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あなたは一目惚れを信じますか?

作者: 人形使い

 いまどき一目惚れを信じている人間って、どれくらい居るんだろう?

 そう、名前も顔も知らない相手なのに、一目見ただけで……っていうあれだ。

 僕もそういうのはあまり信じる方じゃなかった。「なかった」、そう、過去形だ。今日たった今考えが変わってしまった。理由は単純、僕自身が一目惚れを経験したからだ。

 大勢の人々が行き交う昼下がりの大通り。大学の講義がいきなり休講になってしまい暇を持て余していた僕は、普段はあまり行かない街の方を歩いていた。例えばこの中から一人の人間を見分けろといわれても、それは無理難題というものだろう。同じような服、同じような髪型の人はいくらでもいるし、全員が僕の方に顔を向けているわけでもない。

 でも、僕には彼女が見分けられた。敷き詰められた真っ白な砂利の中に真っ赤なルビーが混じっていればそれと分かるように、人波の中で彼女だけが周りから浮いて見えた。

 何も特別に目立つ格好をしているわけじゃない。どちらかというと地味な、大人しい服装だった。藍色のワンピースに長く髪を伸ばし、眼鏡を掛けている。道の脇に置かれたベンチに腰を下ろして、彼女は文庫本を読んでいた。

 目を奪われるとはこういうことか、なんて他人事みたいにぼんやりと思った。僕はその場に立ち止まったまま、ばかみたいに彼女に見入っていた。もっと近くで彼女を見たい、彼女の声を聞きたい、そう思った。なんと声を掛けていいかもわからないくせに、彼女の方へ歩いて行こうとしたそのとき、まるで僕がそうしようとしたのを空気を通して感じ取ったみたいに、彼女が顔を上げた。

 

 目が合った。


 どきりと心臓が跳ね上がった。僕よりも少し年上だろうか、とてもきれいな人だった。でも、僕の心臓が跳ね上がった理由はそれだけじゃなかった。

 彼女の目。

 眼鏡のレンズの奥の瞳を見たとき、僕はとても驚いた。こんなことがあるなんて思いもしなかったから。驚いたあとに、僕は理屈じゃなく、あることを確信した。今まで色んな人を見てきて、色んな人と付き合ってきたけど、こんな体験は初めてだった。彼女もたぶん、いやきっと、同じ事を思ったに違いない。だって彼女は、僕と目が合ったあと、少し驚いた顔をしたあと。ゆっくりと、滲むように……微笑んだから。




 僕が歩み寄ると彼女は立ち上がり、軽く会釈をしてくれた。僕も会釈を返す。それだけのことなのに、なんて心地良いんだろう。ロクに言葉を交わさなくても、心が直接通じている感じがした。

 僕らはそれから並んで歩き、手近な喫茶店に入った。僕はコーヒーを、彼女はレモンティーとショートケーキを注文した。僕らはしばらくそこで、他愛も無い会話に興じていた。店に入ってから初めて聞いた彼女の声は、とても澄んだ綺麗な声で、その声で呼ばれた自分のどこにでもある平凡な名前は、何か特別な言葉みたいに聞こえた。僕が彼女の名前を呼べば、それだけで僕はどきどきした。僕らは色々なことを話した。彼女の趣味はガーデニングで、今はバラを育てるのに凝っているらしい。住まいはアパートの二階で、大通りに面しているせいで少しうるさいのが悩みだそうだ。

 そんな話をしながら、僕は彼女の手元をじっと見ていた。音も立てずにケーキを切り分けていく彼女の手。もう分かり切っていることだったけど、その仕草から改めて僕は、“そのこと”を感じ、身震いするくらいの幸福感を感じていた。彼女もたぶん、僕が何を考えているのかわかったんだろう、僕が手元をじっと見ているのに気付くと、初めて会ったときのようにゆっくりと笑みを滲ませて、いたずらっぽく人差し指を唇に当てて見せた。細めた目が、「お楽しみは、あとで」と言っていた。その仕草がすごく色っぽくて、僕は顔が真っ赤になるのをどうすることもできなかった。そんな僕の様子を見て、彼女はくすくす笑っていた。すごく恥ずかしかったけれど、でも、訳もなく嬉しくなった。

