16:匂い
「次は絶対仕掛けがあるからな……なんてったって、県土島から大和の忍者に抜擢された珍しい人物だ、眞田師は」
珞は緊張を保ったまま嘆息すると、「傍から離れるな」と一応翠に忠告する。翠は小さく頷くと、緊張感を走らせ、珞に自身の背を預けた。
小演舞場は何一つ音がせず、静寂に包まれている。奥の方に入ってきたからか、場所自体が暗く感じられた。二人が小演舞場に足を踏み入れると、それを察知したかのように、蝋燭の仄暗い光が灯り、揺れた。翠の背に緊張感が走ったのを珞は背で感じた。
二人は己の手に武器を構え、じりじりと出口へと進んだ。
カツンと何かが落ちる音がした。その瞬間、飛び道具が珞を襲う。刀で防ぐと、地面に刺さった飛び道具が大和の暗器手裏剣であるとわかった。一方、同じ時に翠の方にも飛び道具が襲っていた。翠はその細く短い物体を中刀で一刀両断する。転がったそれを見て、吹き矢だとわかる。二人は四方八方から襲い来る飛び道具を防ぐことしかできなかった。
しかし、翠はその動きを見切っていた。翠の方に近づいてきた瞬間、左腕の中刀を素早く腰にしまい、腕の中に隠していた白澪暗器の釵に持ち替え、助走し飛び上がった。素早い瞬発力に相手が遅れを取る。翠は釵を相手の脇腹に突き刺した。
「参った」と低いが、はっきりとわかる女の声が聞こえた。
地面に降り立った相手は眞田師であった。眞田師は右の脇腹を押さえ、刺されたままの釵を抜く。そして、釵について自身の血液を服で拭い、翠に返した。
「二人とも座りな」と眞田師は二人に伝える。「大丈夫、今回は一切小細工翔けなかったからね」
カラカラと笑う師を横目に、翠は「すみません」と謝った。それに対し、眞田師は「なぜ謝る?」と問うた。
「元からそなたは暗器に対する適応力が備わっている。珞が剣術に優れているとしたら、そなたは暗器に優れていると。それが故にそなたたち二人が異性であろうと特に気にはしなかったのだよ。それに、そなたたち二人がやってくるという時点で、私も負ける可能性は考えていた。老いというのは怖いものだ。怖さから逃げるが如く、近年はこの小演舞場に細工をしていたが……そなたたち二人が組むとわかってから、私も戦いたくなってね」
眞田師は二人に向かってにこやかに笑みを見せた。
「そなたたちの勝ちだよ。珞も協力して勝てたのだから胸を張っていい。きちんと怪我無く防ぐことができただろう?」
翠に出し抜かれたことを少々悔しく思っていた珞は、眞田師の言葉に反論した。
「ですが、翠がいなければ、俺は負けていました。だから、勝ちではありません。これは俺の、試練ですから」
最後の絞り出すような声に、眞田師は頷いた。
「そうだね。これは、珞の試練だ。だがしかし、協力できるかどうかも大切なことなのだよ。珞は翠を仲間として共に戦うことができた。一人ではできぬこともこの世には沢山ある。珞の試練を守るのが翠の仕事だ。珞の状態では私に一太刀浴びせることができなかっただろう?体力を消耗する前に、翠は私を刺すことで守った。そうだね、翠」
有無を言わさぬ物言いに、翠は「はい」と表情なく言った。
「珞には珞の、翠には翠の得意なことがある。珞は剣奴になって様々な者と戦うかもしれないが、この県土島にいた我らが師より強い者などいないのだよ。その者たちに果敢に立ち向かえることが、この試練の一番の目的だ。大丈夫、そなたなら大師様の試練も乗り越えられるに違いない」
圧迫によって出血が治まってきたのか、眞田師は立ち上がった。黒い着物を伝って、血液がぽたりと垂れる。
「じゃあ、ゆっくりしてくれたまえよ。私はゆっくり歩いていくからさ」と笑いながら出口に去る眞田師を見送りながら、珞は翠に聞いた。
「眞田師、本当に大丈夫なのか?」
「急所は外しているし、本当にかすり傷なだけよ」と翠は言うと、地面に落ちた眞田師の血痕を袖で拭った。
「次で最後だね。大師の試練で最後だ」
翠の声が珞の耳に木霊した。
その日の夜、寝る前に翠は何かを決意したかのような真剣な瞳で、珞の傍に寄ってきた。
「珞、お願いがあるんだけど」
珞は明日の大師の試練のことについて考えており、瞑想状態に入っていたため、突然の翠の言葉に驚いた。
「今日は抱きしめて寝てくれない?」
「え?」
驚きのあまり思わず戸惑いの返事をすると、翠は「やっぱりいい!」と耳を赤らめた。
珞は頭の中が真っ白になり、翠の意図がわからないながらも、胸が高鳴るのを感じた。
「あのね、明日で最後だから、私も少しだけ、珞と離れるの寂しくて……っていや、違う。洞窟寒くなってきたし、一緒に寝たら、あったかいかなと思ってね」
言い訳をする翠の言葉に可愛さを感じながら、珞は「いいよ」と笑い返した。
翠の体は珞が思っている以上に小さく、すっぽりと包むことができた。
「珞って蕉子の匂いがするんだね」
「どういうことだよ。確かに俺は毎日熟れた蕉子を食っていたけどさ」
「だからこんなに甘い匂いがするんだ。この匂い好き」
珞の匂いを嗅ぐために傍に擦り寄る翠に、珞は胸が一段と高鳴った。それをわざと悟ってもらえるように、珞は翠を引き寄せ、抱きしめた。柑橘の薫りがほんのりとする。
「翠は柑橘の薫りがほんのりとするんだなあ」
「ええ……、爽やかな香りってことでしょ。女の人にはあんまりよろしくないのでは」
抱きしめられたことと嗅ぐわれたことに混乱しているのか、翠は耳を真っ赤にして、珞の胸に抱き寄せられていた。互いの胸の高鳴りを感じ合いながら、眠気が襲う。
「翠の匂いだからいいんだよ」
眠りに傾く中、珞が放った一言が翠の心に響いていることを彼は知らない。




