139-遠征
薄暗い宵街の科刑所を出た所で、幼い少女の姿をした獣――鵺はぽくりと木履を止めた。出入口から離れて石段の脇の茂みに入り、石壁を背に集まった面々に目を遣る。
「狴犴の説明は頭に入ったかしら? かなり遠方へ行くことになるから、準備しておくこととかがあれば済ませて。ここで待ってるから」
「じゃあボクは……木霊に暫く留守にするって言ってきます」
「私は病院に御見舞いに」
灰所属の少年、浅葱斑と黒所属の女、洋種山牛蒡は鵺に頭を下げ、石段を駆け下りた。
花畑で花魄を手伝っていた浅葱斑は、現在は木霊の手伝いをしている。罪人の花魄は地下牢へ戻されたため、花畑の管理は以前のように木霊に任されている。
花魄はその小さな体の所為で烙印を捺すことができず、外に出すと完全な自由となってしまう。重要な用が無い時は地下牢で大人しくしていてもらう。
洋種山牛蒡は病院へ向かい、入院している黒葉菫の見舞いへ行く。今回科刑所に召集された件と関係のある彼に、出掛けることを伝えるのだ。彼女は自宅を失った黒色海栗を家に泊めているので、そのことも彼に任せる。
「ウロちゃんはいいの?」
「……はい。何で俺なんですか」
一人だけその場から動かず、目元が隠れるほど前髪の長い白い青年は不服な顔で視線を落とす。白鱗鶴茸はこういう仕事には向かないと自分では思っていた。
「色違いの無色を三人連れて行くことになったのよ。灰はアサギちゃん、黒はヨウちゃん、そして白がお前」
「俺は戦闘に不向きだって知ってますよね? それに喋るのも苦手……。だから人間の所で仕事してるのに」
両目が殆ど隠れている長い前髪の隙間から恨めしげに鵺を見る。目を合わせるのも苦手なので、前髪を伸ばしている。
「交渉は私がするから、話す機会はそんなに無いと思うけど。仕事はどう? 順調?」
「世間話で話を逸らさないでくださいよ。人間は良いも悪いも皆同じじゃないと気が済まないみたいですね。足並みを揃えるのが面倒です。でも最初の力仕事よりは順調です」
「力仕事は確か二日で辞めてたわね。今は何してるの?」
「ひたすら箱にシールを貼ってます」
「……よくわからないけど、励んでるようで良かったわ」
「それで、白なら曼珠……苧環が適任じゃないんですか」
話が戻って来ないので、白鱗鶴茸は話題を無理矢理戻した。曼珠沙華はもういないということにまだ慣れない。
「マキちゃんは科刑所のことで忙しいから」
狴犴が大事に扱っていて手放さない、とは中々言えない。ほぼ未知であり、手が届かないほど遠方へ派遣するのだから、狴犴が白花苧環に許可を出すはずがない。狴犴が心配なのは彼だけなので、変転人には甘いが彼以外なら獣が付いていれば危険な仕事も任せる。
「…………」
「この前の渾沌の騒動で変転人が減ったから、人手が足りないのよ。知ってる? 無色は七人、有色は二十四人も死んだの。最近宵街に来たザクロちゃんは戦闘センスはあるけど、さすがに経験の無い零歳を連れて行けないわ」
「俺もたった九歳です」
「あら、九年も宵街にいるじゃない」
「ババァ……」
「聞こえてるわよ」
聞こえない程の小声で言ったつもりだったが、鵺は耳が良い。白鱗鶴茸は顔を逸らした。
殆どの人間や変転人が寿命を迎えて死んでいるであろう百歳を若いと言い、何百年も生きる獣など皆ババアかジジイだ。特に鵺は千年以上生きており、幾ら容姿が幼い少女であろうと変転人から見ればババアでしかない。
「俺の代わりに金瘡小草とかどうですか。生きてますよね?」
「生きてるわよ。無色の死者はね……馬酔木、白粉花、水仙、蓮華躑躅、秋水仙、紫陽花、草牡丹よ」
渾沌の騒動の後、仕事を依頼する必要のある無色の変転人だけでもと名簿を作成することになった。今まで顔どころか名前すら全てを把握していなかったので、今挙げた名前の中にも鵺の知らない者がいる。
その一件で無色は約三分の一が喪われた。痛い損失だった。
「蓮華死んだのか……」
「仲が良かった?」
「いえ、別に」
白はあまり交流を持たない。知っているだけであって、仲が良いと言うほど会話をしたことは無かった。
「キランちゃんはちょっと落ち込んでるみたいだったから、お前を呼んで正解だったわ」
「ババァ……そんな理由か……」
ここ最近の花街の旅行者による被害に苦情を言うため、狴犴は花街に使者を派遣することにした。獣が大挙して押し掛けると警戒させていらぬ対立を生んでしまうため、向かう獣は鵺一人だ。戦闘が目的ではないので一人でも充分だ。だが鵺一人だけでは使者として心許無い。それに被害者は変転人ばかりだ。変転人の視点も必要だろうと、変転人を増やした。何も発言しなくとも、立っているだけで花街は変転人を意識するだろう。
ついでに花街の視察も行う。宵街とは異なる獣の街の情報を知って損は無い。浅葱斑が花街の王と友人という事実は大きい。彼がいれば事が円滑に運ぶはずだ。
黒で洋種山牛蒡が選ばれたのは、黒葉菫が負傷したからだ。彼が動ける状態なら彼を出すつもりだった。経験豊富な最年長の黒色蟹も候補には挙がったが、彼は生憎他の獣の予約が入っていた。彼は予約が全てなので譬え狴犴であろうと覆せない。だが洋種山牛蒡も悪いわけではない。噂好きの彼女は情報に貪欲だ。どんな小さな情報も逃さないだろう。
浅葱斑と洋種山牛蒡が戻ってから、最終確認をするために鵺は小さな端末を取り出した。折り畳み式の携帯端末で、幼い容姿の鵺の小さな手でも片手で扱えるよう小型に設計されている。それを開き、画面を皆の前に見せた。三人も与えられた揃いの携帯端末を開く。
「問題はこれの使い方よね……連絡先を登録しておけって言われたから、遣るわよ」
