二 私はここにいる 二
「なんて格好してるの、アスカ」
「ふがっ」
カランカランとベルの音が鳴り響く。
その音に被せるように響く声。
いつの間にか眠りに落ちていた私は、
その目覚まし達に叩き起こされた。
「うーん……もうご飯できたの……?」
「なーに寝惚けてんの。ほら起きて。お客さんですよー」
「うひゃあ!」
ピトッと頬に冷たいものが触れた。
ぼんやりしていた意識が一気にクリアになった。
何事かと首を右に左に動かすと、
小馬鹿にするような笑い声が頭上に響いた。
「やっと起きた?」
そこにいたのは、およそ二ヶ月振りに会う親しい友人。
その手には結露を纏ったペットボトルのお茶が握られている。
止めの目覚ましの正体はこいつか。
「いやぁ、ようやく合鍵が役に立ったね。
私が起こさなきゃ夕方まで寝てたでしょ」
「うう、否定できない……」
「それより、テレビ点けっぱなしだったよ?
寝るなら寝る前に消さないと駄目でしょ」
「ごめんなさい……」
一人暮らしで自営業をしている私は、
家族以外の知り合いにも合鍵を渡してある。
もちろん、誰彼構わず渡すわけじゃない。
厳選に厳選を重ね、
本当に信じられると感じた三人にしか渡していない。
合鍵を渡す理由は、何かあった時のため。
私だって人間だ。明日いきなり倒れるかもしれない。
その時、開店しない店に異変を感じて
中に入ってきてくれる人が必要なのだ。
でもまさか、こんな形で初陣を飾ることになろうとは
合鍵も予想していなかったことだろう。
「──って、まだ九時半じゃないですか」
「え? 十時半じゃなくて?」
「九時半ですよ、ほら」
「ほんとだ。ごめんアスカ、時計見間違えてた。
私ここにいるから、もう少し寝てていいよ」
「いや、別にいいですよ。目も覚めちゃったし。
とりあえず、コーヒーでも淹れますね」
思い切り背中を伸ばして僅かに残った眠気を吹き飛ばし、
私は颯爽とカウンターに移動した。
すると、ルミさんは私が座っていた椅子に腰を下ろした。
「なんか、今日のルミさん珍しい格好ですね」
いつもはお洒落な格好なのに、
今日の彼女は首を傾げずにはいられない。
パンツはともかく、上よ上。何そのTシャツ。
どう見ても温泉街のお土産じゃん。着てる人初めて見た。
「あーこれ? 全部洗濯しちゃったんだよね。
で、なんかもう面倒臭くなっちゃって」
適当に引っ張り出してきたのだと、ルミさんは笑う。
「変かなぁ」
「んー、服は変ですけど……ルミさんは
なに着ても似合うからなぁ」
「そう? ありがと。アスカも可愛いよ、そのパーカー」
「ほんとですか? これ取って置きなんですよ。
ほら見て、猫耳フード」
この間ショッピングモールに行った時、
私はこの純白の猫耳フード付きのパーカーに一目惚れした。
サイズは少し大きめだけど、
そんなの気にならないくらい幸せな買い物だった。
「ほら、どうですか?」
「うん、可愛いよ」
……あれ? 反応薄いな。
いつもなら軽く揉みくちゃにされるのに。
うーん……まぁ、そんな日もあるか。
「ところで、今日はなにか依頼ですか?」
私の店は金曜が定休日だ。
そして、月水土が喫茶店、日火木が何でも屋。
色々あって、今はこの形態で落ち着いている。
この店の常連であるルミさんは、
そのことをきちんと把握している。
事実、彼女は基本的に喫茶店の日にしか店に来ない。
たまに何でも屋の日に顔を出すことはあっても、
その時は決まって『依頼があるわけじゃない』という
旨の連絡を事前に寄越してくれていた。
そんな彼女が事前連絡なしに何でも屋の日に店に来たから、
私はてっきり依頼があるものだと思ったんだけど──
「へ? 依頼?」
カウンターに置いてあるメニュー表を
取ろうとしていたルミさんが、
その手を止めてこちらに目を向けた。
豆鉄砲を食らったみたいに目が真ん丸になっていた。
「……あ、そっか。今日木曜だ」
何でも屋のことを知らずに
店に来てしまうお客さんはたまにいる。
けど、初めてのお客さんに限った話だ。
ルミさんのような常連さんが営業日を
間違えるなんてことは、まずなかった。
「ごめん、アスカ。また明日来る」
「いや、ルミさん。明日は定休日……」
「あれっ? そうだ、金曜じゃん!
