135-晴れの日
悪を嫌い正義を貫く白の変転人である白花苧環は、科刑所に通うのが日課だ。
薄暗い宵の空が見下ろす宵街の中腹、それよりもう少し上の上層に近い位置に彼の家はある。箱を積んだような四角い石の家が並ぶ宵街で、彼の家もまた例外無く冷たい石の塊だ。
そこに地霊が朝早くに朝食を入れた岡持を手に遣って来る。中身を机に置き、空になった昨日の食器を回収して科刑所へ戻って行く。宵街の変転人全てが食事の配達をしてもらっているわけではなく、料理ができない彼のために狴犴が手を回しているのだ。
兎のような長い耳と土竜のような大きな爪、ずんぐりとした黒い体で鼻をひくつかせる地霊を眺めながら、彼の一日は始まる。
食事は地下牢の罪人達の食事作りを担当する螭が作る物で、つまり罪人と殆ど同じ食事なのだが、白花苧環はそれを知らない。知れば嫌悪感で食事を引っ繰り返してしまうかもしれない。
狴犴が食事に無頓着な所為か白花苧環も食べ物にあまり関心が無く、似たような料理が続いても気にせずに食べている。スープにパンや米を浸すとそこそこ美味しいことに最近気付いた。白花苧環の食事は罪人よりも量が多く、加えて一品多いのだが、今日は温野菜の盛り合わせが付いている。植物系の変転人は野菜を食べることに少々複雑な気持ちがあるが、慣れればどうということはない。食用の植物は様々あるが、明確に野菜に分類される種――例えば人参や大根などの変転人は宵街にいない。変転人にするのは好ましくないと一応配慮はされている。
食事を終え白湯を飲んで一服したら、短くなったがまだ括れる程は長い髪を一つに束ね、石段を上がって科刑所へ向かう。他の変転人は中腹より下に棲んでおり、上へ行く時は擦れ違うことが殆ど無い。上層には獣が棲んでいるが、あまり数が多くないのか彼は一人しか見たことがない。
薄暗い科刑所の上へ上がって狴犴の部屋の扉を開けると、彼はいつも奥の机で書類に齧り付いている。一体何時から起きて仕事をしているのか、聞いたことはない。
白花苧環の主な仕事は書類の整理である。最近金魚の餌遣りも加わった。
何処からそんなに書類が湧いてくるのかと言うと、主に変転人から届く人間の街への買物代行依頼である。特に有色の変転人は転送手段を持たないため、宵街からは出られず科刑所に頼むしかない。買物以外の要望もあるが、買物が大半を占めている。同じ場所で調達できる物を纏め、無色の変転人を使いに出すのが狴犴の仕事の一つである。争いが起こらない平時はこんなものである。
その他にも宵街のために考えることはあるが、頭の中は覗けないので白花苧環も狴犴の考えていることはわからない。何か新しい施設を作りたいと贔屓と話しているのを聞いたことはあるが、その計画は中々進まないようだ。
その時に贔屓が二つの時計を置いて行った。一つは小さく、狴犴の机に置かれている。もう一つは壁際に、大きな振り子時計が立っている。振り子時計は偶に大きな音を鳴らすが、狴犴が鳴らないように弄ってしまった。
時間を把握する物が無い部屋に時計が置かれたのは、狴犴がきちんと食事や休憩を取るためだ。とは言っても彼はあまり時計を見ないので、白花苧環が管理を任されている。食事の時間になれば鳩時計のように声を掛けるのだ。休憩の匙加減は難しいので中々声を掛けられないが、食事を摂る時に休憩もできているはずだ。目は書類を向いているが。
「朝食はもう摂りましたか?」
白花苧環が問うと、狴犴は無言で机の引出しを一瞥した。そこには栄養食が収まっている。きちんとした食事というのは難しい。栄養食はきちんとした食事ではないと贔屓に言われているが、狴犴は無視している。白花苧環も食事に頓着は無いので、時間が無いなら手軽に栄養食でも良いのではないかと思ってしまう。
「報告書を確認した」
「はい」
