136-仕返し
「フェルニゲシュの調子はどうだ?」
花街の古城の薄暗い一室で、白い石のブローチを身に付けた獣達は顔を突き合わせていた。
ここは会議室と呼ばれる部屋だが、中央の大きな卓に着く者はおらず、ごちゃごちゃと瓦落多の積まれた壁際へそれぞれ離れて座っていた。
退屈な会議を退屈な部屋で行うのは苦痛である。言い出したのは誰だったか、殺風景な会議室にとりあえず物を置いたのだ。明らかに多い棚やクッションの山に大小様々な壺、誰が描いたかは知らない抽象的な絵画、甲冑や回転木馬の馬など、会議には必要の無い物ばかりだ。
本日の議題は『フェルニゲシュの調子について』だ。頻繁ではないが、気が向くとこうして集まっている。
「最近はよく街を抜け出してるみたいだな」
頭にシャモアの角を生やした白髪の男――ズラトロクは気怠そうに、瓦落多に埋もれた椅子の背に凭れ掛かる。早く城から離れた湖畔で一息吐きたい。
「ごめんなさいごめんなさい……私の所為です。全部私の所為でこうなったんです……」
黙っていれば只の美人だが、口を開けば怯えたように謝罪を繰り返す女――ヴイーヴルは背に生えた蝙蝠のような小さな翼を縮こまらせ、大きなクッションを抱き締めて瓦落多に埋もれる。両の目は俯いているが、額にある金剛石のような三つ目の瞳は周囲を不安そうに見渡している。
彼女の調子はいつも通りだ。この場の獣達はもう慣れているので、気にせず話を続ける。
「街を抜け過ぎてアナちゃんが疲弊しきってるだろ。最近は特に酷い。このままじゃフェルより先にアナちゃんが壊れる」
瓦落多の上で長い脚を組み、角も翼も無い金髪碧眼の青年――アイトワラスは呆れたように天井を仰ぐ。
「フェルニゲシュが街を出るんだからしょうがない」
「秘書が壊れればまた新しい秘書を作ればいいだけ」
狼のような耳と尾を生やした夜色の髪の少年と少女――スコルとハティは瓦落多の上で手を叩きながら無感動に吐き捨てる。二人は半分に割ったブローチを髪飾りのように頭に付け、二人で一人前だ。数を数える時も二人で一人と数えられる。
「それとも僕達の罰が厳しいとでも?」
「そうなの? それは心外だわ。ちゃんと見えないようにしてるのに」
二人はぼそぼそと耳に囁き合い、足をぱたぱたと動かした。
「街を出る奴が悪い。罰も皆が賛同してる。でも壊れるとまた花を探しに行くのが面倒だ。どうにかフェルを街から出さない方法を考えた方がいいんじゃないか?」
「花探しはアイトワラスの仕事だからな」
「ロク、それはオレの仕事じゃない。皆が行かないから仕方無くオレが行ってるだけだ」
「ごめんなさいごめんなさい……私が悪いんです」
「ヴイーヴルさんはちょっと黙ってて」
「本当にごめんなさい……」
三人が言い合うのをスコルとハティは薄く不気味に笑いながら見守る。変転人にする花探しはアイトワラス、懲罰はスコルとハティだともう役割が決まってしまっている。
「じゃあ今日の会議はもう終わりでいい?」
「フェルニゲシュの首輪はちゃんと機能してる」
一見腑抜けに見えるなら、制御の首輪が機能している証拠だ。フェルニゲシュの力は抑制されている。
力を制限されたフェルニゲシュは凡庸だが、昔は牙を生やし獰猛に暴れ回っていた。その時の牙は抜かれ、首輪の御陰で平穏を保っている。定期的にこうして異常がないか確認していれば、問題が起こることはない。
「だったら解散でいいな。お疲れ」
ズラトロクも異議無しと立ち上がり姿を消す。
「お疲れ様です……」
一人が去るとヴイーヴルも申し訳無さそうに立ち上がり、深々と頭を下げて闇に消えた。
スコルとハティもそれに乗じていつの間にか姿が見えず、アイトワラスは去り際の早い獣達のいた空間をじとりと睨んで頭を掻いた。皆いつもこうだ。集まるのは遅いが去るのは早い。あまり長く顔を合わせたがらない。
アイトワラスも部屋を出、誰もいなくなり明かりの消えた暗い会議室のドアを閉めた。
* * *
誰もいない街の誰も来ない古物店のベッドで、獏は黒いマレーバクの面を被ったまま仰向けに転がり目を閉じていた。
