143-豹変
突然殺気を当てられ恐怖を植え付けられた変転人達はベッドの上で丸まったまま、獏は順にその背中を摩って回っていた。灰色海月は獏を抱き締めたまま離れようとしないので、抱えながら歩いている。白鱗鶴茸は反対に近付かせてくれないので、空のバケツだけ枕元に置いた。罪人の前では吐くまいとバケツを手に取ることはないが、その根性がある内は大丈夫だろう。
(今は首輪はしてないけど、前にここで会ったからな……僕が罪人だって狴犴から聞いたのかな。何処まで聞かされてるんだろう……)
牢の外に出ることを許可される特別な扱いを受けていることは見ればわかるだろう。そのことを彼は不満に思っているのかもしれない。白い前髪が覆って両目は隠れているが、睨んでいることがわかる。
変転人達は背中を摩っている間は少し落ち着いたが、手が離れるとまた体を強張らせて震えてしまう。ラクタヴィージャのように分身体を作ることができれば三人同時に背中を摩ることができるのに、獏一人では手が足りない。
片手は灰色海月を支え、もう片手で洋種山牛蒡と浅葱斑を順にくるくると回っていると、不意にゆっくりとドアが開いた。角が生えた頭にヴェールを被る見知った女が覗いている。
「あら、獏さん!」
「螭? 手伝いに来てくれたの?」
「緊急事態だからと呼ばれたんです。治癒を施してほしいと言われて、バケツに水を入れて持参しました」
彼女は普段、地下牢の罪人の食事を作るために炊事所に籠っている。調理を地霊に任せて駆け付けたようだ。バケツを手に提げ、螭は様子を窺いながら、ベッドの並ぶ殺風景な部屋に入る。彼女の治癒は彼女自身の生命力を用いて行う。水を補給し、消耗を和らげるのだ。
「助かるよ。でも四人も纏めて治癒ってできるの?」
「四人は少し厳しいかもしれませんが、傷の程度によります。皆さん、何処を怪我してますか?」
狴犴に呼ばれたようだが、どうやら何も聞いていないようだ。
「殺気を浴びて怖がってるんだよ。だから身体的な傷は無いよ」
「えっ……私の治癒は身体的な外傷を癒す力なんですが……」
「狴犴も慌ててたのか、知らなかったのかな」
「呼ばれたからには心的な傷も癒せるよう頑張ってみますが、できなかったらすみません……」
申し訳無さそうに足元にバケツを置き、螭は杖を召喚した。くるりと振り、水のリボンを紡ぎ出す。
そのまま四人の変転人の様子を窺いつつ無言で杖を翳していたが、螭は喉が渇く様子も無く、生命力の消費が無く渇かないのなら即ち治癒はできていない。やはり心的な傷は螭の力では癒せない。
ラクタヴィージャの手が空いていれば病院に駆け込む所だが、病院にはまだヴイーヴルが居るかもしれない。今は下手に動かない方が良い。
杖を翳し続けるが苦しむ変転人に微塵も変化は無く、途方に暮れ始めた時、ドアから再び視線を感じた。獏と螭は同時にドアの隙間を振り返る。銀色の目が様子を窺っていた。
「……蒲牢?」
見つかってしまった白銀の青年は大人しく部屋に入り、ベッドで丸まっている変転人達を見回した。一人はコアラの子供のように獏に付いている。
螭は諦めて杖を下げ、水のリボンも消える。
「あら丁度いい所に。蒲牢さんの歌なら皆さんを癒せませんか?」
「え? 俺は螭みたいに傷を治すことはできないけど……」
「いえ、皆さんに身体的外傷は無くて、心的な傷を癒してほしいんです。かなり怯えているようで」
「待機してろって言われただけなんだけど……まあいいか、何か可哀想なことになってるみたいだし」
彼はヴイーヴルが万一宵街で暴れた時のための布石だ。龍属である蒲牢は、そこに居るだけで一定の抑止力を期待できる。螭も同じく龍属なので、治癒だけで呼ばれたわけではないはずだ。
蒲牢は一歩前へ出て、耳飾りの小さな杖が光る。
「――――」
彼は言葉を乗せて歌うことができるようになったが、注目されていると歌い難い。言葉は無く、声だけで優しい音色を奏でた。女声のような嫋やかな高音は、春の柔らかな木漏れ日のように暖かく、恐怖という概念すらないような慈愛を感じさせる旋律を紡ぐ。傷を負っていない獏と螭まで呆然と聴き惚れてしまう不思議な歌だった。
