マクゼガルド家 8
ここに在るのは、キラキラとした世界だ。
まばゆい魔道灯の光で昼間のように明るいホールで、着飾った紳士淑女が談笑している。ダンスホールに目をやると、ルークもエリザベスもいなくなっていた。延々と踊り続けるというものではないのだろう。
気が付くと、飲み物を入れたピッチャーが空になろうとしていた。こういうものは料理と違って、無くなったら終わりというものではないだろう。無くなった時の指示をもらってなくて、私はマーティンの姿を探した。
人の隙間からようやく見えたマーティンは、どうやら酔っ払い客の粗相を片付けるのに苦慮しているようだった。とても忙しそうで、声をかけに行くのはためらわれる。
たぶん厨房に行けば補給はできるだろう。とりあえず、残った飲み物を手元のカップに注いでしまって、私は軽い気持ちで空っぽのピッチャーをかかえた。
「どこ行くの?」
ずっと隣に立っていたナーザントがたずねてきた。疑問に思ったらしい。
「ちょっと、厨房に」
私は軽く会釈して、使用人用の通用口から外に出た。
この通用口から出ると、厨房には一直線でいける廊下に出る。
さすがに考えて作られているなあと思う。
開け放たれた窓から、優しい風がはいってくる。廊下の照明はホールに比べると控えめなので、やや暗い。
厨房は午前中働いていたこともあって、すぐにわかった。
「すみません」
入り口で声をかけると、シェフのオクトが顔を出す。
「おや、アリサちゃん」
「飲み物が切れてしまって」
「もうすぐマーティンが取りに来ると思ったんだが」
「マーティンさん、お忙しいみたいでしたので」
声もかけずに出てきてしまったけれど、それほど間違ったことはしていないと思う。
「おお、そうか。ちょっとまってな」
オクトさんはそう言って、奥からピッチャーがいくつものったワゴンをもってきてくれた。
「段差はないと思うけれど、重いからゆっくり気を付けて」
「はーい」
私はワゴンをひいて、廊下に出る。ここの廊下を利用するのは使用人がほとんどだから、床は板張りだ。ワゴンも動きやすいから、かなり重いはずだけれど気にならない。
カラカラとワゴンを引いて歩いていると、後ろに人の気配がする。
振り返ると男性が立っていた。きらびやかな服を着ている。二十歳くらいだろうか。
「ちょっと待って。君」
どうやら男は私を呼んだようだ。
ひょっとして、この廊下に迷い込んでしまったのかもしれない。
「どうかなさいましたか?」
今の私はマクゼガルド家の使用人。招待客に呼ばれたら、無視することはできない。
「ちょっと、あれなんだけれど」
男は窓の外を指さす。何を指しているのかわからなくて、私は男のいるほうへと近寄った。
「なんでしょう?」
私は男の指をさす方を必死で見る。
窓の外は何もないに等しい。この廊下はいわばバックヤードみたいなプライベート空間であって、せいぜい庭木が見える程度だ。
それでも、何かあるのかもしれないと私は窓に近づいた。
「──ッ」
いきなり男が後ろから私に抱き着いてきた。口を手で覆われ身体を引き付けられる。
あまりのことに身体が固まった。怖い。
「君、なかなかかわいいねえ。少し可愛がってやるよ」
耳元で男が囁いた。お酒のにおいがする。男の体温を背中に感じるけれど、私の背筋は凍ったように冷たく感じる。
怖くて、気持が悪くて。全身があわだった。
怖いけれど、震えているだけではダメだ。私は、全身を使って逃げようともがく。
「おい、暴れるな。使用人のくせに、客のもてなし方も知らないのか? 下手に騒いだら、公爵さまに叱られるぞ?」
怖い。
必死で動くけれど、男の方が力が強くて、拘束が解けない。口をふさがれているから、呪文も唱えられない。逃れようと肘を相手にぶつけようとしたら、逆に腹部に手刀を入れられた。あまりの痛さに、動きが止まる。息が苦しい。
ずるずると身体をひきずられる。気が付けば屋敷の裏の勝手口のところまできた。
「心配しなくても、可愛がってやるよ」
男が囁く。
外に連れ出されたら、絶対にダメだ。
私は、男が扉に意識を向けた瞬間を狙って、男の脚を思いっきり踏みつけた。
「なっ!」