この部屋よりも狭い宵街の地下牢にいる罪人は普段何をしているのだろうとふと考えていた。獏も地下牢に入れられるはずだった。地下牢は暗くて湿っていて、何も無い牢だ。中は一度見たが、机も布団も無かった。地下牢の罪人はそこから出ることも許されず、毎日何をして時間を潰しているのだろうか。
途方も無い空虚な時間を想像し、無駄だと考えることを止めた。そしてこの牢には柔らかいベッドがあることに少し感謝した。本当に少しだけだ。釈放はされないのだから嬉しいはずがない。だがもし釈放されたとしても、行きたい場所は無かった。
目を開けて首を傾け、壁際の何も無い棚を見る。一階の店だけでなく自分の部屋の棚にも何か置いてみようかとぼんやりと考える。
そんな虚しい時間を過ごしていると、唐突に階段を駆け上がる音がした。こんなに暇なのに何をそんなに急ぐことがあるのか。ノックも無く開け放たれたドアの向こうに、狼狽する灰色海月が息を切らせて立っていた。
「大変です! スミレさんが怪我を……!」
「!? すぐ行く!」
獏も急いで飛び起き、部屋を飛び出した。黒葉菫は以前、瀕死の重傷を負って獏の許へ逃げ込んだことがある。その時のことが脳裏を過ぎり、獏は不安に眉根を寄せて懐の杖に手を伸ばした。
詳細は聞かず外へ出て、石畳の上に右腕を押さえて膝を突く至極色の青年の姿を見つける。駆け寄ろうとし、空き家の前に立つ気の弱そうな人間の少年が視界に入った。
「まさかこの人間が……?」
「……うぇ!? ち、違います! 僕はただ頼まれただけで……」
面で隠れた獏の顔は見えないが、不快な空気を感じ取ったのだろう。少年は慌てて首を振った。
「スミレさんがこの人間に手紙を書かせたみたいです」
「…………」
獏は黒葉菫の前に膝を突き、彼の右腕を確認する。押さえていた手を剥がすと彼は目元を歪めて歯を喰い縛った。黒葉菫の利き手は右だ。負傷してペンを握れなかったのだろう。だがペンは握れなくても傘は左手で持てるはずだ。
「止血するから、もう少し我慢してね」
瀕死を想像していたので意識があることに安心しながら、折り畳まれた杖を長く伸ばす。傷口に杖の先を翳し、大きな変換石が温かく光る。
「……すみません」
「いいよ。一人で転んで……じゃないよね。かなり深く切れてる。誰かに遣られたんだよね? 腕の他に傷はある?」
「……変転人です。傷は……腕を斬られただけです」
止血をされながら黒葉菫は左手を口元に当て、折れた黒い傘を引き抜いて転がした。
「これ……!」
一瞥し獏も目を瞠る。それは無色の変転人が持つ、転送するための傘だ。真っ二つに折れている。負傷してすぐに宵街の病院へ行けば良いのに何故ここに来たのか疑問だったが、理由がわかった。これでは転送ができない。だから近くにいた人間を利用し、獏へ手紙を投函させたのだ。灰色海月が直接彼を宵街に連れて行くことも可能だったが、人間を放ってはおけなかったのだろう。人間は無断で宵街に連れて行けない。
「突然襲われて……俺も撃ってしまいました。罰を受けないといけないかもしれません……」
「先に襲ったのは向こうなんでしょ? 正当防衛だよ。知り合いだったの?」
「いえ。黒所属の男でしたが、見たことのない顔でした。脚を撃ったんですが、逃げられました」
「相手はまんまと離脱したんだね。そいつの傘も圧し折ってやりたいよ」
負傷しながらも反撃した黒葉菫を賞賛しつつ、控えている灰色海月を呼ぶ。
「クラゲさん。狴犴に内緒でマキさんを連れて来てくれる? 罰って言うのが僕にはわからないから、マキさんに確認しよう。マキさんだったら悪いようにはしないはず」
「はい。わかりました」
灰色海月は頭を下げ、灰色の傘をくるりと回して姿を消す。状況に全く付いていけない人間の少年は、得体の知れない者達が何か行動する度にびくりと跳ねる。こんな状況で人間に構っている暇は無いので、暫くは大人しくしていてもらいたい。
「……よし、止血できたよ。不意打ちだったのかな? 骨まで達してるかもしれないから、病院で診てもらって。はっきり言って冗談じゃ済まない攻撃だよ」
「雑用で山菜……蕗の薹採りをしてたんですが、背後から迫って来てることに気付きませんでした……」
「そんな雑用あるんだ……」
