5:白香神
部屋に帰ると、子珞はより重怠さを感じていた。
ど……くん
心臓の音がやけに煩い。子珞は闇の中で眉をひそめた。少しばかり息を吐けば、怠さは幾ばくか解消される。
それで何だってこんなことになっているのだ。そうだ、僕が父上の胸の内を覗くことができたのはなぜだ、と彼は考えていたのだ。
頭が冷めていくと、周りの気配を敏感に察知できるようになる。自分を見ている何かの存在も感じとれた。
「誰だ!?」
返事はないが、子珞は顔を上げ、その何かを睨みつけた。
ふっ……と気が揺らいだ。
『捕って食うわけではない』
「誰だ、と訊いているんだ」
しばらくの間、沈黙がその空間を支配する。
『白香神……人にはそう呼ばれている』
白香神! 子珞は生唾を飲み込んだ。背中に冷や汗が伝う。
白香神といえば霊幸十二神の弐ノ神で、国神に次ぐ存在だ。その性は死と闇。闇の夜を支配し、人の心を視る。人間達に畏れられている神だ。
「白香神が僕に何の用ですか」
ポゥ……と何処からか光の粒が集まり、形を成す。そして、人型の神が目の前にいた。
彼は美しかった。漆黒の黒髪が光の粒に照らされ、美しく輝いてみえる。小麦色の肌が柔らかく感じられた。彼はゆっくりと目を開けた。その瞳は子穂や子珞の赤い瞳よりも濃い、紅。
ど……くん
心臓の音が一気に速くなる。なにかが子珞の足に絡みつき、その場から動けない。
『あぁ、そうであったな』と白香神は一人ごちた。
『即位の儀で、か。すっかり忘れていた』
白香神は子珞を頭の先から爪の先まで丹念に見つめた。
『私はそなたの憑き神だ』
「憑き神?」
聞いたことのない言葉に子珞は怪訝な顔をした。白香神は『そうだ』と答えると話を続けた。
『早い話、いずれ白澪王になる皇子には霊幸十二神のいずれかが守護神となる。守護神…と言えば聞こえはいいが、要は憑いているのだ。その者の器によってな。初代国王澪子凌に憑いたのは澪蕭神だった。そのために、あやつが国神となった。それ以来、王にはいずれかの神が憑いた。そなたは私だった、それだけだ』
子珞は別のことに気をとられ、最後の方は何も聞いていなかった。
「僕が王?」
『あぁ』
「ですが、父上の後を継ぐのは兄上でしょう?」
白香神が子珞を見つめた。
『本当にそう思うのか。今まで、父と兄が似て非なる者だと思ったことはないか。自分は父と似ているのに、兄と父は何か違う物を纏っていると』
図星を指され、彼は押し黙った。そう思わないことはなかった。実際、それ程までに父と兄は似ていないのである。何が似ていないのかと問われれば、断定はできないものの、雰囲気、兄には父のような王の"気"というものを見いだすことができない。自分にそれがあるということを言いたいわけではない。自分にそれがあるないに関わらず、兄にはそれが見受けられないのだ。
『ほらな、図星だろう』と白香神は呆れたように言葉を紡いだ。
『お前は、王になる器として生まれてきた。だから私が憑いている。とはいえ、歴代には王になる器を持っていても王にならなかった者もいるから、一概には言えないがな』
「だけれど、僕は皇太子にはなれない。民は皆、兄上が次の皇太子になられると考えているのだもの」
『皇太子になるかならないかは王になるかならないか、だ。王の器でもないのに皇太子になれば、いつか祖神弁財天の怒りを食らう。その過ちのために、自分の子の人生を棒にふるようなことはあってはならないのだからな。そんな親はいないだろうよ』
白香神はゆっくりと子珞に近づいてくると、彼の顎を持ち上げ、自らとは濃さの違う赤い瞳を覗きこんだ。
『美しいな。やはりお前は神に愛された子だ。私を憑き神にするのはお勧めしないがな。そなたにとっては勝手に決まっていたことだ』
彼は寂しそうに言った。
『私の力は人の子には強大すぎる』
白香神は哀しみの色を含ませた瞳で子珞を見た。
『私をその身に宿した人間は皆、気を狂わせ、死んでいった。そなたは違うと信じている。その体、何があろうと欠かしてはならぬ。特にその瞳は我が双子神の澪蕭神の力とも繋がっている』
子珞は頷いた。否、頷かなければならないという動物的本能だった。それほどまでに白香神の瞳は有無を言わさなかった。
「あなたは僕を護る神ではなく、僕に憑いた神。よってその存在は僕を殺しもするし、生かしもするというわけですね。僕が体の何かをなくせば、あなたの強大な力が暴走してしまう」
白香神はその整った唇をニヤリと歪める。
『物わかりの良い子は好きだ』
そう言うと、つと子珞の唇に自らのそれを近づける。触れるだけの口付けを受け、神の唇は冷たいのだと気付いた。
『忘れるな。お前には私が憑いていることを。強大な力は時に人を傷つけ、貪欲にさせる。だが、死んではならない。死ぬときは私が直々に迎えに来てやるからな。それまでは死んではならぬぞ』
要するに、自ら果てることや人に殺されるなどということで死ぬことは、全身全霊で阻止しろということか。
「わかりました」
白香神はそれを聞くと、上を見上げた。
『よし、向こうに戻るか。また話せる日が来るといいな、子珞』
「はい」
その日が近い未来であることをまだ誰も知らなかった。それが絶対の約束を違えた日であることも。
目を閉じろ、と言われ、子珞は目を伏せた。
ど……くん
また、大きな鼓動が聞こえた。暖かい空気に包まれたと感じ、視界が一気に明るくなった。そして彼は目を開けた。
鳥のさえずりが耳に優しい。
子珞は周りを見渡した。父の姿は既になかった。