3:医務官の香月
子孝は、弟の相手があの猛獣だと知り、顔から血が抜けてしまったかのように青ざめた。
有名な話ではあるが、あの猛獣は李国から送られてきた熊猫という生き物である。本来であれば温厚でほとんど肉を喰わず、笹のみを食べるとのことで、父王の誕生日の献上品として贈られたものだ。しかしながら、長い船旅の過緊張からか、白澪に着いた頃には本来の状態ではなくなってしまった。その後、飼育係を喰い殺し、人肉の味を占めたため、李国側の提案もあり、闘技場で剣奴の相手をさせることになったのである。
子珞の動きは落ち着いていて、かつ俊敏であり、動物を相手に連戦してきた様子がみられた。しかし、彼が熊猫から振り落とされたとき、子孝は肝を冷やした。
熊猫がこと切れ、倒れ込み、子珞もまた意識を失った様子であったため、子孝は思わず立ち上がり、子珞の下へ向かおうとする。それを、隣に立つ葵ゐに止められた。
「殿下、殿下は闘技がすべて終わるまで、ここを離れてはなりません。これは決まりです。彼は棄権になりましょうし、外科の医務官を向かわせますので、ご心配なく。後で事情を聞きましょう」
早く、早く彼の傍に行きたい、と子孝は思った。
彼は担架で運ばれていく子珞の様子を、ただこの高座から座ってみていることしかできないのかと自分の不甲斐なさに、失望する。
その後の闘技は気もそぞろに見ていた。
丈月が勝ち、祝福の言葉を述べ、子孝が席を立っても良くなった時、彼は一目散に弟がいるはずである、控室に向かった。閉まった扉の奥にずっと探していた子珞がいる。そう考えると、子孝の胸は高揚した。そして、ゆっくりと扉を開ける。
だが、その部屋には彼の姿も形もなく、もぬけの殻になっていた。
*****
まどろみの中で、珞は誰かに運ばれているのを感じていた。
「血が止まらんから、勝手に処置させてもらうよ」
少し訛りのある女性の声に耳を傾け、どこかで聞いたことのある声だなと思いながら、珞はもう一度意識を手放した。
次に目覚めたときに見たのは、知らない家の天井だった。
「よく眠れた?」
彼の眼の前に現れたのは、“祝福の子”の男性だった。白い髪が肩で短く揃えられており、彼からは清潔な香りが漂っていた。男性は珞の傍に座り、言った。
「よく聞いて。僕の知り合いが君を闘技場から連れ出した時、血が止まらなかった。圧迫止血はしたけれど、君の左腕はまだ血がにじんでいる状態だ。だから、その傷を縫う必要があるんだ」
「俺、あの熊に噛まれて、熊の病が俺に移ることはないんですか?」
「それは心配しなくていい。すでに解毒されているから。そういえば、僕が誰か伝えていなかったね。僕の名前は香月。今は本土で医務官をしているけど、ちょうど明後日担当している島に帰るところだったんだ。そしたら、知り合いが君を運んできてね。しばらく面倒を見てほしいとお願いされてしまったんだ」
困ったように眉を寄せる香月に子珞も困ってしまう。
「すみません」
「いいんだよ。僕の知り合い――というか師匠なんだけどね。今は刺青専門の民草医をしているから、あんまり表立って動けないんだ」
指を唇に当てた柔和な青年香月の、「刺青」という言葉に珞は過敏に反応した。思わず、傷のことを忘れ、起き上る。左腕に激痛が走った。
「――っつ」
「無理して動かしてはいけないよ。安静にしなければ」
「香月さん、刺青って、入れることもできるなら、消すこともできるんですか?」
思わず、珞の声が大きくなる。刺青を消す方法があるのであれば、翠の体にある刺青も消すことができるかもしれない。
「そりゃあ、刺青を入れる方法があれば、消す方法だってある。相当大きい傷ができるけどね」
「俺の好きな人が、刺青を無理やり入れられて! 俺、それを治したいんです。その刺青専門の医者を紹介してください。俺、弟子になりたい」
剣奴としてやってきたが、白黒の熊を弑した時点で、自由の身となっている。その後の人生は翠のために生きたかった。だが、現実はそう簡単にはいかなかった。
香月は険しい顔をして言った。
「それは聞けないね。民草医は医務官を退役している元医務官ではあるけれど、弟子は取れない。弟子が取れて、その弟子に医務官科を受けさせられるのは現役の医務官だけだ」
それに、と顔が渋く変わる。
「君、亡くなられた参ノ妻の狭良様の息子で、弐ノ皇子の子珞皇子でしょう?」
珞の顔が青くなる。城に突き出されるかもしれない。そう考えると、血の気が一気に引いた。その様子を見てか、香月が慌てて言い直す。
「いや、城に引き渡すわけではないんだ。君は何かの意思に動かされて、ここにいるはず。なんでわかったか不思議だよね。僕は君の母上様と同じ島で育ったんだ。だから、君の持っている刀を見て、すぐにわかったよ」
そこで、珞はハッとし、香月を見つめた。
「白継島の神官の……香月さん?」
香月はその言葉を聞いて苦笑する。
「まぁ、いろいろあって、神官にはならずに出奔して医務官になったんだけどね。それが、担当することになった地区がなぜだか、白継島でね」
珞は香月ににじり寄った。この機会は逃してはならないと感じたのである。彼は痛みを我慢し、正座をした。そして、香月に頭を下げる。
「香月さん、お願いします。俺を、弟子にしてください。どうしても、俺は医務官になる必要があるんです」
「医務官は皆のために医学を駆使するんだ。君みたいに一人の人を救うために、医学を教えるわけにはいかない」
「一人を救えずして、どうして皆を救うんですか⁉」
香月は詰まった。当然のことである。一人を救えずして、多くの人を救えるはずがない。彼は顎に手をやった。その様子を珞は瞬き一つせず、じっと見つめた。香月はしばらく考え込むと、珞を見やる。
「わかった。君の言う通りだ。弟子にする。でも、その代わり一年で医務官科に受かってもらうよ。それが僕からの条件だ。他にも条件がある。まず、僕の専門である、食医学・産科医学を半分が終わるまでに、その後は内科医学、そして最後に外科医学を学んでもらうよ。内科・外科医学は僕はそんなに得意じゃないから、君の希望する僕の師匠の民草医にお願いして実地しながら教えてもらえるように手配しよう。そして、もし君が“神降ろしの舞”の女舞を教えてもらっていたら、それを僕にも教えてほしい。いいかい?」
珞は頷いた。「“神降ろし”の女舞は母上から見せてもらっています。一年で医務官科という試験を受けて、受かればいいんですね。俺はやります、いや俺は翠のためにやらなきゃいけない」
珞の次の目標が定まった。
血走った目の珞を見て、香月は彼の本気を見た。そして、左腕ににじむ血に気付く。
「忘れていた! 今から縫わせてもらうからね」