134-花街
獣と変転人が棲む宵街と同様に、人間の暮らす街とは別の空間にある西洋に紐付けされた街――花街と呼ばれる場所があった。
平坦で広大な花街は薄青い空に見下ろされる野原が広がり、人間の街では生育していない花々が足元を彩る。花街の空には昼夜という概念があり、夜になると其処彼処に浮かぶ風船のような丸いランタンが自動的に点灯する。街の一部に広がる森の中にはランタンが無いが、夜に立ち入る者はいない。
そんな街の小高い丘の上に、幾つも尖塔を伸ばす古城が立っている。その塔の一つに、縦に連なった音の異なる六つの鐘がある。これを鳴らせるのは古城に棲む六人の権利者だけだ。
ランタンの消えている時間、その塔の一つから外を眺める獣がいた。長時間座っていても疲れないクッションが付いた椅子に座り、鋭い青灰色の瞳で鉄格子が嵌った窓を見る。外に出させないための鉄格子だが、外に出てはいけないわけではない。窓からは出ず、きちんと廊下を通って外へ出ろと注意された。
「……獏から貰ったクッキーも、宵街で貰ったケーキももう食べてしまった」
物思いに耽る彼を邪魔しないよう音を立てずに部屋に入った白い少女は、びくりと足を止めた。
「突然話し掛けて驚かさないでください、フェル様」
「クッキーはもう皆に渡したのか?」
「とっくに渡してます」
ゲンチアナは呆れた溜息を吐き、広いが殺風景な部屋を見渡す。王の部屋なのだからもっと豪奢にしても良いのだが、フェルニゲシュはそれを望まない。派手な装飾を好まず、頭上に下がるシャンデリアも控え目で小さい。
ゲンチアナは部屋の掃除を終えた掃除係から連絡を受け、これから最終確認をする。ゲンチアナは王の秘書という役割で、本来なら彼女がこの部屋の掃除をするのだが、手が回らない時は城に従事する他の変転人に任せている。
物の少ない彼の部屋は多少は掃除が楽だが、天蓋付きの大きなベッドは別だ。彼の趣味ではないが、王の威厳のために用意されたベッドだ。長身のフェルニゲシュであっても同時に三人は余裕を持って眠れる、ゆったりとした大きさのベッドである。鰐のような彼の尻尾も伸ばして寝ることができる。
天蓋に触れ、埃などが残っていないか確認する。掃除係も慣れているのでそんな失敗はしないが、行き届いているか確認するのがゲンチアナの仕事だ。
「……アナ。今日は暇か? 散歩に行きたい」
「そうですね。今日は罪人の審判はありません。城下町なら随伴します」
花街にはこの大きな古城が立っているため、それ以外の場所を城下町と呼んでいる。フェルニゲシュは花街を出ることを禁じられているが、城下町ならゲンチアナ同伴の下、出歩くことを許可されている。これは王の身を案じてのことではない。その逆だ。
「今すぐ出発しますか?」
「ああ」
窓外を見下ろしながら、フェルニゲシュは長い黒髪を寂しそうに揺らし、彼が玉座と呼ぶ椅子から立ち上がる。彼の前にある机には何も置かれておらず、ただ呆然と外を眺めていただけだ。いつものことだ。フェルニゲシュはいつも、ここに幽閉されているかのように窓外を見詰めてぼんやりとしている。まるで籠の中の鳥だ。
廊下に出て石の床に踵を鳴らし、正しい出入口を抜けて外へ出る。古城の周囲にはぐるりと花の咲き誇る美しい庭があり、庭師達が日々手入れをしている。フェルニゲシュの姿を見つけると、同じ顔をした黄色い少女達が手を止めて頭を下げた。
「……そこの花、綺麗だな」
「人間の街から仕入れた薔薇ですね。こちらの橙色の薔薇は最近植えた物です。青い品種も開発されてるようで、いつかフェル様の目の色のような青い薔薇も観賞できるようになるといいですね」
庭師達は頭を上げず、ゲンチアナはすらすらと述べる。秘書とは全ての仕事を把握している必要があり、庭も例外ではない。
「後で何輪か部屋に飾りましょう」
「ああ」
再び足を動かし始めたフェルニゲシュに、ゲンチアナは目を伏せながら付いて行く。花街ではフェルニゲシュはあまり多くを話さない。友人の浅葱斑に対してや宵街では積極的に歓談していたが、花街の中ではそうではない。
