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枝豆とカルピス

作者: 音下 タルト

こんにちは。音下タルトと申します。

皆様に読んでいただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。

1.


 大股で飛び乗った高塀の上からの眺めは、思ったよりも良くなかった。


この塀の中から飛び出せば、事が好転するという希望もさしてなく、

だからといってここに留まるつもりもない。


可乃子は強い風にスカートを翻し、曇天に向かって高く飛ぶ。


えいやっと

すたん


綺麗に着地を決めた視線の先には、さびれた商店街のアーケードが見えた。


走り抜け


そう心が言っている。


もう捨ててしまえ。背負うな何もこれ以上。


そう、心が言っている。


その日、可乃子に影はない。影を作る日の光。ぬくむ陽光もなにもない。


なにもないのがいけないか。

そんなことはない。

そんなことはまったくないだろ。



2.


「おらんおらん。またおらん、脱走や。かのちゃんがまた脱走したで」


べそをかいて太ももにすがりついた健士を片手であやしながら、

浅野信美は厨房に向かって大声で叫んだ。


厨房からのっそりと出てきたのは、てらちゃんこと寺本亮介だ。


「またかぁ、あいつこれで何度目や。どうせそのうち帰ってくんだろ。」

「かあちゃん、どこ行ったん」


健士が涙でいっぱいの瞳で信美を見上げている。

健士はまだ六歳になったばかりだ。

度々繰り返される可乃子の育児放棄に大人はまたかと呆れていたが、

子供には通用しない。


毎度、捨てられたかと恐れおののき、小さな心を痛めるのだから、これほど罪なことはない。


「仕方がない。健士はうちで預かっとくよ」

信美は健士の頭を優しく触りながら、向かいにある青物屋「浅野商店」へ

手をひいていく。


その背中を申し訳なさそうに見送り、てらちゃんはため息と一緒に厨房に

戻る。


「お料理 てらもと」はてらちゃんで二代目。

丁寧な手仕事が評判の料理屋だ。

腰を痛めて厨房に立てなくなった父に代わり、高卒で店の厨房に入った。

もちろん父にかなうはずはないが、六年目。

ようやく基本のキくらいはわかったつもり。


長く商店街で店を開けているおかげで、父の代についた常連客で

今日も店の席はありがたく埋まるのだった。


だけど、自分がこんなにも早く店を継ぐことになるなんて、てらちゃんの将来設計にはなかったことで・・・。


料理で一家を支えてくれた父親には悪いのだけれど、

あまりにも身近に見本がいたせいで、それは生活に直結した生業で、

仰ぎ見て胸を躍らせる夢なんてものとはかけ離れていた。


いろんなことに挑戦したい。

めまぐるしく自分の前に現れてくる未来に、

興味があるもの全てに手を伸ばしたい。


そして最後に、もし自分が負けたら

(目の前に広がる未来は大きく、選ぶことが許されていた。

負けるとしたらいったい何に負けるというのだろう。

途上にいるあまりそれすらもまだわからない)


地面に落ちて砕ける前にネストのように自分を受け止める、

それがこの「お料理 てらもと」なのではなかったか。


(俺は大学に行きたかった・・・勉強することだって全然嫌じゃなかった。)


いつも可乃子が脱走した時に後悔のスイッチが入る。

なんだっていつもいつも脱走なんてするのかと思うけれど、可乃子が逃げ出したくなる気持ちもわからないでもない。

(俺はなんとか卒業したけど、あいつは十六で健士を産んで、中退するしかなかった。

途中で道を踏み外したような気持ち抱いてたってそれは仕方ないわ)


「あーあ」


思わずため息をつく。

それにしても、可乃子は家のことは何一つろくにできない。


「結婚しなきゃわからんことってあるんやなぁ」


掃除洗濯料理の三家事の出来で相手を好きになるかと言ったら、

そんなバカげた基準などないに等しい。


しかし、できたほうが気持ちがよいに決まっている。


可乃子を見ていると子供が子供を育てているようだ。

ともに泣いて笑っている。


そりゃあよいときはよい。当然、だめなときはだめだ。


子は育っていく。どんな環境にも順応しながら。


 店の閉店後の片付けを終えて、拭き清められた厨房からうちに戻り、

ごみダメのような部屋に入ったとたん、てらちゃんの中にはぎりぎりと歯ぎしりしたいような怒りが湧いてくる。


けれど、そこを巣と、獣の親子のように寄り添って眠っている可乃子と健士の健やかさを見るたびに、いつのまにかいとおしさしか感じなくなる。


彼らのそばに体を横たえて、毎夜てらちゃんは幸福な気持ちに包まれて眠る。


自分の生きる今は、計画とは違っている。


だけど、時々これが運命さだめだと心が言う時がある。

ともに流れるように生きて行こうと思える日もある。


 可乃子が飛び出したその日、夜になっても可乃子は戻らなかった。

そのせいで、てらちゃんは厨房の片付けもそこそこに、向かいの浅野屋に健士のことを迎えに行った。


すると信美の弟である正彦、通称まっちんが玄関から出てきた。


「ああ、健士、もう寝ちゃってる」

「やっぱなぁ。ほんと遅くに悪いな。」


申し訳なさそうに言うてらちゃんの言葉に首を振りながら

「かのちゃん、帰ったか」と訊いてきた。


「いいや、まだ」

「ふうん」まっちんは夜空を見上げた。「お前も毎度、大変やな」


「まあな。そのうち帰ってくるやろ」今夜は星がよく見える。


「やな。ま、健士は今夜はうちで寝たらええ。また朝起きたら連れてくし」


「ほんま、わるいな」


そう繰り返し謝るてらちゃんに、まっちんは人のよさそうな丸い顔に笑みを浮かべ言った。


「それは全然ええんやけど、やっぱ明日は無理そうか」

「あ、ああ、明日、練習かぁ」


てらちゃんは残念そうにつぶやいた。


高校の時から二人はバンドを組んでいる。

まっちんはベース。てらちゃんはリードボーカル兼ギター。

高校時代は二人とも地元ではちょっとした有名人だった。


高校を卒業した今でもバンドは続けている。時間があるときはメンバーで集まって、スタジオで練習している。


いつか来る日のために、というよりは、好きだから、というのが本音。

高校時代のような、つかみ取りに行く情熱は、それぞれ一身上の都合で

心の中で息を殺している。

けれど、いまだ生きているのには変わりはない。


「明日はそれどころちゃうな、あいつらにも適当に言っとくよ」

「ああ、そうして」


てらちゃんは深くため息をついた。「行きたかったな。ひさびさの練習」


「しかたねぇべ」まっちんまで心から残念そうにつぶやく。

「信美さんは?」

「あ、ねーちゃんももう風呂入って化粧も落としてるし、

死んでも出てこーへんわ」


まっちんが信美とそっくりの目をして笑う。


実際、子供のころ、信美とまっちんは双子のようによく似ていた。

一重瞼の細い目に、八重歯にかぶさるようなハート形の上唇。ふっくらとした顔にぽちりと団子鼻。

そして二人とも弾むように丸い体をしていた。

同級生であるまっちんとてらちゃんの五歳上の信美は、いまや三〇歳手前。

柔らかくウエーブした肩までの髪と、コスメを駆使した化粧のうまさで女を盛るのに成功していた。

ただ、まっちんの言うとおり、風呂に入ってしまったらたちまち「まっちん」になってしまう。

その姿を弟の親友であり、自分がずっと恋焦がれきた男に見せたくないというのは当然の心理。女心だ。


そうだ。

信美はずっとてらちゃんのことが好きだった。

それゆえに誰とも結婚しないことになっている。


「幼稚園のお迎え、明日ねーちゃん頼んどいてやるよ」

「うん、すんません」浅野兄弟には助けられてばかりだ。


翌朝にまた来る約束をして、てらちゃんは浅野商店をあとにする。


その背中をぼんやり見送っていたまっちんは、ポケットの中で震えるスマートフォンに我に返り、慌てて取り出した。


画面には可乃子の名前。


慌てて電話に出ると「お、お前、今どこにおるんや」と声を潜めて訊いた。


視線の延長線上のてらちゃんの背中が店の中に消えてしまうまでずっと声を殺していた。


可乃子の小さな声が、電話の向こうから聞こえてきた。


大丈夫やで。私は無事やから。


「なんで俺に電話してくんねん。あいつ心配してっぞ」

呆れたようにそう言いながら夜空を見上げると、明るい月に赤い金星が寄り添っている。


てらちゃんに電話なんかできるわけないやろ。


そんな可乃子の言葉に「俺ならいいんかい」とつっこむ。

そう言ってから心の中で自嘲気味に思う。

(まあ、そうやんな。お前にとって俺はなんでもない人やもんな。)


まっちんの声に、可乃子は答えない。いつものことだ。


これまでもこれからもそれはきっと変わることはないのだろう。


まっちんは思い出す。あれは高校一年の頃。

可乃子と同じクラスになり、好きなロックバンドの話で仲良くなった。

可乃子はバンドを組みたいと言い、パートはボーカルを希望していた。

恥ずかしそうに歌への情熱を語る可乃子は、

とてつもなく熱いものを内に秘めていたとまっちんは今になって思い出す。


可乃子の熱意に打たれたまっちんは、姉の信美に彼女を紹介した。

信美も大学の軽音サークルでバンドをやっていたのだ。


可乃子の歌のうまさは格別だった。

女子大生バンドで光を放つJKボーカルはキラキラ輝いてたちまち噂の的になった。

信美が可乃子と行動を共にするようになると高校の外でも会うことが増えていった。


気が付いたら好きに、なっていた。


「可乃子、可乃子?おいお前、いつ戻るんや」


問いかけた言葉が宙ぶらりん。

立ち切れた電話の向こうの空白はいったいどこにつながっているのだろう。

探したって見つからない、遠い遠いところなのだろうか。




3.


十年後


「健士、健士ぃ、まだ寝てんのか?」


勢いよく「お料理 てらもと」の入り口の引き扉が開けられたかと思うと、

まるでボールが弾むように浅野兄弟が店の中に入ってきた。


「いったいいつまで寝てんねん?」階段の下から二階に向かって叫ぶ。

「っさいな、もう」


頭っから布団をかぶっても「もう八時になるで、学校遅れるで」


その声は執拗に階段下から聞こえてくる。

(なんだ、このうるささは。昨日の静寂とは雲泥の差だ。)


健士は両手で耳を強くふさいだ。

健士が返事をするまでは、引き下がらないとでも決めているのか。

浅野兄弟は口々に大声を出した。


「健士ぃ」


正彦は、まるまると太った体を精一杯に伸ばして、階段上を見上げている。


「わあったわあった」


そう言いながら、健士はしぶしぶと起き上がり、二階から顔をのぞかせた。

すると人ひとり通れるくらいの狭い階段の下に、こちらを見上げる正彦の顔と、その後ろでまったくおなじような顔をした信美が背伸びしているのが見えた。


ほんまは双子じゃね?


健士はいつも二人並んでいるのを見るとそう思うのだ。

短い体躯を弾ませる浅野兄弟は

本当によく似ていた。


八百屋「浅野商店」は、今は親を継いで正彦が中心になって店を切り盛りしていた。

昼間は八百屋。夜は相変わらずバンドの練習。

今ではぽっちゃりしてしまい、かわいらしくさえある正彦には、

「ロックやってた」やんちゃぶりはみじんも残ってはいない。


それでもそれは見た目の話であって、商店街のバンドメンバーと時間が合えばスタジオを借りてセッションしているベーシストなことには変わりない。


けれど今、自分はもうベースは弾けないのではないかと、正彦は思うのだった。

てらちゃんがいなくなってしまった。


一か月前、突然、交通事故で。


(高校からずっと一緒にやってきたのに。あいつがいないんじゃあ俺はもう無理や。)


すぐに寂しくなってしまい、泣きそうになる。

隣でそんな正彦を見ていた信美は「とりあえず笑え」と短く言った。


「健士に見せたらあかんで、その顔は」と。


そしてふらふらと寝ぼけ眼のまま階段を下りてくる健士を見ると、信美は弟を押しのけて前に出た。


「あー、やっと起きた」

「おはよーまっちん、おはよう、浅野さん」


他人行儀に信美のことを浅野さんと呼ぶのは子供のころからだ。


「信美さんの親切に甘え切ってはあかん。あの人はお前のお母さんじゃないんや。敬意を払え、敬意を」


いつも父にそう言い聞かせられていた。


信美の好意を自分は受け入れられないくせに、彼女の善意だけ利用している。


そんな自分への戒めのつもりだったのかもしれない。


信美は作ってきた弁当をカウンターに置くと、

「はよ、着替えて学校行きんさい、はいこれ、弁当」

「え、俺、もう高校やめようかと」

「なにばかなこと言ってんの」

「いや、ばかなことって、いやいやいや、俺さ、親父おらんくなったんすけど」

「それがどうした」


もう八時も回っているというのにだらしがないスウェット姿の健士にむかって信美はすごんだ。

「あんた一体いつまでそうしてるつもりやねん?」

「ねーちゃん、まあな、今日はひとまず」

「なにがひとまず?」

「いや、・・・だから、そのまだ・・・」

まっちんは、信美の剣幕にしどろもどろになりながら

「まだ俺ら癒えてないから」と言った。


「そんなんあんたらだけちゃうわ。ただ、あたしは、前に進まんとあかんて思うで」


自分でそう言って、いつのまにか泣きだしそうになった信美と、正彦の顔を交互に見つめていた健士が、湿っぽさのかけらもないこざっぱりとした声で当たり前のように言った。


「学校行ってる場合じゃないってことっす。俺やっぱ稼がないとだめっしょ」

「稼ぐ?あんたになにができるっての」

信美はそう言い放ってしまってから、「あ、」と口をつぐんだ。


「い、いや、たしかに、俺に何ができるんすかね。たしかにそれはそうや・・・」


がっくりと肩を落としたポーズで二階に引き上げようとする健士に向かって、

「ちっと待ちぃ健士」とさっきのしおらしさはどこへやらドスのきいた信美の声が響いた。


「あい」(見抜かれたか)

振り返ると、信美の顔からは涙はすっかりと消えて、じっと健士の目を見据えてくる。

やはり健士に勝ち目はない。


「どこ行くのん。」

「あ、いや、今後どうしようかとじっくり考えてみようかと、一人で」


健士はそういうと、逃げるように階段を駆け上がった。


「待ちんさい、健士ぃ!」


階段の手すりにぶら下がるようにして、信美は大声を上げたが、二階のガラス戸がぴしゃりと閉まる音聞こえてくると、あきらめたようにため息をついた。


「健士ぃ、ここに弁当おいてるからね、お昼に食べー」


二階に向かって、信美はそれだけ言うと「帰ろっか」とまっちんに言った。


二人は顔を見合わせると、小さくため息をついた。


「だーめだ」

「ほんと、こりゃだめだ」

「高校くらいは卒業しないとねぇ。でもあの子の言う通り生活費、

どうしよう。うちもそんなお金ないしな」

「保険金がいくらかあると思う」

「保険金か。けど、そんないつまでも暮らせる額ちゃうやろ」


二人はそろってため息をついた。

飴色に熟した天然木の分厚いカウンターを手で撫でながら、


「この店さえ営業できたらなぁ。箱はあるんやし、だれか借りてくれへんかな、そしたら家賃も入るし」


そんなまっちんの言葉に信美も頷いた。


「なあ、まっちん。あん時、かのちゃんは結局戻ってこんかったな」

「はぁ?今、そんな十年も前の話か」

「だって、思い出すに決まってるやん。てらちゃんがいなくなってしまったんやで。健士の肉親ってったら、かのちゃんだけやんか」

「まあ、おじさんもおばさんも死んじまったからなぁ」

「あんた、あの子の居所知ってるんやろ」

「ま、まあな」

「このこと、伝えるべきやろ」

「うん」

「かのちゃんに伝えんとあかんやろ」

「そうやな」


(こんなこと連絡したら、可乃子の胸は張り裂けてしまうわ)


まっちんはそんな風に思った。飛び出して行って十年の月日が流れても、

可乃子がここにいたのが昨日のことのように思い出される。

てらちゃんも可乃子も、自分だって笑ってた。

自分たちはできそこないの幼い子供だったかもしれないけれど、

あの頃、なんだかすごく幸せだった。



4.


「可乃子さん、寝不足ですか?」

「ふぁー。そうなん、なんか夢見ちゃって、

よく眠れなかったんだよねぇ」


遅刻寸前で飛び込んだコンビニで可乃子は

ぼさぼさと頭をなでつけながら

カウンターの中にのろのろと進んだ。


このコンビニでアルバイトし始めて

一年がたつ。

クスクス笑いをかみしめているキューちゃんこと、九谷美香は女子大生。

最初の最初からなんだかうまがあった。


その朝の可乃子の顔といったら、

いつもにもましてひどいもので、

寝ぐせのついたショートヘアに

垂れ下がった瞼。

描くのを忘れた薄い眉。

そしてリップクリームなしのカサカサ唇。


「女の子なこと、思い出してくださいよぉ」


最近、年下の高校生の彼氏ができたせいで、

ますます女をあげているキューちゃんが、

三十越えの年上女にやんわりとだめだしする。

それはいつものことなのだが

不思議とキューちゃんに言われても

腹が立たない。


キューちゃんのもって生まれたかわいげ、

たるもののせいだ。


「過ぎ去りし日の夢」

「それって悪夢なんですか?」

「悪夢ってわけじゃないけど、

 夢見がいいわけでもない」

「ふうん。悲しくなっちゃうやつですね」


大量にマスカラを絡ませた大きなたれ目に

急に愁いを浮かべて、

キューちゃんは言った。


この子は時々、的をつく。


可乃子はそれには答えず、

あいまいに笑って見せた。


すらりと背の高いキューちゃんは、

そんな可乃子の跳ね上がった後頭部を

まるで子どもを見るような目で見下ろすと


「あたしレジ打ちやっときますから、

とりあえずハネだけでも直してきたら

どうです?」

と可乃子の頭を指さした。


可乃子はいまだ、あのころの夢を見る。

夢見が悪いのは悪夢だけと決まったわけ

ではない。


夢の中でぼんやりとした視界が

次第にクリアになり、

その瞳の先に古ぼけた建物が見えてきた。


子供のころ何度も行った近所の動物園。

あれは、その中にある動物園ホールだ。


ひっそりと忘れられたように

動物園の片隅に建てられている

ホールの休憩場所で、

可乃子はひび割れた合皮のソファに

腰をおろしカフェオレを飲んでいた。


チェックのミニスカートにルーズソックス。

白いブラウス、リボンタイ。


エントランスのガラス扉の向こうでは

桜の木が晩秋の夕暮れに紅く染まっていた。


可乃子は観客がホールから出てくるたびに

顔を上げるけれど、ホールの中には入らず、

ただひとり、ゆっくりとカフェオレをすすっているのだった。


しばらくして、可乃子が重い防音扉を押し開けてホールの中へ入っていくと、

狭いステージの上にサークルのメンバーが

次々に飛び上がり、

リンダリンダの大合唱が始まっていた。


ステージから「まっちん」が可乃子に向かって手招きをしている。


体にベースをくっつけるようにして、

低音を打ち鳴らしているトサカ頭の浅野正彦。


その後ろにはてらちゃんの姿。


(ああ、もっともっとここで歌ってたい。

ずっとここにおりたい)


夢の中なのに、

その言葉を言ったような気がした。


夢の中ではいつも心が「私」と呼応していた。


可乃子にとって、それはラストライブだった。


目の前には、大学受験というものがあった。

母と約束したのだ。

バンドは高二の夏でやめると。

「けじめ」をつけなくてはならなかった。


一息つくと、可乃子は勢いをつけて

ステージに飛び上がった。


その腕を、ギターをかきならす手を止めて

てらちゃんが掴んで引き上げた。


ああ、あたし、てらちゃんのこと、

マジ好きやった。


夢うつつ可乃子は思う。

黒い髪をぴっちり後ろになでつけて、

綺麗な額を見せている。


あの笑顔、やっぱほんまかっこいい。


もう心臓持ってかれちゃいそうやで。


てらちゃんのギターと

まっちんのベースに支えられ、

力いっぱい歌った。


全身が震えるくらい血が湧きたつくらい

力いっぱい。


ステージにあふれかえるほどの仲間、仲間、

あたしの仲間たち、


さようなら。


ライブのはねた後のあの日の夜は

本当に美しかった。


夜道を照らす月明りが、燃焼したあとの空っぽの心に優しくしみ込んでくるみたいだった。


可乃子は先を行くてらちゃんの背中を、

スニーカーにかかとをしまうのも

もどかしく、つっかけたまま追いかけていた。


「待ってよ、てらちゃん」


追いついた可乃子を見下ろすてらちゃんの瞳は感情を隠していて、

すごく冷たく見えた。


そんな顔をされると胸がとっても痛くなる。


でもてらちゃんは腕をのばして可乃子の首を抱え込んだ。

その不器用さのまま、てらちゃんは言った。


「今日うち来ない?」

「うん。行く」


あの時吸い込んだてらちゃんの匂い。

今でも覚えている。



キューちゃんに言われた通り、

可乃子の後頭部のハネはひどいものだった。


水をつけて、適当になでつけただけで

まっすぐになるはずもなく、

バイトが終わるまで結局そのままだった。


今日も一日が暮れていく。

何の変哲もない一日が、

コンビニのガラスの自動ドアの向こうで

暮れていく。


可乃子はぼんやりと店の前を通り過ぎる

人波を眺めていた。

店の入り口の電光板はいつも明るく歩道を

照らしていて、

何もかも真っ白に明るいような錯覚に陥る。


けれどそれはやっぱり錯覚なのだ。


この繰り返しの毎日の行く末に

到達点など見当たらない。


この年になって、

それはけっこうきついことだ。


それでもバイトが終わると、

悩みがちな心に蓋をして、

可乃子はそそくさと弁当の棚の前へ移動した。


いつもの行動だと認識しているからなのか、

キューちゃんはそれを気にも留めない様子で、ホットケースの中に新しい豚まんを補充していた。


「ねぇ、キューちゃん、この中華丼弁当、賞味期限ギリやで、ギリ。午前0時でボツ」


と、可乃子は客の一人もいない

午後十一時をまわったコンビニで

うれしそうに声をあげた。


「中華丼弁当って変じゃない?

