2:夏玉麗と壱ノ皇子
子珞を産んだ後、居場所を御内原から離宮へと移動した。しかし、それでも諦めずに夏玉麗は狭良の食事に無味無臭の毒を混ぜ込ませた。
誰も気づかなかった。銀の皿にすら引っかからなかった。貴重な毒だったのだ。
毒を盛られたということに気が付いた時には、既に遅かった。五年の月日が経っていた。
末期症状になり、多量の血を吐いたのだ。狭良はすぐに気が付いた。自分がどのような毒を盛られ、あとどのくらい命が残っているのかという、気づけば誰しもが発狂するものである。
「あと……保って一週間」
彼女は冷静だった。しかし、もっともっと生きたいという気持ちは強い。夫と子さえいればそれでよかったのだ。短かったが、生きた時間は掛け替えのない物だった。死ぬのは怖くない。だが、少なくとも子珞が成人するまでは見守りたかった。冷めやらぬ将来への後悔が心を暗やませる。
「大丈夫。あの子ならやっていける」
しかし、彼女の心配事の一つは、彼女の死後に子穂を一人残すことだった。可哀想だが、子珞を逃さなければ、確実に殺されてしまうだろう。"国継ぎの皇子"だから、他より被害はないかもしれないが、毒は飲ませたくない。一度都を出れば、一生会うことはないかもしれない。色々考えればきりがない。
狭良は部屋の戸棚から絹袋に入った小さな先見玉を取り出した。郷を出るときに持ってきたものだ。力を持つものが見れば、水晶の中に仄かな海色の煙が満ち、見たいものを唱えれば、それを映し出す。力を消費するので、近頃は全く使っていなかったが、壱ノ夫人が子珞を殺そうとするのなら、今使うべきだ対処の仕方が変わる。
狭良は先見玉に手をかざした。瞬く間に海色の煙が小波立つ。
「壱ノ夫人を」そっと唱えると煙がたちまち人型を成し、輪郭を作り、動き出す。
【霧たちよ、あの憎き参ノ妾と小僧を殺してお仕舞い。報酬はいくらでも出す。生きて返すな。】
まさか、霧に頼むとは……彼らの上を行くのは恐らく、国王と皇太子直属の『耳公・目公』しかないというに、と狭良は畏れた。
彼女は先見玉に素早く手を掲げると、「白香神様にお願いしなければ」と唇を震わせた。
「とりあえず」
子珞に憑いている神に交渉を持ちかけねばなるまい。私がいなくなっても、子珞の命を今まで以上に護ってほしい、という想いを胸に狭良は唇を噛み締めた。だがその前に、自分の心の準備をしておかねばならない。
*****
離宮には子孝が一人で来ることが多いが、ごくたまに、壱ノ媛である照子も一緒に付いて来ることがある。照子は子孝が考えたくないような抉るような言葉を簡単に話してくる、媛としてはどうしようもない者と思っていた。
その帰り道、照子は子孝にこう問いかけた。
「のうのう、どうしてそのように子珞と仲ようできる? そちの母が、参ノ妻殿に毒を盛っているのと同じように、そちも子珞に憎しみは持たぬのか。あからさまに、陛下は御内原より、離宮に行く回数の方が多いであろう?」
子孝は鋭い目つきで照子を睨みつける。照子は子孝と同じように独自の諜報部隊を雇っている。だが、子孝とは違い、それは城の内部情報が主だっていた。誰が誰に毒を手渡しているか、その証拠も含めて全てを掴んでいるといっても過言ではない。情報ならお手のものである。
「私は兄だぞ、いい加減敬いなさい」
「自身の外戚、母親共々処刑に処し、我が母を王妃の座につけたら、敬ってやろうぞ。まぁ、冗談だがな」
冗談なのか、本気なのかよくわからない言葉を言い、カカと照子は笑った。
「正直ほとんど変わらぬのだ。三月生まれのそちと四月生まれの妾。ふふふ、父上も面白いことをなさるお方じゃ。壱ノ夫人の逆鱗が手に取るようにわかるぞ。それで? 子珞に対しては何も思わぬのか?」
「思ったところでどうなるんだ。私は狭良様と出会ったことで、人生の全てを救われている。その子である子珞を愛するのは、当然のことだろう」
その言葉に納得がいかないようで、照子は腕を組んだ。
「それにしては、子珞に対しての愛情が深すぎるのではないか」
「それはそなたもな」
「妾はそんなことはないぞ。正直、初恋の相手以外はすべてどうでもよいのでな」
彼は嘆息した。しかし、子孝と照子がそんな憎まれ口を叩くようになったのも、子珞の話題を通じてだったと思い出す。それまでの間は交流がなかった。むしろ、壱ノ夫人であった子孝の母によって、強制的に避けさせられていたというのもある。
離宮から、琉城正殿を通り、二階に上がると、一番近い部屋が壱ノ夫人の部屋である。そこから甲高い叫び声が聞こえた。
照子が同情するような目で子孝を見る。
「毎度毎度飽きんのう。そち、目が死んでおるぞ」
「なんくるないさ」
全然なんくるあるけども、と子孝は心の中で思った。廊下で別れ、母の部屋に入る。五歳になった時から自分の部屋を与えられた。だが、それは物置のような部屋であった。今では気に入っているが、当時はどうしてと思ったものである。
「母上、ただいま戻りました」
