140-うまれた日
誰もいない小さな街の片隅にある古物店に、灰色海月はいつものように願い事の手紙の差出人を連れて来た。
店の奥に座る獏の前へ差出人の男を座らせ、獏に手紙を渡す。
黒い動物面を被った獏は手紙を確認し、徐ろに立ち上がる。釣られて立とうとする男を制し、にやにやと堪えきれずに笑みを漏らす彼の背後へ回った。
「…………」
そして獏は五指を揃えて持ち上げ、背後から脳を揺さ振る一撃を男に落とした。
「っ!?」
男は首を絞められた小鳥のように小さく鳴き、床に転がった。
紅茶を淹れようとしていた灰色海月は唖然とし、床に倒れた男を机の向こうから覗き込む。
「あ……あの、それは一体何を……?」
平素ならこれから願い事を聞き、それを叶えるはずだった。これでは善行が始まらない。人間を気絶させた獏は平然と見下ろしている。
「この人の願い事は叶えない。僕の所に来た記憶は抜くから、元いた場所に戻して来てくれる?」
「え……? 未就学児でしたか?」
獏は大体の願い事を叶えるが、戴く代価が心や記憶という特殊なものなので、それを自分で理解できるだろう年齢を大まかに定めている。未就学児では理解が難しいだろうと避けているのだが、目の前の剃り残した髭が見える男も未就学児だったのかと灰色海月は眉を顰めた。人間も獣や変転人のように見た目では年齢が判別できない者がいるようだ。
「どう見ても四、五十代だよ。学校に行ってたかは知らないけどね」
「では何故……何がいけなかったんですか? 今後の参考のために聞かせてください」
「どんな願い事でも叶えろって言われそうだけど、今回は願い事の内容がちょっとね」
手紙を広げて見せられ、灰色海月は眉を寄せた。漢字があまり読めない。
「つぎの……レースの……を、してくれ」
「ふふ。まだ漢字は難しかったね。『次の日曜のレースの勝馬を予想してくれ』って書いてるんだよ。あと何か、これが当たればきっと彼女ができるとか何とか長々書いてあるけど、この最初の一行だけでいいね」
「勝馬とは何ですか?」
「競馬だろうね。レースで優勝する馬を当ててほしいんでしょ。でもギャンブルは運だから予想を当てるのは難しい。絶対に的中させるとなると、勝馬以外の足を引っ張ってやればいいけど……可哀想でしょ? 馬を怪我させたりするのは」
「可哀想です」
「だから願い事は叶えない。素直にお金が欲しいって言ってくれた方が遣りようはあるのに」
「納得できました。今後は気を付けます」
「僕は優しいからね。人間以外の動物は痛め付けないよ」
ふふんと笑い、懐から短く畳まれた杖を取り出す。それをぴんと引き伸ばし、意識の無い男の額に杖の先の大きな変換石を当てた。石は仄かに光り、ついと該当の記憶を抜き出す。
「手紙を投函した記憶は残しておこう。獏に手紙を出したけど選ばれなかった、ってことにするね」
目覚めない男を跨ぎ、獏は台所へティーカップを取りに行く。ほんの少量の些細な記憶なので物足りないが、一滴だろうと食事は食事だ。
「いいよ。捨ててきて」
「はい。捨ててきます」
灰色海月は倒れた男を重そうに引き摺り、店の外へ出した。すぐに灰色の傘をくるりと回して姿を消す。
獏は空のティーカップにこつんと杖を翳し、記憶を注いだカップを目一杯傾けて舌で滴を受け止める。少ない上に負の感情でもない記憶は味気なかった。