「さすがです蒲牢さん。その柔らかな高音は何処から出て来るんですか?」
「……喉から」
歌に籠める力によって蒲牢は女声の高音から男声の低音まで幅広く出すことができる。普段の声はそれほど高音ではないのに、歌う時だけ切り替わる。螭はそれが不思議でならなかった。
気休めの言葉ではなく力の籠った歌なので、変転人達の表情も仄かに和らいだ。完全には恐怖を取り除けていないが、少しでも変化を起こせたことに安堵する。
「歌の効果がどのくらい続くかはわからないから、自力で早く回復させた方がいいよ。獣なら何か食べるとか寝て回復になるけど、変転人はどうなんだっけ」
「それでは私が何か作ってきます。皆さん、何か食べられますか?」
歌の余韻に浸る四人はまだ少し惚けているようだったが、首を横に振る者はいなかった。螭はにこりと微笑み、急いで踵を返す。
蒲牢は壁際にソファを見つけ、獏を呼んだ。灰色海月も一旦離れて布団を握り締めるようになり、獏も菓子箱を持って彼の隣に座った。
「持ってるそれは何だ?」
「開口一番それ?」
相変わらずの喰い意地に呆れる。異国の言語は読めないはずだが、蒲牢は何かを感じ取ったらしい。
「花街の人が持って来た御土産の御菓子だよ」
どうせ食べると言うだろう。蓋を開け、一袋取り出して蒲牢に渡した。貝殻の形をした焼菓子を繁々と眺め、蒲牢は躊躇いなく封を開ける。
「何て言う御菓子だ?」
「マドレーヌだよ。これを持って来た獣に殺気を撒かれて、この有様だよ」
蒲牢はぱくりとマドレーヌを頬張り、じっくりと味わう。名前は耳にしたことがあるが、食べるのは初めてだ。歌は消耗が激しいので、すぐに補給をする。
「美味しいな。その獣、此見よがしに翼を広げたんだろ? 自分の身分を誇示するためだろうって狴犴が言ってた」
「誇示? 殺気まで撒かなくてもいいのに。迷惑だね」
「おそらく龍――あっちではドラゴンって言うんだっけ? それだろうって言ってた」
「! だから龍属の蒲牢と螭を……」
「広義には同じかもしれないけど、西洋のドラゴンとは少し違う。俺にはそんな翼は生えないし。角だけで充分……」
「僕も詳しくないけど、龍だから強いんだよね? 殺気は凄かったし」
「殺気は……俺はその場にいなかったからわからないけど、殺気だけ一人前な獣はいるよ。虫なんかが警戒色で脅かすような感じ。ドラゴンでそういうのがいるかは知らないけど」
「何か余裕っぽいね、蒲牢は。誰が来ても勝つ自信があるみたい」
「自信と言うか、勝たないと後が無い」
菓子箱からもう一つ失敬し、蒲牢は無言で口にマドレーヌを運んだ。
「狴犴は宵街の頭だから、あんまり戦闘で前に出てほしくない。また入院になったら面倒だ」
狴犴は宵街の司令塔のようなものだ。宵街のために蒲牢や螭のような、恐れられる龍属を集められる者は少ない。彼が倒れるのは、玉を一本に繋いだ糸を切るようなものだ。切れてしまえば玉は散り散りになる。
「騒動が大きくなったら獏も戦うのか?」
「え? 僕は悪夢専門なんだけど……。烙印を解除してくれるなら戦ってもいいけど、このまま戦うのは厳しいなぁ。と言うか罪人に戦わせないでよ」
「罪人だから死んでも構わないとか」
「酷いなぁ。蒲牢はもう少し罪人に寄り添ってくれると思ったのに」
「寄り添わないけど……でも御菓子をくれるからこうして話してる」
「現金過ぎない? じゃあ御菓子をあげなかったら?」
「口を利かないかも」
「そんなに冷たかったんだ……」
獏はしょんぼりと眉を下げ、自分も一つマドレーヌを齧った。バターの風味が口の中に広がり美味しかった。殺気は許せないが、詫びる気持ちはあるようだ。
「獏は普通の罪人じゃないから話してもいいよ」
「……え? さっきのって普通の……地下牢の罪人に対してってこと? 紛らわしい……」
「獏は変な罪人だから」
「変って言われるのも引っ掛かるんだけど」