獏が酔って悪夢を吐いた報告書だ。何と報告すれば良いか白花苧環は頭を悩ませたが、酒の入った食事を摂ってしまったと報告した。灰色海月にも予想外のことだったので、彼女が責められないよう気遣って書いた。
「酒を飲んだことのない獣なら、自分にどんな症状が出るか想像がつかないだろう。ラクタヴィージャは烙印の所為だと診断したようだが……否定はしない。私も食事には疎いが、料理酒と言う食事に混入させる酒もあるそうだ。今後は獏が酒を摂取しないよう確認した方がいいな」
「料理酒……ですか」
「ああ。お前も気を付けておけ」
「はい。覚えておきます」
料理に使う酒は加熱でアルコールを飛ばしてしまうものだが、二人にその知識は無かった。
「お前はその後変わりないか? 悪夢と対峙したようだが」
「報告書にも書きましたが、あの悪夢は獏から切り離すと霧散しました。人から生成される悪夢ほど厄介な物ではないようです。オレの身には特に変わりありません」
「そうか。それならいい。念のために獏の方も確認を頼めるか? あれから数日が経つが、もう酒が抜けたか確認してほしい。相手が悪夢では、灰色海月一人には荷が重い」
「わかりました。行ってきます」
白花苧環は白い頭を下げ、踵を返す。世話の焼ける面倒な罪人だ。あれ以来、灰色海月は科刑所を訪れていないので問題は起こっていないだろうが、稀有な出来事の事後はよく観察しておくべきだ。
部屋を出た所で掌から白い傘を抜き、ぽんと開いてくるりと回す。
慣れた手付きで転送し、暗い小さな街の石畳をこつりと踏んだ。
傘を仕舞いながら白い踵を鳴らして唯一光の灯る石積みの壁の建物へ向かい、軽く軋みを上げてドアを開く。以前に来た時よりも室温が高い。暑いくらいだ。
眉を顰めながら置棚の間を歩いて奥まで行くと、その理由がわかった。
「……何をしてるんですか?」
机を少し横に動かして空いた場所に、縦に長いストーブが置かれていた。その上に網を載せ、白い物が焼かれている。
「あ、マキさん! お餅を焼いてるんだよ」
「何故」
にこりと笑顔で獏は人形のような金色の双眸を細める。その手には菜箸が握られていた。
「何をしてるんですか?」
もう一度最初の問いを口にし、白花苧環は獏を睨む。罪人が何故牢の中で餅を焼いているのか。理解できなかった。
「え? だからお餅を……あっ。このストーブはね、ラクタが差し入れてくれたんだよ。水を被って寒気がするって言ったから、届けてくれたんだと思う。僕はもう元気だけど、ストーブは返さなくていいよね?」
「餅は関係なくないですか?」
「マキさんも食べていいよ。海苔を巻いてあげる」
「…………」
皿に海苔を載せ、軟らかい餅を挟む。机に置いた砂糖醤油の皿を示し、獏は楽しそうに餅を差し出した。
「……お面はもう飽きたんですか?」
「ん? 飽きてないよ。ただストーブの前だと黒いお面は熱くて。そんなに人も来ないし、少し外すくらいならいいかなって」
髪も服も黒いのにお面を外した程度で何か変わるのだろうかと白い白花苧環は疑問だったが、そんな話をしに来たわけではない。
「クラゲの姿が見えませんが?」
「クラゲさんは人探しだよ」
「人探し?」
「うん。『天気を晴れにしてほしい』って願い事が投函されてたんだけど、僕は何もできないから。龍に天候を操ってもらおうと思って。龍は雲を操るからね」
「龍……蒲牢か睚眦ですか?」
「拷問官はちょっと……」
睚眦は科刑所に所属する拷問官だ。罪人が拷問官に助けを乞うなど滑稽である。
「龍によって得意な天気があるみたいだから、蜃に頼んでみようと思ったんだ。前に雨を止ませられるって言ってたから」
「そうなんですか」
「マキさんは何か用があって来たの?」
顔の前に餅を突き出されるが、白花苧環は受け取らなかった。
「貴方の体調を確認に来ただけです」
「そうなの? 心配させてごめんね」
「貴方の心配はしてません」