(久し振りに悪夢を食べたいなぁ……危険な悪夢しか食べる許可は出てないけど)
以前に悪夢が海に身を投げた一件があったが、あの悪夢は海に溶けてしまった。海の中では負の感情と言う餌が無く、萎んでしまったようだ。息絶えた宿主から供給を得られなかった期間が長かった所為もあるだろう。あの時は結局、獏は代価を得られなかった。
危険な悪夢とは、獏以外にも視認できるほど育って人間を襲うようになった悪夢のことだが、そんな悪夢は滅多に現れない。大抵の悪夢は見た者によってきちんと消化され、黒い靄から成長せず消えていく。そういう黒い靄を獏が食べれば、夢を見た者は夢見の悪い気持ちが無くなり、すっきりと爽やかな気分になる。だがそれを禁じられている現在は、靄が自然に消化されたとしても、悪夢を見た当人の気持ちが晴れることはない。
カップと杖を仕舞い、獏は革張りの古い椅子に腰掛ける。暇を察知したのか、棚の陰から黒猫が飛び出して獏の膝に乗った。続いて白黒の子猫も走り出て来るが、まだあまり高くは跳べないので床から見上げるだけだった。
「ここは時間が停止してるからか、子猫の成長が遅いなぁ。体が成長しない獣や変転人はともかく、成長する生き物は大人になるまで街から出した方がいいのかな」
子猫を見下ろしながら言うが、言葉は理解していないだろう。小さく鳴くだけだった。
「……あ、そうだ。君にもリボンを付けてあげるよ。前の街みたいに迷子になることはないと思うけど、小さいから隠れん坊は得意そうだもんね」
膝の黒猫を持ち上げ床に下ろし、瓦落多の並んだ置棚を物色する。
黒猫の首には店にあった白いリボンと小さな瓶が付いている。小瓶には夜燈石が入っており、暗い所で仄かに光って居場所を教えてくれる。
それと同じリボンが棚に残っており、同じように小瓶に夜燈石を入れて子猫に結び付けた。
「はい、お揃いだよ」
頭を一つ撫でると、子猫はマレーバクの黒い面を見上げて一声鳴いた。気に入ったのか邪魔だと訴えているのか獏にはわからないが、子猫は外すような仕草はしなかった。
「君は子猫にしては大人しいよね。誰もいない間に走り回ってるのかな?」
子猫の前で指を振ると、視線が付いて来る。小さな手を出そうとするが、中々思い切って飛び付かない。少々慎重な性格のようだ。
微笑ましく遊びに夢中になっていると、唐突にジリリとけたたましいベルの音が鳴り響く。あまりに大きい音だ。心臓が跳び上がってしまった。
「えっ、何? 音が出るような物なんてあったかな?」
金魚を目で追っていた黒猫も遊んでいた子猫も驚いて跳び去ってしまった。獏は鳴り止まない音の元を探し、音が大きくなる棚を覗く。奥の暗がりから音が聞こえた。瓦落多の間から艶やかな黒が覗いていた。
「電話……?」
奥から引き摺り出すと一層音が大きくなった。煩いくらいだ。そのダイヤル式の黒電話を見下ろし、獏は首を傾ぐ。電話線など繋がっていないのに、勝手に音が鳴っている。
だがよく考えると台所の冷蔵庫もコンセントは差していない。電気を外部から取り込まなくても動く。この街は人間の街とは違う。この黒電話もそれと同じ仕組みなのだろう。
(でも一体誰から……? ここに電話番号なんてあるの?)