ヴイーヴルの動向が不明のため、いつ彼女が戻って来ても良いように警戒を続けているが、殺気は漏らさないよう二人は和やかに会話を続ける。少しでも緊張を面に出してしまえば、折角蒲牢の歌で落ち着いた変転人達がまた恐怖に支配されてしまうからだ。泣き疲れたのか浅葱斑は眠ってしまったが、それだけ気分が落ち着いたということだろう。獏は彼らの怯えた状態が続くのなら部分的に記憶か感情を食べるつもりだったが、欠けを作らずに済んで安心した。
会話を続けている内に螭は温かいスープを持って戻る。あの殺気が嘘のように科刑所は平和だった。
眠っている浅葱斑を起こさずに、持参した鍋から静かに三人分のスープを装う。
「隣室で狴犴さんと苧環君が話してるのを聞いたんですが、花街の獣は一人で人間の街に行ったそうですよ」
「え? それっていいの? 見張り無しで?」
「宵街の中の安全を守るのが科刑所の役目なので、人間にまで気を回してられないです。人間の街でこちらの変転人や獣を襲えば問題ですが……。こんなことは今まで無かったことですし、これをどう対処するか、狴犴さんには頭の痛いことです」
獏は体を起こす変転人達を支えながら、螭の言葉に耳を傾ける。つまり規則が定まっていない、ということだ。あまり規則を増やして不自由を強いることになれば、昔のように不満が噴出するだろう。変転人にまで不満が広がってしまえば宵街の存在意義が無くなってしまう。
「じゃあ俺はまだ待機ってことか?」
「そうですね。一緒に来ていた御付の変転人さんは病院にいるみたいなので、何かあればその人に何とかしてもらうのも有りですね」
「何とかしてもらえるのかなぁ……」
コップに入れたスープとスプーンを配り、様子を見守る。白鱗鶴茸は獏の接近を許さないので、螭がスープを渡した。湯気が立ち、味噌の良い香りがする。手鞠の形の麩が浮かぶ、それ以外には具の無い味噌汁だ。まだあまり物が喉を通らない彼らにはそれくらいが丁度良い。
「人間の街のことは贔屓さんと鴟吻さんが気に留めておくそうですが、そちらにばかり目を向けている暇が無いのが現状ですね」
「贔屓っていつも暇なんじゃないの?」
「花街の変転人さんが悪さをしないか見てるそうですよ。鵺さんもその件で動いてますし」
「それは確かに忙しそう」
「もしかしたら獏さんも何か頼まれるかもしれませんよ」
「まさか。そんな頻繁に罪人になんて――」
頼むわけがない、と言おうとして、渾沌と檮杌の件で解決まで散々利用されたことを思い出した。先程蒲牢も言っていたが、充分に有り得る。冷汗が出て来た。
「そんなに仕事を頼むなら釈放してくれたらいいのに……」
「釈放したら獏は何処か行きそうだし、使うなら罪人の方が都合がいいんじゃないか?」
「本人を前によく都合なんて言えるね……。都合のために収容されるのは嫌なんだけど」
「宵街は人手が足りないし、丁度いいんだよ」
「…………」
納得は行かないが、罪を犯したのは獏だ。それ以上は言い返せず、不満げに唇を尖らせた。
* * *
そうして宵街で待機を続けたが、ヴイーヴルは戻って来なかった。
一日経っても戻らず、途中経過の報告も無く、アルペンローゼは病院で一人で待たされていた。最初は彼も心配していなかったが、それが三日四日と続くと別の心配が彼の中に浮上した。
――置いて帰られたのではないかと。
宵街に家の無い彼にラクタヴィージャは病室の一つを貸して宿泊を許可したが、彼は殆どの時間を待合室で過ごした。
そんな彼を受付から姫女苑は少々不憫に窺っていた。食事も用意しているが、アルペンローゼは全く口を付けない。腹が減っていないはずはないのに、頑なに拒んでいた。
ラクタヴィージャはアルペンローゼから採取した血液を、奥の部屋に籠って念入りに検査している。結論はまだ出さず、ラクタヴィージャは首を捻りながら、あまり彼に近付かないようにと姫女苑に警戒を促していた。
「あの……」
