141-土産
花街を訪問した宵街の一行は、人気の無い空き家でひっそりと二人の回復を待つことになった。
浅葱斑の回復は早かったが洋種山牛蒡と白鱗鶴茸は二日酔いにも発展し、中々回復せず滞在時間が長くなった。
幾ら何でも数日戻らないとなると狴犴が心配するだろうと鵺は携帯端末を使用したが、中々繋がらなかった。繋がったと思えば思わぬ場所に接続され、罪人に公務の報告をすることになってしまった。猫の声が聞こえた時は何事かと思考が停止した。獏と狻猊は後で殴る。
動けない二人を放置するわけにはいかず、鵺は付き切りで介抱した。
鵺はともかく変転人達には食事が必要である。狴犴から預かった金を浅葱斑に託し、買物の許可を与えた。彼は手軽に手で食べられるパンやキッシュを買い、洋種山牛蒡は顔色が悪いながらも喜んで食べた。白鱗鶴茸は食べる体力が無いと拒否したが、鵺が無理に口に突っ込んだ。
洋種山牛蒡と白鱗鶴茸は頭痛と吐き気に苛まれ散々だったが、歩けるほど回復してから少しだけ買物を許された。物陰に潜んでばかりより、少しは外の空気も感じた方が具合が良くなるはずだ。
滞在中に花街から調査報告が来るかと多少は期待をしていたが、全くその気配は無かった。これ以上は待っても時間の無駄だろう。思いの外、調査に時間が掛かりそうだ。
一行が宵街に到着する頃には洋種山牛蒡と白鱗鶴茸は再び疲れた顔をしていたが、初めての遠征を何とか無傷で終えた。だが休むのはまだ早い。先に科刑所へ行き、狴犴に報告をしなければならない。
鵺は懐かしい気持ちになる狴犴の部屋の扉を開け放ち、中で彼を手伝っていた白花苧環が先に顔を上げて目を丸くした。
「凄い荷物ですね……」
途中で購入した安価な鞄に土産物を詰めてそれぞれ提げている。出発の時は何も持っていなかったのに。
「獏に伝言を頼んだんだけど、伝わってる?」
からころと木履を鳴らし、鵺は書類に目を落としている狴犴に声を掛ける。いつもは書類から目を離さない彼がすぐに顔を上げた。異国に遠征など初めてのことなので、狴犴も気になるのだ。
「ああ。電話の精度はもう一度見直すべきだな。狻猊には既に報告している。浅葱斑、白鱗鶴茸、洋種山牛蒡の容体はどうだ?」
「三人はもう回復したわ。他に外傷は無し。それと変転人の力だと遠距離の通話は無理ね。力が足りなくて、端末に呼び出しの表示すら出なかったもの」
「それも狻猊に伝えた方がいいな。鴟吻から連絡が無かった所を見ると、千里眼も限界だったようだ」
「そうね。鴟吻の目は、鴟吻から離れる程ぼやけていく、って言ってたわ。慣れてないから焦点が合わせられないのかも? って。――で、本題の花街なんだけど、あれは一筋縄では行かないわね。宵街とは比べ物にならないくらい土地も獣の力も大きいわ」
「そうか。御苦労だった。酒を飲まされただけで外傷が無いなら、警戒と受け取っておこう。一先ずは調査待ちのようだな。その間に四人は報告書を提出しろ。……ああ、すぐにとは言わない。顔に疲労が滲んでいるからな。休んでからで構わない」
自身が過労で倒れたからか、狴犴は気遣いを見せる。まんまと罠に掛かり、酒入りのケーキを食べてしまったことに苦言を呈されると思っていた三人の変転人は胸を撫で下ろした。渾沌の一件から狴犴は少し丸くなった。
「苧環が気にしているが、お前達の荷物は何だ?」
そんなに気にしている空気を出したつもりはない白花苧環は整った眉をぴくりと動かすが、これは最初の発言に対しての狴犴の気遣いだ。そこは気遣わなくても良いのだが。
「これ? これはお前の金で買った御土産よ。フランスでは蝸牛を食べるらしいのよ。エスカルゴって言うの。お前も食べる? 少しなら分けてあげてもいいわよ」
「遠慮しておく」
鵺が好みそうな食べ物だと思いながら、適当に遇っておく。
「私に土産は不要だ。残金があれば回収しておく」
残金と聞き浅葱斑はぎくりと肩が跳ねてしまったが、鵺から許可を得て買物をしたのだから怒られることはないだろう。狴犴の前に恐る恐る残金を差し出す。
「……これは?」
