10:民草医緋澄
珞は文修と共に、本土の地を踏んだ。白継島で経験したことは一つ一つが深く胸に刻まれており、珞にとって長い時間を過ごしてきたようであった。だが、まだ数ヶ月しか経っていないという現実に、未だ慣れずにいた。
「緋澄師てどんな人なんだろうな?」
人通りの多い船着き場を見渡し、文修は珞に問うた。珞は首を横に振った。
「香月師も師匠に連絡したって言ってたし、診療所に行けば、何とかなるだろう」
珞と文修は、香月から貰った地図を頼りに診療所へ向かい始めた。その時、二人はそう遠くない距離から悲鳴を耳にした。二人は共に振り返る。
「何かあったのか⁉」
「あの悲鳴はおかしいだろう」
文修の言葉に珞は返事を返しながら、悲鳴が上がった方角へと急ぐ。そこは人だかりができていた。人の波を押し分けながら、珞は人だかりの中心へと入っていった。
そこには、ざっくりと袈裟懸けに切られた男が倒れていた。
「どうしたんですか」
恐らく悲鳴を上げたであろう女が唇を震わせている。言えるような状況ではないことは確かだ。珞は心の中で舌打ちをする。その状況を判断するのに、なぜこうなったのかを聞き出すことは必要である。
「何か知っている方は――」
「そもそも、あんちゃんたちは何者なんだ!」
文修の情報収集の声が、周囲を囲む野次馬の声にかき消される。珞は腰紐に隠していた玉環を取り出す。白継島を出る前に香月から渡されたものだ。医務官の弟子を意味する玉環だという。
「俺たちは白継島任官の香月医務官の弟子です。緋澄医を探しに来ました」
緋澄、という言葉に野次馬は押し黙る。ここらの荒くれ者たちを含め、怪我や病気の治療を一手に担っているのが緋澄である。
珞は野次馬の一人に指示を出した。顔が半面火傷の痕のようになっている黒髪の少年である。その少年に近似感を覚えるが、すぐさま頭を切り替えた。
「そこの火傷痕の君だ、ロウビャカ山にある診療所の緋澄医務官を呼んできてほしい」
少年は深く頷いた。珞はひとまず安心した。珞は文修にも指示を出す。
「文修、悲鳴を上げていた女性から、何が起こったのか情報収集してくれ。俺はこの人を診る」
文修は頷いた。
「大丈夫なのか?」
「緋澄師が来るまでの時間稼ぎはできる」
珞がそう、文修に伝えた時、周りを囲っていた野次馬がザッと場所を開けた。
「何が、時間稼ぎができるだって?」
いつぞやかに聞いたことのあるその声に、珞は顔を上げた。黒緑色の髪をカラジに結い上げている。顔が、少々険しい。
「何、ぼーっとしてんだ。珞、文修、このまま放っていたら、間に合わなくなるよ」
「担架が必要です」
「いや、ここで、縫う。袈裟懸けの傷だが、深くない。また、筋肉までえぐられていない傷だ。出血量も少々。診療所に連れていくより、このまま縫った方が早い」
緋澄は周りを取り囲む野次馬を見回した。
「あんたたちは暇人なのかい。ワシらが処置しているのを面白く見るんだったら承知しないよ!」
蟻の群れが散るように、周りからいなくなる。土埃から守るようにして、緋澄は羽織を傷に被せた。
「珞、文修!ワシはぼーっとしている奴が嫌いなんだ。さっさと来る!」
「「はい!」」
二人の声が重なる。文修の声は若干畏れるように声が震えていた。そして、緋澄の手元を見つめる。傷を圧迫止血し、離れた皮膚と皮膚を張り合わせる。刀傷だったためか、皮膚はぴたりとくっついた。
「縫っていくよ」
その言葉に二人は唾を飲み込んだ。会陰縫合はしたことがあり、免疫があったが、久々の生傷は少々堪える。
大丈夫ではないのは文修も同じだろう、と珞は思った。珞は横目に文修を見る。しかし、予想に反し、文修は目を輝かせ、緋澄の手元を食い入るように見つめていた。珞はいつもとは違う文修の様子に少々引いた。
処置が終わり、悲鳴を上げた女から、話を聞き出す。男は元々酩酊状態であり、往来で無体を働こうとしたため、思わず手持ちの小刀で防衛したそうだ。しかし、防衛のつもりが袈裟懸けに切ってしまい、思わず叫んでしまったそうだ。
緋澄は港の見回りに声をかけ、男の身柄を引き取ってもらった。女は礼を言い、どこかへと消えていった。
