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144-置き手紙


「スコル……ハティ……」

 こそこそと隠れながらも急ぎ足で廊下を歩き、ドアの隙間から少し飛び出た二本の手が招いていることに気付く。

 背後を振り返り、再び前を向く。石造りのしんとした廊下には自分以外、誰もいない。音を立てずに招かれた部屋へ滑り込む。

 そこは使われていない部屋で、物置のような部屋だった。真ん中に埃が被った机とソファが置かれている。床には引き摺った跡があり、彼らが引き摺り出してきたのだろうと推測する。

 狼のような耳と尾を生やした少年少女はくるりと回って客人の手を引き、そっくりな顔でくすくすと笑いながらソファに座らせた。同時にソファから埃が舞って咳き込む。

 夜色の髪に半分ずつの白いブローチを付けた少年少女――スコルとハティは彼女を挟んでソファの背の上に座り、大仰に脚を組んだ。

「ねえねえヴイーヴル、どうだった?」

宵街(よいまち)は面白い所?」

 左右から覗き込んで見詰められ、客人のヴイーヴルは不安な三つの目を伏せた。

「こ……これで良かったんですか……?」

「良かった良かったよ。悪い芽は摘むに限る」

「世話係はもういらない子」

「でももう彼の作ったスイーツや料理が食べられないんですよ? うぅ……ミルフィーユが食べたくなってきました……」

 スコルとハティは顔を見合わせ、呆れたように肩を竦める。確かにアルペンローゼの腕は良く、スイーツも料理も虜になるほど美味しいが。

「ヴイーヴルは良い子良い子!」

「ミルフィーユが無ければ買えばいいじゃない!」

 二人はヴイーヴルの頭を撫でてけたけたと笑う。

 ヴイーヴルはアルペンローゼを連れて宵街へ行き、一人で花街(はなまち)に戻って来た。スコルとハティにそうしろと言われたからだ。当初ヴイーヴルは半信半疑だったが、宵街で話を聞く内に認めることになった。――アルペンローゼはおかしいと。

「あの世話係は変になっちゃった」

「だから秘書が被害に遭う前に駆除しないと」

「アルはどうなるんでしょうか……」

「宵街が混乱するか」

「ぽいっと捨てられるだけだよ」

 二人は何でもない風に笑うが、ヴイーヴルは気が重い。彼の作ったスイーツや料理がもう食べられないこともだが、何も言わずに置いて一人で帰ってしまったことに罪悪感がないわけではない。彼は変転人となってから今までこの花街の古城に従事し、獣のために働いてくれた。

