4:母の遺したもの
「まずは、子孝。そなたからだ。私の室に来なさい」
「はい」
子穂は立ち上がると、蓮彗に目配せした。
「はいはい、子珞殿下はわらわの居室に案内いたしますとも。殿下が見たいものもあるじゃろうしなあ」
蓮彗は嫌そうな顔一つせず、面白そうにカラカラと笑った。
「よろしく頼む。子珞は子孝との話が終わったら、呼びに行かせる。それまで、蓮彗の室で待っていなさい」
「はい、――父上」
子穂はその言葉に小難しそうな顔をし、子孝を引き連れて部屋を出ていった。
「さて、わらわらも室を移ろうぞ。そなたとはこーんな小さなときに会ったきりじゃな」
蓮彗は赤ん坊の大きさを手で示した。
「あの壱ノ夫人のせいで、わらわと狭良殿との楽しい時間が無くなってしまったのじゃ。壱ノ夫人がおらなくなって、わらわが壱に昇格し、綾子媛の母である参の夫人 蓮見香が弐に昇格になった。今はわらわと蓮見夫人が陛下の夫人じゃ。皇太子当時、陛下には妻もいらっしゃったが、今は既に下賜されて、この御内原にはわらわと蓮見夫人しかおらぬ。蓮見夫人も武門のためか、体づくりのために陛下に許可をいただき、女神隊という女人だけの武人を作り上げているところよ。今は室にはおらぬ」
彼女は優雅に立ち上がった。程よい香の匂いが衣擦れのたびに部屋に薫る。
「そういえば、この香の調合も、狭良殿に教えてもろうたものじゃのう。それまで、李国から仕入れていたものを使っていたのだが、それでは香の薫りが強すぎるとのことで、国内のもので調合できる香を教えてもらったのじゃ」
珞はその話を聞き、くすりと笑った。おぼろげになりつつある記憶の中の母は、必要なことがあれば、物事を相手に伝える人だった気がするからだ。
「そんな気がします」
「もう、母の記憶もおぼろげじゃろうに」
「もうすぐ十三になりますから、母と別れて八年になりますからね」
「そうじゃな。わらわの部屋に狭良殿と交換したものがあるから、もしよければ持っていくとよいぞ。遺品はそこまで持っておらぬのじゃろう?」
蓮彗はそう言うと、謁見の間を出た。珞は慌てて、彼女の後をついていく。彼女の部屋は子孝が言っていた通り、一番奥にあった。
手前から三番目の部屋を通り過ぎるときに、「王妃様、お戻りでしょうか」と声がかかった。蓮彗付きの女官である。
「気にせずともよい。客人じゃ。陛下もご存じのため、案ずるな」
「承知いたしました」
誰も入ってくることもなく、蓮彗の部屋に入る。その部屋は書物で埋め尽くされていた。
「汚くて済まぬな。子孝殿下からも照子からも『汚部屋』と言われておってなぁ。酷いとは思わぬか?」
珞も正直、汚い部屋だなと思ったが、「王妃様は書物がお好きなのですね」と話の方向性を変える。すると、蓮彗は目を輝かせた。
「そうなのじゃ。書家は北にある按司の一族なのじゃが、知恵の神 慶蛍照神の守護地なのじゃ。書家の管轄している所轄地では、民草からでも優秀な者は取り立てているのよ」
蓮彗は当たり前のように言っているが当たり前の話ではない。按司の一族が率先して行っているからこそ、できていることだ。民は手が少なくなることを嫌う。優秀な者を取り立てるだけではなく、家族への報酬もあるに違いない。珞は各按司によって、その土地の状況は変わってくるだろうと考えた。
「そうそう、これを見せてあげたいと思っておったのじゃよ」
足の踏み場もないような書物の山の中で唯一美しく整理されている部分から文箱を取り出した。
「これがそなたの母君狭良殿から頂いたものじゃのう」
文箱の中には様々なものが入っていた。それを蓮彗は一つ一つ説明する。その中で唯一、珞の目に留まったものがあった。
「これはなんですか?」
その問いに、蓮彗は高笑いを響かせた。
「良いものに目を付けおって。それは樽磨から仕入れたものだそうでの。わらわの姓が書であるから、と買い付けてきてくれたものなのだ。それが気に入ったのであれば、そなたにあげよう。わらわにはもったいなくて使えなかったし、そもそも外に出る機会がないものでな」
そのものは、小さな墨壺と解体式の小筆がついた飾り紐だった。
「頂いても、よろしいのですか?」
蓮彗は上目遣いに見る珞の様子を見て、微笑んだ。
「よいぞ。他にも持っていきたいものがあれば持っていくとよい」
しかし、彼は物よりも母の話を聞きたかった。
「母の話を聞きたいのです。もしよければ、話してくださいませんか」
そう問われた蓮彗は頷いた。
「もちろんだとも。どこから聞きたい?」
医務官の弟子とは思えぬあどけなさで、珞は蓮彗と狭良の話で盛り上がった。当時、彼女が何を考えていたのか、どのような会話をしていたのかを知ることができた。離宮に移動した後の文通の書面も見せてもらい、母の穏やかな日常や珞の成長の様子が書かれているのを見て、珞は自身が母から愛されていたことを知る。薄れゆくも、そこには母の姿があった。
「俺は母上に愛されていたんですね」
蓮彗はその呟きにぽかんと口を開けた。そして、ふふっと小さく笑った。
「当たり前じゃろ。そなたの母はそなたを護るために、離宮に移動したのだよ。そなたの乳離れの食に毒が入れられ始めていたからな。狭良殿は自身の毒より、そなたが毒に侵されるのを避けたのだよ」
「そうなのですね……」
珞は少し寂しくなった。御内原にいたときは二人が狙われ、離宮にいたときは母一人が狙われた。彼は母の愛情を一身に受けていたことを改めて感じた。
「継母上、私と陛下のお話し、終わりました」
すだれの外にはいつの間にか、子孝が帰ってきていた。蓮彗は珞の肩を叩いた。
「いってらっしゃいな。今まで陛下と話せなかった分、沢山話してくるのじゃよ」
珞は自信なさげに頷いた。