僕が初めてキレた時
「だからね、彼女なんかじゃないんだって。ね?」
「そーよ。友達よ」
「詩織さんがそーゆーのなら」
目をハートマークにしながら末永が、詩織の後を子犬のように追いかける。
日直の仕事を終えた放課後、僕、詩織、末永は方向が同じなのもあり、教室を出ながら末長に2人の関係を説明をしていた。もちろん彼女がキレやすい人物であること、僕が触るとそれが治まること、一晩一緒に過ごしたことは内密にただの友達として…だ。まぁ2番目のは言っても信じてもらえないかもしれない、僕だって半信半疑だもの。
ちなみに坂東は興味がないらしく「これからも一緒に戦隊ものを見てくれる仲間ならなんでもいい」と、5時半から再放送される数年前の飛脚レンジャーを見に先に帰っている。それでなくても彼は変える方向も違うので、もともと一緒に帰ることはないのだけれど。
下駄箱で靴に履き替えていると、いろんなところから浴びせられる視線とヒソヒソ声が僕の意識を刺激していた。部活に向かう人、家路に着く人、忘れ物を取りに帰ってきた人、多くの生徒達が僕とその隣にいる詩織の噂話をしていた。
はっきり言って全然、嬉しくない。人の噂は75日っていうけど、大丈夫だろうか? 聞こえてくる噂はどれも全て尾ヒレ、腹ビレ、背ビレ、胸ビレ、シリビレ、ヒレの全部がくっ付いてきたかのような、とんでもない話になっていた。
「それにしても、詩織さんって美人ですよね」
ふぅと黄昏れながら、先に歩き出す末長。
こんな時にそんな話をするなんて、なんてマイペースなんだ。ジトっとその低い陰を見つめる。しかしそのマイペースさが故、末長も坂東も自分に恐れず友達でいてくれるのかも知れない。
始めに友達になったのが2人で良かった。自然と出る笑みを殺すことなく、隣で靴を履いている詩織を見た。眉間にしわが寄っていた。
「は? 末長なんつった?」
-----す、末長にプッツンしてる!? なんで? なんか悪いこと言ったの? あいつなんかしたの?
疑問は尽きることはないが、大事な友達に怪我を負わせるなんて出来ない。彼女の言葉を信じて、誰にも気づかれないよう顔を手の甲で撫でるように触れた。
「も、キレてないよね」
靴を直す振りをしながら詩織に話しかける。
「ごめん、助かった」
ペロリと舌を出しながら、笑いかけてくる。
-----助かったじゃないよ。末長をボコボコにするとこだったんだぞ。
何も知らない彼に笑顔で手を振りながら校内から出て行く彼女を観察しながら、2人を追いかける。
さっき、末長はなんて言ったんだっけ? 『それにしても詩織さんって美人ですよね』だっけ、全然問題ないじゃないか。一体何処に怒る要素があるって言うんだ。
思わず首を傾げて考え込んでしまう。
イヤ、待てよ。僕が始めて会った日、彼女はどうしてキレた? 絡まれた時は?
-----まさか!? だとすると末長が危ない!!
急いで2人を追いかけると、彼は無事だった。というより、彼女はポツンと1人で立っていた。呼ばれたのかはわからないが、末長は美術の美人の先生とダラしない顔をして校舎の窓越しに話している。
迷ってる暇はない。恐怖を押し殺すためぶんぶんと頭を振り、詩織に駆け寄ってあの言葉をかけてみる。
「てめぇ…」
低い声と共にギッと鋭い目で睨まれる。
やっぱりキレた!!