「あんなに仕事のできる変転人、次また作ることができるのか……」

「いつも遣ってきたことだから」

「慣れたものだよ」

 スコルとハティはヴイーヴルの頭を子供のように撫で回し、くすくすと笑う。

 幾ら勘が鈍くとも、アルペンローゼもそろそろ自分が捨てられたと気付くだろう。

 罪人の死刑と同じく切り捨てることを厭わない――それが花街だ。


     * * *


(ばく)は牢へ戻れ。灰色海月(クラゲ)は症状が現れたら連絡しろ」

 再び不意に仮眠室のドアを開けた狴犴(へいかん)は、ソファの近くに溜まっている獣達に向かって声を上げた。表情は冷静を保っているが、声には苛立ちが滲んでいた。

 獏の返事を待たずにドアは閉まるが、部屋から出ないと今度は(いん)で引っ張り出されそうだ。

「僕に頼んだ癖に、応援が来たら用済みなんて酷いなぁ。クラゲさんはまだ回復してないのに」

「牢に居た方が安全かもしれないな。ここは俺達に任せて、獏は罪人らしく帰ればいいよ」

 蒲牢(ほろう)も狴犴に賛同し、(みずち)も頷く。

「そうですね。何かあれば連絡するとして、集まっている必要は無いですし。罪人さんは気にすることないですよ」

 宵街のことは気にせずいつも通りにしていろと言われても、多少落ち着きはしたが灰色海月の具合も良いとは言えず、善行をする状態ではない。

「あんまり長居してたら狴犴に怒られるから行くけど……」

 襟に隠れた烙印に手を遣り、獏は渋々とソファから立ち上がる。烙印を捺された罪人は反抗できない。

 それとは別に、また黒葉菫(クロバスミレ)のように助けを求めて手紙を投函する者がいれば、放っておくわけにはいかない。

「……送ります」

 ベッドからか細い声が聞こえ、獏達は首を回した。幾らか気分は良くなったがまだ疲労が滲む顔で、灰色海月が重い身を起こしていた。

「無理しなくていいよ。気分はどう?」

「問題無いです。私は監視役なので」

「気分は? 正直に言って」

 質問に答えないので、もう一度問う。

 灰色海月は顔を伏せ、嘘を吐きたかったが逆らうこともできず、沈んだ声で答えるしかなかった。

「……まだ少し……指先が震えます。でも、気分は大分良くなりました」

 蒲牢の歌が効いているようだ。俯いているが、目の焦点は合っている。会話もできている。確かに最初よりは具合が良くなっている。

「わかった。街にはベッドもあるし、休む場所が変わるだけって思えばいいね」

「手紙の回収もできます」

「それはもう少し待とうか。僕が口出しできることじゃないけど、せめて目を合わせて話せるようになるまでは、ね?」

「…………」

 灰色海月は俯きながら不安げな目を閉じ、渋々といった様子で小さく頷いた。ヴイーヴルの殺気の所為で、他の獣に対しても少しの恐れが出るようになっている。今は獏とすら目を合わせることが難しい。そして罪人と言えど獣には逆らえない。――いや、獏だから逆らえない。愛想を尽かされて置いて行かれたくない。

 獏は彼女の前に踊りを申し込むように穏やかに手を差し出し、灰色海月はゆっくりと手を置く。優しく手を握られた瞬間、止まらなかった震えが止まった。指先から全身に温かい血が通うように、安心感が伝わっていく。

「それじゃあ――あ、蒲牢。マドレーヌの箱は置いて行くよ。皆で分けて」

「欲しいって言えば分ける」

 何やら引っ掛かる言い方だったが、螭もいるので大丈夫だろう。動物面と目が合うと螭はにこやかに微笑んで胸元で小さく手を振った。

 灰色海月は掌から灰色の傘を引き抜き、獏と共に部屋を出る。狴犴の部屋で座らされていた白花苧環(シロバナオダマキ)はドアの音で立ち上がり、白い頭を下げた。狴犴は机の前で今後のことを考えているのか、顔を上げずに手を動かしている。

 狴犴の部屋を出てからくるりと灰色の傘を回し、二人は誰もいない小さな街へ戻った。牢だと言うのに、暗い石畳と家々が並ぶ馴染みの場所に戻って来たことに安心してしまった。

「クラゲさんはベッドに行って。何かあったら呼ぶね」

「そうですね……。今は手紙が投函されてないみたいなので、暇な時間のようです」

「ふふ。それは良かった。そうだ、安眠氷砂糖をあげるよ。早く元気になるように」

「ありがとうございます。早く回復させます」

 灰色海月を先に店に入れ、安眠氷砂糖を持たせて階段の下で見送る。彼女はまだ顔色が優れないが、一眠りすれば多少は回復するだろう。怪我ではなく心の問題なので、ただ眠るだけでは完全には回復しないだろうが、これ以上遣れることもない。

 獏も少し肩の力を抜き、古い椅子を軋ませて座った。見慣れた薄暗い天井は今や実家のように落ち着く。

 その瞬間、まるで機会を窺っていたかのように、棚の陰から猫の鳴き声が一つ聞こえた。おかえりと言ってくれているのだろうかと棚に目を遣ると、黒猫が白い物を咥えて飛び出した。音を立てずに机に跳び乗り、咥えていた物をひらりと離す。

「え……何? 手紙……?」

 受け取ると黒猫は机から飛び降り、再び棚の陰へ消えてしまった。自分の仕事は終わったと言わんばかりに。

 手紙には赤い封蝋が施されており、捺されたその模様に見覚えがあった。狴犴の部屋で見た。ヴイーヴルが持って来たフェルニゲシュの手紙に、同じ花と尖った物が描かれた封蝋が施されていた。

「誰がこれを……?」

 こくりと唾を呑み、獏は封を切る。誰が持って来たのか黒猫に尋ねても、答えが返ってくるはずがない。

「…………」

 手紙は英語で書かれており、獏は勢い良く立ち上がった。古書を並べている棚を物色し、使えそうな一冊を持って机に戻る。英語の辞書だ。翻訳できる者がここにはいないので、自力で調べるしかない。店に辞書があって良かった。宵街にはまだアルペンローゼがいるが、この手紙に何が書かれているのかわからないまま渡したくなかった。彼に都合の良いように訳されてしまったら気付けない。

 白い便箋にたったの一行だけだったが、翻訳したその文に獏は眉を顰めた。

「アルペンローゼを……殺せ……?」

 封筒ももう一度見てみるが、差出人の名前は何処にも書いていない。宛名も書かれていないが、ここに手紙を置いて行ったのだから獏に宛てた物だろう。……落とし物でなければだが。

