137-蛍の棲み処
誰もいない小さな街の片隅にある古物店で、獏は置棚に陳列している瓦落多の位置を調整していた。見る者はいないが、店の中には変化が必要だ。いつもと違うと思わせれば、興味を引いて棚の奥まで見てもらえるはずである。いつもは目に付かない場所にある物を手前に引き出せば、それを見て興味を示す人が現れるかもしれない。
小さな瓦落多を手前にちょこんと並べていると、店のドアが恐る恐ると開く。灰色海月は台所で菓子作りに没頭しているので、彼女ではない。
獏は棚の間から動物面を出してドアの方を覗き、感情に乏しい顔で立つ黒い少女と目が合った。
「おや、ウニさん。いらっしゃい」
何も言わず黒色海栗は店内をぐるりと見渡し、にこりと微笑む獏へと視線を戻す。黒いマレーバクの面を被っている所為で表情は見えないが、黒色海栗は頭を下げた。
「何か気になる物がある?」
「……違う」
早速興味を示してもらえたと思ったのだが、獏は残念そうに眉尻を下げた。
「呼びに来た。獏に召集令」
聞き慣れない言葉が飛び出し、獏は眉尻を下げたまま暫しきょとんとする。
「え? 何それ……初めて聞くんだけど……」
「獏が必要。来て。クラゲも」
「まさか拷問されるとか……? 最近何かしたかな……僕……」
灰色海月の姿が見えないので黒色海栗は店の奥まで進み、独り言を呟く獏は放っておいて、台所で生地作りに精を出す灰色の女に声を掛ける。
「罪人を呼び付けるなんてきっと拷問だよね……嫌だな……」
何故呼ばれたのか全く見当が付かない。逃げ出したかったが、烙印の所為で自力の転送ができない獏に逃げ場など無かった。呼ばれて台所から出て来た灰色海月に首輪を装着され、獏は身を縮こまらせる。
「獏、可哀想……でも拷問じゃないと思う」
「えっ?」
どうやら早とちりらしい。一旦胸を撫で下ろした。拷問ではないことには安堵するが、何のために呼ばれたかは未だに不明だ。首輪に付いている短い鎖を灰色海月に引かれて外に連れて行かれる。
黒色海栗は先刻転送で来たばかりなので、灰色海月の傘で宵街へ行くことになった。転送は短時間に連続では行えないのだ。
薄暗い宵の空が見下ろす宵街の中腹辺りへ転送され、黒色海栗を先頭に、頭上に赤い酸漿提灯が並ぶ石段を下る。科刑所は上層にあるので、石段を下ったことに獏は安心した。
獏が宵街に最後に来たのは花街の王とその秘書から手紙を受け取った時だが、その時はあまり景色を見ていなかった。数ヶ月前に獣が暴れて宵街は破壊されたが、改めて見る宵街は一見元通りに見えた。瓦礫も見当たらない。路地の奥はどうなっているかわからないが、狭い横道には変わらず茂みが覆っている。
「ウニさんは僕が何で呼ばれたか知ってるの?」
「知らない。呼んできてって言われた」
「下層に何があるの?」
「図書園に行く」
「図書……園?」
横道の茂みに入って行くので、首を傾げながら付いて行く。黒色海栗に説明する気はないのか黙って進むので、灰色海月が簡単に説明した。
「本がたくさん置いてあって、自由に読んでいい場所です。文字があまり無い本が多く、変転人はそこで写真や絵を見て学習します。私も何度か行きました」
「へえ、つまり図書館みたいな物かな」
「館ではなく園です」
図書館は人間が考えた施設だ。宵街に取り入れる際に多少の変化があってもおかしくはないだろう。
茂みを抜けると、周囲の家よりは大きいが、高さは病院ほども無い四角い箱が積まれたような石造りの建物が現れた。出入口は開放されており、そこから中へ入る。
「――ああ、来てくれたか」
出入口の脇に椅子を置いて本を読んでいた鉛色の髪の少年が、来園者に向かって人の良さそうな笑みを浮かべた。
「贔屓……?」
予想外の人物に迎えられ、獏はきょとんと目を瞬く。それと同時に、思わず眉を顰めてしまう光景が目に飛び込んだ。図書園の中は荒れ果て、書架から落ちた本が床に散乱していた。
「まずは座ってくれ。話をしよう」
本を閉じて書架に一旦置き、近くの椅子を示す。
