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138-宇宙


 おそらく小学生だろう。あどけなさに期待を混ぜた顔をして目を爛々と、黙り込んでしまった(ばく)を見詰める。

 机上には契約の紅茶が入ったティーカップが置かれ、静かに湯気を立てていた。

 こんな無茶な願い事は初めてだった。死人を生き返らせてほしいと言われた方がまだ希望があると言うものだ。

 文字をある程度読めるようになった灰色海月(クラゲ)は、手紙を事前に獏へ届けて中身を確認しなくなった。判断が難しいことは尋ねるが、罪人に科された刑なのだから全ての願い事を叶えて善行を完遂すべきだ。

 だが叶えられない願いもある。獏は全能ではない。獏は動物面に隠れた顔を困惑に歪め、革張りの古い椅子を引いて背後の棚に体を向けた。そこに暗示があるわけではないが、すぐ横にある金魚鉢で泳ぐ二匹の金魚を見詰める。

(叶えられないなんて言ったら、信用の無い噂が流れるよね……どうにか機転を利かせるか納得をさせないと……)

 誰もいない小さな街の中で、頼れる者は自分しかいない。灰色海月は傍らに置物のように立つだけで口添えは一切しない。監視役は飽くまで罪人の監視をするだけで、助言をする任務は無い。

『叶えない』と『叶えられない』は別物だ。必死に頭を働かせながら、獏は手紙の差出人に向き直る。

「えっと……プラネタリウムって奴には行ったことがあるかな?」

「はい! あります。実際の宇宙はもっと綺麗なんだと思いました」

「そう……」

「ね、(そら)ちゃん」

 無口な隣に目を向け、少年はにこにこと笑顔を作る。

 手紙には『宇宙に行きたい』と書かれ、少年少女二人の名前が書かれていた。願い事は一人でという決まりは無いので、二人でも三人でも一緒に手紙を出して構わない。

 問題は願い事の内容だ。以前に『星が欲しい』という願い事をされたことがあるが、この願い事はあれよりも達成が難しい。星なら地上に降ることもあり、宇宙に足を運ぶ必要は無いのだから。

 空を飛べる獣は珍しくないが、何処まで高く飛べるか試した獣は然程いないだろう。獏は飛べた頃にそれを試したことは無い。宇宙なんて行きたいと思ったことが無いのだ。

「宇宙は広いから、全てを見ることはできないよ。普通に考えて時間が掛かり過ぎる」

「それは……そうですよね。どうしよう……あ、じゃあ輪っかのある土星が見たいです! いいよね?」

「他にも環のある星はあるけど、土星がいいの?」

「何個でもいいんですか!?」

「……ちょっと待って、考える」

 獏はもう一度背を向け、背後の金魚鉢を睨んだ。金魚は視線を気にせずゆったりと泳いでいる。

 宇宙に行く夢を見せたら、それは宇宙へ行ったことにならないだろうか。自分が眠ったという記憶はあるので、夢だという自覚もあるのが問題だ。それに夢は完璧に自分好みに操作できるわけではない。

「宇宙に行ったら土星の輪っかを触りたいね」

 獏が正面を向くのを待ちながら、前に置かれた紅茶に漸く口を付けて眉を顰める。苦いのだと気付き、灰色海月は机上にシュガーポットを置いた。

「……紅茶って苦いんだな。宙ちゃんも砂糖入れる?」

 うんと頷き、ティースプーンに砂糖を盛る。一杯の砂糖はすぐに溶けて消えた。

 黙考していた獏ははっと頭を回し、思い付いたと灰色海月を手招く。

「クラゲさん、(しん)の居場所はわかる? 連れて来てほしいんだけど」

椒図(しょうず)さんと一緒ですよね。確認します」

 灰色の頭を下げ、灰色海月は掌から灰色の傘を引き抜きながら速やかに店を出る。

 蜃は蜃気楼の能力でどんな物でも創り出すことが可能だ。勿論、宇宙も例外ではないはずだ。宇宙は広大だが、触れない物は幻で構わない。幻なら長時間出しておくことができる。触れたいと言う土星の環だけ、触れる瞬間に実体化すれば良い。この街を宇宙にすれば、酸素の問題も考えなくて済む。名案だ。