すかさず彼女の手をパンと叩く。正気に戻った相手に向かって、早口で捲し立てる。
「わかった、分かったんだよ。君がキレるワードが! 今からもう一度言うから、キレたと思ったらすぐに僕に触って!」
戸惑う彼女に「いいね」と強引に言い聞かせる。
末長が話し終わる前に彼女にも教えておかないと、末長も、詩織も取り返しのつかないことになる。
「君は、美人だ」
「殺されたい…」
言うが早いが、彼女が言葉を言い終わる前にもう一度軽く手を叩いた。
「の?」
彼女は口をぽかんと開けて、僕の目を見つめた。早く説明したい気持ちを抑え、末長と周りを見る。まだ話している、近くに人はいない。
「多分、詩織は自分の容姿を褒められるとキレるんだ。ワードは『美』と『人』を繋げた言葉。言葉は繋げれば分かるよね」
コクコクと詩織が頷く。
「まだ憶測の段階だから、他の言葉でもキレるかもしれない!! 末長はきっと君のことをかなり褒めると思う、だから!!」
「やーごめん、イヤー美人に声かけられるとついついね」
先生と話し終わったのか、僕たちに駆け寄ってくる。
「ところで何話してたの?」
「末永くんが美人に弱いって話」
呑気に話し始める2人。
----君の為に話してたんだよ。
悪態が頭を霞める。こっちはソレどころじゃないのに、「先に帰って」って詩織に言おうとしたのに。急いだ意味がないじゃないか。冷や汗が吹き出してきた。しかし、憶測通り“詩織自体が美人と言われる”んじゃないとキレないことにも安堵する。
もしそうじゃなきゃ今頃、末長は血みどろだもんな。と、なると、道端で美人と通りすがりに言われた場合はどうなるんだろう? そういえば土曜に一緒に歩いたときはキレた様子はなかったから、もしかしたら“詩織が美人だと言われたことを認識する”とイっちゃうんだろうか?
「いやいや、あの先生も美人ですが、詩織さんの方が断然び…」
「わー!!」
「何だよ、大きな声だして」
「いや、今虫が目に入りそうになったから」
ゴシゴシと目を擦りながら「虫、顔に付いてないよね」とわざとらしくアピールした。もちろんそんなもの付いてる訳なく、軽くあしらわれる。む、虚しい。
「そ、そういえば今日は晴れ上がり決死隊の、ハレトークの日だね。あれ面白いよね」
「へぇ深夜番組? 私見たことない」
「面白いよ、いろんなゲストを呼んで毎回違う集まりみたいなのを作ってね…」
なんとか話を変えることに成功したようだ。この話題なら芸人さんばっかりで“美人”なんて言葉に発展しようがないもんな。ふーっと心の中で息を吐く。
学校からただ帰るだけなのに、どうしてこんなに気を使わなきゃいけなんだ。もしストレスで胃に穴があいたら、訴えてやる。
「今日は絶対見た方がいい!! なぜなら、我らがグラビアアイドルの鈴ちゃんが番宣にゲストとして出るらしいんだ」
「何の番宣? ドラマ?」
「いや、夏に始まるグラビアアイドルが水着で叩き合う深夜番組なんだけど。そのメンバーがすごい美人ぞろいなんだ。あ、そりゃ詩織さんの方が比べ物にならないくらい超美じ…」
「あああああああ」
「…今度はどうした」
「水着買ってなかったなーって。ほら、前の学校では水泳の授業なかったからさ。困るだろ?」
「今週中に買いなよ。なかったら体育教師のジュゴンに裸で泳げって言われるぞ」
「そ、そうだね」
なんとか水着繋がりで違和感なく過ごせた。こんな調子じゃ、家に着く前にストレスが原因で僕の頭が禿げ上がっちゃうし、詩織がキレる前に僕のネタがキレちゃう。
次の対策を考えていると、手に冷たくて柔らかい感触。見てみれば、詩織が小指を掴んでいた。顔を見ると『これで大丈夫』と口をパクパクさせて、キュッと強く握りしめてきた。
-----そっか、僕に触ってればキレないかも。でも、この状況ってまるで…。
「山田裕也ー!! 今ここで俺とタイマンしろー!!」
もう少しで校門をくぐれるというところで、男らしくて低すぎるとも取れる大きな声がした。首と上半身だけ動かして後ろを見ると、靴箱辺りで五十嵐番長がもの凄い形相をしながら僕の名前を叫んでいる。一難去ってまた一難。僕の高校生活に安住の地はもうないのか。
「う、うわ。最悪…大丈夫か山田くん…」
「そんな訳ないだろ? 今日も見ただろ、僕は不良を見たら迷わず逃げる平和主義者だよ」