(ここには転送じゃないと来られないし、誰かに連れて来てもらったんじゃなければ、一度はここに来たことがある人だけど……花街の人だと今回のヴイーヴルとアルペンローゼ、この前来たフェルとアナさん……。んー……アルペンローゼは違うよね? 自分で自分を殺せなんて言わないよね)

 宵街から戻ったばかりだが、折り返した方が良さそうだ。だが灰色海月をベッドに行かせた直後で呼ぶのは憚られる。彼女にはまだ休んでいてもらいたい。獏にも携帯端末を持たせてくれれば宵街と連絡が取れるのに、灰色海月から借りるとなると彼女に余計な心配を掛けてしまう。

(殺すじゃなく殺せなんだから、僕が行動しない限り何も起こることはない……よね? 落とし物だとしたら落とし主が拾いに来るかもしれないし、少し様子を見てみよう)

 便箋を封筒に戻し、机上の真ん中に置く。暫し腕を組んでそれを見詰めたが、ふとはっとして立ち上がった。手紙を置くために無人の店に入った誰かが、何らかの痕跡を残しているかもしれない。

 まずは黒猫が入って行った棚を覗く。黒猫は奥の一番下の棚で子猫と一緒に丸まっていた。獏が覗くと闇と同化しそうな顔を上げ、金色の双眸を光らせる。

「ねえ、君が咥えて持って来た手紙はどんな人が持って来たの? 咥えてって言われたの?」

 黒猫は数秒間目を逸らさずじっと獏を見詰めた後、再び頭を下ろした。眠そうだ。やはり尋ねても無駄のようだ。

(まあいっか……。猫達も怪我してないみたいだし――)

 立ち上がろうとした時、不意に店の外で腹に響く轟音が上がった。

「え……? 今度は何!?」

 何かが壊れる音――壊れる物なんて、この小さな街の中には家しかない。それは余程欠陥がない限り勝手に壊れる物ではない。以前に天井が落ちてきたことがあるが、まだ欠陥住宅があるのかもしれない。

 轟音で灰色海月が目覚めるかと心配したが、安眠氷砂糖がよく効いているようだ。二階から物音はしなかった。そのことに安堵して獏は懐から杖を抜き、警戒しながらドアへ向かう。

 音を立てないようにドアを開け、音のした方へ目を遣る。石畳の地面に瓦礫が山となっていた。店の二つ隣の家が半壊している。砂塵がまだ薄らと舞い、道に面する壁が無くなったその二階から白と黒の塊がぼとりと落ちてきた。

「――げほっ、うぇっ……ゴミが口に入った……」

 落ちたものは白い頭を持ち上げる。ふわふわとした白髪を二つに結び、羊のような角が生えていた。

「……饕餮(とうてつ)?」

 見覚えのある姿に獏は警戒心を少し緩めて顔を出し、杖は手にしたまま駆け寄った。

「大丈夫? 一体何が……」

窮奇(きゅうき)! あいつ、寝惚けてぶっ飛ばしたんだよ!」

「寝惚けて……?」

 見上げると、大きな穴が空いた二階から牛のような角が生えた白黒頭が覗く。彼は一つ欠伸をし、瓦礫を見下ろした。

(わり)ぃ、饕餮……巨大肉団子と戦う夢を見てた」

「どんな夢だ! 二度と寝るな! 砂の味がする……ぺっ!」

「ハハ。外見は変わらないのにこの饕餮は何か小動物っぽいな」

 瓦礫から立ち上がる饕餮に獏は手を貸してやる。

 最初は彼女を遠ざけようとしていた窮奇だが、何だかんだ可愛がっているようだ。

「ちょっと窮奇、何でそんな所で寝惚けたの? 何してるの? 奇襲かと思ったよ」

「あ?」

 今気付いたとばかりに腰を屈めて動物面を凝視し、窮奇も飛び降りた。崩れ易い瓦礫の上をとんと降り、平坦な石畳へ落ち着く。

「何でって、寝てたからだ。ここは邪魔も入らないしな」

「ホテルじゃないんだけど」

「細かいことは気にすんなって。壊しても宵街の奴が直してくれるんだろ? オレが遣ったって言うなよ」

「……いつからここにいたの?」

「いつ……いやここ時間が無いじゃねーか」

「…………」

 時間が流れないここでは確かに時間の経過を感じられないが、つい先刻来たわけではないようだ。

「あ、そうだ。破壊を咎めない代わりに、宵街に転送してよ」

「は? 転送? お前ん所の監視に頼めばいいだろ」

 饕餮はバシバシと窮奇の背中を叩いているが、彼は意に介さない。短気な窮奇が饕餮に殴られても何も遣り返さないのは不思議だが、それは以前からだ。慣れていると言うより最早空気のようだった。