一向に鳴り止まず、とりあえず受話器を取るしかなさそうだ。ずしりと重みを感じる大きな受話器を持ち上げ、静かに耳に当てる。向こうから話し出すのを待つ。
「…………」
数秒沈黙が流れたが、やがて小さく喋り声が聞こえた。受話器から離れて話しているようで上手く聞き取れないが、これもう喋っていいの? などと聞こえる。
こちらに話し掛けてくるのを更に待ち、突然大声を張り上げられた。
『ちょっと! 聞こえる!? 何とか言いなさいよ!』
鼓膜を劈きそうな声に思わず耳から受話器を離した。
「……どちら様?」
もしや手紙の次は電話で願い事を受け付けるのだろうか。もしそうなら事前に言っておいてほしかった。
『お前こそ誰よ』
一体何なのだ。
獏は黒電話を持ち上げ、隠れて様子を窺っている黒猫へ蹲んだ。受話器を顔の前に持っていくと黒猫が一つ鳴く。獏は一言も話さず自分の耳に受話器を戻した。
『は? 猫……? 猫が電話に出たってこと? どうなってんのよ!? 全然宵街に繋がってないじゃない!』
最後の一言ではっとした。宵街を知るのは獣か変転人だけだ。どういうわけか知らないが、とにかく電話の向こうに居るのは人間ではない。適当に遇っていたが、電話の謎が知れるなら話を聞きたい。
「獣? 変転人?」
『! 何よ、喋る奴がいるじゃない。でも狴犴じゃないわね? この声、誰? 知らない奴?』
嫌な名前が出て来た。狴犴と繋がっている奴なんて碌なことはない。
「電話の声は本人の声じゃないらしいよ。まあこの電話線が繋がってない電話もそうかはわからないけど」
『だから誰よ』
「獏だよ」
『はあ!? 獏!? 全然宵街じゃないじゃない! ……まあいいわ。クラゲちゃんに報告してもらう。代わって』
「クラゲさんは今、願い事の差出人を送りに外に出てるよ」
願い事を叶えず追い出したとは言えない。差出人を送るだけなのに中々戻って来ないが、新しい手紙の投函でもあったのだろう。
『あー……じゃあクラゲちゃんが戻って来たら言っておいて。この電話全然繋がらなくて、やっと繋がったのよ。いつ切れるかわからないから、さっさと要件を言うわ』
「この電話は何なの? と言うか君、誰?」
『鵺よ。今、フランス』
「え?」
聞き間違いだろうか。フランスと聞こえた気がした。
『アサギちゃんは大分回復したけど、ヨウちゃんとウロちゃんが小癪な敵に遣られて動けないの。もう少し回復してから宵街に戻るわ』
「え? 遣られてって……怪我してるの? あとウロちゃんって誰?」
『怪我じゃなくて、酔わされただけ。ウロちゃんは白鱗鶴茸。とりあえずフェルニゲシュには接触して話せたわ。ちょっと複雑なことになってるけど、調査してくれるって。殴らなかったことを褒めてもらいたいわ。じゃあ切るわね。伝言よろしく』
「ちょ、フェルニゲシュって……! 花街に行ったの!? それでフランス……」
聞きたいことはまだあったが、電話はもう何処にも繋がっていなかった。受話器の向こうからはもう声も音も無く、待っていても再び繋がることはなかった。
「罪人に対してこの信頼……もう釈放されていいんじゃないかな? 僕」
獏も仕方無く受話器を置き、黒電話を元の位置に戻した。また掛かってくるかもしれないので手前に置いておく。
再び静かになった店内に今度はドアが開く音がした。灰色海月が戻って来たようだ。急いで棚の間から動物面の顔を出す。
「おかえりクラゲさん。丁度入れ違いで電話が……」
動物面の視線は灰色海月ではなく、幼さの残る三人の人間の少女達に固定された。初めての電話で興奮して、人間の気配に気付かなかった。
突然顔を出した動物面に少女達は驚いて硬直してしまう。
「あ……ごめんね、驚かせて。先にクラゲさん、ちょっと来てくれる?」