「預かったのが日本円だったのでユーロに両替したんですが、そのまま持って帰ってきてしまいました……」
「そうなのか。苧環、この通貨は見たことがないだろう。参考に見ておくといい。両替せず残しておこう」
レートを知らないのか拘りが無いのか、金をほぼ使い切っていることに狴犴は何も言わなかった。東洋どころか宵街からもあまり出たことのない彼は本当に人間の物に疎い。
「喫緊の報告が無ければ、後は報告書を受け取った時に聞くとしよう。旅行を堪能したようだからな」
実は買物で歩き回って変転人の足は棒なのである。さすが獣だ、すぐに見破る。
「そうだ苧環! これ御土産」
忘れる所だったと浅葱斑は提げていた鞄から華やかな柄の箱を取り出した。
「オレに……? ありがとうございます。中身は蝸牛ですか?」
「えっ、違う、マカロン! 甘い御菓子だよ」
「御菓子ですか。では後程いただきます」
狴犴は土産を不要だと言っていたので、安心して白花苧環に渡せた。好みもわからない統治者に気軽に土産など渡して良いものかと悩んでいたのだ。
白花苧環はまだ表情の作り方に斑があるが、興味を示していることはわかった。箱を開ければ花のように色取り取りで鮮やかな菓子に驚くことだろう。
狴犴の前なので大きく手を振ることができずに浅葱斑は胸元で小さく手を振り、先に部屋から出ようとしていた三人を慌てて追った。
白花苧環は扉が閉まるまで頭を下げ、閉まる音を聞いてから貰った箱を改めて見下ろす。彼の興味を察知し、狴犴は書類に目を戻す前に声を掛けた。
「休憩して食べても構わないが、先に確認しておく」
「何の確認ですか?」
「変転人が三人も泥酔させられた直後だからな。酒が混入していないか確認する」
「酒が入ってるのが一般的なんですか?」
「それは不明だが、一般的であろうとなかろうと警戒はすべきだ」
前世の白花苧環は酒を摂取して倒れたが、現在の彼にその記憶は無い。半分獣となった今ならその時ほど酒は回らないかもしれないが、用心しておくに越したことはない。
散らかる書類を端に退け、狴犴は華やかな箱を開けた。中には色取り取りの円いマカロンがきちりと整列し、まるで花壇のようだった。
狴犴は端にあるピンク色の一つを手に取り、半分に割る。めきりと罅割れて指が減り込む。どうやら軟らかい物のようだ。
「…………」
潰れたそれを顔に近付けて観察する。香りは甘いが酒のような匂いはしない。一口食べるとやはり甘い。酒の味はしない。
「問題無いようだ」
「良かったです。味はどうですか?」
「菓子は昔食べたきりだが、甘いな。この食感は初めてだ」
「もっと食べますか?」
「いや、いい。一つで充分だ」
割った残りも責任を持って平らげ、狴犴は指を拭いて書類へと目を戻した。捨てずに食べるのだから、嫌いではないのだろう。狴犴が菓子を食べる所など、白花苧環は初めて見た。
白花苧環は箱を持って中央のソファに座り、空白の隣の黄色いマカロンを一つ掴む。簡単に潰れてしまうようなので、割らない方が良いだろう。そのまま一口齧り、もう一口齧った。
狴犴は彼を一瞥する。無言で食べているが口に合ったらしい。新しい物に触れ、知ることは悪いことではない。彼の経験になるのなら、それだけでも使節に金を持たせた甲斐がある。
* * *
「クラゲー! 獏! こんにちは!」
我が家のように元気良く店のドアを開け放った青い髪の少年に、奥の机で本を読んでいた獏は動物面を上げた。何事かと灰色海月も台所から顔を出す。
「こっちに来るのは初めてだけど、建物の中は前と似てるな」
「こんにちは、アサギさん。前の内装に慣れてるから、同じにしてくれたんだよ」
全く同じではないのだが、似ていると感じるように作られている。この小さな街は、蜃が昔に創った透明な街の景色を元にしているからだ。
浅葱斑は改めて棚の間を覗き、変わりなく瓦落多が並べられていることに妙な安心感を覚えた。
「体はもう大丈夫なの? フランスにいたんだよね?」
「え? ……あ! ここに電話が繋がったんだっけ。皆もう大丈夫です。ここに電話なんてあったんですか?」