操作方法は一通り教わったが、まさか人間の持つ携帯電話と似た物を持つ日が来るとは思わなかった。人間の持つ物とは機能が大幅に縮小されていて、これを製作した狻猊曰く試作機だそうだが、使用できることは確認済みだ。贔屓の持つ人間のスマートフォンを参考に、連絡を取ることを第一に設計されている。遠方でも声を伝えることができる電話の機能に加え、声を出せない状況のために文字のみの遣り取りが可能だ。情報の検索や便利なアプリなどは無いのでスマートとは言えず、携帯電話と呼ぶべきだろう。今まで連絡手段の無かった宵街には画期的な物だった。
慣れない手付きで三人は画面を叩いて各々の連絡先を登録する。洋種山牛蒡はすぐに使い方を呑み込んで指の動きが明らかに速い。以前人間の端末に触れたことがあるので、その御陰でもある。噂好きは処理能力も高い。
「試しに何か送ってみますね。あ、絵文字もある」
「……ハートを送ってこないでください」
「見て! 蝶の絵文字!」
浅葱斑もまたぎこちなく絵文字を打ち込む。画面一杯に蝶の絵文字が並んだ画面が表示され、白鱗鶴茸は顔を顰めた。これから花街へ行くのに、もう心が折れそうだ。二人の明るい雰囲気に付いて行けない。
「国を跨ぐと端末が使えないかもしれないから、確かめるために持たされたけど、使えないなら意味無いわよね。皆、充電はちゃんとできてる?」
三人は各々頷く。この端末は電気で動く物ではなく、獣や無色の力で動かす物だ。電池が無くなれば自分の力で充電を行えるため、その点に関しては人間の持つ端末よりも便利だ。
「端末は過信しないように、皆私から離れないようにね。鴟吻が千里眼で支援してくれるみたいだけど、たぶん花街の中は覗けないはずよ。海の向こうの国も何処まで見えるかわからないわ。だから注意は怠らないように。狴犴に釘を刺されてるから、相手が武器を出すまで手は出さないこと。でも武器を出したらこっちのものよ。危害を加えられそうなら遣り返していいわ。但し殺さないように。……やっぱり訂正。話せる状態にはしておいて」
「わかりました」
「そんな物騒な感じなんですか……? フェルがいれば抑え付けてくれると思ってたんですけど……」
「…………」
三者三様の返事を聞き、鵺は端末を仕舞った。小さな鈴の付いた杖を召喚し、しゃんと鳴らす。まるで遠足の引率だ。
「杖は出したけど、アサギちゃんの傘で移動していくから。道案内は任せたわよ」
「……はい。折角の久し振りの旅なので寄り道したいですが、直線で最短を進みます。まずは空港に行って、飛行機に密航します。大陸の方と転送場所を繋げてほしいですよね……」
「あー……それね。ラクタが前にインドと繋げてくれって言ってたわ。おやつを買いたいとか。でも転送管理してるのって地霊なのよね。地霊はひっそり暮らしたいみたいで、首を縦に振ってくれないのよ。首が何処にあるかは知らないけど」
ラクタヴィージャは自分のおやつを自分で作るが、それは容易に買いに行けないからだ。彼女の好む菓子は甘過ぎて宵街の変転人も手を出さない。彼女は渋々作っているのだ。
「そうだったんですか? 実は地霊って凄いんですね」
灰色の傘を掌から引き抜きながら、実は地霊は狴犴より偉いのだろうかと浅葱斑は想像してみる。地霊の命令を聞く狴犴の姿は想像できなかった。
浅葱斑は灰色の傘をくるりと回し、瞬時に空港の片隅に転送した。中は人間が多いので、外だ。
「これから密航するんですが、時間を優先しますか? それとも手間が掛からない方にしますか?」
「と言うと?」
「花街に行ける欧羅巴の国へ行く直行便があります。でも飛行機は時間が掛かります。ここから海外の一番近い国にまず飛行機で行って、そこから少しずつ転送で進む手もあります」
「その直行便はどのくらい時間が掛かるの?」
「えと……ボクが前に花街に入ったのはイギリスなんですが、そこだと十時間……以上は掛かると思います。ボクはあんまり飛行機を使わないので、正確な時間はわからないけど……」
「狴犴は時間については何も言ってなかったわ。変転人に負担が掛からない方にしましょ」
「負担と言うと……」
浅葱斑は話が纏まるのを待っている洋種山牛蒡と白鱗鶴茸を頭から爪先まで凝視して考える。花街に辿り着く前に変転人が疲れ果てていては話し合い所ではない。
「密航なので当然客室に座ることはできないので、荷物室で十時間以上耐えられるかどうかですね」
その言葉に洋種山牛蒡はあからさまに疲れたような顔をし、白鱗鶴茸もげんなりとした。答えは出ているようだ。
「直行便で最短の国だと……たぶん二時間くらいだけど、それは大丈夫?」
「それくらいなら大丈夫そう。トランプを持って来たの」
「遊ぶ気か」
緊張感の無い洋種山牛蒡に、白鱗鶴茸も呆れた。呑気なものだ。
「じゃあそれで行きましょ。アサギちゃん頼りになるけど、少しずつ転送で」
「わかりました」
話が纏まり、空港内へ潜入して浅葱斑は慣れた様子で旅客機の行き先を確認する。人間に見つからないよう気配を隠して国際線の荷物室へ乗り込んだ。後は物陰に隠れて到着を待つだけだ。無色の気配隠しは普通の人間に毛が生えた程度なので、鵺が補助しておく。
荷物を押し退けて常夜燈を置き、トランプ遊びをしながら到着を待つ。ぼそぼそと会話をして暇を潰しつつ、約二時間後に外に出た時は少し疲れていた。十時間ではなくて本当に良かった。
「さっさと次に行くわよ。ここからは転送? また飛行機かしら?」
体を伸ばし、鵺は面倒臭そうに尋ねる。一生分のトランプ遊びをした気分だ。
「折角だし、街も見てみたいわね……」
「行きは我慢してちょうだい。帰りなら多少寄り道してもいいわ」
