5:食医学
香月は新品の冊子を珞と文修に手渡した。
「これは、なんに使ってもいい。足らなくなったら言いなさい。有効活用するんだよ」
香月は戸棚から、十冊の冊子を珞に手渡した。
「これ、一週間に一冊全部覚えること。最後には口頭試問させてもらうよ。文修、もちろん君も一緒にやるんだ」
文修は思ってもみなかったのか、苦虫を噛み潰したような顔をする。
十冊の本はすべて食医学についての本であった。珞は県土島の学術の授業でも食医学について触れていたが、実は苦手な分野であった。
「これ、全部食医学ですね」
「そうだね。ちなみに、白澪の医務官の間にはこの言葉がある。『一に食医、二に内医、三四が飛んで、五に外医』だ。君が言いたいことはわかっているよ。なんで食医学が一番で、外科医学がそんなに立場がないのかということだろうね」
珞は頷いた。外科医学がなければ、珞の腕はついていなかったかもしれない。そんな優秀な医学がなぜそんなに下にあるのか、彼は不思議に思った。
「少し歴史の話になるけれど、いいね。食医学は元々琉城王朝の時代の時に、国から保護された学問だったんだよ。『一子相伝の極意』とも言われ、子が親から学び、王朝お抱えとなって、隆盛を築いた。だけど、琉城王朝に反乱が起きて滅び、三山時代が始まると、琉城王朝滅亡の原因となった食医学は迫害対象となり、食医たちは次々と処刑されていった。
十五年後、三山時代が澪子凌によって統一された。それが白澪の初代国王だ。問題は彼の奥方、白蘭子にあった。彼女は食が細く、子が成せる体ではないと思われていた。しかし、子凌は白蘭子のみを愛しており、他の夫人や妻を一切召そうとは考えなかった。だから、国中にお触れを出したんだ。『皇后の状態を改善できる者はいるか』と。いろいろな者がやってきては、切られた。
当時は内科の医務官しかいなかったけれど、生薬を出しても、一向に良くならなかった。そんな時、やってきたのが一人の少女だった。今では『相伝の食医』と称されている紀礼香だよ。
紀礼香は幼い頃から秘密裏に食医学を相伝されていた。当時、白澪になった時には食医学は廃れ、民草の間に微かに残るのみだったからね。彼女は白蘭子を見る見るうちによくさせていった。そして、白蘭子は子を成すことができるまでになった。そして、初代国王は食医学を第一の学問にすると決めた。
紀礼香は白澪初の女性医務官として名を馳せ、皇后付き医務官として勤めながら、『本草食医学問』という本を書いた。食医学は予防医学だ。だから、誰しもが持っていて損はないし、健康に過ごすためには国民全員が知っておかねばならないことだ、とね。だから、医学を学ぶ者は全員食医学について知っておく必要がある。わかったね」
有無を言わさぬ、その物言いに珞は「はい」と首を垂れた。しかし、ふと疑問が湧いた。
「そういえば、どうして師匠はそんなにも歴史に詳しいのですか?まるでその場にいたかのような口ぶりでしたが」
「私は私の師匠からこの話を聞いたんだよ」
それが相伝というものだ、と香月は言った。
「さて、食医学の本は十冊ある。得意なところから順番にやるといい。食医学が終われば、実地に入るよ。実地は文修の方が早いかな」
ふふふと笑い、香月は診察室の方へ向かっていった。珞と文修は目の前に置かれた十冊の冊子をめくり、ふぅとため息をついた。
各冊子には、穀類、五穀造醸類、菜類・瓜類、海菜類・苔類、魚類、調理之類、介類、家獣類、果類、地方之物と文字が振られ、今にも剥がれ落ちるのではないかというほど、ボロボロに読み古されていた。外の題と中身の文字は女性らしい滑らかな筆さばきで書かれており、少し読みにくい部分もあったが、読める内容であった。
「どうする?模写する必要があるよな」
珞は文修に尋ねた。そして二人は相談を始めた。冊子はそれぞれ一冊ずつしかない。そのため、模写していく必要があるのだ。
「二人とも違うものを行っていった方がいいと思う。おれは書いた方が覚えられる質だから、おれも模写してもいいか?」
「わかった。二人で手分けして、模写して覚えていこう。俺はまず『穀類』からだな」
「じゃあ、俺は五穀造醸類にするよ」
珞は『穀類』の冊子を開いた。
一、黍米
気を益し、中を補ふ。されど久しく食へば熱を生じ、五臓を昏ましてよく眠らしむ。また、筋骨を緩め、血脈を絶す。小児多く食へば久しくあゆむことあたはざらしめる。病人小児食う事を忌むべきである。禁忌は、葵菜、牛肉である。
珞は「モチキビのことだな」と、県土島にいたときに食べたそれの味を思い出す。食べたことのあるものはそれと繋げて覚えれば覚えやすい、と考えた。
一週間経つと、二人は呼び出された。そして、それぞれが学んだ内容について、問答を重ねる。文修は「ここまでできると思っていなかった」と褒められ、満足そうな笑みを浮かべていた。しかし、後から言い忘れたことを思い出しては冷汗をかくこともあった。香月は傍に置いてある冷えた茶に手を付けた。
「うん、よく頑張って覚えたじゃないか。二人ともここまでできるやるとは思っていなかった。ただ、自分でも気づいていると思うけれど、庶民の立場に立ったものが入っていなかったよね。例えば、珞。緑豆について聞いた時、あの本にはこう書いてあったのではないかな?」