ゲンチアナは秘書であり友人にはなれず、他の者がなれたとしても王と友人など烏滸がましい。花街でフェルニゲシュを知らない者などおらず、王と友人になりたいと思う者はいない。フェルニゲシュは花街の中では孤独で、表情には出さないがいつも寂しそうだ。
城壁を抜けて暫くは何も無い野原が広がるが、城下町が近付くと道が見えてくる。舗装はされていないが、土が均されて草は生えていない。
道に沿って空中に浮かぶ明かりの灯っていないランタンの間を歩き、遠目に大きな木の枝に括り付けて揺れるブランコを見る。数人の変転人が楽しそうに遊んでいる。
「遊びたいんですか? 構いませんが、加減してくださいね。以前のように勢いを付け過ぎて頭上の枝に引っ掛からないように」
「……アサギがいないからしない」
「では次はどちらに行きますか?」
自転車に乗った変転人が、王がいるとは知らず路傍を走って来る。それに気付いて王は端に避けて道を譲った。花街は広くて平坦な道が多いので、移動が容易いよう飛べない変転人のために自転車が存在する。個人で所有している者もいるが、そこら辺に乗り捨て、また乗り捨てられている自転車を拾って自由に使用する者が多い。
自転車に一瞥だけくれ、去る背をそのまま見送る。フェルニゲシュに頭を下げるのは城に従事する変転人だけだ。城下町の変転人にフェルニゲシュの存在を知らない者などいないが、殆どの者は王の顔を知らない。なのでそこら辺にいる他の獣と同じ扱いだ。特別なブローチを付けていても、王の青いブローチを見慣れている者はいない。王の秘書の証であるゲンチアナの黒いブローチも目に入っていないようだ。城下町の変転人が意識するのは、白いブローチだけだ。
「森に行く」
木々の茂る方へ目と爪先を向ける。長閑な風景の中、そこ一帯だけ鬱蒼としている。
「わかりました」
これでは散歩と言うより視察だ。フェルニゲシュはこんな散歩をしたいわけではないだろう。
森に入ると薄暗くなり、木々が視界を遮る。花街に野生の動物はいないので、歩く以外の物音がせずしんとしている。
所々草に覆われながら伸びている細い道を一言も発さずに歩き、ゲンチアナもやや居心地悪く後を追う。
草と根を踏み木々の中を暫く歩くと、小さな湖が見えてきた。湖に魚はいないが、偶に水遊びをしている者はいる。今日は誰もいないようで波紋一つ立っていない。
「……いるな」
一言呟き、フェルニゲシュはくるりと向きを変える。
「?」
ゲンチアナも怪訝にそれに続く。
少し歩くと湖畔に人影が見えた。向こうも気付き、折り畳み式の椅子に座ったまま振り向く。襟元の白い石のブローチが光り、先端が鉤爪のように湾曲したシャモアの角が遠目にも白い頭に目立つ。その向こうに座っていた黒いリボンを髪に結んだ灰色の少女もフェルニゲシュに気付いて立ち上がり、片膝を突いて深く頭を下げた。
「またキャンプか?」
「フェルニゲシュか……アナはともかく、君は帰れ」
白くて目立たないが顎に短い髭が生えたシャモア角の男は、眉を顰めて素っ気無く王を追い払う。彼は形ばかりの王の代わりに実権を握っている獣の一人、ズラトロクだ。フェルニゲシュに近い長身は威圧感があり、大抵のことには動じない冷静さも持っている。普段は気怠げな顔をしているが、引き締めていれば威厳が現れる。何も知らない者にズラトロクが王だと言えば信じるだろう。
その後ろで置物のように無表情で見上げる少女は灰所属の変転人、ズラトロクの世話人のエーデルワイスだ。エーデルワイスは消化器や呼吸器などに効く薬草である。
フェルニゲシュは彼の手元に目を落とし、腰を下ろした。
「何故座る」
「そろそろ昼食の時間か?」
「集りに来たのか。白々しい」
ズラトロクの手元にイングリッシュマフィンが焼かれている。焚火に立てた網の上でマフィンを焼き、隣のスキレットで太いソーセージが湯気を上げていた。その匂いが遠くまで漂っていた。
「これはワイスと俺の分だ。……アナの分なら焼いてやる」
焼けたマフィンを網から木の皿へ、そして紙袋から追加のマフィンを取り出し半分に裂いて網に置く。スキレットにも追加のソーセージを放り込んだ。
