9:月桃の儀
子孝は体が徐々に冷え、手足の感覚がなくなっていくのを感じた。後頭部から流入される何かさらさらとした何かが体に溜まっていくのがわかる。しかし、ある閾値を超えた時、衝撃的な痛みを全身に感じ、体がしなった。閉じろと言われた瞳が目いっぱいに広がり、血走る。
「兄上!」
珞の声が遠くから聞こえた。子孝の視線の先は何も見えない。彼の瞳孔は小さくなり、揺れ、表情は苦悶に塗れていた。子孝の口の端から、彼の神聖なる真っ赤な血が流れる。それを澪蕭神が人差し指ですくい上げた。そして、自身の唇を子孝の後頭部から離し、すくい上げた血を舐め上げた。
その耽美な様にその場にいた全員が息を呑んだ。しかし、当の子孝の体には先程までの痛みとは比べ物にならないほどの激痛が走っていた。そして人ではないような咆哮を叫び、崩れ落ちた。
「兄上⁉」
崩れ落ちた子孝に近寄ろうとする珞を子穂は止めた。
「子珞。これが、子孝の求めたものだ。我らの体にも強大な力が宿っていることを忘れるな」
珞は唇を震わせ、「はい。……父上」と言った。
子孝は夢の中に立っていた。自身の後ろは太陽が輝いている花畑、目の前には砂の丘が広がっていた。思わず、足を前に出そうとする。
「殿下! 子孝殿下!」
自身の名を呼ぶ声が聞こえ、思わず後ろを振り向く。そこには、彼の愛する人が立っていた。いつもならカラジに結わえていた赤銅色の髪は下ろされ、風にたなびいている。
「愛しています。お願いだから、夜国の丘には先に行かないで」
それは都合の良い夢だった。しかしながら、彼を此岸に留めるのには十分だった。
「私は、紗鶴と――結ばれたい。子珞に取られたくない。私は生きるんだ」
子孝が死んだら、子孝の壱ノ夫人となる伯山紗鶴は、子珞の壱ノ夫人となるだろう。それが理というものである。
「私は生きる」
子孝は呟き、花畑の方に一歩踏み出した。
子孝はハッと目を開いた。ふらふらになりながら、立ち上がると「あにうえええ……」と珞の泣きそうな声が彼の耳に届いた。子穂と手を繋がずとも、神々の姿を見ることができる。
「子珞、私は戻ってきたぞ」
「はい!」
珞が駆け寄ってくる。そして、子孝の体を抱きしめた。
「俺、兄上が返ってこないかと思って、焦りましたよ」
「ばーか、私が死ぬわけないだろう」
子孝は珞の頭を愛おしそうに撫でた。生きて帰ってこれたのは奇跡に近い。夢かもしれないが、後程紗鶴にも感謝の意を表しておこうと、彼は考えた。
『これで、月桃の儀が行えるな。子珞、元の場所に戻りなさい』
珞は澪蕭神の言葉に渋々元の位置に戻った。
『聖剣を』
蓮彗は盆に置かれた二振りの短刀を琉城大むしあられから受け取った。
『二人とも、その剣を手に取りなさい』
子孝と珞はその聖剣を一振りずつ手に取った。
『二人とも、その聖剣で左目をくり抜きなさい。目は聖水に浸けるんだよ』
彼らの手が震えた。決意したとはいえ、いざ行おうとすると、震えてできないのだ。
「子珞、大丈夫だ。私も怖い。お前と同じだよ」
「兄上……」
「掛け声をかけて、一緒にくり抜こう」
珞の瞳から、大粒の涙があふれた。兄がいれば、安心だ。自分一人ではない。過去、アカバナーの儀を行ってきた皇子は両眼だった。それに比べたら、まだマシではないか。
「ご一緒させてください」
涙をあふれさせる珞とは対照的に、子孝の心は凪の心境であった。それは年の功か、それとも一度夜国の丘を見た者の落ち着きか、彼自身もわからなかった。
「いくぞ。私が掛け声をしたら、えぐり出すんだ」
「はい」
「左まぶたを見開かせて――いっせーの……‼」
吹き出す血と共に、目玉が聖水の中に転げ落ちた。二人は左目のあった空洞を押さえた。溢れ続ける血の量にゾッとする。
目には繊細な神経が通っていることを二人は知っていた。だからこそ余計に不安になった。聖水に浸かった目玉は、何もなかったように転がっている。
珞の後ろに立っていた白香神、子孝の後ろに立っていた澪蕭神は、自身の憑き人の目玉を聖水から拾うとその目玉に口づけた。そして、彼らの後ろを離れ、対岸の皇子の下へ移動する。その間、彼らの赤眼に変化が訪れていた。珞の赤眼は黒く、子孝の赤眼は青く変化していく。それは白香神が死の神、澪蕭神が海の神であるからに違いなかった。
彼らは子孝と珞の下へそれぞれやってくると、血が吹き出る左目に手をかざした。すると、嘘のように出血が引いていく。その空洞に、珞には子孝の目玉を、子孝には珞の目玉を、押し込んだ。二神はそれぞれ二人の唇に口づけた。神からの口づけはむしろ心地よいものであった。自身の体にある憑き神の神力とは違う神力が流れ込んでくる。それが、左目に集約されていくのが二人には感じられた。そして、珞の背にあった龍の鱗は徐々に子孝の背に移行されていった。唇が離れた時には、儀式の前とは違う二人が立っていた。
『お疲れ様。これで月桃の儀は終わりだよ。君たちは二人で一人だ。一人が死ねば、もう一人も死ぬ。よく考えて生きることだね』
二人はその言葉を聞いて、顔を合わせた。そして、どちらともなく笑顔が溢れだした。
「生きるときも死ぬときも一緒ということですね」
珞は澪蕭神にそう尋ねた。
『そうだよ。交換した目で相手の見ている光景を見ることもできる。二人は一人一人の人間ではないということだね』
「「長生きしよう」」
珞と子孝はどちらともなく、同じ言葉を紡いでいた。
『それじゃあ、私たちはこの国を見守っているから。聞得大君、儀式は終わりだ』
蓮彗は神々に対し最敬礼を行った。そして、古代白澪語で文言を唱える。すると、神々の姿は一瞬にして消え失せた。
どさりと音がして、珞は音のする方を向いた。すると、子孝が床にへたり込んでいる。彼は子孝の方へ歩み寄った。
「兄上、大丈夫ですか?」
子孝は空笑いをし、額にある冷汗を拭った。
「腰が砕けてしまったよ。伝説の神々が自分の目の前にいらっしゃったんだから。これからはこれが普通になるのか。私の心臓が保つかな」
珞の手に支えられ、子孝は立ち上がった。その二人に対し、子穂は二人ごと抱きしめた。
「本当に、無事でよかった」
二人は顔を見合わせて笑んだ。
「「はい」」
そして、月桃の儀は終わりを告げた。
その帰り道、子孝は珞に伝えた。
「私は自由ではない身を手に入れた。だがそれは、私が自由になれる身を捨てて、私自身が選んだことだ。ありがとう、子珞。そなたは私に選ぶ自由をくれた。そなたは私の風をよぶ君だ」
彼の言葉に、珞はニッと笑みを浮かべた。
「俺の方こそ、ありがとうございます」
彼らには、それぞれが成さねばならない使命を持っていた。