「お餅は? 前の君なら素直に受け取ってくれたよ」
「……罪人から食べ物を……?」
信じ難いものを見る目で獏と餅を見、白花苧環は記憶があるか手繰る。だが過去の記憶は殆ど全て消え失せており、真偽が定かではなかった。
半信半疑で受け取ってしまったのは、以前の自分を尊重したからだ。半分は無意識だ。
「黄粉もあるよ」
机上のもう一つの皿を示し、獏は嬉しそうに笑う。人形のように整った顔が整った笑みを浮かべている。
「砂は遠慮します」
「砂じゃないよ。大豆の粉だよ」
信じられないので白花苧環は砂糖醤油に餅を付けて頬張った。
「あつっ」
「熱いから気を付け……」
熱さよりも伸びることに困惑し、白花苧環は餅を咥えたまま目を泳がせる。咥えたまま固まってしまった。
「もしかして食べたことなかった? ゆっくり食べるんだよ。喉に詰まらせないようにね」
「…………」
餅を伸ばしたまま動かなくなってしまったので、仕方無く獏は箸で切って遣った。
「……何してるんだ?」
怪訝な少女の声が聞こえ、二人は出入口のドアの方へ目を向ける。
「あ、蜃。良かった、見つかったんだね」
「仲良いんだな」
「良くありません! 帰ります。とんだ醜態を晒してしまいました」
一口食べた餅を置き、白花苧環は早足で立ち去る。罪人のペースに流されてしまったことを悔やんだ。訝しげに大きな瞳で見上げる赤髪の小柄な少女とその背後に付いていた緑髪の少年に頭を下げ、二人を連れて来た灰色海月を一瞥して彼は宵街へと戻る。獏の体調は確認できたのだから、これ以上の長居は無用だ。
「お餅が口に合わなかったのかな。伸びてびっくりしてたし」
「餅? じゃあ俺が喰う」
「餅のために呼んだのか?」
二人は相変わらず仲が良い。一人を呼べばもう一人も付いて来る。
室温が高かろうが蜃は気に留めない。低温は苦手だが、高温は平気だ。ストーブの上で焼かれている餅を見つけ、蜃も箸を探した。
緑髪の少年、椒図もストーブを覗き、首を傾げる。
「餅焼き機か?」
「これはストーブ、暖房器具だ。見たことないか?」
「暖房器具……囲炉裏なら」
江戸時代から地下牢にいた椒図はストーブを見たことがなかった。
「ああそうか……薪ストーブも無い頃か……」
「昔よく蜃が寒がって囲炉裏を創っていた」
「…………」
そんなこともあったと思い出しながら、今はそんな話をしている場合ではないと蜃は焼けて膨らむ餅を一つ海苔で抓んだ。
「あっつ!」
「大胆だね」
横着をして海苔を箸代わりに使った蜃を笑い、獏は箸を貸してやる。箸なら台所にまだある。
「獏。天候操作のために蜃を探していると聞いたが」
海苔を巻いた餅を椒図にも差し出し、受け取った彼は黄粉を付けた。砂ではないと知っているようだ。
「うん。何通も同じ手紙を出した人間がいて、ちょっと見るのが遅くなったけどまだ間に合いそうだったから。何か大事な用でもあるんだろうね。晴れにしてほしいんだって」
蜃は砂糖醤油を付け、餅を伸ばしながら耳を傾ける。甘めの砂糖醤油と少し焦げた餅が香ばしい。機嫌が良いので天気くらい操ってやろうと思った。
「いつだ?」
「次の日曜日」
「天気予報は? 人間は予測を立てるだろ?」
「クラゲさんに確認してもらったけど、どうやら予報じゃ雨らしいんだよね」
「運の無い人間だな」
「時間はちゃんと聞いてないけど、丸一日でも晴れにできそう?」
「俺は龍と言っても半分だからな……完全な龍より能力は弱い。豪雨だと晴らすのは厳しい。普通の雨なら曇りにならできると思う。太陽を覗かせるのは難しい」
「そうなんだ」
「だから俺の能力は晴れにすると言うより、雨を上がらせる、が正確だ」
「そっか。じゃあ差出人に確認して、それでもいいなら頼んでもいい?」
「まあ別に……偶には普段使わない力も使っておいた方がいいからな」