なので姫女苑は受付のカウンターからは出ず、その場からアルペンローゼに話し掛けた。彼は待合室に座り、視線を床に固定して動こうとしない。何を考えているのか無表情で、毎日その姿勢のままだ。
「もう少しで昼食ですが、何か食べた方が……。口に合わないなら、台所を貸しますよ」
獣なら何日も飲まず喰わずでも体調に問題は無いが、変転人はそうではない。アルペンローゼは無色なので有色ほど切迫はしないが、このまま飲食しないでいると体に悪いことは姫女苑でもわかる。
返事を待ちながら姫女苑は彼を見詰める。植物系の変転人は見目が整うものだが、彼はよく見ると宵街で黄色い声を浴びている白花苧環に匹敵する花貌をしている。憂いを帯びた顔は夜露に濡れた花のようだ。あまり長く見詰めていると照れてしまいそうになる。
彼女が照れる前に、どの言葉に反応したのか、彼の眉が微かに動く。憂いのある顔を上げ、吟味するように姫女苑を凝視した。姫女苑は不味いことを言ってしまったかと顔を強張らせる。アルペンローゼは変転人だが、無色と有色では性質が違い過ぎる。同じ変転人と言えど片や普通の人間と言って差し支えのない程度の有色と、片や自由に武器を体内生成することが可能で身体能力が高い無色だ。無色が武器を振るえば有色などあっと言う間に殺されてしまう。大袈裟ではなく、そのくらいの力の差があるのだ。
「……台所があるんですか?」
「あ、あります」
返事があるとは思っていなかったので、姫女苑は次の言葉を考えていなかった。反応があったのだから、台所に興味があることは間違いない。やはり腹が減っているのだ。
「……いえ、やはり遠慮します。材料は宵街側ですから」
その言葉で姫女苑は合点が行った。思わず勢い良く立ち上がってしまった。
「ど、毒なんて入れてませんよ! 毒以外も、変な物は入れてません! ここは病院なんですから!」
彼はここに一人残されて、出される食事に対して何か盛られているのではとずっと不安だったのだ。一人で心細くて、食事も口を付けられなかった。そのことに気付き、姫女苑は無色だの有色だのということは忘れ、受付の横のドアを開けてアルペンローゼを中へ招いた。
「台所が気になったなら、きっと料理もできるんですよね。使ってください。食べないままだと帰る時に倒れてしまいます」
普通の人間に近い変転人は、無色であろうとなるべく毎日の食事を必要とする。獣のように力を溜め込むことができない変転人は体力を消耗していくだけだからだ。
「必要な食材があれば用意するので、言ってください」
「貴方は……有色ですか?」
「え? は、はい。私は有色です。姫女苑と言います」
「……なら、借ります」
よくわからなかったが、有色の言うことは信じてくれるようだ。姫女苑はカウンターの奥の部屋にある台所へ案内する。そこは入院患者の食事を作るための台所であり、ラクタヴィージャと姫女苑の食事もここで調理している。ラクタヴィージャはいつもここで大きなナンを焼いている。
「何を用意しましょうか?」
「あまり手の込んだ物は作る気がしないので、適当に野菜とパン、後はチーズと白ワインと大蒜……チーズの種類も指定したい所ですが、無いですよね」
「チーズに種類があるんですか……?」
「あるんですよ」
「……形の違いしか知りませんでした……とりあえず持って来るので、見てください」
知らぬ遠方の街の使者と言うことで、知らない食材を要求されたらどうしようと緊張したが、特に珍しい物もなく安心した。白ワインは酒なので、それは首を捻ったが。
パンとして持って来た物が食パンだったのでアルペンローゼは暫し考え込んでしまったが、バゲットは無くともパンはパンだと割り切ることにした。
「アルペンローゼさんは植物系……ですよね? ワインなんて飲んで平気なんですか?」
「火を通せばアルコールは飛ぶので問題無いです」
手慣れた様子で野菜を切る彼を姫女苑は隣で見守る。これは普段から料理をしている者の手捌きだ。手を動かしながら追加で材料を求められ、姫女苑はすっかり助手のように調味料の小瓶を手渡した。