 後は蜃を待つだけだ。獏は紅茶を飲みながら、楽しそうに喋っている姿を眺める。子供の願い事は無邪気で希望に満ちていて微笑ましいが、叶える方は苦労する。

 やや時間は掛かったが灰色海月は蜃を連れて戻り、店には入らずにちりちりと小さなベルを鳴らして獏を呼んだ。

「ちょっと待っててね。話を付けてくるから」

「はい」

 立ち並ぶ置棚の間を抜けて外へ出る背中を、あどけない目が追って見送る。

「待ってます」

 店の外に黒いフードを被った赤髪の少女とその横に緑髪の少年を見つけ、獏は安心した。相変わらず二人は仲良く連んでいる。

「獏、今度は何なんだよ。どうしても俺が必要だとか言われたが……嫌な予感しかしない」

「椒図、ありがとう。蜃を説得してくれたんだね」

「おい、勝手に察するな」

 蜃は面倒臭そうに顔を顰めるが、椒図は快く微笑んだ。

「今まで獏には世話になったからな。困っているなら助けたい」

「…………」

 世話と言うなら世話だが、迷惑と言うなら迷惑だ。椒図は獏を友達だと思っているが、蜃にはまだそう思うことができない。

「まあ話くらいなら聞いてやってもいいが。この前みたいな面倒なことは御免だぞ」

 この前とは、崖を飾り付け花畑を作り天気を操作した時のことだ。獏と別れた後、蜃は力の酷使でぐったりとし、椒図に担がれて去ることになった。

「蜃なら簡単なことだよ。宇宙を作ってほしいんだ」

「ああ何だそのくらい……宇宙!?」

「うん」

「うんじゃない! 宇宙ってあの、空の向こうにある広大なあの……宇宙のことだろ!?」

「うん。主に幻を出してほしいだけだから簡単だよね?」

「無茶言うな!」

 簡単なことだと快諾してくれるとばかり思っていた獏は、動物面で顔が隠れているにも拘らず手に取るように表情がわかるほど愕然とした。

「鳩が特大の豆鉄砲を喰ったような顔するなよ。宇宙って……広過ぎるだろ」

「広くても、視界に入る範囲だけでいいんだよ」

 特大の豆鉄砲とは何だろうと思ったが、言いたいことは伝わった。

「……いや、やっぱり無茶だ」

「今の蜃じゃ不可能なの……?」

「化生前でも無茶だ。いつもホイホイ簡単に幻を作ってるように見えるだろうけどな……その……知らない物は正確に作れないんだ」

 言葉に詰まったのは、弱点を晒すことにならないかと危惧したからだ。悩んだ末、弱点と言えるほど作れる物が少ないわけではないと判断した。

「蜃は凄いんだよ、獏。創造するために様々な物を知識として詰め込んでるんだ。一度見ただけでも、複雑な機械だろうと作ることができる」

「へぇ……記憶力が良いんだね」

「記憶と蜃気楼を作る知識の引出しは別で、力を使う時は知識に直接接続してるそうだ。だから蜃に機械の構造を尋ねてもわからないらしい」

「何だか脳が二つあるみたいだね? 凄いね」

 何だか褒められているらしいと察した蜃は照れ臭そうに口の端をもごもごと動かす。褒められて悪い気はしない。

「だからつまり……宇宙は見たことがないから作れない、ってこと?」

「見たことがなくても写真や映像などを見れば作れるらしいんだが、宇宙は広大過ぎて大きさが把握できず、全体像がわからない。ある程度範囲を絞れば可能かもしれないが」

 椒図は照れる蜃に目を遣り、蜃ははっとして顔を引き締めた。

「範囲は、土星の周囲だけでいいよ。土星の環に触れられればいいから」

「環に触れる……? 一時的に実体にしろってことか? ……椒図、土星の環って何だ?」

「僕も宇宙のことはよく知らないんだが……。言葉は聞いたことがあるが、実際に行けるものなのか?」

 宇宙に目を向ける機会など無かった三人の頭には無数の疑問が浮かぶ。宇宙に興味のある獣は然程いないだろう。宇宙には人間も食べ物も無いのだから。

「私の出番ですか?」

 頭を抱える獣達の前に、得意気な無表情という矛盾する表情を浮かべた灰色海月が一歩進み出た。

「まさか……こいつ、宇宙を知ってるのか……?」

 人の姿を与えられてからすぐに獏の監視役となった灰色海月は、宵街(よいまち)の僅かと獏の周囲の知識しか無いはずだ。つい最近まで文字を読むことすら儘ならなかった彼女に何がわかると言うのか。蜃はごくりと唾を呑み、椒図も関心を示した。