初めて他国に降り立った洋種山牛蒡はそわそわと辺りを見回すが、物陰から出られないので景色はさっぱり見えなかった。壁には変わった所が無い。
「ここからは転送で行きます。陸続きなので。国を跨ぐ時は転送に狂いが生じて危険なので、徒歩です」
浅葱斑は既に世界中を旅しているので、国境付近の転送も試したことがある。国を跨ぐ時は高確率で転送が失敗し、危うく海に落ちそうになることもあった。おそらく転送を歪めている獣が存在する。徒歩で越えるのが最も安全だ。
「……景色も何も把握してない俺達は目的地がわからなくて転送できないのか……つまり浅葱斑が死ねば俺達は帰れないのか」
「ちょっ、縁起でもないこと言わないでよ!」
「だったら私達がアサギ君を守ればいいのよね? 任せて」
変転人達は色違いだが、どうやら仲良く遣れそうだと鵺も安心する。宵街では同じ色同士が交流を深めることが多いが、色が違っても本質は同じだ。特に白は複雑で一人で居ようとする者が多いが、これだけ会話ができていれば白鱗鶴茸も心配ないだろう。
浅葱斑が提案した方法で転送を繰り返し順調に欧羅巴に入ると、一気に景色が変わった気がした。絵本で見たような西洋の建造物が並んでいる。
「花街圏は広いので幾つかの国から行けるらしいですが、どの国から行くか希望はありますか?」
「何処でもいいわ」
「はい! フランス! でもさっき言ってたイギリスもいいわね」
洋種山牛蒡が目を輝かせているので、彼女の希望に応えることにする。白鱗鶴茸は興味が無いようで口を開かなかった。
「じゃあイギリスにする? 前に花街に行った時はイギリスだったから、確実かも。海を渡るから、船に乗ろう」
「海は見たことがあるけど、海上は初めてだわ……海水に濡れても枯れない?」
「人は海で泳げるし、大丈夫だよ」
頼もしい浅葱斑に続き、一行は初めての船に乗った。洋種山牛蒡と白鱗鶴茸は空の上より海の方が緊張した。二人は元は植物と茸なので海水に対して不安が大きいが、人の姿となった今は心配はいらない。海水に浸かった程度で人は死なない。
童話の中に迷い込んだような煉瓦造りの街並みのイギリスへ到着してまずは物陰に身を潜めるが、視線を感じて鵺は何も無い空間に目を向ける。そこには誰もいない。
「……見られてるわね」
「たぶん妖精だと思います。妖精は恥ずかしがり屋でボクも見たことはないんですが、たくさん居るらしいです」
「気配を消してるのに、丸見えなのね」
「妖精は怖いものじゃないってフェルが言ってたので大丈夫です!」
王から見れば大抵の者は怖くないだろうが、わざわざ浅葱斑の不安を煽らなくても良いだろう。鵺は黙っておくことにした。
「花街に入る許可は取らなくていいわけ?」
「フェルがいつでも来ていいって言ってたので、それも大丈夫です!」
王を味方に付けておくと便利だ。鵺は感心した。これは旅に明け暮れて宵街を不在にすることも咎められない。
最後の打ち合わせをし、浅葱斑は皆に目配せして灰色の傘をくるりと回した。
一瞬で視界が開け、広い空が見下ろす。宵街では見ることができない薄青い空に、ボールのように丸いランタンがふよふよと宙に浮いている。空は明るいためランタンに明かりは灯っていないが、もし花街に夜があるのなら明かりが灯れば幻想的な世界が広がるだろう。
広い平坦な土地には草花が溢れ、小さな三角屋根の煉瓦造りの家が点在している。
家々が接近し細い路地があちこちに伸びている宵街とは全く異なる景色に、浅葱斑以外の三人は声を漏らしそうなほど驚いた。
「これは……隠れる所は無さそうね」
「ここは花街の端の方なので建物が少ないですが、もっと奥に入ると建物が固まってる所があります。遠くに尖り屋根の大きな建物が見えますよね? あれがフェルの棲む城です」
三人は浅葱斑が指差す先に目を向け、背の高い尖り屋根を幾つも生やす古城を見つけた。具体的な距離は不明だが、こんなに遠く離れているのにはっきりと見える。近くで見ると科刑所よりも大きいだろうことは容易に想像できた。
「宵街でも言いましたが、城にはフェルの他に花街の実権を握る獣達も棲んでます。人間が使う階級の名称を少し取り入れてるらしくて、この実権を握る獣達は大公と呼ばれてます。城には六つの鐘があって、フェルと大公の人達がそれぞれ一つずつ鐘を鳴らす権利があるそうです」
鐘の話は宵街ではしなかったが、古城を見て思い出したので付け加えた。
三人は古城を見詰めて鐘を探すが、遠いためよく見えなかった。
「つまりアサギちゃんと友人では無い奴が五人いるのよね?」
「あっ、四人ですね。一人はフェルの秘書のアナです。アナは大公じゃなくて公爵……だっけ? らしいですけど、同じ変転人なので話し易いです」
「階級……ややこしいわね。でも変転人も権利を持たされてるのね。何だか窮屈そうだけど」
「名称があった方が便利みたいです」
「で、どういう時に鐘が鳴るの?」
「呼び出しとか色んな用途があるらしいですが――」
説明が終わらない内に、腹に重く響く鐘の音が一つ聴こえた。遠く離れていてもはっきりと聴こえる。一同は古城へ顔を向け、まさか外部からの侵入者を感知して鳴るものではないかと緊張を顔に浮かべた。
無言で尖塔を注視し、音が異なる二つ目の鐘が鳴る。厳かで冷たい音だった。
ゆっくりと五つ目の鐘が鳴ると、視界に点在する小さな家から住人が顔を出す。皆一様に古城の方を見ている。
「あっ……六つ目の鐘が鳴ったら、頭を下げてください!」
「何? 私も?」
「獣もです! ここの規則です!」
直前で大事なことを思い出した浅葱斑は慌てて注意を呼び掛けた。三人は怪訝な顔をするが、規則と言うなら従う他無い。ここは宵街ではなく、未知の花街なのだから。