「クラゲさんは休養中だから。まだあんまり連れ回したくないんだよね」

「オレも休養中だ」

「君は怪我してないでしょ。それとも饕餮に殴られて折れた?」

「馬鹿()かせ。饕餮に殴られたくらいで怪我なんかするか」

「君だったら仕返しそうなのに、遣り返さないよね」

「遣り返すわけねーだろ。いいか? 遣り返すっていうのは、痛いとか苛立つとか不快感があるから遣り返すんだ。饕餮如きに不快感煽られるなんざ格好悪いだろ? 何をされようが涼しい顔をする……そっちの方が格好いいだろ」

 腰に手を当て、窮奇は涼しい顔をして見せた。饕餮以外には短気なのだが、それは良いのだろうか。

 饕餮は窮奇に全く効いていないことに腹を立て、拳を諦めて脚を振り上げた。それは彼の股間に直撃し、涼しい顔をしていた窮奇は途端に青褪めて地面に倒れた。やっと効いたと饕餮は喜ぶが、窮奇は丸まったまま動かなくなった。

「饕餮、そんなことをしたら窮奇が死んじゃうよ」

「え? 死ぬの……?」

 どうやら急所だとは知らなかったようだ。途端に不安な顔になり、丸まる窮奇の傍らに膝を突いた。

「ど、どうしよう獏! こんな簡単に死ぬなんて!」

「落ち着いて、饕餮。宵街の病院に連れて行けば大丈夫だよ。僕も行くから、安心して」

「わかった! 病院だな。任せろ!」

 饕餮は立ち上がって杖を召喚した。これで大丈夫だ。思惑通りに獏は宵街へ行ける。窮奇には痛い思いをさせてしまったが、無事に転送してもらうことができる。もう少し加減をすると踏んでいたのだが、饕餮の躊躇いが全く無かったことだけは誤算だった。

 窮奇が承諾してくれればこんなことにはならなかったのだが、転送してくれないならしてもらえるよう動くしかない。顔を動かして饕餮の視線を誘導した。獣なら面で隠れていても視線を僅かに感じ取ることができる。

 窮奇は石畳に頬を擦り付けながら、利用しやがったと顔を顰めた。普段は温厚な顔をしているがやはり獏は罪人だ。目的のためには躊躇が無い。

 饕餮はくるりと杖を回し、転瞬の間に宵街へと降り立つ。

 猫を利用された手紙は狴犴に見せるべきなのだろうが、会いたくないのが正直な所だ。監視役の灰色海月を連れていない上に、首輪も付けていない。それに罪人は烙印を捺した統治者には会いたくないものだ。顔を見れば腹が立つからだ。

 なので病院にいるラクタヴィージャに判断を仰ぐことにする。どうせラクタヴィージャは狴犴に連絡する。間に入ってくれるなら、その先が狴犴でも構わない。会わなければ良いのだ。それに病院にはアルペンローゼがいる。彼に手紙を見せるべきなのか、それもラクタヴィージャが判断してくれるだろう。

 饕餮は窮奇を背負おうとするが彼はその手を払い除け、蹌踉めきはするが自力で立ち上がった。さすが規格外の体力の持ち主だ。容赦の無い蹴りを受けたにも拘らず涼しい顔を繕おうとしている。彼の意思は強い。少し汗が流れているが。

 そのまま饕餮に腕を引かれ、窮奇は石段を引き摺られていった。抗う力は出ないようだ。

「獏……お前は後で殴る……いや、蹴る……」

 ぶつぶつと呪詛のように呟く。今はどうにもできない。

(しん)に介抱してくれるよう頼もうか?」

「やめろ! こんな格好悪い姿……恥曝しだ」

「結構一途だよね、君。そういう所は好感が持てるよ」

「お前の好感度を上げたいわけじゃねーんだよ」

 病院へ入ると、騒々しい気配に受付に座っていた姫女苑(ヒメジョオン)は顔を上げた。

「獏様? 饕餮様と窮奇様も……何かありましたか?」

 不安げに姫女苑は身を乗り出す。花街の使者に翻弄されている今、三人も獣が訪れるのは退っ引きならない事情があるのではないかと。見る限り三人には負傷は無く、患者として来たわけではない。窮奇は腹でも痛むのか少々複雑な表情をしているが。