ああもう……駄目だな、私」
髪を掻きながら自虐的に笑うルミさんの姿を見て、
彼女が相当な疲労を抱えているのだと私は思った。
でなければ、営業日を勘違いしたり
定休日を忘れたりしないはずだ。
私の猫耳パーカーに対する反応が薄かったのも納得がいく。
「簡単なものなら出せますし、ゆっくりしていってください」
このままルミさんを帰すのも微妙に不安が残る。
T駅は意外と路線が多いし、
電車を乗り間違えてどこかに行ってしまいそうだ。
相談しに来たお客さんということで休んでいってもらおう。
「……いいの?」
「大丈夫ですよ。本当に簡単なものしか出せませんけど」
「簡単でいいよ。元々、ケーキ食べに来たつもりだったし」
「ああ、それならすぐ持ってきますよ。
私が食べる用に作ってあるんで」
ひとまずホットコーヒーを差し出し、
私は自宅の冷蔵庫に向かった。
そこから取り出すは、ホールのガトーショコラ。
さすがにこのまま持っていくのは大変なので、
二人分をカットして皿に乗せた。
「なんか寂しいな。そうだ、ホイップあったはず」
もう一回冷蔵庫を開けて、取り出したホイップクリームと
ミントの葉っぱで飾り付けて完成。
私は粉砂糖をかけない派なのだ。
可愛らしく着飾った甘いガトーショコラ。
これで少しは疲れも取れるはず。
そう期待しながら店側に戻ると、
ルミさんはカウンター席で
頬杖をつきながら携帯を眺めていた。
疲れてるだけかと思ったけど、
もしかして……何かあったのかな。
私がガトーショコラを取りに行っていた間、
ルミさんは一人きり。
たった一人の空間は、
彼女に本当の表情を引き出させたようで、
それはとても憂鬱そうで寂しげだった。
「ケーキ、持ってきました」
ルミさんの隣の席に腰を下ろすと、
彼女はハッとした様子で携帯を伏せた。
「──ねぇ、アスカ」
「なんですか?」
持ってきたガトーショコラには目もくれず、
ルミさんは寂しげな目を私に向けた。
「今日って、何でも屋の日……なんだよね?」
「ええ、そうですけど」
ルミさんの唇が、わなわなと震えている。
彼女の目から、いつもの愛らしい丸さが消えていた。
「ならさ、私の話……聞いてくれないかな?」
「話?」
「うん……いや、やっぱりなんでもない。忘れて」
「いや、さすがにそれは……」
いつもは見せない表情から零れた、「話を聞いてほしい」
という言葉。
やっぱり、何かあったんだ。
だとしたら、忘れるなんてできない。けれど──
「ほんとになんでもないから! だから忘れて。
私はなにも話してないし、アスカはなにも聞いてない。ね?」
ルミさんは頑なに先の言葉を
なかったことにしようとしている。
こうなってしまったら、私は引く他ない。
無理に話させようとしても、
それは最悪、私達の関係の崩壊を招く。
だから、彼女が話してくれるその時を、
私は根気強く待たなきゃならない。
「……わかりました、忘れます」
諦めのため息に乗せて言葉を吐くと、
安堵の匂いを纏った「ごめんね」が私の耳をくすぐった。
「──それじゃあ、ここからはいつも通りってことで」
「うん、そうしよ。あ、じゃあ早速おもしろい話してもいい?」
先程までの沈んだ雰囲気を切り替えるべく、
私達はわざとらしい元気を声や動きに乗せた。
偽りの明るさが、私達の間に虚しさの影を落とした。
「おもしろい話ですか?」
「そう。私さ、さっき合鍵使ったじゃない?
