4:父との夜の稽古
その日の晩、子珞は不覚にも目を覚ましてしまった。今日はどうも寝付きが悪い。波蘭のもとに行こうか考えるが、五歳にもなったのだから、自分で寝ろと言われたばかりだということを思い出す。眠れないことに変わりはないので、とりあえず風に当たろうかと考えた。
「眠れないのってキツい」
剣の素振りをするのもいいな。
そう思いつき、木刀を手にして外に出る。外は案の定暗く、光はない。自分の部屋の薄暗い灯りと満月の光のみ。
ビュン
木刀を振ると風を切る音がした。父からはまだ真剣を与えられていない。与えられたのは短剣のみ。だが、無碍に抜いてはいけないと言われている。真剣が手元にあったとしても、生きるため以外には抜くなと言われていた。
「母上を守るのは僕だ」
父が政務でいないときは自分が守る。
ビュン、ビュン
「子珞…こんなところで剣の素振りか?」
子珞はハッとして、声のした方を振り向く。
「父上……」
父子穂と自分はとてもよく似ている。以前、子孝に物心ついた頃に会った時は、子穂と雰囲気があまりに似ていなくて驚いたものだ。
「少し貸してみろ」
子珞が木刀を渡すと、子穂は「……うん」となにか考え、子珞の方を見た。
「子珞、お前にとってこれは重いか?」
子珞は首を傾げた。
「少し……」
「もう少し重い木刀にしよう…来い」
歩き始めた子穂の後を、子珞はついて行った。
「子珞、狭良になにかあったか?」
子穂は子珞に尋ねた。父がこういう時は決まって、母がいつもと違った時だ。しかし、子珞には母がいつもと違っているのかわからなかった。
「いえ」
「そうか……それならいいが……」
子穂の顔が幾らか陰る。父は母の何かある違和感を見つけたのではないだろうか。子珞は、頭の隅々まで探し出した。
「父上、思い出しました。母上は食事の後、なにか飲んでいらっしゃいます。今までは飲んでいなかったのに! それにお嫌いだった香を嗜まれるようになっています」
子珞の言葉に子穂は歩みを止めた。
「なにを飲んでいるかわかるか?」
子珞が悔しそうに顔を歪める。
「いえ。ですが、ニオイならば。母上がそれをお飲みになった後は決まって紅花の香りがします」
子穂は愕然とした。なにかよくないことが起こっていることは珞にもわかった。子穂は子珞の両肩を掴んだ。
「いいか、子珞。私は明日宮に帰る。私が次にここに来るまで、狭良を守ってくれ」
「はい」
歩きながら話していると、いつの間にか武器庫に着いた。子穂は燭台に火を灯すと、奥へと進んでいった。今、子珞が使っている木刀は軽すぎる、と子穂は考えていた。真剣の重さの少しにも満たない。剣の重さは人の重さだと言われる。
あのような軽い木刀では、人の重さをわかることはできない。彼は小さいながらも剣士なのだから。そんなことは子珞は考えていないだろうが、子穂はそう考えていた。
「ここらへんか」
子穂は丁度いい具合の重さの木刀を見つけると、子珞を呼んだ。
「子珞、あったぞ」
「はいっ!」
彼は嬉しそうに駆けてくる。子穂はそれを手渡した。
「重いか」
その問いに、子珞は真剣な顔をして返事する。
「重いです」
子穂は微かに苦笑を漏らした。
「そうだろうな」
「ですが、大丈夫です。持てます」
一所懸命に弁解する息子の頑張りに、子穂は可愛いな、と感じる。そして子穂は子珞の頭をくしゃりと撫でた。
「素振りは毎日百はすること。無理して回数を多くすると肩を壊す。七になったら三百、十二になったら五百……こうやって増やしていけばいい。柔軟は毎日しろよ。身体をやわらかくしておくことが大切だ。軽業師のように身を軽くしておけば、怪我をしなくなるし、自分の命が守れる。地道な努力が実を結ぶんだ」
