四 決意 四
山頂の境内と山の麓を繋ぐ石段は一段一段が酷く不揃いだ。
ひび割れたもの、傾いたもの、一段だけやたらと高いもの。
加えて、いまだに解け残った雪。
常に気を張っておかないと簡単に足を滑らせてまっ逆さま。
だからなのか、
私達は一言も言葉を交わさずに石段を下りていた。
けれど、その沈黙は不思議と心地好く、
同時に名残惜しくもあった。
互いの顔を見ようともせずに、
それでも互いの手を離さずに歩みを進める私達。
後ろを振り返ると、
頂上の鳥居がもうあんなに小さくなっていた。
もうすぐ山を下りきってしまう。
そうしたら、ハルは警察に行く。
自首とは言え逮捕されるだろう。
そして、裁判で裁かれて刑務所に……。
脅されていたという話だし、
そこを考慮して刑が軽くなったりしないだろうか。
それとも模範囚として刑期が短くなったりとか。
「──ユキ」
石段の中腹に差し掛かったところで、
先を行っていたハルが振り返った。
「なに?」
「さっきは、ご──」
「楽しそうだなぁ、滝川ぁ」
突然、声が聞こえた。
ハルの言葉を遮り、私達二人だけの空間を引き裂く男の声が。
私達の足を凍り付かせたその声は、
ハルの背後──石段の一番下から聞こえてきた。
その男は私達のことを見上げながら、
ゆっくりと石段を上ってくる。
男の顔を見た私達は、思わず息を飲んだ。
飲むはずだ。何せ、目の前にいるのは──
「ユージ……どうして」
ハルがじわりじわりと私の方に近付いてくる。
ユージから目を離さず、まるで熊に出くわしたときの対処法。
私はハルを抱き寄せて、
威嚇するようににじり寄ってくる者を睨み付けた。
敵意剥き出し。当然だ。
この人は、ハルを脅して大麻を売らせていたのだから。
鮫島君の親友であっても絶対に許せない。
「どうしてって、偶々だよ、偶々。
それより、後ろのやつ誰? 友達?
俺めっちゃ睨まれてんだけど」
「この人は、そう、ただの友達で……十年振りに連絡くれて、
それで久し振りに会おうってなって……」
「会おうって、こんなところでか?
普通は喫茶店とかに行くだろうよ。
こんな早朝に、こんな廃墟神社で会うか、普通」
「それは……」
「まぁ、まどろっこしいことは抜きだ。
やんなきゃなんねぇこともあるしな」
私の知っているユージの顔ではなかった。
動画の中でハルやシゲミンと
面白おかしく動画を撮っている姿がまやかしであることを、
張り詰めた空気が教えてくれた。
「余計なことばっかり喋りやがって。
手間を増やすんじゃねぇよ」
「聞い……てたの?」
「俺はさ、法律犯してんだよ。脅して従わせてる奴が
こそこそ一人で行動してたら、
そりゃ警戒するに決まってんだろぉ?
なんなら人生で一番警戒したわ。
お陰で、手遅れになる前に手を打てる」
どうやら、私とハルの会話は全部聞かれていたらしい。
盗聴機を使ったのか、
それとも別の方法を用いたのかはわからない。
わかるのは、今がとても危険な状況だということ。
「逃げてユキ!」
固く繋いでいた手が乱暴に振りほどかれた。
突き飛ばされて、私は石段に体を打ち付けた。
「ハル……」
「早く逃げて!」
「でも──」
「なんで逃げないの、馬鹿!」
ハルの口からは聞いたことのない、
親しい人からは言われたことのない暴言が、
私の頬を張り倒す。
今すぐ逃げなければと、全身が声高に叫び出した。
逃げる。でもどこに?