六つ目の鐘が鳴ると、鳴り終わる前に住人達は古城に向かって頭を下げ、浅葱斑も慌てて深く頭を下げる。それに倣って三人も頭を下げた。宵街では獣が頭を下げる機会などそう無いだろう。鵺は稀有な体験だと思いながら、少し不満げに下を向いた。
「どれくらい下げてればいいの?」
「鐘が鳴り終わって大体十秒くらい……かな……」
言われた通りに頭を下げ続け、十二秒ほど経った所で四人は頭を上げた。近辺の家の住人は何事もなかったかのように静かに家の中へ戻っていく。
「……何かの儀式?」
興味深く洋種山牛蒡は真っ先に尋ねた。花街に棲む獣や変転人の全てが等しく頭を下げるなら、それは何か特別なことに違いない。
わくわくといった洋種山牛蒡とは対照的に浅葱斑は表情を曇らせ、六つの鐘の意味を少し震える声で話した。
「六つ全てが鳴る時は……誰かが死ぬ時だそうです」
予想外の言葉が飛び出し、洋種山牛蒡の好奇心も躊躇ってしまった。
「花街の罪人は等しく死刑に処されるらしいです」
「死刑……!? まさか狴犴より厳しい奴がいるとは思わなかったわ……死ぬことのない終身刑と潔い死刑、どっちが残酷なのかしら……」
「重い処罰なので罪の判定は慎重に、冤罪を防ぐため念入りに調査したりはするんですが……六つの鐘は権利者がそれぞれの判断で死刑を認めるという意思表示だそうです。五つ鳴れば六つ目は確実に鳴るそうで、五つ目が鳴れば皆外に出て来るみたいです」
「確かに五人が死刑に賛成したら、最後の一人は異を唱え難いわよね」
「一つ目から四つ目は誰の鐘なのかバラバラですが、五つ目はフェル、六つ目がアナです。アナは獣の決定に従うために最後なんだそうです」
「聞いてるだけで辛いわ、その役……」
並大抵の精神力では務まらないだろう。洋種山牛蒡は身震いし、白鱗鶴茸も無言で眉を寄せた。六つの鐘で頭を下げるのは、死刑に処される者への黙祷と共に、重要な役に就く変転人代表への謝意なのかもしれない。
「で、でも、ボク達はどんな人が死刑になったかは知らないけど、罪人なんだし、物凄い極悪人かもしれないし……死刑は怖いけど、もっと怖いことが起こってたかもしれないし……」
「そ、そうね! とんでもない殺人鬼だったら、死刑も仕方無いわね!」
すっかり花街の洗礼を受けてしまったが、他の街の規則に口を出す権利は無い。面倒な喧嘩を売りたくもない。
「死刑執行直後に会いに行っていいのかしらね……どう思う? アサギちゃん」
「うぇっ!?」
当然その疑問は生まれてしまう。事後処理や精神的にもこちらの問題を聞く余裕があるのか。
「ふぇ、フェルは……死刑執行人じゃないし、そういう処理はしないですが……ただ鐘を鳴らすだけだとか……。基本的に暇だと言ってましたけど……」
「邪魔にはならなさそうだけど、呼び出せる? 他の奴が出て来たら説明も面倒だわ。勘繰られそうだし。こっちはちょっと文句を言いたいだけなのに」
「とりあえず……城の前まで行ってみますか? 城の周辺は転送不可能なので、ちょっと歩くことになりますが……」
「転送できないの? 防犯のためかしら。不便ね。こんな広い街で変転人は皆徒歩なの?」
「花街は平坦だったり高低差もあまりないので、移動する道具がありますよ。ボクは前に乗らせてもらって、全然乗り熟せなかったけど……自転車があります。バイクを持ってる人もいるとか」
「誰か、自転車に乗ったことがある人?」
淡々とした鵺の問いに二人は頭を振った。宵街は石段や茂みで覆われた細い路地が多く、自転車など走れる場所が無い。当然、乗ったことなど無い。鵺も同じだ。獣に乗り物は必要ない。
「じゃあ徒歩ね。諦めましょ」
きっぱりと切り替え、鵺は率先して歩き出した。古城はもう見えているのだ、浅葱斑に案内してもらう必要も無い。六つの鐘ですっかり畏縮してしまった変転人の気持ちを落ち着かせるためにも、時間の掛かる徒歩はありがたいかもしれない。
道は舗装されていないが、自転車が走れるようにか草は刈られていて歩き易かった。或いは人通りが多く、地面が固められてあまり草が生えないのか。周囲にも目を向け観察しながら進み、確かに疎らに自転車が乗り捨てられていた。個人の持ち物ではないのか、適当に草叢に放置されている。さすがにバイクは転がっていないが。
「そこら辺の自転車って勝手に借りてもいいの?」
「いいみたいですよ。個人で所有してる自転車やバイクは家の近くに置いてあって、それは他人が勝手に使用することは禁じられてます。その辺に転がってるのは共用の物で、自由に使っていいそうです」
「共用の扱いが雑ね……」
「城はそこまで干渉しないとか……」
花街は広大なので、そこまで面倒を見る気は無いのだ。自由で放任だ。
「ちょっと思ったんですけど、」
興味津々で周囲を見渡していた洋種山牛蒡はふと自分達の目的を思い出し、何気無く口にする。
「私達が今から苦情を言う花街の変転人って、罪人扱いになるんですか? そうなら死刑……?」
「! え……ボク達が苦情を言ったら死人が出るってこと!?」
「落ち着きなさい。その決定をするのは花街よ。それが規則なら、花街の変転人なら覚悟してるはず。私達が口を出すことじゃないわ。中でもスミレちゃんを襲撃した変転人……そいつは処罰してもらわないと、お咎め無しなんてこっちの面目が丸潰れよ」
「スミレ君の件は確かに謝ってもらいたいわよね……」
「スミレはまあ……そうだけど……。うぅ……何か急に気が滅入ってきた……」