それって、アスカが寝てたからなんだけど……」
ルミさんが面白い話と前置きをしてから語り出した話。
それは、どうやらついさっきの出来事のようで、
居眠りしていた間に何があったんだろうと私は耳を傾ける。
「その時のアスカね、寝言で『タッちゃーん』って呼んでたよ」
「……は?」
「だから、『タッちゃーん』って寝言を──」
「いやいやいや、待ってください。え?
私、寝言言ってました?」
タッちゃんの名が出ている以上、
ルミさんの言葉は真実だろう。
彼の名はおろか、その存在をルミさんに話したことはない。
「ねぇ、タッちゃんって誰なの? 彼氏?」
「いや……」
熱い。物凄く顔が熱い。
真っ赤になっていることが鏡を見なくてもわかる。
ああ、恥ずかしい。大声を出してのたうち回りたい。
「……彼氏じゃ、ないです」
「違うんだ? じゃあ、アスカの好きな人か」
恥ずかしさと照れ臭さから
反射的にルミさんの言葉を否定しようとして、
でも私がタッちゃんのことを好きでいることは確かだから
グッと声を飲み込んで、
それはつまり沈黙は肯定ということで……
「ふーん、アスカも恋するんだぁ。
どんな人なの? イケメン? 告白しないの?」
グイグイ来るルミさん。
純粋な興味と私をからかいたい嗜虐心、
さっきまでの重い空気を吹き飛ばしたい一心が
一つの塊になっているのだろうか。
「告白はしませんよ」
ルミさんからの質問攻めに圧倒されつつも、
私は最も優先順位の高い質問に答えをぶつけた。
それは、マシンガンのように乱れ射ちされる
問い掛けの隙間を縫って、彼女の鼓膜に命中した。
「え? しないの?」
「はい、しません」
「なんで?」
「なんでって……」
私は言葉を詰まらせた。私がタッちゃんに告白しない理由。
それは言葉にすれば、たった一言で済んでしまう。
そのたった一言が、私にとっては胸を抉る凶器なんだ。
「もしかして、彼女持ち?」
私にとっては凶器でも、他の人にとってはありきたりな話。
簡単に言い当てられて、私はいじけるように俯いた。
「そっか、それは辛いね」
大学を辞めたあの時、
あそこですっぱり縁を切れていれば……
いや、連絡先をずっと残していた私に言えることじゃないか。
縁を切りたかったなら、さっさと
着信拒否なりブロックなりすればよかったのだ。
タッちゃんは中退した私を気にかけて何度も連絡をくれた。
その度に、何度も言ってやろうと思った。
大学を辞めたのは、あんたが彼女を作ったせいだって。
まさか、大学の外で作ってくるなんて……
それは想定外だった。
「その人のこと、諦めきれない?」
「……はい。つい最近、振られたみたいだから余計に」
「え? 振られたの?」
「あ……」
口が滑った。
「てことは、今フリーじゃん。なんだ、早く告白しちゃいなよ」
「……できませんよ」
「どうして?」
私が今のタッちゃんに告白したらどうなるか。
その結果が、私には手に取るようにわかる。
彼はまず、驚く。そして、頬を掻きながら
照れ笑いを浮かべる。
しどろもどろになって、顔も赤くして、
嬉しがりながらも最後には優しく謝る。
何故なら──
「タッちゃんはまだ……彼女さんのことが好きだから」
変えられない事実をちゃんと言葉にすると、
胸が締め付けられる心地がした。
押し寄せる涙を、私はぐっと堪えた。
「失恋をうじうじ引き摺ってるって言われるかもしれないけど、
でもそれは……タッちゃんがそれだけ一途だってことの
証明で……そんなところが、私は好きなんです。
振られてすぐ別の人に乗り換えるような人だったら、
そもそも好きになれない……」
私が彼に想いを伝えるとしたら、
それは彼とミユキさんとの関係が
キッパリスッキリ終わってからだ。
互いに未練を断ち切ってもらわないと、
振り向いてもらえるはずもない。
「なるほどね。
それなら、私がとやかく言うことじゃないね。
ごめんね、変なこと聞いて」
「いやそんな、気にしないでください」
二重に響く、紅茶を啜る音。
また空気が重苦しくなってきてしまった。
話題を変えなきゃ。そうだ、ルミさんの惚気話。
同棲している二人のラブラブ話なら、
この空気を変えてくれるはず。
「ところで、ルミさんの方はどうなんですか?」
ルミさんと彼氏さんの出会いは、確か六年前。
大学の入学式で知り合ったと、ルミさんから聞かされた。
そして、成人と同時に同棲を始め、
五年経った今もなお仲良く暮らしている。
その惚気話を、私はルミさんに会う度に聞かされているのだ。
「ホワイトデー、なにか貰いました?」
「……うん、貰ったよ。
バレンタインの……三日後くらい、だったかな」
「え? 早くないですか?」
「うん。良いの見付けちゃって、
でも当日まで隠しておけないから今渡したいって言われて」
「へぇー。なに貰ったんですか?」
「わかんない。まだ、開けてないんだ。
アッくん、当日まで開けちゃ駄目だって言うからさ……」
「……ん? 当日って、ホワイトデーのことですよね?