「あったんだよね」
獏は本を閉じて立ち上がり、棚の間へ浅葱斑を手招く。奥の暗がりにひっそりと置かれている黒電話を持ち出して見せた。
「これなんだけど、ここの番号なんてあったの? 急に鳴るからびっくりしたよ」
「わあ、古い電話だな。ボクも試作機を貰ったんですけど、番号は無いみたいですよ」
「番号が無い……? じゃあどうやって掛けるの?」
浅葱斑はポケットから折り畳まれた携帯端末を取り出し、慣れた手付きで片手で開く。
電話の話題となり、灰色海月も自分の携帯端末を取り出して覗き込んだ。
「仕組みはボクにはわからないけど、転送の原理と似たものだそうです。思考と直結して繋がるんだと思います」
「へえ。転送と似たもの……なら、フランスからだと遠過ぎて上手く繋がらなかったんだね。転送だと一気にそんな所まで行けないし」
「ここに電話があったから、偶々繋がったんだと思います。――そうだ、クラゲ。番号交換しよ」
「番号は無いのでは……?」
不思議そうに首を傾げながらも灰色海月は携帯端末を差し出す。番号交換など遣り方がわからない。
「端末に個体識別の何かがあるみたいで、便宜上番号って言ってるんだ。普通の電話みたいに。端末同士を近付けて思念通信すれば登録されるんだって。登録されれば、すぐに掛けることができる」
「……これでいいんでしょうか?」
「いいよ。ちゃんと登録できてる」
「いいなぁ」
「獏は貰ってないんですか?」
「バク科バク属のマレーバクには必要無い物だそうです」
「そっかぁ」
楽しそうに番号交換する二人を見て羨ましくなった獏だが、まだ仲間には入れてもらえない。携帯できそうにない大きな黒電話を棚に戻す。
「獏には御土産があるので、そんなに落ち込まないでください……」
「そんなに落ち込んでた?」
獏は面を被っているがとにかく感情の変化がわかりやすい。変転人にも見抜ける程だ。
「正確には獏とクラゲになんですが、これ」
浅葱斑は持って来た紙袋を差し出し、獏と灰色海月は中を覗き込む。華やかな箱が見えた。
「マカロンです」
「わあ。クラゲさんは御菓子を作るけど、食べたことはあんまり無いよね?」
「はい。他人の作ったマカロンは食べたことがないです」
獏はふふと笑い、二人を奥へ促した。灰色海月は以前マカロンを作っていたが、難しいと言っていた。玄人の作ったマカロンは良い参考になるだろう。
机上の本を棚へ戻し、勿体振らずに土産の蓋を開ける。優しい色をした色取り取りのマカロンは虹のようだった。
「凄いです……どうして全部同じ大きさになるんですか? 実は型があるんですか?」
自作した時は不揃いで見目はあまり良くなかった。箱に詰まったそれは均一で、灰色海月は不思議そうに見詰める。見詰めても答えは出なかったので、紅茶を淹れることにした。菓子には茶が必要だ。
「フランスを楽しんできたみたいだね。フェルは元気にしてた?」
鵺には理由が聞けないまま通話が切れてしまったので、あの時の続きだと獏は切り出す。浅葱斑の方からここへ来てくれたので、疑問が解消できる。
「他言は禁じられてるけど、獏は電話で話してたから言っても大丈夫かな。クラゲのこともあるし」
「クラゲさんと関係があるの?」
名前を出された灰色海月は紅茶を淹れながら獏を一瞥する。
「クラゲは前に花街の変転人に悪戯されたんだろ? スミレも。その件で花街に苦情を言いに行ったんだ」
「スミレさんの時は酷かったからね……行ってくれたんだ。図書園でマキさんが言ってたあれかな?」
「そうそう、あの時のあれ。クラゲとスミレ以外にも二人、被害に遭った人がいるんです。さすがにこう続くと、宵街の縄張りで調子に乗らせてもいけないし。それでフェルに会って、話を聞いてもらったんです。把握するために調査するって言ってくれました。ちょっと心配ですけど……」
「じゃあ今は調査待ちかな。酔ったって言うのは? まさかフェルの仕業?」
「うぇ!? フェルじゃないですよ!」
慌てて否定する浅葱斑の前に灰色海月が紅茶を置き、彼は平静を取り戻しつつ椅子に座り直した。