中華丼か中華弁当じゃないんかね」


そんなことをぶつくさいう可乃子に向かって、


「あ、さすが、目ざといですね、

見つけましたねぇ」

とキューちゃんはおおげさに褒めてくれた。


(べつにこんなこと早くたって

 褒められることちゃうわ。)


可乃子はそんなキューちゃんににんまりと笑って見せると、中華丼弁当をむんずと掴んだ。


(ふぉ、セーフ。今夜の晩御飯ゲット!

 

食いっぱぐれなし!)


可乃子の経済状態はこのところずっと

困窮を極めていた。

とくに無駄遣いをしているわけでもないが、

三十二、

独身、

女。


働き口は、なかなか見つからなかった。

別段特技があるわけでもなく、

学もなく要領も悪い。


その上、歳もくっているとなると、

高給取りになれる確率など

0.0000000?パーセントもない。


ようやく見つけたコンビニのアルバイトだけで生活を回していくことになったが、

たとえ我が身一つといえども

なかなかしんどいもんで・・・。


キッチン付とは名ばかりの

薄い段ボール箱みたいな六畳一間の

ハイツの家賃を払うこと。


水道と電気とガス代を払うこと、


毎日何かを食べること。


ああ、それからトイレットロールを買うこと。


つつましくてもただ生きているというだけで、トイレットペーパーって減るものなのだと

気が付いたのはこの年齢になってからだ。


まったく「いまさら感」が強い。


いつのまにか中華丼弁当を掴んだ指に

力が入り、プラスティックの蓋が

軽い雑音をたてた。


その音で我に返った可乃子は

「店長来るまでに退散退散」

そう言って立ち上がった。


まるで頭から要らない過去を追い出すかのように。


そそくさとレジの前を通り過ぎた時、

キューちゃんが「おつかれーっす」

と男前に見送ってくれた。


そして可乃子はその夜ようやく

帰路につくのだった。


十一月の終わり。

可乃子は夜の真ん中を歩きながら、

フリースの襟元を掻き合わせた。


「ううさぶい」


耳の中に突っ込んだワイヤレスイヤホンからは大音量で音楽が流れていた。


そのメロディに誘われるように可乃子は

ひとり歌を歌い始める。


人っ子一人歩いていない夜の真ん中なのだからいいのだと、可乃子はそのまま歌いながら

歩くことにした。


メロディに包まれると自分の声が体の経路を

貫いて脳みそに溶け込んでいくのを感じる。


自分はどのみち未来にはつながっていなかった「歌うたい」だ。


それでも歌うことはやっぱり好きだ。

胸が熱くなるのはあの頃と全然変わらない。


自分の世界に入り込むように目を閉じてしまった可乃子は、何かに躓いて転びそうになり、

再び目を開けた。


「あ、マルメロ」


大きすぎるフリースの袖の中に丸め込んでいだ指先をのばし拾い上げると、

その甘い匂いを吸い込んだ。

すぐそばの路肩では母木が黄色い電球のように実を垂らしている。


(惜しいよな、マルメロってそのまんまじゃあ食べられないんだもの。

匂いだけはすっごくいいんだけどな)


枝に放置されたまま色褪せ行く実から目をそらすと、可乃子は囲った手の中に視線を落とした。

地面で強く打ったところが膿んでいた。


(痛そうやな)


「このまま転がして捨ててしまっても

いいんやけど」


可乃子は息のように細い声でつぶやいた。「いい匂いやからちょっと連れて帰ったろ」


それからは可乃子はもう星空を見上げることはなかった。


ずっと歩いて、ずっと手の中ばかり嗅いでいた。



5.


「でね、友達のお父さんが亡くなっちゃったんです」


客待ちのレジの中で、唐揚げを補充しながら

可乃子はキューちゃんの話を聞いていた。


「仕送りとかもストップしちゃって、学費とかももう大変で、

大学やめなきゃいけないかなって」


「そりゃたいへんだね」


チーズ味の唐揚げ、むちむちしておいしい。


可乃子はさっきからそればっかり考えている。


その友達の話。たいへんだとは思うけれど、

だからってそれ以上のコメントも特にない。


それに可乃子が聞いていようが聞いていまいが、

たぶんキューちゃんは関係なく話し続けるだろうから、

別にこんな感じでいいよな。


人は自分が話したいから話すのだ。

相手の意見を求めているのはたぶんそのうち二割くらい。

あとは自分の都合だと可乃子は冷めた心でそう思う。


こんなに仲の良いキューちゃんであっても、それは同じことだ。


でも、てらちゃんと出会って、一瞬でも夫婦になって、健士を産んで・・

あの頃、自分はそんなふうには思ってはいなかった。


てらちゃんのせいでこんなになっちゃったんだ、あたしは。


可乃子はため息が出そうになって、唐揚げの香りを鼻を広げて吸い込んだ。


「話したいから話す」までは同じだが、そこに相手の、

可乃子にとってはてらちゃんの相槌が絶対に必要だった。


二割どころじゃない。

ほぼまるごと、てらちゃんがどう思っているのか知りたかった。


心の中全部知りたかった。


「あ、いらっしゃいませ」


その時、キューちゃんの声が可乃子の思考にわりこんできた。

キューちゃんが慌ててレジに向かったので、

可乃子もしかたなくのろのろと隣のレジに立った。


キューちゃんのレジは、新発売のコンビニスイーツを

嬉しそうに話しながら買い求めるカップルだった。


可乃子が顔を上げると、自分のレジの前に立つ男と目があった。


「あ、れ?まっちん?」

「おす」

「え、どしたん。めっちゃ久しぶりやん」

「元気してたか?」


まん丸い顔が人懐っこそうに笑いかけてくる。まっちん変わってない。


てらちゃんの家を飛び出した時、なぜだか私、まっちんにだけ電話をかけた。


まっちんにさえ消息を知らせていれば、針孔を通り抜けた細い糸のように、

てらちゃんに届くんだって、

そのためにまっちんを利用しているような、

少しずるい気持ちもあった。


十年の間、時々、メールした。

まっちんにだけ自分が生きているって伝えた。

返事が来ることはなかったけれど。


だからそのまっちんが目の前にいるなんて信じられなかった。


「このあと、ちょい時間ある?仕事、何時まで?」

「八時まで」

「じゃ、その頃もう一回来るわ」

「あ、そ。うん、わかった」


可乃子がそう返事すると、まっちんはじゃあと手をあげて

コンビニから出て行った。


「誰ですか?」

キューちゃんが聞いてきた。


「ん、幼馴染」

「へぇ」

「ずっと会ってなかったからすごく懐かしい」

「ずっとってどれくらい?」

「ン・・・十年とか、かな」

「・・・十年?。・・・なんで来たんかな」

「へ?」

「だってそんなに長いこと会ってなかったんでしょ。それなのになんで会いに来たんかなって思って」

「なんでやろ」

「やばくないすか?」

「やばい?」

「お金とか絶対貸したらだめですよ」


キューちゃんが頬を引き締めて注意してくる。


「貸すお金なんてないよ」

「お金なんて天下のまわりものです。銀行に行ったらいくらでもあります」

「人のお金がね」


知った風な言葉を交わしながら、可乃子はへらへら笑うことにした。

キューちゃんの言う通り、今更自分に会いに来るなんて

なにか理由があるのだろう。


なんだ?まっちんと私の間にあるものってったら、

てらちゃん関係しかないやん。


うわ・・・怯んじゃうな。


可乃子はさっきまでの懐かしい気持ちが急速にしぼんでいくのを感じて、

小さくため息をついた。



6.


「うわまじで?てらちゃん死んでもた」

可乃子は古ぼけた和室に飛び込むと、てらちゃんの位牌の前で声をあげた。


小さな文机に白い布がかけられ、銀糸の綺麗な布に覆われた遺骨が

黄色と白の菊の花とともに置かれていた。


両のこぶしを強く握りしめて可乃子はその遺影の前に立っていた。


「事故やったんや」


背中でまっちんの声が聞こえてきた。


「冗談きっつぅ」

握ったこぶしが震えた。


可乃子は思いもよらず勝手に飛び出した自分の言葉が嫌だった。


可乃子自身が嫌なのだから当然そのセリフを聞いたまっちんも

嫌悪をあらわにした。


「お前なに言ってんや」

「もう頭おかしなってまうわ」


涙があふれてきた。「ずっと元気でおるって思ってたのにぃ」


可乃子は床に突っ伏して泣き出した。

(現実に頭がついてこん。あかん、頭の中がぐちゃぐちゃや。)


「線香あげてやってよ」


まっちんの声。

けれど、可乃子は喉の奥から嗚咽をこぼすだけで、塊のようにうつぶせて

顔を上げなかった。


まっちんは白い布の上でぽっとともされている小さなろうそくに、

可乃子のかわりに線香をかざした。


線香は細い煙をたてながら、じじっじじっと体を燃やした。


(なんであたしてらちゃんがずっと元気でいるって思ってたんかな)


まっちんは可乃子の代わりにそっと線香を立てた。

そうしてから「俺、下におるから」と、静かに可乃子のそばを離れた。


階下に降りていくまっちんの足音が遠ざかると可乃子はこみ上げてくる嗚咽に苦しみながらぼんやりと窓の外に目をやった。


すると向かいの八百屋「浅野商店」の看板が見えた。

窓から見える景色は十年前と少しも変わっていなかった。


(ここから逃げたいって思ってた。自由になりたいって思ってた)


白地に黒の墨字で力強く書かれた「浅野商店」の文字。

それは、雨にも風にも動じなかったけれど、その無用な力強さが可乃子にはうっとうしかった。


あの看板は浅野兄弟そのものだ。浅野信美と正彦。

あの時、彼らは無用の力強さで自分を支えてくれようとした。

だけど、彼らの前に出るといつも弱くてふがいない自分を思い知ることになった。

はすかいに当てた自分の物差しの角度が、世間とずれているのに戸惑った。


子供を産んだからという理由で、

まっとうな妻であり母であることが求められた。


けれど、可乃子にとって子供は偶発的な物事であり、

それよりも大事だったのはそれにいたるまでの

てらちゃんとの日々なのだった。


子を産むことで、自分たちの関係は変わった。

冗談言って絡まってふわふわ歩いたあの日とは、全く変わってしまったのだ。


偶発的な事柄に可乃子は感動なんてしない。後悔ばかりだ。


必然的に可乃子は母にならなくてはならなかった。

産んだから。


子を産んだから。


まっとうな妻とは何だろう。

まっとうな母とは何だろう。


自由でありたかった。思いのまま生きたかった。

(でも、そんな私をてらちゃんは許してはくれなかった。

受け入れてくれなかった。

あの優しいてらちゃんはいなくなってしまった。

だからこんなカラカラとした空虚なとこに

あたしは一秒たりともいたくないって毎日毎日思ってた。)


弱虫かもしれん。けど、ええねん、それで。

無責任やし、我慢やってないの、そんなんわかってる。

けどあん時、私、逃げへんかったら死んでた。だから生きるために逃げた。


でも、だけど、

やっぱそれって・・・


あかんやんな


「ごめん、てらちゃん。ごめんなさい許してください」

可乃子は畳に突っ伏したまま、そう吐き出した。

吐き出したら同時に涙もぼろぼろと落ちてきた。


浅野正彦は階下の店に降りて行った。

二階の寒々とした和室とは対照的に、

店のところどころに置かれた小さなステンドグラスのライトには

明かりが灯り、美しい色影を壁に映していた。


「お料理 てらもと」はてらちゃんの父の代でこそ和食屋であったが、

てらちゃんが継いでからは、和洋折衷のメニューが取り揃えられていた。

内装も壁紙を張り替え、照明を落とし、

新たにアンティークのテーブルや椅子を入れたことで

和風だったことが思い出せないほどの変わりようだった。


父の代の常連客に駆け出しの時こそ助けられていたのだが、

五年もたつと、てらちゃんの料理のファンも増え、

いつのまにか人気の店になっていた。


その夜、二つあるテーブル席はどちらも埋まっており、

カウンター席には常連の初老の男が並んで座っていた。


みんなてらちゃんの死を悼み集まったはずが、

そこには泣いているのが場違いなような心地よさがあふれ、

それこそてらちゃんの店づくりの手腕だったのだとまた思い起こさせ、

涙を誘う。

そんな無限ループが繰り返されているのだった。


(てらちゃんがいなくなっても店は死んでない)


正彦は階段を降り切ったところで、戸口の影から店内をうかがうと

そう思った。


みんなそれぞれに瓶ビールをつぎあったり、ワインをかたむけたり。


何を食べているのかとテーブルに目をやると、

コンビニで買ってきたのかチョコレートやナッツの袋が

無造作に広げられていた。


(てらちゃんが見たら怒るわ。店は死んでないけど、

やっぱ五体満足ではないんやな。

てらちゃんがいないんやから、

うまいつまみがないのも仕様がないけど、

いくらなんでもあれは悲しくっててらちゃんには見せられへんな)


「姉ちゃん、来てたんか」

正彦がしかめっつらのまま裏からそろそろと姿を現すと、

カウンター席の一番奥に信美の姿があった。


「あの子は?」

可乃子を連れてくると前もって信美には話しておいた。

信美は可乃子のことを待ち構えている体だったが、

まっちんはなぜだかわからないうちに

自分がこの姉から可乃子のことを守ってやらなくてはならないという

使命感にかられているのだった。


(高校の時を思い出すな。あいつはいっつも姉貴に怒られてばかり。

まったく手の焼けるヤツだった)


「まだ二階。しばらくの間、そっとしておいてやろ」


信美はすんなり頷くと、それ以上は何も言わなかった。


その信美はといえば、エネルギッシュさは若いころと変わらない。

瞳は生気に満ち、ニットワンピースの中で相変わらずの

丸い体が弾むようだった。


肩までのウェーブがかかった髪は年のせいか少しぱさついているが、

口紅は鮮やかなローズ。


太って張りのある頬は、すでにビールで紅く上気していた。


「まっちんさん、何飲みます?」


その声に正彦は顔を上げ、はっとした。てらちゃんだと一瞬思ったのだ。


でもそんなことがあるわけがない。

カウンターの中の金髪は健士だった。


「ビールにしましょか、今は瓶しかないんすけど」

「お前ぇ、なんやいっちょ前に」


説明のつかない感情がふいにあふれて、正彦は胸が詰まった。

(もうカウンターに入ってやがる。そこはあいつの場所やのに。

お前みたいな若輩者が、そ、そ、その神聖な場所に立ってるなんて

十年早いんだよ)


今まで健士に感じたこともないいらだちがあふれてきた。


(子供のくせに大人のマネしやがって)


「自分でやる。お前、カウンターから出ろ」

ぶっきらぼうにそう言うと正彦はずかずかとカウンターに入っていった。


狭いカウンターの中でせめぎあうような形になった二人は

体をずらすように入れ替わった。


「俺がやるって」

「いや、自分でやる」


健士はかたくなな正彦の態度に肩をすくめてみせると、

カウンターから外へ出た。


「なぁ、まっちん、枝豆茹でる?」


その時、信美が言った。


「枝豆?」


不穏な空気がゆるんだ。


「そ。茹でてよ。持ってきたから」


信美はのんきな音色で言うと、

足元の紙袋からごそごそと枝付きの枝豆を引っ張り出した。


「これ、丹波の黒豆だから、めちゃくちゃうまいよ、ほら」


それを見ていた客たちが「わあ」だの「ほぉ」だの声を上げる。

うまいものはみんな知っているのだ。


「え、それどうやって茹でるの?」


健士がその枝にたわわに実った自然のままの黒豆を初めて見たかのように

試し眺めつ、両手の中で回した。


「上手に茹でてや、まっちん」テーブル席から声があがる。

「おう」


正彦の頼もしい返事に、健士ははっとして顔をあげた。


(親父のまねしてカウンターの中に立っては見たけれど、

俺、料理なんてからっきし知らねえし。

自分で思ってるよりできることは少ない。できないことは多い)


さっきまで調子に乗ってドリンクを作っていたのに、

突然の悲しみが胸を突いた。


ふざけたようにふらふらとカウンター内から出た健士だったが、

今は気が抜けたようにおとなしく端っこの席に座り、

枝豆を茹でにかかるまっちんの姿を見ているのだった。


(まっちんさんは父さんと全然違う。親父とはあんまりしゃべらんかった。

でもまっちんさんは何でも話しやすくて、何回まっちんさんに助けられたか

わからんなあ。

だから俺、これからちゃんとまっちんさんの言うこと、聞くよ。

聞いて生きていく。

ひとりぼっちになっちまったからな。

なぁ、まっちんさんはいなくなったりしないでくれよな。

俺のとなりでいろいろ言ってくれよな)


ぐらぐらと大なべの中で湯が沸いて、落とされた枝豆がゆであがる。

ざるいっぱいの枝豆から熱い湯気がたちのぼる。

豆のさわやかな青臭さが湯気の中ではじけて鼻腔をくすぐる。

熱湯を受けたステンレスのシンクがボンと音をたてた。

まっちんは腕まくりをした右手で塩をつまみ、ざるを豪快にふりながら枝豆にまぶしていく。


それからカウンターに並べた白い皿に枝豆を山盛りに盛り付けた。

「ぜいたくやー」

「ほんま、自然の恩恵。うまいもんはシンプルにこういう食べ方が

いちばんうまい」

皿からひとつ、信美がつまみ上げて口に入れると


「ん。茹で加減最高!」と笑った。



7.