食材や調味料をてきぱきと用意され、アルペンローゼも横目で彼女の様子を窺う。何かを盛る暇は無いはずだ。予め作って用意された食事など何を入れられているかわかったものではないが、これなら食べられる物ができるはずだ。
小鍋の中身を木篦で混ぜた後、焜炉の火を弱めて近くにあった椅子を運んで座った。姫女苑は怪訝に鍋の中を覗く。とろとろに溶かされたチーズの海が広がっているだけで、野菜もパンも皿の上だ。なのに彼は座ってしまった。
アルペンローゼは一口大に切って火を通した芋にフォークを刺し、チーズの海へ躊躇い無く突っ込む。チーズに塗れて糸を引く芋をそのまま頬張った。そこで姫女苑ははっと気付いた。
「もしかしてそれは……チーズフォンデュですか!? 本で見たことがあります!」
本でしか見たことのなかった料理を前に、姫女苑はごくりと唾を呑んだ。立ち上るチーズの香りが鼻腔を擽る。
「……食べますか?」
「いいんですか!?」
「僕の見張りをさせられているようなので」
見張りではなくいつもの配置なのだが、姫女苑は首を振らないでおいた。折角の料理を食べられなくなってしまっては勿体無い。
姫女苑も椅子を運び、フォークを手に取った。どの野菜を刺すか迷うが、人参にした。見様見真似でチーズの海に沈め、糸を引きながら持ち上げる。熱いので、少し冷まして口に入れた。幾つか香辛料も入れていたがその所為だろうか、偶に食べているチーズとは異なる特別な味がした。
「おいひいです」
冷ましたがまだ少し熱かった。口元に手を当て、何とか飲み込む。
「宵街では有色も見張りに駆り出されるんですね」
同じ空間にいながら今まで口を開かなかったアルペンローゼがぽつりと話し掛けた。食事を共にし、少し緊張が解けたのかもしれない。姫女苑は有色で、無色には勝てないことがわかっているからだろう。
「私はちょっと特別と言いますか……人手が足りなかったのでお手伝いをしてるんです。病院は獣様の出入りもあるので、あまり遣りたがる人がいなくて」
「そうなんですか。宵街はこんなに小さな街なのに人手が足りないんですね。……小さいから足りないんでしょうか」
「どうなんでしょう……私は獣様に従うだけなので」
「…………」
力を持たない有色だからか『従う』しか選択肢の無い彼女に、アルペンローゼは微かに眉を寄せた。花街でも獣に逆らう変転人はいないが、彼女はそれ以上に自由を与えられていないように見えた。
「花街は病院も大きいんですか? 変転人は病院で働かないんでしょうか?」
「大規模な病院はありませんが、医者はいます。先生を手伝っているのは獣ですね。それで……貴方はそれでいいんですか?」
「え?」
「貴方は自由ではないんですか?」
「え? いえ……そんなことは思ったことがないです。御飯も食べさせてもらってますし」
「確かによく食べてますが」
最初は遠慮していた姫女苑だったが、緊張して腹が減っていたのか手が止まらなくなっていた。姫女苑は仄かに頬を染め、ゆっくりと手を引く。アルペンローゼの食事なのに、横から摘み食いをし過ぎている。それ程に彼の料理は美味しかった。
「――あっ、ちょっとちょっと、ヒメ大丈夫!?」
チーズフォンデュに夢中になっていた姫女苑は唐突に声を掛けられ咳き込んだ。奥のドアが開いたことに全く気付かなかった。二人が並んで食事をしているのを見つけたラクタヴィージャが慌てて駆け寄る。
アルペンローゼは気付いていたが、焦るものでもないと表情を変えない。首だけは振り向けておくが。
「アルペンローゼさんが何も食べないので、台所を貸しました。これ、凄く美味しいです」
「美味しいのはいいけど、何ともない?」
「何がですか?」
「アルペンローゼに酒入りケーキを食べさせられた……って話、ヒメも聞いたわよね?」
「それは……」
姫女苑に直接伝えられたわけではないが、白花苧環が報告に来てラクタヴィージャに話していた。その場に姫女苑もいた。
「な、何ともないです……アルペンローゼさんも食べてますし……」