「……まだ裏は取れてないんですけど、スミレを襲った人にお酒の入ったケーキを出されたんです。まんまと皆で食べてしまって……」
「スミレさんを襲った人に会ったの? 黒子の?」
「そうです。特徴は一致してました。なのにスミレが撃った痕が無くて……その人は治癒力が異常に高いらしくて」
「それはまた厄介だね……。その人は変転人なんでしょ? そんな体質もあるんだね」
「変転人なのは確実です。城で働いてる人らしいです。ボクもそんな体質は初めて聞きました。アルペンローゼ、って人です。クラゲも気を付けて」
「わかりました。気を付けます」
アルペンローゼはローゼと言うが薔薇ではなく、躑躅に属する植物だ。全草に毒があるが、化粧品にも使用されている。治癒力はその名残なのかもしれない。
「スミレのことを訊いても知らないの一点張りで……。それはそれとして、ケーキは美味しかった……自分で作ったって言ってました。……それと、大公の獣も危険です! 鵺がいなかったらどうなってたか……」
浅葱斑はその時のことを思い出して身震いし、紅茶を一気に半分飲んだ。
「アイトワラスって言うんですけど、気配が感じられなくて。ヨウの首が飛ぶかと思った……」
「そんなに危険だったの? 獣をもう一人くらい連れて行けば良かったね」
「花街の城って、何か不気味なんだよな……。庭は綺麗だけど」
「誰も怪我が無かったみたいで良かったよ。御土産を買う余裕もあったみたいだしね」
「ボクは先に回復したので、余裕がありすぎたくらいだな。……あ、木霊にも御土産を渡さないといけないんだ。それじゃあ、御暇しますね!」
忙しなく紅茶を飲み干し、浅葱斑は席を立つ。話は聞けたので、獏も引き留めなかった。
「マカロン、一つくらい食べてもいいよ」
「いえ! フランスで食べたので大丈夫です!」
「そうなの? じゃあクラゲさんと二人で食べるね。ありがとう」
獏は微笑んで手を振り、浅葱斑はばたばたと掌から灰色の傘を引き抜きながらドアを開けた。鵺から電話を受けてから心配していたが、元気な姿を見ることができて安心した。
花街でも変転人が襲う同様の事件があったが、フェルニゲシュが話すのを躊躇っていたため、浅葱斑はそのことは獏に話さなかった。狴犴へ提出する報告書には書くが、今はまだ事を広めるべきではないだろう。
獏は綺麗に整列するマカロンの先頭にある茶色を抓み上げて一口頬張る。灰色海月の腕は中々のものだと思っていたが、玄人の作るマカロンは別格だった。
「……花街は一筋縄ではいかなさそうだけど、西洋にはちょっと興味あるなぁ」
「マカロンはどうですか?」
「美味しいよ」
灰色海月にも勧め、彼女も小さく頭を下げて端の緑色を一つ掴んだ。
「何度焼けばこんなに揃うんでしょうか……」
「クラゲさんはもしかしたら型を使わない御菓子は苦手なのかもね。型があると大きさは揃うし。この前の絞り出しクッキーも少しばらつきがあったよね。僕は愛嬌があって良いと思うんだけど」
「頑張ります」
誰に教えられたわけでもなく菓子を仕上げる灰色海月は、菓子など作ったこともない獏には充分に見える。それでも向上心がある彼女に感心する。
「クラゲさん、暫くは人間の街に行く時は警戒を怠らないようにね。もし変な人に会ったら、手紙のことは気にせずすぐ戻って来て」
「はい。気を付けておきます。アルペンローゼさんはマカロンも作れるんでしょうか……」
黒葉菫の件はあるが、それはそれとして菓子作りのライバルが現れたと思っている灰色海月の顔を見る。黒葉菫に獏の監視役を奪われると恐れていた頃の彼女と同じ顔をしていた。
これまでのように普通に過ごしていれば、遠い異国にいるアルペンローゼと出会うことはないだろう。そう頻繁に旅行に来ることもないはずだ。獏は穏やかに苦笑した。
* * *
季節を問わず花が咲き乱れる花街の古城の中、獣達は会議室に集まって怪訝な顔を突き合わせていた。