花街の変転人の悪戯だか何だかで負傷した変転人がいることは聞かされていたが、誰だか心当たりの無い白鱗鶴茸は皆の一番後ろを歩きながら黙って耳に入れておく。普段他者と交流の無い白所属の彼は他人の気持ちにもあまり関心が無い。薄暗い宵街では見られない薄青い空を見上げ、明るさに目を細めた。
花街は花々が咲き乱れ、遠くで遊ぶ変転人達が長閑な印象だ。つい先程誰かが死刑になったにも拘らず楽しそうだ。
古城に向かって歩くにつれ小さな家が増えていく。自転車やバイクが通過するからだろう、木の柵が立っている場所もある。自転車は偶に通るがバイクはまだ一台も見ていないので、バイクの所有者はあまりいないのかもしれない。
無色とは言え普通の人間に近い変転人である三人は足が痛くなりそうだったが、幸いその前に古城に着いた。古城は小高い地面の上に立っており、城下町を見下ろしている。その周囲には大輪の薔薇やハーブなど花が美しく咲き誇る庭があり、背の高い城壁に囲まれていた。
「庭師の人にフェルを呼んでもらいますね。無断で入るのはやっぱり怖いので……」
フェルニゲシュやゲンチアナに遭遇するなら良いが、知らない者に出会すと警戒される。弁解の余地がなければ終わりだ。
城壁の中央にある大きな門は開いている。そこから中の庭園が見えている。一番近くにいる庭師に狙いを定めて浅葱斑は飛び出した。
「――お前、その子に傷を付けたら殺すわよ」
「!?」
浅葱斑を見送りつつ、鵺はしゃんと後方へ小さな鈴が付いた杖を突き付けた。突然杖を向けられた洋種山牛蒡は驚いて反射的に武器を出しそうになるが、杖の先は彼女の後ろに向けられていた。
鵺は横目で背後を睨み、言葉を待つ。
「あー……驚かせてやろうと思ったのに」
洋種山牛蒡の背後に気配を消して立っていた金髪碧眼の青年は、残念そうに苦笑しながら軽く両手を上げて一歩下がった。
「お前は何? 私達に何か用?」
「それはこっちの台詞なんですけど。人ん家の前でこそこそと」
「人ん家……?」
「うわあああ!」
庭師に接触を試みていた浅葱斑から悲鳴が上がり、鵺は一瞬そちらへ意識を向けてしまった。一瞬の隙を逃さず金髪の青年は鵺の杖を叩き落とし、洋種山牛蒡の首に手を掛けた。
「お前……」
「油断大敵」
「どっちが油断かしら」
鵺が木履を鳴らすと、青年は即座に洋種山牛蒡の首から手を離して身を引いた。それでも避けきれず、下から射出された見えない力が頬を掠る。小さな傷だが、攻撃を受ける自分の姿など想像していなかった青年は目を瞠った。
驚いている場合ではない。青年は鵺の足元へ目を向ける。彼女の手から離れた杖は消えることなく地面に転がっていた。多くの獣は自分の手から杖が離れるとその瞬間にそれは消えてしまうのだが、偶にこういう特殊な者がいる。
「……驚いたな。杖が手から離れても力を使えるタイプか」
「それで、お前は何?」
浅葱斑が慌てた様子で走って戻って来たが、こちらはこちらで取り込み中だと気付き、近くにいた白鱗鶴茸の後ろに隠れた。白鱗鶴茸は指を掌に掛けたまま警戒する。
「だから、それはこっちの台詞なんだって」
埒が明かない。互いに溜息を吐き、どちらも譲らない。
「私達はフェルニゲシュに会いに来たの。それ以上は彼に直接話すわ」
「フェルに? 来客の予定なんてあったかな」
親しげな呼び方と先程の『人ん家』という発言で、嫌な予感がした。
状況がわからないが、ここは自分が何とかしなければと浅葱斑は恐る恐る顔を出す。フェルニゲシュと友達だと言えば好転するはずだ。もし何も変わらなかったら鵺の後ろに隠れよう、と勇気を出した。
「あの……ぼ、ボクは浅葱斑って言います……。フェルに会いに来たと伝えてもらえれば、わかるかと……」
「浅葱斑? ……何か聞いたことがあるな。――アル、ちょっとこっちに来い」
庭の方へ向かって青年は声を掛ける。浅葱斑は「ヒッ」声を呑み込んだが、その理由が皆にも理解できた。
庭の薔薇の間から現れたのは、肩までの黒髪と左の目元に黒子、そして赤黒い外套を羽織った黒い少年だった。黒葉菫を襲った変転人の特徴と一致する。彼は枯れた花を摘み取った籠を置いて庭師に一言声を掛け、感情を出さずに一同へ歩み寄った。
「浅葱斑って奴は知ってるか?」
「見たことはないですが、フェル様の御友人ですね」
「ああ……本当に知り合いなのか。じゃあ一応、フェルを呼んで来てくれるか? 不審者に城を彷徨かれるのは嫌だしな」
「承知しました」
踵を返そうとする黒い少年をそのまま行かせるわけにはいかなかった。順番は逆になってしまったが折角会えたのだ、ここで問い詰める。
「ちょっと待ちなさい、黒いお前」
少年は動きを止め、無表情で幼い容姿の獣を見る。微かに眉を顰め、耳にカフスを装着した。
「何か用ですか?」
「宵街の縄張りでうちの変転人を襲ったでしょ。きっちり謝罪と理由を聞かせてもらうわよ」
ぴたりと沈黙が流れた。金髪の青年も目を細め、黒い少年へ感情を消した目を向ける。
「アル。最近旅行に行ってたな。トラブルを起こしたのか?」
「いえ、知りません。人違いではないでしょうか」
堂々と嘘を吐いた少年に鵺は苛立ったが、証拠がないわけではない。
「こっちの襲われた変転人は、犯人の脚を撃ったの。脚を見せなさい。何もないなら見せられるでしょ」
「こんな所で脱ぎたくありません」
「あら、じゃあズボンを短くしてあげるわ。千切れば脱がなくてもいいでしょ?」
「……冤罪の上に羞恥を科されるんですか。知らないと言ってるじゃないですか」
こちらも平行線だが、鵺はその場から動けなかった。動くと金髪の青年から距離を取ることになる。この青年は獣だ。獣の相手を変転人に押し付けるわけにはいかない。
「見せたら冤罪も晴れるわよ」