奥に転がる倒れた椅子や壊れた机を一瞥し、脚が折れていない椅子へそれぞれ座った。
「まずここがどんな場所か、獏は知っているか?」
「図書園だよね? さっきクラゲさんから聞いたよ」
「ああ、それならいい。少し遡るが、渾沌の襲撃でここも被害を受けたんだ。見ての通り」
「酷いね」
「宵街の広範囲で襲撃の被害があったんだが、無くて一番困るのは変転人の住居だろうと、それを優先して修復していたんだ」
「家は必要だよね」
「ああ。損壊した家は大方建て直して、空き家はこれからだ」
「空き家は急がなくてもいいんじゃないの? 何なら建てなくても」
「そうはいかない。新しい変転人をいつでも迎えられるように、空き家は常備しておかないといけないんだ」
「あ、成程。引越し先に家が無いと困るよね」
建設は地霊の仕事だ。地霊は長い耳を含めずとも体長が一メートルもある巨大な土竜のような姿だが、それでも人に比べれば小さい。数が集まっても作業に時間が掛かる。
「そう言えば、ウニさんの家はもう直してもらった?」
「直してもらったけど家具の調達はまだだから、まだ棲んでない」
「そっか……大変だね」
「大丈夫。ヨウ姉さんの家に泊めてもらってる。何かわからない置物とかあるけど、凄く御洒落」
「そうなんだ。それなら良かったよ」
宵街はまだ元の通りとはいかないようだ。渾沌が暴れてから三ヶ月ほど経っているが、爪痕はそう簡単には消えない。この図書園もそうだ。
「この図書園も出入口が崩落して埋まっていたんだ。ここは誰かの家ではないから確認が遅れてね。複数の変転人が図書園を利用したいと要望を出し始めて、それで被害を調べた」
「きっと憩いの場でもあったんだろうね」
「図書園を管理していた変転人が渾沌の襲撃で死亡したようでな……被害報告が上がらなかったんだ。狴犴に頼まれて大方の瓦礫は僕が撤去して、広がった出入口と壁の穴は地霊に塞いでもらったんだが、中は僕一人では処理し切れない。そこで獏に来てもらったんだ」
「急に僕に飛び火したね」
「君は手を使わず軽々と物を動かせるだろ? 適任だ」
「成程ね……暇も力もある君と僕が選ばれたわけだ……」
重い物も軽々と持ち上げられる贔屓と、物を動かす力を持つ獏は掃除に持って来いだ。獏を使うことを提案したのは贔屓だろうが、狴犴もよく罪人に助けを求めることを許可したものだ。
「図書園は直下で渾沌の攻撃を受けてこの有様だが、倒れた書架は戻しておいた。屋根が落ちなかったのは不幸中の幸いだな。後は本を元に戻すんだが、只の力仕事なら僕だけでもできるが――ああ、丁度いい。こっちへ」
徐ろに贔屓は立ち上がり、散乱した机や椅子の向こうに向かって手を上げる。どうやら下り階段があるらしい。蔦を潜りフードを被った黒い頭が現れる。
「紹介しよう。新しく図書園の管理を任された黒色蛍だ」
「……よろしくお願いします」
フードを被った幼い黒い少年は注意深く獏を見た後、小さく頭を下げた。
「以前の管理は有色に任せていたそうなんだが、図書園のこの有様を見て有色は怯えてしまってね。無色に任せることになった。彼はよくここに足を運んでいて、本の位置も大凡は覚えているそうだ。その記憶に従い、本を書架に戻す。以前の位置と著しく変えてしまうと利用者の混乱を招くからな。図書園は地上と地下があるんだが、獏はどっちがいい?」
「どっちって……」
初めて訪れたどころか存在もつい先程聞いたばかりだ。どっちも知るはずがない。だがそんなことは贔屓もわかっているだろう。そういう目をしている。ならばどっちでも良いのだ。
「じゃあ楽な方」
「蛍、どっちが楽だ?」
地下の状態を先に確認していた黒色蛍は振り返って見渡し、少し悩んだ。
「……散らかり方は同じようなものかと。ただ……地下の方が分類は多いです。地上は文字の少ない本だけを置いてますが、地下は文字の多い本が主で、文字の少ない本も少しあります。――ざっと配置を書いておいたので、確認お願いします」
折り畳まれた紙を二枚取り出し、獣達に差し出す。地上と地下に分けられたメモを広げ、獏と贔屓は覗き込む。書架の数を見るに、本の数は大差なさそうだ。