「私は宇宙を知ってます。見たことがあります。たくさんの星がある場所です。図書園で見ました」

「……よし、図書園に行くか」

 要は本で見ただけだ。すぐにでも確認に行ける場所に本があるなら、行った方が早い。

 もっと褒められると思っていた灰色海月は無表情で愕然とし、無言で獏を見た。

「クラゲさん、ありがとね。助かったよ」

「!」

 褒められた灰色海月は上機嫌になった。

 獏も先日図書園で本の整理を手伝ったが、任された地上階にそんな本は無かった。おそらく地下の方にあるのだろう。

「でも皆で行くと契約者だけ残すことになるね……」

「それなら僕が残ろう」

「いいの? 椒図なら安心だよ」

「地下牢以外の牢で罪人体験も悪くない」

「それは冗談なのかわからないけど……」

「椒図は時々変な冗談を言うからな」

 蜃はもう慣れているので適当に遇う。元々罪人だった椒図は地下牢も居心地良く過ごし、牢をあまり疎ましい物だと感じていない。そんな罪人は彼だけだろう。

 灰色海月は獏に首輪を装着し、灰色の傘をくるりと回す。それを見送り、椒図は古物店に入った。

 宵街の中腹より少し下、下層に差し掛かった石段に転送し、灰色海月は先頭に立って歩き出す。いつもの酸漿提灯に見下ろされ、蔦が伸びる石段を下りる。

「図書園って宵街にあるのか」

「知らないのに行くって言ったの?」

「人間の所の図書館のことだと思ったんだが」

「宵街にもあるんだよ。人間がいなくて快適」

「後で椒図も連れて行ってみるか」

 蜃は宵街に棲んだことがなく、知っている施設と言えば病院と科刑所、花畑と工房くらいだ。宵街に図書館があるなど初耳だった。

 茂みを分けて辿り着いた図書園の入口には、壊れた机や椅子はもう無い。新しく取り付けられた扉を開けて中に入った。中は薄暗いが温かな光に照らされ、草木が茂っている。

 奥にある細長い机で本を読んでいた黒色蛍は、来園者に気付いてフードを纏う頭を上げた。

「この前の……」

「獏だよ。本を探しに来たんだけど、いいかな?」

「はい。勿論です」

 先日図書園の整理をした時、獏は先に牢に戻った。その最後に見た園内よりも綺麗に片付いている。床に瓦礫の残りや花も落ちていない。木々や草の植え替えも完了し、新しい大きな机と椅子が並んでいた。草木の生い茂った中に書架が並び、小さなジャングルのようだ。

「宇宙の写真集だとか図鑑はある?」

「宇宙は地下ですね。階段を下りて右手側に進んでください。二列目の書架です」

「覚えてるの? 凄いね」

「自分で整理をしたので、大まかですが覚えてます」

「ふふ。地下は天井が綺麗だから楽しみだよ。蜃も楽しみにしてて」

 頭を下げる黒色蛍に軽く手を振り、獏は蜃を促した。想像していた図書館とは異なる内装に、蜃は足を踏み入れてからずっと周囲を物珍しそうに見渡している。図書館とは本が並んでいるだけの殺風景な場所だと思っていた。

 図書園の整理をした時は散っている花が多かったが、今はまた花が咲き、垂れ下がった薄紫色の藤花の暖簾を潜るように階段を下りる。

 最後の一段を下りる時、視界に広がった薄紫色の天井に蜃もまた目を奪われた。地上階よりも少し低い地下の天井一杯に這った藤の花は清流のようで、せせらぎが聞こえてきそうだった。

「何か秘密基地みたいだな」

「だよね。ホタルさんが入り浸ってたのもよくわかるよ」

 先客はおらず、ゆっくりと藤の下を歩く。聞いた通りに右手側へ進むと、背表紙に宇宙と書かれた本が数冊並んでいた。一冊を手に取って中を見てみる。写真や絵があるが、文字も多い。