手招いて棚の間に顔を引っ込める獏を、灰色海月は訝しげに追う。少女達を暫し待たせ、獏は先程の電話の内容を灰色海月に伝えた。鵺は焦っていたので、急いだ方が良いだろう。狴犴も連絡を待っているかもしれない。電話と言う物を知らない灰色海月は上手く理解できなかったが、話を伝えるだけで充分だ。
「……わかりました。伝えるので宵街に行ってきます。新しく投函された手紙と差出人は置いて行きます」
「うん。先に話しておくね」
灰色海月は急ぎ踵を返し店を出た。電話とは何なのか、首を捻りながら。
獏は預かった手紙を手に三人の少女を促し奥へ行く。机の前に簡素な椅子を三脚出し、獏も自分の椅子に座る。願い事の手紙に目を通し、小学生だろうか期待に胸を膨らませてわくわくといった表情をしている彼女達を一瞥した。
「ん……? 『友達の誕生日を祝いたいので、どんなサプライズがいいか考えてください』? 見ず知らずの僕より、君達が考える方が友達は喜ぶんじゃない?」
獏に届けられる願い事にしては随分と他愛無い健全な願い事だ。まるで仲の良い友人に相談するような願い事である。だがプレゼントに悩む手紙は以前もあった。それは大層面倒なことになってしまったので、警戒はしておく。
少女達はそれぞれ顔を見合わせ、目配せして誰が話すかを決める。
「最初は皆で考えてたんですが、わからなくなってしまって……それで、紙に五十音を書いて皆で十円玉に指を置いて」
「……こっくりさん? 駄目だよ、あんまり危険なことをしちゃ」
「危険なんですか? 迷った時はこうやって……あ、ちゃんと紙は処分したので大丈夫ですよ!」
「まあ……別にいいけどさ」
「もしかして知り合いなんですか!?」
「知らないけど」
こっくりさんと言う降霊術が人間の街に浸透していることは獏も薄らと知ってはいるが、霊が存在するかは知らない。
だがそう言った行為が力を持ってしまうことはある。獣の名が知れ渡り恐れられれば力が増すように、無から何かしらが生まれてしまうことはある。獏は今までそう言ったものに遭遇したことはないが、頭の隅に留めておいている。不幸の手紙の呪いのような、不可解なこともあるのだから。
「人間からすれば、願い事を叶える獏なんてのも、そう言った行為の一種なんだろうね」
少女達は不思議そうにきょとんとしながら顔を見合わせる。
「……そ、それで、どんなサプライズがいいと思いますか!?」
「こっくりさんが僕を指名したの?」
「獏に聞け、って言われました」
「丸投げじゃないか」
霊にまで獏の噂が広まっているのかと複雑な気持ちだったが、こういうものは大抵、三人の内の誰かが誘導しているものだ。意識的にしろ無意識にしろ、獏に助けを求めたのは確かだ。
「君達は三人もいて、少しも何も思い付かなかったの?」
「そんなことはないですよ……? まずプレゼントは絶対だし。でもプレゼントで予算を使い切るか、何処かお店で誕生日プランを申し込むか……」
「誕生日の子の好みで選べばいいんじゃない? 欲しい物があるならそれ優先で――」
話の途中で灰色海月が戻り、獏は彼女へ目を向ける。
戻った灰色海月は獏に頭を下げ、先に台所へ刻印の紅茶を淹れに行く。
「お疲れ様」
「はい。急いで用意します」
時間を計る彼女の邪魔をしないよう、会話を中断した。
ゆっくりと紅茶を待ち、机上にカップが届けられると、灰色海月は透かさず一台の端末を取り出した。二つに折れた小さな板を獏に自慢するよう開いて見せる。
「話を伝えた所、私にも試作機をと電話が貰えました」
「あ、鵺が使ってたのってもしかしてそれ? 携帯電話なんて宵街にあったんだ」
「狻猊さんが最近完成させた物だそうです。一台だけですかと尋ねたら、獏の分は必要無いと言ってました」
「えー、僕も欲しかったなぁ。でも試作機だし、後から完全版を貰えるのかな?」
「鵺さん達の件は現時点では他言無用で、他言すると刑を重くするとのことです」
「さらっと嫌なことを言うね」