「横取りが目的だったのかもしれません」
「酷いね……」
傘を折られ、その場から離れることに必死だったのだろう。折れた傘以外に彼が所持している物は無い。蕗の薹は持ち帰れなかったようだ。変転人なら狴犴に望めば何でも与えてもらえるだろうに、本当に横取りがしたかったのだろうか。
然程待たずに灰色海月は白花苧環を連れて戻って来た。彼は冷ややかな目で人間に一瞥をくれ、黒葉菫と獏に駆け寄る。
「スミレが負傷したと聞きましたが、あの人間ですか?」
「ち、違います!」
少年は二度目の否定をし、必死に首を振った。
「黒い変転人に不意打ちされたんだって。それで遣り返したら罰があるの?」
杖を畳んで懐に仕舞い、黒葉菫の代わりに獏が問う。
白花苧環も腰を落とし、彼の腕を確認した。傷を見ようと腕に触れると黒葉菫は顔を顰め、白花苧環はゆっくりと手を引いた。
「変転人同士の些細な喧嘩までは咎められませんが、変転人個人の判断による命の危険がある行為は禁止されてます」
「変転人個人?」
「獣の命令により変転人を攻撃した場合の責任は、命令をした獣が負うため、変転人は免責されます。これはスミレも知ってますよね。スミレの場合は先に手を出したのが相手のようなので、正当防衛と見做されるはずです。因みにどの程度遣り返しましたか?」
「脚を撃った」
「何発ですか?」
「……二発」
「オレなら二十発は返します」
「…………」
それは正当防衛と言うより返り討ちだ。桁が違う。
「狴犴が怖くてオレを呼んだんですか?」
「ぅ……」
全て御見通しのようだ。黒葉菫は急に恥ずかしくなってきた。
「気が動転していたんですね。オレは顔が広くありませんが、相手の特徴を聞いておきます。相手が獣の指示で動いていた可能性もありますが。何か目立った特徴はありましたか? 顔見知りですか?」
「知らない奴だった……。黒所属の男……少年体で、髪は肩くらい、左目の下に黒子があった……と思う。あと赤っぽいマントを肩に羽織って、それから……右耳にカフスを付けてた」
「!」
獏と白花苧環の顔色が一変する。片耳のカフス――それが示すのは、花街からの旅行者だ。単なる装飾品として宵街の変転人が装着している可能性も否定できないが、灰色海月が悪戯された先例を知る獏は小さく舌打ちをした。
「十二分の観察力ですね。スミレは花街の旅行者の話は聞きましたか?」
「少しなら……」
「これは宵街全体に注意喚起しておいた方がいいかもしれません。クラゲが弄ばれた件は蒲牢から報告があったので聞いてましたが、こう続くと警戒すべきです」
事態を把握しておらず怪訝な顔をする黒葉菫に、獏は初詣でに行った時のことを話した。そこで灰色海月が耳にカフスを付けた見知らぬ変転人から悪戯を受けたと。その時の変転人は女性だったので今回黒葉菫を襲った者とは別人だが、同一人物の方がまだ良かった。警戒する人数は少ない方が良い。
花街の変転人は片耳に翻訳機であるカフスを付けているので、それを見たら警戒をするよう彼にも言っておく。
黒葉菫は真剣に相槌を打っていたが、浮かない顔だ。不意打ちとは言え、相手は獣ではなく変転人なのに、傘を折られるほど後手に回ってしまった。悔しさが口の端に滲む。
「花街の王に直接苦情を言えればいいんですが、さすがに遠いですね」
白花苧環は狴犴と共に科刑所にいたので、フェルニゲシュとゲンチアナにも会っている。二人には特に悪い印象は受けなかった。苦情を言えば正してもらえるはずだ。
「クラゲさんの時に今回みたいなことがあったら、間違い無くフェルに言ってたよ」
「そうですね。罪人に賛同するのは不本意ですが、こればかりは」
折れた黒い傘を拾い、断面を確認する。折れたと言うより刃物で斬り付けられ叩き切られたようだ。
自分の掌から白い傘を抜き、白花苧環は黒葉菫に手を差し出す。
「狴犴にはオレから報告します。少し状況説明は求められるかもしれませんが、怖がる必要は無いです。まずは病院で治療しましょう」
「悪い……恩に着る」
「恩? ……そんな大層なことをした覚えはありませんが」
「……お前だったら避けられたんだろうな」