酒入りと言えば確かにこれも酒入りだ。ワインを入れていたが、アルコールは飛ぶと言っていた。酔うという感覚が未経験の姫女苑にはわからないものだったが、今の所は平常通りだ。
「そう? それならいいけど」
ラクタヴィージャは姫女苑の頬に触れ、少し赤いと思ったが、熱い物を食べている所為だとした。許容範囲の色だ。
心配を掛けてしまったことを申し訳無さそうに姫女苑は睫毛を伏せるが、後悔はしていない。アルペンローゼの料理は美味しい。
「……あ、検査は終わりましたか?」
「ああ、終わったわよ。面倒なことになりそうだから、対処を考えてる所」
結論を急がずに判断を下したが、ラクタヴィージャは嘆息する。どうしたものかとアルペンローゼを一瞥すると、彼は感情の籠らない硝子のような目をラクタヴィージャに向けていた。それはつい先程まで食事をしていた彼の目ではなかった。その目からは人形のように意思が抜け落ちていた。
「あ……」
ラクタヴィージャは異変に気付いて咄嗟に姫女苑を突き飛ばし、自身も身を引きながら杖を召喚した。姫女苑は椅子から転げて床に倒れた。ラクタヴィージャは床に手を突き、アルペンローゼの手に握られた細身の剣――両刃のレイピアを躱す。剣は鼻先を掠め、誰の魂も宿っていないような無感動な目が彼女を見る。先刻まで大人しくしていたことが嘘のような変貌だった。
彼はすぐに剣を引いて突き出し、ラクタヴィージャは床を転がる。床を打った剣を素速く引き、アルペンローゼは床を蹴って追おうとしてぴたりと動きが止まった。ラクタヴィージャの分身体の青年が背後から彼の腕を掴んでいた。手を捻り上げて剣を手放させ、足を払って床に叩き付けて組み敷く。
急襲に姫女苑は突き飛ばされた姿勢のまま目を瞠っていた。つい先刻まで何の害意も無く、共に鍋を突いていた彼が突如変貌した――ように見えた。食事を共に頬張っていた彼とはまるで別人だった。
「ヒメ! 大丈夫!?」
「は、はい……私は大丈夫です……」
呆然としながらも返事をする。組み敷かれたアルペンローゼは歯を喰い縛って眉を寄せているが、そこには何の感情も見えなかった。まるで空っぽの人形のようだった。
「対策を考えるまで縛って……んん……ヴイーヴルが戻って来たら説明が面倒ね。変な誤解をされそう」
「あの……アルペンローゼさんは一体……」
「少し説明しておこうか。アルペンローゼも、もしかしたら聞こえてるかもしれないし」
ラクタヴィージャはアルペンローゼの前に膝を突き、目を合わせる。空虚な目は、合っているのに合っている気がしない。
「検査の結果、アルペンローゼの血中に正体不明の病原体が見つかったわ」
「病原体……ですか?」
「そう。私も全ての病気を把握してるわけじゃないから判断に時間が掛かったんだけど、少なくとも私にはわからない。今みたいな突然暴れ出すことが、その症状だと思う。他に症状があるかは、様子を見ないと何とも。病気なら感染するかもしれないから、ヒメは近付かないで」
「ラクタヴィージャ様は大丈夫なんですか?」
「獣は抵抗力が高いし、私が医者を始めてから病院に病気の獣が来たこともないし、大丈夫だと思うわ。警戒はしておくけど」
「アルペンローゼさんは治るんですか……?」
「治してあげたいけど、何が効くのかわからないから、色々試すしかないわね。たぶん菫を襲ったのもこの状態の時でしょ。それならまた症状は落ち着くはず。記憶はまた飛ぶかもしれないけど」
アルペンローゼは分身体に任せ、一先ず距離を取るために姫女苑を受付に戻した。
「ヒメ、菫に事情を話して、狴犴に伝えるよう言ってくれる? それと可能なら、花魄と話したい。対処の仕方を相談したいの」
「は、はい……わかりました」
姫女苑は部屋の奥へ目を遣るが、組み敷かれたアルペンローゼは机や椅子が邪魔で見えなかった。
食事を作り、食べさせてくれた彼はあんなに落ち着いていたのに。何の前触れも無く豹変してしまった彼を不安げに見詰め、早く伝えなければと姫女苑は黒葉菫の病室に走った。病院内では走ってはいけない決まりだが、気にしていられない。