楽しそうに話す二人を少女達は黙って見守り、皆で携帯電話を買うのも良いかもしれないと思った。
「――電話の話は後にしようか。先に願い事だね。どうぞ、飲んでいいよ」
獏は自分のカップを手に取り、静かに傾ける。少女達は慌てたように、釣られて紅茶を飲んだ。
「美味しい……」
「ふふ。クラゲさんが喜ぶよ」
和やかな空気が流れて口々に少女達は感嘆の声を漏らすが、それを遮るように再び唐突にジリリとあの大きな音が鳴り響いた。
「あれ? 鵺かな。ちょっと待ってね」
二度目なので獏は驚かずに席を立つ。
話には聞いたがこれが電話の音かと灰色海月は心臓が跳ね上がった。余りに唐突で音が大きい。
棚の間へ消えた獏は今度は迷わず黒電話の受話器を取って耳に当てた。
『殺す』
そして受話器を置いた。
無言で椅子に戻り、紅茶を一口飲む。
「鵺さんでしたか?」
「ううん。間違い電話だった」
気を取り直して少女達と相談を再開する。
「……さてと。それで、誕生日の子の好みとか欲しい物は把握してるの?」
「一番欲しいのは佐藤クララ似の彼氏って言ってましたが、買える物じゃないので……」
「佐藤……? 芸能人かな?」
「そうです。超カッコイイ人です!」
少女は同意を求めるように二人の少女を見る。三人は口々に興奮しながら「カッコイイ」と言い出した。
「欲しい物って言うとどうしても高い物になるんですよね。買える物なら自分で買うし……。お小遣いには限りがあるので、だから皆のお小遣いを合わせて買おうと思ってます」
「いいんじゃないかな。お友達も喜ぶよ」
「でもそれだけじゃ物足りなくないですか? 夜景が見えるディナーとか……」
「待って。友達って同級生じゃないの?」
「先生だよ。もうすぐ誕生日だって聞いて」
「友達って大人か……。じゃあ小学生にそんな高価な物なんて期待しないよ」
「中学生です!」
「ごめん……」
てっきり小学生だと思っていた。獏は人間は嫌いだが、これはこちらが悪いと謝罪をする。
「でも中学生だとしても、夜景が見えるディナーはちょっと背伸びし過ぎじゃない? 誕生日会ならこう……騒いだりしない?」
そうは言いつつ、人間の事情に詳しいわけでもない。時代により常に更新される人間が、現在の常識で正答を述べている可能性を否定できない。
「……確かにそうかもしれないです。お喋りもしたいし騒ぎたい……あっ、暴れるわけじゃないですよ!」
「僕が想像する誕生日会って、ホームパーティーみたいな感じなんだけど……細い紙を輪にして繋げた物を飾ったり、御菓子とかを持ち寄って、派手な三角の帽子を被ったりして」
「ダサい!」
「だ、ださい……!?」
「やっぱりお店のパーティープランがいいです!」
「僕に相談する必要なかったんじゃ……」
「誕生日のケーキを準備してくれるお店はたくさんあります。どんなお店がいいと思いますか?」
「僕がお店選びするの……?」
人間の店など詳しいはずがない。店が誕生日のセットを用意してくれるなんて知らなかった。そもそも獣は誕生日を祝ったりはしない。
困惑する獏を灰色海月は珍しそうに、そして面白そうに眺める。今回の願い事はかなり難しいようだ。
少女達も頭を抱え、ああでもないこうでもないとぶつくさ言っている。
「……あの。誕生日会とは何ですか?」
膠着状態で話が進まないので、灰色海月は疑問に思っていたことを小声で獏に尋ねた。今日は知らない言葉がたくさん出て来る。誕生日と言うものは知っているが、会がわからない。
「誕生日を祝うパーティーのことだよ。皆で集まって御喋りしたり遊んだり……特に遣ることは決まってないけど、定番はケーキを食べてプレゼントを渡すことかな」
「私の誕生日はありましたか?」
「え? クラゲさんは確か……六月三十日だったかな」
灰色海月に人の姿を与えたのは獏だ。その日は覚えている。