「確かにオレなら避けて相手の腕を切り落としてるでしょうが」
白い彼以外の三人は、遣り兼ねないと眉を顰めた。彼が何処まで覚えているか知らないが、初めて会った時に灰色海月の両手を切断したことは忘れない。いとも容易く切断した彼を思うと、黒葉菫を襲った者は腕を斬り落とす程の力は無かったと言える。白花苧環には敵わないだろう。
白花苧環は黒葉菫の手を取り立ち上がらせる。獏に向かって大仰に白い頭を下げ、白い傘をくるりと回し黒葉菫と共に姿を消した。
「さて……と。また報告があったら来てくれるだろうし、僕達は店に戻ってようか」
「そこの人間はどうしますか?」
「え?」
壁際で硬直している少年のことをすっかり忘れていた。
「あ……折角だし、願い事でもある?」
黒葉菫に利用されて来ただけなら獏に用は無いだろう。だが黒葉菫の頼みを素直に受け入れてくれた少年に、少しばかりの礼として小さな願いくらいは叶えてやっても良い。
「も……元の場所に帰してもらえたら……」
気の弱い少年はこれだけは言わなければと、最も大事なことを口にした。
「僕のことは知ってる?」
少年は妖しい動物面と目を合わさず、必死に距離を取ろうと壁に背中を押し付ける。新興宗教の勧誘か新手の詐欺だろうかと冷汗が止まらない。
「知……らない……です……」
「獏の噂は知らない? 願い事を叶えるっていう」
「獏……? 獏はあれ……ですか? 夢を食べるとか何とか……。それ以外はちょっと……」
「へえ。全く知らない人をここに招くのは初めてだね。じゃあ、少し説明してあげるよ。怖がらなくても取って喰ったりはしないし、変な物も売り付けないよ。ただ御礼がしたいだけなんだ」
いつも人間を喰い物にし、あわよくば瓦落多を買ってもらおうと考えている獏を灰色海月は無表情で凝視したが、何も言わなかった。
「御礼って……何の御礼ですか……?」
「怪我人のために手紙を書いてくれたことだよ」
「あ……あれですか……。あれは僕もよくわからなくて……。腕を怪我してたので、言われた通りポストに入れただけで……」
「僕は人間は嫌いだけど、親切にしてくれた人間は悪いようにはしないからね。困ってる人がいたら、君がまた人助けをしてくれるよう煽てておかないと」
言葉の端々に棘があると思いながら、少年は摺り足で獏から半歩離れた。
「助けてほしいのは僕の方なのに……」
無意識にぼそりと漏らしてしまい、少年ははっとして口を噤んだ。こんなことを妖しい不審者に言っても何も解決しない。
少年は顔を逸らし、獏はにやりと不敵に微笑む。この少年は既に人間には不可能な不思議な瞬間移動を体験している。人知を超えた力の存在を信じてくれるだろう。そして人間では無い獏の存在も。
今回は飽くまで礼なので代価の請求はしない。代価が必要無いなら契約の刻印も施す必要が無い。簡単な口約束だ。
「何でも一つ、願い事を叶えてあげるよ」
「そんなランプの精みたいな……」
「ランプ? 千夜一夜物語かな。あれほど強い力は無いけど、僕だって今までたくさん願い事を叶えてきたよ。千夜一夜物語みたいにお試しで……と言ってあげたいけど、僕は一つしか叶えないからお試しだけで終わっちゃう。望むなら代価有りで二つでも三つでも叶えてあげるけど」
「お金いるんですか……何か試供品みたいですね……」
「さっき呟いてたけど、話を聞くだけなら幾らでもできるよ。世間話でもいいし、話してみる?」
「あれは……警察に言ったので、大丈夫です」
「警察? 怖いことでもあったの?」
優しく同情するように、獏は柔らかな声色で尋ねる。まるで真綿に包み込むように優しい。
「た……只の泥棒なので……鉢合わせてないですし……」
「それは災難だったね……大事な物を盗られたの? 取り返したいなら僕が犯人を見つけてあげるよ」
「……え? 警察から進展無いって言われてるのに?」
やっと喰い付いてくれたと獏は微笑んだ。
言葉と声で誘導していたことに灰色海月は気付いていた。本当にこの獣は口が上手い。
「警察にはできないことが僕にはできるからね。追跡も容易いよ。いつどんな物を盗られたの?」
「二週間前ですけど……。母が大事に仕舞ってた婚約指輪とか、結婚式に付けたネックレスとか……」
