4:兄弟子
香月は島酒と盆に乗った手ぬぐい、折り曲がった針、糸、白い手袋を持ってきた。
「この針と糸は煮沸消毒してある。心配しなくていいから」
香月は左腕に巻かれている包帯を徐々に剥がしていった。そして最後に手袋をつける。
「うわ、歯形が」
珞が思わず目を背けてしまう程、その傷は肉ををえぐっていた。血液は未だに垂れている状態である。
「目を背けない、医務官の弟子になるんでしょう? 今から縫っていくからね。傷が張るかもしれないから、安静は必要になるよ。無茶はしないように」
傷口に島酒をかけられ、その痛みに珞は叫びそうになる。それを見てか、香月は一度立ち上がり、厚めの手ぬぐいを持ってきた。
「痛いだろうから、噛んでいたほうがいい」
珞は首を上下に振って、手ぬぐいを噛んだ。香月は準備が整ったとばかりに、針と糸を準備した。
「それじゃあ、今から縫っていくからね。痛みで間違えて、自分の舌を噛むなよ」
糸を通した針が珞の皮膚を通った。
「―――――――っ」
衝撃的な痛みに、思わず叫びそうになる。しかし、その傷が一つ一つ糸によって結ばれていく様子に、彼は目を背けなかった。
最後の一針が縫われた時、珞の瞳は涙で滲んでいた。
「よく頑張ったね」と香月に頭を撫でられる。珞は涙を落とさなかった自分を褒めつつも、初対面の香月に頭を撫でられたことに何か複雑な気分になるのだった。
香月からは五日間の患部安静と七日目の抜糸を伝えられた。包帯を巻かれ、一日一回は島酒で消毒される。特に患部が膿むことはなく、七日目で抜糸を行った。
七日暮らした家は香月の師匠の家だという。しかし、ほとんど戻ることはなく、珞はその師匠を見ることなく、白継島へ香月と共に向かうことになった。
桟橋には一人の白髪朱色の瞳の少年が香月を迎えに来ていた。少年は珞を見ると、あからさまに嫌そうな顔をする。
「香月師、その者は誰です? 聞いていませんよ、俺は」
香月は曖昧に笑った。
「ごめんごめん、文修。僕の新しい弟子になった珞だ。珞、兄弟子の比嘉文修だよ。仲良くしなさいね」
「よろしくお願いします」
珞は頭を下げた。兄弟子となるのだ。敬語で話さねばなるまいと思ったのである。すると文修は不機嫌ながらも、珞の様子を見て自分の立ち位置が侵されることはないと感じたのか、若干機嫌を直す。
「文修でいい。俺の方が一つ年上なだけだしな。敬語もいらん」
彼らは白継島への船に乗った。船頭に導かれながら、揺れる中、珞は奇妙な感覚を覚えた。そう、船に乗っている者たちが皆、白髪に赤い目をしているのだ。白澪は白子が生まれることが多いとはいえ、ここまで揃うと不気味さを感じる。どうも、有色の髪の者は船頭が船に乗る際にはねているようであった。
船に乗っている者は総勢で十人ほどであった。さほど多くない。
波は穏やかで、船酔いをする者もなかった。微かに見えていた島が徐々に近くなっていく。
「あれが白継島ですか?」
十人のうちの一人が船頭に聞いた。白い髪の船頭は前を向いたまま頷く。
白継島は岩山の頂を中央に掲げ、岩山全体が島になっているような場所であった。山の側壁には穴が開いている場所があり、そこに窓のようなものが見える。平地が少ない分、山を切り崩さずに立地を利用して生活している様であった。
「岩山を活用して生活しているのですか?」と船頭に聞けば、船頭は黙りこくったままである。心の中で白香神に問うても何も返事は返ってこない。
白香神は自分から話しかけることはあっても、珞の言葉に返事をすることはそうそうなかった。珞は、正直他の十二神のところに遊びに行っているのでないかと思う程である。その見解はあながち間違っていないのだが、彼には知る由もなかった。
桟橋には沢山の人が集まっていた。そして、それが女ばかりなのにも驚いた。ほとんどが赤い髪に緑や青い目をした者たちばかりである。本土では“悪鬼”と呼ばれる存在ばかりが集まるこの異様な様に、珞以外の者たちは喜んでいる様子であった。
珞は隣に座っている文修に声をかけた。
「本土では“悪鬼”と呼ばれる女たちが多いのはどういうことなんだ?」
少年は珞の方を鬱陶しそうにみると、仕方なしに返事した。
「本土では、陛下の参ノ妻様が赤髪碧眼だったことから、“悪鬼”というのは迷信で、実は白澪の先住民であることを公表された。純血であるほど、髪は紅に近く、自然に巻かれている。そして、目は輝くような碧眼と。また、女しかそのような容姿で生まれない。それを利用したのが参ノ妻様出身の白継島側だ。数年前、病の流行によって男がほとんど死んだ。そのために、外から男を連れてくるんだよ。――子種として」
「そんなこと許されるのか?」
「島存続の危機なんだ。そんなこと言っても居られないだろう。それに、白継島側も生まれた子は島全体の子として養育される。ただし、赤い髪と碧眼と結ばれた男との子どもは赤髪碧眼もしくは白子でなくてはいけない。そのために、白子のみが上陸を歓迎されるというわけさ」