人間の街の法律のように多くの規則があるわけではない獣と変転人の街での仕事は主に二つである。そこに棲む者達の生活を守ることと、危険を払拭することだ。花街は宵街のように買物代理などは行っていないため、多忙な日など殆ど無く暇だ。つい最近会議室に集まった所なのに、またこうして幾らも経たない内に忙しなく集まることになるとは誰も予想できない。
「あの不審者は宵街の使者だったのか……」
鵺達が変転人の被害をフェルニゲシュに訴え、彼は実権を握る大公達にそのことを話した。
アルペンローゼが疑われていることや、フェルニゲシュが刺されたことは話していない。浅葱斑に読み上げてもらった加害者の特徴も、英語に書き直す際にアルペンローゼに直結する特徴は省いた。最後に渡された黒い傘も見せていない。
話を聞いた大公達はどうしたものかと険しい顔を見合わせ、フェルニゲシュの何も考えていないような無表情へ目を遣る。
「オレに決定権は無いが、調査すると言ってしまった。調査すべきだろう」
形だけの王であるフェルニゲシュは意見を押し通すことができないが、口を挟むことはできる。友人である浅葱斑がわざわざ足を運んでくれたのだ、できる限りの口は挟みたい。
現時点で浅葱斑は被害者ではないが、このまま被害を放置していれば彼も被害者になる日が来るかもしれない。彼らの書類によれば四件中三件は負傷記録の無い悪戯だった。内の一件だけが問題だ。花街では怪我を負わせる程の悪戯が頻発している。宵街でもそうなるのは時間の問題かもしれない。
アイトワラスは困ったように頭を掻き、ヴイーヴルは眉尻を下げて皆の顔を窺う。ズラトロクも表情は固く、黙考している。スコルとハティは首を傾けているが、何を考えているのかわからない。
「こっちでも最近変転人の動きが変だと思ってたけど、まさか旅先でも問題を起こしていたとは……。様子を見るなんて言ってる場合じゃないよな」
フェルニゲシュ以外だとこの中で唯一使者の姿を見たアイトワラスは椅子に凭れ、脚を組む。花街で起こっている変転人の悪戯は把握しているが、そちらは様子見をするとして放置しているようなものだ。最初は変転人の間で悪戯が流行しているのかと考えたが、悪戯をした変転人は皆それを覚えていないと言う。嘘を吐くのが上手い変転人がいたとしても、全員が上手いわけがない。なのに嘘を吐いているかどうかが獣にもわからない。わからないのなら嘘ではないのかもしれない。
「……こっちからも宵街へ行き、被害を受けた変転人に話を聞いてみたらどうだ? そいつが嘘を吐いてないとは言い切れないだろ」
ズラトロクは腕を組み、不機嫌そうだ。他の街を巻き込んだこんな面倒な事件、不機嫌にならない方がどうかしている。
「皆覚えが無いって言ってるのに、どうやって調査するの……? 黒幕がいて、誰かに操られてるとか……」
ヴイーヴルは大きなクッションを抱え、震えながら発言する。
「操られてる線は前に考えたけど、能力を使われた痕跡が無いって答えが出てなかったっけ?」
「たぶん私が寝坊で会議に遅れた時……」
アイトワラスの指摘に、ヴイーヴルは申し訳無さそうにクッションに顔を埋めた。
「じゃあ今度はヴイーヴルが宵街に行こうよ」
「良い考え。ヴイーヴルは弛んでる」
スコルとハティはくすくすと笑いながらヴイーヴルを吊し上げる。ヴイーヴルは突然の指名にびくりと跳ね上がった。
「え……冗談ですよね……? 私は宵街に知り合いなんていないです……」
「俺は賛成だ。他の奴に行かせるよりずっといい」
誰が駄目とは言わないが、ズラトロクは小さく手を上げて賛成の意を示した。
アイトワラスとスコル、ハティは目を細めて笑みを湛える。
「じゃあヴイーヴルさんに任せるってことで。調査の遣り方も任せる。オレ達は神妙に報告を待つとしよう」
「それは丸投げでは……!? 私一人でなんて……」
「ヴイーヴルは舐められない威厳がある」
「適任だね」
会議は終わりだとさっさと立ち去る三人を三つの目で追い、ヴイーヴルは立ち上がるズラトロクに助けを求める目を向けた。
「手伝ってやりたいのは山々だが、俺は忙しい。悪いな」
また湖畔でキャンプをするのだろう。それを忙しいと言うのか定かではない。