動物面の奥で獏は一瞬ぴくりと眉を動かしたが、少年は気付いていないだろう。願い事の手紙だと思念が染み付いているのでいつでも追跡可能だが、窃盗で染み付く思念は薄い。二週間も経っていれば消えているかもしれない。
「アクセサリーか……金目の物を狙ったんだね。他には? 現金とか」
「現金は……家に置いてましたが、気付かれなかったようで盗まれませんでした。慌ててたのかも……」
「へぇ……。君が望むなら取り返してあげるけど、僕も無理にとは言わないよ。嫌がる人に無理に御礼を押し付けてもね。ありがた迷惑って奴だよね」
「ぁ……い、いえ、そんな……迷惑では…………じゃ、じゃあ、少しなら……」
気が弱い少年は押せば簡単に押されてくれる。申し訳無さそうに少し引けば、すぐに小さな罪悪感が生まれるのだ。獏はふふと笑い、灰色海月を手招いた。
「今から君の家に行ってもいいかな? 現場を見たいんだけど」
「い、今からですか!? 両親は家にいないですが……仕事なので……」
「じゃあ都合がいいね。あんまり人数が多くても説明が面倒だし」
「い、いや、でも……知らない人を家に上げるのは……」
「煮え切らない人間だなぁ」
釦を外して開いた襟から露わになる烙印に、灰色海月は硬く冷たい首輪を嵌める。獏の噂を知らず、叶えたい願い事も無い人間はこうも非協力的なのかと彼女も小首を傾ぐ。由芽と由宇の親切は稀有なのか、この少年が稀有なのか。
「そんなに心配なら、携帯電話を握り締めてていいよ。いつでも君の大好きな警察に連絡するといい」
「大好きってわけじゃ……」
通報されてしまったとしても、警察が駆け付ける前に転送で一瞬で離脱できるのだから恐れることはない。
少年は不安そうに上着のポケットから携帯端末を取り出して握り締める。流されただけのようだが、決心が付いたようだ。
獏に促され、灰色海月は灰色の傘をくるりと回す。
転瞬の間に降り立った場所は、小さな細い庭だった。両腕を伸ばせば壁に手が届きそうだ。何も無い庭から壁を見上げる。然程大きくはないが、二階建ての一軒家だ。
獏は家に向けて人差し指と親指で作った輪を翳して覗き込む。少年には獏が何をしているのか想像も付かないが、暴れているわけではないので黙って見守った。
手を翳して触れずに窓の鍵を開けて入ることも可能だが、獏は少年を促した。泥棒に入られたのだから、そこは神経質になる所だろう。
少年は流されるまま獏と灰色海月を家に上げ、靴を脱がず土足で室内に踏み込んだ二人に何も言えなかった。只あまり家の中を土足で徘徊してほしくなかったので、盗品のあった部屋へ速やかに案内する。
二階の寝室へ連れて来られた獏は、入口から部屋をぐるりと見回した。ベッドが二脚、箪笥、サイドボード、奥に鏡台がある。
灰色海月をドアの横に待機させ、まずは鏡台に向かう。引出しを順に全て開けて中を確認し、隣の机に置かれていた装飾品の収納箱を開けた。
「……あ、あの、盗まれたアクセサリーが何処にあるかって、僕言いましたっけ……」
「アクセサリーは身を飾る物でしょ。当然、鏡の近くにあるよね」
「あ、ああ……」
「全部が盗まれたわけじゃないんだね。盗まれた物には貴重な宝石でも付いてたの?」
「えっと……指輪にはダイヤモンド、ネックレスとピアスは真珠で……」
「ダイヤモンドは何カラット?」
「か、カラット……? えっと……二ミリメートルカラット……くらい?」
「ふふ。カラットは重さだよ」
「えっ、そ、そうなんですか……」
「二ミリだと一カラットにも満たないかなぁ」
一カラットは〇・二グラムである。
「安物ってことですか?」
「君の安物が幾らを指してるかは知らないけど、どんな大きさだろうとダイヤモンドはダイヤモンドだよ」
「そ、そうですね……」
「それにプレゼントで大事なのは金額の大きさじゃなくて、愛の大きさだからね」
「……気持ち、ですね」
「柄にも無いこと言ったから鳥肌立っちゃったな」
鏡台を調べ終え、隣のサイドボードの引出しも開けていく。そうして部屋にある引出しを全て開けて確認した後、獏はもう一度部屋を見渡した。
「明らかに変だね」