あまりに使用頻度が低いと、いざと言う時に感覚を忘れてしまう。獣が力を使用するのは慣れれば手足を動かすようなものだが、手足も使わなければ鈍る。
餅を頬張りながら、蜃はストーブの上の他の餅にも目を遣る。
「醤油と黄粉だけか?」
「うん。他に何がある? 餡子?」
「バターとシロップとか」
「えっ。聞いたことないなぁ」
「最近ホットケーキを食べて、バターと蜜が気に入ったらしい」
椒図の補足に獏も納得した。餅に合うかは試してみないとわからないが、餅自体には味付けが施されていないのだから、食べられるだろう。黄粉も甘いのだから。餅はまだたくさんある。幾らでも試せそうだ。
「シロップあるかなぁ。蜂蜜でもいい?」
他にも何か面白そうな物はないかと台所の棚を開けて物色している所に、灰色海月が手紙の差出人を連れて戻って来た。差出人の少女は手紙の内容とは裏腹に随分と暗い表情をしていた。獏は顔を見られない内に動物面を被る。
「……熱い」
「おや、ごめんね。ストーブを切るよ」
焼けた餅を皿に移し、少女の要望通りストーブを切る。机からもう少し離せれば良いのだが、生憎狭くて動かせそうにない。
「獏は夢しか食べないと思ってた」
「そう? 人間と同じように色々食べるよ」
暗い顔をしているが会話はできている。俯いて目を合わせようとしないが、出された椅子には素直に座る。
投函された手紙の束を机に置き、獏は古びた革張りの椅子に腰掛けた。
「これは全部、君が出した手紙だね?」
手紙の束を一瞥し、少女は頷く。
「余程晴れてほしいみたいだね。遠足とか?」
そんな暗い顔で遠足を楽しみにしているわけがないだろうと端から蜃は思ったが、手に残っていた餅を放り込んで口を塞いだ。
「そのお餅が私だとすると、私は良いことが何も無い。砂糖も醤油も無い。足りない物ばかりで、物語の主人公にはなれない」
「…………」
何を言っているのか理解できず、蜃は咀嚼の速度を落としながらゆっくりと傍らの椒図を見上げる。椒図も怪訝な顔をし、獏の様子を窺う。
「そこの赤い髪の人はきっと全部揃ってて、砂糖で出来てる。だから楽しそう」
「……砂糖と醤油って……食べられるってことか? こいつ、大丈夫なのか?」
小声で椒図に訴え、椒図も首を捻る。
「聞こえてる」
少女に指摘され、蜃は椒図を一瞥した。
「緑の髪の人は蝸牛みたいだけど、楽しそう」
「…………」
蝸牛は貝を背負っていて閉じ籠ることができる。偶然だろうが、閉じる能力を持つ椒図を例えるには正しい。それに椒図は貝属だ。それでも何故そんなことを言い出したのか意味がよくわからず、蜃は眉を寄せた。
「獏は……よくわからない」
「饒舌だねぇ。それで君は何で晴らしてほしいの? こっちの事情で快晴は無理かもしれないんだけど、雨を降らせないようにはできるよ」
少女ははっと口を噤み、暫し沈黙した。自分でもよくわからないことを口走っていると自覚したようだ。
「私は良いことが無いから、死のうと思った。死ぬ時くらい、晴れた日がいいなって」
少女の声は感情が籠もらず、淡々としている。まるで他人事のようだ。
「つまり願い事は自殺幇助?」
「天気を変えるだけでも幇助になる?」
「君が望むんなら、そうじゃないかな」
「叶えてもらえない?」
「叶えてもいいよ。でも一つ聞いてみたいことがある」
「……何?」
少女と獏の前にティーカップが置かれ、紅茶の香りが立ち上る。
「君の言う『良いこと』って何? 答え難かったら無理にとは言わないけど、最後にそれを叶えるのもいいかなって」
「そういうの、偽善者って言うんだ」
「偽善かなぁ」
少女からすれば確かに偽善かもしれない。だが願いが叶えば獏は代価が貰えるが、死んでしまえば代価は受け取れないのだ。彼女の死を見送って願い事が完了するなら、つまりタダ働きである。なので死ぬ前にもう一つ願い事を叶えて、そちらの代価を戴いてしまおうと考えたのだ。砂糖や醤油ではなく、獏は都合の良さで出来ている。