無慈悲に去る背を呼び止めることもできずヴイーヴルは泣きそうな目でフェルニゲシュを一瞥する。だが王には頼れない。
「……ヴイーヴル。謁見が円滑に進むように宵街に手紙を書く。それを持って行け。それと宵街圏に入ったら獏へ手紙を出すといい。宵街に行きたいと手紙に書いてポストに入れれば、連れて行ってくれる」
「そ、そうなんですか……? 宵街には窓口があるんですね……。では後程……」
ヴイーヴルはフェルニゲシュから目を逸らし、落ち着きなく小さな翼の生えた背を向けた。逃げるように足早に部屋を後にする。
彼女はいつも怯えている。城の中ではいつもだ。それは仕方の無いことであり、残されたフェルニゲシュは静かに目を閉じた。
大役を任されてしまったヴイーヴルは石の床を忙しなく鳴らして廊下を早足で歩き、不安そうな顔できょろきょろと周囲に目を遣る。
「アル――アルくーん――アルさん……?」
小声で呼び掛けながら城内を歩き回り、厨房の中でその人物を見つけた。
「あ、アル……少しいいかしら?」
「はい。構いません」
食事は調理師が準備をするのだが、彼も時折様子を窺い手伝っている。城に棲む獣が食べたい物を注文した時などに彼が包丁を握ることがあり、廊下で見掛けない時は厨房で目撃することが多い。
アルペンローゼは調理師に断って包丁を置き、不安げなヴイーヴルと共に厨房を出た。
「アル……頼みたいことがあるんだけど……」
「はい。何でしょうか?」
「私……宵街に調査に行けと言われてしまって。調査って言うのは、最近執り行った死刑の……ああいう罪人みたいな人のことを調査するんだけど……一人じゃ心細くて……アルも一緒に来てほしいの」
突然の同行願いにアルペンローゼは躊躇してしまった。フェルニゲシュに獣にあまり近付くなと言われた直後だ。同行なら長時間共に過ごすことになる。それに宵街とは。酒入りケーキを出したことを思い出す。行っても歓迎されないだろう。
「こんなこと言われてもアルも不安よね……だ、大丈夫、アルが殴られたら私が殴り返すから……。アルはこの前、東洋に旅行に行ってたし、行き方もわかるわよね……? 宵街へは窓口に連絡するみたいだけど、それは私が遣るから……」
「確かに東洋には行きましたが……。世話人が頻繁に外出していいのでしょうか?」
「構わないわ! ミモザ達もいるし、きっと大丈夫……。アルは凄いけど、いなくて仕事が回らないようじゃ城は遣っていけないわ。だから大丈夫よ!」
「そうですね……」
ここまで言われてしまっては、断る言葉も浮かばない。不安はあるが承諾するしかなかった。
「承知しました。手土産も持って行きましょう」
アイトワラスが宵街の使者に悪戯を注文したからではあるが、自分の行動で話が拗れては同行の意味が無い。円滑に勧めるためにアルペンローゼは土産を持参することを提案した。
「そ、そうね。手土産を忘れる所だったわ。所でアルは東洋の何処に旅行に行ったの?」
「日本とシンガポールです。見たい物があったので」
「見たい物?」
「城とマーライオンです。こことは異なる和の城と、巨大な獣の彫像を見たくて行きました」
「そんな物があるの……? 随分称えられてる獣がいるのね……。城も確かに気に……」
興味を示し始めたヴイーヴルははっと我に返り頭を振った。
「旅行気分じゃ良くないわよね……観光じゃなくて、外交! 早く準備しないと……帽子と日傘……アルも傘に入れてあげるわね。陽射しが苦手な者同士」
「僕も傘を持つので、ヴイーヴル様も一本使ってください。僕が入ってしまうとヴイーヴル様が少し傘から出てしまいます」
「肩車で傘を差す?」
真面目な顔をして妙な提案をする。これでもヴイーヴルは真剣に考えている。ただ彼女は少し頭の螺子が外れていて、おかしな所に刺さっている。
「いえ……目立つので止めましょう。僕もミモザに留守を頼んでくるので、後程城門で落ち合いましょう」
「やっぱりアルは頼りになるわね。手土産に何を買うか考えておかないと」
