3:父母と兄弟
子孝はこの話を乳母から聞いた。そして、人の道を外した母に対し、嫌悪感を抱いた。初めて発した言葉は「悪鬼」だったという。子穂が玉麗に激怒したとのことであった。
それ以来、玉麗は子孝に体罰を行うようになった。もともと発語が遅かったこともあり、四歳の頃から、体をつねられたり、キセルを押し付けられたりした。そして、五歳の頃から鞭を使い始めた。ちょうど、離宮に入り浸るようになった時分であった。
その前から、子孝は離宮に入り込んでいた。母や乳母の目を盗み、離宮に冒険に出かけたのは三歳の頃であった。
「まぁ、壱ノ皇子様かしら?」
離宮の庭に迷い込み、見知らぬ幼児、しかも自分を毒殺しようと思った相手の子に対して、狭良は優しく包み込んでくれた。泣き出した自分を抱きしめ、傷を癒す秘薬を全てくれたのは最大のご恩であり、子孝は絶対に狭良と彼女を選んだ父を裏切らないと心に決めていた。そして、弟の可愛さがあった。兄としての自覚の芽生えはここから始まったと言っても過言ではない。
まだ、おしめをつけている子珞のおしめを替えさせてもらい、子守まで任せられるようになるには多大な努力が必要であった。女官や侍女が子孝を警戒したからである。しかしながら、その信頼を得ることは、子孝が子孝であるために必要なことであった。
父の子穂と鉢合わせた時の焦りは半端な者ではなかった。子穂も呆気に取られた顔をしていた。
数ヶ月に一度会う程度だった父、ましてや話すことなどなかった父と話す機会を与えてもらえ、勉学や政治についても父と意見を交わすことができるようになった。そして、六歳のときには朝儀に出ても良いと許可をもらった。反対意見もあったそうだが、宰相と三司官が推したという。その期待に応えるべく、子孝は幼子ながら、めきめきと頭角を表していった。
狭良があることを決行しようと決意した三日前、壱ノ皇子子孝がやってきた。いつもの通り、子珞の相手をしてくれることの挨拶だろうと思っていたら、彼女にも用事があるという。
「私はお二人を守るために、七歳が終わる頃に諜報部隊を作り上げました。そこで最近、ある情報を手に入れました。私の母は他国から、何の反応もでない遅効性の毒を買い、五年間も狭良様に投薬していたのですね」
彼女はふっと笑って頷いた。そのことを知っていたのだ。
「御命はどれほどなのでしょうか」
「もう命は長くないと思う」
子孝は腕をぐっと握りしめた。そして、狭良の方を見る。
「私にできることはないのですか」
彼の言葉に狭良はじっと彼を見つめ、思案した。そして、口を開く。
「子孝殿下。私の分まで長生きしてくださいね。お父上を支えてくださいね」
狭良は声を詰まらせた。そして、子孝に頭を下げた。
「私の息子を、子珞を、よろしく頼みます」
床に落ちるその小さな水溜りに、彼も目元を指で押さえ、ぐっと我慢した。
子孝がすべきことは泣くことではない。どのようにして、幸せを奪った者たちへの罰を与えるか考えることだ。
子孝はその足でそのまま離宮の母屋にある客間へと向かった。
「あらー、こんにちは。兄上様、そろそろ来ることだと思っていたのよ」
照子はニコリと笑った。
「わざとらしい芝居はよせ。そなたの持っている情報すべてを買おう。その代わりとして、この前の『父上が陛下になった際に、弐ノ夫人が王妃になる』計画、加担する」
彼女の瞳がキラリと煌る。
「買ったぞ」
持つべきものは有能な妹であると、彼はこの時初めて思った。
「母上!」
狭良は息子の声を耳にし、声のする方向を向いた。息子の白い髪が太陽に照らされてキラキラと輝いている。
今年で五歳になる息子の子珞は誰にも言えない秘密を持っていた。彼には、背に鱗の痣を持つ"国継ぎの皇子"であった。子穂はそのことを知っていて、それでいて公表しなかった。
子珞が自分の跡継ぎだと公表すれば、狭良が後宮の争いに巻き込まれるのは百も承知のことだからだ。
鱗の持たない、壱ノ皇子 子孝の母親は有力な中央士族である夏一族の娘である。対する狭良は島の出で先住民の血を濃く引く娘であるため、子珞が国継ぎの皇子であることを公表し、母子ともに命の危険には晒したくなかった。