 僕は2杯目のコーヒーを頼み、もうしばらくくつろぎながら色んな事を話した。色んな事を話したけれど、一番肝心なことはどちらも言い出さなかった。

 その必要が、なかったから。




 喫茶店を出た僕らは、どこへ向かうでもなく歩いていた。やがて僕らは町の喧騒を離れ、裏通りの方へ向かって行った。遠くからぼんやりと人々の賑やかな声が聞こえてくるのが、どこかこの場所が現実離れした場所みたいに感じた。人々の声は遠くから聞こえてくるばかりで、僕らの歩いている裏通りには人影は見当たらない。沈没船みたいな裏通りの静けさの中、僕らの足音だけが時計の針みたいに規則正しく響いている。

 やがて僕らは大きな無人のビルの前に来た。ビルの入り口の脇には地下駐車場の入り口がぽっかりと口を開けている。僕の少し前を歩いていた彼女が、肩越しに頷いて見せた。僕も頷き返す。僕らはそのまま地下駐車場の入り口をくぐり、非常灯にぼんやりと照らされた埃っぽい場内へ入っていった。車は一台もなく、薄暗い空間が広がっている。

 こんな広い場所で“する”のは初めてで、少し緊張する。僕はいつももっと狭くて目立たない場所で“して”いたから。僕と同じような人が彼女以外にもいるとしたら、みんな場所の好みは違うんだろうか。

 そんなことを考えながら、暗い駐車場を奥へ奥へと進んでいく。階段を下り、地下二階へ。ここまで来るともう外の物音は全く聞こえず、代わりに僕らの足音が、不自然に大きく場内に反響している。

 そして僕は彼女の後について、駐車場の一番奥までやってきた。僕は足を止め、彼女は駐車場の壁まで歩いて行き……振り返った。長い黒髪がふわりと舞って、そこから漂ってくる……僕が良く知っている、とても素敵な、あの香り。

 いや、それだけじゃない。駐車場の壁、床、天井、この駐車場のあらゆる場所に、その香りは染み付いていた。

 そう、ここは彼女の場所なんだ。

 僕の考えを肯定するように、彼女は笑みを深くした。頭がくらくらするくらいの濃密な香りに包まれながら、僕は例えようもない恍惚の中にいた。深呼吸すると体中にその香りが染み渡っていく。そしてその香りが、いつものように……いや、いつも以上に、僕を日常のそれとは違う僕に反転させていく。


 ――僕は、ナイフを抜いた。


 長い間使い込んで、右手の延長も同然となった僕のナイフ。そのナイフまでもが、初めての経験に震えているようだった。なにせ今までは、僕の方から一方的に“する”だけで、相手の方から“して”くれた事なんて一度も無かったから。でも彼女は――違う。

 彼女もナイフを抜いていた。弄ぶように軽く握られたナイフの切っ先が、ゆらゆらと誘うように揺らめいている。


 かつん。


 一歩。彼女がこちらに踏み出す



 かつん。


 一歩。僕も同じく踏み出す。


 かつん。かつん。かつん。


 彼女と僕の距離が、少しずつ近づいて、


 白光。


 非常灯の弱々しい光しかない場内を、一瞬、眩い閃光が照らした。刃と刃がぶつかり合った火花。右手がびりびりと痺れた。間髪入れずに鋭い斬光が、定規で測ったような正確さで僕の喉を狙ってきた。すごく綺麗な動き方。まるで踊っているようだ。スカートがふわりと大きく広がって、花みたいだ。見とれながら、ナイフの腹を使って彼女の切っ先を反らす。

 そう、僕らは同じ。同じだ。

 好きになった相手は、みんなそうしてきた。

 


 抱きしめる代わりに、そうした。

 口付ける代わりに、そうした。

 睦言を囁く代わりに、そうした。



 彼女もきっと同じだ。だってほら、彼女は、微笑んでいる。

 お返し。

 下から大きく振りかぶるようにナイフを走らせる。

 きいいん、と澄んだ音が響いた。

 あはは、すごい! 体が勝手に動くみたいだ!