一瞬の隙が出来たのを見計らって、男の拘束を振り払おうとしたら、床につきとばされた。
咄嗟のことで受け身をとることはできず、後頭部を強かに打つ。
痛みに頭が真っ白になった時、私の上に男がのしかかってきた。
にたりと笑いを浮かべた男に血の気が引く。身体がガタガタと震えた。
「アリサ!」
その声を聞いた次の瞬間、男の身体がふわりと浮き上がる。
何が起こっているのか理解できない。
「なっ」
男は声をあげるが、身体は強制的に天井近くに吊り上げられた。
「アリサ、大丈夫か?」
駆け寄ってきてくれたのはルークだった。
コバルトブルーの瞳が私を覗き込む。
「マクゼガルド……さま」
その顔を見るとポロポロ涙がこぼれてきた。
「お、おろしてくれ!」
そちらをみると男はじたばたと空中で暴れている。風の力で強制的にもちあげているのだ。
ルークの得意な魔術は『水』と『氷』だと聞いていたが、それ以外の魔術もやはり超一流なんだとぼんやり思う。
「壁にぶつけられたくないなら、黙ってろ。下種が」
氷の貴公子の名にふさわしい冷ややかな声だ。浮き上がった男を睨みつけた目は、静かだが激しい怒りの色が浮かんでいる。怒った顔もまた、絵のように美しいと思った。
「ユアン!」
ルークが声を発した。
その声に魔術が混じっている。私にはまだできないが、たぶん遠話という術だ。
特定の人物だけに声を届けるという魔術。この場合はユアンを呼ぶためのものだろう。
「アリサ」
私は抱き起そうとしてくれたルークの胸に縋りつく。身体の震えが止まらない。いけないとはどこかで思いつつも、そうしないと自分がどこかに落ちていきそうだった。
「こわ……くて」
「ああ」
ルークは私の身体を抱きしめて、背中を撫でてくれた。ルークの固い胸と、回される腕から感じる体温。震えはなかなか止まらないけれど、助かったのだと思えた。
「ルークさま!」
足音と共に、ユアンがやってきた。
「その下種が、アリサに無体を働こうとした。グロワーナ伯爵家の次男坊だと思うが、丁寧にお送りして差し上げろ」
「承知いたしました。伯爵家まで、しっかりとお送りさせていただきましょう。魔術を解いていただいても?」
「解呪」
ルークは無造作に術を解いた。
「ぐあっ」
天井近くから、男は床に叩き落された。
それほど高くはないから、命に別状はないだろうけれど、男は失神したようだった。
「ユアン、後は頼んでいいか?」
「お任せください」
ユアンが頭を下げる。
「彼女を部屋に連れて行く。念のため、医者も呼ぶように」
「少し休めばきっと大丈夫です。これ以上ご迷惑をおかけするわけには」
私はルークの胸から顔を上げた。私は仕事の途中だった。それを放棄するだけでも申し訳ないのに、医者まで呼んでいただくことは気が引けた。
「迷惑をかけたのは、そこの男だ。お前が気に病むことはない」
「でも」
「そうですよ。トラウさま。仕事の件はご心配なく。あなたは本来ゲストなのですから」
ゲスト?
どういう意味だろうとぼんやり思ったとき、私の身体がふわっと浮いた。ルークに抱き上げられたのだと気づいた。そしてルークは私を抱いたまま、すたすたと廊下を歩き始める。
「……すみませんでした」
「謝るな。俺の方こそ、遅くなってすまなかった」
「え?」
「お前がいなくなったことに気づくのが遅かった。レイノルドに聞いたら、飲み物を取りに行ったって聞いて慌ててきてみたんだが、もう少し早く気付けばよかった」
夜会の会場から離れて行くにつれ、喧騒も遠のく。カツカツというルークの足音が響く。
「いえ。助けてくださってありがとうございます」
ルークがきてくれなかったらと思うと怖くてたまらない。
「お前は目立つから、目を離したらいけないとは思っていたのに」
「マクゼガルドさまは過保護ですね」
「過保護だったら、こんな目にあわないだろうが」
ルークは呆れたようだった。
廊下は誰もいなくて、ルークと二人だけ。
ルークの体温は心地よくて、安心できる。
本当はこんな風に甘えていい相手ではないとわかっているけれど。今だけは、このままでいたい。
開け放たれた窓から、丸い月が見える。
「綺麗な月ですね」
「ああ」
二人で見る月は、とても美しかった。