賑やかな話声が店の中にあふれている。

それを背中に、正彦は静かに階段を上がった。

可乃子がいつまでたっても降りてはこないのがふいに気になったからだ。


暗く狭い階段を登りきると、

開けっ放しになった和室のガラス戸から中をのぞきこんだ。


すると、自分が出ていった時のままの恰好で、

可乃子が一個の塊のようにうずくまっているのが見えた。


文机の位牌のそばのろうそくが小さな明かりを灯していて、

蛍光灯の白い光が薄暗くたまる部屋の中でひときわ温かく思えた。


「可乃子」


正彦は入り口でそう声をかけた。それでも可乃子は動かない。

正彦は怪訝な顔で可乃子に近づき、うつぶせになっている顔を覗き込んだ。


小さなピリングのできたフリースの袖は涙と鼻水でぬれていた。

着古した上着なのか生地が薄くなっている。


雑に塗ったファンデーションが涙でよれて、頬に筋を作っていた。


目じりの皺は深く、その下には青黒いクマが広がっていた。

頬にかかる毛先のばらついた髪。

根元のはげたマニュキュアの手をこぶしに強く丸めていた。


(疲れた顔して。

いったいどんな生活してんや。ただ生きてるだけじゃあかんねん。

お前は幸せじゃなくちゃあかんねん)


可乃子の顔を見つめていると、あの頃がよみがえってくる。


正彦は鼻の奥がツンとして、思わず目をそらした。



「お待たせー」

綺麗な声で正彦に手を振る可乃子の長い髪が、陽光に輝いていた。

太陽を背にしたその姿に目を細めて、正彦は手をあげる。

可乃子のことがまぶしい。

まぶしくて見ていられない。


心の中によみがえるのは、高校生だったあの頃。


自分の方へ駆けてくる可乃子と、その後ろからゆっくりと歩いてくるてらちゃんの姿。


「今日もスタジオ借りてんの?」


あどけない顔でそう訊ねる可乃子に、正彦は無言で頷いて見せた。


誰とでも打ち解けて話せる性格が自慢だったのに、

可乃子の前ではどぎまぎして自然体でいられない。

正彦は自分をそうさせる原因不明の感情に戸惑っていた。


可乃子がてらちゃんのことを好きだと知ったのは、

高一のバレンタインディのことだ。

自分に渡されたのはチョコレートだけだったのに、

てらちゃんにはオルゴールのプレゼントがついていた。

ショックだった。


(俺ぁ、可乃子のことが好きだったんだなぁ。)


けれど相手がてらちゃんでは、たちうちできない。


背が高くて、綺麗な白い肌に端正な顔立ち。

甘い声のヴォーカリスト。寡黙でアンニュイ。


男の自分でもかっこいいと思うのだ。

だから可乃子が好きになるのも当然だと思った。


(やっぱあきらめるしかないかなぁ。)


可乃子のことをとても好きだったけれど、

自分のものにはならないことがわかって、かえって楽になった。

胸のつかえがおりた。

どうしようもなく不安定な気持ちから一刻も早く抜け出したかった。


てらちゃんにだったら、可乃子を渡してもいい。

二人が一緒になるのになんの不服があろうか。


その気持ち、すごくしっくり来た。


そして、一年がすぎた。高二の夏の終わりまでは、いつも三人一緒にいた。


秋になると、可乃子の恋は実った。


そして、自分以外の二人、可乃子とてらちゃんに赤ん坊ができた。


健士が生まれたのだ。


正彦は苦虫をかみつぶしたような顔で、眠っている可乃子を見下ろした。


頭の中に可乃子が家を飛び出したあの日のことがよみがえってきた。


もう十年もたつのに、その記憶はとても鮮明だ。



8.

「もうくっついてこないでよ」

可乃子は太ももに強くしがみついてくる健士のことを押しのけた。

それでも健士はぐずぐずと泣きながらくらいついてくる。


「なんでわかんないの?あたしは嫌だって言ってんの

離してって言ってんの」


可乃子が引き離そうとすればするほど、

健士はこの世の終わりのように泣き叫ぶ。

何が不満なのかわからない。

さっきからずっとぐずぐず言って、

ご機嫌取りに出したお菓子に目もくれない。


健士のぐずぐずは今に始まったことじゃない。

なだめたりすかしたり気をそらしてみたり。


可乃子も努力はしてきたのだ。

でも特に最近は何をやっても機嫌はなおらない。

ただイヤイヤを繰り返すばかり。


「いやなのはこっちのセリフ、いい加減にしてよ、もう」


可乃子は声を荒げて思い切り健士を引きはがした。

その勢いで健士の体は投げ出され、和室の隅に転がった。

するとますます大声で泣きわめき始める。


(まるで演技がかってる。子役かよ)

可乃子は心の中で毒づいた。


(おおらかな母の愛なんてあたし感じない。もう限界きた!)


可乃子は泣き叫ぶ健士を放り出して、和室から逃げ出した。

そして階の店に飛び込んだ。


「てらちゃんっ」


つるつるの頬を紅く上気させ、おかっぱ髪を振り乱して、

可乃子はいらだった心のまま叫ぶようにてらちゃんを呼ぶのだ。


「何」


可乃子の踏ん張った足元が冷や水のように冷たい寺ちゃんの声になえていく。


(なんでそんな冷たい顔であたしを見んの)

可乃子は怯んだ。


「今、仕込みしてんねん。」

「健士が、言うこと聞かへんのっ。全然」

「お前さ、毎度毎度何言ってんの。母親やろ」


その言葉に可乃子は言葉を飲み込んだ。


(母親やからなんやねん?

母親やから子供の世話ができるって、そんなん当たり前のことちゃうで。

少なくともあたしはできへん。

母親らしくあれたことがなんか一回もないわ)


「助けてって言ってるやん」

「え?」

「手伝ってって言ってるやんか」

「だから俺は店の仕事が」

「いつもいつも店、店、店。てらちゃんの頭ン中にはそれしかないん?

ちょっとは手伝ってやろうとかないん?」

「お前なぁ、俺やってなんでもかんでもできへんわ」


あきれたようにてらちゃんがため息をついた。


「家んなかのことくらい、ちゃんとやってくれや」


その時だった。

店の扉が音をたてて開き

「買い出し行ってきたよ」と浅野信美が入ってきた。


「あ、れ?かのちゃん、どした?」


(振り乱したあたしの髪とは大違い。

浅野さんの髪は、いっつもふわふわ綺麗な茶色で柔らかそう。

シミのついたあたしのトレーナーとは大違いやな。

手首の上が空気をはらんだみたいなちょうちん袖の

てろんてろんのブラウスで。

ウエストマークしたすその広いワイドパンツは

いつもきちんとプレスされている)


可乃子はぎゅっと目を閉じた。そしてもう一度開けると


「なんでもないです」と言った。


(あたしやってプライドあんねん)


「あらそ?何でもない風でもないけど?」


「いいんですよ、こいつのことは。

あ、買い出しありがとうございました。

助かりました」


「いつでも頼んで。さてと、なんかほかに手伝うことあったらやるよ」

と信美はブラウスの腕をまくりあげた。


白くてきめの細かい手首の内側が目に飛び込んできた時、

可乃子は目をそらして逃げ出した。

二階に駆け上がったら、和室の隅で健士が指しゃぶりをしながら

泣き寝入りしていた。


丸いお腹がまくれ上がったシャツの隙間からはみ出していた。


「ごめんね」


可乃子は乱雑に散らかった部屋でブランケットを見つけてきて

健士にかけると

「汚い部屋だね。いいかげん片付けなくちゃね」とひとりごとを言った。


実際、料理も洗濯も掃除もきちんとできたためしがなかった。

ちゃんとしなくてはならないと頭ではわかっているけれど、

てらちゃんに指摘されると腹が立ってあれこれ言い訳してしまう。

自己弁護してしまう。

本当は自分ができていないこと一番わかっているのに。


なにもかもてらちゃんが私にやさしくしないせいだ。

なにもかもてらちゃんが愛を持って私を包まないせいだ。

そうやっててらちゃんのことを責めて、自分を守っている。


もう限界だ。

嫌すぎて死んじゃう。

こっから逃げなきゃ。


可乃子は裏口から塀を越えて、飛んで行ってしまいたいと

毎日一度は思うのだ。


だから、その日、それを決行することにした。


「お願い見逃して!」


可乃子は寺本家の裏口の高塀を超えようとして、

ちょうどそこへやってきた正彦を見下ろした。


大きく足を踏み上げた可乃子のあられもない恰好に度肝を抜かれて、

目をそらすにもそらせずに正彦はその場でフリーズした。


「な、な、な、なにやってんだあ、お前」思

わずそんな声がもれた。

「なんにも言わないで見逃して」


可乃子は切なそうに眉根を寄せてもう一度そう繰りかえすと、

高い塀から地面に飛び降りた。


「っ痛」

着地の際に膝を強打したのか、可乃子は顔をゆがめた。


「あーあーもう大丈夫かよ」

慌てて駆け寄ろうとした正彦を、掌を思い切り広げたパーで制する。


「来ないで。来ないでって」


可乃子はそのまま後ずさる。


可乃子の掌から発せられる「気」にたじろいで、

一歩も動けない正彦の前で可乃子は素早くくびすを返した。


その時、何も言えないで可乃子を見逃してしまいそうな正彦の背後から

鋭い声が響いた。


「どこ行くねんっ」

裏口の扉が乱暴に開かれたと思うと、てらちゃんが駆け出してきた。


「お前ぇ」

可乃子はいたずらが見つかった子供のようにびくりと体を震わせ、

ぴたりと動きを止めた。


「健士が泣いてるから、見てこいや」

てらちゃんはあきれたように可乃子のはだしを見下ろした。


「ったく、お前、また逃げんのかよ。」

「・・・やだ」

「へ?」

「嫌だって言ってんだ」


可乃子はそうつぶやいた。その顔はぞっとするほど打ちひしがれて、

見ている正彦まで悲しくなった。


「お前、健士のおかんやろが」

冷静なてらちゃんの声が可乃子の心にぐさりと刺さった。


(てらちゃん、こんな話し方するやつだったっけ。

昔からクールなヤツだったけど)


正彦はてらちゃんのあたたかみのない物言いに違和感を感じ、

二人を交互に見た。


「たしかに」

可乃子はつぶやくようにそう答えると「たしかに」ともう一度言った。


「私は健士を産んだけど、産んだからって母親になれるというわけではない」とつぶやいた。


「もうっなにぶつくさ言ってんねん、はよ行けや」

てらちゃんが次第にいらつき始める。

それでも可乃子は微動だにせず、

しばらく土で汚れた自分の足を見下ろしていた。


それから遠く聞こえてきた女の子の声に顔を上げた。


目の先に見える商店街のアーケードには女子高生のグループが歩いているのが見えた。


(まただ。

またさっきの浅野さんに感じたのと同じ繰り返しだ。

私が手に入れられないものがこの世にあふれているような気がする。


さらさらで長い手入れの行き届いた髪

あたしのブローしていないうねった頭とは全然違う。

まっすぐの素足、香りのいいスクラブで磨き上げたすべすべの膝小僧。

くしゅくしゅ長いルーズソックス、ああ、

かわいーなぁ・・・。)


「そのリップ、どこの?」

「コスメディア。全色ほしいなぁ。

ピーチの香りの好き」

彼女たちのきらきらとした綺麗な声が可乃子の耳から脳みそに侵入する。


可乃子は自分の唇に指をやり、がさがさの感触を探り当てる。


(ああ、ああ、ああ・・・も、い、や、だ)


崩壊寸前。


(あたしだって、ちょっと前まであの子たちと一緒やった!!!)


「ほんっまに、しょうがない奴やな」


てらちゃんの冷たい声がまた耳に届いた。


顔を上げると、去っていくてらちゃんの背中が見えた。

その背中の向こうで、浅野信美が泣いている健士を抱き上げてあやしていた。


(頼りになる浅野さん。

いつも困ったときに姿を現して、助けてくれる浅野さん。

浅野さんが健士の母親になったらいい。

浅野さんがいたら健士は幸せだ。

あたしなんていなくたって全然だいじょうぶ)


「お願いや、まっちん。行かせてや」と可乃子はつぶやいた。


「あたしはたぶん、要らん人間や」


少し離れたところで、てらちゃんが信美に頭を下げているのが見えた。

信美が笑って、「いい、いい」と言っているのも。


(てらちゃん、あたしのこともう捨ててええで。

見捨ててや。

そうしてくれたほうが楽や。

もう苦しまんでいい)


可乃子は泣きたいのに、どうしてなのか涙も出てこなかった。


「ちょっと待ってろ」

正彦は玄関に戻ると、可乃子の靴をつかんだ。

このまま可乃子を行かせてしまうのは間違っているような気がした。

だけど、可乃子のむき出しの裸足が悲しくて、

とにかく正彦は靴を手に取った。


てらちゃんの姿はもうない。

奥の厨房から仕込みを再開した音が聞こえてきた。


(なんでてらちゃん、可乃子を引き留めてやらへんの?)

正彦には、

小さな健士の存在がてらちゃんと可乃子のあの頃の笑顔を奪うように思えた。


太陽みたいにまぶしかったのに・・・

健士の命の重みが二人を押しつぶそうとしている。


(いつのまにか一丁前の大人になったって自分たちは思ってた。

けど可乃子は、なんもできへんて言う。

てらちゃんは自分のことで精いっぱいやし、

俺やってなんにもできへん。

可乃子を助けてやることなんかぜんっぜん、できへん。)


正彦がスニーカーを手に外へ出ると、可乃子が力なく座り込んでいた。

その小さな足を持ち上げてスニーカーにしまってやりながら、正彦は言った。


「どこへ行くつもりやったん?」と。


可乃子はその時ようやく正彦の優しい言葉に泣くことができた。


「うち帰りたいな。

でもお母さん、もう、あたしのことなんか大嫌いなんよ」

たしか母親は可乃子が出産した後一人で田舎へ越していったと聞いた。

あれから六年がたつが、可乃子が母と会っている気配はどこにもない。

あの時、入院先から産みたての健士を抱えた可乃子が一人この寺本家にやってきて、それからずっとたったひとり奮闘しているような気がする。


姉の信美も自分もできるだけ可乃子を手伝ってやりたいと思っていた。

それでも手を出しすぎるとてらちゃんに悪いような気もして、

そんな遠慮がちなまっちんとひきかえ、

信美は思うままに口も手も出しまくっていたのだが。


(どうにもひきとめられへん)


こぶしをぎゅっと握りしめると、

可乃子がのろのろと立ち上がるのを背中で感じていた。



正彦はふっと我に返った。

いつのまにか心はあの日に戻っていた。可乃子は帰る家がないと言ったけれど、その後母親を頼っていったと聞いた。母親を訪ねたあと、しばらくしてまた街に戻り一人で暮らしているとメールを寄こした。


あれから十年もたったというのに、

見下ろした可乃子の体はあいかわらず小さい。

うずくまっている塊には、きっと今でも届かないのだろう。


9.

ぱちん 

ぱちん

早朝、まだ薄暗いバーカウンターでひとり、

健士は昨夜の黒豆の残りを枝から外していた。

黒豆は鞘の根本から切ってしまわず、鞘をすこし切る様子で枝から外すのだ。ついでにお尻のほうの鞘にも切り込みを入れると

そこから茹でている間に塩水がしみ込んで絶妙の塩加減になる。


昨夜、そう正彦から教えてもらった。


赤いキッチンバサミは親父のものだ。

親父はこだわり屋で、自分が本当に使いやすいと思った調理器具は

何度でもリピートした。

このハサミはいったい何代目だろうか。

自分が育ってきた月日の中で、

幾度代替わりしたのだろうか。


親父もこうしてカウンターに腰を下ろして、

枝豆をゆでる下準備をしていたことを思い出した。


カウンターの中にはいつも親父がいて、目が合うと笑ってくれた。

健士はカウンターの中に目を泳がせる。


(もうこの世にいない、か)


始発電車が通過するのか、遠くで遮断機のおりる音がする。

時折、夜明けを待つ小鳥たちがフライングのように鳴く。

新聞配達のバイクがターンを繰り返す音。


店の中はとても静かだ。

コンクリ地の床。

古ぼけたテーブル。

厚い樟のカウンターは時を経て美しい艶と色をのせていた。


(知らんかった。よく見たらけっこう年期、入ってるやん)


健士が鞘を落とすぱちんぱちんという音だけが店の中に響いていた。


「ふわぁ、めちゃねむい。」

健士はひとりごちた。

昨日は常連たちがこの店で遅くまで酒盛りしていて、

静けさが訪れたのはついさっき。

空も白み始めてようやく全員家路についた。


健士はもう高校に行く気もなかったし、陽気な夜にはまりこんでいたくて、

常連たちとずっと店にいた。


(俺はなぁ、一睡もしなくたって、別に大丈夫なんや)


 カウンターの上に黒豆が山積みになったのを満足げに見下ろすと、

健士はぐぐーっと伸びをした。

(ちょっとだけ寝よかな)

よろよろと裏口から二階への階段を上っていく。


(どうせ一人なんや。誰もなんも言わへん。俺はぼっちなんやから)


そう頭の中でつぶやくと、まだ涙が込み上げてきた。


(ダメ俺。けっこう泣き虫。よわっちぃ)


ぼんやりしたまま、二階の和室に入ると、

そのまま眠ってしまおうと倒れこんだ。

しかし倒れこんだ先に丸くて重い塊があって、

健士は悲鳴を上げて飛び去った。


もこもこの白いフリースの塊。

うずくまった塊。


(な、な、なに?これ)

健士が部屋の片隅まであとずさってその得体のしれないなにかを

うかがっていると、

「おはようございまぁっす」と大きな声が階下から聞こえてきた。


どたどたと重い足音がする。

また浅野兄弟か。


「いよぉ、健士、寝たんかぁ?」

テンション高めに、正彦が二階に向かって叫んだ。


「おはよう、健士、起きてるぅ?」

まっちんの後ろから、信美がぴょんぴょんと跳ねた。


二人ともついさっきまで浴びるほど酒を飲んでいたとは思えない

元気の良さだ。


その声に転がり落ちるように健士が二階から下りてきた。


「あ、あれ、なんか、なんかおる、なんかおる、二階、和室、

なんか、あれあれあれ」


舌をもつれさせて大慌てだ。


「あー」

浅野兄弟は顔を見合わせた。


「忘れてた!」

「飲みすぎだにゃぁ」

「ほんまほんま」

二人はけらけらと笑った。「かのちゃんのこと、忘れとったー」


「だ、だから、あれは何?なの」

「見に行こ」

「やな」

二階に平気な顔をして上がっていく浅野兄弟の後ろを

おどおどと健士がついて上がった。


和室を覗き込むと、可乃子はまだうずくまったまま眠っていた。

その可乃子に近づくと、正彦は肩を優しく揺らした。


「可乃子、起きて、可乃子」

「んん」

「起きろって」

「え、え?え?」

飛び起きた可乃子はあたりをきょろきょろと見回すと

正彦の顔を見つけ安どのため息をついた。

「寝ちゃってた」


「かのちゃん、お久しぶり」


正彦の後ろから顔をのぞかせ信美が言った。


「あ、あ、浅野さん。ご無沙汰してます」可乃子は乱れた髪を振り乱しながら気まずそうに、一応、頭を下げた。

「おい、健士」

正彦が信美の後ろから様子をうかがっている健士を呼んだ。

「この人、お前の母ちゃんや」と唐突に言った。


その突然の告白に健士は目を見開いた。「はぁ?」


「で、可乃子」

「ん」

「これが健士。でかくなったやろ。もう十七や」

「・・・あ、ふぁい」

まだ覚めやらない眠気と、抗うことのできないあくび。

それをかみ殺すのに必死だった。

かみ殺すと鼻の穴がふくれ、

輪をかけてブスになった。


(感動のご対面なんてものはあらへんな。

自分を捨てた母親が突然現れたと思ったら、ぼろぼろぼろの、

このていたらくや。

ほんま、恥ずかしぃわ。いややなぁ)