「クラゲさん、この文字全部読めたの? 漢字も結構あるけど」

「この本を見た時はまだ読めなかったので、文字以外を見ました。表紙の背景が黒くて、海の本だと思ったので……」

「ああ……確かに。もしかしてクラゲさん、整理に呼ばれる前からホタルさんに会ったことあった?」

「いえ。地下は一人席が多くて、誰がいるのか見えないんです。草木が多くて」

「言われてみれば、地下は大きい机も一脚あるけど、隅に椅子の背が幾つか見えるね」

 本当にジャングルのようだ。これだけ草木に囲まれていれば、植物系や虫系の変転人は落ち着くことだろう。

「……だー! 宇宙はよくわからないな!」

 本を抱えて先に無言で目を通していた蜃は突如声を上げた。

「こっちの本は?」

「どれも同じだ。月や火星の情報はまだある方だが、土星がよくわからない……」

「土星は地球から遠いらしいからねぇ……。でもさ、それなら契約者もよくわかってないはずだよね。多少想像で補っても気付かれないよ。そんな完璧でなくても」

「何か地球より大きいとか書かれてるんだが……そんな物、君の街に作れるわけないだろ。空間が破裂する」

「幻でも破裂するの?」

「幻だと……破裂じゃなくて破綻か? 遠近……錯覚を利用して空間を広く見せるか……面倒くさ……何で君の善行で俺が頭を抱えないといけないんだ。君にじゃなく俺に代価を寄越すべきだろ。――そうだ代価! 俺に代価を寄越せ。前回も結局有耶無耶にしただろ」

 ぶつくさと呟いている内に思い付き、勢い良く要求した。こんな面倒な頼み事、タダ働きなんて遣っていられない。前回は御馳走するだとか言っていたが、蜃がぐったりとしていたため結局何も受け取っていない。

「代価って、君は何が欲しいの?」

「例えば、そうだな……苺のショートケーキを丸ごと一個とか」

「可愛い代価だね」

「は?」

 蜃は大きな本を片手に抱え、空いた手で獏の動物面を押し上げ頬を抓り上げた。

「ひ、ひあい……」

「俺は男だ。別に可愛くない!」

「えぇ……」

 可愛らしい少女の顔で、矛盾することを言う。

 高価な物ではなくすぐに手に入りそうな控え目な代価に可愛いと言っただけで、蜃のことを可愛いと言ったわけではない。釈然としないまま抓られ頬が赤くなった。

「控え目だなぁと思っただけなのに……」

「控え目? 丸ごと一個は控え目なのか……じゃあ、ケーキ屋に並んでる全種類だとどうだ?」

「ケーキが食べたいんだね。君の労力に見合った代価を言えばいいよ。君が納得するなら何でも。でも僕の要求する代価はお金を払う物じゃないけど君のはお金が必要だから、契約者は子供だし、精々切ったショートケーキ一つが限界じゃないかな」

「契約者じゃなくて、君が払えばいいだろ。君が俺に頼んでるんだからな」

「ええ……。まあいいけど。後で狴犴(へいかん)に請求してもらおう」

「いつから狴犴は君の財布になったんだ」

「ふふふ。僕が言っても払ってくれないよ。クラゲさんに請求してもらうの」

 罪人の監視をする上で必要な金は経費として狴犴に請求できるらしい。そういう仕組みがあるなら最初から言っておいてほしいものだ。利用できるものは利用しなければ。

「じゃあ本当に何でも要求していいのか? 最近凄く気になってる奴があるんだが」

「なになに?」

「スイーツビュッフェって奴だ。何でも、色んなスイーツが食べ放題らしい。信じられるか? 食べ放題だぞ?」

「へえ、凄い。食べた分だけ請求されるの?」

「いや。一定料金を支払って、後は好きなだけ食べていいらしい。問題は人間に混じって食べるから、この髪色だと目立つことだが……」

「嘘でしょ……本当に好きなだけ食べていいの? 人間は何でも値段を付けるのに……人間の考えることはわからないな。何も考えてないのかな」

「俺も詳しくはわからないんだが、もしかしたら一定料金って奴が法外な金額なのかもしれない」

「成程……有り得なくはないね。罠だね」

「だが法外な金額だろうと狴犴が支払ってくれるなら、俺は痛くも痒くもない。この機会、逃す手はない。椒図と二人分を分捕ってやる」

「いいね。狴犴のお金だから好きなだけ毟り取るといいよ」

 頭を突き合わせてこそこそと話しているので、灰色海月の耳には届かず彼女は怪訝な顔をする。二人が突然、まるで交渉成立とでも言うように仲良く握手をしたことに首を傾げる。