香月が言うより先に、珞は言葉を紡ぐ。
「枕とすれば、頭痛を止め、目を明らかにし、吐逆を除くものである」
「そう。庶民の視点は忘れてはいけないことなんだ。医務官にかかるのには金がかかる。処置代もかかる。でも、相談や井戸端会議なんかでの話の一端では金はかからない。そんな時に、皆々が自分の家でも可能な方法を伝えることも、医務官の役割なんだよ。明日からはそれを意識して勉強するといい。わかったね」
二人は大きく頷き、「「はい!」」と大きく返事をした。
問答は二月続けられた。香月は勉学に対しては厳しかったが、それ以外の時は他愛もない話をしに、珞と文修に話しかけた。県土島にいる時は常に緊張感に溢れた毎日であったために、香月と文修と暮らし始めた当初は緊張感で眠りが浅くなったが、それも今はない。朝起き、食事をし、文修と問答の練習をし、勉強し、食事、勉強、食事、勉強、寝る毎日の繰り返しだ。二月の問答が終わった時、香月は言った。
「二人ともよく頑張ったね。じゃあ、今まで得た知識を食事にしていこう」
「食事、ですか」
珞は戸惑いの表情を見せた。食事とは思ってもみなかったからである。彼の様子に緋澄は呆れた顔をして言った。
「何を戸惑っているんだ。実地があると言ったでしょう? 机上の空論だけではいけないんだよ。実際に作らずして、君はどのように民に食事指導をするつもりなの?――これから一か月朝昼晩の食事を作ること。作り方も冊子に書いてあったろう。もし出産して一月の間誰も手伝う者がいなかったら? 自分が男だから、食事を作らなくても大丈夫と思っていたんじゃないよね?」
蛇ににらまれた蛙のように、珞は首を垂れて「思っていなかったと言えば嘘になります」と答えた。そもそも、自分が料理を作るなんて考えてもみなかったのだ。
「とにかく、一月は食事を作ってもらうよ。わからなければ、近所のおば様方に聞けばいい。やれるだけやってみることだな。頑張れ」
二人は相談し、早々に診療所の一番近所に一人で暮らしている老婆に助けを求めることにした。文修は料理はできるが、知識と実践が繋がっておらず、勉強にならなかったのだ。
二人は最も近い民家へと足を運んだ。
「おばぁ、伊咲おばぁ。こんにちは。突然ごめんなさい」
伊咲おばぁは目を細めて、駆け込んできた珞をみた。
「こんにちは。珞坊に文坊、どうしたんだえ」
「伊咲おばぁ、大変なことになった」
珞は腰の曲がったおばぁに縋りついた。
「大変なこと?どうしたんだべ」
「一月、俺らが師匠に料理を作ることになった。しかも食医学と繋げないといけないみたい」
「そりゃあ……まぁ……」
「おばぁ、おれらに食医学と繋がった料理を教えてほしいんだ。一月の間、俺らにおばぁが培ってきた料理のこと、教えてください。お願いします」
文修の言葉に二人は揃って頭を下げる。
伊咲おばぁは暫くの間黙っていた。そして口を開く。
「その代わり、何をしてくれるんだい」
交換条件が出たために、珞と文修は頭が真っ白になった。そのため、思ってもみなかった言葉が珞の口から飛び出た。
「おばぁに何かあった時は俺が看取る」
おばぁはにやりと笑った。欠けた前歯がよく見える。
「縁起でないことを言うでない。料理の件は任しとけ。ビシバシしごいたるわ」
その直後、おばぁはすぐさま荷物をまとめて、診療所に越してきた。香月に報告すると笑いながら「わかったよ」と言ったきりであった。
伊咲おばぁは、基礎から丁寧に珞に料理方法を指導した。伊咲おばぁは引退するまでは宮廷の女官であり、貴賓を迎える際の食事を作る「御料理座」や国王の日常の食事を扱う「大台所」の女官として手伝いをしていたということもあり、宮廷料理にも精通していた。その知識の下で、珞も文修も基礎から学んでいった。
豚や鰹、昆布の出汁の取り方から、米の炊き方、あわやヒエを混ぜた際にはどうなるかについても学び、おばぁの言いつけを守りながら、忠実に真似をしていった。
「美味しい」
香月から初めて美味しいと言われたのは、半月が差し掛かろうとしていた時だった。珞はその言葉に喜びを感じ、文修や伊咲おばぁと喜び合った。
その頃には、おばぁが教える料理と書物で学んだ食医学が繋がるようになっていた。
「命之薬」とおばぁはよく口にしていた。ヌチグスイはクスイムンと同じ意味で、日常の食事に気を配ることが一番の病気の予防になる最善の策である、という。
珞はここにきてようやく香月が言った言葉が分かった。
怪我や病気を治すのが医務官の役割だと思っていた自分が恥ずかしくなった。医務官の役割とは、怪我や病気を治すのが一番ではない。怪我や病気を予防するために何ができるかを皆に伝えるのが最大の役割であるのだ、ということだ。
一月が過ぎた。一月の間寝食を共にし、指導してくれていた伊咲おばぁは既に自身の自宅に戻っていった。しかしながら、珞も文修ももう一人で料理をすることができる。新調した冊子には毎日教えてくれた伊咲おばぁの料理が記されていた。忘れることがないように、記しておいたのである。