 彼女はふわりと体勢を整えると、長い髪が一拍遅れて流れる。流れる髪の隙間から見える彼女の目元が、ほのかに赤い。

 彼女も、僕と同じに昂ぶっていると分かって、すごくどきどきする。

 彼女と僕との距離は5メートルくらい離れているのに、僕はすぐ近くに彼女の体温を、彼女の鼓動を、そして彼女の切っ先を感じる。

 ああ、と口から勝手に吐息が漏れた。

 僕らは何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も、刃を振りかざし、身を翻し、踊った。薄闇の中、非常灯のぼんやりとした明かりに影がゆらゆらと舞う、二人きりのダンスパーティ。

 横ざまに振るったナイフが彼女の顔を掠めた。彼女の眼鏡がちょうど真ん中からぽろりと割れた。あは、眼鏡を取ると、彼女はなんだか幼く見える。素顔を見せるのが恥ずかしかったのか、困ったみたいに眉根を寄せた彼女がかわいい。

 抱きしめるよりも、口付けるよりも、睦言を囁くよりも濃密な時間。

 僕らが互いの刃をかわすのは、傷つけられないためじゃない。この時間をできる限り引き延ばすため。

 だってほら、好きな人とは、できるだけ長く一緒に居たいじゃないか。

 でも僕らは、そうもいかない。想いを遂げたそのときが、残念だけれどお別れの時になってしまう。少しずつその時が近づいているのが僕には分かった。たぶん彼女も気付いているはずだ。

 ちょっとだけ悲しいけど、でも、彼女に……僕と同じ人に出会えた嬉しさはその悲しさの倍だった。こんなことをしてくれたのは彼女が初めてだったし、こんな気持ちになったのも彼女が初めてだった。彼女の切っ先をかわしながら、ほんとうに好きになってしまったんだなあ、なんてぼんやりと思った。

 言葉を使う必要なんてなかった。僕が今どんな気持ちでいるかなんて、口になんか出さなくても彼女は分かってくれている。そういう確信があった。

 だから僕らは、言葉の代わりに――

 





 うっすらと、意識が戻ってきた。

 頭に、柔らかい感触。……彼女が膝まくらをしてくれてる。

 なんだか体が重くて、胸から下の感覚が薄い。わざわざ見なくてもどうなっているかくらい想像はつくし、うっかり見てしまって気絶でもしてしまったら格好がつかないし、なにより……次に意識が途切れるまで、ずっと彼女の顔を見ていたかった。

 彼女はうっすらと笑みを浮かべて、何も言わずにじっと僕の顔を上から覗き込んでいる。

 彼女に触れたくなって、手を持ち上げようとするけれど、なかなか力が入らない。そんな僕の様子を見た彼女は、くすりと笑って僕の頬に手を添えてくれた。

 暖かくて、柔らかかった。

 つ……と彼女の指先が僕の頬を這う。その指先をどうにか捕らえることができた。そのままじっとしていると、彼女が体をかがめて口付けてくれた。

 根源的な安堵が、僕の胸中に広がっていく。体温を失って冷たくなっていくはずの体が、染みるように暖かい。その感覚がひどく魅力的で、体を離そうとした彼女を強引に抱きとめてしまった。

 彼女はぴくりと肩を震わせたが、目元だけで微笑んでみせて、さっきより深く口付けてくれた。

 ややあって、唇を離す。

 唇は離したけれど、手は触れ合ったままだった。

 少しずつ、視界がぼやけてき始めた。もう、時間は残されていない。じゃあ、何も見えなくなるまで、彼女の顔を見ていよう。

 彼女は僕の目をじっと見詰めていたが、すっと目を伏せると……歌い始めた。

 コンクリートに囲まれた薄暗い空間に、彼女の歌声が染み込んでいく。

 子守唄、だった。

 どうしてだろう……ふいに、涙が出そうになった。

 ああでも……こういうのも、良いかもしれない。僕は彼女の歌に送られて、逝くのだ。そして僕はこの彼女の場所に満ちるあの香りの中に取り込まれていくのだろう。

 氷が溶けるように、意識が薄れていく。もう彼女の顔も良く見えない。

 ただ、彼女の子守唄だけが、聞こえる……。





はじめまして、新参者の人形使いと申します。

こちらへは最初の投稿作品となります。

しょっぱなからアレな作品ですが、楽しんで頂ければ幸いです。

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