「じゃあ地上でいい? 地下に文字のある本があるなら、クラゲさん達はあんまり行ったことないんじゃないかな。手伝ってくれるなら地上の方がいいよね」
灰色海月は最近漸く文字が読めるようになったが、漢字はまだ難しい。地下へ下りることはあまりなかった。
「では僕は地下を整理しよう。蛍も頼むよ」
「わかりました。地上に不明な点があれば呼んでください。壊れて使えない物や破れて読めない本は、出入口の近くに纏めておいてください」
無表情で抑揚は無いが丁寧に指示を残し、黒色蛍は贔屓に連れられ地下へ戻った。
一階に残された三人はもう一度部屋を見渡す。図書園には窓が無く薄暗いが、これは外の光を入れないためだ。宵街は元々薄暗いが、問題無く生活できる程度には明るい。光を受ければ本は何れ退色し劣化してしまう。それを防ぐために窓が無く、中の照明も控え目だ。だがこの薄暗さが不思議と落ち着く。
獏は早速手を翳し、憩いの場を復活させるために仕事を始めた。
「それじゃあ、まずは机と椅子を退かすよ。一旦端に寄せて……壊れた物は外に出そう」
机は少し重いが、集中して動かす。
大きな瓦礫は無いが、拳ほどの小さな物はまだそこらに転がっている。ちらほらと薄紫色の花も落ちており、物を動かしながら暗い天井を見上げた。天井は獏の店の何倍も高く、植え付けられた木々の間に蔦が這い、僅かだが薄紫色の花の房が垂れ下がっている。藤の花のようだ。今は冬なので開花時期ではないが、そもそも宵街に季節は存在しない。
天井に見蕩れている場合ではないので灰色海月と黒色海栗に空の書架の掃除を任せ、獏は机と椅子の移動に専念する。何と言うか、大掃除である。
「ホタルさんが黒ってことは、ウニさんの知り合いなの?」
「知らない。……けど、本の虫って言われてる人」
「本の虫……確かに虫だけど、言い得て妙だね」
「あんまり強くなくて、仕事を頼まれないから図書園に入り浸ってるんだって。ヨウ姉さんが言ってた」
「へぇ……」
無色が頼まれる仕事とは、命の危険を伴うこともある。仕事を頼まれないならそういう危険が無いと言うことで、彼には喜ばしいことだろう。だが図書園に入り浸っているのなら、あまり仲間と交流はしないのかもしれない。一人で時間を潰す毎日を本人が良いように受け入れているのなら良いが、そうでないなら少し寂しい毎日を送っているかもしれない。
「配達でーす」
机と椅子を退かし終え本の状態を確認していると、元気な声が部屋に響いた。
「あれ? 獏じゃん! クラゲにウニも!」
青い髪の少年は人懐こい笑みを浮かべてぱたぱたと手を振り、獏も振り向いて手を振り返す。宵街に二人しかいない灰所属の変転人の一人、浅葱斑だ。
「アサギさん? どうしたの? 加勢してくれるの?」
「うわぁ……話には聞いてたけど、片付けるの大変そう……。ボクは頼まれた物を届けに来ただけです」
壁の陰に置いていた大きな籠を抱えて持ち上げる。花畑から運んで来た植物だ。種類の異なる緑の葉が浅葱斑の顔を覆うほど茂っている。
「こ、これ……何処に置けばいいですかぁ……。瓦礫で植物が押し潰されたから、その代わりを持って来るよう言われたんですけど」
四肢をぷるぷると震わせてじりじりと足を踏み出すので、獏は慌てて駆け寄った。かなり重そうだ。
「とりあえずそこに置いて。力持ちが地下にいるから、後は遣ってもらおう」
「はあはあ……何とかボクでも運べる物をと持って来ましたけど……もっと大きい木とか、どうしようかと思ってました。地下の力持ちに頼んできます」
浅葱斑は膝に手を置いて呼吸を整え、地下へ走って行った。相手が誰かわかっていないようなので獏も付いて行く。
地下へ続く仄かな明かりに照らされた細い階段は緩やかに湾曲しており、下に辿り着くまで地下の部屋の中は見えなかった。壁や曲線状の天井には蔦や藤の蔓が蔓延っている。どうやら地上の蔓は地下から伸びて来た物のようだ。