「良いことはとにかく良いこと。家がお金持ちだったり、親が尊敬できたり学校の友達が嫌な人じゃなかったり、欲しい物は何でも手に入る。それはきっと特別なこと」
「なんだ、君も自分に都合の良い世界が欲しいんだね」
獏は微笑み、紅茶を一口飲んだ。
「良いことも悪いことも特別って言えるけど、君が欲しいのは良い特別だよね? でももし特別が手に入ったとして、君はこう言うんだろうね。『こんなものは特別じゃない。もっと特別じゃないと』ってね」
「…………」
「特別って不思議だよね。他人の手にある時は宝石みたいに輝いて見える。自分の手にある時は見慣れてしまって、道端の小石みたいに見えちゃう」
「……私には何も無い」
「さっき君が言ってたけど、物語の主人公って結果的だと思うんだよね。後は運かな。主人公って運が良い。運が良いから物語に拾ってもらえるんだよ」
「何言ってるの……?」
「君が不思議なことを言うから、僕も言ってみようかなって」
「馬鹿にしてる?」
「言葉で伝わる以上に君は辛くて追い詰められてるとは思うけど、勿体無いね。君は君の中にある全てを知ってるのかな? もしかしたら何か良いものもあるかも。どう?」
「……わからない」
「勿体無いね。わからないのに死ぬなんて」
「だって良いことなんて……」
少女は俯き、カップを見下ろして黙り込んだ後、勢い良く飲み干した。両手で頭を掻き回し、小さく呻く。
「何で……何で! 無駄に引き止めようとしないで! 獏だったら何も言わず見送ってくれると思ったのに! 偽善者!」
突然声を荒げて焦燥を撒き散らす。追い詰められていることはよくわかった。
(人間を慰めるのは難しいな……人間の周りには人間が多過ぎる。この子はきっと空っぽで、周りの音が響き過ぎる。不協和音の方がよく響くのかな)
人間の気持ちを考えても無駄だろう。獏は人間ではないのだから。
「別に人間を助けようなんて思ってないんだけど。そんなに言うならここで死になよ。殺してあげるから」
「え……」
「殺されるのは嫌なの? 動揺してるけど大丈夫?」
「私……何で逃げられないのかな……逃げたいのに、何で……」
「混乱してるみたいだね。次の日曜日までまだ時間があるし、少し落ち着いてみたら?」
「…………」
少女はぱたりと口を閉じ、膝の上に置いた両手を見詰めた。その手に掴めるものは何も無く、空虚な毎日を過ごすだけだった。ひたすら毎日我慢を強いられ、逃げればいいと思っていても我慢に足を引っ張られる。自分には耐えることしかできないと諦めている。死ぬことは何に対する我慢なのだろう。
「……獏は、どんな願い事を叶えたことがあるの?」
「色々あるけど、良いことばかりじゃないね。結果的に死んでしまった人もいるけど、嫌な現状を打開したいって願い事は結構叶えたかな」
「それは最悪な結果だと思うんだけど」
「ふふ。最悪かな。君は今、最悪になりたいって願い事を僕にしたの?」
「私を生かしたいの? 偽善者」
「……まあいいか。そんなに言うなら僕も覚悟を決めて、次の日曜日に会おうか」
それはタダ働きの覚悟である。
獏は灰色海月に目配せし、彼女は灰色の頭を下げて少女を促す。
俯いたまま立ち上がる少女に手を振り、その背中に獏は指で作った輪を向けた。
灰色海月に連れられ店を出る少女を見送り、ドアが閉まると獏は両手で頬杖を突いて笑った。
「ねぇ蜃。いっぱい手伝ってね」
「は?」
彼女の前にあったティーカップの中は、一滴も減っていない紅茶で満たされていた。
願い事の契約者の少女が指定した日、予報の通り雨が降った。
空から雨粒を落とさないよう蜃は杖を構えて鈍色の空に集中する。分厚い雲は退かすことができず、力の範囲外では雨が降っている。人間に怪しまれない内に善行を終わらせてほしいものだ。
