六 アスカと二〇三号室 六
依頼を終え、
淳季さんと蓮さんをそれぞれ家に送り、
ルミの待つ店へと戻る車の中。
悪い夢を見ていたかのような、
現実感のない記憶が頭の片隅に残る。
異物。
忘れてしまいたいのに、
石のような固さを持った記憶は
確かな存在感を放ち続ける。
あれは、一体何だったんだろう。
「ルミ……もう帰ってるかな」
私の身に起きたこと。
植え付けられた恐怖。
誰かに話して、共有して、
意味のわからない恐怖感を和らげたい。
でも、誰に?
この話を聞いてもらうためだけに
今から押し掛けるのは気が引ける。
かと言って、ルミに話すわけにもいかない。
そんなことをしたら、ただでさえ
彼氏さんの失踪で参っているところに、
さらに追い討ちをかけることになる。
この記憶は私の中だけに……
石のような固さを持ったあの記憶は、
霧のように散ることも、
水のように流れていくこともない。
曖昧を許さない鮮明と克明。
止まらない記憶の再生に、
私の体は震えることも忘れていた。
あのアパートに着いた時、
三人で押し掛けるのは迷惑だと思い、
私一人で向かったのが運の尽きだった──
『二〇三──日比野さん……かな』
辿り着いた二階の角部屋。
私は早速インターホンを押してみた。
けれど、応答はなかった。
もう一度押してみたけれど、無反応。
扉の向こうは、しんと静まり返っていた。
不在。
そう判断した私は、二〇三号室の住人
──日比野さんが帰ってくるまでの間、
ファミレスで時間を潰すことにした。
そして、私が扉に背を向けたその瞬間。
ガチャ。
『えっ?』
何の音か、一瞬わからなかった。
背後で響いたのは確かだったから、
私は咄嗟に振り向いた。
そうなると、音の出所はただ一つ。
鳴り響いたのは、鍵の音。
二〇三号室の玄関扉が、
半開きになっていた。
『……え?』
荒れる鼓動が、
私に形容しがたい気味悪さを感じさせる。
半開きの扉の向こうにあるのは、
私を招き入れるというより
飲み込もうとしている薄暗さ。
何にせよ、
日比野さんは留守ではなかったようだ。
けれど──
『あの……』
なぜか、誰も姿を見せてくれなかった。
半開きのまま動かない扉に、
私は恐る恐る手をかけた。
『あ、あのぉ……』
玄関に足を踏み入れると、
人の家の匂いが鼻に飛び込んでくる。
そこに埃っぽさはなかった。
人の営みを確かに感じる匂いだった。
『すみませーん』
私は玄関から呼び掛けた。
が、返事はなかった。
しんと静まり返った室内に、
私の声が虚しく響いた。
今さら居留守を使うのもおかしな話だし、
もしかして中で倒れてる?
『そんな、まさかね……』
ないとは思うけれど、それでも念のため、
私は頭の中で救急に電話をかける
シミュレーションを重ねた。
そうやって、必死に目を逸らした。
『入りますよー?』
私は靴を脱いで、中に入った。
『入りましたよー?』
廊下には備え付けの台所。
水に濡れているし、嫌な臭いはしない。
綺麗に清潔に保たれていた。
きっと着替え中だったんだ。
だから、鍵だけ開けてリビングに……
一番それらしい理由を思い付き、
私の心は少しだけ持ち直した。
『すみませーん』
廊下の突き当たり。
リビングに続く引き戸を開けた。
『……ちょっと待ってよ』
私の声を吸い込む薄暗い部屋。
背中を伝う生温い汗。
リビングの壁は、
一部分だけが襖になっていた。
その先には、もう一部屋。
込み上げてくる感情を振り払うように
私は勢いよく襖を開けた。
『……ねぇなんで?』
声が震えた。
襖の向こうは子供部屋のようだった。
綺麗な勉強机と畳まれた布団。
背の低い本棚と小さなちゃぶ台。
それが、その部屋にある全てだった。
押し入れも開けてみたけど、
冬用の掛け布団と衣類ケースしかなかった。
『違う……そんなはずない』
必死に見て見ぬ振りをしていた事実が、
私の両目を覗き込んでくる。
逃げても逃げても回り込まれて、
