18:離別の涙
「……。……く、……きて。……らく!……なさい!」
耳障りの良い声が聞こえ、珞はもう少し寝ていたいと、寝返りを打った。
「珞、起きなさい!」
耳の鼓膜が破れるか如く大きな声が、彼の耳に届いた。珞はびくりと体を震わせ、目を開ける。その先には、表情はないが見慣れた碧色の瞳。
「ようやく起きた」
ズキズキとする頭痛に彼は頭を押さえながら起き上った。翠から竹の水筒を渡され、かれは水を飲み込んだ。カラカラに乾いた喉を水が通り、潤わせる。
「私が起きてから、起こすのに半ノ時分もかかったんだからね」
ぶつくさ言う翠に水筒を返し、珞が最も聞きたいことを聞く。
「大師は?」
「私が起きたときには大師はいなかった。突然眠くなって突然目が覚めるなんて聞いたこともない」
でも、と彼女は続けた。
「とりあえず、“洞窟の試練”が終わったというのは事実のよう」
樽毘神に刺された箇所が痛む。酷い頭痛に悩まされ、翠に支えられながら、珞は洞窟の外に出た。暁の空の真下には、年少者から年長者までが一堂に揃っていた。師たちもそろっている。もちろん樽毘神も大師の姿を取って、その場に立っていた。
お疲れさまでした! という息の揃った声に、帰ってきたことを実感する。珞は意識朦朧する中、翠から師のうちの誰かに支えられた。そして、大師が翠を呼び止め、彼女と共にその場を立ち去るのを最後にして、珞は意識を失った。
次に目を覚ました時には試練が終わって七日も経っていた。暫く動かしていないせいなのか、体中がきしんだ。医務室の薬草の香りが鼻につく。もぞもぞと動く様子に気が付いたのか、医務官の公苑がやってきた。公苑医務官は珞が小さい頃から怪我をした時にはいつも傷をつつくという、意地悪をしていた悪どい好々爺であった。
「珞、おはよう。体が軋むだろうや。すぐに動くなんぞ、無理をしてはいけないよ」
珞は軋む体に無理を言わせ、起き上がる。
「おはようございます。公苑医。俺はいつくらい眠っていたんでしょうか?」
「七日じゃよ。もうあと七日すれば、お前も本土に渡るのだね」
哀愁を含んだ公苑医の言葉に、珞は気が付いた。
「翠は……翠はどうなりましたか?大丈夫でしたか?」
「翠は元気じゃったよ。そういえば、翠もお前と同じ時に本土に渡ることになった」
珞は公苑医の次に言葉を聞きたくはなかった。だがしかし、耳に届くはそれである。
「翠はとある士族の新婚の奥方の護衛に選ばれてな。そなたと同じ七日後に本土に渡ることになる。その奥方が狙われやすい方でな、殺されてはなるまいと、県土島の誰かを選ぶことになったそうだ。七日間朝から晩まで暗器術の稽古が入っているそうだよ」
じゃあ、会えないじゃないかと珞は落胆した。とはいえ、珞の場合も七日間、剣術の師二人から剣術と体術をしごかれる予定だ。
「そうですか……」
彼は愁いを含んだ表情を見せた。
珞が思っていた通り、体の鈍りを取り戻すために、剣術の師二人と共に剣術と体術の一対一の勝負をひたすら行った。また、剣奴として、相手に合わせてどのような対処をすれば勝てるようになるのかを教えてもらい、その状況に陥っても良いように話し合った。だが、そのような対策をしても尚、お披露目会の際に亡くなってしまう県土島出身の剣奴は多い。亡くなってしまった県土島の剣奴はその遺体と共に、島に戻され、海の見える岬の墓地に葬られる。
その話を聞き、珞は「そうですか」と淡々と述べた。