「な、何かわかったんですか……?」
「盗まれたアクセサリーよりも高そうな宝石が付いてる指輪が残ってた」
小箱に入った青い宝石の指輪を示す。深い青で透明度が高く、キラキラと輝いている。ダイヤモンドとは比べ物にならないくらい大きい。
「これはサファイヤだよね」
「それは……硝子だそうです……」
獏は無言でもう一度青い指輪を見、既に動物面で覆われているが更に両手で顔を覆った。
「硝子なの!? 自信満々で宝石って言っちゃったんだけど!」
「よ、よくできてますよね……キラキラしてて……」
「慰めはいらないよ! 人間は一瞬で宝石と硝子を見分けられるの!?」
「僕は母から聞いてたので……。知らない人ならわかりませんよ……」
「犯人は盗んでないのに!?」
「は……犯人は……宝石の鑑定士だった……とか……?」
「慰めはいらないよ……」
しょんぼりと眉尻を下げ、獏はサイドボードへ目を遣った。
「サイドボードの中に高そうな腕時計があると思ったけど、それも安物なのかも……」
「あ、それは父の物で……ちゃんと高い腕時計です。そっちは見る時間が無かったんじゃないかと……」
「本当? じゃあ僕の考えてることで合ってるのかな。自信が無くなってきたけど……」
肩を落として鏡台の前に蹲み、気を取り直して少年を手招く。
「ねえ、盗まれた物が入ってた引出しはどれ?」
「これです」
普段は使用することが無いのだろう、一番下の引出しを指差す。獏はもう一度その引出しを開け、完全に引き出してしまう。それを片手に、もう片方の手の指で輪を作って付近を見回した。
「……やっぱりかなり薄いね。犯人が自分の持ち物でも落として行ってくれてれば簡単に追えるんだけど……」
「警察は何も言ってなかったので、犯人の物は何も無いと思います……」
指の輪の覗き窓で気配を探るのだが、引出しは犯人の持ち物ではない。盗品を探った時に染みた気配を探ってみるが、二週間も経っているためかなり薄れている。持ち主である少年の母親の気配を一番濃く感じて、今はそれが邪魔だ。他には捜査をした警察の気配も薄く感じる。これも邪魔だ。だがそれらのどれとも違う、絡み付くような粘着質な気配がある。これが犯人の気配だろう。まるで見世物のようにじろじろと見られているような不快な気配だ。
「中身は邪魔だから置いて行くけど、引出しを外に持ち出してもいいかな? 犯人の気配を追うから」
「え!? 犯人がわかったんですか!?」
「まだはっきり誰とは言えないけど、気配を辿れば犯人に辿り着くよ」
「じゃ、じゃあ早く警察に……!」
「気配を辿って犯人を見つける、なんて警察に言って信じると思う? 警察は目に見える証拠しか信じないよ」
「そんな……」
「気を落とさなくても、そんなに警察が好きなら、警察が片付けられるよう通報のタイミングを言ってあげるよ」
「好きってわけじゃ……」
少年はもごもごと口籠もりながら渋々頷いた。好き嫌いではなく、得体の知れない獏より警察の方が信用できるだけだ。
「ちょっと人間の醜悪な所を見ることになるかもしれないけど、心配しないで。人間は君が思ってるより悪い人が多い」
「…………」
何を心配するなと言っているのかその言葉では理解できなかったが、少年は他に頼れる者も無く、渋々獏の後に付いて行くことにした。何より逆らった時に何をされるのかわからず怖い。
引出しで気配を辿って窓から外へ出、少年は遠回りだが玄関から外に出た。
「気配が薄いからちょっと時間が掛かるけど、君は時間は大丈夫?」
「は、はい……。夜遅くならなければ……」
「それは善処するね」
現在は昼過ぎである。順調なら夜までに終わるだろう。
灰色海月は一歩下がって二人を見守りながら、灰色の傘を握って付いて行く。泥棒が凶器を持っている可能性があるため、危険ならいつでも離脱できるよう傘は出しておく。
気配を辿りながら獏はあちこちふらふらと徘徊する。本当に気配を辿れているのか灰色海月ですら不安を覚えるほど足取りが覚束無い。
随分歩いたが、獏はまだ歩き続ける。犯人は電車を利用しなかったようだ。
少年の脚が棒になりそうな頃、漸く獏は止まった。犯人は電車を使わなかったが、自転車くらいは使ったかもしれない。