 饕餮が開口しようとしたが、窮奇の話をしている場合ではない。獏は彼女を制した。窮奇に診察や治療は不要だ。痛がってはいるが、窮奇は獣なのだ。

「ラクタに用があるんだけど、いるかな?」

「ラクタヴィージャ様はアルペンローゼさんの病室にいます。二階に上がってすぐの右手側の部屋です」

「入ってもいい?」

「はい。変転人は入室禁止ですが、獣様なら構いません」

「ありがとう」

 獏が微笑むと姫女苑は頭を下げた。医者の許に行くならと饕餮も黙って窮奇を引き摺り獏に付いて行く。窮奇だけは何故連れ回されないといけないのかと不服だったが。

 言われた通りに階段を上がり、二階の右手側のドアを軽く叩く。返事より先にドアが開き、白い帽子を被った褐色の肌の少女が顔を出した。が、その向こうに佇んでいる黒い大きな鴉に釘付けになってしまった。

 黒い服に黒い頭、顔は鴉の嘴のようなマスクで覆っている。二つの透明な円い目から見えているのだろうが、こちらからは中が見えない。

「誰……?」

 ラクタヴィージャも視線に気付き、振り向いて笑う。

「ああ、これね。アルペンローゼよ」

「え!? そ、そうなんだ……」

 先に見た彼はそんな嘴は付けていなかった。喋らないと本当に誰だかわからない。

「発作――無意識に暴れることを便宜上そう言ってるんだけど、それを起こさないようにペストマスクを試してるのよ」

「ペストマスク? あれって医者が付ける物じゃないの?」

「そうよ。本来は医者が病気に感染しないよう嘴の先に香草とか入れて、瘴気を吸わないようにしてたとか? 人間の発想って面白いわよね。今回は発作を起こさないよう鎮静させる効果のある花を嘴に入れてみたの。少し頭がぼんやりすると思うけど、薬を作るまでの一時的な繋ぎね」

「へぇ……ってことは、無意識に暴れてたって認めたの?」

「本人は認めてないけど。何せ記憶が無いから。でも旅行中の行動を順に話してもらったら繋がらない空白の場面があって、そこの説明ができないから大人しく付けることにしたって感じよ。さっき目の前で暴れたから、こっちはもう疑いようがないわ」

 記憶が無い部分は補完されず、何も無い空白の時間となる。そこで何が起きていたのか本人にはわからず、誰かを襲ったことを否定することもできない。アルペンローゼは大きな嘴を獏達へ向け、一言も発さない。形は異なるが面を付けている者同士、獏は少し親近感を覚えた。

「それで、三人揃って何か用? 狴犴のお使い?」

「そうだった」

 印象的な鴉に気を取られて本題を忘れる所だった。獏はラクタヴィージャを廊下へ連れ出す。まずはアルペンローゼの耳に入らない方が良いだろう。

 ドアを閉め、怪訝な顔のラクタヴィージャに手紙を渡す。既に封の切られた手紙を手にラクタヴィージャは首を傾いだ。

「僕が牢に戻ったら、それがあったんだ。それと同じ封蝋が、ヴイーヴルが持って来たフェルニゲシュの手紙にも捺されてた」

「つまり、これはフェルニゲシュの手紙ってこと?」

「それはわからない。その封蝋がフェルニゲシュしか使えない物なのか、関係者なら誰でも使えるのか、僕は知らないからね」

「狴犴には見せたの?」

「……見せてない。わかるでしょ?」

「確かに罪人は狴犴に会い難いわよね。わかったわ、確認しておく」

 ラクタヴィージャは苦笑しながら手紙を開いた。狴犴を疎んで牙を剥く罪人もいるが、避けてくれるなら狴犴の身も安全だ。烙印の制裁を恐れてくれるなら、捺した甲斐があると言うものだ。

 英語の一文が書かれた手紙に目を通し、ラクタヴィージャは静かに眉を寄せた。

「アルペンローゼを殺せ……?」

「読めるの?」

「ええ。簡単な文なら少しね」

 読めずに眉を寄せたのだと思いきや、意外にも読めるらしい。宵街にも翻訳できる者がいるようだ。

「僕の牢に置かれてたんだから僕宛てだと思うんだけど、判断を仰ぎたい。もしアルペンローゼが危険分子で始末しないといけないなら手を汚してもいいけど、変転人を殺すことは宵街では罪になるからね。花街の変転人も含むかはわからないけど」