少女が最期の場所に選んだのは、切り立った崖の上だった。眼下は海で、天気を移すように荒れている。広い青空を見ながら終わらせたかった。
「…………」
少女は崖の端に着く前に立ち止まり、俯いていた顔を上げた。断頭台に上がるような気持ちだったが、台無しにされた。
崖の上は場違いにも花畑が広がり、色取り取りの小さな旗が頭上に張り巡らされていた。シャボン玉と花弁が舞い、何かの祭のようだった。
「何のつもり……」
「折角の最期だし、盛大に見送ってあげようと思って」
獏はにこにこと微笑みながら花畑の中を歩く。足に当たる感触は岩しかなく、草の擦れる音もしない。これらは全て蜃が出力した幻だ。範囲はそう広くはないが大量の幻に天候まで操り、蜃は喋る余裕すらない。雲の操作はとにかく消耗が激しいのだ。椒図が様子を見ながら、持参したチョコレート菓子を蜃の口に突っ込んでエネルギーを補給している。
幻を作るのも簡単ではない。中でも大変なのは花畑だ。破綻のないよう花弁の数や葉の形、葉脈に至るまで蜃が全て創造した物だ。正確に形や動きを捉え、干渉する現実に馴染むようにしている。相手を騙すための能力なのだから、現物に近いだけの幻では駄目だ。現物その物でなければいけない。簡単に出力しているように見えるが、天候操作と同時に行うのは無理があると蜃は内心で毒突いていた。天候操作だけならと獏の頼みを受けたが、幻を作れとは聞いていない。
(天候操作は久し振りだが……思ったよりきつい! 何で俺がこんなこと……!)
蜃の頑張りとは裏腹に少女は不満そうだが、花を踏んで崖を進んだ。実体化はしていないので足裏に花の感触は無いが、潰れた花の幻は脳を錯覚させる。
「何でこんな無駄なことをしたの?」
(俺もそう思う!)
「くだらない……」
(そう言われると腹立つ!)
複雑な心境を顔に出す蜃を無言で見守りながら、椒図は蜃の口に餌を突っ込んだ。
「曇ってるし……」
(溜息吐くな! 腹立つ! 見てろよ……)
今でも負担が凄まじいのに、蜃はもう一つ力を使った。人間に舐められるくらいなら無茶をする。空に晴れの幻を創り出す。天候操作で晴れにはできずとも、幻を見せることなら可能だ。青い空に白い雲、そして眩しい太陽が頭上に浮かぶ。
そこまでするよう指示していなかった獏は驚いたが、蜃の方を見て察した。獣は人間に舐められると苛立つものだ。
「……あ、晴れた」
「どう? 満足した?」
「本当に天気の願い事を叶えてもらえると思わなかった」
「ふふ。引き受けたからには叶えないとね。あと薬玉も置こうかと思ったんだけど、さすがに怒られそうかなって」
「賢明な判断だと思う」
「薬玉ってね、祝い事で割る印象があるけど、香料を袋に入れて、邪気を払って寿命を延ばす物でもあるらしいよ」
「どっちの意味でもこの場ではいらない」
少女は崖の先端に立ち、眼下を見下ろした後にゆっくりと振り返った。
「代価はどうやって払えばいいの?」
「あ、無視されると思ってたよ。こっちで何とかしておくから大丈夫」
「何とか……?」
「心の準備ができたら、いつでもどうぞ。見送ってあげる。独りは寂しいもんね」
離れて見守る蜃は一刻も早くと思ったが、喋る余裕が無い。椒図が口に突っ込む物を咀嚼する余裕しかない。
少女は海に背を向けたまま、暗い顔を晴れた空に上げた。光のカーテンが下り、深海まで照らしそうなほど明るく眩しい。まるで特別なことが始まりそうな日の空だ。
「――最高の命日が遣り直せた」
そう微笑んで、少女は崖から海へ消えた。
どれほど待っても海に落ちる音は聞こえなかった。
「……いいよ、蜃。力を解いても」
蜃は止めていた息を一気に吐いて吸い込んで肩で息をし、その直後に大きな雨粒が降り注いだ。花や飾りも消え、鈍色の暗い崖の上にはもう何も無い。