階段を抜けて開けた地下を視界に収め、獏は思わず息を呑んだ。地下の天井には地上とは比べ物にならないほど淡い紫色の房が下がり、まるで天井に花の池があるようだった。
感動しつつ視線を落とすと、現実に引き戻されてしまう。床は地上と同じように荒れていて、階段の脇に破れた本が何冊も積まれていた。
「すみませーん! 力持ちの人ー!」
「……ん? 僕かな?」
書架に本を仕舞っていた贔屓は通路に顔を出し、浅葱斑は青褪めた。
「すみません! 人違いです!」
「人違いじゃないよ。あの人だよ」
「獣じゃん! 先に言ってください! 凄く失礼な呼び方してなかったですかボク!?」
獣に対しても敬語が崩れることはあるが、敬意を失ったことはない浅葱斑は青褪めながら獏の後ろに隠れた。
「フ……その程度なら好きに呼んでくれて構わないよ。それより僕に何か用かい?」
「ば、獏ぅ……」
「要約すると、図書園に置く植物を持って来たから運んでほしいって。凄く重いんだよ。後で大きな木も運んでよ」
「そうか。それは御苦労だったな。運んでおくよ。……僕にも獏ほど打ち解けてもらって構わないんだが。先日仲良く御茶もしたんだから」
それは無理な相談だと浅葱斑は震えながら獏の服を掴む。
「あの時はフェルがいたから……。統治者の兄に打ち解けられるはずないよ……!」
冷汗を流しながら小声で訴える。フェルニゲシュが王だと言うことにもまだ畏縮しているのに、統治者やその兄など打ち解けられるはずがない。
騒々しい遣り取りを聞き付け、黒色蛍も書架の間から半分顔を覗かせる。手に持っていた本を書架へ立て、転がっている椅子を跨いで通路へ出た。
「植物と聞こえたんですが。それは本が片付いてから植えます」
「わ、凄い……統治者の兄と同じ空間で仕事してる変転人がいる……怖くないのかな」
「有色……?」
髪の青い浅葱斑はよく有色の変転人に間違えられるが、歴とした無色である。
「ボクは灰所属の浅葱斑だよ」
「俺は黒所属の蛍です」
「蛍……? えっ、虫ってこと? 虫系の変転人、初めて見た!」
「……そう言われれば俺も初めてです」
生物に人の姿を与える際は動き回らない方が作業が楽なので、変転人は植物系が圧倒的に多い。動き回る虫系は珍しいのだ。
「無色ってことは蛍も毒があるのか……知らなかった」
「人間には効かない程度ですが」
「ボクもそんな感じ」
双方、動物に捕食されないための毒である。人間は触れたとしても何とも無い。
「蛍なら、お尻が光るんだよな?」
「は?」
「!」
何気無く尋ねただけだったが、穏やかに淡々と話していた黒色蛍は目を細めて浅葱斑を睨み付けた。
「え、ご、ごめん……人の姿になったら光らない……よな……? 初めての虫系に浮かれちゃって……お詫びに花蜜を奢るよ……」
獣に睨まれたら逃げ出す所だが、相手が変転人なので浅葱斑は焦りつつも獏の後ろに半分隠れるに留まった。同じ虫系なら花蜜が好きなはずだ。
「その発言はセクハラだからな」
「せっ、せくはら!? 人間しか言わない言葉!」
「確かに俺は光る源氏蛍だが、光らせてるのは腹の一部だ。無知な獣に散々……。変転人になった今では光らないが。あと俺は蜜は吸わない。甘党の他の虫と一緒にするな。水を飲むだけだ」
散々揶揄われたと言いたいのだろう。繊細な部分を突いてしまったようだ。浅葱斑は知らなかったとは言えおろおろと頭を下げた。
「人の姿になっても水だけ……? いやそんなまさか……」
「……。水か白湯だ。人の食事は慣れなくて……子供の頃に食べてた貝を思い出して貝ばかり食べてたら食中毒を起こして体が弱いとレッテルを貼られた俺への当て付けですか」
「えぇ……そんなつもりは……」
黒色蛍は気にしていた。他の無色達は獣に仕事を頼まれて出掛けるのに、自分だけが声を掛けられない。まるで役立たずの能無しだと言われているようだった。
この図書園の管理が初めての仕事だった。他の無色とは系統の異なる仕事だが、使ってもらえることが嬉しかった。
「浅葱斑。蛍は幼虫の頃は肉食で、成虫は水だけを摂取する。彼は幼い頃は貝が好物だったそうだ。君とは食の好みが違うようだな」