「その判断は狴犴に任せたいけど、この手紙を書いたのが誰なのかは気になるわね。アルペンローゼに見せてみましょ」

「えっ? 本人に見せるの?」

「ショックは受けると思うけど、花街のことを知ってる人がここにはアルペンローゼしかいないから……幸い精神を落ち着ける薬水はすぐに用意できるから大丈夫よ」

 何が起こっても何とかすると言うようにラクタヴィージャは笑って見せる。真相を知るために、ある程度の犠牲は致し方ない考えのようだ。

 何の話だか蚊帳の外の窮奇と饕餮は口を出さないが、花街とやらは気になった。宵街しか知らない二人は、他にも街があるのかと興味が湧いた。なのでもう少し話を聞いていることにした。

 手紙を手に病室に戻ったラクタヴィージャは、黒い嘴をこちらに向けて立つアルペンローゼの眼前に手紙を示す。

「アルペンローゼ。花街からと思しき手紙が届いたんだけど、確認してもらえる? 貴方宛てではないんだけど」

「花街から? 翻訳しろと言うことですか? このマスクを付けたままだと見難いので、外してもいいですか?」

「読めるんだけど、貴方に関係あることなの。マスクは外していいわよ。食事の時も外さないといけないし、それくらいは許可するわ」

 大きな嘴が邪魔で手元がよく見えないのだ。嘴に入れられた鎮静作用のある花とやらの仄かな香りは悪くないが、視界が狭くなり窮屈だ。

 アルペンローゼはマスクを外して手紙を受け取り、封蝋を確認する。確かに花街からの手紙だ。

「その封蝋は誰でも使えるの?」

 先程出た疑問をラクタヴィージャは直球で尋ねる。駆け引きなんて面倒なことはしない。どう足掻いても変転人が獣に力で勝つことはできないからだ。ここには現在四人も獣がいる。変転人を恐れさせるには充分な数だ。

「この模様は城で使用されている物です。王と大公なら使用できます。ですが捺し方に個性が現れる物なので、誰が捺したのかわかります」

「個性は私にはわからないわね」

「僕は長年城に従事しているので。丁寧ですが捺し方の浅いこれは、ヴイーヴル様が捺した物です」

 名前を出した瞬間、空気が重くなった。アルペンローゼもラクタヴィージャと獏から困惑を感じ取る。

 あまり良いことは書かれていないのだろう。封の切られた手紙を抜き、一文に目を通す。アルペンローゼは吟味するように数秒間手紙を見詰め、やがて口元を薄く歪めた。

「ふっ、ふふ……ははは! 突然獣が大勢来て何事かと思いましたが、僕を殺しに来たんですか。変転人相手に四人(がかり)とは、随分と警戒されているようですね」

 黒いマスクをベッドに投げ捨て、アルペンローゼは掌から両刃のレイピアを引き抜いた。針のようにすらりと細長い剣を眼前に構える。

「ちょ、ちょっと待って! 違うの、私達もどうするか考えてて、貴方に確認してもらっただけなの」

「確認? 何を確認するんですか」

「手紙を書いたのが誰か、とか……それに、病院では人殺しを許可しないわ。どんな理由があっても、病院は命を奪う場所じゃない。救う場所なのよ」

「…………」

 その説得の言葉は偽りではない。病院内での殺傷行為は禁じている。已むを得ない場合、正当防衛なら仕方なしとするが、それ以外は許されない。

 それを理解したかはわからないが、アルペンローゼはレイピアを構えたまま手紙を突き出す。

「理由はわかりませんが、僕はもう不要なんでしょう。花街で処分されるなら抵抗はしませんが、宵街の連中に処分されるくらいなら僕は獣にも刃向かいます」

 ヴイーヴルは病院にアルペンローゼを残したまま、もう数日も戻っていない。つまり彼を捨てて、ここに戻るつもりはない。花街へ帰ってしまったのだ。調査と言い宵街に来たが、渡航の本当の目的は彼を処分することだった。