「そうと決まれば、真面目に宇宙のことを考えないとな。土星がこれだけ大きいんだから、視界を土星で埋め尽くせばいい。土星より小さい地球に立ってても、地球しか見えないんだからな」

「急に冴えてきたね。君に頼んで良かったよ」

 本を捲りながら、二人は勝利を確信して笑い合った。

 数冊しかなかったが宇宙の本を一通り見終えた二人は、灰色海月と共に地上へ戻った。

 実物を見ることができれば簡単に蜃気楼に落とし込めるのだが、紙と言う平面で見ただけの物は頭の中で立体に置き換えないといけない。ケーキに浮かれているが難しい作業なので、床に視線を落としつつ蜃は脳を動かし続ける。

「ホタルさん、参考になったよ。ありがとう」

 本を読んでいた黒色蛍は顔を上げ、フード頭を下げる。

「声を掛けずに自由に出入りしてもらっていいですよ。本を持ち出す時だけ声を掛けてもらえればいいです」

「そうなの? でも本の場所を教えてもらったし、報告してもいいよね」

「どちらでも構いませんが」

 もう一度頭を下げ、黒色蛍は手元の本へ再び視線を戻した。本の虫と言われるだけはある。文字しかない本をすらすらと読んでいる。

 木々と蔦を潜って外へ出ると、まるで夢から覚めたようだった。灰色の傘をくるりと回して小さな街へ戻る。

 変わらぬ暗い街に戻った獏は灰色海月に肩が凝る首輪を外してもらい、蜃は先に古物店へと向かった。ドアを開けると奥に座っていた椒図が軽く片手を上げ、蜃も上げ返す。

「早かったな。僕はずっと聞き役だった」

「椒図、この前見たポスターのビュッフェに行けるぞ」

「苺のか? あれは金が必要だったはずでは……あ、獏に集ったのか?」

「狴犴に集る」

「……僕に集ってるのか? 幾ら兄弟でも、僕の頼みで支払ってくれるだろうか……」

「良い作戦があるんだ」

 椒図はまだ意味が理解できなかったが、おそらく獏も噛んでいるのだろうと察する。三人で悪戯を考えていた昔を思い出し、椒図は懐かしい気持ちになった。

 獏も店に戻り、蜃と椒図を台所に呼ぶ。図書園で見た宇宙を椒図とも共有し、作戦を練る。

「僕も宇宙を見られるなら楽しみだが、それだと蜃が参ってしまいそうだな」

「なるべく頑張る……ビュッフェのためだ」

「いや、そこまで頑張らなくていい。僕達には見えなくてもいいんだからな」

「?」

「契約者の目にだけ見えるようにすればいい。例えば更紗眼鏡(さらさめがね)のように目を覆えば、その中しか見えない。そこに奥行きのある幻を投影すれば、かなり小さな範囲の幻で事足りるはずだ。要は騙し絵だな」

「あ、そうか……さすが椒図だな。でも更紗眼鏡は今は万華鏡って言われてるぞ」

「何……名称が変わったのか?」

 長い時を経ると名前が変わる物もある。化生する時にある程度の物は時代に合わせて情報が更新されるのだが、椒図は記憶を取り戻した所為で一部曖昧になっている。

「……とにかく、蜃が幻を作っているんだから、触れようとする物もわかるはずだ。触れる瞬間にその一部だけの幻を手元に作り、実体化すればいい。この程度なら容易にできるんじゃないか?」

