1:憐憫の目
「珞! 起きろ、珞!」
野太い声が、朝日の光と共に聞こえてきた。珞は布団を被って、もう一度眠ろうとする。
「起きろ!」
声の主が珞をくるんでいた掛布団を引き剥がす。冷や風が体にかかり、珞は飛び起きた。目の前にいるのは引率で来た圓朝師である。
「今日がお披露目会だろう。忘れたのか?」
そうだった、と珞は大きな欠伸をしながら思った。昨日の昼すぎに本土の港に着き、翠と話せないまま、その場で別れた。師たちは敢えて話をさせないようにも見えたが、そんなことはどうでもよかった。翠が去るその後ろ姿が雑踏に紛れて見えなくなるまで、その場に留まらせてくれたのは圓朝師の優しさであろうか。
そんなことを思い出しながら、珞は眠い目を擦った。
「……おはようございます」
「準備しろ。二度寝なんかしていたら間に合わんぞ」
ぶつぶつと文句を言う圓朝師の声を聞きながら、剣奴の服に着替え、顔を洗いに行く。手櫛で髪を解くとすんなり指が通った。圓朝師は風呂付の良い旅館に泊まらせてくれた。置いてある石鹸や洗髪剤も県土島にいた時とは違い、香料のついたいい香りのするものから、無香料のものまで取り揃えてあった。
白い上着と細袴を履いて、上着を藍染の帯で結んだ。そして、左腰に自分の剣を、背部に李国刀を差し、外れないよう、帯に紐で括り付けた。
剣奴が白い上着と細袴を履くのには理由がある。闘技場で戦う剣奴たちの、血と肉でまみれる様子を民衆が見やすくするためであった。野蛮な趣味をしている、と彼は思った。
「鎧や盾の貸し出しの申請を尋ねられるが、そんなものをもらったら足手まといになるだけだ。不安かもしれんがやめておけ」
圓朝師は出発の準備をしながら言った。彼は、闘技場に珞を届けたら、その安否や状況を知らされぬまま、県土島に帰ることになる。それが、闘技場側と県土島側の契約であった。なるべく剣奴に平等さを求めているからだろう、と珞は考えていた。
「うん、わかった。圓朝師」
珞は圓朝師を呼んだ。呼ばれた彼は手を止めたが珞の方には振り向かなかった。
「圓朝師、俺は絶対に死体になって、島には戻らないから安心して。師みたいに、何連勝もして、ちゃんと借金返すから」
「そう俺に言って、皆死んでいった。俺の気持ちがお前にわかるか」
圓朝氏はそう言って彼の方を振り向いた。師は泣いていた。
「俺には、その装束が死に装束に見えてならない」
嘆く師に対し、珞は自分の背に結わえた李国刀を叩いた。
「でも、師は俺に李国刀をくれたでしょう? それは俺が生き残るかもしれないと思ってのことだったんじゃないですか? 俺はどんな相手でも生き残りますよ。それが、翠との約束だから」
「あぁ……すまないな。取り乱してしまって。俺が引率で来た者は皆優秀だったが、全員殺されてしまっているんだ。だから少し、心配になってしまって……」
「師、それは少し、祓ってもらった方がいいんじゃないでしょうか。折角王都の琉城に来ているわけだし」
逆に心配になり、進言してしまう。圓朝師は笑いながら、「行ってみるよ」と返した。
「俺は準備終わったので、もう行けますよ」
もともと珞には持ってきたものが少ない。自分のものといえば、刀、李国刀、波蘭が死んだときに持っていた小巾着と中身、それから、豆本だった。清書した本はすべて後輩に譲っている。豆本はすべて小巾着に入り、着物の内側に取れないように挟んで置いた。これで、誰かに振り回されても大丈夫である。
靴は今まで履いていた革靴が良かったが、それは武器が隠せるから禁止ということで、闘技場では一律、麻で編んだ草履を足首に紐で結び付け脱げないようにするという仕様になっている。島から持ってきた履きなれた足袋を履き、麻の草履を履いた。この七日間で草履になれるために一日中鍛錬の時も含め、この草履を履いていた。そのため、足にぴったりと吸い付くような履き心地である。
「よし、行くか」
圓朝師は自らも荷物を持ち、部屋を出た。支払いは先に済ませていたため、宿主に礼を言い、外に出る。
