3:恋煩い
紗鶴が帰った後、ふと彼は疑問に思った。彼女がなぜあの豆本を持っていたかということである。豆本は市井に出回る独特なもので、まず士族の中では流行っていない。特に、例の豆本が売り出されたのは二年前であり、今のように爆発的な人気は誇っていなかった。
彼女を振り向かせるためには、その好みを知らねばなるまい。子孝は指を鳴らし、諜報部隊を呼んだ。彼らは子孝の見えないところにいつも隠れており、指を鳴らせば姿を現す。
それは国王や皇太子のみに使える『影』の耳公・目公とは違う、子孝が幼い頃から集めた先鋭の諜報部隊であった。
「伯山一族の壱ノ媛紗鶴の好みの豆本を調べよ」
目をぱちくりさせたような様子が見られるが、彼は見ないことにした。
「今日中には戻ってくるように」
彼らしからぬ無茶ぶりをしていることはわかっていたものの、彼女の好みを知って、私の方に振り向いてもらいたいという気持ちが湧き上がってくる。国中に居る小説家に新作を書かせようという案まで出てきた。
「さて……」
彼は紗鶴に例の豆本を送るべく、『今上悲恋語』の写本を始めた。
昼間は政務に勤しみ、夜から写本をすることは、体力的にも厳しいものであったが、喜んでもらえると思って頑張ろうと思えた。
「無茶はしないでくださいよ」
徹の声がいつもより呆れた様が強い気がしたが気にしない。
「殿下がそこまでご執着なさるのは、子珞殿下以来ではありませんか?」
「そうだな。でも、彼女はとても愛らしかった。言葉の裏に、優しさも込められていた気がするのだ」
大真面目に言う子孝を尻目に徹が嘆息する。
「政務に支障をきたさないでくださいね」
「わかっている」
徹の忠告を一応聞いておく。忠告される時は、子孝が無理をしそうなときなのである。
諜報部隊の報告によると、彼女の趣味は豆本の少女小説だった。また、他にも祖父母や父母の本を読んでおり、基本的に食事と寝る時以外は本を手放さないということであった。特に大切にしているのが、『今上悲恋語』である。
彼は越権行為とわかっていたが、喜んでもらいたくて、国内にいる二十人の作家に新作を書かせた。
「殿下はとうとう馬鹿になられたのですか? 恋でもされたんですか? 確かに伯山の壱ノ媛は個性的な美しさを持っておりますが」
執務室に置かれたに二十冊以上の豆本を前に徹が子孝に聞く。
「恋? 私が恋などすると思うか? ちょっとした遊び心だよ。彼女に振り向いてもらえなかったからな。今度こそ、振り向いてもらうのだ」
拳を握り締め、子孝は徹に決意を表明した。それを見、徹は小さく「それが恋なんですよ……」と誰にも聞こえないように呟いた。
数日後、豆本がそっくりそのまま返ってくるとは思わなかった。しかしながら、子孝が手ずから模写した豆本は返却されたものの中に入っていなかった。そのことになぜか、彼の胸がほっこりと温まった。
「喜んでくれただろうか」
耽美で優雅な筆跡と言われることの多い彼の文字をあの瞳が読む。それを想像しただけで、子孝の胸に嬉しさが増した。
返却された豆本の一つに、文が挟まれている。
『試験中に付き、贈り物は無用でございます。伯山紗鶴』
適当に書かれても尚、美しい彼女の文字は厳しい言葉も見えてこない。そして、文自体から薫ってくる彼女の好む微かな香りが鼻孔をかすめた。胸がときめいた。
しかし、その考えを彼は打ち消した。女の醜い姿は幼い頃から見てきた。女官たちが陰で噂をする姿も目にする。それを見て、子孝は絶対に女を好きにならないと決めたのだ。今回のことは少し毛色の違う女児に出会ったから、優しくしたかっただけだ。きっとそうだ、と彼は自身の想いを打ち消した。
次に会うのは一年後である。自分のことを忘れられては困ると思い立ち、子孝は文を書く準備を始めた。その時である。いつの間にか部屋から消えていた徹と共に、照子が顔を出す。彼はあからさまに嫌そうな顔をした。なぜなら、照子が部屋に来るといつも思考をかき回していくのである。
「子孝兄上? 伯山の壱ノ媛に懸想されているのじゃと聞いたぞ」
「徹、お前か?」
眉間にしわを寄らせ、その情報元が徹かを確認する。しかし、徹は首を横に振った。
「母上じゃよ。伯山の媛が嫌がらせを受けたところを助けたと伺ったぞ。妾も見たかった! そんな兄上、まず見られるものではあるまい」
ふふんと照子は鼻を鳴らす。そして、彼の手元にある文箱を見て、にやりと笑った。
「女人に文を書くなど、兄上には珍しいのう。のう、徹」
「そうですね、媛様」
「媛様ではなく、名前で呼んでくれと申したではないか!」
「主の前でそんなことできませんよ」
二人の様子から仲睦まじいことがわかる。徹への降嫁が決まってから、照子は徹への愛情を隠さなくなった。それがたまに子孝にとって鬱陶しいものであることも。
「わかったから、私の前で惚気を見せるな。鬱陶しい」
苛々を思わず二人にぶつけてしまう。徹は「申し訳ありません」と申し訳なさそうに言い、照子は「兄上だって、恋をしたならばわかってくるはずじゃろうて」とどこ吹く風であった。照子の様子に子孝はなぜか怒りが起こるのを感じた。
「二人ともさっさと出ていけ!」
彼らは文句も言わず、すごすごと引き下がっていった。子孝は怒りを鎮めるために、もう一度、紗鶴からの文を嗅ぐ。気持ちが穏やかになっていった。
「私の方を向いてくれないかな」
子孝は知らずのうちに恋に落ちていた。