すだれをあげて入ると、額に扇が飛んできた。いつものことだ。
「また壱ィ媛と話しておったのだろうが! 何度言えばわかるのじゃ。あぁ、こんな者は我が子ではあるまい。化け物じゃ。あの名前も呼ぶのもおぞましい参ノ妻のマジムンじゃ」
子孝は表情や態度を顔に出さないように必死に努めた。
「マジムンとも仲良くしておるまいな。この者は嘘をつくようになったからの。鞭を持って参れ。我が、そなたの中に巣食うマジムンを退治してやる」
「ご夫人様、おやめくださいませ!」
「うるさい、うるさい! 鞭を持って参れ」
彼は玉麗を止める女官たちを制止して、部屋の隅に置いてある、鞭を持ってきた。
「母上、これでよいですか?」
彼女はニンマリと笑い、「それじゃそれじゃ」と言って、子孝を叩き始めた。
「マジムンを、退治してやる」
子孝にはもう痛みなど感じないほどに慣れていた。マジムンは自分の母親であることも理解していた。ただ、彼女の心の痛みが自分を叩くことで収まるのであれば、それで良いと思っていた。
壱ノ夫人である夏玉麗は三司官を多く輩出してきた名門夏一族の長女である。その瞳は黒く、髪はいつも濡れているように艶やかだった。しかし、白澪においてその瞳と髪は一番美しいとは言われない。最も美しいのは白髪に赤い瞳なのだ。
玉麗は自らの容姿が気に食わなかった。例え唇の形が美しかろうと肌が他の娘より白かろうと、黒髪黒眼では一番美しいとは言われない。極めつけは、過去に彼女が好いた男が自分よりも醜い赤い髪の女を選んだことにある。容姿も財力も自分の方が勝っていた。それなのに彼は自分を選ばなかった。こう考えた彼女は次第に赤髪の女を憎むようになった。十歳から始まった妃選びの試験に順当に通っていたことから、その失恋の一年後、子穂の御内原に入内した。
当時、子穂の御内原には女が一人もいなかった。だからと言って、子穂が女を知らないわけではなく、毎夜市井に繰り出していた。
彼が裏でしていた仕事は遊女を使って噂を聞きつけては、それを王に報告することだった。彼は毎夜、辻村に通っていたのだ。その情報は小さなものから大きなものまで様々だったが、それらは全て国を治めていくうえで、必要なものだった。しかしながら、玉麗が御内原に入った後もそれは続いたため、彼女の矜持は痛く傷つけられた。
子穂は七日につき一日は玉麗と寝床を共にした。しかし、自尊心の高い玉麗は自由人な子穂とは馬が合わず、彼はただ子を成すための義務をこなしているようであった。そのためか、幾月経てども子を成す気配はない。それを見かねた王は次々に弐ノ夫人、参ノ夫人と御内原に召し上げた。もともと少なかった夜のお召しが、夫人が増えるごとに減っていった。
それでも神の悪戯か、しばらくして玉麗は子を身ごもった。それを皮きりに他の夫人にも子ができた。中下級士族の娘が彼の子を身ごもり、壱ノ妻、弐ノ妻として御内原に入ってきた。
玉麗が彼女らに対し、憎しみの心をもたなかったのは、単に彼女らが赤髪ではなかったからだ。そして玉麗は皇子を産んだ。他の夫人や妻が産んだ子は皇女や死産児だった。ただそれだけが彼女を支えるものだった。
周りは皆、玉麗が産んだ子がいずれ皇太子になるのだと言った。子穂がそう言ったわけではないが、いつも壱ノ皇子が皇太子になっているのだから、彼女はそうだと信じた。
それだからこそ、最後に御内原に入ってきた、あの神女は許せなかった。
ある日から、子穂は夫人や妻を召さなくなった。今思えば、おそらくあれはあの神女に出逢った頃だったのだ。それ以来、玉麗の輝かしい生活に影が差し始めた。
神女が来たのは、突然だった。御嶽管轄の者であったため、入内は質素に行われた。ほんの数人の女官や侍女を従えていた。それだけなら嗤っていただろう。しかし、彼女の髪は燃えるように赤かった。そしてまばゆいばかりの碧眼の持ち主である。白澪では“悪鬼”と呼ばれている忌まわしい存在だった。
神女に逢うためなのか、昼間に御内原を訪れた子穂を物怖じすることなく叱っている様子が見られた。それを子穂は他の女たちには絶対に見せない優しげな瞳で彼女を見ていた。
玉麗は許せなかった。自分の方が身分が高い。たかが神女上がりの悪鬼に子穂を支えることはできない。
神女は他の夫人や妻たちとうまく付き合っていた。いつも相手を立て、心配りは決して忘れない。それも彼女の勘に障った。
彼女はすぐに子を身ごもった。
自分には全然子が出来なかったのに、なぜあの女だけ。その憎悪の念は、内側に秘めているだけでは我慢できなくなった。
まず、呪術師を呼び寄せ、腹の子が皇女になるよう呪いをかけた。皇子ならば堕胎するように。その際、呪術師の女は言った。
『人を呪わば穴二つ。あなたにも返ってきますよ』
自分に返ってこようと、玉麗には関係なかった。今、相手を貶めることができさえすればよい、そう思っていた。
ここで玉麗は道を踏み外してしまった。
彼女がのちの未来、あのような運命を辿ったのは、自分のことしか考えられていなかったからだろう。