「手紙を書いたのはヴイーヴルなの?」

「……それは……ヴイーヴル様の筆跡ではありません」

「じゃあ、誰……?」

「大公の一人、スコル様とハティ様です。二人は全く同じ筆跡なので、どちらとは言えません」

 封蝋を捺した者と手紙を書いた者が違う。それは妙なことだった。通常そんな風に分けたりはしない。

「わかったわ。こっちの統治者にそう報告する。こっちの統治者は変転人に甘いから、はいそうですかって殺すことはないわ。その点は安心して」

「それを信じろと言うんですか? このマスクも本当は、徐々に弱らせて殺す物ではないですか?」

「……獏、ちょっと協力して」

 聞く耳を持たないと言うより、言うこと全てを信じることができない。知らぬ街で仲間はおらずたった独りでこんな手紙を見せられて、彼は不安に支配されてしまっている。

 指名された獏は意思を汲み取り、気が立つアルペンローゼへゆっくりと近付いた。レイピアが振られ、刃が届く寸前で距離を詰めて手首を払い、くるりと手を翻して掴む。そのまま背後のベッドへ押し倒した。

「……少し眠って」

 囁くとアルペンローゼの瞼は抗えないほど急激に重くなり、声を出す時間も無く、眠りへと落ちた。

 攻撃を加えて気絶させることもできるが、それだと怪我を負わせてしまう。他人を眠らせることのできる獏の能力がこの場では最も適していた。獣相手にはあまり効かない力なのだが、変転人は人間に近いためよく効く。

「ほらもう、こうなると思ったよ」

「でも誰が書いた手紙かわかったわ」

「それはそうだけど。目が覚めたらまた一悶着あるよ」

「それはこっちで何とかするわ。狴犴にも連絡しないと。獏は牢の方に戻ってくれていいわよ。またそっちで何かあるかもしれないし」

「あってほしくないんだけど……」

 花街が何を考えているのかさっぱりわからない。アルペンローゼが不要だとして、何故わざわざ宵街に連れて来て置いて帰るのか。殺したいなら花街でも殺せるだろうし、もし花街で殺してはいけない規則があるなら宵街で自分の手で殺せば良いのに。読めない手紙を置いて行く、しかも宵街の中ではなく獏の牢にだ。その理由が全くわからない。

「牢に戻るけど、暫くそっとしておいてほしいよ。クラゲさんを休めたいから」

 夢を見ないほど深い眠りへと落ちたアルペンローゼを一瞥し、獏はドアに手を掛けた。その瞬間、指が千切れそうな勢いでドアが開いた。

「!?」

 勢い余ってドアが跳ね返り、ラクタヴィージャもぽかんと口を開けた。眠らせた直後で力が最大限に効いているのでアルペンローゼは目覚めないが、病院の中では原則静かにするものだ。ドアを開け放った白い少年は眉を顰めながら片手で獏の襟を掴み、乱暴に引き寄せた。

「……首輪が無いですね。クラゲもいないようですが、御仕置が必要ですか」

 もう片手に仕置印(しおきいん)をちらつかせるので、獏は面の下の顔が引き攣った。

「ま、マキさん……これは、已むを得ない事情があって」

罪人(つみびと)の言い訳を聞いていたら切りがありません。罪人……これは特例ですが、貴方は監視役同伴で、首輪装着時しか外出は許されない決まりです。花街の使者を案内する際は罪人と気付かれると失礼に当たるので首輪装着義務を免除しましたが、今はそうではないですよね?」

 首輪を装着していないため、首の烙印を通じて科刑所に伝わったのだろう。慌てて飛んで来たようだ。病を持ったアルペンローゼのいる病院に行くと言えば狴犴が止めるだろうに。

「そうじゃないけど……クラゲさんは疲れてるし、大変な物を僕の牢に置いて行かれてたから、すぐ報告しないとなぁって……」

「大変な物?」

 動けない獏の代わりにラクタヴィージャは眠るアルペンローゼの手から手紙を拾う。狴犴へ報告する手間は省けたが、獏が仕置きを受けそうだ。

 手紙に書かれた英文に白花苧環は眉を寄せ、ラクタヴィージャと獏を順に見る。彼には読むことができず、説明を求めている。

「アルペンローゼを殺せ、って書いてあるの」

「殺せ……?」

「彼に確認してもらったんだけど、封蝋を捺したのはヴイーヴル、でも手紙の筆跡はスコルかハティだって。おそらく彼の処分を任せて、ヴイーヴルは花街に帰ったんじゃない?」