「迷ってんけど、はっきり言ったほうがいいと思って」

正彦は急に真剣な顔になって、可乃子に言った。

「まわりくどいのは性にあわへんのや」

「あ、うん」

可乃子は正彦の正座に合わせて、自分も背筋をただした。

「お前に昨日伝えたように、

てらちゃんはもうこの世におらへん。

だから」

「だから?」オウム返しに訊く可乃子の様子としどろもどろのまっちんの顔を交互に見つめ、健士はだんだんと不安になってきた。

「健士を、」

「うん?」可乃子が自分を見つめている。

正彦は緊張し、唾をのみこんだ。


「もーお、あんた頼りないなぁ。」


そんな正彦をおしのけて、信美が言葉を放った。


「健士が一人になってしまったから、かのちゃん、あんた面倒みてや」

「へ?」

「ってことや、言いたかったんは」と正彦が信美に続いた。


「このお店も開けてもらうからね」

信美が唇の端をぎゅっとひきしめて言う。


「いや、はや、なんの冗談っすか?あたしにできるわけないっしょ」

「できないんじゃないねん。するねん」


信美の力を借りて強気になったのか、正彦は突然熱くそう言い放ち、

腕組みをしてみせた。


「家賃ゼロでここに住まわせてやる。仕事は健士の世話と店の切り盛り」


「は?私、バイトやってあるねんで。

そんな勝手に決めてもらっても困るねんけど」


怒りに任せてそう言った可乃子の目の前に突然ひらりと紙切れが

差し出された。

一枚は、可乃子の欄だけ記入された離婚届。

もう一枚は、籍が入ったままの戸籍謄本。

「お前はまだ寺本可乃子や。健士の母親でもある。

責任逃れはもうこれ以上許さぁん!」


短い足を精一杯踏ん張って仁王立ちになった正彦が言い放った。


「離婚届っていまさら」

可乃子は鼻からふっと息をはいた。

離婚届の薄い紙はちりめん皺がたくさんよって、柔らかく質感を変えていた。

たしかに、家を飛び出した後、てらちゃんあてに離婚届を送った。

まさかその離婚届だろうか。

もう化石だ。

あの時は、当然愛想をつかされていると思ったし、

離婚届が送ったらてらちゃんもすぐに出すだろうと考えた。

確認のために最初の一年は何度か戸籍を取り寄せて

離婚届が出されたかどうか確認しようとしたが、

何度戸籍を見ようとも籍が抜かれていることはなかった。


(まさかこんな大事においとかれてるなんてな、変なの)


てらちゃんともう一度会って、話し合って、きちんと離婚する。

そうしたいのかといったら、全くそうではなかった。

この逃亡をなかったことにしたかった。

てらちゃんがもどってほしいと言ってくれたら、すぐに戻っていただろう。

離婚届を送ったのは、最初は衝動。それから虚勢。

ポーズだポーズ。本心とは違う。

自分の心に史上最大の嘘をついていた。


「お前がこれを自分勝手に送り付けてきた時、

てらちゃんから預かってん。衝動的に書いたらあかんて言うてな。

あいつ最初怒ってたけど、落ち着いたら、離婚する気なんてやっぱないって言ってたし、可乃子が帰ってくるってあれからずっと信じとった。

あいつ、ほんまはずっと待ってたんや。

ま、お前は、そんなことも知らずに結局十年戻らずや。

薄情もんもええとこやな」


まっちんはずばっと言い放つ。


「お前には母親の義務がある」


「あんたにそんなこと言われる筋合いないっつーの」

その言葉に、思わず可乃子は言い返した。


(人の気も知らんと勝手なことばかり言って)


可乃子の頭の中にあの日鈍行列車に揺られていた少女の姿がよみがえる。

てらちゃんの家から逃げ出したまではよかったが、

どこにも行くところがなくて、気が付いたら母の家に向かっていた。

一つ駅に止まると次の駅までが異常に長くて、

可乃子は頭をたれて、むき出しの素足に履いた白いスニーカーばかり

見つめていた。


いったい母の暮らす集落へたどり着くのはいつになるだろうか。

母の家に電話をかけてみたが、呼び出し音は繰り返されても主はいないようだ。

携帯電話を嫌って持たない母にほかに連絡するすべはない。

母のところへたどり着こうが、歓迎されるはずはないと知ってはいたけれど、可乃子にはそこしか行くところが思いつかないのだった。


この古い電車は都会で使われていたのだろうか。

払い下げになったけれど、もう一度任務を仰せつかって、

こんな田舎道をごとごと走っているのかな。


色褪せた緑色の座席シートの毛足は擦り切れて、白くかさかさと乾いていた。


てらちゃんとは高校からいつもおんなじ電車に乗って一緒に帰ってた。

隣に座って窓の外を流れる街並みを見つめていた。

もう一緒に目の前を流れる風景を眺めてもあたしたち、何も感じないのかな。


 可乃子は無人の駅に降り立ち改札を出る前に時刻表を見上げた。

きっと母は帰れとは言わないだろうけれど、

自分が母の家にずっといられる自信もない。


じゃあどうして母のところに来てしまったんだろう?


あの頃とは違うのに。あの頃とは全部。

可乃子は思う。


母が都会での生活を捨てて、一人でこの集落へ移り住んだのは自分のせいだ。


可乃子は知っていた。


シングルマザーで自分を育てた母の願いは、

可乃子が大学まで行って就職をし、ごく普通の結婚をすることだった。

街の片隅の小さなアパートでの二人暮らし。

看護師をしていた母は生活費を稼ぐために

ほとんど家にいなかったように記憶している。

それでも母は要領よくいっさいの家事をこなしていた。

可乃子には勉強しろ、口を開けばそればかり言っていた。

だから可乃子は覚えている限り、自分が家事をしたという記憶はない。

母は可乃子に何ひとつ手伝わせようとはしなかった。

地区のトップ高校に合格した時可乃子が見た母の顔は、

これまで見たどんな顔よりも嬉しそうだった。


だから高校に入り可乃子がバンドをやりたいと告げた時、

母はいい顔をしなかった。

ただひたすらに勉強してほしかったのだと思う。

けれど母は折れた。

高二の夏からは受験勉強をするという約束で。


可乃子は本当はずっと歌を歌っていたかったけれど、母の言うことも聞いてやりたいと思った。


母はあまりに一生懸命で、弱音を吐かなかったから。


母に報われてほしいと。


母が報われるためには自分も愛情を返すことが必要なのだと。


可乃子は自分が妊娠を告げた時の母の失望した顔を今でも忘れることができない。


「同じ轍を踏むな」


初めて母が声を荒げて言った言葉だ。「幸せになってほしかったよ」と。


その時、可乃子は初めて母が自分の生き方を悔いていたと知った。


「幸せやで。あたしら愛し合ってるねん」

そんな可乃子の言葉に母は返した。

「その愛って、一体なに」と。


(そうやね、愛っていったいなんなんやろね。)


てらちゃんへの愛とか健士への愛とか、実際のところ、

今のあたしにはわかんないな。


午後の鈍行列車の車両は真昼の明るい光をため込んでいる。

ぬるくて心地いいそこには、もったいないことに人っ子ひとりいない。

ささくれだった心をもてあましている可乃子だけ、

不機嫌な顔のまま運ばれている。


一瞬吸い込まれるように母のことを考えていたけれど、


「いや、言わせてもらうわ」と言った信美の声に我に返る。


「これまで誰が健士の面倒見てきたと思ってんの?

てらちゃんなしでいったいだれがこれから健士の面倒みるっての?

他人の私ら?親のあんた?

どっちが正しいのかくらいあんたにだってわかるやろ」


「面倒見るって、この人、もう大人じゃないですか」


「この人ぉ?ずいぶん他人行儀やな」


正彦があきれたように言う。


「どっからどうみてもでかい。・・・大人ですよね」

「ちがーう!」

「なにが違うん」

「健士はまだ子供。父親をついこの間亡くしたばっかの子供なの。

身内があんたしかいないひとりぼっちの子供やねん」


信美の言い放った言葉に、可乃子はごくりと唾を飲み込んだ。


(浅野さんの言っていることは、正しい。

間違っている私が言うんやから、間違いない。

そんなこと本当はわかってる。馬鹿のあたしでもさ。)


黙り込んだ可乃子の前で、信美はカウンターにことんと小さな包みを置いた。

それがいったい何なのかいぶかしげに見つめる可乃子に


「これ、健士のお弁当」と言った。


「ねーちゃんが健士が中学の時から毎日ずっと作ってるあいつの弁当」

「明日から交代してもらってもいい?母親はあんたなんやし。

私ももう弁当作りには飽き飽きでさ」


信美はそう言って怒っているのに笑って見せた。


「な、健士もわかったな」

「え、いや、俺、この人と住むの?いきなり?

親って言われてもさ、なんかあれだわ」


「ほんま、なんかあれやわ、なぁ、いきなり親になれって言われてもな」


可乃子は困ったように首をかしげた。


「そいうとこ、なんか似てるわぁ。

やっぱし親子や」

と信美があきれたようにつぶやいた。



10.

共同生活というものを、これまで生きてきてほとんどしてこなかった可乃子は、だれかが同じ空間に暮らしているという感覚を受け入れられない。


しかもその同居人は若い男子である。


(てへへっ、若い男子たってあたし産んでんだけどね)

そんなふうにふざけて心で言ってみたが、一向に心は晴れない。


自分が本当に産んだのかさえも、

狂って外れて転がった過去なだけに可乃子には確証がもてないほどだ。


ただ一つ自分の本能的な部分で、

どうしても健士を男として見れないというのが、唯一の結果証明か。 


可乃子はコンビニまでの道をとぼとぼと歩いた。


バイトが終わったら不動産屋に行って、今日のうちに部屋を解約しよう。

そう思った。


(実際、家賃がなくなるんは、すごくうれしい。)


それは悩ましい事柄に混じって、わかりやすく得な部分だった。


(あの家に帰るんは嫌やし、

共同生活なんてどうすりゃいいのかわかんないけど、

月々の家賃支払いがなくなるんやったら

ちょっとくらい我慢のしがいもあるってもんちゃう?

まあ、一緒に住んでみてどうしてもだめやったら

そんとき考えたらいいんでない?)


可乃子はいつのまにか駆け出していた。

息を荒げながら、コンビニに飛び込むと、いつものようにキューちゃんののんきな笑い顔が見えた。


「キューちゃーん」

「なになに、どしたんですか」

「あたしの周りでいろんなことが起こってるねん。

ベルトコンベヤに乗っけられた荷物の気分」

「それってどんな気分なのか、なかなか理解不可能ですけど」


キューちゃんはいつもの冷静まじめな顔でそう言った。


「離れがたい~」

「誰とですか」

「キューちゃん、あんただよ」

「どしてどして?どういう意味?」

「あたしさ、ここのバイト辞めて、店やるんだよ。ご飯屋」

「ご飯屋?」

「そ」

「どうしても、って言われちゃってね」

「はあ」

「住むとこ三食付きなんで、手をうったってわけ」


正確に言えば全然そんなことないんだけど、

簡単に話せばそういうことにもなるんじゃね?

昔の古傷をあらためて披露するほど、悲しいかな、

キューちゃんとそこまで親しいわけでもない。


ここで関係を終わりにするのもちと惜しい気がする、

深めれば深まりそうな、友にしてありえる人のような気がする。

いままで三十二年生きてきて、

こんなふうに感じる人と出会えたことは一度もない。


されば、この関係ここで捨ててもよいのか。よいのかここで。


可乃子は迷うけれど、やっぱり踏み出せない。

自分から誰かの手を握りに行くというのは意外に難しいことなのだ。


「てことで、バイト、やめます」

「なんか、それって寂しいです」キューちゃんが唇をとがらせる。

「そう言ってくれると嬉しい、寂しい」


可乃子はそう言うと、逃げるようにバックルームに駆け込んだ。

少しだけ泣きそうになったから。



11.

朝だ。

可乃子はまるで旅行にでも来ているかのような気分で、新しい布団の中で目を開けた。

起き上がらずにそのまま瞳だけを動かして

あたりをうかがう。

視線の先には、古ぼけた黒いスーツケース

と小さなボストンバック。


(ああ、昨日、これだけ持ってここに

来たんだ)


バイトの帰りにハイツを解約して少しばかりの敷金を返金してもらうと、

可乃子はその足でこの古い家へ越してきたのだった。


家につくと、まっちんが玄関の前で

待っていてくれた。

可乃子の荷物を二階の和室へ上げると、

すぐに帰ってしまったけれど。


(どうしたって、

自分で何とかするしかないんや)


大きな歯車が突然かみ合って、

自分の人生が回り始めたような気がした。


きしんでひどい音をたてていようが、

回り始めたのだからもう止めることも

できない。


「はーあ」


可乃子は大きなため息をついた。


この低いところから這うように視線を

さまよわせたことは、初めてではない。


(私、ここに帰ってきちゃった)


記憶がよみがえってくる。


赤ん坊の健士がすやすやと寝息をたてていて、

その安らかな寝顔を見つめているとなぜなのかわからないのだけれど、

胸が熱くなって涙が出てきたこと。


健士のまるいおでこの向こうがわ、

車輪のついた黄色いプラスチックのトラック。


毎朝目が覚めるたびに、

昨日のことを反省して、

今日こそは、今日こそはうまくやろうと心で

こぶしをぎゅっと握っていた。


(こぶしを握ることなど、

もう長いことしていない。

決心することも、反省することも、

あれから生きてきて、

別になんもなかった)


たった一人は寂しいけれど気楽だ。

誰かとかかわらなければ、

悩みごとなど生まれない。


可乃子がまだ布団の中でぐずぐずと

していると、

狭い廊下がぎしぎしと鳴って、

健士が階下に降りていく音が聞こえてきた。


いつまでも寝ているわけにもいかない。


しばらくしてから、可乃子はいつものパジャマ代わりのジャージのままで、

ふらふらと階段を下りて行った。


一階の店を覗き込むと、コーヒーのいい匂いが鼻をくすぐった。


「てらちゃん」

可乃子は思わずそう呼んでから、

はっと口をつぐんだ。


カウンターの中にいるのは健士だった。


(てらちゃんのわけないやん。

あほや、あたし)


「お、おはよう」

可乃子が言っても、健士は何も答えない。

不愛想この上ないひょろ長い少年の前の椅子に可乃子は腰をおろした。


「コーヒーお願いします」

「は?」

「あたしのも入れてよ。飲んでたんやろ」

「あっつかまし。自分でやれや」

「なんやねん、けち」


健士はコーヒーを片手にぷいとカウンターから出ていく。

二階へ上がる階段がみしみしと音をたてた。


一人になった可乃子は「あつかましかったかなーはいはいすいませんよ。

あつかましくてごめんなさいよ」

そう言いながら、やかんに水を入れ始めた。

その時、入り口の鍵ががちゃがちゃ言う音がしてまっちんが顔をのぞかせた。


「おはよーさん」

「あーびっくりした。まっちんか」


可乃子はやかんをガスコンロの上にがちゃんと乱暴に置くと、そう言った。


「俺、合い鍵、持ってっから。あ、コーヒー?飲んでんの?」

「今からいれるとこ」

「俺のも」

「あー私にもお願いします」

そう声がしたかと思うと、続いて信美が滑り込むように店に入ってきた。


「どう、かのちゃん、新しい住まいは」

「どうってってもわかりませんよ、まだ」

「がんばってねぇ。

健士、今日から高校行くから」

「へ?」

「お弁当、いるから」

「お、お弁当ぉ?」

時計の針はもう八時を指している。


(見て見てあたしまだジャージ。

これからコーヒーゆっくり飲んで

それからそれから、ってとこよ、浅野さん)


うらめしそうな顔の可乃子にはおかまいなしに信美は続けた。


「せっかく高校もう一回行く気になったんやから、ちゃんと弁当くらい持たせてやんないと」

「む、無理無理無理」

可乃子は首をぶんぶんと振った。「コンビニあるでしょうが」

「コンビニ食を健士に食べさせようっての?」

信美が批判めいた声で反論した。

(コンビニめし反対勢力がここにもおったか)可乃子は苦々しく思う。


「コンビニ食はいまや優秀ですよ。

すごく素材にもこだわってるし、

無添加だし」

「そんなん弁当の基本やん。

当たり前のことやん」

信美は断言する。

「家めしがいちばん体にいいんやって」と。


可乃子は信美にそんなことを言われながら、三人分のコーヒーを入れた。

その香りをかいでいるうちにしだいに気持ちがしずまっていった。


「なんとかしますよ。そのうちに」

そうつぶやくとコーヒーをすすった。


「・・・そのうちね」



12.

まっちんが店先に立ち、仕事を始めると、信美は部屋の掃除にかかった。

自分の部屋、両親の部屋、まっちんの部屋と、順番に掃除機をかけていく。

その間にドラム式の洗濯機はまわり続け、バスタブにふきかけておいたクリーナーの泡が壁面をつたって垂れる。

今日も変わり映えしない一日だが、寺本家の洗濯物はなくなり、

健士の弁当作りもなくなった。

夕飯を届けに行くことも、これからはしないほうがいいのだろう。


信美はどこか寂しい気持ちと肩の力が抜けたような気持ちを同時に感じていた。


今朝、可乃子の淹れてくれたコーヒーはなかなか美味しかった。


あの子を連れてきたことはたぶん間違いではなかったのだろう。

てらちゃんのいなくなってしまったこの世界で、健士が産みの母親とふたたび暮らすことは正しい選択だと思う。


昔っから世話がやける子には違いなかったけれど、可乃子はけっして悪い人間ではない。


自分が深くかかわってきた彼ら。

寺本家の面々は今日も信美の頭の中を埋め尽くしている。


てらちゃんにおいてはもうその体は消えて、二度と顔を合わせて話すこともできないというのに、信美の心から離れることはない。


リビングに入ると、父親は新聞を読んでいて、母親はテレビを見ていた。

午前中まだ早いというのにゆったりとした時間が流れている。


「のぶちゃん、それ終わったらお茶しよう」母親が言う。


「はーい」そう答えて、今日のおやつはなんだろうと考えた。

あんこのおはぎが食べたかった。

おやつのことを考えると、脳の中枢が麻痺して、少しだけ寺本家の存在を薄めて行った。


信美が忙しく動き回るのを、母親は目で追っていた。


「のぶちゃんあんたもういくつなる?」


「えー?」リビングの向こう側。

廊下から信美の声が聞こえてくる。

どうやら母親の問いは聞こえなかったようだ。


「えーの。別になんもない」


そう言い返した母親の顔を新聞から目を上げた父親がちらりと見る。

そしてまた新聞に目を落とす。何事もなかったかのように。


廊下では信美がひとりごちていた。


「三十七」と。


自分は何も持ってはいない三十七歳。

ほしいものと言ったら、いままでずっとてらちゃんだったけれど、

それももう叶わない。

そう思ったとたん涙がこみあげてきた。


結局私は一人なんや。

健士をほんものの母親に返したら私にはいったいなにが残るというのだろう?この偽物の母親のふりした隣のお姉さんは、もうお役目ごめんなのだ。

邪魔したらだめ。邪魔したらあかん。

だけど私はこれからも生きて行かなくちゃならない。

本当にほしいもの、今から探しに行こう。

そうでもしなくちゃ、この涙はいつまでたってもひっこまない。


13.

(なんであんな見知らん女と一緒に暮らすことになったんか

わけがわからん。)


健士は久しぶりに登校した高校の教室で、コンビニの紅鮭おにぎりをほおばっていた。

親父が死んでからコンビニ食をよく口にするようになったが、

おにぎりはとにかくうまい。

米から、包んである具から、素材は吟味されているし、握る力加減も絶妙で、口に入れたときに柔らかくほどける。

飯粒がたっている。

海苔はぱりぱりで香ばしい。


(うまいよなぁ、コンビニ飯も。

まあ、浅野さんの弁当にはかなわないけど)


「お前、どうしてたん、ずっと学校休んでよ」


父親の訃報を知ってはいるが、それにしては

健士の休みが長かったので

連れの康孝は怪訝そうだ。


「どうもこうも、別になんも」

健士は今の状況をいちいち話すのも

面倒なので、それだけ言って口をつぐんだ。


「キヨラが毎日クラスに来て、

バンドの練習せんとあかんてうるさかったぞ」

「ふーん」


康孝の言葉に適当に返事をしていると、

そのキヨラが教室に入ってきた。

校則では一応禁じられているのではなかったか。

キヨラの色の抜けたふわふわパーマは

ヘアバンドでがっちりまとめられている。

綺麗な広い額に凛々しく波打つ眉は

ゲジッっていて、いまだ整えられることを

知らない。


「おめ、やっと来たか、けんしぃぃ」

健士の首にからまりつくように長い腕を回してきた。


キヨラは、健士がギター、康孝がベースのスリーピースバンドのドラム兼ボーカルだ。


いつも練習、練習と健士を追い回すけれど、

ものすごく飽きっぽい。


一曲一曲を大事にするということはなく、

出来上がった途端飽きてしまう。


せっかく健士が歌を書いても、込められた情感を知ろうともしない。

詩を味わおうとしないのだ。


自分の中からほとばしり出た感情が

無下に捨て去られるのを何度見たことだろう。


健士はキヨラとバンドを組んだことを今では

後悔すらしていた。


ただ歌がそこそこうまいだけでは、

真のボーカリストとは言えないと思う。

歌はただ声を出せば歌えるというものではないだろう?