「去年はありましたか?」
「い、祝ってほしかったってことかなぁ……」
これにも獏は困惑した。通常獣は変転人にあまり情は見せず、誕生日を祝ったりもしない。誕生日を祝うなど飛び切りの情だ。獣の殆どは自分が人の姿を与えた者を放置するものだ。人の姿を与える理由は様々だが、何色の変転人になるのかなど気紛れな遊びであることが多い。名前も与えないのに、誕生日など祝うはずがない。
「……変転人同士で祝うのはいいと思うよ。誕生日を知ってる人がいるなら」
「いないです」
誕生日の話など、灰色海月はしたことがなかった。誰の誕生日も知らない。そして誕生日会に誘われたこともない。
「宵街ではあんまりしないんじゃないかな。誕生日を祝うって、人間だけが遣ってることだし」
人間以外の生物は誕生日を祝ったりはしない。覚えてもいないのではないだろうか。祝うのはいつも人間だ。人間は記念日を作り、それを祝う唯一の生物だ。
「貴方の誕生日はいつですか?」
「僕?」
どうにも逃れられない雰囲気だった。無言で凄まれ、獏は仕方無く口を割った。
「一月五日だけど……」
「過ぎてるじゃないですか」
「そんなこと言われても……」
獏は百年以上生きているが、誕生日を祝われたことも祝ったこともない。気にしたこともなかった。突然人間ごっこを求められても対応できない。
気圧されている獏を余所に顔を突き合わせていた少女達は、獏など放っておいて晴れやかな顔を向けた。
「決めました!」
獏に相談に来たのに、獏を其方退けで意見が纏まったようだ。
「彼氏は無理として、欲しいって言ってたブランド物のバッグを皆で買います! そしたらお小遣いが無くなるので、皆でお菓子を作って食べます!」
店のパーティープランは諦めたようだ。だが彼女達がそれで満足なら充分だろう。
「それじゃあ僕からも、そのお友達にラッキープレイスを教えてあげようかな」
「ラッキープレイス……!?」
少女達はまるで占いのようなその言葉に喰い付いた。
獏は代価を戴くのが申し訳無いほど何もしていないので、最後に一つ助言をすることにした。
「次の日曜日、競馬場に行くといいかもしれない」
「賭けるんですか!?」
「賭けてもいいし、見るだけでもいいよ。君達は賭けちゃ駄目だけど」
「じゃあ言っておきます……」
「代価はちょっと気が引けるけど、戴かないといけないから、昨日の晩御飯の記憶だけでいいよ」
「えっ……昨日の晩御飯はやめてください! 焼肉だったんです! 一昨日ならいいです」
「う、うん、わかったよ。一昨日だね」
晩御飯の記憶を躊躇われたのは初めてだったので獏はきょとんとしてしまったが、余程美味しい肉だったのだろう。三人からそれぞれ許可を貰い、晩御飯の記憶を抜き取った。
姦しかったが、簡単な善行は楽で良い。手を振って去る少女達に獏も手を振り見送った。死人も無く、健全な願い事で良かった。
灰色海月は今度は誰も連れずにすぐに戻り、やっと終わったと獏は一息吐く。
「勝馬の男と会わせるんですか?」
「えー。何のこと?」
恍けているが口元が笑っている。先に願い事を投函していた男は彼女を欲しがっていた。だから彼氏が欲しいと言う少女達の友達に場所を教えた。二人が出会うかどうかはわからないが、そういう気持ちの人間を誘導しただけだ。
また適当なことをと思いながら灰色海月はティーカップを片付けようとし、またあの電話がジリリと叫びを上げてカップを落としそうになる。
獏は立ち上がり、三度受話器を取った。
『ころ』
「君が死ねば?」
感情の籠もらない声で冷ややかに言い返し、獏は受話器を置いた。どんな手段でここに掛けているのか知らないが、迷惑な電話だ。
「誰ですか……?」
「間違い電話だよ」
先程の少女達の降霊術で何かが繋がったのかもしれない。それなら彼女達はもう帰ったので、電話ももう鳴ることはないだろう。