「できる。街全体に幻を作るよりかなり楽だ」

 蜃は口元に笑みを浮かべ、杖を召喚した。さすが椒図は付き合いが長いだけあって蜃の能力を熟知している。獏も感心した。

「それじゃあ僕が先に目を瞑るよう言うね。次に目を開けると宇宙、これでいこう」

「この善行、本当に獏の出番が無いな」

「偶にね……あるよ」

「俺達以外にも集ってるのか……」

 獏はそそくさと笑顔を貼り付けながら台所から出た。契約者はすっかり待ち草臥れている。

「待たせちゃってごめんね。何せ宇宙だから準備に手間取っちゃって」

「宙ちゃんと一緒だから待てましたけど……ロケットの準備が大変だったんですか?」

「え? ロケット? ロケットで行くのも願い事の内……?」

「え? 違うんですか? 一番は土星を見ることなので、ロケットは絶対じゃないですけど……」

「それは良かった。ロケットじゃなくて、一瞬でびゅんっと行くからね」

 ロケットの構造までは確認していなかった蜃は台所でびくりと緊張したが、必須ではないと聞き安堵した。後から条件を増やさないでもらいたい。

「帰りが遅くなるといけないし、あんまり長時間は宇宙にいられないけど、願い事は叶えるからね。ほら、目を瞑って。いいって言うまで開けちゃ駄目だよ」

「わかりました!」

 言われた通りにぎゅっと目を閉じる。獏は二人に目配せし、契約者の肩に手を置いた。

「それじゃあ店から出るからね」

「店?」

「ここだよ」

 店と認知されていなかったようで、獏は少し頬を膨らせた。こんな瓦落多の並ぶ場所が店と思われるはずがない、と蜃は笑いそうになったが堪えた。

 一同は店から出て、外で待機していた灰色海月を一瞥する。獏は蜃に目配せし、蜃は杖を構えた。杖の先に付いている変換石が仄かに光る。

「目を開けてもいいよ」

 肩から手が離れ、ぎゅっと手を握り締める。期待を胸に恐る恐る目を開けた。

 獏達の目には石畳が伸びる小さな暗い街が変わらない姿で見えているが、契約者の目には無数の星が輝く黒い宇宙が広がっていた。

「わ……あ……ぁ……?」

 感声が上がるが、すぐに萎んだ。これ以上無く感動するものだと思っていた獏は不思議そうに蜃を振り返る。

「これは……土星に立ってるんですか……? 立てるんですか!?」

 蜃は無言で大きく頷き、獏が答える。

「うん、そうだよ。君が見たいって言ってた土星だよ。立てるように頑張ったよ」

「え? 獏は何処にいるんですか? 声だけ聞こえる……」

 獏は振り返り、蜃は目を合わせて首を振った。獏の幻を作るなど考えもしなかった。

「僕は声だけ宇宙に飛ばせるんだよ」

 息をするように獏は嘘を吐いた。

「あれ? そう言えば、宇宙なのに息ができて……声も聞こえる……」

「獏は凄いんだよ」

 宇宙の本を見たと言っても、見たのは絵や写真だけだ。知識は相変わらず乏しい。詳しい説明などできるはずもなく、投げ遣りにしか聞こえないがこう答えるしかなかった。小学生だと思って油断していた。

「全然寒くないし、風もない……」

「獏は凄いからね」

「そんなに凄いんだ……」

 もうそれしか言えず早く帰ってほしいと獏は切に願った。本には人間が住めない程の寒さと猛烈な風が吹いていると書かれていたが、目に見えない物は蜃の力では作り出せない。蒲牢(ほろう)窮奇(きゅうき)がいれば再現可能だが、そんな大掛かりなことをするのも面倒だし二人が現在何処にいるかもわからない。

「あ、この距離じゃ輪っかに触れないです!」

「それじゃあ、もう一度目を瞑って」

「移動中の景色も見たいです」

「宇宙は特殊だからね。移動中に目を開けてると目が潰れるよ」

「えっ!?」

 澱み無く嘘を吐き続ける獏に、蜃と椒図はいっそ感心した。

 目を瞑ったことを確認し、獏は蜃を振り返る。蜃は呆れながら頷く。

「開けていいよ」

 目を開けて広がっていた光景に、無言でぽかんと口を開けた。

「輪っかの粒、全然動いてない……何でですか?」

 獏は振り返り、蜃は困惑しながら椒図を見上げた。本で見たのは静止した写真だ。動く物だと知らなかった。

「僕は時を止められるんだ。動いていると万一にもぶつかったら危ないからな」

 椒図も獏に倣い、半分嘘を吐いた。能力で時間を停止させることは可能だが、物を静止させることはできない。

「確かにそうですね……ぶつかったら危ないかも。宙ちゃんも気を付けて」

 少年はぱたぱたと手を振り、手を握る。

 片手で空を掻く動きで環に触れようとしていることを察し、蜃は全員に見えるようその手元に環の粒子の幻を作った。それに手が触れ、またしてもぽかんと口を開ける。今度は何を言うのだと緊張が走った。

