三 ごめんなさい 三
『貴方のお陰で、瑠美子はまた笑うことができた。本当にありがとう』
『穂波さんはルミちゃんのことを心から心配し、彼女のために動いてる。そんな君を、どうして彼女が軽蔑するんだ?』
店の正面にしかない窓から差し込む日光が、薄暗い空間に私の姿を浮かび上がらせた。しんと静まり返った店内に、尊さんや熊田さんに言われた言葉が反響していく。痛いくらいに強まる鼓動は、一回ごとに私の涙腺を叩いていく。
「もう一度……話す……」
どうやったら、それができるんだろう。
もうすぐ、ルミが帰ってくる。どんな顔で帰ってくるのかな。
もし彼女が笑っていたら、私はどんな顔で迎えるだろう。この沈んだ気持ちを押し殺して、笑顔を作るのかな。多分、そうするだろう。そして、そのまま何も話さずに今日を終えて、明日を終えていく。依頼が終わるその日まで。
「それでいいのかな……」
私は一度、自分の本性をルミに打ち明けている。
ルミはそれを聞いた上で、私の側にいたいと言ってくれた。
なら、このままでいいのかもしれない。
その誘惑に身を委ねようとすると、悲しさに涙腺が緩む。胸が苦しくて、吐き気が込み上げてくる。感覚のリセットを期待して眠りにつこうとしても、視界が黒く染まるだけで何も変わりはしない。
孤独な狸寝入り。浅い呼吸は、死を待っているかのような心地だった。
「──うわっ!」
静寂の中、突然の悲鳴。驚きのあまり、私は危うく本気で天国に行きかけた。
「なんだ……アスカいたんだ」
「ルミ……」
「いるなら電気点けといてよ。びっくりするじゃん」
「ごめん……」
点灯する照明。薄暗かった空間に満ちていく光が、スポットライトのように私の顔を照らし出した。
「……アスカ、なにかあった?」
沈黙は肯定。そう理解していながら、私は口をつぐんだ。
「なにかあったなら、話聞くよ?」
眉尻の下がったルミの視線。彼女の目は、もう誤魔化しがきかない事実を私に突き付けてきた。
話すしかないのかな。話しても大丈夫なのかな。考えれば考えるほど声帯は麻痺していき、紡いだ側から言葉が解けていく。
けれど、麻痺が思考にまで及んだ時、声がするりと零れ落ちた。
「……話したいことがあるの。彼氏さんのことで」
「アッくんのことで?」
「依頼に背く形になるのはわかってる。けど、それでも確かめたいの」
私の頼みを前にして、ルミの目は確かに潤んだ。可愛らしいスニーカーに包まれた彼女の両足を見ながら、私は返事を待った。
「わかった。聞かせて?」
揺れる、スニーカーの紐。私は恐る恐る顔を上げる。
ルミは、泣いてはいなかった。怒ってもいなかった。そこにあったのは、儚げで優しい柔らかな微笑み。今の彼女なら、世界中のどんな罪も許してくれそうな、そんな気がした。
「私、彼氏さんの心配なんて全然してないって言ったじゃない?」
「うん、覚えてる」
「……ルミは、私のこと軽蔑してないの? 私、あんな酷いこと言ったんだよ?」
「もしかしてアスカ、ずっと悩んでたの?」
我慢できず、涙が零れた。頬を伝い、顎の先から次々と落ちていく。
「ずっと怖かった。ルミ、本当は私のこと軽蔑してるんじゃないかって。だから、ちゃんと彼氏さんのこと考えなきゃって。でも、できなかった。どうしても、ルミの方が大事に思えて……」
彼氏さんのことを考えると、私の心はいつも平常心を取り戻す。冷静で冷淡で、ルミを悲しませたことに対して怒りを抱くことさえあった。命の危機に瀕しているかもしれない行方不明者に対してこの仕打ちだ。私はやっぱり──
「……アスカは覚えてる? あの時、『最低な私でごめん』って言ったこと」
私の返事を待たずに、ルミは戦慄く唇に声を乗せた。
「アスカが自分のことを最低だって言うなら、私だって最低なんだよ。アッくんの家族とか警察の人とか、みんな捜索に一生懸命なのに、私一人逃げ出して、ここに転がり込んで……。いつかちゃんと向き合うって言ったくせに、アスカとの生活を楽しみ出してるんだよ。朝はあんなに悲しくて苦しいのに、昼間にはなんともなくなってる。アッくんのことを考えない時間なんて、今までなかったのに……。軽蔑されるのは、むしろ私の方なんだよ。だから、これ以上自分を責めないでよ。私だってアスカの笑顔が好きなの。アスカが笑ってくれないと、私も笑えないよ」
ルミの言葉で心がどんどん軽くなっていく。許されたら駄目なはずなのに、自分で自分を許したくないのに、罪悪感が薄れていく。
どうして彼女は、こんなにも私のことを受け入れてくれるのだろう。
彼女に受け入れられることが、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
「ルミは、今のままの私でいいの?」
「いいよ。今のままのアスカがいい」
人は、嬉しい時にも泣くことはできる。
けど、悲しい時に笑うことはできない。
最低な者同士、私達は手を取り合ってお互いの体温を分け合った。
床に放置された買い物袋。買ってきてもらったアイスクリームが悲惨な姿になっていることに気付くのは、もう少し後になってのことだった。