もう過ぎてますけど」
彼氏さんは何も言わないのだろうか。
それとも、
ホワイトデーとはまた異なる“当日”があるのかな。
そういえば、もうすぐ四月十九日──二人の交際記念日だ。
もしかしたら、こっちのことかもしれない。
私は、改めてルミさんに話を聞こうとした。
けれど……
「ルミさん?」
彼女は俯いていた。今の今まで普通に話していたのに、
何かに取り憑かれたかのように髪をだらりと垂らしている。
「ルミさん、どうし──」
声をかけようとした私の目に飛び込んだもの。
それは、テーブルの上の滴。
滴は、私の見ている前でどんどんその数を増やしていく。
そしてその出所は、俯く彼女の目元。
ルミさん、泣いてる?
「え……いや、え? 大丈夫ですか、ルミさん」
彼女は静かに号泣していた。
溢れる涙を拭う余裕もないのか、
テーブルの上の滴はすでに小さな水溜まりと化している。
とりあえずティッシュか何かを持ってこようと席を立つ私を、
ぐすっと鼻を啜る音が引き止めた。
ルミさんを一人にできない。
そう思った私は席を立つことを止め、私は彼女に手を添えた。
その背中は、親とはぐれた子猫のように震えていて、
少しでも力を込めると壊れてしまいそうなほど弱々しい。
カウンターテーブルの上で
彼女の両手が祈るように震えていたから、
私はそれを空いている左手で包み込んだ。
壊れかけのパイプのように
ルミさんの目からは止めどなく滴が落ちる。
啜り泣く彼女の声が私の鼓膜を震わせる。
彼女が泣く理由がまるでわからなくて、
それでも彼女の辛さは
濁流のように私の中に流れ込んできて……
「……ルミさん」
私は腰を上げ、彼女の側に立った。
ルミさん、やっぱり背高いな。
私との差は頭一つ分。
ルミさんは今座った状態だけど、
足の長いカウンター席だから差はあまり変わらない。
「こっち向いてください」
ぐぐぐっと力任せに彼女の体を
こちらに向かせ、私達は向かい合う。
突然の出来事にさすがに驚いたのか、
彼女の涙が一瞬止まった。
けど、すぐにまた溜まっていき、そして溢れていく。
私は少し背伸びをして、両腕を彼女の首に回した。
「そんなに我慢しないで、思いっ切り泣いてください。
私が全部受け止めますから」
膠着は一瞬。次の瞬間には、
ルミさんの慟哭が私の首筋に吸い込まれていった。
知らない間に、私の踵は床に着いていた。
ルミさんの体がどんどん前のめりになっていたからだ。
ガタンと音がして、彼女の腰が椅子から離れた。
立つ力さえも涙に変えているのか、
彼女の足がガクンと崩れ、
それに私も引っ張られてお互いに床にへたり込む。
私にすがって泣き続ける彼女を、私は全身で包み込んだ。
この時間は永遠に思えるほど終わりが見えなかった。
いつまでも、それこそ世界が終わるその瞬間まで
ルミさんは泣き続ける、そんな気さえした。
けれど、止まない雨はない。
気が付けば、私の耳は静寂を拾っていた。
様子を見ようと腕を緩めたら、ルミさんがそれを拒む。
「ごめんアスカ。
もう少し……このままでいさせて」
離れることを拒む彼女の手は、
まるで診察を怖がる猫のように私の背中に食い込んでいた。
私はもう一度、ルミさんのことを抱き締めた。
とても温かい。彼女の体はこんなにも温かい。
だけど冷たい。彼女の涙はこんなにも冷たい。
全身で彼女の鼓動を感じながら、私は考えを巡らせた。
会うのは一ヶ月振り。最後に会ったのは二月の初め頃だ。
その時はいつもと変わらない元気なルミさんだった。
