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プロローグ




 コートとマフラーと手袋。それとカイロ。

 完全装備でないと外には出られない一月。中学三年生のこの時期といえば受験だ。クラスの連中は試験に出かけていたり、猛勉強するために自宅にこもっていたりしていて、教室には総人数の半分ほどしか来ていなかった。

 広い教室に心許ない家庭用のストーブが二台、そしていつもより人口が少ない教室はとても寒かった。休み時間になると餌に群がる肉食動物のごとく、クラスメイトはストーブの周りに集まってくる。それぞれの手には参考書や単語帳が握られていた。友人たちと会話をしながらもぶつぶつと単語や年号や何かを呟いていた。呪文のように言葉を紡ぐ彼らを横目に鷹藤は教室を出た。


 ────勉強はしない。

 する必要を感じないからだ。もちろん授業には出ているし、テストだって受ける。だが、足りないのだ。

 何をしても鷹藤はどこか満たされないと感じていた。勉強をすると世界が変わるというのなら話は別だが、今のところ勉強という行為に鷹藤の世界を変えるほどのアビリティがあるとは思えなかった。勉強をするくらいなら大量の本を読んでいる方がマシだと思う。本では知識も手に入るがそれだけではない。人の心を上手に描いた話には作家の観察眼に驚かせれ、また文章に滲み出る作家自身の思いを見ることができて興味深い。

 勉強より何億倍もの価値が本にはあると鷹藤は思う。

 よって勉強はしない。受験もしない。両親は怒るだろうが知ったものかと鷹藤は投げやりに零した。声は寒々しい廊下に漂う騒めきに埋もれていった。


 廊下は窓が薄く開けられていて、それだけなのに凍えそうな冷たさだった。

 寒いと思いながらも、制服の上には何も羽織らないで屋上に向かった。せめてカイロでも持って来れば良かったな、と少しだけ後悔をしながら階段を登っていく。

 人が少ないところに来ると自然と冷たい空気と二人きりになる。細糸を張ったように澄んだ空気は寒いけれど嫌いではない。凛と落ち着いた静けさが鷹藤は好きだった。くだらないことを口走るクラスの人がいないだけで随分と気が楽だった。


 屋上に繋がる冷たいドアノブを押し開けると、ぶわりと針のような風が鷹藤を迎えた。身に染みる温度と風圧だ。

 じん、と目鼻の奥から出る必要のない汁が湧いてくる。鼻をすすり目尻を拭う。自分の顔は見えないが、きっと寒さに赤らんでいることだろうと想像した。地味に痛い冬の攻撃から意識を逸らして、鷹藤は上履きのまま入口を囲い込むように建てられているフェンスの方まで歩み寄った。


 屋上は冬になると特に寒くなるので、鷹藤のように来ている人は誰もいなかった。


 四階建ての校舎の屋上からの景色はなんとも気持ちのいいもの、のはずだった。広い空や校庭、校外に広がる住宅街、遠くには山々が霞んで見え、また幼い頃には鷹藤も世話になった遊園地の観覧車が見えた。夕暮れは特に素晴らしいらしく、美術部や写真部が題材として使うことも多い。屋上は校内でも有名な絶景スポットであった。


 しかし、絶景であるはずの景色を見ても鷹藤の心は凪いだままであった。動かない心に鷹藤はまあそうだろうなと頭で理解すると、今度は屋上を囲うフェンスを乗り越えてみた。背丈ほどのフェンスをよじ登り囲いの外側へ出た。スリルがあれば何か変わるのではないか。そういう考えの元だった。

 フェンスからのでっぱりは思ったよりも広さがあり、そう簡単には落ちないようになっていた。フェンスに背を預けてでっぱりに座る。

 角度的に空だけが鷹藤の視界を陣取った。

 その青さ広さに少しだけ驚いたが、やはりその感動はすぐに霧散した。こんなところにまで来たというのに、鷹藤の心臓は教室から来た時と同じ速さで脈を打っている。


 空っぽだった。


 今に始まったことではない。中学に上がってから、いや、もしかすれば小学生の時から鷹藤は毎日をつまらないと思っていた。誰かが喜ぶ声や、怒鳴り声、笑い声など全てが鬱陶しい。嫌なことばかりが鷹藤の脳内に溜まっていく。頭の中を整理することが億劫で、自分がこんなに目に合うのは周りのせいだと言い聞かせた。意味はないと分かってはいても、心が追いつかないのだから仕方がない。

 かと言って人の輪の中に入りたいとは全く思えないのだ。誰かと一緒にいるのは面倒だと思うことの方が先に立つ。どこへ行っても何もしても虚しかった。


 子どもに与えられるゴールデンタイム、青い春を鷹藤は完全に持て余していた。

 毎日に潤いがない。

 刺激がない。

 暇だ。

 退屈だ。


 一度死んでみれば何か変わるだろうか。


 気まぐれに立ち上がると鷹藤はもたれていたフェンスから一歩一歩離れるように歩き出した。


 もう一歩進めば落ちるところに来て、背筋がヒヤリとした。本能的に良くないと体が鷹藤に教えてくる。文字通り死の隣という限界に来てようやく生きてる感じがする鷹藤は自分でも驚くほど末期の症状であることが判明した