健士は自分の歌を昇華させてくれるボーカルを求めていた。


いつか解散してやる!

と憤る日もないことはないが、

自分たちはどうせ田舎の高校生バンドだし、

別に高みに上ろうとも思ってはいないじゃないか、とあきらめ半分でもある。


三人で演奏するのはものすごく楽しいし、

まあそれはそれでいいんじゃないかと思う日が大半だといっていい。


(でもさもうちょっと俺の気持ちわかってくれへんかなあ、お前のこと大好きやねんけど)

キヨラの顔をじっと見つめると、

キヨラが「なんね?」とすっからかんの笑顔で笑った。


その顔を見たらなんだかどうでもよくなって、

健士もふにゃけて「別に」と返すのだった。


 放課後の練習を断って、健士は家に帰ることにした。

康孝は用があると言って、電車で反対方向に

乗って行ってしまった。

仕方がないので気乗りはしなかったが、

なんとなくキヨラと一緒に電車に揺られていた。


キヨラはさっきまで練習しようぜとしつこく

言っていたが、

それがどうしても叶わないとわかると、

今度は暇だから健士の家に一緒に行くと

言い始めた。


能天気なキヨラの顔を見ていると、

断るのも面倒になり、

そのままついてくるのに任せて、

健士は家への道を歩いていた。


家に帰ればまたあの見知らぬ女がいるのだろう。


いつまでも背を向けていては歩み寄れないが、

はたして歩み寄らなくてはならないのだろうか。

ま、親子だからな、と思ってはみるが、

この状況はなかば強制だ。

自分の本物の母親であると浅野兄弟が言うのだからそれは真実には違いないのだろうが。


あの女を見た時、不思議なことに恨みがましい気持ちは湧いてはこなかった。

ずっと昔にいつのまにか失くして、

そのまま忘れてしまった玩具が見つかったのに似ている。

何を聞いても「ふうん、そっか」

と思うだけで、

いつかの過去にこの母の手に触れていたのだろうかと、微かな感情がぽっと浮かんでは

すぐ消えた。


この感情は愛情に飢えていなかったからこそのものだ。

健士は思う。

(自分にはじいちゃんもばあちゃんもいた。

父さんもいてくれた。

なによりも信美がそばにいてくれた。

不安になって振り向けばいつも信美は笑って

くれたし、泣いたら涙をふいてくれた。

自分は信美の飯で腹を満たして育った。)


(今日は浅野さんの弁当、なかった、よな。

毎朝、きっちりカウンターの上にあったのに。

新しい母ちゃんが来たからか?

もうないのか?あのうまい弁当、

もう、食えないのか)


そんなことを考えながら、無言で店の引き戸を引くと、健士は中に入っていった。


「お料理 てらもと、ってお前んち

すっげーんだな」

キヨラのはしゃいだ声が背中で聞こえていた。

「あ、おかえり」

可乃子は顔を上げて無表情でそれだけ言った。額には汗がにじんでいる。


(お前のせいでうまい弁当、なくなった)


健士は可乃子の存在を腹立たしく感じる。

(飯の恨み・・)

「この、生、ビール、ってさ、すごい、

重いんやな」

健士がカウンターの中をのぞくと、

可乃子が生ビールの樽をディスペンサーに

つなごうと両手で持ち上げていた。


「セットの、仕方も、あんま、わからへん」

息も絶え絶え訴える。


「貸して」

健士はカバンをカウンターに置くと、

可乃子の手から樽を取り上げた。


「やっぱ力あるわ。高校男子」

可乃子はへへへと笑いながら、

頬に垂れたおくれ毛をなでつけた。


「だれ、この人、お前の彼女ぉ?」

そのしぐさに反応したキヨラが、ふざけた様子で言うと、


「なわけないやろ、こんなオバン」


と健士が思わずそう言った。


「オバンて、そりゃ悪かったな」


可乃子は別段気分を害した風でもなく


「生きてりゃ一年一年年取るわ。あんたらだっていつのまにかオジンじゃ。

ざまーみらせ」


と言った。


健士はそんな可乃子を完全無視で、

そのまま厨房に入っていったが、

その後ろからひょこひょこついてきた可乃子に向かって口を開いた。


「なんか作ってたんか」

「あー、うーん、なに作ったらええかわからんな、実際」


可乃子は首を傾げた。

健士はテーブルの上に放り出された、

落書きのようなお品書きをつまみあげた。


「枝豆、ピーナツ、チャンジャ、金山寺みそのっけきゅうり、クリームチーズのせリッツ、

なんこれ?これ料理ちゃうやんけ、

切っただけ、乗せただけ。

それにこのお品書き、なに。字汚ねぇし、

嘘くせぇな!」


「そういうの、よく居酒屋さんとかで出てくるやんか、今日のおすすめ!みたいなん」


「それとは全然ちゃうで」


「ほーか?」

「ぜんっぜん、ちゃう」


「でも今日から店開けろってまっちんに言われたから、とりあえず、な」


「とりあえずって、

こんなんじゃ店できへんやろ」


健士はそう言いながら「お料理 てらもと」の行く末にとてつもない不安を感じた。


こいつのせいで親父の店に傷がつく。

親父が一生懸命やってた大事な店やのに。


「大変ですよねぇ」


いつのまにか厨房へ入ってきたキヨラが言う。


「君、健士の友達なん?」

そのキヨラに可乃子が話しかけた。 


「俺らバンドやってんすよ、いっしょに」

「へぇ。てらちゃんといっしょやん。

健士もバンドやってたんや」

「親父のことはいいっす、それから呼び捨て、やめてもらっていいすか」


健士は不安を振り払うように冷たく言い放った。


(でも親父、悪いけどやっぱり俺は店のことなんか知らんぞ。

こいつがどうなろうと知らんぞ。

絶対一緒になんかやらんからな)


(けどけど、親父の店が汚名・・・

あーもう。くそっ)


いろんな感情が心でせめぎあって苦しい。


その時、気まずい空気を蹴散らすように、

甲高い声でキヨラが言った。


「健士の親父もバンドやってたんすか?

こいつ、すごいんすよ、ギターもばりばりうまいし、曲も書けるし、詩だってエモーい]


「そうなんやー」可乃子はもう店のことはほったらかしで、

だらりとカウンターに腰を下ろしている。

開店までもう時間がないというのにいったいどうするつもりなのか。


「うるさいぞキヨラ、お前、もう帰れ」

健士はいらっとしてキヨラに言葉をぶつけた。


「飯食わしてけろ、おなか、すきました」


でもそんなことはおかまいなし。

キヨラはふざけてそう言うと

ぴょんと一回とび跳ねた。


14.

健士は、目にかかるほど伸びた前髪を鬱陶しそうにかきあげた。

駅までの道。

となりでは可乃子に作ってもらったオムライスを平らげたキヨラが

満足そうな顔をして歩いている。


「うまかったわぁ。最高。可乃子さんのオムライス。」


たしかに可乃子のオムライスはうまかった。

しかし健士はキヨラの言葉にはなにも返さず、

片耳のオニキスのピアスに手をやると、しばらくそれを撫でていた。


それから学ランの前ボタンを乱暴に開け放つと、深くため息をついた。


「これからあの人と暮らすんか?」

「まーな」

「お前の母ちゃんか」

「そうらしい」

「あの人が店、やんの?」


キヨラがじっと健士の目を見つめた。

いつもふざけてばかりだけれど、キヨラは時々まじめになる。

相手の身内の話はちゃかさない。そう決めているみたいだ。


「俺の親父死んじまったやろ。俺はまだ未成年やから、しかたないんやって」


そんなキヨラといると、素直になれる時がある。

それを知っているから、うるさがりながらも一緒にいるのかもしれない。

この男は不思議な男なのだ。


ぶらぶらと歩きながら、健士はアーケードの中に連なる小さな商店を眺めた。

各店の明かりは落ちていたが、両脇の背の高い街灯が

等間隔に並んで光を放っているおかげで、

健士の行く手はどこまでも明るかった。


本当は、健士はその明るさから逃れて、

暗いほうへ暗いほうへと行きたかった。


それをキヨラというビカビカした明るい光が引き留めているような気がした。


見慣れたはずの灰色のシャッターがどれしも黒ずんで見え、

まるで父の死を悼んでいるように思えたとしても、その夜、

健士の足はキヨラとともに明るさの中を進んでいた。


通夜の夜とはちがう。


家に帰りたくなくて、商店街を歩き回っていたあの夜とは。


健士はもう一人ではなかった。


父が亡くなってしばらくの間、店にはひっきりなしに弔問客が訪れた。

健士はいつも父がいたカウンターの中に座り、

弔問客が入ってくるたびに立ち上がり、

ひょろりと伸びた長身を折り曲げるように頭を下げた。

訪れるどの顔も健士のよく知った顔だった。

男手ひとつで子を育てようとする父に、

そして幼い自分に手を差し伸べてくれた人々だった。

彼らの瞳には悲しみとそれ以上に大きい戸惑いが浮かんでいた。


(俺は親父とずっと二人でやってきた。

これからだってずっと二人でやっていくつもりだった。

俺が一番不安にならんとあかんのに、なんでおじちゃん、おばちゃん、

あんたらがそんな顔するんや。

これってマジ?現実?俺、実感ぜんぜんないけど)


健士は心の中でそうつぶやいていたけれど、平気なふりを続けていた。

ただでさえ不安になっている大人たちにこれ以上心配をかけたくなかった。


健士は誰に言われたわけでもないが、

めったに着ることもなかった学ランを出してきた。

スカルやアルファベットが殴り書きされた、

ちゃらちゃらした黒い服ならいくらでも持っているのに、

まともなのはこの学ランしか思いつかなかった。

いつも好きで身につけていたものは、

ぜんぶ親父の死には不釣り合いな気がした。


だって安っぽいし、プリントされた英単語は日本語に訳すとふざけた文言だ。


たぶん親父は嫌いだ。学ランのほうが喜ぶ。


「お悔やみを」


その言葉を受けるたびに、いったいどんな顔をしていればいいのか、

健士は困惑気味に金髪の頭を少し下げるのだった。


健士はとても無口で、排他的に見える。

でもほんとうは違う。

商店街の人間は、健士がそんな外見とはうらはらに

話しかけると人懐っこい笑顔を返してくると知っていた。


学校には毎日ちゃんと通ってはいなかった。


まじめだとは口が裂けても言えなかったが、

健士は根っからのワルではないと、

商店街の人間はみんなわかっていた。


みんな健士のことを信じていたのだ。


自分たちが一緒になって育てた子供だからというのがその理由だった。


角の肉屋のコロッケ、焼き鳥屋の甘辛レバー煮、鮮魚店のお刺身、

お好み焼き屋の牛モダン。

八百屋のトマトだって、健士の血となり肉となり、彼を作ってきた。


健士は商店街みんなの子供だった。


そして今その健士の成長に追いついていないのは

大人たちのほうだったのかもしれない。

いつのまにか背を伸ばし分厚い肩をした健士は、

十七歳にしては大人びて見えた。


大人たちが自分の心の中ではいつまでも子供だと思っていた健士が、

久しぶりに間近で見ると大人のようになっていた。


そのせいで、彼らは健士がひとり立ちするには十分だと

錯覚したのかもしれない。


錯覚することで、まるごとの健士を引き受けてやれない

自分たちのふがいなさから逃れようとしていたのかもしれない。


善意だけだ。


善意ならいくらでも差し出せた。


商店街みんなの子供。


でも自分の子供じゃない。

自分ちの子供じゃない。それがどういうことかわかるだろうか。

人間ひとりの生活を引き受けるとなると、話は別だった。


できない。してやれない。


誰しも苦しかった。町はずれの小さな商店街だ。

どの家にも余裕などなかった。


 健士はキヨラと駅で別れて、しばらく駅前の本屋で立ち読みをしていた。

単なる時間つぶしだった。


(店、開けたんかな。)

健士は本当は気になっていた。


(あいつ一人で大丈夫なんかな。生ビールをつぐことすらできへん。)


健士は単行本の新刊を手に取り、ぱらぱらとめくった。

が、しかし心はそこにあらず、ただ字面を追いかけている自分がいた。


(あいつ店なんてやんの初めてやのに。

あー気になる。ほんま、いやになるわ)


健士は単行本をぽそっと元の棚に戻した。

本屋を出て、歩き出したその後の健士の足取りは軽かった。

店に戻ることを決めたからだ。


普通に歩いていたのがそのうちに小走りになり、

はてはスピードを上げて駆けていた。


健士が息せき切って店の引き戸を引き、中にとびこむと

「いらっしゃいませ」

と明るい声が耳に飛び込んできた。

カウンターの中には髪を後ろで一つにまとめ、割烹着を着ている可乃子の姿。

カウンター席には、まっちんが一人座って生ビールを飲んでいた。

そのほかには客は誰もいなかった。


「お、健士、手伝いに戻ってきてくれたんか」

「そんなんちゃう」


そう言いながら健士はまっちんの隣に腰を下ろした。

可乃子が目の前に出してくれたお冷を飲み干すと、ごほごほとむせた。


まだ息が乱れているのが、どうしようもなく恥ずかしかった。


「客、誰もおらんな」


その健士の言葉に、可乃子が答えた。


「さっきお客さん来てくれたんやけど、きっとてらちゃんの常連さんやわ。

私のこと、わかったみたいで」

まっちんが可乃子の話に頷いている。

「あんた可乃子さん違うんかって聞かれて、そうですって言ったら、

なんか急に機嫌悪くなって」

「ちょうどその時、俺が来てよかったわ」

「でもまっちん、あんなんあかんで。お客さんに怒ったらあかん」

「けど、あんな言い方は許せんで」

「どんな言い方されたん?」健士はじっと可乃子の顔を見つめた。

「てらちゃんと子供捨てて逃げ出したあのアホ女かって言われたねん。

ほんまのことやけど、やっぱこれはグサッと来たわぁ」


可乃子は心臓に槍でも刺さったかのようなリアクションで、

へらへらと笑ってみせたが、目が全然笑っていなかった。


「そしたら、まっちんが怒ってなぁ、出ていけーって。

客にやで、そんなん言うぅ?」


健士はため息をついた。しょっぱなからこんな調子では、商売にならない。

そんな可乃子と健士の顔を交互に眺めていたまっちんは

「でも、健士、帰ってきてくれたな」と嬉しそうに言った。


「俺なんておってもどうしようもない」

「なんでやねん、お前がおったら、お客さん来てくれるやろ。

商店街のみんな、お前のこと可愛くてしかたないねん。

だからお前が頑張ってたら、みんな助けてくれる。

可乃子のことも、そのうちだんだんに受け入れてくれると思う」

「いばらの道ちゃう?」

可乃子はそう言ったが、今度はその目は柔らかく垂れていた。

どこか嬉しそうに見えた。


それでも健士はそれが気に入らない。


「背負わせんなよ」


そう言い捨てると乱暴にカバンを取り上げ、二階へ駆け上がった。

可乃子のことが憎いとまで思えない、

この距離の遠さがしゃくだった。

もっと幼いころの記憶があれば、母の記憶が残っていれば、

恋しいだけ憎いのかもしれないと思うと、赤の他人のように感じて嫌だった。


「あーあ。怒っちゃったよ」

可乃子はそう言ったが、楽しそうにクスクスと笑った。


はなからとっくにあきらめているような目をして、目の前のグラスを傾けた。


「お前、そういえば飲めへんかったな。」

「へへ。カルピス。ずっとこればっか。」

可乃子はまたおいしそうに一口カルピスを飲むと

「あれ、それ何?」

それからすぐに可乃子はまっちんの前に置かれていたちらしに目を落として訊ねた。

「ああー、これ?これかぁ」

まっちんから渡されたちらしには、商店街スタア誕生の文字。

「スタアってのはスターのことかね・・・」

「そ。お前も知ってるやろ。昔からあったやん。このコンテスト、俺ら出てて」

「あーあー、あったな。まっちんとてらちゃんのバンド、ここらでは有名やったもんな!ファンとかいっぱいおったもん」

「あれからもずっと二年に一回やってるねんで。商店街バンドコンテスト」

「へえ。ずっと出てたん?」

「うん」


15.

「てらちゃんも、出てたん・・・」

「出てた」

まっちんはそこで生ビールを一口飲んだ。「でも、もうあいつ、おらんからな」

可乃子はまっちんのくすぶりを一掃するようにあっけらかんと言った。

「そんなら健士とやったら?ギターやっとるって言ってたで」

「そういう問題ちゃうねん。てらちゃんじゃないと、あかんねん」

「なんで?てらちゃんのこと思い出すから、あかんの?」

可乃子の凝視に耐えられず、ぐっちんはまたビールをぐびり。


「ん。あかん。」


可乃子はまっちんの泣きそうな顔を見て、それ以上は何も言わなかった。


15.

(ぎっちりぎちぎち。

力加減がわからん。)

朝六時に起きた可乃子は、

こぶし大の飯粒をぎゅうぎゅうと力いっぱい握っていた。

おにぎりの中身はカウンターに置いてあった年代物の梅干しだ。


「のーりーのりのりのり、どこですかいな、海苔」

と歌うように言いながら、カウンターの台下冷蔵庫を覗き込む。


「あっかんなぁ、海苔、ない。おにぎりは梅干しと海苔が一番っしょ」


(それからあとはなに入れるんやっけ、卵焼きか。

あーもうめんどいな。それから、肉、か?

この豚肉、焼肉のたれで炒めたらえっか)


慣れない台所ほど使いにくいものはない。

なにせここに来てまだ日が浅い。

店でなにかしら料理を出さなくてはならないせいで、

厨房に立っている時間こそ長かったが、

文句を言いたいところはたくさんある。

すべてあてがいぶちで、当然のことながら可乃子の意向は反映されていない。

業務用のバカでかいガスコンロは炎が大きすぎる。

フライパンのかわりには、手首にきつい重い中華鍋。


自分が料理が嫌いかどうかすらわからない。

しかし生きていくためにこの店を営業しなくてはならないのだ。

可乃子は毎日毎日動画サイトにくぎ付けで、店の開店までの何時間も

試作を繰り返しているのだった。

ここへきて自分が自分でないように感じる。

あの、なにもかも別にどうでもよかった自分はどこへいったのか。

この懸命さはいったいどこからやってくるのだろう。


自分で自分が不思議だった。


(自分の好きなものしか作りたくないのに)


可乃子はひとりごちながら冷蔵庫の中を探る。


「にんにくとか、しょうがとか、ネギとか、なんかそういうん、

ほんま、ぜんっぜんないな」


深いため息とともに扉をばたんと閉めた。


(ハイクオリティ求められてへん。

ええって、適当で)


そう思いなおすと、豚肉を炒め始める。

ジュージューと香ばしい香りがたつ。

油が中華鍋の中でこってりぎらつき

煙にかわる。

「たらりーん」


可乃子はそう言いながら焼き肉のたれ中辛を鍋にそそぐ。


たれが煮詰まって少し焦げると、

もっと香ばしい香りがたった。


「んふーん。いい匂いじゃ」


可乃子は満足げに鼻を広げると

ひとりごちる。

大皿に肉を山盛りに移すと、

ほっと息をついた。


それにしても、

信美はどうしているのだろう。


まっちんと違ってまったく顔を見せない。

あの朝のコーヒーが最後だ。


自分に遠慮しているのか。

可乃子はそう思うが、かといって自分が悪いとは思わない。


(だって勝手にここに連れてこられたようなもんやし、あたしの意志は最初っから

超無視やん。

しっかし、こーへんかったらそれはそれで

気になるわ。

まっちんに後で聞いてみよ)


弁当箱におにぎり二個と卵焼き、豚焼き肉を入れると、可乃子はそれを見下ろした。


「ちゃいろぉ」


そうつぶやいたが

「ま、えっか」と蓋をする。


カウンターの端っこの引き出しから

ランチクロスらしきものを引っ張り出すと、

割りばしと一緒にくるりと巻いた。


その時、二階から足音がして健士が

下りてきた。


「おはよ」可乃子は声をかけたが、

うんともすんともつかない息のような返事が返ってくる。

もうTシャツの上に学ランを羽織っている。

ちらりと可乃子の方を見ると、無言で店から出て行こうとする。


「もう行くん?」

「ん」

「あの、これ、はい。」


可乃子は包んだばかりの弁当をもって小走りで健士に駆け寄った。


「ほら」健士の手に押し付ける。


すぐにくびすを返すと首をコリコリと

ならしながら裏の階段を昇って行った。


とりあえず朝のお役目は終わったと思った。


16.