「私より、フェル様に……」
「俺は男には興味無い」
「…………」
ズラトロクとはこういう男である。女には優しく親切に接するが、男には無関心で厳しい。だが決して女に鼻の下を伸ばしているわけではない。男が嫌いなのだ。
既に焼けたマフィンの上に太いソーセージを二本と、とろりと溶けたチーズを載せてエーデルワイスに差し出す。エーデルワイスは再び椅子に座り、無言で皿を受け取った。焼けたソーセージとチーズの匂いが食欲をそそる。
ズラトロクはもう一つのマフィンにも同じようにソーセージとチーズを載せ、ゲンチアナにも差し出す。ゲンチアナは躊躇うが、押し付けられた。
「私はあまり食欲は……」
「君はもう少し食べた方がいい。普段もあまり食べてないだろ。ワイスの喰いっぷりを見ろよ」
エーデルワイスは目の前の湖を見ながら、人の目を気にせず大口を開けて黙々とマフィンに齧り付いていた。褒めたくなる程の良い食べっぷりだ。
獣から差し出された物を突き返すわけにもいかず、ゲンチアナは仕方無くマフィンを頬張る。噛んだ瞬間にソーセージが弾け、脂の旨味が口の中に広がった。口を離すと溶けたチーズが名残惜しく糸を引く。いつも冷たくて固い食事ばかり摂っているゲンチアナは目を丸くしたが、一口で疲れたように手を下ろした。
「やっぱり食欲は……。食べずにフェル様に渡せば良かったですね」
振り返ったゲンチアナは頭の中が真っ白になってしまった。先程までそこにいたフェルニゲシュの姿が無くなっていた。
「フェル様!?」
「さっき転送で何処か行ったな」
「何故止めなかったんですか!?」
「男には興味無い。去る者は追わない」
「ロク様……!」
「また街から出て……君が迷惑を被るなら、フェルニゲシュにも言い聞かせればいい。フェルニゲシュが規則を破って、罰を受けるのは君だと」
「それは……」
「言ってはいけない規則だがな。君のしたいようにすればいい。俺は君を助けることはできない。どれだけ君が痛みを受けようと」
「……失礼します。すぐに連れ戻します」
「告げ口はしないが、フェルニゲシュの首輪で、街から出たことはすぐにわかるからな」
ゲンチアナは皿を置き、踵を返した掌から白い傘を抜いた。
くるりと姿を消した彼女のいた虚空を見詰め、ズラトロクは息を吐く。
「……ん」
後ろから袖を引かれて振り向く。自分の分を食べ終えたエーデルワイスが、ゲンチアナの残したマフィンを無言で指差していた。
「……ああ、食べてもいい」
エーデルワイスは遠慮無くマフィンを掴み、頬張った。食べている間も無表情で眉一つ動かさない。まるで機械のようだ。
「俺は喧騒から離れるためにここに来てるんだ。騒々しいのは御免だ」
エーデルワイスは横目でズラトロクを一瞥し、咀嚼を止めない。彼女は一言も喋らず、静寂を好む男には丁度良かった。
人間の街に降り立ったゲンチアナは、人のいない路地から飛び出し辺りを見回した。フェルニゲシュには居場所を知らせる首輪が施されているが、寸分違わずぴたりと場所を知らせる物ではない。大凡の位置を伝える物だ。赤い屋根の家が並ぶ石畳の道を走り、目立つ黒い青年を捜す。鰐のような尻尾は隠しているため目印にはならない。そんなものを人間の街で晒していれば大騒ぎだ。
「……いた!」
然程離れていない家の庭に目立つ長身を見つけた。庭に勝手に侵入し、彼は窓から中を覗く不審者と化していた。
「フェル様! 何してるんですか!」
「……静かに」
「……?」
ゲンチアナは訝しげに首を傾ぎ、彼の隣に立って同じように家の中を覗いた。中には台所があり、女が鍋を覗いていた。
「……お腹が空いたんですか? だったら城に戻れば食事が……」
「もう一つ料理を覚えたい。以前一つ覚えたが、一種類では飽きる時もあるだろう? ズラトロクを見て思い付いた。アナに温かい料理をと思ってな」
「!」
ゲンチアナは俯き、奥歯を噛んで肩を震わせた。まさか自分のために人間の街へ来たとは思わなかった。
「帰ります! 私には必要ありませんから」
ゲンチアナは白い傘を開き、フェルニゲシュを強引に窓から引き剥がした。彼女が何故怒っているのか、フェルニゲシュにはわからなかった。
