がいいの……。知らない方が……愚かでいられる……)

 ヴイーヴルは震える体を抱き締めながらベッドへ戻った。先程蹴飛ばしてしまったブリキのコップをもう一度蹴り飛ばしてしまうが目もくれない。以前アルペンローゼが庭で摘んで来た一輪の薔薇を挿していたのだが、それももう枯れてしまった。

(アル……ごめんなさい……)

 王の下に就くなんて、自分には向いていない。そう思いながらヴイーヴルは布団を被って丸くなった。


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