子珞は静かに聞いている。
「わかったな」
「はい」
それと、と子穂は続けた。
「義を貫け」
「義、ですか?」
「あぁ。今は理解できないかもしれない。だが、最も正しい道を進め。悪を赦すな。いいか」
「はい」
この言葉は子珞の胸に残ることになる。
「子珞、昼にできなかった剣の稽古をつけてやる」
「はい! ありがとうございます!」
子穂は自分用に重たい木刀を選び、燭台の灯を消して、武器庫を出た。
「行くぞ」
子珞はパタパタと走ってついてくる。
外に出ると、空が白み始めていた。子穂は木刀を振った。
ヒュン
木が手に吸いつく。それもそうだ。今まで自分が使っていた木刀なのだ。自分と母がずっと暮らしていた場所だ。母が死ぬまで。
子珞の瞳がスゥと細められる。この様を自分は知っている。幼少の頃、子穂自身もそうであったのだから。"これ"をしなくなったのはいつだったろう。やっているうちは無意識だが、やらなくなるとわかるのだ。何かが外れていたということに。確か、10歳かそれくらいでそのことに気がついた。
相手に打ち込む時に目を細めるこの仕草を続けている間は、この幼い少年は国でも類を見ない剣士になる。子穂でも気が抜けなかった。
幾度も木刀が交わる。その度に鈍い音が響いた。
「……っふぉ」
妙な掛け声と共に、子珞は打ち込んでくる。重い。
しかし子穂は何も言わず、息も乱さずして、子珞の刀を凪払い、彼の喉元に木刀の切っ先を突きつける。
「ぅ、参りました」
子珞は悔しそうな顔をする。
「大人気ないですよ、父上」
「何を言うか」
思わず笑みが浮かんだ。ふたりでクスクスと笑い合う。
「父上、大きくなったら、父上のようなお人になれるでしょうか」
何気なく呟いた息子のその言葉に、子穂は笑うのを止めた。無言のうちに、先へと促せば彼は口を開く。
「いつまで経っても強くはなれないし、背も高くならないし。それに、もしも母上が」
「狭良がいなくなったら、守る者がいなくなる……と」
子珞は頷いた。子穂は幼子の頭をくしゃりと撫でた。この子は母親の命数が幾ばくもないことを本能で感じている。子穂にも同じ経験があるため、その感覚がわかるのだ。
龍王の血を継いだ、"国継ぎの皇子"を産み落とした母親は短命である。子穂の母も、子春の母も若くして亡くなった。毒を盛られようとも、短命であることはどの世も同じである。その事実を知ったのは子珞が産まれた後。そのことを知るのは王である者、王になる者のみ。
「お前が守る者は母以外にもあるさ。子珞、父が守っているのは何だと思う」
子珞は暫く考えた。円らな瞳が子穂の目を見る。心の奥を覗かれている、そのような感触を受け、ぞわりと背中の毛が波打った。
「父上が守るべきものは国。母上や僕よりも真っ先に優先しなければならない。それが皇太子である父上の御役目。僕は、僕は!」
それきり押し黙った。微かな吐息が震える。
今、子珞は父の心を覗いた。何故そのようなことができるのかは、わからない。
子穂は子珞を見ている。驚いてはいなかった。僕だけできる、そんな訳ないと言ってほしい、と彼は思った。
自分が暗い所に沈んでいくのがわかる。何も聞こえない。何も見えない。自分の五感が反応しない。
その様子を子穂は見ていた。恐らく、この子は自分とは違う何かが宿っている。
"国継ぎの皇子"に尋常でない力があるのは、神がその身に宿っているからだ。なんの神が宿っているのかは即位式でわかる為、子穂は自分の体に宿る神が誰なのか知らない。
だが、この異様な空気は何だ。纏わりつく様な闇色の気。
「部屋に帰ろう」
暗い目をしていた子珞は顔をあげた。その瞳に先程までの闇は見えなかった。
「はい」
もうすぐ、朝が近い。