くるりと白い傘を回し、一瞬で花街へ戻る。
「もう二度とこの街から出ないでください! 貴方には王の自覚が無さ過ぎます!」
強く腕を引き、ゲンチアナは泣きそうな顔で背を向けた。その手は小さく震えており、フェルニゲシュは申し訳程度の反省をする。人間に危害を加えるわけでも加えられるわけでもないのだから、人間の街に散歩に行っても問題はないはずなのだが。
殆どの変転人は、フェルニゲシュが花街を出てはいけない理由を知らない。権利者のブローチを持つゲンチアナはそれを知る唯一の変転人であり、彼女はそれを自分に言い聞かせる。力を抑制する首輪を施されているフェルニゲシュは、弱い変転人にも脅威ではない。殴ろうが無理に引き摺ろうが怖くない。
だが首輪をしていても過去は消すことができない。花街を出てはいけない理由――フェルニゲシュは、大罪人だ。
罪人が王など可笑しな話だろう。だがそれが罷り通ってしまった。罪人一人に花街を任せるわけにはいかず、実権を持つ獣を四人配した。その一人が先程のんびりと湖畔でキャンプを楽しんでいたズラトロクだ。白いブローチがその証であり、フェルニゲシュに首輪を掛けた一人である。
フェルニゲシュがどんな罪を犯したのか知るのは実権を握る獣達だけで、ゲンチアナは想像すらできないが、気を抜かずに彼を古城へ連れ帰る。
城門を潜る直前、六つの鐘の一つが厳かに連続で二度鳴り響いた。鐘は審判に使用される物だが、それ以外にも用途はある。ゲンチアナはびくりと鐘を見上げ、足を急がせた。
フェルニゲシュを部屋へ放り込み、よく言い聞かせてドアを閉める。先程の鐘はゲンチアナを呼び出す鐘だ。フェルニゲシュが花街を出たことについて、説明を求められる。
一人残されたフェルニゲシュは、部屋の隅の囲いを覗く。そこには小さな台所が備え付けられている。城の中は自由に歩いても構わないのだが、この部屋の中で全て用を終えられるようになっているのだ。トイレもシャワーも部屋にあるドアを開ければ目の前だ。
ゲンチアナが罰を受けることを露程も知らず、籠に山盛りのパプリカを手に取り、台に並べていく。先程人間の家で見た物を見様見真似で作る。やはりパプリカは欠かせない。
「フェル様フェル様」
「何を作ってらっしゃるの?」
「あらら美味しい物ですか?」
ゲンチアナと入れ替わるように、庭師と全く同じ顔と姿をした三人の黄色い少女がフェルニゲシュの手元を覗く。フェルニゲシュの部屋の掃除も熟す、城に従事するミモザ達だ。ミモザは全草に毒があり、人間には軽度だが犬猫には危険なタンニンを含んでいる植物なのだが、彼女達は無色ではなく有色の変転人だ。毒があっても人間が食べてしまう植物は、無色か有色どちらに転ぶかわからない。
同じ顔をしたミモザは量産品のように両手で数え切れない程いるので呼ぶ時は困るのだが、何とかなっている。右や左など呼べば大抵伝わる。
金色頭がうろちょろと代わる代わるフェルニゲシュの手元を覗き、手伝えることはないかと口々に問う。
「……チキンが無い」
「ではお持ちします」
「何羽ですか?」
「生きの良いのを絞めてきます」
「一羽でいい」
三人は急ぎ足で部屋を出、残ったフェルニゲシュは赤いパプリカを切った。
人間の家では料理の工程を最初から最後まで全て見ることができたわけではないが、周囲を観察して何が入れられているかは推測した。
ミモザ達は早足で食材を持ち帰る。羽を剥いで肉となった鶏を、フェルニゲシュは適当な大きさに叩き切る。それを調味料で味を調えつつ、パプリカとサワークリームで煮込んでシチューにすれば完成だ。
丁度良い所にゲンチアナが戻って来たので、器に装って魔法の粉を振り掛ける。完璧だ。
「アナ、食べてくれるか?」
「!」
ゲンチアナは疲れた顔をしていたが持っていた花瓶を机に置き、探るように椅子を引いて机の前に座った。花瓶には庭に咲いていた淡い橙色の薔薇が美しく小首を傾げている。庭で言っていた通り、持って来てくれたようだ。