喧嘩に発展しそうな二人に贔屓は口を挟む。こんな些細なことで喧嘩をして気不味くなっては可哀想だ。贔屓と狴犴のように何百年も口を利かないなんてことはないだろうが、その芽を見ると自分のことを思い出して惨めになってしまう。
「もう子供ではないので川蜷は食べませんが……この姿になってまた貝を食べてると子供っぽいですか……?」
容姿は幼いが、心はもう大人だ。散々揶揄われた黒色蛍は他人の言葉に敏感だった。思わずつい苛立って自分から言い出してしまったが、貝の話などしなければ良かったと後悔する。普段あまり他人と話さないので、言葉の止め方がわからなかった。
浅葱斑が幼虫の頃は、葉を食べる草食だった。人の姿を与えられた今は肉も食べられるが、肉を食べるのは最初は勇気が必要だった。こんな物が食べられるのか、と恐れていた。元の食生活が異なるなら、人となった今でもその名残はあるだろう。単純に昆虫と言っても好みは異なる。
「ボク……よく知らなくて……。でも貝は気を付けた方がいいよ……」
「……それは病院でも言われました。程々にと」
「え、えっと……ぼ、ボクも手伝っていい……? 本の片付け……」
「構いませんが。分類表に従って整理してください」
「う……難しそう……」
「……なら破れた本がないか探してください。読めない本を並べるわけにはいかないので。補修が可能なら補修しますが、酷ければ処分です」
「わかった……それならできそう」
「処分する本はメモしておいて申請を出さないと」
ぼそぼそと呟きながら、黒色蛍は椅子を跨いで書架の間へ戻って行く。浅葱斑もそそくさと落ちている本を拾った。何とか酷い喧嘩にならずに済んだようだ。贔屓と獏は顔を見合わせ安堵する。贔屓がいれば二人は大丈夫だろう、獏は軽く手を振り地上へ戻った。
地上では書架の陰で灰色海月と黒色海栗が顔を突き合わせ、熱心に本を見ていた。ちらりと中が見えるが、海の生き物図鑑のようだ。元は海の生物である二人には興味深い物だろう。声を掛けずにそっとしておく。一人でも本の整理はできる。
無傷の本は書架へ並べ、破れた本は出入口の脇に積んでおく。壊れていない机と椅子を空いた空間に配置してみるが、ぽつんとしていて寂しく見える。
片付けを終え、椅子に腰掛け改めて全体を見た。壁や天井に蔦が這い、其処彼処に木や草が茂っている。中にはぽきりと折れてしまった物もあるが、これを浅葱斑が運んで来てくれた植物と入れ替えるのだろう。外と温度は変わらないが、まるで温室のように植物が配置されている。
図書園は主に変転人が利用する施設だ。そして変転人は植物系が多い。そのため安心できるようここも植物で満たしているのだろう。図書園とは、図書館と植物園を合わせて作った言葉なのかもしれない。
「地上はもう終わったようだな」
座って部屋を眺めていると、同じく作業が終わったらしい贔屓が階段から顔を出した。
「結局殆ど僕一人で遣ったよ」
「ん?」
贔屓も部屋を見渡し、書架の間で床に座って眠る灰色海月と黒色海栗の姿を見つけた。膝に図鑑を置いたまま穏やかに眠っている。疲れてしまったようだ。
「元々獏一人に頼むつもりだったから構わないよ」
「む……」
「これから木を取って来るから、蛍の発注書作成を手伝ってやってくれ」
「そんなの書いたことないんだけど……」
獏は口を尖らせるが、贔屓は構わず笑いながら出て行った。その後を浅葱斑が腰低く追い掛ける。気儘に旅をしていた浅葱斑は獣と係わることも少なく、不必要に怯えてしまう。そんな彼と友人だと言うフェルニゲシュは、余程親しみ易いのだろう。
黒色蛍は地上の書架を確認した後、家具と本の発注書を一人で書き始めた。
「何か手伝えることはある?」
「……では、破れた本を床に並べてください」
黒色蛍はやや途惑いながら獣に指示を出す。これなら題名が一目瞭然だ。
獏は指示通りに本を運び、床へ綺麗に並べていく。無言で作業をするのも退屈なので、気になっていることを口にする。
「図書園は初めて来たけど、天井が綺麗だねぇ」