それでも私は逃げた。
安心を求めて、部屋中を歩いた。
この部屋にある事実を
否定できる何かを見付けたかった。
ここに、誰もいないという事実を。
『そんなはずないよ……』
お風呂もトイレも、
洗濯機の中まで全部確認した。
子供部屋の押し入れももう一度見た。
そして、
最後にリビングのクローゼットを開けた時、
私の心は限界を迎えてポキリと折れた。
『ひっ……!』
それを見た瞬間、私の全身が震え上がった。
ぞわりとした寒気が、
足元から脳天に駆け抜けた。
腰から下の力が抜けた。
床にへたり込み、視線が下がり、
写真の中の人と目が合った。
確かに、クローゼットの中に人はいた。
でも、その人は
とても綺麗な白い布に包まれて眠っていた。
『なんなの……』
玄関の鍵を開けてもらったから、
この部屋の中から扉を開けてくれたから、
私はこうして室内にいられる。
鍵を開けた誰かが、
まだこの部屋のどこかにいるはずなんだ。
でも、いなかった。
全部探したのに、
洗面台の下の棚まで開けたのに、
誰もいなかった。
『──ベランダ……は鍵閉まってる』
ベランダだけじゃない。
窓という窓、
その全てに鍵がかけられていた。
なら、誰が玄関の鍵を開けたの?
私がインターホンを
押したときには開いていた?
いや、確かに私は鍵の音を聞いていて、
それが聞き間違いだったとしても、
そもそも扉は固く閉じていた。
最初から半開きになっていたなら、
気付かないはずがない。
静寂が怖くなった。
押し入れが、お風呂場が怖くなった。
頭上が、背後が、
目を閉じることさえ怖くなった。
『──っ!』
爪先から脳天まで寒気が突き抜けた。
冷や汗が吹き出すのと同時に、体が動いた。
部屋から逃げ出す私の背中に、
遺影の視線が突き刺さる。
この部屋から一刻も早く逃げたい一心で、
私は靴の踵を踏み潰した。
一度も振り向かずに玄関を潜り、
外の明るさに救われながら、
私は玄関扉が閉まる音を背中で聞き届けた。
ガチャ。
「──え?」
今のは、扉が閉まった音?
いや、違う。音は二つ聞こえた。
扉が閉まった音は一つ目の音。
……なら、二つ目は?
二回目となれば、聞き間違えるはずがない。
今のは、確かに鍵の音だった。
『まさか……』
そんなはずない。
自分に言い聞かせながら、
私はドアノブへ震える手を伸ばした。
私は確かにこの部屋に入った。
さっきまでこの部屋の中にいた。
それは気のせいでも、勘違いでも、
見間違いでもない、紛れもない事実。
この部屋の住人じゃない私は、
この部屋の鍵を持っていない。
だから──
ガンッ。
回そうとしたドアノブは、
固い感触に阻まれた。
もう一度インターホンを押す勇気は、
その時の私にはなかった──
「私……よく二回目行けたな」
ファミレスで時間を潰している時、
淳季さんに聞かれた。
アパートで何かあったのかと。
気丈に振る舞っていたつもりだったけど、
誤魔化しきれていなかったらしい。
それほどまでのダメージを
私は負っていたということだ。
それでも私は、再度あの部屋に向かった。
依頼への使命感と責任感で恐怖心を抑え、
再びインターホンを押したのだ。
幸いにも、
住人の日比野さんは帰宅していて、
私が再びの怪現象に
見舞われることはなかった。
「もう忘れよう。お守りも見付かったんだし」
日比野さんが拾ってくれたお守りは、
私の予想通り淳季さんのものだった。
事情を話すと、日比野さんは
「持ち主が見付かってよかった」と
快くお守りを返してくれた。
それにより、私が受けた依頼もまた、
無事に終わりを迎えることができた。
つまり、私が二〇三号室に行くことは
もう二度とない。
もうあの怪現象に襲われることもない。
なら、忘れてしまうに限る。
帰ったら、
ルミが「おかえり」と言ってくれる。
明るく「ただいま」と言うために、
私は一番好きな曲を大音量で
車内に響かせた。