固まっている僕らの前に回り込み、これ以上は行かせないとばかりに立ちはだかった。見れば見る程ゴツい。僕も身長が低いってわけではないが、それでも見上げてしまう程の大きさだ。たぶん190はあると思う。同じ高校生とは思えない顔とガタイの良さに、思わず寒気を感じてしまう。腕をこちらに突き出して「勝負だ!」と雄叫びを上げ始めた。
そのせいで、帰りかけていた生徒達も、これから帰ろうとしている生徒達も、何事かとゾロゾロと集まってきて僕らの周りに円を作った。
-------これ以上変な噂を流されたら困る! 噂…。
周りで僕たちの行動を見守る生徒達を見て、思いついた。一度出た噂は簡単には修まらない、でも違う噂が立った場合はどうだろう? 人は常に新鮮なゴシップに餓えている。ということは、もしここで新しい話題が出来上がれば、前の浮説はまるで潮が引いていくかのように忘れ去られ、新しい話の種で持ち切りになるんじゃないかな。
ピンチの時こそチャンスだ。ここで負ければ、僕が“伝説の男”の弟なんて噂はなくなって、ただの高校生に戻れる!! であれば、確実にここで僕はやられる為に彼を挑発しなければ。
挑戦したこともない“不良にたてつく”という行為に、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「あああああああああ」
目の前の人物が叫び始めた。それは僕を殴る為のかけ声でもなく、僕のように誰かの為に大声を出している訳ではない。でも僕の先程まで勇気を奪い取るには十分なもので、尚かつ場にいた全員が驚かされたものだった。
誰もが彼に視線を浴びせた時、五十嵐番長だけは僕たちの方を見て、もう一度大きな声で叫んだ。
「山田裕也貴様、詩織に対して不純異性行為なんかしやがって!!」
--------不順異性行為じゃなくて交遊…だよ。
突っ込みも出来ない程ビビっているくせに、頭はしっかり働いている自分が憎い。というか、不純異性交遊をした覚えなんてない。また変な噂が立っちゃうじゃないか。何を言って…これか!?
思わず上げてしまった腕の先には、磁石でくっ付いたように詩織に細くてしなやかな指が絡み付いていた。
「学内で手なんか繋ぎやがって、しかも見せつけるように…ユーヤぶっ殺す!」
必死になって彼の勘違いを打ち消そうにも、完全に頭に血が上ってしまっているようで全く僕の話を聞こうとしない。それどころか「ぶっ殺す」といいながら拳を構えて突っ込んできた。
逃げることさえ出来ずにただ呆然と立つことしか出来ない。
気がつけば僕の視界に拳しか見えず、斜め下方向へ引っ張られて右耳の横で空が斬れる音がした。ほぼ同時に詩織が小さく叫んだ。
「思いっきり右足を蹴り上げて!!」
「え、え?」
「早く!!」
言われるままに右足を出す。
「ぐぇええ」
カエルの鳴き声のような声がした。
よく、交通事故にあった人だとかボクシングの選手とかが、インパクトを受ける瞬間にまるで時が止まったかのように感じることがあるというが、今がまさにその状態だ。周りのものが遅く感じ、さらによく見える。
僕の右足は思いっきり上段蹴りしたような格好となり、五十嵐番長の喉元にヒットさせていた。思わず目を見開いて息を飲んでしまう。脚を引っ込めると、彼の目はグルリと白眼になってひっくり返っていく。
僕が元の時間軸に戻れたのはそのすぐ後、五十嵐番長が音を立てて仰向けに倒れてしまった時だった。
「や、山田くんが番長を倒したー!!」
誰かが大声を上げて叫び始めた。違う、ぼーっとする頭の中で僕も叫んだ。「ただ殴られそうになった時に詩織に引っ張られて、脚を出したら首に当ってしまっただけで、決して僕が意図的にしようとしたんじゃないんだ」そう口にしたいのに、なぜか周りを見渡すことしかできない。
「やっぱり伝説の男の弟だ!!」
「手繋いでる! やっぱりね」
「見たか、今の避け方」
「見たよ! ギリギリまで避けないからヤラレルかと思ったもん!!」
「ってか、あの蹴りも容赦ねー」
「あんなに綺麗な蹴り、始めて見たぜ」
なんで、なんでそうなるんだ!? もう、目眩を起こしそう。
「私にもユーヤにも勝てないんじゃ、番長降りた方がいいんじゃないの?」
詩織は両手を腰に当てて偉そうに言った。
--------ぼ、僕がやってしまったことになっちゃった。
「う、うわー」
ふつふつと沸き上がる恐怖を押さえることが出来ず思わず絶叫し、走り出してしまった。後ろで詩織の声が聞こえたけれど、振り返ることもせず家に直行した。後にも先にもどうしてそんなことをしてしまったのか分からない。たぶん、これが人生始めてのキレた瞬間だったんじゃないかと思う。