椒図は最後の菓子を蜃の口に入れ、雨に濡れる獏へ駆け寄り崖の下を覗いた。蜃も杖を支えに追う。
「最期の言葉……少し変だったな」
雨が打つ暗い海面には何も見えなかった。崖の途中に引っ掛かってもいない。海に落ちた音は聞き漏らしたのだろう。
待機していた灰色海月は濡れる獏に灰色の傘を差し出し、海を一瞥する。
「変じゃないよ」
獏も海を見下ろし、海面ではなくもっと深くを見るように目を細めた。
「あの子の死は二度目だから」
「……? 死に損なったのか?」
「ううん。死んだよ。丁度一年前にね。今日はあの子の命日だよ」
「は……? 何だそれ? ……あ、まさか幽霊!?」
蜃は崖から身を乗り出し、椒図に服を掴まれた。雨に濡れた崖は滑り易い。
獏が指の覗き窓で少女を見た時、何も覗くことができなかった。それを不思議に思い、日曜日までの時間で少し調べることにした。灰色海月は少女を家の前まで送り届けていたが、その家に彼女は住んでいなかった。代わりに彼女の遺影が飾られていた。
「去年のこの日も大雨だったみたいだね。死因は雨で足を滑らせて転落した事故なんだって。自分では死にたかったけど、死ねずにいたみたいだね。変なことを言ってたのは、事故で死んじゃって混乱してたのかも」
「自死を『逃げ』とするなら、逃げられないとはそういうことだったのか……」
椒図は杖を召喚し、小さく空間を閉じた。功労者の蜃がずぶ濡れでは可哀想だ。閉じた空間の中には雨が降らない。
「だから死を遣り直したかったみたいだね。折角の最期の日だから、晴れた方がいい。今度は雨に邪魔されないように。あの子は自分で死にたかったんだ。変わった未練だね」
「だが幽霊がどうやって獏に手紙を? そもそも幽霊が存在するのも信じられないんだが」
「幽霊が存在するかは知らないけど、あれは悪夢だよ」
「は!?」
驚きながら蜃はもう一度海を見る。黒い物は見えなかった。
「悪夢なら……君は最初から気付いてたのか!?」
「…………」
獏は口を閉じ、海から目を逸らした。蜃は杖で獏の背を打った。
「……お恥ずかしい話なんだけど、感知できてなかった」
「は!? 君もう獏を名乗るのやめろよ」
「悪夢ではあるんだけど、あの子の自我が強過ぎて悪夢の気配を覆い隠してたんだよね……未練が強過ぎたのかな。流暢に喋ってたし、人間の皮まで被ってたし。それとも烙印の所為? 心を覗いた時に可能性の一つとして考えてはいたけど。確信したのは、空が晴れて自我が薄れた時だった」
「ついさっきかよ!」
悪夢は物に触れることはできるが、紅茶を飲みはしない。カップを傾けることはできても、中身は無くならない。
「だから下に下りて、食べておきたいな……」
「一人で行けばいいだろ!」
代価はこっちで何とかしておくとは、後で悪夢を食べるという意味だったらしい。椒図は納得するが、蜃は不満そうだ。
「海は荒れてるから、獏と海月だけでは危険だろ。乗りかかった船だ、最後まで付き合おう」
「海月は危なくないだろ……あいつ海出身だぞ」
灰色海月は無言だが、得意気に胸を張った。人の姿となったが、海は故郷だ。漂うだけの海月でも、潮の流れには敏感だ。泳げないが。
「蜃は疲れてるだろうし、帰ってくれてもいいよ。御礼に何か御馳走しようと思ってたけど」
「……しょうがないな」
椒図も付いて行く気なので、それなら共に行くと蜃も獏に付いて行った。決して御馳走が気になるからではない。
「悪夢が海に漂ってたら手を貸してよ」
「泳げないのか?」
「バク科バク属のマレーバクは泳げます。得意です」
「…………」
獏は何か言いたそうに灰色海月を見遣るが、口を尖らせながら小石を蹴った。マレーバクはともかく獏は泳ぎがあまり得意ではない。正確には浮くことが苦手だ。長時間は泳げない。
悪夢を野放しにしてまた厄介な問題が起こっても面倒だ。蜃と椒図は獏を手伝うことにし、暗い崖を下りた。