「二季草……藤ですか? あれは以前、図書園の内装について意見を求められた時に、俺が提案した物です。清流が欲しいと言ったら、本に水は難しいと言われて、木霊が折衷案として天井を花で埋めてくれたんです。年中花が付くよう改良した特別な二季草です。揺れると水の揺らぎのように見えます」
二季草は藤の異称だ。年中と言うなら二季どころではなく四季だろう。
「改良後は確か……永久藤と呼んでましたね。渾沌の攻撃を受けて図書園が崩壊しなかったのも、永久藤の張った蔓の御陰だそうです。気に入ってもらえて良かったです」
「へえ。木霊、凄いね」
木霊は花畑の管理だけでなく、宵街に合うように品種改良まで行うようだ。もしかしたら花魄も噛んでいるのかもしれない。
興味深い話を聞きながら本を並べ終え、獏は腰を伸ばして黒色蛍の手元を窺う。
「発注書って狴犴に出すの?」
「そうです。誰が見てもわかるように書かないといけないので……これで合ってるんでしょうか」
「あれ? もしかして君も初めて?」
「初めてです。今まで仕事を頼まれたことがなかったので」
「こういうのはね、絵を描くとわかりやすいと思うよ」
「そうなんですか? 参考になります。でも俺は絵なんて描いたことがなくて」
「ふふ。大丈夫、任せて」
獏はペンを借り、動物図鑑の題名の横へ狙いを定めた。
「任せないでください」
背後からするりとペンを取り上げられ、獏はきょとんと頭上を仰いだ。片目が髪に隠れた白い少年が覗き込んでいた。
「マキさん!? 何でここに……」
白花苧環は呆れたように溜息を吐き、ペンを黒色蛍に返す。
「罪人の様子を見に来ただけです。あまり自由にさせ過ぎるのは良くないですからね。案の定これです」
「案の定どれ?」
「恍けないでください。大切な発注書に不必要な落書きをしようとしたでしょう?」
「わかりやすくしようと思っただけだよ……」
「見て理解できる絵なら構いませんが、貴方の絵は独創的過ぎるようですから」
「それって褒めてる?」
「褒めてません」
「じゃあ君の似顔絵を描いてあげる」
「じゃあって何ですか。呪われそうなのでやめてください」
「酷い……じゃあホタルさんを描いてあげるね」
ペンを貸してくれと手を差し出すが、黒色蛍は困惑しながら手を引いた。
「呪うんですか……?」
「もう! ホタルさんが変なこと覚えちゃったじゃない!」
構わず発注書作成を進めてくれと促し、白花苧環は獏を引き摺って剥がした。相手が獣だろうと躊躇は無い。
「他人の顔の前に自分の似顔絵……自画像を描けばいいじゃないですか」
「やだ……僕が自分の顔を嫌いなの知ってるでしょ」
「……? 知りませんが」
「あ……前のマキさんの時か……」
今の彼にその記憶が無いと気付き、一抹の淋しさを覚えた。獏の勢いが一瞬で衰えてしまい、白花苧環も察する。失った前世の記憶を思い出すことはできない。
「……自分の顔が嫌いなんですね。覚えておきます」
「……うん」
「今後嫌がらせに利用できるかもしれません」
「え!? 今そんな流れだった!? やめてよ!」
「お面を剥がして人間の街を練り歩かせますよ」
「鬼畜だ……」
獏はガタガタと震え、椅子の陰に隠れた。白花苧環は今世でも罪人に対して容赦が無い。日に日に前世の彼に近付いている気がするが、狴犴にそう教育されているのかもしれない。
「何だ、賑やかだな」
笑い声が聞こえ、三人は出入口へ目を遣る。大きな木が大きな葉を広げて喋っていた。
「苧環も手伝いに来てくれたのか?」
木が傾けられ、漸く顔が見えた。図書園に植える木を持って戻って来た贔屓と浅葱斑だ。浅葱斑は軽い小さな植物が入った籠を抱えている。
贔屓は身長の三倍はありそうな大きな木を室内に入れ、そのままになっている折れた木を太い根ごと引き抜く。その穴に新しい木を置いた。普通なら到底一人ではできない作業だ。あまりの怪力に白花苧環も呆然としてしまった。
「……そうでした。アサギに用があるんです」
意識を逸らすように浅葱斑に向き直り、白花苧環は床に籠を置く彼に声を掛けた。