焦りながらもドアを軽く叩いて病室へ入ると、黒葉菫はベッドに座って虚空を見ていた。暇で遣ることが無いのだろう。
「菫さん、失礼します。ラクタヴィージャ様から伝言です」
「……ああ、動きがあったのか?」
白花苧環が科刑所に戻ってからはこうして虚空を見ていた黒葉菫だったが、ぼんやりとすることに集中していて姫女苑がドアを開けたことに気付かなかった。
「アルペンローゼさんの検査結果が出たんですが、未知の病原体による病気だそうです」
「病気……? 植物の病気か?」
「植物系の変転人は植物そのものではないので、植物の病気に罹ることはありません。アルペンローゼさんはまだどんな病気なのかわからないんですが、菫さんを襲ったのはその病気の症状だろうとのことです。狴犴様に伝えていただけますか? それと可能なら花魄様と話したいとラクタヴィージャ様が」
「……わかった。伝える。病気なら一方的に責められないな……」
包帯が厚くて袖を通せないので上着は羽織ったままベッドから降りる。病気ならアルペンローゼも被害者のようなものだ。
「他人に感染するかもしれないので、変転人はなるべく病院に近付かないようお願いします」
「……お前は?」
「私はこの数日アルペンローゼさんの近くにいたので、感染するならおそらくもう……感染してると思います」
「…………」
「科刑所に急いでください」
姫女苑は頭を下げ、ドアを開けたまま踵を返す。未知の病に感染したかもしれないと思いながらも彼女は不安を顔に出さなかった。表情を変えずに、黒葉菫に移さないよう早々に去った。
彼女のことは心配だが、医者でもない黒葉菫にできることは無い。今は頼まれた通り、早急に狴犴に伝えることだけが唯一のできることだ。早足で病院を飛び出し、黒葉菫は酸漿提灯の並ぶ石段を数段飛ばしで駆け上がった。負傷したのが足でなくて良かった。上着が飛ばないよう押さえながら薄暗がりを走る。
暗い科刑所を駆け上って狴犴の部屋に辿り着き、その扉の前にはずんぐりとした黒い塊が佇んでいた。黒葉菫は訝しげに警戒を強めるが、兎のような長い耳を動かしたことで正体を察した。地霊だ。見張りでもしているのか扉の前から動かない。
黒葉菫が前に立つと地霊は鼻をひくつかせて扉を三度叩く。中から白花苧環の返事が聞こえた。
地霊はのそりと扉の脇に避け、無言で黒葉菫を見上げる。入っても良いと言っているようだった。
黒葉菫は負傷していない左手で扉を開け、それに気付いた白花苧環が中からすぐに駆け寄って扉を支えた。
「何かありましたか?」
「入って良かったのか?」
地霊を一瞥し、白花苧環も言いたいことを察する。
「地霊に来客が誰か事前に伝えてもらってるんです。ノックの数で。部屋に入れる前に警戒するか考える時間を得られます」
扉を閉め、息を整える黒葉菫を待つ。随分急いで来たようだ。何かあったに違いないと白花苧環は狴犴を一瞥する。座る余裕も無く、立ったまま話を聞く狴犴は珍しい。この数日、彼は通常業務を控えて花街の問題に頭を抱えている。
「……病院で、アルペンローゼの検査結果が出ました」
黒葉菫は姫女苑から伝えられたことを話し、狴犴は眉を寄せた。白花苧環は生まれてまだ日が浅いため病気と言われても思い当たる知識が無かったが、焦燥の混じった狴犴の双眸に睨むように見詰められて彼は困惑を浮かべた。
「……花魄を一時的に地下牢から出す。すぐに向かわせる。アルペンローゼに接触した変転人は全てここにいる。黒葉菫もここで待機しろ。感染の疑惑が払拭されるまでだ」
「わかりました。花魄は誰が連れて行きますか?」
「地霊に任せる」
それを聞き、白花苧環は直ぐ様部屋の前の地霊に要件を告げた。地霊はこくりと頷き、他の地霊を呼ぶ。
白花苧環は扉を閉め、黒葉菫を皆のいる隣室へ招く。ベッドの数は足りないが、彼には必要無いだろう。
「すっかり待機場所になってますが、スミレもここで待機してください。……オレも入った方がいいですね」