全く引かない鵺に、金髪の青年もどうしたものかと首を捻る。幼い容姿の獣が言うにはトラブルがあったようだが、こちらの変転人には覚えが無いと言う。
「……少し口を挟ませてもらうと、アルは普通に歩いてるように見えるけど?」
脚を撃たれたなら歩行に支障が出るはずだ。だが黒い変転人にはそれが無い。
犯人の特徴は一致するのに、足を引き摺っていない。我慢をしているのか、そのことが鵺を苛立たせる。
「――騒ぎか?」
平行線を辿り身動きが取れないでいた場に、場違いなほど呑気な声が庭の花々の向こうから聞こえた。
花々の間から見知った金色混じりの長い黒髪の青年が歩いて来るのを見つけ、救世主だとでも言うように浅葱斑は歓喜の声を上げた。
「フェル!」
長い黒髪を優雅に揺らし、無表情を貼り付けた花街の王が一同を順に見回す。
「アサギの声が聞こえた気がしたんだが」
黒い変転人を見て高らかに上げた悲鳴のことだろう。声を聞き付けて出て来たようだ。城内なら一人で歩くことも許可されているため、彼はゲンチアナを連れていない。
「漸く話ができる奴が出て来たわね」
まずは容疑者を逃がさないために、脚の確認ができるようフェルニゲシュに訴える。フェルニゲシュは突然の要求に理解が追い付かなかったが、浅葱斑が頷くので要求を呑むことにした。形だけの王とは言え王は王だ。金髪の獣は無理に口を挟めなくなった。
「言い分はわかったが、アルも突然のことで困惑している。オレが確認をすることで手を打ってくれるか? もし問題があったとしてもアルは城の従事者だ。ここから逃げることはない」
浅葱斑はちらりと鵺の顔色を窺い、彼女も一先ずは承諾した。もしフェルニゲシュが変転人を庇って嘘を吐いたとしても、少なくとも自由な外出を禁じられているフェルニゲシュはここから逃げない。
「わかったわ。こっちも殺気を向けられっぱなしで苛々するし、さっさと済ませてちょうだい」
殺気を向ける当人は背後で苦笑する。不審者に殺気を向けて何が悪いのか。
フェルニゲシュは黒い変転人を連れて城の中へ戻る。黒い変転人も王には逆らえないようだ。
殺気を向けられながら暫し待ち、やがてフェルニゲシュだけが戻って来た。
「アルの脚に負傷は無かった。だから一旦解放した」
「無かった……!? 獣ならともかく、変転人の治癒力でこの短期間に銃創が完治するわけないじゃない!」
「アイトも一旦下がれ。アサギはオレの友人だ。友人を持て成すくらい、一人でもできる」
納得できない鵺には答えず、フェルニゲシュは先に金髪の獣を下がらせる。金髪の獣も怪訝な顔をするが、王が言うならとここは顔を立てた。浅葱斑とフェルニゲシュが友人であることは既知である。名前は忘れていたが、ゲンチアナの報告で耳に入っていた。
「あんたの顔に免じて、とりあえず引くよ。何か面白いことがあれば後で教えてくれ」
聞き分け良く金髪の獣はひらひらと手を振り、作ったような笑顔を貼り付けて城の中へと消えていった。同時に殺気も失せ、変転人達は固まっていた肩の力をゆっくりと抜いた。
「まさかこんなに早くアサギと再会できるとは思わなかったが、正面から来るとも思わなかった」
「え!? いつでも来ていいって……」
「それに相違は無いが、裏からこっそり来るものかと」
「それは先に言ってよ! ああ……怖かったぁ……」
「連れの人達がいると言うことは、ただ遊びに来たわけではなさそうだな。ガゼボに行って話そう」
友人だからかフェルニゲシュは物分かりが良く、庭の奥へと皆を招いた。花に埋もれる庭の中に柱と屋根だけの小さな建物が現れる。まるで鳥籠のような形だ。その柱には蔓薔薇が絡み付き、中にテーブルと椅子が置かれている。蔓薔薇が壁のように覆っていて薄暗いため、フェルニゲシュは傍らのカートに載っていたランタンに明かりを灯して机に置いた。
「わあ、素敵ね」
一番に興味を示したのは洋種山牛蒡だった。彼女はインテリアにも興味があるので、初めて見るガゼボとやらに興味津々だった。つい先程、命を取られ兼ねない状況だったことはもう忘れたようだ。
「座ってくれ。話を聞こう。それとも旅の話を聞かせてくれるのか? アサギ」
「今回は楽しい話じゃなくて……」
「そうなのか」
椅子は四脚しかなかったため、白鱗鶴茸は蔓薔薇の壁の方へ立った。相手と距離がある方が喋る機会は減るだろう。
鵺は一旦杖を仕舞い、彼以外の一同は席につく。フェルニゲシュは彼らが話し出すのを無表情で待つ。浅葱斑は鵺を一瞥し、彼女は一つ咳払いをした。
「多少の無礼は許してもらうわよ。私は宵街から来た鵺。今日は苦情を言いに来たの」
「苦情……オレが宵街に行った時に何か粗相をしてしまったか?」
「お前じゃないわ。花街からの旅行者がうちの変転人に嫌がらせをしてるのよ。それを花街の王にも把握してもらって、厳重に注意してほしいの。こっちの変転人を怪我させた件は特にね」
鵺は持参した封筒を差し出し、フェルニゲシュは無言で見下ろす。
「ここに被害状況と、嫌がらせをしてきた変転人の特徴が書かれてる。被害者は四人よ。目を通してくれる?」
「随分立腹のようだ。話を聞くに、アルも加害者と言うことか」
フェルニゲシュは封筒を開け、書類に目を通す。
「……アサギ、すまないが読み上げてくれ。オレは言語を覚えたと言っても読み書きはまだ疎い。聞きながら英語で書き直す」
「あ、そっか……わかった。ゆっくり読むよ」
「あら……それは気が付かなかったわね。悪かったわ。お前は翻訳機とやらを持ってないのね」
「生憎外出を禁じられているのでな。翻訳が必要な機会は無いだろう」
フェルニゲシュは一旦城に入り、紙とペンを持って戻った。