この一ヶ月で何があったのだろう。
何にせよ、よほど辛いことがあったに違いない。
「なにがあったんですか? 私でよければ──」
「ごめん……アスカには話したくない」
私にはってことは、他の人には話したのかな……
ルミさんのはっきりとした拒絶は、正直言ってかなり堪えた。
あなたには理解できない。そう言われているような気がした。
「……わかりました。なら、無理には聞きません。
でも、これだけは聞いてください。
もしまた辛くなったら、いつでもここに来てください。
私はいつも、ここにいますから」
話したくないと言うのであれば、
今はそれを受け入れる他ない。
無理矢理吐かせても、
彼女の傷をよりいっそう深くするだけだ。
だから、話せるようになるのを待とう。
それまでは、こうして彼女の涙を受け止めよう。
窓の外。仲睦まじく腕を組んだ男女が、
楽しそうに談笑しながら歩いていく。
ルミさんも、一ヶ月前までは
彼らのように幸せそうだったのに。
口を開けば彼氏さんとの惚気話ばかりで……って、あれ?
ルミさんが泣き出したのって、
彼氏さんの話題になってから……?
それってつまり、彼氏さんとの間に何かあったってこと?
だとしたら、一体何が?
あそこまで彼女を悲しませることって……
酷い裏切られ方をした末の破局? それとも……
「ありがと、アスカ。少し楽になった」
人の思考は、一度傾けば簡単に転がり落ちる。
どんどん悪い方へ進んでいく
私の考えを遮ってくれたのは、
立ち上がろうとするルミさんの意思。
腕の力を緩めると、
私達の間に生じた隙間から上る熱気が顔にぶつかった。
「ごめん……服、汚しちゃったね」
私のパーカーは、
ルミさんの涙でびしょびしょになっていた。
触ってみれば、存在感の強い水気が皮膚を潤す。
「洗濯すれば大丈夫ですよ」
「でも、お気に入りなんでしょ? クリーニング代出すから」
「いや、ほんと大丈夫ですから。
それよりほら、落ち着いたならケーキ食べましょ?」
「……うん、食べる」
浮かれたデザインのTシャツを着ていながら、
ルミさんの動きは酷く沈んでいた。
落ち着いたとは言え回復はしていないのだと、
その体全身が語っていた。
ケーキを何回もフォークから落とすし、
挙げ句の果てには何も刺さっていないフォークを食べる始末。
まぁ、私も人の事は言えない。
ルミさんと彼氏さんの間に何があったのか、
そればかりが気になってしまって
ケーキの味を楽しむことができなかった。
赤く腫れた彼女の目元に目が行く度に
私は何があったか聞いてしまいそうになり、
慌ててケーキと一緒に飲み下した。
「……ごちそうさま。美味しかったよ、アスカ」
「ありがとうございます。
よかったら、少し持っていきますか?」
「ううん、今日は遠慮しとく」
「そう……ですか」
ケーキを食べ終えた後も、
ルミさんの表情は寂しげなまま変わらなかった。
自分の作った料理を美味しかったと言ってもらって、
こんなに心が踊らなかったのは生まれて初めてだった。
私は沈黙が気にならない性分だ。
そのはずが、今この空間に満ちる静寂は、
私の精神を掻き乱していく。
「……彼氏さんと、なにかあったんですか?」
胸のざわつきを掻き消したいあまり、
私はとうとう口を滑らせてしまった。
ぽつりとした呟き。
ルミさんの耳に届いていないことを祈ったけど、
彼女の目はしっかりと私の両目を捉えていた。
「……話したくないって言ったじゃん」
「ごめん……なさい」
彼女の声には確かな苛立ちが、