「えっ、ボク? 他にも植え替えが……?」
「いえ。植え替えではないです。狴犴直々の指令です。花街へ行ってください」
「え!? 狴犴直々って何……? こ、怖いな……」
「フェルニゲシュに会って話をすることが目的です。貴方は友人ですよね?」
「フェルに話? なんだ、それなら行ける! 何の話をするんだ?」
「最近、花街からの旅行者が宵街の変転人に危害を加える事件が相次いでます。それを把握しているか、そして厳重に注意してもらいたいんです。制御できない問題なら、今後オレ達は花街を敵と見做さないといけないかもしれません」
「危害って……誰か襲われたのか?」
「多くは軽い悪戯です。ですが先日、スミレが負傷し傘を折られました。これは悪戯では済みません」
「え……スミレが!?」
「スミレは腕を切り付けられ、安静にするため入院してます。骨が欠けましたからね」
「ほ、骨が!?」
「確認が必要なら病院に行けば会えます」
骨が欠ける程とは、並の変転人の力ではない。下手をすれば腕を飛ばされていたかもしれない。黒葉菫は上手く身を引いて骨が欠けるまでに留めることができただけだ。
「で、でもそれって、花街に行くのはちょっと……危険ってことなんじゃ……?」
「花街の命令で襲撃したなら危険ですが、個人の悪戯かもしれません。それが定かではないので、アサギ一人では行かせませんよ。複数人で行ってもらうつもりです。誰に行ってもらうかは現在、狴犴が頭を悩ませてます」
「何か怖いことになってきたな……」
「後ほど召集が掛かると思います。なので宵街内で待機をお願いします」
「う……わかった……一緒に行く人は強い人でお願い……」
狴犴の命令なら逆らえない。友人にまた会えるのは嬉しいが、用心棒がいてくれないと不安だ。獣は怖いが、味方ならば心強い。強い獣が最低でも一人付いて来てくれれば安心できる。
「それでは失礼します」
要件を伝えた白花苧環は胸に手を当て、大仰に白い頭を下げる。深々と一礼し、くるりと踵を返して去って行った。
「スミレさん、入院してるんだ……変転人だから完治に時間が掛かるんだね。後で御見舞いに行こっと」
骨に到達しているかもしれないと思っていたが本当に骨に達していたとは、相手は全く加減しなかったらしい。
「獏は知っているんだな」
「うん。スミレさんは僕に助けを求めたから」
「話を聞かせてもらってもいいか?」
「いいけど……贔屓が花街に付いて行くの?」
「いや。僕は行かない方がいいだろ。フェルニゲシュが宵街に来た時、随分と警戒されていた。僕が行っても警戒されるだけだ」
贔屓が行くなら浅葱斑も安心なのだが、行かないなら仕方ない。贔屓はよく殺気が駄々漏れになるという些か迷惑な欠点もある。本人は抑えているようだが、抑え切れていない。
黒色蛍が発注書にペンを走らせる傍ら、獏は贔屓に灰色海月と黒葉菫の身に起こったことを掻い摘んで話した。白花苧環の口振りだとこの二人以外にも被害を被った変転人がいそうだが、それは獏の耳に入っていない。灰色海月の件は蒲牢が鴟吻に助けを求めたので贔屓の耳にも届いていたが、黒葉菫の件は初耳で看過できない程の傷害事件だった。
「これは狴犴も頭が痛いな……僕には相談してくれないようだが」
贔屓は苦笑し、今自分にできることは植物の植え替えだけのようだと浅葱斑と共に作業を再開しながら会話を続ける。
「花街を警戒させないなら変転人を連れて行く方がいいよね。獣が行くと無条件で警戒されそう」
「だが獣と対等に話すなら獣を連れて行くしかない。向こうに悪意があるなら、変転人だけでは舐められてしまう上に危険だ」
「そうだね……フェルは形ばかりの王だって言ってたけど、だったらフェルに言っても無駄なのかな。実権を持ってる人……そっちとは友達なの? アサギさん」
「え!? ボクが話せるのはフェルとアナだけですけど……。実権を持ってる人は複数人いるらしいけど、誰とも顔を合わさなかった」
「複数か……囲まれたら厄介だね」