浅葱斑の音読に耳を傾け、英語に書き直す。さらさらと流れるように書かれる文字は皆には読めなかった。英語が堪能な者など宵街にはいない。
王に対しこんな労力を働かせてしまって良いのだろうかと考え始めた頃には、もう最後の一文を書き上げる所だった。
「把握した」
フェルニゲシュはペンを置き、差し出された書類を封筒に戻す。
「これが事実なら謝罪する」
「へえ……信じてないわけ?」
「いや。だが鵜呑みにするわけにはいかない。これはあまり大きな声では言えないんだが、アサギの……友人なのか? お前達は」
最後に確認を取る彼に、浅葱斑は何と答えようか悩んでしまった。友人と呼べる関係ではない気がする。
「友人……って言うほど打ち解けてはないけど……でも良い人だ」
白鱗鶴茸とは今回が初対面だったが、悪い人ではない。震える浅葱斑を後ろに隠れさせてくれたからだ。
「アサギがそう言うなら話すが、決定的証拠を得られるまでは行動に移さないでほしい」
「まあ確かにいきなり苦情を言われたら途惑うわよね。わかったわ。しっかり裏を取ってちょうだい」
「アル――先程お前達がズボンを脱ぐよう強要していた変転人はアルペンローゼと言うんだが、彼は少々特異な体質でな。自己治癒力が異常に高いんだ」
「! それって……」
「銃創があってもすぐに完治しているだろうな。アイト――お前達に殺気を向けていた獣だが、アイトワラスは天の邪鬼な性格だ。どう出るかわからないから事を泡立てないようああ言った」
「泡……? 荒立て、よね? あいつ……やっぱり嘘を吐いてたのね……! 知らないなんてよくも言えたわね」
「その確証は無いことを忘れるな」
「……わかってるわよ」
銃創が完治したと言うなら、証拠も消えてしまったことになる。
「あまり他の街の者に話すべきではないだろうが、関係が無いとも言い切れない問題がこの街でも起こっている」
「……?」
「変転人による被害が多発している」
「あら、自分達の縄張りでも同様のことをしてるってこと? この街の変転人は余程悪戯好きなのね」
「そうではない。以前はそんなことはなかった。だがここ最近、度を越した悪戯が発生している。オレも刺された」
「え!? フェル大丈夫なのか!?」
突然の告白に浅葱斑も慌てて彼の全身を見回す。無表情なので怪我を負っているかわからなかった。
「このことは誰にも言っていない。オレは無傷だ。処罰を望まない」
「無傷なら良かった……」
「オレなら構わないが、他の者に同じように害を与えては問題になる。だから後日注意をした。だが怪訝な顔をされた」
「それって……アルペンローゼの時と同じ……?」
「ああ。似ていると思った。アサギ達は先程の鐘を聴いたか?」
するりと話題を変えられ即座に返事ができなかったが、沈黙の後に皆は頷いた。死刑の鐘の音を思い出し、空気が重くなる。
「あれは現行犯で捕縛した変転人を殺処分する鐘だった。普段の素行は悪くはなく、寧ろ穏やかだったそうだ。だが選りに選って獣を襲ってしまった。弁解の余地も無く危険だと判断されて始末された」
「…………」
変転人達は息を呑み、目を伏せた。変転人は獣に逆らえない。それでも狴犴なら死刑を言い渡さないだろう。最悪でも地下牢だ。白花苧環の断頭は特殊な例であるが、それと同じように花街では当然のように死刑が執行されている。死刑になった変転人が何故獣を襲ったのか理由は不明だが、只の悪戯で獣に手は出さないだろう。
「もしかしたら後日問い質せば、最近起こっている件のように怪訝な顔をしたかもしれない。オレを刺した変転人のことは話題に上げることができないが、宵街での問題を皆に話してみよう。現行犯ではないから思考の余地はある」
「ちょっと苦情を言うつもりが、複雑なことになったわね……。そっちが調査してくれるなら結果を待つけど、その間、宵街の縄張りに旅行に来るのを止めてくれる? 調査中にまた問題を起こされても困るのよ」
「それは難しいな」
「何でよ」
「オレは形だけの王だ。自由を奪う決定権はオレには無い。できるのは話題を提供することくらいだ」
「形だけって、本当に何もできないの? 何のための王なのよ」
「オレはうっかり王になっただけだからな」
「うっかりで王になれるって何なのよ!」
「…………」
何と説明しようかフェルニゲシュは考えるが、長くなりそうだったので止めた。また沈黙が流れてしまった。
「歓談中、失礼します」
会話が途切れた所で、花々の中から大きな銀盆と椅子を一脚提げた黒い少年が現れた。目元に黒子のある容疑者、アルペンローゼだ。肩に下ろしていた黒髪は今は束ねている。
鵺は彼を睨むが、フェルニゲシュの前で荒立たせないよう口を噤んだ。
「どうした? アル」
「一人で持て成すそうですが、茶の一つでも出した方がいいかと」
隅に置いてあったカートに銀盆を置き、白鱗鶴茸の前へ持参した椅子を置く。続いてカートへ戻って白い上品なティーカップを並べ、慣れた手付きで熱い紅茶を注いだ。立ち上る爽やかな香りがガゼボを満たす。まず王であるフェルニゲシュの前へ、次に客人の獣へ、カップを配る。
「こちらはツーガー・キルシュトルテです」
共に持って来た淡いピンク色が美しい円いスポンジケーキを示し、同じ大きさに切り分け各々の前へ並べていく。フェルニゲシュも初めて見る菓子に興味津々だった。
「アルが作ったのか?」
「はい。バタークリームを間に挟んだサクランボのケーキです」
ケーキを一つ完成させられるほど時間が経っていたようだ。フェルニゲシュはケーキを見下ろし、客人達に目を遣った。
「どうぞ、お召し上がりください」
一歩下がり、アルペンローゼは恭しく頭を下げる。