「変な感触……」

 獏は眉を寄せながら振り返る。一体どんな感触なのか、蜃にしかわからない。環の粒子は主に氷だと本に書かれていたので蜃は氷を作ったのだが、宇宙にある氷と地上の氷の違いがわからず地上に倣って作った。

「冷たくて、湿った感じ……。こんな感触だったんだ……」

 この知識は持ち合わせていないらしく、純粋に驚いただけのようだった。三人は胸を撫で下ろした。

「将来宇宙飛行士になったら、また土星に来たいなぁ」

「…………」

 宇宙飛行士になれば、これが全て嘘だったと発覚してしまう。そんな将来はまだまだ先だろうが、答え合わせの機会があるかもしれないことに獏は焦る。

「明日学校で皆に自慢しなきゃ。宙ちゃんと土星の輪っかに触ったって」

「信じるかなぁ? 想像できない摩訶不思議な出来事は、中々信じてもらえないだろうね」

「大丈夫です! 土星の石を持って帰れば、きっと信じてくれます!」

「駄目だよ、勝手に持ち出しちゃ。宇宙の秩序を乱すことになるからね」

「ち、ちつじょ……」

 実際に行っているわけではないので石など持ち帰れるはずがない。口を開く度に肝が冷える。

「さ、そろそろ地球に戻ろうか。僕が用意してあげた酸素もそろそろ切れそうだから」

「もうですか!? 酸素がなくなるならしょうがないです……」

 今度は何も言わずとも目を閉じた。獏は振り返り、蜃は頷く。

「開けていいよ」

 ゆっくりと目を開き、元の小さな街が視界に広がる。あっと言う間に宇宙から帰って来てしまった。一時(ひととき)の夢のような時間だった。まるで白昼夢のようだった。内緒で小石の一つくらい持ち帰れば良かったと少し後悔した。

「願い事は叶った?」

「うん……何か呆気なかった」

「願い事が叶う瞬間なんて、そんなものだよ。願う時間は長いけど、叶うのは一瞬だから」

「そうですか……でも宙ちゃんと土星を見られて良かったです」

 少年は照れ臭そうに笑い、獏はほっと小さく息を吐いた。

「手紙には二人の名前が書かれてたから、僕は二人から叶ったって言葉を聞かなきゃいけないんだけど、」

 獏は一旦口を閉じ、少年の周囲に目を遣る。


「君はずっと誰と喋ってるの?」


 それはこの場の全員が疑問に思っていたことだった。少年はこの街へ来た時から一人で、他には誰もいなかった。

「何言ってるんですか? 宙ちゃんはずっとここにいます」

「……イマジナリーフレンドって奴かな」

 実際に存在しているわけではなく、彼の空想の中でだけ存在する友達のことだ。子供は稀にそういう存在を創り出す。彼の中でだけそれは実在するのだ。だから他者にその姿が見えることはない。

 それなら願いが叶ったと聞かなくても良いだろう。実在しないのだから。

「いまじ……? わからないけど、宙ちゃんはほら、ここに」

 少年は襟に指を入れ、小さな巾着を取り出した。首に掛けたその中から壊れ物を扱うようにそっと白い小さな棒を抓み出す。

 それは、人間の骨だった。

 少年は如何にも無垢に笑い、掌に骨を載せる。普通の人間はそんな顔でそんなことをしない。蜃は顔を顰めて椒図を一瞥し、椒図も眉を寄せた。死者が火葬されると、残った骨は骨壺に仕舞われて供養されるはずだ。とは言っても人間の風習など、獣は詳しくは知らない。