健士は今日もコンビニの鮭おにぎりをほおばっていた。

可乃子から朝渡された弁当は店のカウンターに置いてきた。

得体のしれないもののようでなんだか食べる気がしない。

この状況下、赤の他人同然の人間が作った

手作り弁当は店で買う赤の他人弁当とは

わけが違う。


工場で機械が握った飯粒のほうが

まだ気持ちがいい。


(母親づらすんなよな。

そういうのマジいらん)


健士はキヨラが購買部で買ってきたソーセージドッグを乱暴に掴むとほおばった。


「もう、健士ちゃんたら仕方ないわね、

あげるわよぉ」


と隣のキヨラがなよっと言った。


その頃、可乃子は一人、店のカウンターで

自分の作った弁当を広げていた。


二階に上がってひと眠りして、階下に降りてきたら、弁当がぽつんとカウンターに

置き去りにされていたのだ。


(おい、あたし、ショックかい?

いや、別にえっかな。

昼ごはん、できたし)


自分で自分に問いかける。

もちろん返事をするのも自分。


弁当の蓋を開けて、食べ始める。


そして、冷めて油の固まった豚の焼き肉を

食べたあたりからむかっ腹が立ってきた。


(早起きして、わざわざ作ったってんのに。

なんやあいつむかつくな)


おにぎりをぱくつきながら、

口をへの字に曲げている。


そこへがらりと店の引き戸が開き、「こんちはー」とまっちんの声。


「お、昼飯食ってんの?」


弁当箱をのぞきこんでそう言う。


「健士がおいてった弁当食べてんねん。

まじむかつく」


まっちんは腹を立てている可乃子の顔を

面白そうに眺めている。


「なに?おもしろがってんの?」

「別にぃ」


勝手知ったる様子でまっちんはカウンター内に入ると皿に入れてある豚焼き肉の残りを指さして言った。「これ、食っていい?」


「別にいいよ。」

「俺な、弁当作った後ちょっと残ってんの、

つまみぐいすんの昔から好きやってんなぁ」


「まっちんのお母さん、料理上手やった?」


「そりゃ、うまかったで。

弁当、いっつも白飯と焼き肉のたれで炒めた肉やったけど。

俺はそれがいっちゃんうまいと思ってた。」


まっちんは一口つまんで口に入れると

嬉しそうに歓声をあげた。


「おー!!!こりゃおかんのとおんなじ味や。なっつかし!」


それは焼き肉のタレが同じメーカーの

ものだからやろ、

と可乃子は突っ込みたくなったが


「ごはんもあるで、そこの炊飯器」

とぶっきらぼうに言った。


「サンキュサンキュ」


まっちんはどんぶりにご飯をよそうと、

その上に豚焼き肉をかけてほおばった。

とても満足そうなその顔を見ているうちに、

可乃子の怒りも潮が引くように消えて行った。


「昔な、おってん。男子の友達で彼女の作ったおにぎり、気持ち悪くて絶対食べられへんって言ってた子」


「ふむ」


まっちんは口の中がいっぱいなので頷くことしかできない。


「今時、おにぎりは素手で握らんやろって

言ったけど、そういうことなんやな」


「どいうこと?一人完結かよ」


「だから、お弁当とか家庭料理ってさ、

近しい人が作るから食べられるっていうか。

親しさのバロメーター?みたいやなって」


「ふむふむ」


「おかんの味って、みんなそれぞれあるやん。

大人になってもずっと記憶に残ってる味」


「ある」


まっちんがまたがぶりと大口で焼き肉を食らった。


「だから、健士はあたしの弁当を食べられへんねん」


「うむうむ」 


「あたし、今日は健士のこと怒らへん。」


「うーむ」


まっちんはさっきからずっと口の中がいっぱいで、発する音はかわり映えしない。


「明日も早起きして弁当作るわ。毎日毎日作ったる。待ってろ、健士!」


可乃子は空っぽの弁当箱の前でガッツポーズを作ってみせた。

そんな可乃子の顔を見て、

にへらと笑うまっちん。


「なによ」

「いや、結構やる気あるなと思って。」

「何のやる気や?」

「健士と家族になるっての?その、なんだ、

コミュニケーション?」


「だって一緒に暮らしてんだし」

可乃子は口をとがらせた。


「ちょっとくらいは・・・」


まっちんはにやにや笑いが止まらない。

可乃子は本当はすごくまじめなのだ。

高校の時から。

まっちんはそれを知っていた。


そして、子供を産んだ時どっかがバグって、

本当の可乃子が壊れてしまったのだと

今は思っている。


「ところで」

可乃子は言った。


まっちんは皿の豚焼き肉を平らげて、

満足げに麦茶を飲み干したところ。


「浅野さんはどうしてる?」

「姉ちゃん?婚活してるで」

「婚活・・・」


可乃子は信美の顔を思い浮かべる。

その顔に婚活という文字がどうも

しっくりこない。

思えば信美と出会ったのは十六の時だから、

付き合いは長い。


(長いと言ってもここ十年は音信不通だったのだが。)


可乃子がてらちゃんと結婚してこのうちで暮らすようになってからも信美はずっと近くにいてうっとおしいくらい手を差し伸べてきた。


十年前、可乃子が二十二歳で、信美は二十七。


その頃は信美の両親はまだ若かったし、

彼女はたしか会社勤めをしていたと

記憶している。

所帯じみた自分と対照的に、

いつもきれいな服を着て、新しい靴のかかとを鳴らしていた。

彼女はたっぷりと化粧に時間をかけ、

鏡の中の自分を見つめることができたのだろう。

いつも美しかった。

でも、そんな綺麗でたよりになる信美が

どんなにてらちゃんの助けになろうとも、

てらちゃんは信美のことを好きになることなんてないという確信が可乃子にはあった。


可乃子がダメ人間でも、

健士が信美になつこうとも、

自分と健士とてらちゃんの三人だけが「家族」というひとくくりで、

その中に信美は入れてもらえない。


どんなに信美が関わろうとも結局は他人。


てらちゃんも健士も最後の最後には

きっと自分のことを選ぶ。


今考えると何の根拠もない自信だし、

何の根拠もないだけあって、

やっぱりその「家族」ってもんはあっけなく

崩れた。

壊したのは可乃子自身だったのだけれど。


てらちゃんも結局は浅野さんを受け入れた。


ちゃんとしていて、いつもそばにいてくれて、頼りになる浅野さんを。



「婚活って」

可乃子は息を吐きだすように言った。

「そんなんで浅野さん、

てらちゃんのことふっきれんの」


「お前が言うなよ」


まっちんは少し不機嫌になる。


「姉貴の気持ちなんてお前にわかるかよ」

「死んじゃったからって、ほかの人でいいってわけじゃないやん」

「ほんまお前ってうぜぇ。何様じゃ」


まっちんは椅子を蹴って立ち上がると

可乃子に背中を向けた。


「怒った?」その背中に可乃子は問いかける。「なぁ、まっちん」

「怒ってねーし」


そう言ったくせに、まっちんはそのまま振り向かずに出て行ってしまった。


いつのまにか夕刻。

可乃子は今日も一人、店を開ける準備にかかる。

お客さんなんて来るかもわからない。

可乃子が戻ってきた噂を聞きつけて、

商店街のみんなでしかとを決め込むつもりかもしれない。

けど、可乃子のことをまったく知らないお客さんが入ってきてくれるかもしれない。


そっちの確率の方がかなり高いと可乃子は

楽天的に考える。


そういうところが可乃子の生きる才能だ。


くよくよしたってはじまらないやん!


カウンターの上ではさっき浅野商店から仕入れたばかりのバジルの葉がつやつやと濃い緑の葉を香らせている。


冷蔵庫の中にはアメーラトマトとモッツアレラチーズ。


浅野商店のおかげで、この店はいつもいつでも新鮮な食材を手に入れることができる。


ありがたかったろうね。

てらちゃん。


今になって、てらちゃんの大切だったことが、少し見えるような気がした。


料理か。


可乃子はこれが自分がのぞんだ未来ではないにしても、

自分がベルトコンベアに乗せられた荷物だとしても、

どこかそこはかとなく明るいほうへ運ばれているような気がしていた。


可乃子はそれが自分の生きる才能だとは気が付いていない。

そう思えること自体が才能なのだとは、少しも思いつかない。



その頃健士は駅前の本屋で立ち読みを

続けていた。

(また今日も帰るのが嫌や)

嫌な理由は、あれだ。そう。

今朝置き去りにした弁当だ。


階段を上っていく可乃子のぼさぼさ頭が思い出された。


(たぶんあいつ、めちゃ早起きしたはず)


何の相談もなく勝手に同居してきた、俺は了解していない、

というのが健士の言い分であったのだが、

可乃子のことが気になってしようがない。


思い出がないせいで、憎むところまでいかない希薄な関係のうえに、

一か月一緒に暮らしても可乃子の不思議さは解消できない。

いつもひょうひょうとしていて、言いたいことはなんでも言う。

気遣いなどどこ吹く風だ。

直球ストレート。

よくあんなの大人の世界で生きていけたなと、

健士にでもその生きにくさがみえるようだ。


そりゃあの冷静沈着な父さんとうまくいかないわけだ。


あいつ、今日弁当のこと、絶対文句言ってくるだろな。


「とりあえず帰ろ」

健士は本屋を出ると、駅の広い構内を人ごみをぬって進んでいった。

その時、視線の先にスマホを熱心に覗き込んでいる信美の姿を見つけた。


(あ、浅野さんやん、なにしてん?一緒に帰ろか)


信美は白い光沢のあるブラウスにレンガ色のフレアスカートを履いていた。

遠目からも綺麗に化粧をしていることがわかった。

健士は見えない壁を突き抜けて彼女に近づくことができずに立ち止まった。

あきらかに、あれは自分の知っている浅野さんではない。

戸惑う健士の前で、信美がスマホから顔を上げた。

だれかを見つけたようだ。

笑顔で数回頭を下げながら、一人の男に近づいていく。


(誰や、あの男)


健士はそのまま突っ立って信美のことを見つめていたが、

そのうちのろのろと歩き出した。


(ま、浅野さんがなにしようと俺には関係ないっちゃ)



17.

健士が店にもどると、その日も客は一人もいなかった。

「え?え?え?ノーゲスト?」

可乃子が頷く。

健士は怒られること想定の上で戻ってきたのだが、

弁当のことは忘れ去られたように話題に上らない。

弁当箱は流しの端に綺麗に洗われて伏せてあるのだが、可乃子はそれに目もくれない。

言われなきゃ言われないで、

可乃子がどう思ったのか知りたくなる。

まったく俺ってやつは厄介な性格だ。

下手につつくと藪蛇が出るってのに。


「これさ、見てよ」

可乃子が冷蔵庫からバットを出してくる。「仕入れたのに、魚」

その魚は驚くほど肉厚で大きい。

あまり目にしない丸ごとの魚。

なかなかの迫力だ。


「それって刺身にするつもりだったとか?」

「そ。まるごと一匹で仕入れた。

結構高かった。やばいよ」

「魚、さばけんの?」

「いや、できへん。」

「じゃなんで丸ごと買ったん?」

「いや、ん、ネットで動画見たらできるかなとか思たりして」

「そんな簡単ちゃうやろ。甘いな」


しだいに可乃子はしゅんとして小声で

「なー」とつぶやいた。


それから「ちょっとこれ、見てや」と、

そろそろと貯金通帳を出してきた。


「親父のやん」 

「使ってないで、私は預かってるだけやねんから。誓って、使ってへん。

っと生活費以外は」


「ふん。そか」健士は通帳を覗き込んだ。


「どんどん減ってきてるやろ。」

可乃子は細い人指し指で一段一段なぞっていく。


「毎日生きてるだけで、

ちょっとずつちょっとずつ

お金は減っていく」


大きく目を見開いて、

健士に言い聞かせるように言う。


その瞳に飲み込まれるように、健士は頷く。


一瞬「母さん」という言葉が脳裏に浮かんですぐ消えた。


それから「ちょっとずつちょっとずつ、

減っていく」と、

暗示にかけられたようにそう繰り返した。


「だから、入ってこんと出ていくばかりだということは、いつかなくなってしまうということなんですぅ」


ふざけたようににかっと笑った可乃子の笑顔はすぐにゆがむ。


「困った困った」

「俺、バイトしよか」

「あほか。バイトするならこの店で働け」

「だってここで二人でのたれ死ぬより、

俺は別のとこで稼いだほうが効率的やろ」

「あんた、わかってる?ここはてらちゃんの店やねんで」

「それがどうしたん」

「てらちゃんが、毎日一生懸命料理して、

守ってきた店やねんで」

「お前が言うな」

「へ?」

「親父が一生懸命やってきたとかお前が言うなや。お前は出て言ったくせに」


健士は冷たく言った。

この時はっきりと可乃子のことが嫌いだと

思った。


「お前はなんにも知らんやろ。

俺らがどうやって生きてきたか

何にも知らんやろ」


健士は吐き捨てた。今まで全然平気だったのに、どうしてなのか可乃子を痛めつけてやりたいと思った。

言葉の棒をふるって可乃子の心を折ってやりたいと。


脳裏にさっきの浅野さんの愛想笑いの張り付いた顔がよぎった。


(親父が生きてれば、俺ら変わることなんてなんもなかった。

浅野さんだって、変わらずに生きていくことができた。

なのにお前が来たから、浅野さんの居場所はなくなった。

浅野さんは今、自分に大嘘ついてるんや)


「しゃーないやん、いまさら」

「なんやねん、ひらきなおんなよ、

むかつくな」


「どんなに言われたところで、どうしたって取り返せへん。

あんたがあたしの弁当食べへんとか、

あたしのコーヒーは一生淹れてくれへんとか、そういうちびちびの制裁に毎日傷ついたって、もうあたしはここからどこにも

行かへん。

二回目、あんたを捨てるとか、

そういうのないから」


健士はぎりぎりと奥歯を噛んだ。


「捨てるってなんや!くそっ」


そう叫ぶと二階へ駆け上がった。


(そやな、捨てるってのはまずい言い方

やった。

離れる?

置いてく?

どっちにしろ、もう私の辞書からは削除。

そういう別離系)


可乃子はため息をついた。


修復は難しそうだ。

こんなことがこれから幾度となく繰り返されて、いつかドラマのエンディングのように微笑みあって飯でも食うか、家族の姿。


そんなものはさらさら期待していない。


自分はそれだけのことをしたのだ。


だから別にいい。

あの健士の態度でいい。

変わらなくていい。


健士は自分に歩み寄ったりしなくていい。

あれが自然な姿だ。

怒っていい。

健士はもっと怒っていい。


「さてと、このでかい魚をどう料理

しましょうかね・・・」

YouTubeの動画を見ながら、なんとか柵を切り出した。

厚切りにして綺麗な皿に盛り付けたらおいしい刺身盛になるだろう。

ほっと胸をなでおろす。

客が来なければ煮つけにでもして、

明日のメニューに回すしかない。

食材を無駄にしている場合ではないのだ。


その時、店の引き戸が音を立てて開いた。

暖簾をくぐって顔を見せたのはキューちゃんだった。

その後ろからまっちんが続いた。

「キューちゃん!」

「お久ですぅ、可乃子さん元気そう!」

「来てくれたんや」

「可乃子さんいなくなっちゃったから

バイト、面白くないんですよね、

あたしもやめちゃおっかな」

キューちゃんは唇を尖らせて可愛く言った。

その顔を見て隣でまっちんがでれでれと笑っている。

「お隣いいですか」

キューちゃんがカウンターに腰を下ろしたまっちんに言うと、

「はい、はいはいもちろんです」と真っ赤になって答えた。

「いいお店じゃないですか。

え、っと一人ですか、可乃子さん」

「一応、ん、一人」

「結構大変そうですね」

「お客さん来ないから一人でもまわせるで」

「それはネガティブ発言です。ネガティブ、NOです」

「はい。これ、どうぞ。突き出しです」


可乃子は柔らかく煮た蛸の甘辛をキューちゃんの前に置いた。

小さな光る葉を並べた木の芽の緑が

ダウンライトの下で綺麗だった。


「ありがとうございます。なんか、えへっ、大人な感じがします」


まだ女子大生のキューちゃんはコンビニで一緒に働いている時はとってもお姉さんに見えたのに、自分で言うのもなんだが

こういうこじゃれた料理屋にくると、

まだとても幼く見える。

心細げに持ち上げた箸でそろそろと突き出しを口に運ぶ姿も初々しい。 


それをカウンターの中から「初々しい」などと感じている自分はなんとおこがましい

ことか。


「なにか飲む?」


「可乃子さん」キューちゃんが顔を上げると、いつのまにかその大きな瞳は涙でいっぱいだ。


「え?なに?どしたん」

可乃子は顔をひきつらせた。

「この前言ってた友達の話」


(え、なんだっけ。あ、お父さんが亡くなって学費を払えなくなったとかなんとか)


可乃子はごくんと唾をのむ。


「あれ、私のことなんですよね」

「まじで・・・」

「だから最後に挨拶に来ました。

可乃子さんに会いたかったから」

「最後ってなに」

「大学、辞めるんです。もう行けないから」


キューちゃんは蛸を口にぱくっと入れた。

もごもご言いながら

「お母さんひとりになっちゃったから、

田舎に帰ります」と続けた。

その間も大きな瞳からこぼれ落ちそうで落ちない涙。

隣で気まずそうにまっちんは息をひそめて

ビールをぐびり。


(俺が力になれたらな)

なんて思ってそうだ。 


実際言い出しそうだから、まっちんのいい人ぶりは怖い。


「ベルトコンベアにあたしものせられちゃいました。運ばれていくんです。

段ボールに足はないから」


へへへ、とキューちゃんは泣いているのに

笑ってみせた。


「足、あったんですけど。ちょっと前まで。

誰かにもらった足だったみたいです。

自分でしっかり立っているって錯覚してたけど、そうじゃなかったみたい。あっという間にぐらぐらで、抜け落ちてしまいました」


想像すると怖い絵だが、可乃子は物悲しくなる。

足なんてあたしもないよと幽霊みたいに両手を揺らした。


それから可乃子は昼の間にゆで上げて置いた枝豆を小さな皿に盛ってキューちゃんの前にトンと置いた。

その時店の扉が開かれ、お客が入ってくる。


「いらっしゃいませ」

可乃子はほがらかに言った。

まだ泣いてないかな。

キューちゃんの涙こぼれてないかな。

横目でちらみして、目があったら力強く頷いた。

この頷きにどんな意味があるのかはキューちゃん次第だよ。


とにかくいつも可乃子は朗らかでありたいと思っているのだ。


18.