「……ああ、アルのことをもう少し紹介しておこう」
出された物に手を付けて良いのか鵺を窺う宵街の変転人達に、花街の変転人を紹介しておく。目を輝かせて食べたそうにしていた浅葱斑と洋種山牛蒡ははっと我に返った。
「ゲンチアナのことは知っているな? アルペンローゼは城内でゲンチアナに次ぐ高位の役職に就いている。オレにはゲンチアナがいるが、彼は他の獣の世話を一手に担う優秀な変転人だ。アナの手が空かない時は稀にオレの面倒も見ている。菓子を持って来てくれたのは初めてだが」
紹介に与ったアルペンローゼは頭を下げ、微かに苦笑した。
「フェル様にはアナがいます。食事の管理も彼女がしてますよね?」
「アナは菓子を作らない。買って来たこともない」
心無しか落ち込んでいるように見えて、アルペンローゼは慌ててケーキを勧めた。このままではフェルニゲシュの世話まで任されてしまいそうだ。
鵺が警戒するので、フェルニゲシュは毒味役も兼ねて先にケーキにフォークを入れた。口の中に芳醇なサクランボの香りが広がる。この世にこんな美味しい菓子があったのかと、食べ物をあまり知らないフェルニゲシュは感動した。
「食べないなら皆の分も腹に入れるが」
「その喰い意地、うちの獣を思い出すわ」
鵺は呆れながらフォークを手にした。今頃宵街の科刑所の中で、一時的に鵺の代理を務めている蒲牢がくしゃみをしているかもしれない。
鵺も一口ケーキを頬張る。軽く咀嚼して違和感に気付いた。
「……待って! お前達、食べないで!」
叫んだ時には三人はもうケーキを食べていて、ぐったりとしていた。鵺がフォークを持った時点で、食べて良しと口に放り込んでいた。洋種山牛蒡と白鱗鶴茸は頬を赤く染めて目を回して意識が飛び掛け、浅葱斑も瞼が重そうだ。
「お前……! わかってて酒入りのケーキを出したわね!?」
一口放り込んですぐに気付いた。このケーキには酒が含まれていると。しかも大量にだ。
アルペンローゼはフッと嘲るように嗤い、酒に酔わされる変転人達を見下ろした。
「馬鹿ですね。最初に言ったじゃないですか。これはツーガー・キルシュトルテだと。キルシュは酒ですよ。サクランボのブランデーのことです。通常より分量を多くしましたが」
獣は酒を飲めるが、元は脳や内臓の無かった植物系変転人は酒が飲めない。菌類もだ。初めての酔う感覚に翻弄され、酒が抜けるまではもう使い物にならない。元は虫である浅葱斑はまだ耐えているが、慣れない感覚に途惑っている。
「お前……何が望みなの? こんなことをして只で済むと思わないことね!」
「望み? それはもう叶ってますよ。先程の仕返しです。只それだけです。獣の体には何とも無く、寧ろ美味しいとすら思ったでしょう?」
「フェルニゲシュ! お前の所の変転人はどうなってるの!? これが正常!? ちゃんと躾けておきなさいよ!」
「いや、躾はオレの仕事ではない」
スポンジに大量の酒が染み込ませてあることには彼も気付いていた。それを含めて美味しいと言った。どうやら変転人は酒が苦手らしいとたった今知った。黙々とケーキを食べ、フェルニゲシュは返事をする。
「アル、これは美味しい。程良い酒加減だ」
「お褒めに与り光栄です」
二人の会話に鵺は顔を顰める。何が程良いだ。念入りに酒に漬け込まれていて、弱い獣なら微酔いにでもなりそうだ。鵺は平気だが、フェルニゲシュはそれ以上に平然としている。形だけと言うが、王と言うだけあって彼は相当強い。鵺は改めて警戒し、二人を睨んだ。
「一旦帰って酔いを醒ました方がいいんじゃないですか?」
「っ……」
胸座を掴んでやろうと思ったが、敵の根城の中ではあまり強気に出られない。今回の訪問は飽くまで苦情と調査の依頼が目的だ。それは達成されている。まだ大人しくしておかねばならない。城の大公とやらが出て来ると厄介だ。何か問題を起こして宵街の被害が増すことだけは避けねばならない。
「……じゃあ最後に証拠品を置いて行くわ」
アルペンローゼを睨み、声に怒りを孕ませながら鵺は真っ二つに切れた黒い傘の半分をフェルニゲシュに放った。受け取ったフェルニゲシュはその断面を見、一瞬言葉に詰まる。
「それはうちの被害者の持ち物よ。転送用の傘を真っ二つにされたの。もう半分はこっちが持ってるわ。全部渡して証拠隠滅されたら堪らないもの」
「……預かっておく」
「それじゃあ、用も済んだし私達は帰るわ」
「アサギもか? ここで酔いを醒ませばいい」
「嫌よ。いつまでも花街に居るなんて落ち着かないわ。狴犴に釘を刺されてなければ一発殴ってる所よ。それと、アサギちゃんとこれからも仲良くしたいなら、信用を得ることね。今のお前は誰の味方だかわからないわ」
ふんと踵を返し、鵺は杖をしゃんと召喚した。ここでは転送できないので、小さな体で三人を抱えて飛び出す。浅葱斑には自力で杖に掴まらせたが、洋種山牛蒡と白鱗鶴茸は暫く意識が回復しそうにない。
逃げるように飛び去ってしまった小さな獣と友人を残念そうに見送り、フェルニゲシュはテーブルに残されたケーキを淋しそうに見た。
「……アル。アイトに言われたのか?」
「お気付きでしたか。無礼な不審者に少し悪戯をしてやれと。フェル様の御友人を痛め付けるわけにはいかないので、このようにしました。変転人の体には重い物ですが、不味い物ではないので」
「この傘はお前が切った物だな」
「……覚えがありません」
「本当に覚えが無いなら暫くは獣に近付くな。世話人の立場では難しいだろうが」
「承知しました。必要最小限の接触に留めます」
アルペンローゼは感情の籠もらない目を伏せ、口を付けてもらえなかった紅茶と欠けたケーキを回収した。