どんな相手でも生き残る覚悟を彼は既に持っていた。剣奴の相手は対剣奴だけではない。対獣、対罪人であることもある。剣奴は県土島だけではなく、公募でもなることができる。だからこそ、県土島の環境では考えられないような相手と出会うこともある。しかしながら、彼にとってそれは問題ではなかった。
珞にとってはまず「自由」を得ること、それが今最も重要なことだったのである。現在は県土島に売られる前に売人が言っていた通り、珞には多額の借金がある。自由を得るためには、それを返済するためには勝ち続けなければならない。
「俺は、自由を得ますから。自分の力で」
珞は自分自身に言い聞かせるように呟いた。二人の師は頷いた。
「珞、お前ならできるよ」
その言葉に嘘偽りは含まれていないように聞こえた。
七日後、県土最後の夜、珞は提灯を持って外を歩いていた。師には外出許可をもらっていたものの、いつもは閉まっている塀の扉が今日は開いていた。県土島は五歳から十一歳まで過ごした、彼にとってはかけがえのない場所である。今は亡き同期と肝試しをした亡き剣奴たちの墓場、三太と師の愚痴を言い合った岩場、夜に隠れて鍛錬した木刀の跡――そして、翠と出会った桟橋に着いた。
そこには一人の人影があった。
「……翠?」
振り返る彼女の瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
珞はその涙に慌てると同時に、その美しさに惹かれた。
「どうして泣いているんだ?」と焦って思った通りの言葉を伝えてしまう。そして、珞は桟橋の縁に腰掛ける翠の隣に座った。
翠はその唇をわななかせ、「明日……」と呟きながら、真珠のごとき涙をぽろぽろと零した。
「明日、珞と離れ離れになってしまう……。私、私……それを考えたら、とても悲しくなってしまって涙が勝手に……」
翠は着物の袖でまぶたが腫れあがらんばかりに、そこをこすり、涙を拭き取った。
珞は胸が鋼を打ち始めるかのように、熱く燃え上がるのを感じた。彼は三太から言われたときから考えていた。
父母が愛し合っていたような恋慕の情が、翠に対して感じているものと同じなのかということである。だが、翠と多く関わる間に、珞は翠の表情がなくとも、声が明るくなれば嬉しくなり、声が沈めば心配し、怒れば申し訳なくなり、悲しんでいれば自分も悲しくなった。それは彼女と出会ってからずっと思っていた。
声から翠の思っていることがなんとなくわかることを三太に伝えたとき、彼はわからないと言っていた。だからこそ、三太は前々から珞が翠のことを好きだということを見抜いていたのだろう。
この半年間、自分と彼女の頬や耳が赤く染まるたびに、嬉しくなり、心臓は脈打った。
あぁ、と珞は気が付いた。
「俺、翠のことが好きだ」
しっかりとしたそれに、翠の瞳が大きく開かれる。ここまで大きく開いたのは初めてだな、と彼は思った。彼女は唇に両手を持っていき、「嘘……」と呟く。
珞は微笑んで、翠の赤い髪の毛に右手を差し込み、指を絡ませた。仄暗い提灯の灯が辺りをゆるく明るませる。
「私も……好き」
その涙に濡れた唇から、その言葉が聞こえたとき、彼はいつ死んでも後悔はしない、と初めて思った。
「うん」
翠はそのまま、珞の胸にしな垂れかかった。拭いても溢れかえる涙が、珞の胸元に滲みた。珞はそのまま、翠を優しく抱いた。
「でも……! 夜が明けたら、お別れだよ」
悲痛の叫びがくぐもって聞こえる。
「うん」
「珞が剣奴をしている時、私はのうのうと貴族の護衛をしていることなんてできない。それに剣奴は死ぬことだって」
「俺は、絶対に死なない。絶対に、だ」