「母上、父上はいつ来て下さるのですか? 剣の稽古を見ていただこうと約束して下さったのです」
子珞は赤い瞳を仔栗鼠のように動かし、何も知らず、無邪気に笑った。
「そうね、最近はなかなか来てくださらないわね。でも、陛下の御容態が優れないのですよ。暫く待っていれば、陛下のご病状もよろしくなるわ」
国王子春は今春より、病に伏せっていた。
「はぁい。そういえば、父上が仰っていたのですが、父上が直々に剣術を教えているのは僕だけなのですって。兄上は別の方に教えてもらっているんです。なんだか嬉しいです」
嬉しそうに笑む我が子を見ながら、狭良はその理由について考えていた。無論、"国継ぎの皇子"が剣術を教え合うには訳がある。
子穂曰く、そもそも、彼らは剣の扱い方は生まれた時からわかっており、剣を手にすれば、誰も敵わないほどだという。鍛錬は必要であるものの、そのようなその能力を悪用しないように、剣を持つ者の精神を学ぶのだ。
朱塗りの小ぶりな離宮の廊下から乳母の波蘭が顔を覗かせた。
「子珞様! こんな所に隠れていたのですか!? お勉強していただかなければ困ります」
勉強という言葉を聞いて、子珞の顔が苦痛に歪む。その幼子の愛い様子に狭良は苦笑を漏らした。
「狭良様、殿下がお越しになられます。お召し物はどうされますか」
波蘭は狭良にも用事を伝えに来た。子珞の乳母でありながら、狭良が最も信頼している専属女官の一人である。子どもを産んで直ぐに亡くし、夫とも縁を切った彼女に、子穂は白羽の矢を立てた。突然女官試験を受けることになっても、すぐに通過して来た有能な者である。
年も近い彼女は狭良とすぐに友人になった。出会った当初、「お妃様」と呼んだ彼女に名前で呼んでほしいと言ったのは狭良である。そんな高い身分ではないと彼女は自身のことをそう思っていた。
子穂からの贈り物は届けられていない。壱ノ夫人が嫉妬から贈り物を横取りしているのだ。御内原に入内した時から行われて来た嫌がらせだったが、子穂が言い聞かせても五年間ずっと行われている。狭良は苦笑した。
「お忍びだろうから、着替えなくても大丈夫よ」
波蘭の言葉を聞いて、子珞が声を上げた。
「父上がいらっしゃるのですか?やったぁ!」
「お迎えに行きましょうか」
狭良の提案に、波蘭が眉を寄せた。
「狭良様、甘やかしはよくありません。子珞様は今からお勉強なさるのです。殿下と共におられたら、いつまでたってもお勉強なさいません」
「それもそうね」
父に会いたくて、うずうずしている息子に彼女は諭した。
「勉強できる殿方の方が、父上はお好きだと思いますよ」
「それもそうだな」
久々の低い声に、彼女は立ち上がった。それと同時に庭先から子穂が姿を現す。
「狭良、久しぶり。子珞、勉強に行ってきなさい。幼い頃からの勉学は後々の強みになってくる」
父にそう言われ、嫌々ながらも波蘭に連れられ、子珞は母屋へと戻っていく。
子穂は少し疲れているようだった。子穂は微かに周囲を見回した。誰かに見張られてる可能性が高いのだ。何かがあったとしても、それは口に出してはいけなかった。
狭良はいつものように右の掌を差し出した。二人が思いついたのが、掌に二人しかわからない文字を書いて情報を交換し合うというものだ。
(父上の容態が思っていた以上に悪い。もしかしたら)
彼の指が止まる。狭良は何も言わず、子穂を優しく抱きしめた。そして耳に直接「大丈夫」と呟いた。狭良は子穂の瞳を覗きこんだ。
「貴方は国神様からこの国を委ねられているのよ。子珞の父親だもの」
子穂は狭良の頬にそっと手を滑らせた。彼女はゆっくりと瞼を閉じる。
薄く整った唇が狭良の薄紅色の唇に重なる。啄むような口づけを彼らは何度も交わした。扉の外には息を潜めた気配がふたつ。だが、彼らを邪魔することなくそこにいる。
「今夜はここにいる。久々に政務から抜け出して、ここに来れた」
御内原で壱ノ夫人から酷い嫌がらせを受けた狭良は子珞を産むと同じくして、離宮に移り住んだ。ここならば、子穂の息がかかった者のみが従事しており、御内原よりは安全だった。
「今度は女の子がほしいの」