「あそこかな」
「あそこって……スーパー?」
規模はあまり大きくはない、街の小さなスーパーマーケットがそこにあった。
「困ったね……店は人が多い。僕は目立ちたくないんだけど」
「犯人はあそこに住んでるってことですか?」
「店に住むのが一般的なのか僕は知らないけど、たぶんあの中に今、犯人がいる。出て来るのを待とう」
「あの中に今いるんですか!?」
少年は慌てて携帯端末を取り出し、落としそうになる。
「気が早いよ。犯人が盗品を手にしてる所でも目撃しないと、警察は動いてくれないでしょ。言い逃れできない決定的な証拠を突き付けた方が、警察も手間が省けるしね」
「な、成程です……」
「だから、犯人が出て来ても接触はまだしない。尾行する」
盗品をそのまま辿ることができれば一番手っ取り早いのだが、残念ながら獏は物の気配は辿れない。無機物に気配など無いからだ。無機物に染み付く気配は総じて生物の気配である。迷子のペットや人間を捜すことは可能だが、紛失した物を見つけることはできない。幾ら持ち主の気配が染み付いていようと、軌跡に気配を残してはくれないからだ。
スーパーマーケットの出入口が見える路地の陰で暫く張り込み、一人の男が出て来ると獏は二人に目配せした。とは言っても動物面を被っていると目は見えないので、頭を動かすことで察してもらう。男は買った物を詰め込んだビニル袋を自転車の籠に突っ込み、見られているとも知らずそのままサドルに跨って走り出した。
「追うから静かにしててね」
引出しを少年に持たせ、怪訝そうな彼を獏は素速く抱え上げた。普通の人間が自転車を追って走るのは難しいだろう。
「クラゲさんは手を掴める?」
「遣ります」
少年の体を支える獏の手を掴み、灰色海月は頷いた。獏の手を取ると少しだけ体が軽くなる。獏が地面を蹴って垂直に家の屋根まで跳ぶと少年は恐怖で固まってしまったが、灰色海月はもう慣れている。
極力気配を消して屋根を跳び、道を走る自転車の後を追う。静かにと言われた少年は言われるまでもなく恐怖で声が出なかった。距離の開いた道幅も一跳びだ。二階建ての家だろうと人間は落ちれば最悪死ぬ。少年は男が止まるまで泣きそうな顔で、指が白くなるほど引出しと獏の服を握り締めていた。
男は古びた二階建ての戸建て住宅の前で止まり、壁に寄せて自転車を停めた。
家の中に入る男を目で追い、獏は屋根を飛び降りる。少年を地面に下ろし、周囲に誰もいないことを確認して鍵の掛けられた玄関へ向かった。少年はごくりと唾を呑み、引出しと携帯端末を握り締めて獏を見上げるが、まだタイミングではないようで通報の合図は無かった。
獏は指の輪で家を覗き、玄関に手を翳して音を立てないよう鍵を開ける。
「入るよ」
「ふ……不法侵入になりませんか……?」
「心配ならここで待ってていいよ」
返事は待たず、獏は一人で中に入った。少年が外で待つならと灰色海月も外で待機をさせておく。
玄関には草臥れた靴が複数置かれていた。男は一人暮らしではないようだが、今は家に一人のようだ。軋みそうな廊下を音を立てずに歩き、男のいる二階へ上がる。明かりの消えた階段は薄暗い。
迷わず爪先を男のいる部屋へ向け、音を立てずにドアを開ける。男は畳の上で背を向けて座っていた。狭い部屋だがごちゃごちゃと物が多い。不格好に畳まれた布団が部屋の隅に押し遣られていた。
(物が多いと言うより、片付けてないだけかな……? 服が散らかってる。未開封の御菓子は……蒲牢がいたら喜んで持ち帰りそう)
背を向けて動かない男の後ろに蹲み、彼が視線を落としている畳を肩から覗く。おそらく少年の家から盗み出した物だろう、小さなダイヤモンドが付いた指輪と真珠の装飾品が無造作に転がされていた。金が目当てなら二週間も経っていれば売り払っているだろうに、盗品はまだ男の手元にあった。証拠品をいつまでも手元に残しておく理由などそう多くはない。
「好きなの?」
「え……? わ、ぎゃああああ!?」
ぼそりと耳元に囁くと、男は漸く背後に潜む妖しげな影に気付いて悲鳴を上げた。盗品を蹴散らして這い、倒れ込むように壁に貼り付いた。