翠の言葉を重ねるようにして、珞は断言する。翠は顔を上げ、珞の瞳を見つめた。赤と碧が交差した。
「本当に?」
緩ませる瞳に不安が見え隠れする。珞は、今すぐにでもこの少女を安心させてあげたいと、そう思った。
「本当に。言っただろう。俺は絶対勝ち続けて自由になる。翠の隣にいられる権利を手に入れる」
「絶対、私より先に死なないで」
お互いいつ死んだかなんてわからないだろう、と彼は思いつつも、翠の真剣な眼差しに「約束する」と伝えた。
「このまま、泳いで逃げちゃうか」
冗談を言えば、翠は冗談とは受け取らず、首を横に振った。
「そんなことしたら、珞も私も打ち首だし、この島にも迷惑がかかる」
「冗談だよ」
こんな時に冗談言わないでよ、と翠は珞にぶつくさ言う。
「でも……」と翠は呟いた。
「珞が自由の身になったら、私を探してくれる?」
「もちろんだ」
翠はひとつ、ぽろりと涙をこぼすと、珞の頬を包み込み、頬に唇を落とした。上目遣いをし、恥ずかしそうに珞を見る翠に対し、珞の体は沸騰したように熱くなっていた。
「好きだ……本当は離れたくない」
彼は翠の腰に左腕を回し、彼女を引き寄せた。そしてそのまま、翠の唇に自らの唇をそっと押し当てた。翠の抵抗はなかった。彼女の唇に珞の熱が移った頃、彼は唇を離した。そしてそのまま、彼女の左耳に顔を寄せた。
「唇、温まった?」
その言葉と彼の吐息に、翠の耳が燃えるように赤くなる。
「あったまった、よ」という言葉と同時に、翠は顔を珞の方に向き、自身の唇を荒々しく彼のそれに押し当てた。あまりの勢いに歯と歯が当たる。
「これでお相子」
彼女は、フンッと鼻息を荒くしたが、その顔は真っ赤に染まっていた。
珞は両手を顔に当て、天を見上げた。
「あー、もう本当に可愛いんだけど」
心の中で呟いたはずの珞の言葉は、そのまま翠に届いていた。以前のように瞳は拒絶していなかった。
「んなっ」
「俺のお披露目会の餞に、もっと翠の唇がほしい」
その瞳に宿る、男の獣としての欲求に気づいたのか、翠は逃げるため立ち上がろうとした。しかし、その前に逃がすまいと彼は彼女をかき抱いた。
「出発は五ノ時分だ。三ノ時分まで一緒に居させて」
時間は夜でも体に刻まれている。彼の肩に頭を乗せられ、身動きが取れなくなった翠は、暫しの沈黙の後、小さく頷いた。
その時、提灯の灯が消えた。幼子の初恋が、儚く芽吹く瞬間であった。
三ノ時分、彼らは消えた提灯を引っ提げて、宿舎に戻った。その間、指同士が触れ合うたびに翠が恥ずかしそうにするのが、とても愛らしく思え、珞は笑んだ。
宿舎にはまだどの灯りも付いていない。
「じゃあ、また。絶対探しに行くから。それまで待っていて」
珞はそう言うと、翠の額に口づけた。
「うん。ずっと待っているから」
二人はそう言うと、互いの宿舎に向かって別れて歩を進めた。
五ノ時分、準備をし終えた珞はまだ夜が明けていない中を提灯で照らしながら、桟橋へと向かっていた。二ノ時分前まで翠と心を通じ合った、あの桟橋は、今から彼にとって、自由を得るための出発点となる。その時とは表情が違っていた。
桟橋には一艘の船と漕ぎ手たち、暗器術の尊宅師、剣術の圓朝師、翠が揃っていた。翠の表情も覚悟を決めている。
「間に合ったようだな」と圓朝師は言った。
「遅れてすみません」
全員が船に乗り込むと、本土からの漕ぎ手たちはゆっくりと本土に向けて船を漕ぎ始めた。珞と翠の間に師が二人は入っており、彼女と話すことはない。そしてそれは、本土の港に到着してからも続き、別れの言葉を言うこともなく、二人は別の道を歩み始めた。