安心したヴイーヴルは先程よりも足取りが軽く自室へと下った。彼女の部屋は窓の無い地下にある。薄暗い地下でひっそりと身を潜めるように、湿っぽい毎日を過ごしている。アルペンローゼがこの古城に来るずっと前からそうしている。
ミモザもだがフェルニゲシュにも伝えておいた方が良いだろう。ヴイーヴルを見送ったアルペンローゼは歩を進める。こんなにすぐに言われたことに背くことになるとは思わなかった。
ミモザは城の雑用としてヴイーヴルが人の姿を与えた変転人だ。同じ植物であっても株が違えば異なる容姿や性格になるものだが、城のミモザは姿も性格も皆同じだ。アルペンローゼも彼女達が城内に何人いるのか正確には把握していないが、両手で数え切れない程は存在する。
フェルニゲシュの許へ向かう途中で三人のミモザが廊下の窓を拭いていた。アルペンローゼに気付いたミモザ達ははっと振り向き、雑巾を持つ手を上げる。
「アル兄様だ」
「御機嫌よう」
「御機嫌麗しゅう」
アルペンローゼはミモザを一瞥するが、足は止めない。ミモザはきゃっきゃと笑い、無邪気にそれぞれアルペンローゼに雑巾を投げ付けた。
「…………」
彼は足を止めないまま雑巾を空中で掴み、間髪を容れずに投げ返す。
「ぶっ」
「うっ」
「みっ」
顔面にそれぞれ雑巾を叩き付けられたミモザから小さく声が漏れた。
「……ミモザ共が……」
アルペンローゼは小さく毒突き、雑巾を顔に貼り付けるミモザを睨んで歩き去った。最近花街では変転人による悪戯が横行している。ミモザもまたこうした悪戯をよく遣るようになった。ミモザと顔を合わせる機会の多いアルペンローゼはよく標的にされている。叱って言い聞かせても良いのだが、今は時間が無く、そして切りが無い。ミモザに留守を頼むつもりだったが、他のミモザに頼むことにした。
少し遠回りになってしまったが、アルペンローゼはフェルニゲシュの部屋のドアを叩く。ゲンチアナは不在のようで、フェルニゲシュ本人の返事が聞こえた。
「失礼します」
フェルニゲシュは机に齧り付き、ペンを走らせていた。
「あと少しで終わる」
「はい。急ぎの用なので先に伝えます。ヴイーヴル様と共に宵街へ行くことになりました。言い付けを守れず申し訳ありません」
フェルニゲシュの指先からペンが倒れそうになり、寸前で力を取り戻す。
「……わかった。お前が無事に帰れるよう加筆する」
「すみません。御手数をお掛けします」
急ぎと言われフェルニゲシュもペンを急いだ。英語で認めてしまったが、アルペンローゼが同行するなら問題無いだろう。花街には便利な翻訳機がある。
手紙を封筒に入れ、匙に入れた赤い蝋を小さな炉の上で溶かす。それを封筒の口に垂らし、固まらない内に木の軸が付いたシーリングスタンプと呼ばれる判を捺した。花と城の尖塔が描かれた模様が赤い蝋に浮かび上がる。
「これを宵街の……長である狴犴に渡せ」
「承知しました」
刻印された書簡を受け取り、アルペンローゼは深々と頭を下げる。
書簡を大切に仕舞い、アルペンローゼは部屋の中を目だけで見渡して踵を返す。特に変わった所は無く、掃除も行き届いている。ミモザは悪戯に励んでいるが、仕事は放棄していない。
時間が掛かってしまったが、城門に先に現れたのはアルペンローゼだった。ヴイーヴルはその五分後に遣って来た。女性の身支度は時間が掛かるそうだ。彼女は額の瞳を隠すために鍔の広い帽子を被り、背中の小さな蝙蝠のような翼を隠すためにゆったりとした外套を羽織っている。手には忘れずに日傘も握り締める。人間の街で目立たないための装備だ。
「手土産を買う時はアルが喋ってね……私は牙があるから、驚かせてしまう……」
大公は人間の街では目立つ容姿の者が多い。アイトワラスだけが人間の外見以外の特徴を持たない獣だが、天の邪鬼な彼を大事な外交へ行かせるわけにはいかない。他人のために街を治めるなんて面倒なことを遣っているのだから、その獣達は気が長く対話ができるが、性格と言うものはある。
アルペンローゼも掌から晴雨兼用の黒い傘を抜き出す。
「承知しました。何処で手土産を購入しますか?」
「そうね……王に謁見するんだから……、フランスのコメルシーに行くわ」