黒葉菫に続いて中に入ろうとした白花苧環は背後から腕を掴まれた。無言で腕を引かれ、目の前でドアを閉められた。途惑いを浮かべたまま白花苧環はソファに座らされるが、腕を掴んだ狴犴は何も言わなかった。お前はこっちだと言うことだろうが、何故何も言わないのか、焦りを含んだ顔を訝しげに一瞥する。質問をして良い雰囲気には見えず、怪訝に思いながらも大人しく座ることにした。
隣室に通された黒葉菫は六人の視線を一斉に浴びて怯んでしまったが、彼らにもアルペンローゼのことを話そうとする。だが獏に遮られ、部屋の隅に連れて行かれた。獏は蒲牢と螭も招いて黒葉菫を囲み、彼の心臓は跳ね上がる。獣に囲まれる威圧感は体に悪い。
「驚かせちゃってごめんね。でもクラゲさん達は疲れてるから、まず僕達だけで話を聞くよ」
「そうですね……」
殺気を浴びて泣き噦ったと白花苧環から聞いていた黒葉菫は理解し、声量を落として話した。獣に囲まれると息が詰まるが、三人は獣の中では穏やかな方だ。幾らか話し易くはある。
部屋の隅で囲われている黒葉菫は端から見れば恐喝でもされていそうな構図で、気持ちが落ち着いてきていた洋種山牛蒡は頭を上げながら不安そうに見守っていた。
緊張を含んだ黒葉菫から話を聞き、変転人達にはまだ聞かせるべきではないと獏は判断する。病気の感染の疑いがあると知れば、また不安に苛まれてしまう。せめて平常に戻らないと話せる内容ではない。
「厄介なことになったよね……」
「マキだけ向こうに引き戻されたんですが、何かあるんですか? 睨んでたような……」
「マキさんはたぶん……狴犴は前に病気で変転人を亡くしたことがあるからじゃないかな」
今の白花苧環は五人目であり、一人目の苧環は病死だったと狴犴の書いた観察日記に記されていた。アルペンローゼが病気と聞き、その時のことが脳裏を過ぎったのだろう。あの時のように死なせるわけにはいかないと、感染の可能性のある変転人から彼を遠ざけた。
「あら、獏さんも御存知なんですね」
螭は驚いたように口元に手を当てる。蒲牢は暫く宵街から離れていたが、螭は狴犴に頼まれて長く宵街にいた。苧環のことも当然知っている。
「ちょっとね。一人目の苧環さんが病死だったんだよね?」
「はい。気付くのが遅くて、どうすることもできませんでした。それ以降狴犴さんは苧環の花に固執してしまって何度も……あ、こんな話を罪人さんにするものではないですね。狴犴さんに怒られてしまいそうです」
螭は慌てて口を閉じ苦笑する。
「それ以降は病死じゃないんでしょ?」
「そうですが……二人目と三人目は狴犴さんを獣から庇って殺され……」
話しきる前に勢い良く音を立ててドアが開き、狴犴がこちらを睨んでいた。狴犴は無言で睥睨し、ドアノブが抜けそうな勢いでドアを閉めた。
「お……怒ってますよね……?」
螭は冷汗を流しながら身を縮めた。
「聞こえてないとは思うんですが、何か嫌な気配……悪寒でも走ったのかもしれません……。この話は止めましょう……」
「興味深い話が聞けそうだったのに」
二人目と三人目の苧環は事故死だと観察日記には書いていた。他殺とは書いていない。苧環を直接狙った攻撃ではなく、狴犴を狙った攻撃に当たって死んだために事故と記したのだろう。
前世の白花苧環は生まれて間も無い頃にあった記憶に『獣に近付いてはならない』という言葉があったそうだが、それは狴犴が危険だからという意味ではなく、他の獣に対しての言葉だったのかもしれない。
「スミレさんは怪我が治ってないから、ソファを使ってよ」
「ですが、座る所が……」
「僕達のことは気にしなくていいからさ。あ、そうだ、マドレーヌもいる?」
「スープもありますよ」
緊張感の無い獣達に菓子と味噌汁を差し出され、押されるように黒葉菫はソファに座らされた。
未知の病が発生しても、獣には何処吹く風だ。自身が感染する心配なんて全くしていない。
それでも変転人を思って保護し、対策を考えてもらえるのは、ありがたいことだった。
味噌にはストレスを軽減する効果があるそうです。