 引き返そう。


 鷹藤が戻ろうと振り向くとフェンスを挟んだ向こう側に見知らぬ人物がいた。たった今入り口から屋上に入ってきたようだった。

 緩いパーマのかかった黒髪が風にふわりと揺れている。左耳にピアスをつけ、ストリートファッションに身を包んだ若い男。

 格好からして生徒ではない。そもそも年齢層が違う。大学生くらいだろうか。隣のクラスに来ているという教育実習生は年齢が近いが、性別が異なる。

 学校に相応しくない人物。

 つまり、不審者。

 そう答えを出すと、屋上の縁に立った時のように背筋が凍った。

 フェンスから五メートルほど離れたところで男は立ち止まった。

「なあ、お前、退屈なんだろ」

 唐突に男が言った。

 鷹藤はまだフェンスの外側にいる。もしこの男がフェンスの先にいる鷹藤に手を伸ばし、突き落そうとしたら。想像するだけで胸のあたりに甘い痺れがあった。異常なことだと鷹藤自身もわかっている。それどころか心臓は加速して体全体が熱を帯びていった。

 予感がする。この先が死だろうと鷹藤はこの男に出会ってしまった。

 やはり末期のようだ。展開を期待と共に待ち望んでいる。男の言葉の続きを早く聞きたかった。口元が弧を描きそうに歪むのを必死で堪える。

 そんな鷹藤を見てなのか、それとも初めからそのつもりだったのか、男はこんなことを口にした。

「一緒に来る気はないか?」

 男の形の良い薄い唇から放たれた怪しげな言葉に鷹藤は即座に頷いた。

「そうすれば僕はちゃんと生きられますか」

 家族以外に話しかけたのは久しぶりだった。男は目を細めて笑った。

「もちろん」

 笑った男から風が吹いたような気がして空を見上げた。

 その空を美しいと思った。



────・・・────




「そういうわけで僕はここにいるんですよ」

 オレンジ色の裸電球に照らされた少年はそう締めくくった。光は少年の顔に、彼の前髪の影を落としていた。顔が見えづらく元より表情が乏しい少年ではあるが、そこに曇りがないのは見てとれた。

 喋り終えて疲れたのか、少年は自分の前に置かれたガラスコップに入ったジンジャーエールの残りを一気に飲み干した。居酒屋特有の雰囲気に当てられたのか、いつもよりも饒舌に少年は語った。もちろんまだ未成年なのでアルコールは入っていない。

「へー、なるほどなぁ。で、中学卒業してすぐこっちに来たってわけか。高校は行かずに」

 少年の斜め右向かいに座っているガタイのいい男が言った。その男は裸電球と頭部の距離が近いせいか、刈り上げにした頭から一筋の汗を流していた。酒を飲んでいることもあり頬は薄らと蒸気している。

 男はおつまみに頼んだ唐揚げにレモンをかけているところだった。力加減が適当なのか、そこら中に果汁が飛び散る。

「そういうことです。親に勘当されてでも愉楽(ゆがく)さんと働きたかったので。あとレモン汁こっちに飛ばさないでください」

 睨むように目を細めて少年は飛んでくる汁の大元に手をかざした。

「ケッ、こんくらいで睨むなよ。俺たちの仕事上、汁が飛ぶことなんてよくあることだろう?」

「いや、レモンの汁は目に入ると痛いので、せめてこっちに飛ばすのはやめてもらえませんか」

 ふざけんなこの大人、と少年は思った。

「はあ、鷹藤クンはお子ちゃまだな。もう少し大人になれや」

 やれやれと男は残念そうに言う。そこに混じる上から目線の物言いが癪で、少年は自分の右隣に座る別の男に勢いよく喋りかけた。

「ちょっと、愉楽さん今の聞きました?いつも人と張り合うことしか考えてないガキくさい脳筋クソ野郎がムカつくこと言ってくるんですけど、聞きました?」

「おいテメェ鷹藤。俺がなんだって?」

「あれ、愉楽さん?」

 鷹藤と呼ばれた少年はレモンを片手に怒る刈り上げ頭を無視して、自分の右隣で突っ伏している黒髪の男の肩を揺さぶった。男が左耳につけている赤色の石が裸電球の光を反射する。

 男は熟睡しているようで全く起きる気配はなかった。

「完全に落ちてますね」

 諦めたように鷹藤は言った。鬱憤はどこへ持っていこうかと鷹藤が考えていると、刈り上げ頭の男が唐揚げを頬張って豪語しだした。

「いやぁ鷹藤よう、やっぱり俺の方が班長に向いてるんじゃないか?こんな大衆の面前で気ィ抜いて寝てるようなやつじゃなくて」

「まだ根に持ってるんですか」

 あわよくば、と言う男に鷹藤は呆れた。

「帰りましょう。明日は早朝に新メンバーも迎えに行かないとですし。愉楽さんのこと背負ってもらっていいですか。僕会計してくるんで」

 言うことだけを言うと鷹藤はさっさとレジの元へ向かった。兎馬と呼ばれた刈り上げ頭の男は、これは借りだからな、などと呟きながら愉楽を担ぎ上げた。

「軽っ。こんな細っちい気の抜けたやつがうちのリーダー様とは。世も末だな」

 狭い店内を男は縫うように進んでいく。その間、兎馬は誰一人にもぶつかることはなかった。それどころか兎馬の気配に気がつく者は誰もいなかった。絶妙なタイミングで酔っ払って足元の覚束ない客たちを避けて進んでいく兎馬の姿は訓練された軍人を思わせた。


「兎馬さーん、会計終わりましたー」

 出入り口付近にいる鷹藤が兎馬を呼ぶ。呼び終わらない内に兎馬は愉楽を背負って鷹藤の近くにやって来た。

 ありがとうございやしたー、という緩い店員の声を背に春の夜闇に踏み出す。

 三人分の影が夜の街の喧騒に溶けていった。





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