ユージがいるから石段を下りることはできない。
両脇の森。雪で湿ってて危険すぎる。
足を滑らせて転がり落ちれば、
小さい山と言えども命の保証はない。
だとしたら──
上しかない。
「ハル、ごめん!」
緊急事態を前に、私の脳が高速で回転し始めていた。
ハルを残して逃げることが正解なのかどうか。
冷静に考えろ。ハルとユージとシゲミンは
人気U―TUBERだ。
三人いて初めてあのチャンネルが完成する。
そして、紅一点であるハルの人気度は目を見張るものがある。
間違いなく動画の再生数稼ぎに一役買っている。
そんなハルを殺したり、傷付けることはないはずだ。
だから、今考えるべきことは私がどう逃げ切るかということ。
石段を上りきった私は息を切らしながら辺りを見渡す。
境内、本殿、縁の下、狛犬の陰。隠れられそうな場所はない。
なら、逃げ道だ。
この山は、頂上の神社と石段以外は整備されていない。
多少は手入れされているようだけど、
それでも自然のままなのだ。
雪解け水をたっぷり吸った土が一面に広がっている。
それは果たして幸か不幸か。
怪我を覚悟で滑り降りる。ユージは必ず追ってくる。
そこで上手く足を滑らせてくれれば……
いやでも、回り込まれたらどうするの?
相手は上り、私は下り。勢いに任せて突っ込むか……
「どうしよう……」
隠れたとしても、見付かってしまえばアウト。
逃げたとしても、捕まってしまえばアウト。
でも、ここで立ち止まるのが一番アウトだ。
「よし、行こう──」
その瞬間、誰かが私の背を押した。
「あがっ!」
本殿の柱に叩き付けられて、
私はそのまま体を押さえ付けられた。
痛みを堪えて相手を見据えると、そこにいたのはユージ。
ハルを振り切って追いかけてきたようだ。
肝心のハルはと言うと、
羽交い締めにされた状態で石段を上ってきた。
そして、彼女を拘束していたのはシゲミンだった。
どうやら、彼もこの場に来ていたらしい。
それよりも、どうしてシゲミンがハルを羽交い締めに?
ハルとともにユージに脅されているんじゃなかったの?
いや、脅されているからこそ、従わざるを得ないのか。
いまだ、私の脳は思考を放棄しない。
焦れば焦るほど、冷静に高速に頭が回る。
現状、助けは期待できない。
大声を上げて助けを求めるか。
いや、やめておこう。
この時間なら起きている人もいるだろうけど、
この場に駆け付けてくるまでに時間がかかる。
それなら、今のこの状況とは
全く関係のない第三者が来てくれれば、
万事解決するかもしれない……って、
この神社に参拝客なんて来ないことは
私が一番よく知っているじゃないか。
私……死ぬのかな。ここで殺されるのかな……。
くぐもった叫び声が聞こえてくる。
ハルだ。
手で口を押さえられているのに、
私を助けるために叫んでくれている。
鬼気迫る表情で、涙もだだ漏れで、それなのに私は──
「うあああああ!」
私は無我夢中で足を動かした。
背後を攻撃する馬のように
ユージに向かって蹴りをお見舞いする。
脛でも股間でもいい。とにかく急所に当たってくれ。
そう願って動かした足は、見事にユージの脛を捉えた。
けれど、
いくつかの事実が悪い方向に噛み合ってしまったことを、
私は身をもって思い知ることになる。
馬でもなければ、スポーツをやっているわけでもない。
加えて、がむしゃらで出鱈目な慌てた動き。
そんな私の後ろ蹴りが満足に通用するはずもなく、
ただ相手の怒りを買うだけに終わってしまった。
「かはっ──」
私の反撃に対する激昂をひしひしと感じる。
ユージの指が容赦なく首に食い込み、
呼吸と血流を塞き止める。
迫り来る死の感覚を、私は必死に遠ざけようとした。
ユージの手を引っ掻き、腕を殴り、足をばたつかせた。
ここで死んだら、ハルを助けられない!
頭がそう理解していても、体が動かない。動かせない。
物凄い力で首を絞められ、はち切れそうな圧迫感が
脳いっぱいに広がり、視界が霞んでいく。
「滝川ぁ、よーく見とけよ。この女は、お前のせいで死ぬ。
お前が馬鹿みたいなことを考えたからだ。
お前が殺したも同然だ」
一際大きく、ハルの叫び声が聞こえた。
とてもとても酷いことを、この男に聞かされている。
それを耳にした私の意識は、最後の最後に覚醒した。
「あ? なんだよ、その目。 死にかけのくせによぉ!
さっさと死んじまえ!」
ギリリ。ミチッ、ゴキッ。
視界が暗転する刹那、
私の耳が妙に小気味好い音を拾った。
闇に溶けていきながら、私は願った。
絶え絶えになった意識を振り絞って。
誰か、ハルのことを助けて──