「……じゃあ、代価は君から貰えればいいかな。死人が叶ったなんて言うことはできないから」

「死人? 宙ちゃんはここにいます」

「ああ……うん、そうだね。代価は君に代表してもらうよ」

 ここで口論になってしまえば代価を戴くのが面倒になってしまう。話を合わせておいた方が円滑だ。

「君の心の柔らかい所をほんの少し戴くからね。希望はあるかな? いらない感情や思い出も差し出していいよ」

「何でもいいんですか?」

「いいよ。でも幾らいらないからって全部は駄目だからね。廃人にしちゃうと怒られるから」

「それじゃあ……宙ちゃんをあげます」

 これには獏も言葉に詰まってしまった。『宙ちゃん』とは彼にとって何なのだ。彼が言うにはイマジナリーフレンドではなく実在し、だが骨を持っているなら死んだと認識しているだろう。

「……宙ちゃんに関する記憶を差し出すってことかな……?」

「そうじゃなくて、宙ちゃんを消してください。宙ちゃんは仲良しだけど、いつも後ろに付いて来て……お風呂もトイレもなんだ。だからもう、いいかなって思いました」

「えと……宙ちゃんって、君の何なの?」

「友達だけど、動物園に行ってから行方不明になって、それからずっと僕に付いて来て……」

 漸く『宙ちゃん』が何者なのか見えてきた。つまり『宙ちゃん』は行方を晦ませ、それから生きたまま戻って来ることはなかった。この少年は『宙ちゃん』が死んでもういないということを知らない。もしくは認めていない。

 獏は数歩下がって蜃と椒図の許へ行き、小声で確認をする。

「ねえ、二人は宙ちゃんが見える? もしかして幽霊として存在してるのかな?」

「俺には見えない。幽霊なんて見たこともない」

「僕も見えないな。幽霊はどうやって存在するものなんだ?」

「困ったね……存在を消すだけで記憶は消さないなんて、どうすればいいんだろ。見えてる記憶を食べたとしても、そこに居るなら消すことにはならないし……」

 暫し考え、これしか思い付かないと獏は試しに手を出した。

「その小さな巾着と中身を代価として貰うよ」

「え、これですか? ……わかりました。土星に連れて行ってもらったし、言うことを聞かないと」

 少年は首から巾着を取り、獏の手にそれを載せた。彼はここに『宙ちゃん』がいると言い、この巾着を見せてくれた。ならばこの巾着を手放してしまえば、『宙ちゃん』はいなくなったことになる。揚げ足を取るようなものだが、獏は今までもそうしてきた。

「よし、じゃあこれで御終い。宙ちゃんとさよならだ」


「宙ちゃんって――誰ですか?」


「え……?」

 純粋な瞳で獏を見上げ、少年は首を傾げた。本当に何も知らない、嘘も吐いていない、そんな瞳だった。

 獏は少年から食事をしていないので、間違えて記憶を食べてしまったなんてこともない。

「えっと……この骨の」

「あっ……それ骨なんですか!? 前に拾って……あれ? 何で持ってたんだっけ……?」

 獏はそれ以上話すことを止めた。少年は『宙ちゃん』のことを友達だと言っていたが、知り合いですらないのかもしれない。

 骨が落ちているなど、普通の死に方ではないだろう。偶然拾った骨の一片は『宙ちゃん』と言う誰かの物で、忘れられているそれを見つけた少年に助けを求めたのかもしれない。或いは一人で寂しかったのだろう。

(幽霊っぽく言うと、取り憑かれてた……のかな?)

 獏が骨を持っていても何も見えてこず、蜃と椒図も試しに触れてみるがやはり何も見えることはなかった。獣には見えないのかもしれない。幽霊が獣を避けているなら、幽霊を見たことが無いことにも納得が行く。

 少年から『宙ちゃん』が消えてしまったのは確かなので、依頼完了として灰色海月に彼を元の場所へ帰してもらった。骨も灰色海月に預け、宵街に処分してもらうことにする。

 不可解ではあるが、難儀な善行は完了した。頭を切り換える。狴犴の金でスイーツビュッフェに行けるのだから、首を捻るのではなく喜ぶべきだ。

 灰色海月が戻るのを暫く待ち、彼女は金の入った封筒を手に戻って来た。それをありがたく受け取って蜃と椒図は去る。狴犴は変転人に甘いということが立証されてしまった。


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