キヨラが近くまで来ているとライン。

むしゃくしゃした気持ちのまま、健士は出かけることにした。

腹はすいている。すいているが、可乃子と顔を合わせたくない。

外でキヨラとなにか食べるとしよう。

といっても財布の中には数百円しかない。

本当にバイトでもしなくちゃ経済状態はまずいことになっている。

可乃子とあんないさかいがあった手前、こずかいをくれというのも言いにくい。こりゃ勝手にバイトを探すしかないか。

キヨラに相談してみよう。


健士は一階へ降りると店のほうをのぞいたりしない。

いつものようにまっちんさんの声にまじり今日は他のお客の声もする。

少し気にはなるが、やっぱり可乃子と顔を合わせたくない。そのまま反対側の裏口から外へ出た。


外はいつのまにか初夏の夜。

ついこの前まで六時になると真っ暗だったのに、まだ空は薄水色。

隣の家の木蓮は唯一健士が目をつけている花。

まだ春の初めにはぷっくりとした乳白色の小鳥が枝に集ったように

美しく優雅だったのが、いつのまにかしもぶくれの黄緑色の若い葉を

風にそよがせている。

この木はいろんな姿になる。

一目、心にとどめればいろんな姿を見せてくれる。

高校男子だって感じることはあるのだ。

健士は言い訳のように思う。

少し年をとった人みたいな気がするから、キヨラには言わない。

言ったところでキヨラには解せない感情かもしれない。

まぁ、あいつは馬鹿にはしないと思うけどな。

そんな風にも思う。


「あー、健士こっちこっち」

高校の外だ。ヘアバンドをしていないからか、キヨラの広がったアフロまがいのパーマヘアが薄闇の中でふわふわと跳ねた。

健士は駆けだして、すぐにキヨラのとなりに立つ。

「腹減った」

息のような声で言うと「これ食いな」と

キヨラのカバンからコロッケパンが出てきた。

健士はキヨラをじっと見る。

「なんや、食えや」

「ええん」

「えーで」

歩きながらコロッケパンをかじると衣にしみたソースがめちゃくちゃうまい。隣ではキヨラがまだごそごそとカバンを探っている。

まだなにかくれるのか、あさましく健士はその手元を見つめていると

「へっへーい。ほれっ」

キヨラが一枚のチラシを健士の顔の前に差し出した。

「これ、これ出ましょ。これ出ましょ」

ハイテンションでそう言ってくる。

「ザ!!!商店街スタア誕生ぉ!」

「これかぁ」

健士は二年に一回、父親がまっちんと必ず

参加していた

この商店街の催しをもちろん知っていた。


父親たちが高校生の時に第一回が開催されてから、九回目になる。


参加バンドは毎年なかなか多く、

オーディションもある。

健士の父親とまっちんの組んでいたバンドは毎度合格を勝ち取って

ステージに上がっていた。

地元ではちょっとした有名バンドだった

から、歴代のファンも多い。

ステージを楽しみにしている同級生たちも

たくさんいた。

健士幼いころからステージの応援には必ず連れていかれていたのだ。


(親父を思い出すなぁ)


チラシを見た時最初に脳裏に浮かんだのは

それだった。

普段は無口でおとなしい父だったが、

ステージに上がると弾けるように輝いた。


(ぴか一のギターテク。

忘れられないあの歌声。

めちゃめちゃ俺、尊敬してた。

父さんめちゃめちゃかっこよかった。

いや、だから俺、やっぱ出れんわぁ。

ちょっと無理)


黙っている健士の顔を不思議そうに

のぞき込んだキヨラは

「ほれ、ここ見て」

と指さす。

「スタア誕生っぽいやろ、ここ、こーこ」

そこには賞金の文字が。


なんと、三十万円。


商店街振興委員会から出るらしい。


「さ、さ、三十万!」


健士は目を見開いた。


乗り越えろノスタルジー。

今なにが必要か、俺。


「俺はドラムでお前ギターな。

あとボーカルとベースとキーボード、

要るな」

「へ?なんでキヨラ、ドラムだけ?

歌わんの」

「歌わんよ」

「なんでやねん」


「なんでもよ。

俺よかもっとええボーカルおるっしょ。

女子がええと思うんやな。

お前の曲ってエモいからのぉ」


キヨラがじっと健士の目を見てくる。


(くっ、そらせねぇ)


キヨラはもう健士の心を見抜いている。

とびきり勘がいいのだ。

このままたたみかけて心を奪う算段だ。


「ベースはお前んとこの向かいのあの、

まっちんさん。

言っとったろう、ベース、最高うまいって」


「いやいやいや。まっちんさんはあかん」

「なして?」


「まっちんさんは、な、親父とずっとこれ、出てたわけ。だから」


「・・・かぁ」


「親父、もうおらんから」

「んー」



わかったようなわかっていないような返事をキヨラは繰り出した。

そりゃあそうだ。

まっちんとてらちゃんの関係を知らない

キヨラにわかるはずもない。


「んじゃ、康孝と三人でいつもどおり、

出ん?」

「お、出るべ」

「オーディションて、いつ?」

「二週間後って書いとるで」

「ほぉ」


熱心にチラシを覗き込むふりを続けている

健士の横顔を見つめて

キヨラがぽつりと言った。


「無理せんでもいいぜよ」

「なにがぁ」

「俺らのスリーピースじゃ受からんぜよ」

「そ、そんなことないやろ。

練習も今までずっとやってきたやろ。

お前の歌やって、俺はええと思うし」


「ふぅ、嘘はあかんぜよ。

お前の目は嘘をつかれへんのよ。

俺の歌聞いてる時のお前の目。

語っとる。

俺は歌に情感というものをのせられへんのよ。

歌というもんはうまく歌えばええというもんでもないんよ。

残念ながら、俺はドラムだけ!

のほうがええってこと」


「キヨラぁ」


「これはだれに言われたからでもない。

自分で決めたことやし。

でも俺はバンドが好きなんや。

みんなでジャムるの最高です。

だから、これ、出たいっす。」


キヨラはチラシをぱんぱんと指で弾いた。


「健士ぃ、俺ら、オーディション受けようや。

頼む。まっちんさんに頼んでくれ。

一緒にやってくれ。頼む」


両手を擦り合わせて頭を下げる。

「それに金も欲しい。

この賞金欲しいですやん」


手の間からいやらしくにやついて、

健士の方を上目遣いに見上げている。


「しゃーない」


もうあかん。

キヨラのしおらしさにほだされてしまった。

それに実際、ステージに立つって考えただけでワクワクする。


金だって、やっぱ欲しい!


「やる?」

「お」

「やるべし!」

「お」


そう健士が頷いたとたん、いやっほい!と

飛び跳ねたキヨラのこぶしが

肘にあたってびりびり痺れた。


「おまえー!!!!」


追っかけると逃げていく。

ぎゃははと笑いながら商店街を駆け抜けて

いく。


「行こ、お前の店、行こ。

まっちんさんに会いに行こ」


キヨラがずっとずっと先まで走って振り向くと大声でそう叫んだ。


人気のないアーケードにこだまみたいに声が響いて、つなぎ目にぽっかり空いた夜空に

すいっと溶けてった。


 「お料理 てらもと」の入り口を引くと、

おずおずと制服姿の二人組、

キヨラと健士は顔をつっこんだ。


店は意外と混んでいた。


カウンターの中にはいつのまにかまっちんが入り込み、生ビールをジョッキに注いでいる。

顔も見たことない女子が、厨房でせわしく動き回っている可乃子に客のオーダーを伝えている。


それに答える可乃子はとても楽しそうだ。

店の雰囲気があまりにも一体感を持っているために、

キヨラと健士は自分たちがどこに身をおけばいいのかわからず

店の隅にそのまま、突っ立っていた。


「高校男子、帰ってきたんか?」


その時カウンターの中から可乃子が声をかけてきた。


「ああ、なんか忙しそうやな」 

健士は不愛想に答える。

さっきの今だ。仏頂面をすぐには崩せない。

そんな健士の気持ちなどお構いなしに、

「お前ちょっと着替えたら店手伝って」

とまっちんが言った。


「俺ぇ?」

「見てわからんか、忙しいんや。

キューちゃんにも手伝ってもらってん

ねんぞ、彼女、お客さんやねんで」


「キューちゃん?」


「あ、こんにちは、九谷美香です。」


お盆をもって、突き出しを客に運びながら、

見知らぬ女子がひょいと頭を下げた。


「かわい!」


すかさずキヨラが声を上げる。


「おい、お前ちょっと来て」

健士はキヨラを引っ張って店の外へ

避難する。

「今日は無理っぽい。めちゃ忙しそう」

「やな」

意外とすんなりとキヨラはあきらめた。

「また来るわ、あらためて」

「わりぃな」

「全然」


キヨラが店を出て行ってしまうと、

健士は二階の部屋に上がった。

乱暴にボタンを外すとスクールシャツを

脱ぎすてTシャツを頭からかぶった。

それからのしのしと音を立てて階段を降り、裏口から店に入った。

浮き立つ気持ちが抑えられない。

親父の店が満席だ。


「これ、運んでくれ、3番」


健士を見るなり、

まっちんがビールのなみなみとつがれた

ジョッキを渡してきた。


「あ、ああ、はい」

それを受け取ると言われたままに運ぶ。


「キューちゃん、もう大丈夫。ごめんな、

手伝わせて」

「そんなぁ、水臭いですよぉ」


キューちゃんが笑いながらそう言った。


(なんてかわいい人や)

その笑顔を見た途端、健士は心の中で素直に感嘆する。


(かわいすぎ)と心が繰り返す。


「まっちんもありがと。

もう健士が来てくれたから大丈夫や」


その言葉に一瞬抵抗しかかったまっちんも、

ビールを運ぶ健士の後姿と、

出来上がった料理をカウンターに出しながら

健士が戻るのを待つ可乃子の姿を交互に見た途端、力が抜けたように席に戻った。


まっちんとキューちゃんが一息つくと、

可乃子は彼らの前にお刺身の盛り合わせを

置いた。


「はい、これ、食べて。手伝ってくれた

お礼。」

「うわ、綺麗です」

「魚、さばいたん初めて。

もうYouTubeさまさまやわ」


それをのぞきこんだ健士も

「すげぇ」とつぶやいた。


「お前って器用なんやな」


「やってけそうやろ。あたしと一緒に店」

「へ?」

「素直に認めてみ」

「うるさい」


そう言い捨ててそっぽをむいた健士だったが、「すいませーん」テーブルから客の声がかかると

「はい」と可乃子と同時に返事した。

一瞬ぎょっとした顔をあげた健士も、

可乃子がにやりと笑って「行け」と手振りで言うとそそくさと客のもとへ向かう。


「まっちんさん、お疲れ様です」


キューちゃんがカルピスのグラスをひょいと持ち上げると、

まっちんもビールのグラスをちょいと持ち上げた。


「乾杯っす」


照れたようにそう言ってぐびりと一口飲んだけど、もう可乃子のことばかり見つめている。

その顔を横目でキューちゃんが見つめている。

「可乃子さん、鈍感だから」


つぶやく声にまっちんは「何?」と訊く。


「いえいえ。いえなんでもありません」


キューちゃんがくすくす笑うのを、

健士はちらちら見つめていたい。


見つめていたいけど、見ていることは内緒なのだ。


(かわいすぎ)


心の中でもう一度かわいすぎと繰り返す。



19.

キヨラは夜の商店街を一人歩いていた。

はらがぐーと鳴いたので、なにかないかと

カバンを探る。

けれどさっき健士にコロッケパンを

あげてしまったのだ。

カバンの中に教科書や筆記用具が入っていないのはいつものことだが、

今日は食べるものもなにも入っていない。


「グミくらいなかっちゃ?」


手をつっこんで底までごそごそやってみるが、やはり何もない。


大げさにため息をつくとキヨラは歩き始めた。


どうせうちに帰っても誰もいないのだ。

だから何か食べたかったら買うしかない。


キヨラは小学生のころから

ずっとそうしてきたのだ。


親がいないわけではない。


ただ家にはいつもいないだけ。


キヨラが学んできたことは、

金を切らさないことだ。


母の顔を見たら、金をもらっておく。


姉にも会ったらもらっておく。


金が無くなってどうしようもないときは、

姉の彼氏のところへ行く。


え?父さん?

それは初めからどこにもいない。


「可乃子さんのオムライスはうまかった。

一等賞やる」


キヨラはひとりごちた。


できたての料理を食べさせてもらうことなど

めったになかったから、そりゃ感動のうまさ

だった。


「健士はぜいたくじゃ」


キヨラはぶつぶつ言いながら歩き続けていた。


「罰が当たるぜよ、文句ばっか」


アーケードの切れ目まで来ると、

駅までの道は街灯も少なく店もない。


そのせいで夜は静かで暗い。


せっかくだからキヨラは自分の足音も消して

しまいたいと思った。


ポケットの中のair podsをごそごそ探った。


そいつを耳にぶっこんでいれば

別世界に行けるから大のお気に入りだった。


人通りの少ない道だから、

誰か歩いていれば当然気になる。


キヨラはまだ米粒ほどの大きさだった時から、向こう側からやってくる人影を目で

とらえていた。


その人影は二つ。


たぶん大きいのが男、小さいのが女。


くっついているのか少しだけ離れているのか

それはまだ定かではないけれど。


キヨラが進む分、

向こうもこちらに近づいてくる。


倍々で距離が縮んだ。


(大きいのが女やったんか)


キヨラは丸くて柔らかそうな女が近づいてくるのを見て、自分の発想のとぼしさを反省した。


小さな男はピンと背筋を伸ばして、

女よりも少し先を歩いていた。


すれ違う時に男が怪し気にキヨラの方を

一瞬見て、女のことを引き寄せた。


女はびっくりした顔をしていた。


(俺、なんもしないっすけど)


キヨラは鼻から息を吐いて男の目を見据えて

通り過ぎた。


見た目で誤解されるのには慣れているけどね。


 信美は突然男が自分の二の腕を掴んで

引き寄せたので、びっくりするやら困るやら。


二の腕のトレーニングはまだなんよ、

と言い訳したい気分だった。


「す、すいません」男はそう言ったが、

いつまでも信美の二の腕を握ったままでいた。


信美の柔らかい二の腕が心地よかったのかも

しれない。


(私はもう若くもないし、

スタイルだって悪い。

毛穴落ちした肌やカラーで傷んだ髪。

そんなものひっくるめて、

会っていただいてすいません)


心の中で男に謝った。


てらちゃんや健士のように自分を

必要としてくれる人なんて、きっとこの世にはいないのだろう。


なのに自分はどうして婚活なんてしようと思ったのか


考えているうちに情けなくなってきた。


(見つからないよ、てらちゃんの代わり

なんて。そんなこと、知っている)


「す、すいません。手、

あの、離してください」


信美が言っても、男はまだそのままでいた。


(なんかちょっと怖いな)


「信美さん、あの、いいっすか?」


男の小さな体が急にぎゅっとくっついてきた。


「ひゃっ」

信美の柔らかい胴体に男が沈み込み、

男がはぁと息をつくと信美の背中に

虫唾が走った。


「おい、お前、やめろ」


ぶらぶらと引き返してきたキヨラが小さな男を信美から引きはがした。


「あんた、キモがられてるよぉ」

「なな、な、なんや、お前」


信美は男が体から離れると、

ブルブルっと身震いして駆け出した。


「ほらな、逃げてったで」


キヨラは信美の後姿を見ると笑いながら

言った。

男は文句を言いたげにキヨラの金髪が

夜風にふわふわ踊るのを見上げていたが、


「なんや、文句あるんか」

とキヨラがすごむと、顔を歪めて走って

逃げた。


それはものすごく速くて、

キヨラは追いかけても絶対に捕まえられないと思った。


(まあ追いかけへんけどな)


その後キヨラは外界の音をシャットダウン

する。

音量を上げて、自分の世界に入っていく。


(どうでもいいんだどうでもいいんだって

この歌詞、すごく好きなんや)


駅まで行って、健士にラインして、

店が落ち着いてるなんて言ったら、

俺もう一回戻っちゃうよ!


駅に着いたらラインしよ。


キヨラはそう考えるとウキウキしてきた。


一日一善、今、女子救ったし、いい気分。めっちゃいい気分。



20.

ラインの返事は良いもので、キヨラはぴょんぴょん跳ねながら、

健士のもとへ向かって戻っていた。

そこにはまっちんさんもいるというから、

自分の願いがすぐに叶うような気がして、喜び勇んで駆けていた。


 商店街のアーケードにさしかかった辺り。

さっきの女に追いついた。

追いついて追い抜くときに女が泣いていることに気が付いた。

気が付いたけれど、別にキヨラにとっては関係のないことだったから、

立ち止まることもなく通りすぎた。


なのに、関係のないこと、なのに。

キヨラは見逃すことができない。


(も、俺、なんでよ???)

自分で自分にそう訊きたい。

なんでそんなにお前はややこしいことに首突っ込むのって言いたい。

でも泣いている女子を無視して

通り過ぎるなんてやっぱそういうほうが

不自然。

俺にとっての不自然。

だから声かける。

当然のことやん!


「あのぉ」

キヨラは急ブレーキをかけると、女に向かってバックしてきた。

「大丈夫っすか」


「はい」


近くで見ると丸くて柔らかそうな女は体だけでなく

頬も丸くて柔らかそうだった。

まるでおもちみたいだとキヨラは思った。

おもちちゃんの顔は涙でマスカラが流れて

汚かった。


「追い払っときましたから」


「ん。ありがとう」

おもちちゃんが笑った。

その顔がなかなか魅力的で、キヨラは嬉しくなった。


「俺、役に立ったんや」

「すごくね」女は言った。


「じゃああの男がマイナスで俺がプラスなんで、あんたは、もとのゼロにもどった」


「うん。ゼロに戻った」

信美はその言葉をかみしめた。


知らないパーマふわふわ男子高校生の言葉が心にぐっときた。


ゼロにもどってもいいって許してもらった

ような感じ。


「じゃ、俺、行きますんで。」

「ありがと」


キヨラはすがすがしい気持ちで再び駆け出した。


「お料理 てらもと」まであと少し。


うりゃ!全速力じゃ。

走ってこ。



21.

案の定、まっちんの返事はノーだった。

キヨラはカウンターに腰を下ろして

がっくりと頭を垂れた。


「な、だから言うたやん」


健士はコーラの瓶の栓を抜き、

キヨラの前に置いた。


ほろ酔い気分のまっちんだから、

もしかしたら首を縦に振るとでも思ったか。

ありえない。

まっちんの頑固さは

ちょっとやそっとでは揺るがない。


岩だ。

岩。


可乃子が口ぞえをしてくれるかもしれない

という期待もむなしく、

彼女は自分には関係のないことだと

知らん顔を決め込んでいる。


「可乃子さぁん」

キヨラが切なそうな顔をしても、

そんなことはお構いなしに

「お腹すいてるならなんか作ったげよか」

と言った。


「嬉しいっす。おにぎり食いたいっす」


落ち込んでも腹は減る。

そうだちょうど腹が減っていたのだ俺は。

とキヨラはリクエスト。

可乃子は「待っとりよ!」と腕まくりして

にゃはは、と、笑う。


その時、店の引き戸がひかれると、

ふらふらと信美が入ってきた。


「はぁあああー」


大きなため息をつきながら、

カウンターの一番端に

気が抜けたように腰を下ろした。


「かのちゃん、生ビールお願いします」

「どうしたんですかぁ、元気ないですね」

可乃子に続き

「ほんまや、姉ちゃん、どこ行ってたんや」

まっちんも心配そうに信美の顔を見る。


「あ、さっきの」

すぐ隣で顔を上げたキヨラが驚いたように声を上げた。


その大声にのろのろと顔を向けた信美も

びっくりしてキヨラの顔を指さした。


「さっきの!」

「なんやお前、

浅野さんのこと知ってるんか?」


健士も不思議そうに訊ねる。


「いやはや、いや、うん。まあ」

信美が言いにくそうに言葉を濁したものだから、キヨラはすぐさま飛び出しそうになった

言葉を飲み込んだ。


「で、なんで金髪君がここにいるんかな?」

「俺らダチなんすよ」

キヨラが健士に満面の笑みを向けて「なー」と言った。

「そうやったん」信美の顔がゆるんだ。

「まぁな」健士もつられて笑う。


まっちんに断られてへこんでいたのも

つかの間。

キヨラは元のテンションにあっという間に戻った。

ほんとこいつ打たれ強いヤツ。

「はい」と目の前に可乃子が出してくれた

ほかほかの塩むすびをほおばると

歓喜の声を上げる。


「うんまーい!最高!」


それから口をもごもご言わせながら、

信美に訴えるのだ。


「姉さん、聞いてくれます?