表情には少しの失望が見て取れた。
再び沈黙。何か話さなければ。
空回る焦燥感。このまま静寂が続いたら、
ルミさんの体が解けて消えてしまう。
遠くへ行ってしまいそうな彼女の儚さが、
私をますます焦らせる。
けれど、また口を滑らせてしまいそうで、
あの失望の顔を向けられたくなくて、
だから何も話せなくて……
「今日は帰るね」
時計の長針が半周した頃、ルミさんが椅子から立ち上がった。
私には目もくれず、
真っ直ぐに店の出入り口に向かう彼女の覚束ない足取り。
「ルミさん」
私の呼び掛けに、彼女は足を止めた。
「さっきは……ほんとに、すみませんでした。
話したくないことなのに……」
もしかしたら許してくれないかもしれない。
人と人との関係はそう簡単には壊れない。
とは言え、ダイナマイトを使えってしまえば一発だ。
そのダイナマイトが何なのか、それは人それぞれ。
何気ない冗談が、何気ない一言が、何気ない行動が、
繋がりを打ち砕いてしまう。
私のあの一言は、彼女のあの表情は……
「アスカ」
ルミさんが振り向いてくれたことを、
彼女の爪先が教えてくれた。
けれど、私は彼女の顔を見ることができない。怖い。
キッと睨まれていたらと思うと、ますます視線は下がる。
「アスカ、こっち見て」
私に歩み寄る爪先。ハッと上がる視線。
視線が交差した時、私は確かに安堵した。
そこには、怒りや失望は微塵もなかった。
ただ、彼女の一言は、
私の心臓に休まる暇を与えてくれなかった。
「帰る前に、もう一回だけ……いい?」
遠慮がちに開く、彼女の両腕。
すがるように潤む、彼女の目。
そこに彼女の怒りはなかった。
私はまた、グッと踵を上げた。
彼女の顔が、私の肩に沈んだ。
私達の腕が、私達を包み込む。
「……やっぱり、アスカはちっちゃいな」
「なんですか、いきなり」
いきなり身長を馬鹿にされ、
私は背伸びもハグも止めてルミさんをムッと見上げる。
「いや、可愛いなって思って」
「ルミさんが大き過ぎるんですよ。
ちょっとくらい分けてください」
小さいだの可愛いだの、私の背は平均より少し低いくらいだ。
決して小さくなんてない。いじいじと口を尖らせると、
クスクスと頭上から笑い声が降り注いだ。
「そういうところも可愛いよ、アスカ。ほら、しゃがんで」
ぐぐぐっと両肩を沈み込まされ、
私はされるがまま正座じみた姿勢を取った。
一拍置いて、ルミさんが私と同じ姿勢を取った。
さっきは意識していなかったけど、互いの足の長さの違いか、
立ったままの時よりもルミさんの顔が近い。
背伸びをする必要がないほどに。
「ねぇ、アスカ。一つ聞いてもいい?」
「……なんでしょう?」
「アスカは……いなくならない?」
彼女の声、彼女の目、彼女の口。
真剣の皮を被った不安。
胸元の手には何を握っているのだろう。
「ここにいますよ、私はずっと」
そう口にした途端、彼女の顔が歪み始めた。
けど、全く醜くない。むしろ、目を奪われるほどに美しい。
そう感じてしまうような歪み。
その表情を堪能する間もなく、私は彼女の体に飲み込まれた。
この日一番の強い力で。
「約束だよ」
私を抱き締める腕。苦しくない。
それなのに、苦しい。
ルミさんの身に一体何が起きたのか、
推測が肥大化するばかりで真実は何もわからない。
けれど、これだけは言える。
ルミさんはずっと頑張ってきたんだって、
耐えてきたんだって、辛かったんだって。
だから、私もルミさんに負けないくらいの力を込めて、
彼女の体を抱き締めた。