「な……だ、誰だ!? いつからそこに……っ」
「ふふ。驚かせるつもりはなかったんだけどね。あまりに浸ってるから、つい」
「浸ってる……?」
獏が指輪を拾うのを男は黙って目で追う。黒い動物面を被った男だか女だかわからない人物は一言で言うと不気味だった。
「婚約指輪に、結婚式に使用した装飾品。他の金目の物には目もくれず、たったこれだけ。持ち主の彼女のこと、好きなの?」
「!」
獏の手元に渡ってしまった盗品を取り戻そうと男は手を伸ばし掛けるが、その手は力無く引き戻された。
「警察……じゃないよな。お前……」
「うん。只の善良な獏だよ」
「わけがわからん……」
「君も知らないの? もう結構広まったと思ったけど、僕の噂もまだまだ局地的なのかな」
「いいから、それを返せ!」
警察ではないとわかったからか、男は強気に転じた。動物面は得体が知れないが凶器は持っていない。それなら素手でも勝てると思ったのだろう。華奢な獏相手なら。
「胸は無さそうだが、細いからな……女だろ? オレは善良じゃねぇ。お前を殴って放り出してやる!」
わざわざ相手に宣言するのは、自分を奮い立たせるためだ。屁っ放り腰を正し、どたどたと獏へ拳を振り上げた。
獏は立ち上がりながら突き付けられた腕を掴んで引き、男の足を払う。受け身も取れず、男は派手な音を立てて転倒した。
「喧嘩に慣れてない動きだね。とりあえず話を聞きたいんだけど、さっきの僕の質問の答えをくれる?」
「は……は……? 何だお前……」
「こ、た、え」
畳に伏せる男の肩に足を置いて催促する。絶対に勝てると思った相手に呆気無く転ばされ、男は動揺していた。爪先で頭を軽く蹴られて漸く我に返る。
「……何でお前に言わなきゃならねぇんだ!」
「ふぅん。じゃあこれはいらないね。僕が貰うよ」
盗品を拾い上げ、男の眼前に揺らして煽る。男は手を出そうとしたが、肩が押さえられて腕が上がらなかった。
「返せよ! それは……いや、いらない物だが……」
「……それで?」
「そんな物、すぐに捨ててやる……」
「君は彼女のことが好きだったけど、彼女は他の男と結婚した。婚約指輪や結婚式に身に付けた物を奪っても、彼女の結婚は無かったことにはできないよ」
「お前に何が!」
「わかりたくないね。君は負けたんだよ。只の負け犬だ。しかも往生際が悪い。彼女が君を選ばなかったのは正しい判断だね。君は未練がましく犯罪を犯すような人なんだから」
「…………」
「もう話す気は無いってこと? 言い返さないってことは、僕の言ったことで合ってた?」
答え合わせをするために問い掛けるが、そんな必要は無い。指の輪で感情の動きが丸見えなのだから。
遠くでサイレンの音が聞こえる。通報して良いと言った覚えは無いのだが、警察を呼んでしまったようだ。ここで警察と鉢合わせると面倒なことになる。後のことは警察に任せて獏は立ち去った方が良いだろう。
「このっ……!」
獏の意識が外に向き、足の力が一瞬弱くなった瞬間を逃さず、男は跳ねるように踠いて肩を動かす。置かれていた獏の足を掴み、仕返しに引っ繰り返してやろうと腕を引いた。
足を取られた獏は体勢が崩れるまま身を任せて畳に手を突き、体を捻って自由な足で男の頭を蹴り飛ばす。それでも男は手を離さなかったが腕の力は弱くなり、獏は硬い踵で思い切り腕を踏み付けた。踵の角が腕に喰い込む。床に叩き付けられた腕はみしりと嫌な軋みを上げた。
「……しまった……折っちゃった……」
「――――!」
男は喉の奥から声にならぬ声を上げ、腕を押さえて床を転がった。
早く立ち去った方が良いだろう。サイレンの音が近い。獏は急いで階段を飛び降り、玄関に待機している灰色海月を回収した。
「後はよろしくね!」
少年にはそれだけ言い残す。こんな所に置いて行かないでほしいと少年は獏を呼び止めようとしたが、最後まで言うことはできなかった。
「お……置いて行かないで……」
獏と灰色海月の逃げ足は速く、パトカーが到着する直前に二人は忽然と姿を消した。
残された少年は警察の現場検証に付き合わされることになり、玄関で待っている時に聞こえた大きな悲鳴の理由を見て身震いした。