「スコルとハティは初めて聞く名前ですね」

「その二人も大公だって言ってたわ」

「確かに大変な物ですが……。この手紙が獏の牢にあったんですか? 何故狴犴に報せなかったんですか?」

「確認して、これから報せようと思ってたのよ。獏もどうすればいいかわからなくて困ってたんだから」

「……そうですか。状況は理解しました。この件はオレが報告しておきます。手紙も預かります。獏は御仕置を受けてもらいます」

「何で!?」

 免除してもらえる流れだと思ったのだが、見逃してもらえないらしい。

贔屓(ひき)や蒲牢同伴なら弁解の余地はありましたが、饕餮では少々説得力に欠けます」

「それって、狴犴より上の兄弟ならいいけど、下は駄目ってこと!?」

 狴犴は九人兄弟の第四子であり、その上となると三人だけだ。昔、狴犴より前に宵街を統治していた三人なら話は聞くが、他は聞く耳を持たないと言うことらしい。

「大丈夫ですよ。動かなかったらそれほど痛くはありません」

「仕置印は痛い物だよ!」

 騒ぎながらも獏は壁に押さえ付けられ、襟の釦を外された。動くと印がずれて余計に痛くなるのは事実なので獏は可能な限り動かないよう心懸けるが、白花苧環は初めての仕置印で要領がわからず、ぐり、と力強く捩じ込んだ。

「――――ッ!?」

 以前にも仕置印を捺されたことがあるが、あの時とは比較にならない程の痛みが獏を襲った。目の前で火花が散るようだった。あの時はそっと触れるだけの捺し方をされたが、今回は容赦無く捩じ込まれて烙印から血が溢れた。ばたばたと赤い滴が白い床を汚し、獏の首は糸が切れたようにかくりと垂れ下がった。

「……?」

 仕置きとはこれで良いのだろうかと白花苧環は仕置印を剥がし、ずるりと腕の中に倒れ込んだ獏を支える。

 仕置印の痛みは捺された者にしかわからないだろう。はっきり言ってしまうと白花苧環は仕置印を捺すのが下手だった。

「巫山戯ないでください。重いです」

「…………」

「……気を失ってますか?」

「…………」

「死にました」

「生きてるわよ!」

 動揺はしているが呆気無く諦めてしまうので、ラクタヴィージャは慌てて訂正した。遠目から見ても呼吸をしていることはわかる。

 仕置印を捺すと痛みを与えるが気を失うことはないと聞いていたので、気絶が異常なことは白花苧環にも理解できた。試し捺しができない仕置印は、どうしても最初は加減ができない。

「診てもらってもいいですか……?」

 獏を抱えたまま助けを求める白花苧環にラクタヴィージャは思わず苦笑を漏らした。白花苧環は生まれて一年も経たない若い変転人だ。失敗することもあるだろう。失敗された方は堪ったものではないが。

「印を離したら血はすぐに止まるはずだから、心配しないで。起きるまで面倒は見るわ。牢に戻るのは起きてからでいい?」

「……はい」

「狴犴に報告する前に、その白い服に付いた血の説明を先にした方がいいわね。じゃないと狴犴も卒倒しそう」

 最後は冗談のつもりだったが、白花苧環は自分の白い服を見下ろして暗い顔をした。それでもラクタヴィージャは笑うが、笑い事ではない。白花苧環が怪我をしたのだと誤解をすれば、彼を大切にしている狴犴は血の気が引くだろう。ラクタヴィージャは狴犴が心配すると言いたかったのだが、白花苧環は叱られると思ったようだ。

「その前に、よくここに来ることを狴犴が許可したわね。アルペンローゼから感染する可能性があるから、用があっても変転人を来させないと思ってたけど」

「制止されましたが、振り切って来ました。規則を守れない罪人には罰を与えなければ。オレは半獣なので、普通の変転人より感染確率は低いはずです」

 今頃科刑所で狴犴が卒倒していそうだ。ラクタヴィージャは溜息を吐き、気絶した獏を受け取った。

「ついでだから、貴方が感染してないか検査してあげるわ。そうすれば狴犴も安心するはず」

「わかりました。検査後に科刑所に戻ります。結果は後程教えてください」

 意識の無い内は発作も起こらないだろう。アルペンローゼのマスクは外したままベッドに寝かせ、ラクタヴィージャと白花苧環は病室を後にした。現在は入院患者もいないので、万一暴れても被害者は出ない。

 ぐったりとする獏が運ばれていくのを窮奇と饕餮は無言で見送り、天罰が下ったと窮奇は機嫌良く笑んだ。

「窮奇、花街って何?」

「オレも知らねー。宵街みたいな街が他にもあるみたいだな」

「面白そう。行ってみたい」

「行き方がわかればな」

 花街は話を聞く限り面倒そうな街だ。返事をしながらも、考え無しに突っ込むのは止めておこうと窮奇は心中で頷く。考えがあっても最悪の結果になった過去があるのだ、さすがに慎重になる。

 樹海のようなことは二度と味わいたくない。姿形は変わらないが、時々この饕餮は偽物だと感じてしまうことがある。


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