狭良が寂しそうに笑ったのを子穂は見逃さなかった。
「どうした? なにかあったのか」
彼女は何も言わずに子穂に口づけた。彼女にとって、夫である彼ですら言えないことはあるのだ。
「愛しているわ」
彼の問いには答えずに、狭良は唇を離してそう言うと子穂は「俺も愛している」と答えた。その言葉に狭良は柔らかく笑った。
「それが聞けてよかった。来世でも貴方の妻になりたい」狭良は物惜しげに呟いた。
「来世ね。俺が乞食でも妻になってくれるか」
「馬鹿ね。貴方が何者であろうと、私は貴方の妻になるわ」
彼の唇が再び重なってくる。今度のそれは、長く、深く、そして甘い。
「俺が王になったら、王妃にたてるのはお前だ」
息をつき、子穂は狭良の胸に顔を埋めて言った。胸の中で呟いたその言葉に、狭良は「うん」と呟き返す。何か諦めきれない顔つきに、子穂はこの時気づけなかった。
そのまま、二人は離宮の母屋へと移動する。二人は早く肌を重ね、相手の愛を確かめ合いたかった。
「……しすい」
狭良が熱く掠れた声で呟くと、子穂は生返事をして、白磁の肌を掌で転がした。
彼女の首筋に散る色づいた花弁はどれだけ想い合ったかを示す。そしてひとつ、またひとつと今もなお増え続けていた。
「私だけをずっと愛すると誓える?」
子穂は狭良の瞳を覗き込んだ。なぜか、その瞳からは大粒の水晶が、今にも零れ落ちそうである。
「誓う。俺と夜国の丘を共に登るのはお前だ」
夜国とはそれは人が死んだ後に向かう世界のことだ。夜国の門の前には高い丘があり、その丘は自分が愛し、また愛された者と登る。
「うん」
その言葉を聞ければ何もいらない、と狭良は思った。
*****
「さぁ、兵法でも勉強しておきましょう」
「はぁーい」
子珞は渋々、母屋に帰った。父母は会うといつも二人きりになりたがるのである。いつものように兄上が一緒にいれば、勉強も捗るのに、と渋い顔をしてしまう。自分の部屋に戻ると、すだれ越しに人影が見えた。
もしかして、と思い、彼は部屋に飛び込む。すると、予想通りの人物が座敷に座っていた。
「兄上! 子孝兄上! 今日は、照子姉上も来てくださったのですね」
自分と同じように、白髪赤眼の兄と姉である。子孝は壱ノ夫人の子でありながら、幼少期から母より虐げられてきており、離宮に逃げ込んでいた。照子は弐ノ夫人の子であり、狭良が仲のよかった夫人の一人であったため、仲良くしている。
「妾はおまけのようじゃな。今日は妾も御嶽の祈りから逃げて来たのよ。あれはつまらぬ」
「そんなこと言っていいことではないよ、照子。国神様に祈ることは私たちにとって必要なことだ。それに、そなたはヲナリの役割を担うかもしれないじゃないか」
「そんなもの、"国継ぎの皇子"の王妃が務めればよいことぞ。妾は早う降嫁しとうぞ」
「なんてこと言うんだ。まだ七歳の童女が」
「それを言うたら、そなたもまだ八歳であろう。同じではないか」
カカと笑う照子に子孝は黙った。二人の仲の良さに早く混じりたいと思う子珞である。
「ところで、今日は四書を持って来たんだ。一緒に勉強しよう」
「ほほう。以前よりどの程度、勉学が進んでいるか見ものじゃな」
二人の年長者に見張られ、子珞は何も言えず、しぶしぶ四書に向かうのだった。
兄の子孝はすべてにおいて、優れた才覚を持っていた。姉の照子は語学に通じ、その優秀さから、西方の語学を学ぶことを許された皇族唯一の者である。そして、白澪全土の地理感に優れており、それについては兄を上回るほどであった。そんな二人を子珞は尊敬していた。
弐ノ媛には会ったことがない。白髪赤眼でないことは照子に聞いた。武芸に秀でており、子珞に会ってみたいと言いながらも、約束をすっぽかして、鍛錬してしまうという。照子曰く「筋金入りの武芸馬鹿」らしい。子珞も一度会ったみたいと思っている。
「今日は父上がいらっしゃっているのであろう? 騒ぎすぎてバレたら困るから、こそこそ話じゃな」
照子が舌をぺろりと出した。
「そういうちゃっかりしたところ、嫌いじゃないよ」
子孝は嘆息しながら言った。
子珞はそれを見て、二人はいつも言い合いをするけれど、とても仲がいいんだよなあと思った。