まだ八ノ時分であったことから、人通りはまばらであった。しかし、珞の姿を見ると、皆一同にして、憐憫の眼を向けた。仕方のないことだろう。まだ十二にも満たないような幼い顔の子どもが剣奴の服を着ているのとあらば、どの者も憐れみたくなるに違いない。
闘技場の客席に座れば、この人らも熱狂する群衆となるんだろうな、と珞は思った。皮肉である。人は感情に塗れれば、いつでも醜悪になることができるのだ。
前を向いて真っすぐに歩いていれば、大きな闘技場に着いた。何代か前の国王が西の国から留学しに来ていた建築家に頼み作らせたものだ。石造りで、白澪でも珍しい建造物である。
闘技場の入り口の前に役人が立っている。珞は自分を知っている人かわからず、一応顔を伏せた。
「県土島から来た。名は珞だ。氏はない」
珞の名を役人が確認している間、圓朝師は珞の背を撫で続けていた。それはまるで、自分の不安感や心配を押さえてさせるために行っているようだった。
「珞だな。登録確認できた。武器は刀と李国刀だな」
役人が珞に尋ねた。彼はうつむいたまま、「はい」と答えた。
「相分かった。珞のみ、このまま闘技場の中に入れる。付添人とはここで別れることになるからな」
珞は顔を上げ、圓朝師を見上げた。
「行ってくる」
そう言うと、彼は拳を師に突き付けた。師は驚いたように目を見開くと、にやっといつもの笑みを浮かべ、自らの拳を珞の拳に合わせた。骨と骨がぶつかる音がする。
「いってぇなぁ、相変わらず圓朝師は。でも、それでこその圓朝師だから。柄にも合わず泣いたりするなよ。俺は絶対死なないから」
圓朝師は珞の言葉に深く頷いた。
「健闘を祈る」
「あぁ、行ってくる」
珞はそう言うと、闘技場の入り口に向かって歩き出した。そして、彼は一度も振り返らず、前だけを見つめていた。
闘技場の入り口に入ると、案内係が一人出てきた。彼も不憫そうな目を珞に向けており、彼は「またか」という気持ちになった。
「案内係を務めさせていただく、比嘉徳利と申します。珞さんのお部屋に今から案内致しますね」
珞は徳利から、今回の闘技会では五人の剣奴がいること、そのうちの一人は獰猛な獣と戦わなければならないことを聞いた。また、勝ったもの同士がまた戦い、最後の一人になるまで戦い続けることも知った。しかも、珞を除く四人のうち、二人は連勝中、二人は人殺しをした罪人だという。
その獰猛な獣というのも、李国からの祝いの品であり、手懐けて飼ってもらう予定だったものの、港に着いた途端に獣が大暴れし、人を食い殺してしまったのだという。そんなものを国王に出せまいと、李国側から闘技場で管理してはどうかと進言したのだそうだ。
その獣の名を尋ねると、徳利はブルブルと体を震わせた。
「恐ろしすぎて、名前なんて言えませんよ」
その唇が青いのを見て、珞はそんなに恐ろしい獣なのか、と逆に感心してしまった。
獣は剣奴の控室とは反対のところにあるという。剣奴たちが集まる控室は一人ずつ分かれていた。闘技前に喧嘩が起こり、怪我人や死人を出さないようにするためであるという。もちろん、入場も一人ずつ行われ、呼ばれるまで部屋から出てはいけない。その規則を破った場合、処罰されることになっていた。
そうこうしているうちに、珞の控室に着く。石で作られた部屋で、木の扉がついていた。珞が開けるとそこには、寝るために毛布が敷かれた一段高くなっている台、何か物を書くための卓が置いてあった。壁面に面した棚には、手紙が書けるような文具や刀を研ぐための研ぎ石が置いてある。
手紙ではない。遺書だ、ということに気が付いたのは、珞が部屋に入って寝台に横たわった時だった。遺書を書くために、文具を置いているのだ。
「俺は遺書は書かんぞ」
鼻息荒くしたところで、近くの控室から「死にたくない」と叫び声が聞こえ、「うるせえ!」と扉を蹴る音がする。
連勝している剣奴はまだしも、犯罪者の剣奴は恐怖に怯えるものもいるに違いない、と珞は思った。一人になるまで殺し合うのだ。
扉をたたく音がし、「どうぞ」と言うと、扉が開いた。そこには先程の案内人、徳利が立っていた。
「珞さん、あなたからの入場になります」
どうもすでに一ノ時分がすぎて、開始時刻になっていたようだ。
珞は思っていたよりも楽な気持ちで体を起こした。