こちらの御仁に俺、バンドのベースをしてくれってお願いしたんですけれどね」


まっちんのことを目で指しながら言う。


「どうしてもできないって言うんすよ」


そこでコーラをぐいと飲む。


「バンド?ベース?」

「これに出たいらしくて。

健士とキヨラくん」


可乃子が差し出したチラシを受け取ると、

信美はキヨラとそれを交互に眺めた。


「そーなんすよ。出たいんすよ」

キヨラはおにぎりもう一個くれと可乃子に「一」と指を一本立てて合図する。


「俺はドラム、健士はギター」

「じゃ、あとはボーカルとベースと、

キーボード???」

「お、姉さん、わかってますやん」

「浅野さんもバンドやってたからね」

可乃子が言う。

「可乃子さんもじゃないですか」


キューちゃんが横から言ってくる。


「え、可乃子さんもやってたんすか?」

キヨラがそれに反応すると、

「すっごい歌うまいんやで、

可乃子の歌は特別級」

まっちんがつられて言った。


「あんた、なんでやらへんのよ」


信美がまっちんに向かって言うと、

信美には弱いのかまっちんは口ごもる。


「いや、だってこれはてらちゃんと

俺がいっつも一緒に出てたコンテストで・・・」


「そんなん知ってるわ、な、健士」

健士がこくこくと頷いている。


信美はまっちんの顔をじっと見つめて

言った。


「けどてらちゃんはおらへんやろ。もう」


まっちんの目にみるみる涙が浮かんできた。

それを見た信美の目も赤くなり・・・


「あたしら前に進まんとあかんのちゃう?」


信美は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


「かのちゃん、あんたボーカルやり。

あたし、キーボードするから」


「へ?」キヨラが口をあんぐりあけた。


「浅野さん、あたしがボーカルって、

それ?」

可乃子も納得いかない様子。


それでも心を決めた顔をして

「まっちんあんたはどうする」

と信美が訊いた。


「かのちゃん、あんた、いいよね、

やるよね」

「あ、いや、あー。どうでしょ。

商店街の人たち、私が出てどうでしょ?

審査の前段階で削除されそうですけど」

とつぶやいた。


「まっちんがあんたのことは守るって」


可乃子とまっちんの目が合うと、

まっちんは力強く頷き、

すぐ目をそらして恥ずかしがった。


「可乃子がやるんだったら」


まっちんのつぶやきをすぐにキヨラが拾う。


「やりますよねやりますよね、可乃子さん、バンドやりますよね」


「うーん」


可乃子は腕組みをして首を傾げている。

つと目を上げて健士の方を見ると、

健士の目は期待いっぱい溢れている。


(健士、いやじゃないんや)

可乃子は心臓がはねる。

(そんならあたし、

もう一回歌ってええんか)


「ババアのバンドになるんちゃう」

可乃子はへらへら笑って言った。

嬉しさがこみあげてきて顔が崩れた。


「ババアのバンドでもいいっすよ。

バババンドって名前にしよ。

ええんちゃう?ババアのバンド、

バババンド!」


「なんか映画でなかった?それ」

信美がおもちのように頬を膨らませる。


「言いたいことわかりますけど・・・

たぶんそれ違いますよぉ」

キューちゃんがくすくす笑う。


健士がキューちゃんを見つめ「かわいすぎ」と声を漏らして自分で驚く。


キューちゃんが振り向いて健士の方をじっと見た。

健士は瞳をそらさない。そらせない。


金縛り。



午後十一時。閉店の時間。

信美もまっちんも、キヨラも帰っていった。

にぎやかで嬉しい時は放物線を描きながら過ぎ、

今は鎮まり返った「お料理 てらもと」。

キューちゃんだけが店に残って可乃子のことを待っていた。


可乃子は健士とともにレジの前に立ち、

「さあ、いくで」と目を合わせた。

レジの精算キーを押す。


はてさて一日の売り上げはいかほどだろうか。


古いレジがカシャカシャカシャカシャと

印字を続ける。

二人の目はレジから生まれてくる

ロールペーパーにくぎ付けだ。


「ん」

「おりゃ」

「やった!」


ガッツポーズの健士。

可乃子が思わず抱きついた。


「うわなにすんねん」健士が身をよじって逃れると、

「いや、ごめんごめんー!」

可乃子は大声で笑いながら言った。


「今日の売り上げ目標達成や!

いけるいける!

あたしら食っていけるで、健士」


キューちゃんも思わず

「可乃子さん!やった!」と叫び、

こぶしをジャキっと振り上げた。



22.

「おっはよー健士、ほれ、弁当出来てるで」

可乃子はその日も朝からハイテンションで、

健士の手に弁当を強引に押し付けた。

バンドを一緒にやると決めた夜、

可乃子は自分に受け入れられたと勘違いしたのではないだろうかと、

健士は思った。

自分の中ではまだ彼女は赤の他人同然だったし、一緒にバンドをするというだけで

母と認めるということにはならない。


健士は、深夜まで店を開けているのに

朝早く起きて弁当を作る可乃子の気持ちを

わざわざへし折ることもないかと、

この頃は黙って弁当を受け取る。


そして可乃子は、その弁当がキヨラのパンと交換されているということを知るはずもない。


家に戻ると、健士は毎日自分で弁当箱を洗うのだが、不思議なことに最近は心が痛むのを

感じる。


自分が可乃子の弁当を口にする日もそう遠くはないような気さえしてくるのだった。


めざましい料理の腕の進歩。


可乃子はといえば、料理の才能を開花させた。


言葉通り二人三脚で「お料理 てらもと」

が動き始めた。


「枝豆と、あ、俺、生ビールお願いします」

仕事を終えたまっちんがカウンターに腰を下ろす。

「私も生で」

信美もあれから毎日のように顔を出す。

どこかふっきれたようなほがらかさで。

(心配いらんかな)

可乃子は満面の笑みで迎える。

(浅野さんがいたら大丈夫)

昔、信美のことがにくらしいのに、

お守りのようにこの言葉を唱えていたことを

思い出す。

そして今も信美の顔を見ると安心する。


ほんとうに勝手なものだ。


ジョッキを両手に、健士が厨房から出てくる。

「はい、浅野さん、どーぞ」

「お。けっこう板についてるやん」

「そろそろ一か月なるからな」

健士は褒められて照れくさそうに笑った。


「健士ぃ。まいどぉ」

引き戸が開いて、キヨラがやってくる。

軽いぺこぺこのリュックを椅子に置くと、

「なんか食わせてけろ、可乃子ちん」と言う。


可乃子はカウンターの中で頷いている。


その顔を見たら安心したようにキヨラはふうと息をつく。

それからドラムのスティックをリュックから取り出すと、

自分の太ももをぱちぱちと柔らかくたたいてリズムをとった。


(他にもお客がいるからな。そういうとこ、キヨラ、常識的)と健士は思う。


「明日っすね」

「やね」

キヨラのつぶやきに信美が背筋を正して答えた。

「オーディション、何時からだっけ?」

可乃子が訊ねた。

「十時十五分。エントリーナンバー8番」

まっちんが答える。

「今日、閉店したらちょっとやっとく?練習」

信美の言葉に全員頷く。

「そうこなくっちゃ!俺、もうスタジオおさえてきたもんね」

キヨラが嬉しそうにバチバチ自分の太ももを叩いた。

痛みに顔をしかめるキヨラの前に、可乃子はとろとろ玉子丼を置いた。

「ふぉぉ」

たちまちキヨラは笑顔になって、いただきますとほおばった。



23.

その頃、たったひとり、アパートの部屋で九谷美香は立ち尽くしていた。

店を訪ね、可乃子がそこでなんとかやっていこうとしている姿を見て、

自分も田舎に戻る決心がついた。

部屋を引き払うことを決めて、荷物をまとめていた時、

その電話がかかってきたのだ。


母の訃報だった。


「言いにくいんじゃけどな、美香ちゃん。

あのな」


脳裏にべったりと張り付いたように、

親戚のおばちゃんの涙声がいつまでも離れなかった。


(なんで、お母さん、なんで?)


父の葬式に参列したあと、美香は逃げるように都会に戻った。

怖かったのだ。

このままこんな田舎に縛り付けられると思うと。

母には近くに住む姉妹もいたし、自分がいなくても誰かが母のなぐさめになると思っていた。


誰かが。


でもその誰かというのは自分の知る中で、

一体誰のことだったのだろう?

自分がそばにいてやればよかったのだ。


別れ際に母は大丈夫だと言った。

母が弱音を吐いている姿なんて見たことなかったから、美香はその言葉を信じることにした。

でもそれは本当に大丈夫だと思ったからではない。

信じたほうが自分に都合がよかったから、信じるふりをしたのだ。


(私はいつも自分の都合ばかり優先させてきた。

自分が自分がって、自分の時間がなによりも大事だった。

けれどそれほど重要なものだったのだろうか。

自分というものが、母よりも?

私は一人になってしまった。

世界の中でたった一人)


知らず知らずのうちに可乃子に電話していた。


店を閉めて、もう夜中の十二時をまわっているというのに、

五人は元気いっぱいだった。

興奮のあまりアドレナリンが体内をかけめぐっているのか、

それとも大人組はアルコールのせいなのか、

いつも世話になっている地下の貸スタジオの階段を足取り軽やかに下りていった。


仕上がりはなかなかのものだと全員思っていた。

自画自賛だろうが、それでいい。

バンド活動において重要なことは

自信をもつこと。

かっこいい、うまい、俺ら最高と思わずして

人前には立てない。


初めて可乃子の歌を聞いた時、健士はその

うまさに驚きを隠せなかった。

そして気持ちよさそうな歌いっぷりが自分の

作ったオリジナル曲の格上げをしてくれるように感じた。

キヨラは「これでええんじゃい」と納得済みでズドズド ドラムをうち鳴らし、

信美の軽やかなピアノと底をひきしめる

まっちんのベース。

水を得た魚のように、

音楽の中を行く可乃子。


最高気分良かった。


「ちょ、ちょっといい?」

可乃子はポケットの中のスマホが震えるのを感じて、歌うのをやめた。


「なになにー。練習中は携帯禁止って

きーまーりー」

とキヨラがブーイング。


「でもちょいごめん、これ、出ていい?」

可乃子はごめんごめんと何度も謝りながら、

電話に出た。

「キューちゃん」

この前、お店で泣いていたから、その夜最後は笑顔で別れたが、なんだか少し心配していたのだ。

「どしたん?」


「可乃子さん、助けてください。

助けて・・・」


スマホにかぶりつくようにして可乃子は全身で答えていた。

まるでスマホの中に吸い込まれてしまいそうなくらい、

体が前のめりになっていた。

その尋常ではない雰囲気にほかの四人は息を

ひそめ可乃子の言葉を待っていた。


「どしたん?」

健士が訊ねる。

「キューちゃんの」

「どしたん、九谷さんどうしたん?」

健士が食いつくように可乃子に言った。


「お母さんが亡くなってしまったって」


「え?でもこの前言ってなかった?お父さんが亡くなったって。田舎に帰るって」


「うん、だから、お母さんも、昨日」


「え、それって後追い?」


キヨラがそう言ったので信美が肘でどすっと

突いた。

キヨラの言葉には答えずに可乃子は四人に

向かって言った。


「明日午前十時十五分、エントリーナンバー

8番」

「な、なんや、お前まさか」まっちんが言う。

「絶対に帰ってくるから行ってくる」

「なに言うてんですか、可乃子ちん、無理ですやん。いったいどこまで行くつもりですねん」

キヨラがぶちぶち言った。

「キューちゃんの田舎は福井やったな」

「高速飛ばして車で3時間。往復6時間。

帰ってこれるな」まっちんが言う。

「用意せえ、はよ」と。

「キューちゃんにもすぐ迎えに行くって言うて。俺、車取ってくるから」

有無を言わせないまっちんの言いぶりに

「かっこええわ」とキヨラが感嘆する。


「俺も、俺も行く」

健士が突然言った。

「あんたは待ってて。もし時間に戻れんかったら、審査員のおっちゃん説得してほしい」


すぐに可乃子にそう言われて

すごすごと引き下がる。


そりゃあそうだ。この前一度会っただけの自分が行ってもなんだか場違いだ。

それでも九谷さんのことをほっとけな気がする、のに。


「浅野さんもあの、・・・こっちのこと

いろいろ、お願いできますか?」

可乃子は信美に頭を下げた。

初めてかもしれない。

素直に心から自分からお願いしたのは。

(本当に今まですいません、浅野さん)

そう心の中で言った。

頷く信美の隣で、キヨラの目が自分にもお願いしてくれないかと懇願に輝いた。


「キヨラくんも、お願いね!」

「ぅはいっ」


バタバタとスタジオを駆けだしていくまっちんと、そのあとに続く可乃子。


「意外と男らしく育ったねぇ、弟よ。」

とその後ろ姿に信美がつぶやいていた。


24.

その日は朝早くから、商店街の有志が集まり、

バンドコンテストの準備を進めていた。

地元商店街のイベントにしては、大がかりだ。

会場は駅前広場の特設ステージ。

オーディションも「スタア誕生」の催しの一環で、

オーディションの方が見ごたえあり!という説もある。


てらちゃんが亡くなってしまい、

まっちんのバンドの参加はもう叶わないと

事務局のみんなも残念がっていたが、

突然の参加申し込みに手を打って喜ぶ往来のファンが事務局内にもちらほら。


しかしメンバー表に目を通すと、事務局の古株がぎょっと目をむいた。


「これは、てらちゃんの息子やろ、こっちはまっちんの姉さんやろ、

この子は、17歳か。健士の友達かなんかやな。で・・・

この、可乃子ってのは」

「寺本可乃子ってのは、そのーやっぱりあの可乃子かの?」

「もうっ冗談みたいに言わんといてください、岩本さん。あの健士がちっこいとき出て言った嫁さんですよ」

「うっ、帰ってきたんか。どの面下げて!!!」

「一か月くらい前から、てらちゃんの店、やってますよ。

健士といっしょに。知らんかったんですか?」

「知らんかったなぁ」

「まあ、健士もひとりになってしまったし。親ですからね、一応。

ずっとどこにおったかは聞いてないですけど帰ってきてくれたほうが助かりますやん」

「うむ」

古株は苦虫をかみくだしたかのような顔でまだ何か言い足りなさそうだったが、あまりにもあっけらかんと若者に言い返されてしまったので、その後は黙ってしまった。



そのころ、オーディションにすべりこむために、

まっちんは可乃子を乗せて高速道路をぶっとばしていた。

キューちゃんは無事に実家に送り届けることができた。

オーディションの時間まであと一時間もない。

みんな、首を長くして待っているにちがいない。

「まっちん、ほんま助かった。ありがとう」

可乃子が言った。

「ええってええって」

まっちんが答える。


「キューちゃんひとりで置いてきて、大丈夫かな」


「見たやろ。おばさんとか、おじさんとか、たくさんの親戚がおって、

キューちゃんの肩を抱いたり、頭をなでたり。一緒に涙をぼろぼろこぼして。家族がおるやん。キューちゃんは一人ちゃう」


「あたしらの出る幕ちゃうか」


「一緒にこの車で連れて帰ってやったって悲しみからは逃げられへんやろ。

体だけ逃げたって無駄や」


「お母さんを亡くなってまでひとりにしたらあかんな」


「そうやな。人間は生きている時にちゃんと向き合ってへんと、

いなくなってしまってからいくら後悔してもとりかえしなんかつかへん」


まっちんはため息とともに言った。


「あんたのこと見てるで、あんたのこと考えてるで。

愛してるで、好きやでって、伝えられるときにちゃんと言っとかな、

すごい後悔する」


可乃子はつぶやいた。

まっちんはそんな可乃子の言葉を聞きながら、顔を前に向けたままでいた。


「そやな。」


可乃子は「それは身に染みてわかってんねん。あたし」と言った。

「だから、キューちゃんの気持ち、わかりすぎてつらい」


「俺はな、可乃子」


まっちんが一息飲みこんだあとに言う。


「どんなお前でも、いつでも見てるで」


可乃子は何も答えない。


「お前、何か言えや。恥ずかしいやろ。

こんなときでないと言えへんから言ったのに」


「んー、まっちんには感謝してるよ。心からな」


「んー。それだけ?」


「・・・言葉にできるのは、それだけや」


「ああほんま、はずかし」まっちんがハンドルに頭をがんがんとぶつけた。


「ちょっとちゃんと前見て運転してや。危ないやろ」


すぐに可乃子の檄が飛んだ。


「はあ。ではもう少し頑張って運転させていただきます」

まっちんはしおらしく言った。


25.

「もうすぐつく」


まっちんは会場がほど近くなると

健士に電話した。


「今、一個前のバンドがやってる。

もし無理やったら、出番遅らせてもらえるように俺、言うし」


そういう健士の声に、頼もしさすら感じる。

けれど、順番を変えるとなると、

健士は事務局の面々に可乃子のことをなにか聞かれるかもしれない。


まだ健士が可乃子のことを母と受け入れられないのは仕方がないことだ。

けれど、まっちんは、それを赤の他人に干渉されたくはなかった。


(もし間に合ったら、全員でステージに立てたら、

みんなが可乃子の歌を聞いたら、

今までのこと全部なんにもなかったかのように、

吸い込むように可乃子のことを受け入れてくれるような気がするんや。

健士の顔、見てほしい。可乃子の顔、見てほしい。

あいつらは始まったばっかり。堂々としててほしい。

ああ、俺が誰にもなんにも言わせるもんか。)


まっちんは「いけるいける。上がっといて、ステージ」

そう答えた。

「え、でもほんまに大丈夫?」

不安そうな健士の声に「大丈夫や!」

とまっちんは電話を切った。


「エントリーナンバー8、バババンド!!!」

ステージではMCが派手に声を張り上げた。

ステージの脇の道路に車を乗り捨てるようにして、

まっちんと可乃子はステージまで駆けた。

「間に合った!」

「おうよ!」

ステージに飛び上がり素早くベースを首から下げると、

すぐにまっちんはキヨラのドラムに連動し低音を刻み始める。


見ろ!!!この劇的な登場を!


まっちんは想像通りの演出に満足げにひとり頷く。

イントロが終わるころには、体勢を立て直し、

堂々たるスタイルで歌い始める可乃子。


「まっちん!まっちん!」


客席からは往来のまっちんのファンからの声援があがった。

その中には、目を輝かせたまっちんとてらちゃんの高校からの

バンドメンバーの顔もある。


「可乃子!可乃子!」


メンバーは可乃子の名も呼ぶ。

それはまるでてらちゃんを呼ぶのとおなじくらい気安く温かい。


可乃子の歌声が客席を包んでいく

客席の熱がぐんぐんと上がっていく。


ギターをかき鳴らす健士はやはりてらちゃんの息子だ。

肝が据わっている。

堂々たる演奏ぶり。


後ろからリズムでそれを支えるキヨラも、

上半身服脱ぎのありがちな裸スタイルだが、

放射線状に散った汗が後光のように

ステージライトに輝いた。


軽やかなタッチで信美のピアノが鳴り響くと、

すぐさま可乃子の声が呼応した。


ひとつひとつは不細工で

ところどころが欠けていて、

たったひとつじゃ誰一人

見向きもしないかもしれないけれど


合わさって音が

合わさって声が

合わさって息が

ひとつになって溶け合ってみんなの心にしみ込んでいった。



26.

「いらっしゃませー」

可乃子の元気な声が「お料理 てらもと」に響く。


それに続いて健士が暖簾をくぐり入ってきた客に笑顔を見せる。


カウンターにはいつものようにまっちんと、それから信美。

信美の隣にはキヨラが行儀よく座って、

ときおり信美の横顔をみつめている。


信美は健士同様、最近はキヨラの世話も焼いている。

それがキヨラにはハマったようで、もう信美に首ったけと言った様子だ。

不思議な年の差カップルが生まれたようで

可乃子はとてもくすぐったい。


「俺、生ビールと、枝豆お願いします」

「じゃ、あたしも生で」

「キヨラくんはコーラ?」

「うい」


可乃子は手際よくドリンクを用意し始める。

もう手慣れたものだ。


そこへ店の引き戸が開かれて、顔をのぞかせたのはキューちゃんだ。


「こんばんは」

実家の残された畑で最近は農業をしている

キューちゃんは、健康的に日焼けしていた。

可乃子に向かってにっこりと笑うと

「可乃子さーん、会いたかったですよぉ」

と言った。


キューちゃんにドリンクを何にするかと訊ねると、

「可乃子さん、乾杯しましょうよ」と誘われた。


それに可乃子は笑って答えるのだ。


「ん、じゃあ、私、カルピスで」と。



人はいったいなにに乾杯するのか

ずっと可乃子にはわからなかった。


でも今なら

少しわかるような気がするのだ。   

 

グラスの中にはいつもの、あれ。


さあ乾杯しよ


乾杯


                    (了)

                                        


                                                                






最後まで読んでいただいた読者の皆様、本当にありがとうございました。

感想をお聞かせいただけたら幸いです。

これからもよろしくお願いいたします。

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