そんなことも知らずに来たの? といぶかし気に見られる。
「これ、文修。珞はずっと県土島にいたんだ。知らなくても不思議じゃないさ」
静かに聞いていた香月が文修をたしなめる。
「申し訳ありません」と文修は香月に謝った。その様子を見て、文修と仲良くなるまでに少々時間が必要かもしれない、と珞は思った。
白継島に着くと、珞は引っ張られるように香月についていった。
香月の家は集落から離れていないところにあった。
岩山の壁面にあったのは神官たちが住まう場所であり、年に数回祈りをささげに行く以外は基本的に生活圏内ではないとのことであった。
香月は珞に部屋を与えた。文修と相部屋だったため、彼からは露骨に嫌そうな顔をされた。
「師、酷くないですか? 俺、こいつと一緒なんて嫌ですよ」
「子どもなんだから、嫌々言わない。家が狭いことくらいわかっているだろう? 年齢だって近いんだ。仲良くして切磋琢磨しなさい」
文修は嫌そうな顔をしながらも、部屋の半分を空けた。
「言っておくけど、師の弟子になったばかりだから、俺の方が長くいるんだからな。忘れるなよ」
「大丈夫。俺は普通に接してくれればいい」
文修は鼻息を荒くするとどこかに行ってしまう。
「文修は反抗期でね。それくらいのお年頃だろう?」
文修も最近弟子になったという。ただ、働き先に捨てられていたところを香月が拾ったため、医務官になるための勉強に精が出ないという。しかし、食医学については元々働いていたところが薬膳食処であったために、知識自体はかじっていた。そのため、少々自信があるのだろう。食事は作れるが、まじめに勉強しているところは見たことがなかった。
文修が食事を作っている間、珞は香月と膝を突き合わせて、白継島の状況を聞いていた。
「御子制度も病が流行して男が居なくなった時は、廃止の案も出ていたくらいなんだ。その時ちょうど、僕が医務官科に受かって、この島に封じられてね。それなら、荒療治で外から男来てもらいませんか? って神官たちに話を通したわけ。神官も男はもういなくなっちゃっていたから、女だけだったし、島の存続もあったから通った話だけど、無茶苦茶だよね。今でも、子どもたちは小さい頃から、神の使徒として神殿で教育される」
でも、と香月は珞の方を向いた。
「狭良は神降ろしの舞を踊れる最後の担い手だったから、彼女が亡くなって、白香神が怒り、病を流行させたんじゃないかという噂まで出たほどだ。あれは女舞だから、僕は踊れない。男舞の方は踊れるけどね」
「だから、俺に女舞を聞いているか聞いたんですね」
香月は頷いた。だが、珞は不思議な点を見つけた。それについて、彼は香月に質問する。
「神官たちは祝女ばかりなのでしょう? それならば、女舞ができる方もいるのではないですか?」
香月の顔が曇る。
「それができない」
「なぜですか?」
「今いる祝女たちは、御子には選ばれなかったが神殿に残りたいと言ったものばかりだからだ。狭良に神降ろしの女舞を教えた祝女はもう亡くなっている。狭良がいなくなってから急に体調を崩してね。女舞を完全に継承できていないんだ」
珞は黙った。これは母が覚えておけと言った舞を祝女たちに伝えるべきなのか、と悩んだからだ。彼はその悩みを打ち明けることにした。
「香月さん、俺は母から伝えられた舞を今の御子に伝えたほうがいいんでしょうか?」
香月は「いや、それはしなくていい」と即答する。「そうすれば、祝女たちに君の存在を知らせないといけないからね。だから、僕が覚えるし、僕も男舞の方を君に教えるよ。もしかしたら、使うかもしれない」
香月は悪戯っぽく笑った。
「必要だとは思えないです」
珞は楽人を目指しているわけではない。舞を披露する機会も一度も訪れないだろう。それに対し、香月は「まぁそうだろうね。でも覚えていて、損はないから」と譲らなかった。珞は何か理由があるのだろうと思い、「わかりました」と渋々頷いた。
「はいはい、できましたよ。ごはんですよー」
文修が不機嫌な顔をして、料理を運んでくる。
「二人でコソコソするのは気に入らない」
珞は立ち上がり、文修の方に寄っていった。文修は何か誤解していると思ったためである。
「文修、俺の母は香月さんと知り合いだったんだ。だから、そのことについて話しこんでいたんだ」
ふーん、と文修はねめつくような目で珞を見る。
「文修、俺と一緒に食医学について勉強してくれないか? 県土島では簡単なことしか習ってないんだ。文修の知っていることを教えてほしい」
珞の思わぬ提案に文修は目を瞬かせた。
「そりゃいいけど。おれもそんなに得意じゃないから一緒に勉強してほしい」
「それはすごくありがたいさ」
文修は少し嬉しそうな顔をすると、珞と共に食事を並べていく。その様子を見て、香月は「我の企み、優れたし」と一人笑った。