彼女の前に出来立てのパプリカーシュ・チルケ――パプリカで煮込んだチキンのシチューを置く。具材の大きさは揃っていないが、見た目は悪くない。スプーンを持つ彼女の手は少し震えていたが、気にする程ではない。少しだけシチューを掬って口に運ぶ姿を皆は静かに見守った。
「っ……!」
直後にスプーンは器を叩いて落ち、ゲンチアナは突然口を押さえて逃げるように部屋を出て行った。何も言わず走り去ってしまった彼女にフェルニゲシュは首を捻る。
「熱かったか?」
「フェル様フェル様」
ミモザの一人が指を差す。器の前に小さな赤が落ちていた。シチューの色よりも赤い。
「血か……? 慌てて食べて口の中を切ったのか」
余程痛かったのか暫く待ってもゲンチアナは戻らず、折角作ったシチューが冷めてしまった。
「……折角作ったからな。ミモザも食べるといい」
器に三人分装うと、ミモザ達は「冷めても美味しい」と言いながら、具材の火の通りに斑のあるシチューをぺろりと平らげた。
本来は食事を振る舞うのはゲンチアナの方なのだが、最近のフェルニゲシュは自分でも少しばかり料理をするようになった。仕事に翻弄されているのか、彼女はあまり食事を摂らないのだ。獣に比べると変転人は弱い。死んでしまわないかと彼は心配なのだ。
ミモザの感想を聞き、味は問題無かったようでフェルニゲシュは安心する。見様見真似だったが上手く作ることができて良かった。きっと魔法の粉の御陰だ。
「ミモザはアナの好物を知っているか?」
「アナ姉様の好物ですか?」
「聞いたことないです」
「アナ姉様はいつも粘土みたいな御飯を食べます」
「それは知っている。だからまともな食事をと思うんだが、オレも料理は詳しくないからな」
「このシチューはまあまあ美味しいです」
「アル兄様なら料理が得意です。残飯があると嬉しいです」
「アナ姉様、仕事のし過ぎで御飯が喉を通らないのでは?」
「ふむ……休暇を取るべきと言いたいのか。確かに外には様々な料理がある。旅行で羽を伸ばすのもいいだろう。オレが街を出ないと約束すれば、休暇を取り易いはずだ」
自分が花街を抜け出す所為で、ゲンチアナがゆっくりと休暇を取れない自覚はある。フェルニゲシュから目を離さないようミモザに囲わせておけばゲンチアナも安心だろう。
「フェル様はどうして街から出るんですか?」
「……オレの自由はこの街だけではない」
「フェル様はどうして街から出てはいけないんですか?」
「そう決められた」
「フェル様は王様だから、フェル様の自由にはできないんですか?」
「オレが自由にした結果がこれだ」
ミモザ達は不思議そうに顔を見合わせ、ぴょんと椅子から飛び降りた。
フェルニゲシュは器を重ねて小さな台所へ運び、洗い物を済ませておく。王としては遣ることが無く、毎日暇を持て余している。
「フェル様フェル様」
きゃっきゃと燥ぎながらミモザはフェルニゲシュの背後に立ち、その直後に彼の背中に衝撃が走った。フェルニゲシュは少しだけ頭を動かし背を確認する。先程料理に使っていた包丁が突き立っていた。
「……ミモザ」
ミモザは笑いながらドアへ駆け出し、細い隙間から覗いてくすくすと笑う。
「フェル様は鈍感だぁ」
「何も知らない」
「何もわからない」
ミモザは笑いながらドアを閉めて去ってしまう。
悪戯だとしてもミモザはこんなことをする者達ではない。悪戯だとしてもこれは度が過ぎている。
「…………」
水を止め、長い外套の中をもぞもぞと動かす。裾を上げ、鰐のような黒い尾が、背に刺さる寸前で止めた包丁を床に落とした。硬い皮膚に覆われた尾は包丁が触れた程度で傷付きはしないが、ミモザは尾を狙って刺したわけではない。確実に背中を狙って傷付けようとした。
(……何か気に障ることでもしたか、言ってしまったのか)
包丁を拾って台に置き、洗い物を再開する。譬えミモザに非があったとしても、フェルニゲシュが手を上げれば問題となる。この花街にいる限り、手を上げてしまえば彼は悪になる。
ここから逃げたいわけではないが、友人のいる場所へ行きたいと思うのは必然だった。
『透明街の人喰い獏』第二幕――花街編、開幕
ハンガリー料理、パプリカーシュ・チルケ。美味しいです。