「こ、怖いこと言わないでよ獏……あ、そうだ。変転人なら苧環が来てくれたらいいな。苧環は強いし、まさか半分獣なんて思わないよな」
「確かに不意は衝けそうだけど、狴犴が行かせてくれるかなぁ」
狴犴は今度は白花苧環を死なせまいと大事に抱えている。遠方の手が届かない危険な場所へ送り込むはずがない。
「物凄く不安になってきた……」
震えながら根に土を被せ、浅葱斑は背を丸める。何故こんなことになってしまったのだろう。
これが無色の変転人の仕事なのかと黒色蛍はペンを走らせながら真剣に耳を傾けていたが、大役を任される浅葱斑の浮かない顔を見ていると首を捻ってしまう。他の街の王とやらに話をしに行くのだから、名誉なことではないのかと。
虫の姿だった頃は小さくて敵が大勢いたが、今は人の姿となって手足が長くなり何でもできて敵もいない。手足の数は減ってしまったが。宵街で渾沌が暴れた時は黒色蛍も驚いたが、命の危機だという実感は湧かなかった。黒色蛍は人の姿となって平和な日常に身を置く内、生命に関して疎くなっていた。
「獏。後はもうこちらで遣れそうだ。戻って休んでくれ。助かったよ」
「牢屋で休むって変なことを言うよね」
「寛いでいると思ったんだが」
「地下牢よりはマシかもしれないけど、別に寛いでるわけじゃないからね」
行動や力の制限はあるが、ふかふかのベッドに紅茶や菓子まで出て来る。充分寛げるのではないかと贔屓は苦笑するが、棲みたいと思ったことはない。
よく眠っている灰色海月と黒色海栗を起こすのは憚られたが、街に戻るには起こすしかない。獏が灰色海月の肩を軽く叩くと彼女はすぐに目を覚まし、はっとした顔をした。
「……眠らされてましたか?」
「ふふ。君が自主的に寝たんだよ」
「本を見てると眠くなってきたんです」
「宵街は時間が停止してないから、疲れたんだね。クラゲさんもあの街に長くいるから、体がそっちに慣れてるのかも。偶には休んで宵街でゆっくりしてもいいんじゃないかな」
灰色海月自身は菓子を焼いて充分ゆっくりしていると思っていたが、街に掛けられた時間停止の力が体に及ぼす影響を考えたことはなかった。灰色海月は自分の手を見下ろし、握ったり開いたりと繰り返す。動きは正常だ。
「私は監視役なので……」
「贔屓に言っておくよ。狴犴に伝えてもらうね。狴犴は変転人を大事にするし、大丈夫だよ」
木を整える贔屓に駆けて行く背を目で追い、灰色海月は傍らに眠る黒色海栗を起こした。彼女とは同じ海の生物同士、図鑑を見ながら、人間の手足は四本しかないのでもう何本かあればもっと便利なのにと他愛無い話をしていた。
「……寝てた」
「どうやら整理が終わったみたいです」
「壊れたのは夢だった?」
「それは現実みたいです」
出入口に積まれている破れた本と、その向こうに壊れた机や椅子が見えている。黒色海栗も灰色海月の視線を追って口を閉じた。
「……こういう絵、家に飾りたい」
図鑑の表紙の海を指し、黒色海栗は遠い海に思いを馳せた。人の姿だと陸の生活となり、水生生物系の変転人は他の誰より元の暮らしていた環境を懐かしく思ってしまう。
「新しい家にですか? 良いと思います」
「クラゲの家は?」
「私の家は……宵街が完全に元通りになってからではないでしょうか。急を要する物ではないので」
「ヨウ姉さんの家、色々あって面白いから見学したらいい」
「獏のお店のような物ですか?」
「獏の所には無いような物がある」
「では時間があれば」
黒色海栗は出会った頃と比べて随分と喋るようになった。人の言葉にも慣れ、話す余裕が生まれた。二人は歳が近く、同じ海の生物と言うこともあり話し易かった。
二人の会話が終わった所を見計らって獏は声を掛ける。灰色の頭と黒い頭を突き合わせて頭を下げる二人を待ち、獏は灰色海月と共に自分の牢である小さな街へ戻った。黒色海栗は引き続き図書園の手伝いだ。
黒色蛍はそれらを見詰める。仕事とはもっと過酷なものだと思っていたが、途中で寝ても怒られないのなら案外緩いものなのかもしれない。これなら弱いと言われようが遣っていけそうだ。