「さて」と緋澄は二人の方を向いた。
「珞、文修。香月から連絡はもらっているよ。外科医学を学ぶなら、島にいるよりも本土にいたほうが色々なものが見られるし、実践できる。特に荒くれものが多い港では実技を叩き込むのにも偉く良い場所だ。医務官になるんだったら、避けては通れないよ。教えるのは苦手だけれど、香月だって若い時分は医務官になるために頑張っていたもんさ」
若い頃の香月の話を聞き、文修は目を輝かせた。
「香月師もそんなときがあったんですか!」
「そら、誰しも最初からできるわけじゃない。みんな努力して医務官になっていくのさ」
「ぼくも頑張ります」
緋澄は文修の熱意に深く頷く。
「さて、診療所に帰るか」
文修は緋澄の隣で若い頃の香月の話を聞いている。珞はその様子を見ながらも、特に嫉妬にはかられなかった。
あぁ……と珞は思った。
早く、医務官になりたい。宮廷に出入りできるだけの医務官に。確かに自分の正体を明かし、行方不明の弐ノ皇子だと言えば、宮廷には入れるだろう。しかしながら、宮廷で生きていけるような育ち方はしていないのだ。もう既に五歳までに学んだ宮廷での関わり方や儀礼については忘れてしまっている。それに、白継島にやってきた男たちから、壱ノ皇子が父の補佐として、宰相と共に国を守っているのだそうだ。
医務官になり、兄に国継ぎの皇子を譲り、翠を探しに行きたかった。
『そんなに簡単にいくまいよ。産まれたときからの理を崩すということはそれ相応の代償が必要になってくる』
頭の中で、珞の思考を読み、白香神が答えた。珞は眉を寄せる。
「兄上が国を継ぐことはできないということか? この話のときはお前はすぐに違う話にすり替えようとする」
白香神が暫し沈黙する。
『樽毘神の奴も言っていたな。だが、私そなたの最善最良の道を示している。わざわざ、苦しみが約束されていることを行う必要はない』
「苦しみ……?」
『ただでさえ、そなたの父母は禁則を破ってそなたをもうけている。だからこそ、そなたが"国継ぎの皇子"となったというべきだろう』
禁則について、珞は詳しくは知らなかった。だが、その禁則を破ったことが、珞を今の状況にさせているというのは何だか腹が立った。
「俺は翠を見つける。"国継ぎの皇子"なんてなったら、翠と添い遂げることができないだろう」
『そうだな。龍の鱗を持つ"国継ぎの皇子"は、少なくとも彼女と添い遂げることは不可能だ』
「だったら、俺は"国継の皇子"を兄上に譲りたい。それができるのであれば」
白香神が嘆息した。
『私がそなたの憑き神だからできることではある。だがそれは、兄皇子子孝の意思、父王子穂、聞得大君の許しがいる。また、そなたが選んだことは大きく理を歪める。そのために、そなたの子、兄皇子子孝の子にまで影響を及ぼす。丹生凛神しいては我々の祖神弁財天の意思をも捻じ曲げるということも考えよ』
珞は押し黙った。自分の話とばかり思っていた。しかしながら、現実にはそうもいかないようだ。しかも、子の世代まで続くとは考えていなかった。
「子々孫々ではなく……?」
『子々孫々にしたら、白澪の国自体が亡びるぞ。さすがに、それは祖神弁財天が放っておかない。代償を払うのは、子の代までだ。子の代で何かやらかしたら、それはもう仕方のないことだがな……』
「……わかった。でも今の俺は行方不明になっていた弐ノ皇子です、なんて言って宮に入り込める程甘くはないと思っている。だから、医務官科のときを狙おうと思っているんだ」
珞の言葉を聞いて、白香神は珞に悟られないように思った。すでに国王と皇太子の諜報部隊である耳公・目公が珞の居場所を突き止めている。だから、そのように回りくどいことをしなくても良いのだ。だが、彼の成長にも役立ってくるのだろう、と白香神は珞に耳公・目公のことを話すのをやめた。
「きっと兄上はわかるはずだ。剣奴のお披露目会のときも、感づいている様子があっただろう。俺はそのままこっちに運ばれてしまったけどさ……」
珞はなんだか気分が高揚してきた。早く医学を身に着けて、医務官科を合格できるようにならなければ、と。
白香神はそんな珞を見ながら、表情を曇らせた。




